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中国の『ゴリオ爺さん』 中国を代表するフランス文学の翻訳者・傅雷をめぐって

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(1)中国の『ゴリオ爺さん』. ―中国を代表するフランス文学の翻訳者・傅雷をめぐって― 山本 幸正 キーワード 翻訳研究・翻訳理論・傅雷・バルザック・ゴリオ爺さん. 今号の『アジア・文化・歴史』では前号に引き続き、羅新璋氏の翻訳論の日本語訳を掲載 できることとなった。 「読傅雷訳品随感」である。 『文芸報』1979 年第 5 期に発表され、後 に羅新璋・陳応年編『翻訳論集』 (商務印書館、1984 年 5 月)に再掲された。翻訳にあたっ ては、 『翻訳論集 修訂本』第 3 版(商務印書館、2015 年 6 月)所収の本文を使用した。 『翻訳論集』 、および羅新璋氏については、 『アジア・文化・歴史』第 11 号(2020 年 7 月) に掲載した、拙稿「もうひとつの〈翻訳者の使命〉―羅新璋「我国自成体系的翻訳理論」 をめぐって」で詳しく紹介した。ご参照頂ければ幸いである。また、同号には羅新璋氏によ る『翻訳論集』の序文「我国自成体系的翻訳理論」の拙訳「わが国で独自に成立した翻訳理 論体系」も掲載されている。傅雷についても紙幅を割いて説明されており、中国の翻訳理論 史における傅雷の位置づけについても知ることができる。今回翻訳した羅新璋氏の論文を 理解する上でも参考になるところが少なくない。 前号と同様、日本語への翻訳を快く認めて下さった羅新璋氏と商務印書館には、この場を 借りて心からの御礼をお伝えしたい。以下は「読傅雷訳品随感」の訳者後記に代えて書いた 傅雷を紹介する文章である。羅新璋氏が大きく取り上げていた Honoré de Balzac[バルザッ ク]の Le Père Goriot[ゴリオ爺さん]の傅雷訳『高老頭』の訳文の分析も試みた。. 114.

(2) * 1. *. *. 傅雷略伝. 1908 年に江蘇省南匯県下沙郷(現・上海市浦東新区航頭鎮)に生まれた傅雷は、中国を 代表する翻訳家として知られる。高校生の頃にすでに「夢中」「回憶的一幕」という小説を 発表していた傅雷は、1926 年に上海持志大学(後の上海外国語学院、現在の上海外国語大 学)に入学したものの、翌年に上海クーデター(四・一二反革命政変)が起こり学業に専念 できる状況ではなくなったため、フランスに留学する決意をする。母が農地を売って作った 資金でパリ行きを決行し、1928 年 2 月にパリに到着した傅雷は、秋からパリ大学文学部で 文学理論を学び、同時にルーブルなどに通い、美術や音楽についての知見も深める。1931 年 に帰国した後は、上海美術専科学校で西洋美術史やフランス語などを講じた。 1932 年に朱梅馥と結婚。以後、1934 年に商務印書館から刊行されたロマン・ロランの『弥 蓋朗琪羅伝』 [ミケランジェロの生涯]をはじめとする翻訳を多数発表する。1934 年に書き 上げられた『世界美術名作二十講』などの評論やエッセイも多い。第 2 次世界大戦末期には 民主運動を支持する立場を鮮明にし、1945 年 12 月に中国民主促進会に参加するなどした。 1966 年 8 月末、文化大革命の初期に紅衛兵に襲撃された傅雷は、9 月 3 日午前、妻の朱梅 馥とともに自殺した姿で発見された。1979 年 4 月に上海文学芸術界連合会と中国作家協会 上海分会によって共同の追悼集会が開かれるまで、2 人の名誉が回復されることはなかった。 傅雷の文業は文学の翻訳から美術や音楽に及び、膨大である。それらの多くは現在、 『傅 雷訳文集』全 15 巻(安徽文芸出版社、1998 年)や『傅雷全集』全 20 巻(遼寧教育出版社、 2002 年)などにまとめられており、中国語圏の読者に幅広く支持され続けている。また、 中国の翻訳研究などの分野においても重要な研究対象となっており、中国における学術論 文のデータベース「中国知網」で検索すると、2020 年末の時点で学術論文は 850、学位論文 は 215 に及んでいる。. 113.

(3) 2. 『傅雷家集』. 私にとって傅雷は、傅聡の父親でしかなかった。 1955 年のショパン・コンクールで第 3 位となった傅聡は類稀なるショパンの、とりわけ そのマズルカの弾き手として世界に名声を馳せ、また日本では、マルタ・アルゲリッチの親 しい友として、あるいはユーディ・メニューインの娘を妻にしていたことでも知られている。 残念ながら直接演奏に触れたことこそないものの、私は CD を通してショパンはもちろんの こと、そのモーツァルトやドビュッシーの演奏にも親しみ、森岡葉の『望郷のマズルカ― 激動の中国現代史を生きたピアニスト フー・ツォン』 (ショパン、2007 年 12 月)を通し て、亡命するに至った経緯についての知識も得ていた。だからはじめて中国大陸に足を踏み 入れたときには、驚いたものだった。どの書店にも父親から傅聡に送られてきた書簡をまと めた本が置かれていたからだ。 『傅雷家書』は中国語圏で、知らぬ者のいない書籍のひとつであると言っても過言ではな い。傅雷が 1953 年にワルシャワ音楽院に留学した長男の傅聡と、1954 年から 1966 年の間 に交わした書簡をまとめた書籍である。傅雷夫妻の名誉が回復された後の 1981 年 8 月に三 聯書店から出版されて以来、ベストセラーとなり、幾度となく版を重ねている。家庭におい ても教育の現場においても、家族や民族を考えるための、文化や教養の大切さを知るための 必読の書とされ、文化大革命以後の現代中国に大きな影響を与えた書物のひとつに数えら れている。改革開放を象徴する書籍として遇されてきた感も強い(1)。 2012 年か 13 年のことだった。旅行ではじめて北京に行った私は、大きな書店(おそらく 王府井の新華書店)に恐る恐る足を踏み入れて、はじめて『傅雷家書』を手に取った。当時 は、簡体字の中でわかる漢字をつなぎ合わせて意味を推測するほかなかったが、それが父親. 112.

(4) から傅聡に送られてきた書簡を集めた書籍であることは理解できた。その後も中国大陸に 短期の旅行に赴き、書店に足を踏み入れると、どんなに小さな書店でも『傅雷家書』のさま ざまな版を見ることができた。 “傅雷家書”は傅雷の家で交わされた手紙といった程度の意 味である。しかし私にとって『傅雷家書』は、傅聡が受け取った父親からの書簡をまとめた 書簡集だった。亡命して英国に居を定めていたとはいえ、傅聡は中国大陸で、とても有名で 重要な位置を占めるピアニストなのだと、信じて疑うことはなかった。 2015 年 9 月から、中国大陸の西安で働き生活するようになった。私が自分の勘違いに気 づくまで、そう時間はかからなかったように思う。 『傅雷家書』はその名の通り、傅雷とい う名で記憶されている書物だったのである。西安で傅聡という名前を出しても怪訝な顔を されるだけだった。傅雷の長男だ、 『傅雷家書』に出てくるヨーロッパに行った子どものほ うだと言うと、ようやくわかってもらえるくらいだった。傅聡の名前を記憶しているひとは 少なく、その演奏については、たとえ録音であっても、聞いたことがあるひとなどほとんど いなかった。だが、傅雷は違った。その名は誰もが知っていた。 『傅雷家書』は大学教員や 大学生以外でも知っている書物だったし、また傅雷の翻訳を通して、西洋のクラシックに触 れた大学教員や大学生は少なくなかった。傅聡の父親が傅雷なのではなく、傅雷の子どもが 傅聡だったのである。 1908 年に生まれ、1920 年代後半にパリに留学し、帰国後にフランスの芸術を紹介するこ とに尽力し、数々の名訳を通してフランス文学のクラシックを中国語の中に根づかせたの が傅雷である。日本で傅雷に近い存在として想起されるのは、たとえば大岡昇平であろうか。 フランスへの留学経験こそないものの、1909 年に生まれ、スタンダールに魅了され、小説 家や批評家としてだけでなく、 『パルムの僧院』や『恋愛論』の翻訳で知られた大岡は、傅 雷に最も近い存在といえよう。それ以外だと、1911 年生まれで批評家として活躍した中村 光夫はどうだろう。1930 年代後半にフランスに留学した経験を有する中村は、終生フロー ベールに関心を抱き続け、モーパッサンやヴァレリーの翻訳を手がけたことで知られる。い. 111.

(5) ずれも傅雷と同じく、20 世紀後半の自国の文学や文化に大きな影響を与え、無視し得ない 足跡を残した文学者である。 しかし注意すべきは、大岡も中村も、その訳業によってまず記憶されるという書き手では なかったということだ。翻訳家としての側面はあくまでも副次的なもので、その文業の中心 は小説であり、また批評であった。訳業、それもフランス文学の翻訳で知られ、かつ傅雷と ほぼ同世代の存在として想起されるのは、たとえば 1901 年生まれの伊吹武彦、1902 年生ま れの水野亮や川口篤、1904 年生まれの生島遼一や新庄嘉章や淀野隆三、1905 年生まれの佐 藤朔や佐藤正彰、1909 年生まれの井上究一郎、1911 年生まれの小林正や鈴木力衛などであ ろうか。いずれもフランス文学の名うての翻訳者であり、その訳業は現在においても親しま れている。戦後の日本に与えた影響は計り知れない。しかし、こうした翻訳者の業績が、そ の死後において、たとえば全集という形で刊行され、折に触れて見直され検討されるという ことが行われてきたであろうか。翻訳研究や比較文学研究の領域で、それら翻訳者の業績が、 重要なトピックとして喧々諤々の議論を招いたことがあったであろうか。 残念ながら私は、そうした翻訳者の訳業が戦後日本に与えたインパクトをあきらかにし た論考をほとんど読んだことがない。スタンダール、フローベール、ジッド、プルースト、 コクトー、ラディゲ、サルトル、ボーヴォワール、カミュ……。それらフランス文学の日本 語訳を抜きにして、日本の戦後文学を語ることは不可能なはずだ。しかし、 『赤と黒』や『ボ ヴァリー夫人』 、 『狭き門』や『失われた時を求めて』、 『恐るべき子供たち』や『肉体の悪魔』、 そして『水いらず』 、 『革命か反抗か』、 『実存主義とは何か』、 『第二の性』等々に至るフラン ス語で書かれた文学を日本語に引き入れた功労者が、その死後において注目を集めること はほとんどない。岩波文庫や新潮文庫の翻訳に幼い頃から親しみ、長じてたとえば文学の研 究者などになっても、それらの翻訳者を対象として、論文なり何なりを書こうとした研究者 は少ないのではないだろうか。 日本の翻訳研究をリードする井上健は、アルベール・カミュの『異邦人』の日本語訳を手. 110.

(6) がけた窪田啓作についての論考で、次のように述べていた。. 近代日本文学が、外国文学の翻訳、すなわち翻訳文学との関わりの中で自己形成して きたことは、今さら声を大にして指摘するまでもない。にもかかわらず、近代日本文学 の基盤構成に多大な寄与をしてきたはずの翻訳家たちの営みは、総じて学術的考察の 対象となることは少なく、文学史、文壇史、出版史の余白にかろうじてその名をとどめ (2) るに過ぎないのである。. だから傅雷の翻訳が書店にずらりと並べられているのを見たときには驚いた。図書館で全 集を眼にしたときも驚いた。その訳業はもちろんのこと、中国語の文化の中で傅雷に与えら れている位置が、日本語を母語として育った者にとっては新鮮だったのである。日本の翻訳 者には望みようのない遇され方を、傅雷がその死後の生において享受しているように私の 眼には映った。中国文化における翻訳の位置づけに興味を持つきっかけを与えてくれたの は、まぎれもなく傅雷だった。. 3. 傅雷の訳文. 羅新璋が指摘している通り、傅雷の翻訳を語る上で欠かせないのは〈伝神〉である。外見 だけを似せる〈形似〉ではなく、精神までをも似せる〈神似〉を伝えるものとしての〈伝神〉 については、中国における翻訳研究の分野でもさまざまに論じられており、また今回翻訳し た羅新璋の文章でも解説がなされているので、ここで詳細に検討することはしない(3)。た だし、 「枝葉末節になってしまうため」取り上げないと羅新璋が述べていた具体的な翻訳の ありようについては、ここで触れておいてもよいのではないかと思われる。羅新璋が深い印. 109.

(7) 象を残す部分として引用していたバルザックの『ゴリオ爺さん』の一節、ヴォートランによ る長談義の部分を取り上げて、ごく簡単に私の所感を記しておくことにしよう。 羅新璋は生気のない字面にこだわって一字一句を直訳していると、 〈神采〉が、すなわち 生き生きとした表情が失われてしまう、 〈伝神〉に重きを置くなら、表面的な現象を超越し てその精髄を得ることが必要なのだと述べていた。 「離形」によって〈神似〉は達成される のである。傅雷の翻訳は〈伝神〉を特色とするというのが定説であり、羅新璋もそのように 述べている。とすると、傅雷は一字一句を目標言語に置き換えていくいわゆる直訳を排し、 意訳を採用したということになるのだろうか。そうとも言い切れないところに、傅雷の訳文 の難しさと面白さがある。 具体的に見てみよう。傅雷の訳文は、羅新璋が「読傅雷訳品随感」で参照していた版本、 1963 年 9 月に改訂され、1978 年 2 月に人民文学出版社から刊行された『高老頭』の本文を 用いることにする。 まず傅雷が「我就是四百万先生,合众国公民」と訳した部分を取り上げたい。バルザック の原文は「Je serai monsieur Quatre-Millions, citoyen des États-Unis」である。新潮文庫版『ゴリ オ爺さん』の平岡篤頼訳では「おれはアメリカ市民四百万フラン氏ってことになる」と訳さ れており、光文社古典新訳文庫版の中村圭子訳では「おれは合衆国市民、四〇〇万フランを 稼いだ大旦那になる」と訳されている。注目したいのは「monsieur Quatre-Millions」である。 日本語にそのまま置き換えれば「ムッシュー400 万」となる。バルザックの原文には「フラ ン」という貨幣単位は記されていない。日本語訳では、平岡篤頼訳でも中村圭子訳でも「フ ラン」が補われているが、傅雷は「四百万先生」と貨幣単位を補わずに直訳している。この 部分の少し前の原文を見ると、 「cinquante mille francs」 (5 万フラン)、 「deux cent mille francs」 (20 万フラン)とヴォートランが貨幣単位を付けて話している箇所があり、傅雷も「五万 法郎」 「二十万法郎」と「法郎」 (フラン)を付けて訳している。すなわちバルザックの原文 では、貨幣単位が付けられている箇所と付けられていない箇所が区別されており、それは. 108.

(8) ヴォートランが講釈を垂れながら、貨幣単位の「フラン」を言い落してしまうくらいに興に 乗ってきたことを表象していると解釈することも可能だし、また妄想が膨らんでいくにつ れて、ヴォートランの言葉がいよいよ乱暴になっていくさまを表していると考えることも できるかもしれない。ともあれ、そうした変化は「monsieur Quatre-Millions」に「フラン」 を補って訳した日本語訳ではとらえられないものになってしまう。中国語の「先生」は日本 語の「氏」や「さん」 、すなわちフランス語の「monsieur」の意味であり、 「monsieur QuatreMillions」を「四百万先生」と訳すのは直訳といえる。直訳を採用することによって傅雷は、 「フラン」の有無というバルザックの書き分けを中国語に移植し得たのである。 また、 「Voilà ma vie antérieure en trois mots」の中国語訳にも、傅雷の翻訳に対する考えを うかがうことができる。ここを翻訳する場合、問題になるのは「en trois mots」の処理であ る。それこそ単純に直訳すれば「3 つの言葉で」と訳せる部分なのだが、フランス語の「trois」 には「わずかな」といった意味もあり、 「en trois mots」は日本語の「一言で」に近い意味で 使われることもある。しかし「3」を意味する「trois」を「一」と訳すには、それなりの勇気 が必要である。日本語訳はどうなっているのか見てみよう。 平岡篤頼訳は「三言でおれの過去を話せばこうなる」と「en trois mots」を原文を尊重して 訳している。しかし日本語にすると「三言」が何を意味にしているのかがわからなくなる。 前後を見回してみても、 「三言」に当たる言葉を見つけることができないからだ。それゆえ 中村圭子訳は「おれの過去を簡単に説明しよう」と、 「trois」にこだわらない訳を採用した。 「簡単に」と訳すことで文脈上の違和感は解消される。しかしこれだと、当然のことながら 「trois」という数は消えてしまう。文学作品にとって数字は重要な記号である。数字へのこ だわりを通して、文学作品や作家の特性を分析することも可能になることがある。それゆえ 「3」という数字を消去することは、もしかしたらバルザックや『ゴリオ爺さん』の特色を 不可視にしてしまう可能性をはらむことになる。直訳だと意味が通じなくなり、意訳では 「trois」という数字が抜け落ちてしまう。翻訳において難しいのは慣用的な表現の訳である. 107.

(9) とは、しばしば指摘されることだが、ここはまさに翻訳者の志向と力量が如実に示されてし まう箇所のひとつである。では、傅雷はどのように中国語に訳したのか。 「我过去的身世,倒过楣三个字儿就可以说完了」 [おれの過去の身の上は、“倒过楣”の 3 字で説明は事足りる]が傅雷の中国語訳である。 「倒过楣」は「ついていなかった・不運で あった」くらいの意味である。 「trois」を「三个字儿」 [三字]と訳すだけだと、意味が通ら なくなる。それゆえ傅雷は、 「倒过楣」という三文字で構成された言葉を補った。もちろん 原文には、 「ついていなかった・不運であった」を意味する言葉はない。しかし直前でヴォー トランは「J’ai eu des malheurs」 [おれは不幸だった]と告白しているから、みずからの過去 は「倒过楣」の三字で説明すれば十分だという訳は、決してこじつけとはならない。 「trois」 という数字を活かし、かつ中国語としての流れも尊重して傅雷は、「“倒过楣”の三字で説明 できる」という訳を採用したにちがいない。 ちなみに「ついていない・不運だ」という意味で一般的に使われるのは「倒霉(daomei) 」 であり、発音が同じく「daomei」である「倒楣」は江蘇・浙江省で使われる方言だと言われ ている。 「trois mots」の訳も「三个字」ではなく「三个字儿」と「儿」が付加されて、話し 言葉であることが活き活きと伝わってくる訳になっている。こうした訳語の工夫をふまえ て羅新璋は、 「富有个性特色,颇带江湖色彩」 [特色のある個性に満ちており、渡世人の色彩 を濃厚に帯びている]と評したのだろう。. 4. 「同化」/「異化」. 「倒过楣三个字儿」という傅雷の訳は、はたして直訳なのだろうか、それとも意訳なのだ ろうか。 「trois mots」という数字を活かした点では直訳であるが、 「倒过楣」を付け加えたと いう点では意訳である。それゆえ傅雷の翻訳を考えるにあたって、直訳/意訳という二項対. 106.

(10) 立的な概念は十分に用をなさない。直訳/意訳、あるいは忠実訳/自由訳は「曖昧で主観的 (4) な二項対立」 の概念であり、傅雷の訳文をとらえるにはあまりに粗雑である。. 傅雷の翻訳は意訳/直訳といった素朴な考え方よりも、ローレンス・ヴェヌティらによっ て提起された考え方、「異化」 (foreignization)と「同化」 (dommestication)でとらえるほう が適当であるのかもしれない。前者は「原文の孕む、母語にとって異質な要素を、みだりに 同化はせずに、それとして訳文に取り込む翻訳方法」であり、後者は「異言語で書かれた異 文化のテクストを、自文化、自言語に強引に同化してしまうやり方」(5)である。この二項 対立でいえば、傅雷はあきらかに「同化」を志向していたといえる。目標言語である母語に 異質な要素を加え、母語のシステムを攪乱させるよりも、読者の立場に身を置いて、自国の 文化を尊重しつつ翻訳したのが傅雷であり、訳文の流麗さを何よりも大切に考えた翻訳家 だったからである。 そうした傅雷の姿は、 「N’est-ce pas d’ailleurs une belle partie à jouer que d’être seul contre tous les hommes et d’avoir la chance ?」という部分の中国語訳に端的に示されている。日本語訳で は、次のように訳されている箇所である。. それに人間どもを全部敵にまわし、しかも運に恵まれるってのは、やりがいのあるおも しろい勝負じゃないか?(平岡篤頼訳). そもそも、ひとりですべての人間を向こうに回し、チャンスを摑もうとする、これ以上 にかっこいい勝負があるかい?(中村圭子訳). この部分を傅雷は次のように訳した。. 单枪匹马跟所有的人作对,把他们一齐打到,不是挺美吗?. 105.

(11) フランス語の原文では、 「être seul contre tous les hommes」 [ひとりですべての人間たちに対抗 する]と「avoir la chance」 [チャンスを手にする]は並列になっているのだが、この並列の 要素を傅雷は、 「跟所有的人作对,把他们一齐打到」 [あらゆる人間に対抗し、彼らを一斉に 打ち倒す]というように、ひとつの流れの中で訳している。その点で、ふたつの日本語訳の うち、 「ひとりですべての人間を向こうに回し、チャンスを摑もうとする」と訳している中 村圭子訳が傅雷に近い。注意すべきは、傅雷が「avoir la chance」 [チャンスを手にする]を 「把他们一齐打到」 [彼らを一斉に打ち倒す]と訳してるところである。平岡篤頼訳では「運 に恵まれる」 、中村圭子訳では「チャンスを摑もうとする」と訳されている。なぜ「chance」 [チャンス・運]という単語はそのまま訳されることがなかったのか。 傅雷は「être seul contre tous les hommes」と「avoir la chance」を並列ではなく、時系列の流 れの中で継起する出来事として解釈しようとした。しかし、同様の解釈をした中村圭子訳の ように、 「チャンスを摑もうとする」と訳したら、 「ひとりですべての人間を向こうに回し」 からの連続性がぎくしゃくしたものになってしまう。「チャンス」の内実が曖昧であるから だ。それゆえ傅雷は、 「être seul contre tous les hommes」 [ひとりですべての人間たちに対抗す る]をふまえて、 「チャンス」の内実を「彼らを一斉に打ち倒す」と具体的に解釈した訳を 提示したのである。目標言語である母語の文章が流麗になるように努めた傅雷の面目が躍 如した訳文といえよう。 もうひとつ注目すべきは、傅雷の訳が、日本語訳で「やりがいのあるおもしろい勝負」 (平 岡篤頼訳) 、 「かっこいい勝負」 (中村圭子訳)と訳されている「une belle partie à jouer」を、 「美」の一言に集約してしまったかのように見える点である。 「不是挺美吗?」 [美しくない か?]の「美」である。渡世人のヴォートランのセリフとしては、「美しくないか?」とい う簡潔な問いかけはぴったりであるようにも思われるが、とはいえ、原文に含まれている要 素を大胆に削り落としてしまったとの誹りを受けかねない訳文でもある。. 104.

(12) ここで忘れてはならないのは、傅雷が日本語で「勝負」と訳されている「partie」を完全に 無視したというわけではないということだ。原文にある「seul」 、平岡篤頼訳では省略され、 中村圭子訳では「ひとりで」と訳されている「seul」を傅雷は、 「单枪匹马」と訳しているか らである。他人の力を借りずにひとりで物事を果敢に行なうことを意味する成語だが、 「槍」 と「馬」という漢字によって、読者は「勝負」のイメージを十分に感受し得たのではないだ ろうか。羅新璋は、文学の翻訳にも「形象思维」 [イメージ思考]が必要であるのかどうか という問題提起を行ない、傅雷の翻訳が「イメージ思考」によって豊饒なものとなっている ことを、 『ゴリオ爺さん』の一節を引きながら例証していた。傅雷が「seul」という日常的な 言葉の訳語として「单枪匹马」を採用したのは、まさしくその「イメージ思考」のなせるわ ざだったように思われてならない。 「单枪匹马」は唐代の詩人、汪遵の「烏江」に由来する。「兵散弓殘挫虎威、單槍匹馬突 重圍。英雄去盡羞容在、看卻江東不得歸。」という七言絶句であり、項羽を詠んだ詩である と言われている。それゆえ傅雷の「单枪匹马跟所有的人作对,把他们一齐打到,不是挺美 吗?」という訳文を眼にして、ヴォートランの姿に項羽を重ねる中国語圏の読者がいたとし てもおかしくはない。 「同化」の極みと言ってもよい。傅雷の訳を通して 19 世紀フランスの 悪漢が、中国語圏の読者の脳裏で武侠小説の登場人物へと転生してしまっている可能性も 十分にある。 バルザックの原文に「peste」という単語が出てくる。平岡篤頼訳では「ペスト菌」、中村 圭子訳では「ペスト」と訳されている単語である。中国語では「鼠疫」と訳されることが多 い。アルベール・カミュの『La Peste/ペスト』の中国語訳のタイトルも『鼠疫』である。 しかし傅雷は、 「鼠疫」を採用せず「瘟疫」と訳した。中国医学で主に使われる言葉であり、 ペスト以外にも、コレラや天然痘などの急性伝染病の総称として使われる。 なぜ傅雷は「鼠疫」を使わなかったのか。科学的であったり医学的であったりする意味合 いが強く、19 世紀フランスの文学作品に出てくる単語としてはふさわしくないと考えたの. 103.

(13) か。あるいは、傅雷が想定していた読者には、なじみのない言葉だと判断したのか。この問 題は決して些細なものではない。なぜなら中国医学や民間で使われていた「“瘟疫”から“伝 染病”への転換は、学術用語の単純な変容にとどまらず、学問的な知のパラダイムチェンジ や国家の防疫衛生制度の確立などに及ぶ一連の関連し合う事件だった」(6)という指摘もあ るからだ。傅雷の「瘟疫」を解くためには、傅雷の時代に、傅雷が想像していた「瘟疫」の 意味作用をあきらかにしなければならない。それは容易なことではない。慎重な検証を要す る作業となる。しかし私には、 「peste」の訳として「瘟疫」を選んだというところに、傅雷 の「同化」志向が端的に示されているように思われてならない。 ヴェヌティは「同化」と「異化」について、次のように述べていた。. 「同化」と「異化」という用語が指し示しているのは、外国のテクストや文化に対して の根本的に倫理的な態度であり、翻訳のためにどのテクストを選ぶのか、またそれを翻 訳するために編み出されたストラテジーによってもたらされる倫理的な結果であり、 それに対して「読みやすさ」や「読みにくさ」のような用語が指し示すのは、読者の認 識のプロセスと関係する翻訳のストラテジーのうちの根本的に言語表現にかかわる側 (7) 面なのである。. 傅雷にとっても「同化」は翻訳のための方法というよりも、「倫理」だったのではないか。 近代という時代、西洋化の波に翻弄され、欧米や日本の帝国主義に蹂躙される自国の姿を前 にして、フランス文学に代表されるヨーロッパ文化とみずからの文化の間に立ち、どのよう な態度で翻訳を実践していくのかという問題と向き合い続けた過程で身に着けた「倫理」が、 ヴェヌティの言う「同化」だったように思われる。傅雷は原作の芸術性を重んじ、可能な限 り原文を尊重しつつも、ヴォートランのフランス語を中国語に「同化」させ、中国語として の芸術性を追求した。それは訳文を流麗なものにするかしないかといったテクニックにか. 102.

(14) かわる問題である以上に、中国の過酷な近代を翻訳者として生きることを選択した傅雷に とっての、重要な「倫理」であったのかもしれない。. 5. 「自民族中心主義的翻訳」と可視性の問題. 現在、翻訳研究において「同化」の旗色はよくない。異言語の異質性を取り除いて、流麗 で自然な言語―母語であることが多いが必ずしも母語とは限らないに―へと移し替え ることは、他者の他者性を剥奪してみずからのものにする帝国主義のふるまいを想起させ かねないからだ。ポストコロニアリズムの視点に立てば、それは「自民族中心主義」以外の 何ものでもないことになってしまう。 「同化」を志向した傅雷は、当然のことながら、民族的なアイデンティティを堅固に保持 していた。 たとえば 1954 年 10 月 22 日に傅聡に送った書簡には、 次のように記されていた。. 西洋の絵画を学ぶひとは、第一にテクニックを訓練しなくてはならず、外国の作品を多 く見なければならないが、次の段階では外国の作品をきれいさっぱり忘れなくてはな らない―これがひどくつらい仕事となる―同時に再びみずからの民族の精神とみ (8) ずからの個性を追求するのである。. ここで述べられていることは、傅雷の翻訳についての考えと符合するものでもある。羅新璋 によれば、傅雷の翻訳には、原作が何であろうと、傅雷のスタイルが貫かれているのだが、 それこそが傅雷の「個性」であり、その「個性」は「みずからの民族の精神」と分かち難く 結びついたものだった。改革開放以後、現代に至るまで、『傅雷家書』が重要な書物であり 続けている理由のひとつは、それが「民族の精神」の教育に役立つものであるからにほかな. 101.

(15) らない。 それゆえ傅雷に対して「自民族中心主義」だという批判をあげつらっても、傅雷自身とし ては当然のことであり、痛くも痒くもないはずである。しかし、ポストコロニアリズムの余 波が翻訳研究に及んでいる現在、翻訳者としての傅雷について少しでも考えようとするの なら、その翻訳観が批判の対象とされることが多い「自民族中心主義」の典型であることは、 やはり確認しておくべきだろう。 「自民族中心主義的翻訳の本質」について、アントワーヌ・ベルマンは次のように述べて いた。 、、、 だが外国語の文字に対するこうした不実は、必然として自国語の文字への忠実とな る。意味は、翻訳を行なう側の言語〔の文字〕において把捉される。そのためには、翻 、 訳する側の言語に移されえぬ一切を意味から身ぐるみ剥ぎ取らなくてはならない。意 、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、 味の把捉はつねに一方の言語の優越を示すわけだ。 〔外国語テクストの〕併合が起こる には、外国語作品の意味がいわゆる目標言語に帰順する必要がある。なぜなら意味を捉 えたからといって、より抽象的、より理想的、より「合理的」な言葉のうちにその意味 が解き放たれるわけではない、つまり意味はたんに元の言語とは違う言語―より抽 象的、あるいは理想により近く、より合理的と措定されることはあるにせよ―のうち (9) に閉じ込められるのだから。. このように「自民族中心主義的翻訳」は、帝国主義や植民地主義を思い起こさせる言葉を鏤 めて語られる代物であり、そこにおいて必要とされたのは、ベルマンによれば、 「外国語の 意味を、それが順化されるような仕方で、また外国語作品が自国語の「果実」と見えるよう なやり方で導き入れる」(10)ことだった。まさしく「同化」である。羅新璋は「原作者が中 国語に精通していると仮定した上で、翻訳とは原作者が中国語を使って完成させた創作」で. 100.

(16) なくてはならないという、傅雷が掲げた「翻訳の基準」を紹介していたが、それもまたベル マンが言う「自民族中心主義的翻訳」とぴったり符合する。 ベルマンの次のような説明は、傅雷の翻訳観を説明したものであると言っても十分に通 用するものである。. 翻訳の存在はここでは忘れられる必要がある。訳されるテクストの文面のうちに、訳 業として組み込まれてはならないということだ。その意味するところは次のようなこ とである。起点言語の痕跡はすべて消え去っていなければならない、あるいは残るにせ 、、、 よ限定的なものにとどまるように気を付けなくてはならないと。また訳文は規範的な ―訳す側の言語で直接書かれた作品の言葉以上に規範的な―言葉で書かれなくて 、、、、、 はならない、さらにまた翻訳は語彙や統辞の「異様さ」 (étrangeté)によって衝撃を与え てはならないと。二番目の原則は最初のものの帰結、ないしはそれを裏返しのいい方で 表したものである。すなわち、翻訳の供するテクストは、外国の著者がたとえばフラン ス語で仮に書いた場合、必ずやそうなっていただろうものでなくてはならない。あるい はまた作品は、原著の読者に対するのと同じ「印象」を翻訳の読者に与えなければなら (11) ないのだと。. ここで述べられている「自民族中心主義的翻訳」の 2 つ「基本原則」は、傅雷の「翻訳の基 準」そのものである。 異言語の異質性を排除し、伝達するべき意味だけを抽出し、それを滑らかで、かつ自然な 目標言語の文章に移し替えること。それこそが「同化」だった。その「同化」において、し ばしば提起されるのが、翻訳者の「可視性」の問題であることも忘れてはならない。引用し た箇所でベルマンが、 「翻訳の存在はここでは忘れられる必要がある」と述べていた通りだ。 翻訳者が「忘れられ」た存在になること、「透明」で「不可視」の存在と化すこと、それが. 99.

(17) 「同化」翻訳の条件である。起点言語の他者性を最大限に尊重する「異化」が目標言語から 翻訳者を際立たせるのに対し、目標言語の規範を尊重し、起点言語を角がないものにして吸 収する「同化」によって、媒介者たる翻訳者は「透明」な存在と化し、目標言語の中に埋没 することになる。 ヴェヌティは「翻訳者の不可視性」について、次のように指摘する。. 翻訳が流暢になればなるほど翻訳者はますます不可視となり、そして、ほぼ確実なこと とみなされていることだが、外国語のテクストの作家もしくは意味はますます可視化 (12) されていくことになるのである。. ここで注意しなくてはならないのは、フランス語を「流暢」な中国語に置き換えることに腐 心した傅雷が、決して「透明」でもなく、 「不可視」の存在でもなかったということだ。ヴェ ヌティやベルマンは、主に欧米の言語を対象に翻訳を問題化した翻訳学の泰斗であるが、そ こで提起された視点や概念を、そのまま中国語や日本語も含めた非欧米語の言語空間にお ける翻訳に適用することは、やはり難しいのかもしれない(13)。 次のような井上健の指摘は、おそらく中国語圏における近代の翻訳のありようにも通じ るものだろう。. 「透明」な翻訳についてのヴェヌティの議論は、翻訳をめぐる政治的、経済的な力関係 を明るみにだしてくれるものだが、それが基本的には、英米語への翻訳を前提とするも のであり、わが国の翻訳状況にそのまま適用できるものではない、という点は見逃すべ きではない。その意味では、異質化、同質化の議論についても同様であろう。少なくて も近代日本においては、訳者が「可視」でありつつ「透明」な翻訳が、名訳と呼ばれて きた事例も少なくない。これはわが国に限ったことではないが、翻訳の市場原理が本当. 98.

(18) (14) に「透明性」だけを求めるものであったのかについても、疑問の余地はある。. 羅新璋が述べていたように、傅雷の中国語訳は翻訳であることを忘れさせ、原文の読者が得 るものと同等のものを中国語圏の読者が手にし得ることを目指して生み出された。その試 みは、完璧でないにせよ、高いレベルで達成されたといえる。しかし、それゆえにこそ傅雷 は「可視」化し、中国を代表する翻訳家として名を馳せることとなった。ここでは、翻訳が 流暢になればなるほど翻訳者がますます「可視」化していく事態が生じている。日本につい ての井上の指摘は中国語圏にも当てはまるもの、いや、もしかしたら日本以上に中国語圏の 状況を言い当てたものとなっている。傅雷ほど「可視」化され、近現代の文化史に名をとど め、受容され続けている翻訳者は、日本語圏には見当たらないからである。 近代以降の日本を考える上で翻訳は、言うまでもなく無視することのできない重要な位 置を占めている。そうした日本における翻訳の位置づけを考察するにあたって、比較対象と して有効であり、相対化する視点を提供してくれるのは、おそらく欧米言語の内部における 翻訳ではない。近代化という概念が、西洋化とほぼ同義のものとして通用してしまうアジア の文化圏における翻訳―たとえば中国語圏や朝鮮半島における翻訳―と対照させるこ とで、日本の翻訳は世界文学の中で正当に位置づけられることになるのではないだろうか。 「同化」や「異化」にしても、おそらく欧米言語の内部での働きと、日本語や中国語におい ての作用では、同じではない。 たとえば従前の言語システムを「異化」してしまう翻訳調をあからさまにした訳文は、 「自 民族中心主義」から離れ、伝統主義的な言語観を攪乱するものとなり得るが、同時に近代化 =西洋化を推進する身ぶりによって、帝国主義へと突き進む国家と歩調を合わせることに なりかねないものでもある。そこでは近代化=西洋化は陰に陽に是認されることになる。あ るいは欧米語を「同化」しようとして流暢で美しい母国語に置き直した翻訳は、みずからの 言語システムを保守し、意味だけを奪取してわが物にしようとする植民地主義的なふるま. 97.

(19) いをなぞることになると解釈することも可能だが、同時に近代化=西洋化を強要する欧米 の帝国主義的な脅威に対して、言語を盾にして、みずからのアイデンティティを保持する抵 抗の意志を表明したものともみなし得る。さらには、近代や西洋を相対化する視点を提示す る可能性を宿すものとして解釈することも可能かもしれない。 「異化」や「同化」のありようが異なるのであれば、翻訳者の役割もおのずと変わってく るはずだ。欧米で練り上げられた理論に準拠してとらえるのではなく、非欧米圏のそれぞれ の言語圏における具体的な文脈の中で、翻訳者が占めた位置、およびその使命を考察するこ とが求められているように思われる。. 6. 傅雷の読まれ方. 翻訳について考えるときに忘れてはならないのは、翻訳の受容者の存在である。翻訳は読 者の存在を抜きにしては存在し得ない。目標言語を用いる読者の存在を仮定した上で、翻訳 者は起点言語と目標言語の間に身を置くことになる。翻訳において、しばしば「読みやすさ」 や「読みにくさ」が話題にされるのも、翻訳においては読者の存在が重要であるということ が、暗々裏に共有されているからであろう。 傅雷は「不可視」の翻訳者ではなかったが、志向した翻訳は「同化」だった。では、「同 化」を目指した翻訳は、読者にどのように受け止められたのか。読者は傅雷の翻訳を、みず からの文化に完全に「同化」したものとして受容したのだろうか。ここにおいて「可視」化 されるべきは翻訳者ではなく、翻訳の読者となる。 幸いなというべきか、傅雷には特権的な読者が何人も存在する。そのうちのひとりが、 1984 年にフランスに渡り、かの地で映画監督となり、フランス語で小説を書くようになっ た“華人”である。その名は Dai Sijie。日本語ではダイ・シージエと表記され、中国語では戴. 96.

(20) 思傑となる。1953 年に福建で生まれ、四川の省都である成都に移り住んだ 12 歳の頃に文化 大革命を経験した。その時の経験をフランス語で書いた小説に、次のような一節がある。 バ. ル. ザツ. ク. 巴 ‐爾 ‐扎 ‐克 。中国語に訳されたこのフランス人作家の名は、四つの漢字でできて いた。翻訳とは魔法のようだ!(15). 時は 1971 年、文化大革命のさなかである。四川の成都出身で、知識人の家に生まれ育った ルオ. 羅 と「僕」は、中学 3 年を終えるとすぐに「知識青年」として、鳳凰山に行き労働に従事 することとなった。1968 年から始まった「下放」の一環である。2 人が赴くことになった農 村は、一番近い街に行くにも歩いて 2 日はかかる山の中にあった。 ある時 2 人は、近くの別の村に「下放」されていた同郷の友人「メガネ」に会いに行く。 「メガネ」は「上品な旅行鞄」を持っていた。3 ヵ所も鍵がかけられていて、びっくりする ルオ. 「メガ くらいに重たい鞄である。羅 は「旅行鞄に禁書が詰まっている」とあたりをつけた。 ネ」の父親は作家、母親は詩人だったからである。当時は『毛沢東語録』だけが「学問的知 識の唯一の源泉」で、 「そのほかの本はすべて禁止だった」。 「メガネ」の両親が、禁書となっ た西洋の本をこっそり息子に託したということは、 十分にあり得るはずだと 2 人は考えた。 「メガネ」は容易に鞄の中身を明かさない。しかしある時、体力のない「メガネ」の労働 ルオ. を助ける代わりに「旅行鞄に隠している本を何冊か貸してくれ」という交換条件を 羅 が提 示する。 「メガネ」は本を隠し持っていることを否定し、交換条件に応じようとすらしない。 しかし体力のない「メガネ」は、結局 2 人に頼らざるを得なくなる。労働から戻った 2 人に 「メガネ」は本を差し出す。バルザックの『ユルシュール・ミルエ』だった。. 小さな本は、題を『ユルシュール・ミルエ』といった。 ルオ. 羅 はさっそく、メガネから渡されたその日の晩に読んだ。明け方に読みおえると、. 95.

(21) 石油ランプを消し、僕を起こして本を差しだした。僕は暗くなるまで寝台にいて、フラ ンスを舞台にした愛と奇跡の物語に没頭した。ほかには何もせず、食事さえとらなかっ た。 女を知らない十九の若者を想像してみてほしい。いまだ青春の混沌のなかにまどろ んでいて、知っていることといったら、愛国心、共産主義、政治思想、プロパガンダに ついてのつまらない革命のお話だけ。そんな僕に、闖入者ともいうべきその小さな本は いきなり、欲望の目覚め、感情の高まりや衝動、愛、つまり世の中がそれまで僕に対し て黙してきたことを残らず語りかけてきたのだ。 ルオ. 羅 と「僕」が手にして夢中になって読んだ本は、もちろんフランス語で書かれた原書では ない。中国語訳された Ursule Mirouët である。中国語のタイトルは『于絮尔·弥罗埃』とい う。1956 年 11 月に人民文学出版社から刊行された。訳者はもちろん傅雷である。 ダイ・シージエの『バルザックと小さな中国のお針子』に出てくるのは『于絮尔·弥罗埃』 ルオ. だけではない。羅 と「僕」は、本がたくさん入った「メガネ」の旅行鞄を盗み出す。それ以 ルオ. 後、羅 と「僕」の「再教育中」の生活は西洋文学に彩られることになった。 ルオ. 断崖絶壁を歩く 羅 が、背中の「小汚い竹製の籠」に忍ばせていたのは「中国語の題は『高 ルオ. 老頭』 、すなわち『ゴリオ爺さん』 」である。 「僕」は「羅 が唯一夢中になっていたバルザッ クには手を付けず、十九歳なりの軽さと誠実さで、フローベール、ゴーゴリ、メルヴィル、 あるいはロマン・ロランと代わる代わる恋に落ちた」 。中でも「僕」を最も魅了したのは『ジャ ン・クリストフ』だった。 「僕に心の糧となるような啓示」をもたらし、 「個人主義」を理解 させ、 「読みおえたときには、どんなすてきな人生も、どんなすてきな世界も前とは同じで はなくなる」気にさせる「理想の本」だった。羅新璋の文章でも紹介されていたが、 『ジャ ン・クリストフ』は傅雷の膨大な訳業の中でも、 『高老頭』と並ぶ代表作として知られてい る。 『ジャン・クリストフ』を「崇拝」し、 「自分だけのもののにしたい」という思いに取り. 94.

(22) つかれた「僕」は、訳者の名前に導かれるようにして、傅雷の翻訳を読み続ける。文化大革 命下の中国では、傅雷を読むことそのものが事件だった。ダイ・シージエは、傅雷の読者に 焦点を合わせ、傅雷を読むことの物語をフランス語で綴った。『バルザックと小さな中国の お針子』が描き出したのは、文化大革命を生き抜いた傅雷の若き読者である。 先に引用した箇所に、 『ユルシュール・ミルエ』は「僕」にとって、 「闖入者ともいうべき その小さな本」だったと書かれていた。傅雷の翻訳は、若き 2 人の世界に侵入してきた「闖 入者」だったのである。 「闖入者」は、みずからの生きる世界の日常を動揺させ、既知と思 われていたものを、これまでとは異なる視線で見るようにそそのかす。既知と思われた世界 の日常に隠されていた未知なるものを露呈させ、みずからが生きる世界に疑いの眼を向け ルオ. るように仕向ける。 「小さな本」は 羅 と「僕」の世界に溶け込んでしまうものではなかった。 自分たちが生きている世界に違和感を抱かせてしまう危険な書物だった。翻訳に際して傅 雷が目指したのは「同化」だったのだが、その翻訳は読者の世界を「異化」する力を秘めた ものとなっていたのである。 もはやあきらかなように、傅雷の翻訳を読者の受けとめ方も含めてとらえようとするの なら、 「同化」/「異化」という二項対立も十分ではない。その読者による受容の仕方も含 めて傅雷をとらえるには、新たな理論的な枠組みを練り上げる必要がある。そして傅雷につ いて考えることは、中国語で「当代」と言われる中国の現代を見つめ直し、さらに日本にお ける翻訳を考え直す視点をもたらすことにつながっていくはずである。. *. *. *. 羅新璋氏の傅雷論を翻訳するのに合わせて、当初は『翻訳論集』に収められた傅雷の翻訳 論も翻訳し、 『アジア・文化・歴史』に掲載する予定でいた。商務印書館からはすぐに快諾 の返事を頂戴したのだが、その後、傅雷のご遺族と連絡を取ることができず、結局翻訳の許. 93.

(23) 可を頂くことができなかった。今後、ご遺族からの許可が下りたら、 『アジア・文化・歴史』 で日本語訳を発表することにしたいと思っている。 日本語で読める傅雷についての文献としては、 『傅雷家書』を榎本泰子が訳した『君よ弦 外の音を聴け ピアニストの息子に宛てた父の手紙』 (樹花舎、2004 年 5 月)が刊行されて (『比較文学研 いる。また、同じく榎本泰子による「 『傅雷家書』―父が息子に語る音楽」 (『比較文学』、1993 究』 、1992 年 12 月)や「傅雷―『ジャン・クリストフ』と中国知識人」 年 3 月)をはじめとする論考もいくつか発表されている。しかし、傅雷についての研究書、 研究論文、伝記などが数多く出版されている中国語圏との差は、あまりにも大きい。シンポ ジウムや研究会で取り上げられるのはもちろんのこと、インターネットや SNS でも、日々 傅雷についての文章が発表されている。傅雷の生前だけでなく、死後の生まで視野に入れる と、中国の社会や文化の変化が、新たな形で浮かび上がってくるように思われる。 今後も『アジア・文化・歴史』では、傅雷についての中国語文献を日本語に訳して掲載し、 日本語の世界に傅雷を紹介し続けていきたいと考えている。. [注] (1)中国では『傅雷家書』の研究論文が数多く出されているが、版本に着目した研究とし ては、李褘「 『傅雷家書』版本変遷及其価値研究」 (『焦作師範高等専科学校学報』 、2014 年第 2 期)がある。 『傅雷家書』の代表的な版本を比較検討した上で李褘は、 「社会環 境がよりいっそう余裕のあるものとなり、さらに文学界においても不断に各種の実 験が行われ、さまざまな潮流が登場し、そうした影響を受けて文学批評の傾向と読者 の審美的な趣味も次第に変容する中で、伝統的な現実主義の文章の書き方を保持し ている書簡体の『家書』は社会から歓迎されたのである」と述べていた。 『傅雷家書』 は文化大革命以後の、そして改革開放以後の中国において、教育、道徳、芸術、文学. 92.

(24) 等々の分野において、ある意味で、規範的な書物のひとつとして遇されてきたように 思われる。 『傅雷家書』の版本の変遷およびその受容という観点から、改革開放以後 の中国を考えることも可能だろう。 (2)井上健「翻訳家窪田啓作の戦中と戦後―定型詩実験、散文創作から『異邦人』翻訳 ( 『上智大学文化交渉学研究』、2019 年 3 月) 。 へ―」 (3)たとえば馬暁冬は「外来啓迪与本土創造:傅雷的翻訳思想研究」( 『中国翻訳』 、2019 年第 2 期)で、Alexander Fraser Tytler の Essay on the Principles of Translation を取り上 げ、傅雷の「翻訳の標準」と比較し、傅雷の〈神似〉について考察を加えている。 (4)井上健「文学の翻訳から翻訳文学へ―明治初期のヘミングウェイ、プルースト翻訳 を事例に―」(井上健編『翻訳文学の視界. 近現代日本文化の変容と翻訳』所収、. 思文閣出版、2012 年 1 月) 。 (5)同上。 (6)高晞《疫病的现代性:从“瘟疫”到“传染病”的认知嬗变》, 《医疗史研究》2021 年第 1 期。 (7)Lawrence Venuti, The Translator’s Invisibility: A History of Translation, London: Routledge, 2008. (8)訳林出版社版『傅雷家書』 、2018 年 2 月。 (9)アントワーヌ・ベルマン/藤田省一訳『翻訳の倫理学 彼方のものを迎える文字』 (晃 洋書房、2014 年 6 月) 。 (10)同上。 (11)同上。 (12)Lawrence Venuti, op.cit. ( 『中国翻訳』 、2009 (13)たとえば胡安江と許鈞は「译者的隐身―论傅雷作品的语体选择」 年 3 月)で、次のように述べていた。. 91.

(25) ヴェヌティの理論的仮説の背後には、事実として明々白々な“文化政治”の動機が あり、反“英米中心主義”を実質的な内容とし、“文章がスムーズであることを拒 絶する”ことが、その実質的な手段だったということを無視してはならない。こ れは、傅雷が 1950 年代に提唱した“流暢さと完璧さ”や、さらには中国における 古典美学の思想から生まれた“神似説”とは、実際のところ理論の背景が異なって いたのである。前者が提唱した“訳者的顕形[翻訳者の可視性]”と、後者が追求 した“訳者的隠身[翻訳者の不可視性]”は、事実として理論的な意味の上では決 して衝突するものではない。. 傅雷の翻訳観とヴェヌティらの翻訳理論が、はたして本当に折り合うものであるの かどうかについては、今後の検証が必要である。とはいえ、それぞれの翻訳理論を理 解する上で、文化的背景が重要であることを指摘したこの論考の意義は小さくない。 中国語や日本語における翻訳を考察するに際しては、その文化的、言語的な環境を考 慮に入れた上で、個々の翻訳作品を分析していくことが必要なのである。 (14)井上健、前掲論文、注(4)を参照。 (15)ダイ・シージエ/新島進訳『バルザックと小さな中国のお針子』 (ハヤカワ epi 文庫、 早川書房、2007 年 3 月) 。原題は Balzac et la petite tailleuse chinoise である。2000 年に 刊行された同書は、ダイ・シージエによって映画化され、2002 年に公開された。日 本での公開は 2003 年である。以下、 『バルザックと小さな中国のお針子』からの引用 は、すべて新島進訳による。 [付記]2020 年 12 月 28 日、新型コロナウイルス感染症のため、ロンドンで、傅聡が死去 した。86 歳。とても悲しい。 (復旦大学外文学院教員 やまもと ゆきまさ). 90.

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参照

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