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織田政権と王権

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Academic year: 2021

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(1)織田政権と王権 専攻. 教科・領域教育学専攻. コース. 社会系コース. 学籍番号. M08149F. 氏名. 天野 寛子. 1、研究の目的 3 暦変更の要求.  永禄11年(1568)9月、足利義昭を奉じて上 洛して以来、朝廷と信長の付き合いが始まった。. 第二章 三職権任問題. 信長は、朝廷に対して経済的援助を行い、それに.  第一節 推任提案主体. 対して朝廷は信長に官位の授与、勅使派遣などに.  第二節 推任の目的. おいて、他の大名よりもよい待遇をすることによ.     1 朝廷を提案主体とする説. って、信長の地位や戦争における実質的な効果を.     2 信長を提案主体とする説. 出すための手助けを行ってきた。.     3 推任の目的.  しかし、信長と朝廷の関係は、一般的に朝廷は.  第三節 信長の対応. 武士の世において、軍事的にはかなわないため、.     1 太政大臣. 信長の言いなりになるしかなかったと考える人が.     2 征夷大将軍. 多く、またその立場に立つ研究者も多くいる。.     3 その他.  そこで、朝廷は信長の思いのままに動くだけの.     4 信長の対応. 存在であり、利用されてばかりだったのか、信長 おわりに. は、朝廷を自己の都合のよい道具として利用した だけだったのかについて考えていきたい。. 3、研究の概要  第一章では、統一戦争に関わるものと王権固有. 2、論文構成. の権限に分けて、信長と朝廷の関係をみた。. はじめに.  永禄11年9月、信長は、足利義昭を将軍につ 第一章 信長と朝廷. けることを名分として上洛した。また、戦いをす.  第一節 統一戦争に関わる信長と朝廷. るにあたっては、信長が天下統一の実現までの問、. 上洛の名分. 天皇による戦勝祈願、すなわち「朝敵征伐権」を. 正親町天皇の戦勝祈願. 用いていたと考える。. 官位推挙.  信長は、天正4年(1576)に武家の官位推挙を. 勅命講和. 行っているが、室町幕府が持っていた権限を用い. 京都馬揃え. ることで、自らが将軍と同じ権利を持ち、天下統. 第二節 王権固有の権限と信長. 一を志していたことを世間に示したかったと考え.   1 左大臣推任. る。しかし、官位推挙権をほとんど利用しなかっ.   2 正親町天皇の譲位. たのは、信長が武を持って天下を治めるという憲. 一300一.

(2) 恩の表れだったのではないだろうか。.  第二章では、三職推任問題を取り上げ、本能寺.  本願寺との戦いにおいて、勅命講和が大きな役. の変直前における信長と朝廷の関係を検討した。. 割を果たしており、特に天正8年(1580)の勅命. その際、推任提案主体・推任の目的・信長の対応. 講和では、信長が天皇に誓約する形をとっている. に分けて考えた。. ことから、この段階の信長は天皇を形式的には頂.  三職推任についての「天正十年夏記」4月25日. 点とする中央政権を念頭に置いていたことを意味. 条の記事は、伝奏勧修寺崎豊が三職推任という誠. する。. 仁親王の提案を京都所司代村井貞勝に「申入れる」.  信長は天正9年(1581)の馬揃えによって、世. という意味になることで自然な文脈として完結す. の中へ自らの力を誇示するとともに、公家をも包. るため、朝廷側(=誠仁親王)からの提案だった. 括する武士社会を作ることを示そうとしていたこ. と言える。また、朝廷側が信長に三職権任を提案. とは考えられる。ただ、それだけではなく、朝廷. した目的について、表向きには、武田氏打倒に対. に譲位を迫るため、圧力としての側面もあったと. する褒賞とも考えられるが、朝廷側の本当の目的. みられる。正親町天皇は、誠仁親王が二条御所に. としては、朝廷の真意が信長のカによって朝廷の. 入った時点で、信長の意のままになる天皇を即位. 維持を計ろうとする構想の一環として信長を征夷. させることは危険だと感じて譲位を拒んでいたと. 大将軍に任じようとするところにあったと思われ. 考えられる。. る。朝廷にとって、信長のような武将が無官のま.  天正9年の左大臣推任について、朝廷は、最大. までいることは、官職という枠組みで把握するこ. の実力者である信長を復官させるために、馬揃え. とができず、いつ反逆されるかもしれないという. の褒賞として、左大臣推任を行ったが、信長は、. 不安感も.あり、朝廷内に取り込みたいと考えてい. 嫡男信忠への継承を示すために、左大臣には就か. たのも理解できる。朝廷側のこうした意図に対し. なかったと考えられる。. て、信長は何れの官職も望んでいなかったと考え.  天皇の譲位について天正兀年(1573)の時点で. る。信長は勅使と面会しているが、信長が三職の. は、正親町天皇が譲位を望んでいたことは明確で. うちのどれか一つを回答したならば、信長の復官. ある。そして、これが信長側の申し入れによるも. 準備が進められるだろうし、信長が回答を保留し. のであることから、譲位は信長にとっても望まし. たならば、その直後に信長が上洛したときに、村. いものであった。しかし、その後6年間信長側の. 井や晴豊が何らかの動きを示すはずである。. 都合で譲位が実行されないでいたと考える。ただ、.  以上のことにより、信長は、将軍足利義昭を切. 正親町天皇にとっては、誠仁親王が天正7年. り捨てたように、いずれは朝廷にも頼らず、自ら. (1579)に二条御所に入り、信長に囲い込まれて. の新しい政権を作り、すべてを自分のコントロー. 以後の譲位は絶対に阻止したかったものと考えら. ル下におくことを構想していたと考える。しかし、. れる。. 本能寺の変によって、その真実が確認できなくな.  また信長は、天正10年(1582)に暦の変更を. ってしまった。. 朝廷に求めたが、暦を変更する権利は、朝廷だけ が持っているもので、その伝統を崩すことで、自 らの権威を高めようとしたのかもしれないが、そ. 主任指導教員  河村 昭一. れは叶わなかったのである。. 指導教員  河村昭一. 一301.

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