織田政権と王権
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(2) 恩の表れだったのではないだろうか。. 第二章では、三職推任問題を取り上げ、本能寺. 本願寺との戦いにおいて、勅命講和が大きな役. の変直前における信長と朝廷の関係を検討した。. 割を果たしており、特に天正8年(1580)の勅命. その際、推任提案主体・推任の目的・信長の対応. 講和では、信長が天皇に誓約する形をとっている. に分けて考えた。. ことから、この段階の信長は天皇を形式的には頂. 三職推任についての「天正十年夏記」4月25日. 点とする中央政権を念頭に置いていたことを意味. 条の記事は、伝奏勧修寺崎豊が三職推任という誠. する。. 仁親王の提案を京都所司代村井貞勝に「申入れる」. 信長は天正9年(1581)の馬揃えによって、世. という意味になることで自然な文脈として完結す. の中へ自らの力を誇示するとともに、公家をも包. るため、朝廷側(=誠仁親王)からの提案だった. 括する武士社会を作ることを示そうとしていたこ. と言える。また、朝廷側が信長に三職権任を提案. とは考えられる。ただ、それだけではなく、朝廷. した目的について、表向きには、武田氏打倒に対. に譲位を迫るため、圧力としての側面もあったと. する褒賞とも考えられるが、朝廷側の本当の目的. みられる。正親町天皇は、誠仁親王が二条御所に. としては、朝廷の真意が信長のカによって朝廷の. 入った時点で、信長の意のままになる天皇を即位. 維持を計ろうとする構想の一環として信長を征夷. させることは危険だと感じて譲位を拒んでいたと. 大将軍に任じようとするところにあったと思われ. 考えられる。. る。朝廷にとって、信長のような武将が無官のま. 天正9年の左大臣推任について、朝廷は、最大. までいることは、官職という枠組みで把握するこ. の実力者である信長を復官させるために、馬揃え. とができず、いつ反逆されるかもしれないという. の褒賞として、左大臣推任を行ったが、信長は、. 不安感も.あり、朝廷内に取り込みたいと考えてい. 嫡男信忠への継承を示すために、左大臣には就か. たのも理解できる。朝廷側のこうした意図に対し. なかったと考えられる。. て、信長は何れの官職も望んでいなかったと考え. 天皇の譲位について天正兀年(1573)の時点で. る。信長は勅使と面会しているが、信長が三職の. は、正親町天皇が譲位を望んでいたことは明確で. うちのどれか一つを回答したならば、信長の復官. ある。そして、これが信長側の申し入れによるも. 準備が進められるだろうし、信長が回答を保留し. のであることから、譲位は信長にとっても望まし. たならば、その直後に信長が上洛したときに、村. いものであった。しかし、その後6年間信長側の. 井や晴豊が何らかの動きを示すはずである。. 都合で譲位が実行されないでいたと考える。ただ、. 以上のことにより、信長は、将軍足利義昭を切. 正親町天皇にとっては、誠仁親王が天正7年. り捨てたように、いずれは朝廷にも頼らず、自ら. (1579)に二条御所に入り、信長に囲い込まれて. の新しい政権を作り、すべてを自分のコントロー. 以後の譲位は絶対に阻止したかったものと考えら. ル下におくことを構想していたと考える。しかし、. れる。. 本能寺の変によって、その真実が確認できなくな. また信長は、天正10年(1582)に暦の変更を. ってしまった。. 朝廷に求めたが、暦を変更する権利は、朝廷だけ が持っているもので、その伝統を崩すことで、自 らの権威を高めようとしたのかもしれないが、そ. 主任指導教員 河村 昭一. れは叶わなかったのである。. 指導教員 河村昭一. 一301.
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