孟浩然らの詩に見られる ﹁空﹂
例えば孟浩然 ﹁菊花津の主人を尋ぬるも遇はず﹂ 詩に次のような ﹁空﹂ の 用例が見られる。 尋 菊 花 渾 主 人 不 遇 孟 浩 然 行至菊花澤、村西目巳斜。主人登高去、鶏大空在家。 ︵行くゆく菊花淳に至れば、村西目巳に斜く。主人高きに登りて去り、 鶏犬のみ空しく家に在り。︶ 恐らく菊花澤に棲む隠者であろうが、孟浩然が遇いたくて尋ねていったと ころ、彼は高い山に入っていて遇えなかった、と言う。そして、主人の居な い家の庭には鶏と犬がいただけであった、と空しさを ︵鶏犬に託して︶ 詠ん で い る 。 この詩に見られる ﹁空﹂ は、例えば楊樹達﹃詞詮﹄︵註1︶では様態を表す ﹁表態副詞﹂ とあり、﹁事之無結果、無利益者、謂之﹃空﹄。﹂ ︵事の結果無 く、利益無き者は、之を ﹁空﹂ と謂ふ。︶ と解説している。一般に ﹁むな し﹂ と訓読される、いわば通常の ﹁空﹂ であって、﹁無駄に∼﹂ ﹁∼しても 無駄だ﹂ の意を表すとされる。 このような意味を呈する用法の ﹁空﹂ は、多くの詩文に見られ、枚挙にい鈴
木
敏
雄
とまがない ︵また、枚挙するまでもなく、一般に通行している︶。 李 氏 園 臥 疾 孟 浩 然 我愛陶家趣、林園無俗情。春雷百井塀、寒食四隣清。 伏枕嵯公幹、蹄田蓑子平。年年自社客、空滞洛陽城。 ︵ ⋮ ⋮ 年 々 自 社 の 客 、 空 し く 洛 陽 城 に 滞 る 。 ︶ この ﹁李氏の園にて疾に臥す﹂ 詩に見られる ﹁空﹂ も同様であって、科挙 講に落第した後、そのまま洛陽で疾いに罷った孟浩然は、髪を乱して歩き、 造逢しては吟詠し、洛陽の自社を定宿としていた晋の董京さながらに、空し く、無駄なことに、洛陽に滞在したままでいた、と詠んでいる。 次の ﹁張野人の図度に題す﹂ 詩に見られる用例も同様である。 題 張 野 人 園 慮 孟 浩 然 . 輿君園庭並、微尚頗亦同。耕釣方自逸、壷焼趣不空。 門無俗士駕、人有上皇風。何必先賢侍、唯稲瀧徳公。 ﹁微尚﹂ すなわち隠者同士のささやかな志を共有して飲む酒は、その趣き たるや決して ﹁空しく﹂ ない、と孟浩然は詠む。﹁空﹂ だけを取り上げれば、 逆にこれも、無駄だという、いわば否定的な意味合いで用いられていること、 贅言を要しないであろう。 頁二 ところで、同じ ﹁空﹂ でも、それが仏教語 ︵あるいは道家の語︶ に由来す るものであるとすると、意味合いは逆転する︵註2︶。 同じく孟浩然の ﹁越中にて天台の太一子に逢ふ﹂ 詩には次のような用例が 見 ら れ る 。 越 中 逢 天 台 太 一 子 孟 浩 然 ⋮・上逼青天高、腑臨槍海大。鶏鳴見日出、毎輿仙人合。 乗去赤城中、追遥白雲外。苺苔異人間、淳布作空界。 福庭長不死、華頂啓稀最。永願従此遊、何首酒所届。 ︵⋮⋮上れば青天の高きに逼り、僻すれば槍海の大なるに臨む。鶏は鳴 きて日の出づるを見、毎に仙人と会ふ。赤城の中に来去し、白雲の外に 遭逢す。苺苔は人間に異なり、漆布は空界と作る。福庭は長Lへに死せ ず、華項は旧より最たりと称す。永らく願ふらくは此に従ひて遊び、何 ぞ当に届る所に済るべき。︶ 天台山の寺の伽藍の中にいると、滝でさえ仏教の ﹁空﹂ なる境界を示現し ており、最高の境地まで辿り着きたくなるほどだ、と詠んでいる。その場合、 ﹁二 で挙げた ﹁無駄﹂ を意味する ﹁空﹂ とは異なり、いわば肯定的な意味 合いを持っていると言える。 そして、そのような仏教語に由来する ﹁空﹂ の用例は、これもまた枚挙に い と ま が な い 。 次の ﹁明禅師の西山の蘭若に遊ぶ﹂ 詩では、孟浩然は坐禅の際に、自ら師 と仰ぐ西山寺の明禅師から、﹁生ずる無し﹂ すなわち ﹁空﹂ を説かれた、と 詠 む 。 二頁 遊 明 渾 師 西 山 蘭 若 孟 浩 然 西山多奇状、秀出傍前租。亭午収彩翠、夕陽照分明。 吾師住其下、繹坐説無生。結厘就俵窟、義竹通達行。 談空封横型、授法輿山精。日暮方辞去、田園蹄冶城。︵註3︶ また、次の ﹁挑使君に陪して恵上人の房に題す ︵﹃青﹄字を得たり︶﹂ 詩 も同様、恵上人の院で偶を見、読経を聞くと、仏理が分かって無我の境地に なり、教理の ﹁空﹂ を観じ、却って形有るものが厭わしくなる、と詠む。 陪 挑 使 君 題 恵 上 人 房 ︵ 得 青 字 ︶ 孟 浩 然 帯雪梅初暖、含煙柳尚青。爽窺童子偶、得穂法王経。 合理知無我、観空厭有形。迷心應覚悟、客思不達牢。 以上のような仏教語に由来する ﹁空﹂ は、例えば ﹁漢語大詞典﹂ ︵一九九 四年︶ では孟浩然と同時代の常建 ﹁第三峰﹂ 詩を用例に引き、﹁謂萬物、従 因縁生、投有固定、虚幻不安﹂ ︵万物の、因縁より生じて固定有るなく、虚 幻にして実ならざるを謂ふ︶ と説明がなされている。穏当な見解であって、 ここではその意味で一般に通行していると見て好いと思われる。 第 三 峰 常 建 西山第三項、茅宇依隻松。香香欲至天、雲梯昇幾重。・ 山瞑撃棲鳥、月乗随暗巷。尋空静絵響、妨妨雲渓鐘。 この用例の ﹁空を尋ぬ﹂ の ﹁空﹂ も、通常よく見られる仏教語であること、 もはや贅述を要しないであろう。 以上、﹁一﹂ ﹁二﹂ で見てきたように、﹁空﹂ には、意味論的に見ると、一 般に通行している否定的意味合いの ﹁むなし﹂ と、仏教語に由来する肯定的 意味合いの ﹁空 ︵くう︶﹂ ﹁空たり﹂ があることが確認できる。そして後者
は、以上で挙げた用例からも分かるように、その殆どが仏教関連の詩中で用 いられている。それは、その必然的な特性と見て好いであろう。 三 では、次の孟浩然 ﹁晩に薄陽に泊まりて香鐘峰を望む﹂ 詩に見られるよう な ﹁空﹂ の用例はどうであろう。この詩も仏教と関連している。 晩 泊 滞 陽 望 香 鍍 峯 孟 浩 然 桂席幾千里、名山都未逢。泊舟滞陽郭、始見香鐘峯。 嘗讃遠公博、永懐塵外樅。東林精舎近、日暮空聞鐘。︵註4︶ ︵席を撞けて幾千里、名山都て未だ逢はず。舟を薄陽の郭に泊め、始め て香鐘峰を見たり。嘗て遠公の伝を読み、永く塵外の樅を懐く。東林精 舎近く、日暮れて空しく鐘を聞けり。︶ 旅の途中の夕暮れ時、孟浩然は南陽の湊に停泊し、そこから近くに眺めら れる晋の高僧慧遠ゆかりの香炉峰 ︵香鐘峯︶ 東林寺に憧憶の想いを馳せ、こ の詩を詠んでいる。以前からあこがれを懐いていた寺に始めて近づくことの できた感動を詠み、俗世を脱した ﹁塵外の樅﹂ を永らく憤っていた自分を確 認する。そして、﹁東林精舎近く、日暮れて空しく鐘を聞けり﹂ と結ぶ。問 題はこの ﹁空しく﹂ 鐘の声を聞いたという、最後に憧憬の想いを否定する意 味合いで結ぶ詠みと関連し、この結二句をどう解するかに在る。 今、仮りに右のように訓んでみたが、﹁東林精舎近きも、日暮るれば空し く鐘を聞けり﹂ と訓むこともできる。また、以下に取り上げるように、 ﹁空﹂ を仏教語に由来するものと看徹し、﹁東林精舎近ければ、日暮るるも 空として鐘を聞けり﹂ と肯定的意味合いで訓むことも出来るように思える。 これら両様の訓みから生ずる差異は、前者は、東林寺に近づくことが出来 ても、あこがれの慧遠はもう居ないのだから、空しく鐘を聞くしかなかった、 ということであり、後者は、始めてあこがれの東林寺に近づくことが出来、 日が暮れたところで無常の境地に至り、その ﹁空﹂ なる境地で鐘を聞けた、 ということであろう。果たして、その時の孟浩然の心境はいずれであったの か。この二句の訓み如何で、詩人の心境把握にも大きな揺れが生ずる所では ないかと考える。 この点に関する先覚の見解はどうかと言えば、清の王士頑 ︵院亭、漁洋︶ ﹃帯経堂詩話﹄巻三 ︵または﹃分甘徐話﹄巻国︶ に、次のようにある。 詩至此、色相倶空、政如玲羊桂角、無跡可求、室家所謂逸品是也。 ︵詩は此に至って、色相倶に空にして、政に玲羊角を撞け、跡の求むべ き無きがごとし、画家の所謂る逸品とは是れなり。︶ これは、結二句に対する直接の注解ではないものの、詩が仏教に言う ﹁空﹂ の境地に至っているからこそ、﹁玲羊角を撞け、跡の求むべき無し﹂ すなわち俗塵を絶ち、象外に在るの感を呈している、と言っているものと考 えられる。王土蔵のこの評釈に用いられている ﹁空﹂ は、明らかに詩中の語 を借りたものであろう。この指摘からは、孟浩然が香炉峰東林寺を望み、し まいに玲羊角を掛け、天馬塵を絶つ心境に達したからこそ、﹁空として鐘を 聞けり﹂ と詠めたのだ、と把握しようとする読みが、王士頑には有るかに思 える。と同時に、﹁空しく鐘を聞く﹂ の ﹁空﹂ を、もしも通行している通り に ﹁無駄に∼﹂ と解釈してしまったのでは、詩人のそのような心境の流れの 把握に不自然さを生じかねないことの指摘も、言外に有るのではないか。仏 教語に言う ﹁空﹂ すなわち ﹁跡の求むべき無し﹂ と言い得る超脱の境地に到 達しているからこそ、孟浩然はそのように鐘を聞いている、との解釈を可能 にする指摘となっている。 また、王士頑よりも随分以前に、采の周弼もこの結二句に関し、﹁三膿 詩﹂ で次のように施注している。 頁
陶元亮訪遠公、聞鐘有省。 ︵陶元亮遠公を訪ひ、鐘を聞いて省みる有り。︶ これは、結二句の ﹁鐘を聞く﹂ は、孟浩然は ﹁陶元亮鐘を聞きて眉を積 む﹂ の典故を用いており︵註5︶、それを踏まえて解釈すべきであるとの指摘 になっている。もしもそのように、陶淵明 ︵元亮︶ が僧慧遠のもとを訪れた 際、鐘の声を聞いて心に思い当たる所が有り眉を攣めた、という故事を踏ま えているのなら、そのエピゴーネンである孟浩然も、﹁空﹂ を省察する ︵心 性上の精要なる法義に通暁する︶ 所が有って鐘声を聞いた、と詠んでいるも のと解せることになる。それは、王士頑の説の傍証ともなり得よう。 それに対し、同じく清朝でも、沈徳唐は﹃唐詩別裁集﹄で ﹁︰・、巳近遠 公精社、而但聞鐘聾、寓﹃望﹄字意。﹂ ︵=\ 巳に遠公の精社に近づくも、 但だ鐘の声を聞き、﹃望﹄ の字の意を写すのみ︶ と言う。﹁空﹂ を ﹁但﹂ に 作るテキストに基づくが、寺は近づきはしたものの、望み見ることしかでき ないので、﹁ただ ︵望み見るのみ︶﹂ と詠むのだと言う。また斎纏宗氏﹃孟 浩然詩説﹄︵註6︶も、﹁空﹂ ではなく ﹁但﹂ に作るテキストを用いていること もあってか、末句に対する按語として ﹁︰・、謂遠公香臭、東林猶在、遺跡 可尋。苦在旅渦中中、錐近亦不得琴臍、但聞鐘聾出寺、徒繋﹃永懐﹄也。﹂ ︵︰、遠公は沓かなりと謂ふも、東林は猶は在り、遺跡は尋ぬべし。苦だ 旅泊中の中に在れば、近づくと錐も亦た蓼臍するを得ず、但だ鐘声の寺を出 づるを聞き、徒らに﹃永く懐ふ﹄を繋ぐのみ︶ と言う。寺には慧遠の遺跡は のこっているが、旅の途中でもあり、香炉峰には登れず、ただ無駄に古えを ﹁永く懐ふ﹂ だけだ、と孟浩然は詠んだのだとする。これらの解釈に基づけ ば、﹁空﹂ はもちろん通常の ﹁むなし﹂ の意になる。すなわち、詩は ﹁無駄 に鐘の声を聞いただけだ﹂ という否定的な意味合いで収束する。 これら両様の解釈に関し、李育仁氏は ﹁孟浩然詩の風格の特色﹂︵註7︶で、 次のように括る ︵拙訳で示す︶。 四頁 這首詩、也全是如叙家常的平淡話、既没有描写、也投有明鞍的抒情。 後面四句、用的是曹僧慧遠至應山東林寺立龍泉精舎的典故。粗心人讃後、 的確骨酒然有出世之感、所以連那位認烏孟詩 ﹁未能免俗﹂ 的清代赫赫詩 人王土蔵也封這首詩謬加賛賞、﹁詩至此、色相倶空﹂。這首詩是孟浩然 入京應試之前、自越返邸、途経彰姦潮時所作的。這也正是他 ﹁大任﹂ 思 想最高昂的時期、根本不可能 ﹁色相倶空﹂。他在同時写的 ﹁彰姦湖中望 鹿山﹂ 所説的 ﹁我乗限於役、未暇息微窮﹂ 也正証明他此行是有任務在身、 而且思想還是根積極的。所以封古剃鐘馨、只能憤然空賠一陣。這個 ﹁空﹂ 字、眞賓地反映了他当時因 ﹁入仕﹂ 輿 ﹁出塵﹂ 的老矛盾而引起新 的複雑心情。也是這個 ﹁空﹂ 字、才使全詩在平淡中寺示出秀逸、悠遠的 詩 意 。 ︵この詩もまた全く、家での日常を叙べた平淡な話そのものであって、 描写が無い上に、明らかな拝情も無い。後半の四句は、用いられている のは晋の僧慧遠が應山の東林寺にやって来て龍泉精舎を立てた典故であ る。粗々っかしい人の読後感では、確かにほろりとさせる脱俗の感が有 るのだろう、だからこそ ﹁未だ俗なるを免るる能はず﹂ と孟浩然の詩を 看倣すあの清代の赫灼たる詩人王土蔵でさえ、この詩に対しては読み謬 り、﹁詩は此に至って、色相倶に空なり﹂ と賞賛を加えてしまっている。 この詩は孟浩然が都に入って科挙の試験を受ける前に、越 ︵会稽︶ から 都 ︵嚢陽︶ に返る途中、彰姦湖を経た時に作ったものである。それはま たまさに彼が ﹁出仕﹂ 意欲最高潮の時期でもあって、﹁色相倶に空な り﹂ となるのは根本的に不可能である。彼が時を同じくして詠んだ ﹁彰 姦湖中望鷹山﹂ ︵彰姦湖中にて原山を望む︶ 詩に言う ﹁我来限於役、未 暇息微窮﹂ ︵我が来たるは役に限られ、未だ微窮を息はす暇あらず︶ も またまさに彼のその時の旅が身に任務を帯びていて、しかも出仕意欲が やはりたいへん積極的であったことを示している。だからこそ古刺の鐘 声に対しては、只だ恨然として空しく二戸を聴き得たのみなのである。 この ﹁空﹂ という字は、実際に彼が当時 ﹁出仕﹂ と ﹁隠棲﹂ という永年
の矛盾によって新たな複雑な心境に陥っていたことを反映している。こ の ﹁空﹂ という字は、それがあることで詩全体を平淡の中に在りながら も秀逸であり、悠遠なる詩意を顕現させてはいる。︶ すなわち、孟浩然が無駄なものとして聞いたに違いない鐘の声を、王土蔵 は粗々っかしくも謬って解釈しているとして認めず、逆に、﹁出塵﹂ すなわ ち脱俗、隠棲を志向できない孟浩然の心境を反映しているからこそ、鐘の声 は空しく無駄に聞こえているのだとする。 一体、右掲の孟浩然 ﹁晩泊滞陽望香鐘峯﹂ 詩に見られる ﹁空﹂ は、通常の ﹁むなし﹂ なのか、それとも仏教語に由来する ﹁空﹂ なのか。 今、王士頑が、孟浩然は鐘の声をいわば諸行無常の響きとして聞いたとし ているのはなぜか、﹁詩は此に至って、色相倶に空なり﹂ と賞賛しているの はなぜなのか、その点に着目し、以下、もう暫く思う所を述べてみたい。 なお、この孟浩然 ﹁晩泊蒋陽望香鐘峯﹂ 詩の制作年代については諸説ある ようであるが︵註8︶、俸培基﹃孟浩然詩集箋注﹄︵註9︶は、右の李育仁氏の説 とは異なり、科挙試失敗後の孟浩然四十五歳 ︵開元二十一年、七三三年︶、 南方を旅し終わり、越中 ︵会稽︶ から帰って来て渾陽を経た時の作であると する︵註1。︶。孟浩然は科挙試に落第して後 ︵官途がふさがれたことを知って 後︶、旅する中で、仏寺を訪れている。そこで得た境地が ﹁空﹂ であったと すると、それを単に ﹁むなし﹂ と解してしまったのでは、孟浩然が試験失敗 後に仏寺を訪れた意義を否定してしまうことにもなりかねない。もしもそう であれば、読まれるべき詩人の感情の自然な流れを阻害してしまうようにも 思 え る 。 四 仏教語に由来するのではないかと思える ﹁空﹂ の用例は、﹁二﹂ で挙げた 意味用法以外にも、幾つか散見できる。例えば、ここでは仏教に準ずると考 えて好い道教に関係している孟浩然の ﹁天台桐栢観に宿る﹂ 詩には、次のよ うな ︵いわば副詞的な︶ 用例が見られる。 宿 天 台 桐 栢 観 孟 浩 然 海 行 信 風 帆 、 椚 轟 亦 践 苔 、 鶴 暖 清 露 垂 、 高 歩 陵 四 壁 、 日 夕 望 三 山 、 夕 宿 逗 雲 島 。 援 樟 悉 探 討 。 鶏 鳴 信 潮 早 。 玄 樅 得 三 老 。 雲 清 空 浩 浩 。 緬 尋 清 洲 趣 、 息 陰 憩 桐 相 、 願 言 解 櫻 紋 、 紛 吾 遠 辞 意 、 近 愛 赤 城 好 。 採 秀 尋 芝 草 。 従 此 去 煩 悩 。 撃 此 長 生 道 。 ﹁⋮・願はくは言に櫻紋を解き、此に従って煩悩を去らん。高歩して四 壁を陵ぎ、玄樵して三老を得ん。紛たり吾が遠源の意、此の長生の道を 学ばん。目の夕べ三山を望めば、雲涛空しく浩々たり。︶ 天台山中の道観に宿り、雲に包まれた中で得道者 ﹁三老﹂︵註11︶に遇えた に等しい境地を獲得し、脱俗し煩悩を去りたいと願うようになった、と孟浩 然は詠んだあと、最後に、この山に遊び、長生の道を学びたいと決意したと ころで、結四句で、仙山仙境を望むと、雲の涛がだだっぴろく広がっている ばかりであった、と結んでいるかに見える。 今、結句の ﹁空﹂ を ﹁だだっぴろく広がっているばかり﹂ と捉えたが、も しもそのように否定的に解すると、桐栢観に投宿して以降積み上げてきた孟 浩然の憧憬の昂ぶりが、水泡に帰してしまうのではないか。やはり、肯定的 な意味合いで捉えたい所である。 その点に関し、前掲の着継宗氏﹃詩説﹄ の按語では、﹁= \ 而以仙山之 可望而不可即作結、蓋不待賽裳濡足、自使人有凌雲意夫。﹂ ︵︰・、而して 仙山の望むべきを以てするも両も即ちには結ぶを作すべからず、蓋し裳を賽 げ足を濡らすを待たず、自ら人をして雲を凌ぐの意有らしむならん︶ と言っ ている︵註誓。﹁望み見るだけで、すぐには結線できないものの、汚れる前に 結線しようとする意思は持たされている﹂ との捉え方をしている。それは逆 五頁
に、三山の雲の涛を望むことを ﹁無駄だ﹂ とは一概には言いにくいとする見 方を含有するのではないか。 すなわち前掲 ﹁三﹂ の ﹁晩泊捧陽望香鐘峯﹂ 詩の結句の ﹁空﹂ と同様、 ﹁無駄に∼﹂ と詠んでいると解するよりも、道家の語として静虚の境地に入 ったという意味を担わされていて、からりと広がる感覚を詠んでいるものと 看徹すことが出来るように思える︵註曇。少なくともその方向で解釈しよう としているのが右の斎纏宗氏﹃詩説﹄であろう。ここでは氏のそのような見 解を支持したい。 このような解釈の揺れを呈する ﹁空﹂ の用例は決して多くはないものの、 孟浩然に限らず、歴代の詩人に見られる。例えば同時代の常建にも、次の ﹁張天師の草堂﹂ 詩のような用例がある。 ﹃老子﹄を教典とする初期道教の一派である五斗米道の創始者後漢の張道 陵を、その信奉者たちは ﹁天師﹂ と称し、端午の日にはその像を造り、鐘施 像などとともに祭るという。以降、五斗米道を ﹁天師道﹂ とも呼ぶようにな るが、﹁張天師堂﹂ はその張道陵を奉ってある云14︶。時に常建はそこを訪れ、 詩 を 詠 ん だ 。 張 天 師 草 堂 常 建 靂漠宴清字、傍借枯松根。 四東関炎熱、繭崖改明昏。 信是天人居、幽幽寂無喧。 遂登仙子谷、因醇田生樽。 心化便無影、日精焉累煩。 ︵ ⋮ ︰ ・ 遂 に 登 る 仙 子 の 谷 、 花 薬 綾 方 丈 、 夜 深 月 暫 校 、 萬 整 應 鳴 磐 、 時 節 開 玉 書 、 忽 而 翠 有 漢 、 港 泉 飛 至 門 。 亭 午 朝 始 敵 。 諸 峰 接 一 魂 。 背 映 飛 天 言 。 蓼 落 空 南 軒 。 ︵ 註 ほ ︶ 六頁 り、天空にも昇った気分になる、と常建は詠む。そして結二句で、﹁忽而と して啓漠に挙がれば、蓼落として南軒を空しくす﹂ と結ぶが、この場合の ﹁空﹂ も、﹁南軒﹂ すなわち草堂の隠者寄倣の南窓のあたりに人の気配が無 くなってしまった、と詠んでいると捉えると、詩意の収束を阻害するように 思 え る 。 ﹁蓼落空∼﹂ という詩語の用例は歴代多く、例えば常建たちよりもやや後 の白居易の ﹁過紫霞蘭若﹂ 詩にも ﹁我愛此山頭、及此三登歴。紫霞菌精舎、 蓼落空泉石。朝市日喧除、雲林長惰寂。猶存住寺僧、肯有蹄山客。﹂ ︵= 紫霞の旧精舎は、蓼落として泉石を空しくす。・=︶ と見え、紫霞寺の ﹁泉 石﹂ の静かさ、仏教で言う ﹁空たり﹂ の様を捉えている︵註ほ︶。 常建のこの ﹁張天師草堂﹂ 詩の場合も、むしろ、草堂の隠者寄倣の南窓の あたりに居て、﹁蓼落﹂ 感、すなわち寂びた静かさ、あるいは ﹁空たるし 雰 囲気が漂うと詠んでいるものと解せる所ではないか。そのように、肯定的な 意味合いで捉えるのでなければ、この詩も、詩人の感情の自然な流れが失せ てしまうようにも思える所である。 ただし、一つ附言しておきたいことは、仏地 ︵寺の伽藍︶ や仙山仙境に入 り、あこがれの人 ︵得道者︶ に逢いたいと期待した際、実際にはその人に逢 えなかった場合、その逢えなかった空しさを、否定的な意味合いで ﹁空し﹂ と詠む類型も、孟浩然らには確かに有るということである。しかも、日暮れ と共にその空しさは頂点に達する。例えば次の孟浩然 ﹁鹿門山に登る ︵懐 古︶﹂ 詩は、その型を有する。 因って酔ふ田生の樽。時節玉書を開けば、督 映として天言を飛ばす。心は化して便ち影無く、目は精にして鳶ぞ累煩 せん。忽而として答漠に挙がれば、蓼落として南軒を空しくす。︶ ﹁張天師堂﹂ で遺書を目にし、天師の言葉に触れると、目も心も冴えわた 登鹿門山 清 暁 因 興 乗 、 漸 到 鹿 門 山 、 昔 開 展 徳 公 、 紛 吾 感 曹 蕾 、 白 雲 何 時 去 、 ︵ 懐 古 ︶ 孟 浩 然 乗 流 越 江 幌 。 山 明 翠 微 浅 。 採 薬 遂 不 返 。 結 獲 事 等 棲 。 丹 桂 空 値 登 。 沙 禽 近 方 識 、 巌 渾 多 屈 曲 、 金 澗 養 芝 市 、 隠 迩 今 尚 存 、 探 討 意 未 窮 、 浦 樹 遥 莫 排 。 舟 樟 屡 廻 韓 。 石 休 臥 苔 蘇 。 高 風 邁 巳 遠 。 廻 臆 夕 陽 晩 。
︵⋮⋮紛として吾は著旧に感じ、渡を結んで蓼践す。隠速は今尚は存す るも、高風は適として巳に遠し。白雲何れの暗にか去る、丹桂のみ空し く値賽たり。探討するも意未だ窮らず、艦を廻せば夕陽晩し。︶ 孟浩然はあこがれの魔徳公の遺跡を尋ねたのち、やはりその人はもう居な いことを確認し、喩えを用いて ﹁白雲は何れの時にか去る、丹桂のみ空しく 腹案たり﹂ と言い、寵徳公は白雲のように去ってしまい、夕陽の傾いた今、 自分は空しく遺跡の丹桂︵註17︶を見上げ、舟に戻って帰るばかりだ、と満た されない気持ちを詠んでいる。 ﹁二 の冒頭に挙げた孟浩然 ﹁尋菊花渾主人不遇﹂ 詩の ﹁行至菊花澤、村 西目巳斜。主人登高去、鶏犬空在家。﹂ も、明らかにこの型に当てはまる。 これらの用例はもとより通常の ﹁むなし﹂ ではあるが、とりわけ右の ﹁登鹿 門山 ︵懐古︶﹂ 詩の瀧徳公と、その ﹁尋菊花澤主人不遇﹂ 詩の主人とは、と もにあこがれの隠者 ︵得道者︶ であり、孟浩然が逢いたいと思う人物である。 とすれば、それらは仏教に関連する詩ではないという違いは有るものの、 ﹁三﹂ の孟浩然 ﹁晩泊樽陽望香鐘峯﹂ 詩で遠公に逢えなかった思いも、これ らと同じ型に入るのではないか ︵すなわち ﹁空し﹂ である︶ という読みも、 確かに棄て難くはある。 五 以上見てきた所を踏まえ、また ﹁三﹂ で留保した孟浩然 ﹁晩泊蒋陽望香鐘 峯﹂ 詩の ﹁空﹂ の方向づけも含め、最後に更に三つの用例を検討しておきた い。 例えば孟浩然と同時代の常建の名作 ﹁破山寺の後ろの禅院に題す﹂ 詩には、 次のような用例が見られる。 題 破 山 寺 後 繹 院 常 建 清農入古寺、初日曜高林。竹逗通幽虞、繹房花木深。 山光悦鳥性、渾影空人心。萬籍此都寂、但徐鍾磐音。︵註ほ︶ ︵清農古寺に入れば、初旦向林を曜かす。竹逗幽処に通じ、禅房花木探 し。山光は鳥性を悦ばしめ、渾影は人心を空しくす。萬簸此れ都て寂、 但鍾磐の音を徐すのみ。︶ 破山 ︵江蘇省常熟︶ 興福寺の裏手にある禅院の伽藍は幽遠なる雰囲気を醸 し出していて、山に差し込む朝の光は鳥を悦ばせ、澤を照らす日影は人の心 を ﹁空しくす﹂ と常建は詠むが、この詩の用例は、実はすでに ﹁漢語大詞 典﹂ ︵一九九四年︶ にも引用され、﹁使明浄無捷碍﹂ ︵明浄にして桂碍無から しむ︶︵註19︶との説明が付されている。仏教語に由来する ﹁空﹂ と解してい ると看撤して好いであろう。この詩を登載する﹃唐詩三百首﹄ の注等を見て も、同じ方向の解釈がなされている︵註空。詩自体も仏教と関連しており、 明らかに ﹁空たり﹂ ︵﹁空とす﹂︶ と訓める。この ﹁空﹂ が ﹁気がかりを無く し、すっきりとさせる﹂ と解し得る意味用法を持つことは、一般に通行して いると見て好いであろう。 ﹁四﹂ で挙げた常建 ﹁張天師草堂﹂ 詩の ﹁空﹂ の用例も、或いはこの意味 用法に類するもののように思える。 もう一首、﹁二﹂ で見たような意味用法とは異なり ︵いわば副詞的に用い られ︶、それでいて明らかに仏教語の意味をもつ用例が見られる。 ﹁ 余 家 有 一 窟 ﹂ 詩 寒 山 余家有一肴、窟中無一物。浮潔空堂堂、光華明日日。 読食養微躯、布裏遮幻質。任伽千聖現、我有天眞俳。 ︵余が家に一窟有り、窟中には一物も無し。浄潔にして空しく堂々、光 華あって明るく日々たり。・⊥ ﹁余が家に一窟有り﹂ で始まる寒山のこの詩では、道場がわりに用いてい 七頁
る洞窟が自らの家に有り、その中は無一物でからりとし、清浄で ﹁空として 堂々と﹂ 光り輝いていると詠まれる。その場合の ﹁空として﹂ の ﹁空﹂ も仏 教語由来のものであろう。肯定的な意味合いで捉えることができ、そのよ う に 解 し て は じ め て 詩 人 の 感 情 の 自 然 な 流 れ を 阻 害 し な い 読 み が 成 立 す る ︵ 註 聖 。 ﹁囲﹂ で挙げた孟浩然 ﹁宿天台桐栢観﹂ 詩の ﹁空 ︵空浩浩︶﹂ の意味用法 も、或いはこれに類すると考えられる。 さらにもう一首、孟浩然と同時代の王経の ﹁弁覚寺に登る﹂ 詩を見てみた い。この詩の用例は、﹁三﹂ の孟浩然の用例の意味用法とも近く、通常の ﹁むなし﹂ なのか、それとも仏教語由来の ﹁空たり﹂ なのか、揺れが生ずる かに思えるものである。 登 所 覚 寺 王 維 竹径従初地、蓮峰出化城。薗中三楚壷、林上九江平。 軟茸承扶坐、長松響梵聾。空居法雲外、観世得無生。︵註翌 ︵竹径は初地よりし、蓮峰は化城より出づ。窓中に三楚尽き、林上に九 江平らかなり。軟草は鉄坐を承け、長松は梵声を響かす。空しく居る法 雲の外、世を観れば生ずる無きを得たり。︶ 弁覚寺の伽藍は仏地と一と続きで、広大であって世俗と離れているので、 その中で結蜘扶坐し読経の声を聞くと、世の中が ﹁生ずる無し﹂ すなわち ﹁空﹂ であることが手に取るように分かる、と詠む。この番に見られる ﹁空﹂ は、陳域民氏﹃王維集校注﹄︵註翌では ﹁﹃空﹄、猶濁、白。﹂ ︵﹁空﹂ は、 猶は独り、自らのごとし︶ とある。﹁無駄な∼﹂ ではなく、﹁それなりに∼、 独自に∼﹂ の意で捉えていて、否定的意味合いを払拭させようとしている。 そしてその上で氏は、さらに ﹁: :﹃法雲﹄、彿家語、喩傍浩之酒蓋一切。 ︰﹃外﹄、尚内、中。・︰﹃無生﹄、輿浬欒法性等含義相同。・二一句意 謂、僧人目居寺中、修習彿法、以之観察人世、獲得了無生之理 ︵也即破除了 八白 消滅的煩悩︶﹂ ︵︰・﹁法雲﹂ は、仏家の語なり、仏法の一切を滴蓋するに 喩ふ。・・﹁外﹂ は、尚ほ内なり、中なり。・・﹁無生﹂ は、浬無法性等と 含義は相同じ。・︰︶ と注し、結二句に言及しては、﹁=⋮・僧人自ら寺中に 居り、仏法を修習し、之を以って人世を観察し、生ずる無きの理を獲得せ り﹂ の意であると結論づけている。ここの ﹁空﹂ は、仏法を修習する際のそ れなりのさま、独自のさまと捉えられており、それが ﹁生ずる無きを得﹂ と いう結果をもたらしているとする。穏当な見解であると思われる。もしも ﹁無駄に∼﹂ の意に解してしまうと、﹁法雲のおもてに居り﹂ が意味を成さ なくなり、結句への繋がりが読みとして不自然になる。王維自身もこの弁覚 寺の僧侶と境地をともにしており、﹁空﹂ の境地に至っているとされるので なければ意味をなさない。﹁空しく居る法雲の外﹂ は ﹁空として居る法雲の 外 ︵おもて、うち︶﹂ と訓めばいっそう明瞭になると思われる︵註望。 以上三例の ﹁空﹂ は、いずれも ﹁二﹂ で挙げたものとは些か用法を異にし つつも、同様に仏教語由来のそれと看徹すことが出来、肯定的な意味合いを 表すと言える。すなわち、﹁空﹂ にはそのような意味用法の有ることが確認 できる。とりわけ、三つ目の王経の副詞的な用例 ︵楊樹達の所謂 ﹁表態副 詞﹂︶ は、﹁三﹂ の孟浩然の詩の意味用法ときわめて近似していると考えら れる。それは、殊に注目に値しよう。 孟浩然は、科挙応試以前もしくは落第後、仏地仙境に入った際の心境をど のように詠もうとしたのか。﹁空し﹂ なのか、それとも ﹁空 ︵くう︶﹂ の境 地なのか。﹁空﹂ には、とりわけ仏教語に由来する意味用法を適用して解し た場合、それが副詞的 ︵所謂 ﹁表態副詞﹂ 等︶ である場合を含め、﹁むな し﹂ と訓んでも、肯定的な意味合いを含んでいる場合もあるのではないかと いうことを、以上、一つの試みとして指摘してみた。 ﹁三﹂ で述べたように、王土蔵が ﹁晩泊渾陽望香鍍﹂.詩の孟浩然は鐘の声 をいわば諸行無常の響きとして聞いたとし、﹁詩は此に至って、色相倶に空 なり﹂ と賞賛したと考えられるのは、或いは以上のように ﹁空﹂ を仏教語由 来のものとする見方を、王士頑も持っていたためではなかったか。
註1、一九八三年、上海古籍出版社。 註2、いわゆる修飾語、被修飾語、副詞的、名詞的、動詞的の各用法が見られるが、ここで の考察は品詞論とは関係しないものと見、関連させずに措く。 註3、﹁西山﹂ の一一句を ﹁西山饅石林、磋翠疑削成﹂ に作るテキストもある。 註4、結二句は ﹁空﹂ で通行しているテキスト ︵﹁四部叢刊﹂ 本︶ に拠るが、﹁但﹂ に作って あっても ︵﹁全唐詩﹂ 本︶、詩全体では心境把握に於いて同様の意味論的な不自然さは生 ずるものと考える。 尚お、この詩の解釈は、心境の流れの不自然以外にも、結二句のテキストの異同自体 による問題も含まれていて、以下の六通りが存在する。ただし ﹁むなし﹂ の意の場合の ﹁空﹂ は、﹁但﹂ や ﹁坐﹂ に作ってあっても差して解釈の揺れを生じないであろうから、 今は措くことにしたい。テキストの異同を示せば、① ﹁東林精舎近、日暮空間鐘。﹂ ︵明、 高棟﹃唐詩晶彙﹄、明、李撃龍﹃古今詩制﹄、﹁四部叢刊﹂︶ ② ﹁東林精舎近、日暮但聞 鐘。﹂ ︵﹃唐詩選﹄︶ ③﹁東林精舎近、日暮坐聞鐘。﹂ ︵采、周弼﹃三膿詩﹄︶ ④ ﹁東林精舎 在、日暮但聞鐘。﹂ ︵采、王安石﹃唐百家詩選﹄︶ ⑤ ﹁東林精舎在、日暮空間鐘。﹂ ︵竹荘 居士 ﹃竹荘詩話﹄︶ ⑥ ﹁東林不可見、日暮空間鐘。﹂ ︵清、王士頑﹃分甘徐話﹄︶ となる。 註5、陶淵明 ﹁雑詩十二首﹂ 其六の按語に、慧遠の白蓮社に関して、﹁按此詩靖節年五十作 也。時義隈十年甲寅、初産山東林寺主繹慧遠、集楢素百二十有三人於山西巌下般若姦精 舎、結白蓮社。⋮⋮靖節毎来社中、一目謁遠公、甫及寺外聞鐘響、不党軍容、遽命還駕。 法眼蒔師晩参、示衆云﹃今夜鐘鳴復乗有何事、若是陶淵明撰眉却過去。﹄此靖節洞明心 要、惟法眼特鳥稔揚。⋮⋮﹂ ︵・・⋮靖節毎に社中に来たり、一日遠公に謁し、甫めて寺 外に鐘声を聞くに及び、覚えず攣容し、遽かに還駕を命ず。法眼禅師晩に参じ、衆に示 して云ふ ﹁今夜の鐘鳴復た来たるも何事か有らん、是くの若きに陶淵明眉を積めて却っ て過り去る﹂ と。此れ靖節心要を洞明すれば、惟だ法眼のみ特り掩揚を為す。こ こ︶ と あり、東林寺の鐘の声を聞き眉を攣めて帰ってしまった陶淵明を、法眼禅師が淵明は心 性を洞察し得ていると褒め′そやしたという故事が成立している。 その故事は、明の彰大寒﹃山堂埠考﹄ では ﹁聞聾有省﹂ ︵鐘を聞いて省みる有り︶ と して括られ、﹁昔陶潜訪遠公、聞鐘響有省、撰眉而去。﹂ とある。また﹃淵鑑類函﹄ でも ﹁陶亮撰眉﹂ ︵陶亮眉を積む︶ として括られ、﹁﹃江南野録﹄金輪寺僧謙、夜半詠中秋月、 得﹃清光何虞無﹄之句、喜極撞鐘。﹃山堂津考﹄苦陶潜訪遠公、聞鐘響有省、撰眉而 去。﹂ とある。因みに、陶淵明は白蓮社では酒が飲めないので眉を肇めて帰ったのだ、 と も 言 わ れ て い る 。 註6、一九六九年、養磯商務印書館。 註7、﹁孟浩然詩的風格特色﹂ ︵二〇〇一年、劉陽﹃孟浩然研究文集﹄所収、人民日報出版 社 ︶ 。 註8、劉文剛﹃孟浩然年譜﹄ は、科挙試前の開元九年 ︵七二一年︶、孟浩然三十三歳の時の 作 で あ る と す る 。 註9、二〇〇〇年、上海古籍山版社。 註10、陳胎欣 ﹁孟浩然事迩考排﹂ ︵一九六五年、﹁文史﹂第四輯︶ も、開元二十一年 ︵七三三 年︶、永嘉から帰り滞陽に停泊した時の作であるとする。また徐鵬﹃孟浩然集校注﹄ ︵一 九八九年、北京人民文学出版社︶ も、孟浩然四十五歳 ︵七三三年︶ の時の作としている。 註11、﹁三老﹂ は ﹁二老﹂ に作るテキストもある。老荘の得道者であろうが、誰を指すかは 未 詳 。 註12、﹁賽裳濡足﹂ は、﹃楚静﹄九章 ﹁思美人﹂ に ﹁悌賽裳而濡足﹂ とあるのを踏まえ、世俗 で 汚 れ る こ と 。 註13、﹁浩々﹂ は、原則として否定的なイメージが付きまとう。孟浩然 ﹁下溝石﹂ 詩には ﹁歯石三百里、沿洞千時間。沸響常浩浩、液勢亦湛潰。こ=こ﹂ とあるが、葦應物 ﹁夕次 肝胎癖﹂ 詩には ﹁落帆逗准錬、停船臨孤輝。浩浩風起波、冥冥自沈夕。・・こ﹂ とあり、 また令狐恒 ﹁碗州旅舎奉懐蘇州葺郎中﹂詩にも ﹁⋮⋮雲水方浩浩、離憂何時平。﹂ とあ る。したがって ﹁空浩浩﹂ もその影響を受け、だだっ広いだけの意となることが多い。 その典型的な用例は、唐末 ︵九世紀後︶ の詩僧文秀の ﹁端午﹂ 詩 ﹁節分端午自誰言、萬 古博聞鳥屈原。堪笑楚江空浩浩、不能洗得直臣冤。﹂ ︵﹁自﹂一作 ﹁本﹂。﹁侍﹂一作 ﹁相﹂︶ であろう。ただし、だいぶ時代が下るが、元の劉乗忠の ﹁揮煩十首 ︵其一︶﹂ 詩 ﹁如乗妙法離文字、萬語千言何虞蹄。鹿苑祇園空浩浩、回頭四十九年非。﹂ に見られる 用例は、両様に解釈できなくもない。なお、﹁空浩浩﹂ のような詩語は、他にも ﹁空堂 堂﹂ や ﹁空索索﹂、﹁空湛溝﹂等が見られ、解釈上で同様の現象を呈している。 九頁
註14、﹃永経注﹄汚水に ﹁又南蓮張魯治東、水西山上有張天師堂、干今民事之。﹂ とあり、 ﹃江西通志﹄には ﹁張天師草堂、﹃名勝志﹄、在龍虎山、即上酒宮之三清殿、有唐常建詩 載 重 文 。 ﹂ と あ る 。 註15、校勘記の簡略を示せば、以下の通り。﹁生﹂一作 ﹁中﹂。﹁便﹂一作﹁更㌔ ﹁輿こ一作 ﹁輿﹂、又作 ﹁上﹂。なお、結句の ﹁南軒﹂ は、陶淵明 ﹁蹄去来今辞﹂ の ﹁債南画以寄 倣﹂ を踏まえるものと考えられる。 註16、なお、佐久節氏﹃白楽天全詩集﹄ 二九七八年 ﹁続国訳漢文大成﹂ 日本図書センタ ー︶ は、詩意を ﹁⋮⋮寺院は古び、泉石は荒れ、都合は騒がしいが山寺はいつ乗て見て も静かでよい。I こ﹂ としている。 註17、﹁丹桂﹂ は、木犀の赤い花を言う場合もあるが、ここでは桂の赤い皮を言うものと取 っ て お く 。 註18、校勘記の簡略を示せば、以下の通り。﹁曜﹂一作﹁朗﹂、又作 ﹁照﹂。﹁通﹂一作﹁遇﹂。 ﹁ 都 ﹂ 一 作 ﹁ 倶 ﹂ 。 ﹁ 但 繚 ﹂ 一 作 ﹁ 惟 聞 ﹂ 。 註19、﹁接碍﹂ は ﹁里擬﹂ に同じく、気がかりの意。 註20、康黙帝﹃御選唐詩﹄の注は、康信 ﹁奉和聞弘二教應詔﹂ 詩の ﹁空心論彿性、眞気排仙 才﹂を引く。邸壁友﹃新詳唐詩三百首﹄二九七三年、牽準二民書局︶ は、﹁人椚臨渾照 影、不覚心境渾撤、銀水一様空明。﹂ と訳し、﹁感悟所得、是此篇的主旨所在。﹂ と評す る。沙靂郷女史訳﹃唐詩三百首全訳﹄︵一九八三年、貴州人民出版社︶ は、﹁臨渾顧影、 澄轍的渾水洗尽了我的塵心。﹂ と訳す。日加田誠氏訳注 ﹁唐詩三百首﹂ ︵一九七五年、平 凡社﹁東洋文庫﹂ 二六五︶ も﹁澄み切った淵の色は人の心を洗い清めるご ﹁人の心を浄 め 、 し ず め る 。 ﹂ と 注 す る 。 註21、人矢義高氏﹃寒山﹄詩注 ︵岩波 ﹁中国詩人選集﹂︶ にも ﹁がらりとおおどかなさま﹂ とある。また、録撃烈女史﹃寒山拾得詩校評﹄ ︵一九九八年、天津古籍出版社︶ も ﹁寒 山は仏性を悟り得て、⋮⋮空境として涯無し﹂ と言い、﹃惟則語録﹄巻二の ﹁不興萬法 房侶、不興諸塵作封、十方空索索、全膿露堂堂、貪嘆癖従邸裏得乗、成定慧向何慶安 著。﹂ ︵万法と侶を為さず、諸塵と対を作きず、十方空索々として、全体は堂々たるを露 はす、食噴癖はいづくより得来たらん、成定慧は何れの処においてか安署せん。︶ を引 いて傍証としている。すなわち入矢氏説と違わない。 一 〇 頁 註22、﹁初地﹂ は仏地。校勘記の簡略を示せば、以下の通り。﹁従﹂一作 ﹁連﹂。﹁姦﹂一作 ﹁ 静 ﹂ 。 ﹁ 上 ﹂ 一 作 ﹁ 外 ﹂ 。 ﹁ 軟 ﹂ 一 作 ﹁ 轍 ﹂ 。 註23、一九九七年 ﹁中国古典文撃基本叢書﹂ 中華書局。 註24、なお、釈清澤氏﹃王維全詩集﹄︵一九七八年 ﹁続国訳漢文大成﹂ 日本図書センター︶ は、﹁空居﹂ ︵くうご︶ は ﹁天の名、兜率等色界の諸天を云ふ﹂、﹁法雲﹂ は ﹁大十地とも 云ふ、智慧遍く、甘露の雨を濯ぐ位なり﹂ と注し、﹁空居天や法雲地の虞に在りて、世 諸や眞講を観じて無生法忍を詮得せし﹂ と訳す。﹁空居﹂ を仏教語の ﹁くうご﹂ と捉え ている点が陳域民氏とは異なるが、﹁空﹂ が仏教語であり、この語を含む二句が仏教概 念であって、肯定的意味合いで収束すると見る点は同じである。ただし、拙稿では ﹁く うご﹂ 説は採らない。