25
「単純な生産過程」における人間と自然
一『経済学批判要綱』の生産力認識(1)山 田 鋭 夫
総 門 生産力の問題は日本の社会科学において,時代とともに焦点や重点を異にし ながらも,つねに問われつづけてきた。とくに近年においては,成長主義的経 済の帰結として資源・環境問題が深刻化するなかで,「ゆたかさ(富)概念の変 革」や「生活を変えよう」の標語にみられるように,われわれは必然的に近代 物質文明の超克という問題に行きつき,それとともに「生産力の制御」「生産 力の質的変革」が時代の課題として浮びあがってきているかのようである。マ ルクス研究がこの課題を予見しひろく啓発してきたとは決していえないという 事実は,深い反省とともに受けとめられるべきであろう。それでも最近ようや くにして,マルクス「生産力」概念の再検討がさまざまな角度から提起され, 旧来の「史的唯物論」教義の枠組を突破して現代的課題に応えうるような研究 も蓄積されはじめている。その主な方向性を概観するならば,第一に,生産力 の物質主義的把握を排してこれを人間の対自然的および社会的な連関という基 相から再定義しようとする方向であり,第二に,生産力の歴史的中立性を暗黙 の前提としこれを量中心的にしか把握しない観点を斥けて,生産力の特殊な構 造,質,型を,さらにはその歴史的に特殊な諸性格を摘出しようとする試みで あり,さらに第三に,生産力,生産諸力,生産性などの用語検索をふまえっっ, かの「生産力と生産関係」定式の理解を再反省すること,これらである。 これらの積極的方向性を念頭におきつつ,直接にはr経済学批判要綱』とい うマルクス理論的生涯の一断面での生産力認識を再検討しょうとするのが,こ26 の一連の論稿のモチーフである。実際r要綱』マルクスにとって,生産力認識 はけっして偶然的な課題ではなく,それどころか全体系をつらぬく中心的テー マであったといってよい。たしかに初期マルクスの『ドイツ・イデオロギー』, 『哲学の貧困』,『共産党宣言』(第二のものを除いてエンゲルスとの「共著」) などを旧くとき,われわれはそこでの,あるいは生産諸力と交通諸形態(生産 諸関係)の論理に,あるいは大工業や近代的生産諸力の画期的意義の指摘に, 眼を開かれる。がしかし,1850年代の欧米資本主義の飛躍的展開を目のあたり にして,みずからの経済学研究を「すっかりはじめからやりなおした」成果と しての中期『要綱』は,そこにおいてVルクスの「経済学批判」がはじめて体系 的に成立したことと相まって,生産力論の問題的認識においても,近代的生産 諸力の構造と動態をはじめとするその理論的認識においても,初期マルクス的 水準をはるかに凌駕するものであった。その意味で『要綱』は,そこで近代的 生産力のマルクス的経済学批判がはじめて成就した著作として意義づけうるで あろう。こう言ったからといってしかし,後期『資本論』の相対的剰余価値生 産論に一例をみるような整序された資本の生産力構造論を,『要綱』にも求め ようというのではない。「生産力」なる用語ひとつをとってみても,r要綱』は その叙述のほとんど全巻にわたってこれが登場するのであるが,そのことは一 方で生産力的問題意識の明確化と全面化を語ると同時に,他方ではそれにもか かわらずその理論的体系的処理の未確立を暗示しているとも捉ええよう。しか し肝に銘じておかねばならないのは,理論的確立への直線コース上の一里塚と してr要綱』生産力論を据えたのでは,問題は片付かないということである。 生産力認識の特殊に中期マルクス的な論理を内在的に析出する視角をあわせも たなければ, 『要綱』生産力論としては意味がない。 『要綱』研究に何よりも 必要なのは,そのなかに『資本論』の貧弱な祖型をみることではなく,第一に 『要綱』の独自性認識をとおして『資本論』を相対化することであり,第二に それによって『資本論』の基本思想を明確化することでなければならない。 近代的生産力の構造へのマルクスの認識霜批判はr要綱』においていかな るものとして生成したか,一以下ではこれを考察の主題とする。しかしその
「単純な生産過程」における人間と自然 27 ためにもまず最初に,マルクス生産力論にとって前提的基礎認識をなすところ の人間一自然関係の把握を,主に『要綱』「単純な生産過程」論(『資本論』に いう「労働過程」論)に定位しつつ摘出する(本稿)。他方最後に,前記の「生 産力1概念再検討の諸論点にかかわって『要綱』研究の側から発言しうること を,若干なりとも整理しておきたい。 1 労働の合目的性と合自然性 のちに明らかとなるように,生産力なるものがすぐれて労働にかかわる概念 であるからには,生産力それ自体を論ずるまえに,まず労働過程論を回顧して おくことが,しかもあらゆる生産力の究極的帰着点は自然そのものであるから には,人間と自然の関係という視角を中心にすえて労働過程論を再考しておく ことが,以後の議論の前提として不可欠であろう。断っておくが,ここで生産 力帯の第一段階として労働過程論を分析するからといって,われわれは,生産 力論の直接的出発点として労働過程論を措定しようというのでもないし,まし て生産力論を労働過程論に解消しようというのでもない。そのような方法では 生産力の特殊的構造や具体的総体をとらえることはできず,せいぜいのとこ ろ,いわゆる「労働過程の三契機」をもって「生産力の三要素」 (その内容理 解にかんしては多数の変種がある)と読みかえて満足するがごとき,多かれ少 なかれ常套的な一しかしあまりに抽象的かつ無内容な 生産力無しか帰結 しないのであって,これはわれわれのとるべき道ではない。マルクス的な生産 力認識は,そのような労働過程認識を下敷きとしつつも,これを超え出るとこ ろに固有に展開されるのであり,この意味で生産力論にとって労働過程論は直 接的出発点ではなく前提的基礎認識の位置にある。そのようなものとしての 『要綱』の「単純な生産過程(einfacher ProduktionsprozeB)」_『要綱』は 労働過程をこの用語で示すことが多い一を以下に追ってみよう。 単純な生産過程を要約して『要綱』は次のように言う。やや長文であるが, 労働過程についての基本認識を総括しているところなので,一括して掲げよう。
28 ロ ロ ロ ロ 〔1〕 原素材(Rohstoff)は,労働によって変化され形づくられる(ge・ formt)ことによって,消費される。また労働用具(Arbeitsinstrument)1ま, この過程で使用され使いつくされることによって,消費される。他方では 労働(Arbeit)もやはり消費される。労働が充用され,運動させられ, それで労働者の一定量の筋力等が支出され,もって労働者が疲れはてる ことによってである。しかし労働は,たんに消費されるだけではなく,同 ロ コ 時に活動の形態から対象の形態,静止の形態へと固定され,物質化される 1) (materialisiert)。それは,対象の変化として,それ自身の姿態を変え,活 り動から存在になる。〔2〕過程の結末は生産物(Produkt)であり,そこで は原素材は労働と結合したものとして現れ,また労働用具は,労働の現実 的伝導体(wirklicher Leiter)tlこなったことによって,やはりたんなる可 能性から現実性に転じている。がそれとともに労働用具は,労働材料にた いする機械的ないし化学的関連をつうじて,それ自体その静止の形態のう コ コ コ ロ ちに消尽されてしまっている。材料(Material),用具,労働という過程の コ ロ リ くう 三つの契機は,すべて一つの中性的結果 生産物一に合一する。同時 に生産物には,生産過程で消尽されたこの過程の諸契機が再生産されてい む む くう る。〔3〕だから全過程が,生産的消費(produktive Konsumtion)として, すなわち無におわるのでもなけれぽ対象的なもののたんなる主体化におわ む むるのでもなく,それ自体がまた対象として措定されるところの消費として 1) Vertinderung im Gegenstand(Gr 208)一Vertinderung des Gegenstandes (MEGA, ll/1・一1,220)。訳交はMEGAに依ったが,この変更についてはMEGA i司巻の Apparat, S.77を参照せよ。なお,はじめに『要綱』からの引用表記法を示しておく。 従来よりのテキストK,MARx, Grundrisse der Kritik der Politischen Okonomie, Dietz Verlag, Berlin 1953,を基本テキストとして使用し,これからの引用は原則と して原文頁数のみで表記する。MEGA版との対比上とくに必要のある場合は, Grと 略記する。新しいテキストK,MARx, Okonomische Manuskripte 1857/58, Karl Marx−Friedrich Engels Gesamtausgabe, Zweite Abteilung, Bd. !, Dietz Verlag, Berlin 1976,は現在Teil 1(Text u. Apparat)のみが公刊されていて他は未完であ るが,既刊Text部分と現行Grundrisseとの間に内容的相違点がある場合には,新 テキストを上記のようにMEGA,皿/1−1,と略記してこれを示す。
「単純な生産過程」における人間と自然 29 現れる。〔この生産的〕消費は,素材的なものの単純な消費〔個人的消費〕 ではなく,消費それ自体の消費であり,素材的なものを止揚することの なかでこの止揚を止揚することであり,したがってまた素材的なものの措 定である。形態をあたえる活動(Formgebende Titigkeit)lt,対象を消 費し,また自分自身を消費するが,しかしそれは,対象を新たな対象的形 態で措定するためにのみ,あたえられた対象の形態を消費し,また活動と しての自己の主体的形態でのみ自分自身を消費する。形態をあたえる活動 は,対象の対象的なもの 形態にたいする無関心性 と活動の主体的 コ コ コ コ コ む なものを消費する。つまり一方を形づくり,他方を物質化する。だが生産 ヨ 物としては,生産過程の結果は使用価値である。(207−8) 単純な生産過程では,それを構成する三つの契機,すなわち原素材(または お 材料),労働用具(または用具),および(生きた)労働が,相互に関連しあ い,それぞれが消費される。しかし消費といっても,たんに消尽や個人的消費 ではない。ここで原素材は,たんに消費されるのみでなく同時に形づくられる (形態付与される)のであり,労働もまた,たんなる消耗につきるのでなく同 時に対象のうちに物質化される。原素材の形態化と労働の物質化を固有の動的 内容とする消費なのである。用具はそのさい,労働を原素材につたえる伝導体 としての媒介的役割をぱたし,やがて消尽される。この三者が過程的に合一し て,生産物,使用価値という静止的対象に結実する。つまり,ここでおこなわ れる消費は, 「無におわるのでもなければ対象的なもののたんなる主体化にお わるのでもなく,それ自体がまた対象として措定されるところの消費」なので 2)引用文中,OQOは原著者強調,”●は引用者強調,〔〕は引用者補足,/は 原文改行。なお原著者強調符は以下の引用において適宜省略することがある。 3)これら三契機はいうまでもなく,『資本論』で確定されるところの,労働そのもの, 労働対象(原料),労働手段の原型をなしているが,各契機の呼称法は『要綱』全篇を つうじて必ずしも統一的でなくt多様なヴァリアンhが存在する。例えばRohstoff− Material Rohmaterial−Arbeitsmaterial,およびlnstrument−Arbeitsinstrument− produktionsinstrument−Arbeltsmittel−Produktionsmittelは,それぞれ互換的に使 われている。
30 あり,上記引用からさらに言葉をつなぐならば, 「素材的なものの措定」 「対 象を新たな対象的形態で措定する〔こと〕」を内包する消費なのである。これ を『要綱』は「生産的消費」という。がしかし,以上をこのように 労働過程 の三契機→生産的消費(形態学と物質化)→生産物 と整理して終るかぎりで は,すでに常識に属することであり,『資本論』的認識の原型を『要綱』中に 確認することには役立ちえても,マルクス的労働過程論における特徴的視角を その生成点において跡づけたことにはならない。 『要綱』の「単純な生産過程」論においてあらためて注目しておくべき点 は,第一に,ここでマルクスは労働過程の三契機を並列的に数えあげているの ではないということである。 「活動としての労働との関係では,素材,対象化 された労働には,次の二つの関連,すなわち原素材の関連と……労働用具の関 連……しかないのである」(206)との指摘からも明らかなように,原素材や労 働用具という規定は,あくまでも「活動としての労働」との関係の相違にもと つく「対象化された労働」の二規定であって,過程全体を統括する能動的・主 体的契機は言うまでもなく「活動としての労働」の側にある。「労働は積極的・ 創造的活動である。」(507)逆に原素材や労働用具は,r過程のなかでたんに受 動的な定在,たんに対象的な定在にすぎないのである。」(209) 生きた労働のこの能動的性格は,人間の労働が本質的に目的定立の営為(い わゆる精神労働)を不可欠の要因とすることと通告している。すでに初期マル クスが明らかにしているように,「動物は一面的に生産する,ところが人君ぱ の 普遍的に生産する」のであって,人間の生産可能性が普遍的であればあるほど, 個々の生産行為においてますます明確な目的定立が要請されもし,また発展し もする。普遍的生産とは目的意識的労働と相即不離であり,人間の労働過程を の 他の生物の生命過程と区別するものであることは,すでに周知のことである。 4)城塚・田中訳『経済学。哲学草稿」岩波文庫,96頁。 5)内田義彦『資.季こ論のii1一界』岩波新書,1966f「, R, 7 一一 9. 4頁,森田桐郎「自然。人間・ 社会」『講座マルクス経済学1,社会認1識と歴史理論」日本評論仕,1974年,29−32 頁,参照。
「単純な生産過程」における人間と自然 31 人間的労働を特徴づけるのは,この「構想(Anlage)」や「目的(Zweck)」(14) の定立にある。何を,何のために,どれだけ,どのようにつくるか,また何を つくらないか? そしてこの設定した目的に従って人間は,労働用具を製作し これを過程に挿入しつつ,外的自然(原素材)を使用価値へと変形し領有す る。それは彼の全肉体の緊張過程であるのみならず,目的との間の不断の往復 検証や目的自身の不断の再検討を要する点において,全精神の統御過程であ り,つまりは精神的=肉体的な全人格的営為である。 『要綱』は随所で,この ような人間的労働を「合目的的(zweckmti13ig)」という言葉で特質づけてい る。いわく,「労働は合目的的な活動である一」(218),「労働の形態をあたえる 合目的的な活動」(206),等々。しかもマルクスぱ,労働のこの意識的な合目的 性のうちに人間の自己実現と自由を透視していたことは,r経済学・哲学草稿』 のや『資本論』によってよく知られているところであるが,『要綱』が次のよう に書くとき,同じ思想は中期マ・レタスにも脈うっていることが了解される。 もちろん労働の程度そのものは,達成されるべき目的と,この目的を達成 するために労働によって克服されるべぎ障害とによって,外部からあたえ られたものとして現れる。だがこうした障害の克服はそれじたい自由の実 1}iE(Betatlgullg der Fieiheit)であり さらにまた外的諸目的は,たん なる外的自然必然性をはぎとられた外観を受けとり,また個人それ自身が はじめて措定するところの諸目的として措定されるのであり したがっ て自己実現(Selbstverwirklichung),主体の対象化(Vergegensttindlichung des Sllbjekts),それゆえに真実の自由(reale Freiheit)として措定される 6) 1人間がまさに一つの類的存在であるからこそ,彼は意識的な存在なのである。す なわち,彼自身の生活が彼にとって対象なのである。ただこのゆえにのみ,彼の活動 は自由な活動なのである。」 (『経済学・哲学草稿』96頁)「人間は,この(腕・脚・ 頭・手によって自然素材を領有するラ運動により彼の外部の自然に働きかけてこれを 変化させつつ,同時に彼自身の自然を変化させる。彼は,彼自身の自然のうちに眠っ ている諸潜勢力を発展させ,その諸力の働きを彼自身の統御のもとにおくのである。」 (長谷部文雄訳『資本論』(2),青木文庫,330頁)関連して杉原四郎『経済原論1」 同文館,1973年.第2章,参照。
32 のであり,この自由の行動がまさに労働なのである……。(505) ところでたしかに,労働の合目的性はたんに人間の目的意識のうちにのみ表 現されるのではなく,労働用具をはじめとする労働過程の対象軍団契機および アラ 生産物においても表現されている。労働手段の拡大・変革や新素材の発見・開 発は,労働の目的連関の連鎖経路が延長され拡大していくことばかりでなく, 合目的性の内容それ自体が歴史的に不断に変革されていくことの表現でもあ り,結果でもある。ある時代(見方)に合目的的とされたことが,別の時代(見 方)には非合目的的となり,ときには反合目的的とすらなる。その意味で労働 の合目的性といっても,その内容は歴史的社会的に規定された相対的性格を有 しており,絶対的合目的性など存在しない。したがって,労働が人間にとって 真に「自由の実証」 「自由な意識的活動」でありうる一それゆえr経哲草 稿』の言葉でいうならば,人聞が「類的存在」となりうる一ためには,目的 内容の絶対量ではなく,目的内容自身を不断に検証し対自化するという意識的 活動が,ふたたび決定的重要性をもつ。労働は目的定立的活動であるのみなら ず,目的対自化的活動であり,この両義においてマルクスのいう「合目的的活 動」をとらえるべきであろう。 以上のように合目的性や自由とのかかわりにおいて労働を立論するというこ とは,すでに明らかなように,人間一自然関係をいわば主体一客体的構図におい て把握していることを意味するのであるが,しかし『要綱』「単純な生産過程」 論において第二に注目すべき点は,この主体一客体的構図が客体に対する主体 の の絶対的な優位や支配の主張と必ずしも結びついていないということである。 この点はすでに,「人間は自然の一部であり」「人間の肉体的および精神的生活 7) 中西新太郎「生産力概念の具体と抽象一マルクスの生産力論をめぐって一」 『唯物論』第8号,1977年11月,257頁,参照。 8)「『人間』は,自然にたいしてその刻印をおしつけ,自然をその目的,その企図,そ の人間化の企図……に従わせようとする造物主,絶対的主体の役割を決して演じはし ない(また今後も決して演じないだろう)……。」 (E,BALIBAR, Cinq 6tudes du mat6rialisme historique, Maspero, Paris/974, p 184.今村仁司訳『史的唯物論研 究』新評論,1979年,194頁)
「単純な生産過程」における人間と自然 33 が自然と連関しているということは,自然が自然自身と連関しているというこ の と以外のなにごとをも意味しはしない」と語る初期マルクスや,労働力はそれ ユの 自身「一つの自然力」であり「人間的有機体に転態された自然素材」であると 述べる後期マルクスをとおして,マルクスにおける人間と自然との根源的・自 然的同一性の認識視座として確認されているところである。しかも,この視座 が中期『要綱』で稀薄化するのではないことは,その「序説」で「主体である フオルメン人間と客体である自然とは同一物だ」(7)と述べ,また「諸形態」で「主体 的自然と客体的自然」(38g)と書いているように,『要綱』においても主体(人 肥)と客体(自然)とが再び「臼然」という共通項(「同一物」)に括られるべ きものとして措定されているのをみれば,明らかであろう。マルクスにおける 労働の主体一客体論的把握は,このように,より深く人間と自然との根源的同 一性の認識に支えられているのであり,その根源的基礎が「自然」に定位され ていることを勘案して換言すれば,A・シュミットの言うように,労働のマル ユリクス的な主体一客体論は本質的に「自然の諸構成部分の弁証法」として措定さ れていたと指摘できよう。 否,たんに主体の絶対的主体性が否定され,主体(人間)と客体(自然)と の同一性が揚言されるのみではない。三論(第]匿節)でふれるように,r要 綱』は,労働と自然素材との関係は究極するところ外面的・無関心的であり, そのかぎりで人間と自然とはむしろ非同一性の関係にあることを示唆する。こ の非同一性認識は,A・シュミットによれば,中後期マルクスにおいてこそ顕 ユ ラ 在化してくるとのことであるが,そこからさらに「労働が自然に制約されてい 9〕 『経済学・哲学草稿』94−5頁。 10) 『資本言命』 (2), 330, 383頁。 !1) A. ScHMiDT, Der Begriff der Natur in der Lehre von Marx, Neuausgabe, Eu− roptiische Verlagsanstalt, Frankfurt a M 1971, S.8、元浜清海訳『マルクスの自 然概念』法政大学出版局,1972年,vi頁。関連して向井公敏「経済学批判体系と自然 認識一『経済学批判要綱』における労働過程論を中心として一」 『経済学雑誌』 第65巻3号,/971年9月,80一 1頁,参照。 12)ibid,S140,前掲邦訳,152頁。
34 るということ(Naturbedingtheit)」 (労働の自然制約性)の認識を明示するの 13) は,周知のように晩年のrゴータ綱領批判』 (1875年)である。といっても, その萌芽的認識はすでに中期マルクスにも垣間みえているのであり,r要綱』 は労働と自然素材との外面的関係を論じた最後に, 「生きた労働は自己の物質 コ 的定在の諸契機にたいする合自然的な関連(naturgemaBe Beziehung)におか の れる」(270)と総括している。労働はいかに合目的的な活動であるとはいえ, 究極的には絶対的基礎としての自然によって制約されており,自然適合的=合 自然的であるほかない。それどころか本来は,合自然性ぬきに合目的性などあ りえない。とはいえ現実の労働にとって合目的性は必ずしも合自然性を意味し ない。むしろ人間と自然との非同一性は労働の合目的性と合自然性との対立可 能性を示唆しているのであり,その意味では,労働は「目的」と「自然」との 間の危ない均衡(むしろ不均衡?)のうえにたつ営為であることを自覚せねば ならない。 皿 労働による形態変換と室体維持 単純な生産過程を大局的にとらえるならば,このように労働の合目的性 (ZweckmtiBigkeit)と合自然性(Naturgem鵬heit)カミ浮びでてくる。さて, この単純な生産過程にいま一歩詳細に分けいって,労働が自然素材(原素材) にはたらきかけることによってその「使用価値を高める」(267)過程に即して みるとき,『要綱』はそこに二つの事実を摘出する。およそ労働は,無からは 何ものをも創出しえないのであるから,必ずや素材との関連を不可欠とするの であるが,この関連を『要綱』は二つの側面から指摘しているとも言える。 第一に『要綱』は,素材への労働のはたらきかけを,すぐれて素材を有用な 姿に「形づくる」活動 「形態をあたえる活動」と規定する(前節冒頭の引用文 13) 望月清司訳『ゴータ綱領批判』岩波文庫,26頁。 14)労働の自然制約性については以下を参照。A・ScHMIDT, oP. cit・, SS,89−90.前褐 邦訳,92頁。向井公敏前掲論文,8!−4頁。向井1『経済学批判要綱』における人間 と自然」 『講座マルクス経済学7,コメンタール「経済学批判要綱」(下)』日本評論 社,1974年,18590頁。
「単純な生産過程」における人間と自然 35 参照)。労働とは何よりもまず,素材にたいしてその存在形態におけ’る変化をあ たえる活動であり,これによって素材は新たな,より有用な形態を付与されて マテリ いく。 『要綱』が単純な生産過程を,「質料(原素材および用具)」にたいする フォルム 「形相(労働)」の素材的関連(20g)として,アリストテレス・ヘーゲル的な ユの 概念で説明しかえしているのも,労働が素材にたいして形態付与行為としてか かわるという労働の基本性格を明示しようという試みであろう。労働がこのよ うに「素材の形態変換(Formwechsel)」(266)の行為だということの意味は,二 重である。すなわち一方,その形態変換の具体的内容のうちに労働のさまざま な合目的性が表現されているとともに,他方,労働が形態変換行為でしかない ユの ということのなかには,労働の合自然性が,むしろ自然制約性が厳存している のである。裏がえしていえば,労働は素材の形態にかかわるのみであって,そ の実体にたいして,これを付与したり変化させたり,まして無に帰したりする ことは決してできない。要するに労働は,素材の実体変換行為ではありえず, 素材実体は労働にとって絶対的前提なのである。労働諸過程をとおして素材実 体は,最後まで自己同一性を主張するのである。 しかし第二に,だからといって労働は素材実休にたいして全く無関係なので はなく,実体維持の作用をなす。あらかじめ断っておくならば,ここで問題と なっている実体とは,純自然的・物理化学的な実体でもなければ,逆に経済的 実体でもない。素材の物理化学的な実体ぱ労働の有無にかかわらず,あらゆる 自然的・人為的変化をつうじて「維持」されている。また経済的実体とは周知 15) 内田弘「『経済学批判要綱』直接的生産過程論の解析」「専修経済学論集」第12巻2 号,1978年3月,61一一6頁,参照。 16) ここに『資本論』の有名な一文が想起される。「人間は,その生産においては,自 然そのものと同じように振舞いうるのみ,すなわち,素材の形態を変化させうるのみ である。それどころか,この形態変化〔形態形成) (Formung)の労働そのものにお いて,人間はたえず諸自然力によって支持されているのである。だから労働は,それ によって生産される使用価値の,素材的富の,唯一の源泉ではない。ウィリア∠、・ペ ティがいうように,労働は素材的冨の父であって,大地はその母である。」(『資本論』 (!),126頁)
36 の のように「対象化された労働時間」であり,この意味での実体を労働が維持す ることは労働の自然的属性として重要な点であるが,これについてもいまは問 題にしない。それらではなく,いまさしあたって問題の実体とは,原素材を有 用な形態に変化させていく労働過程をとおしてなお生産物の基本属性を構成す る原素材の使用価値(マルクスの挙例に従えば,着物にとっての綿花,机に とっての木材,ローラーにとっての鉄,等)であり,r要綱』はこれを「自然 的実体」「素材」「材料」(265一・7)とさまざまに呼んでいるが,上の諸実体 と区別するためにここでは使用価値的実体と命名しておこう。労働はこの使用 価値的実体を変化1させはしないが「維持する(erhalten)」のであり,この実 体維持なくして新たな使用価値は形成されえない。綿花の例を引いてみること にしよう。 綿花から糸が生じ,糸から織物が生じ,織物から捺染織物ないしは染付織 物等々が生じ,それらの織物からたとえば一着の着物が生ずるとき,…… 綿花の実体はこれらすべての形態で維持されている。 〔一と述べ,つぎ にこの実体が維持されるのは綿花に新たにくわえられる労働によってであ る点に議論をひきしぼって,こう続ける一〕綿花は,綿花としてのその 定在では,数かぎりない使い道をもっているのである。こうしてそれから さきの労働がおこなわれなければ,綿花と撚糸の使用価値は,材料〔実体 の意〕も形態もだいなしにされることになり,生産されるのでなく破壊さ れることになるであろう。材料は形態と同様,つまり素材〔実体の意〕も ロ 形態も,それからさきの労働によって維持され 〔諸〕使用価値として 維持され,ついには,その使用が消費であるようなものとしての使用価値 の姿態を受けとるようになる。したがって,まえの生産の段階があとの生 産の段階によって維持され,もとの使用価値はより大きな使用価値の産出 によって維持される,あるいはもとの使用価値が使用価値として高められ 17) 「経済的にみれば,対象化された労働時間がそれらのもの〔用具や原料〕の実体で ある。」(265) 18) als Gebrauchswert (Gr 267)一als Gebrauchswerthe (MEGA, [/1−1, 273)
「単純な生産過程」における人間と自然 37 るかぎりでだけ変化を受けるということが,単純な生産過程でおこなわれ ることである。未完成の労働生産物の使用価値を,その生産物をそれ以後 の労働の材料とすることによって維持するのは,生きた労働である。(266 −7) 労働はこのように使用価値的実体を維持する。逆に労働がくわえられること なく放置されると,使用価値的実体はr腐朽」し「破壊」される。だからこの ような実体維持の作用を,われわれは労働の固有の属性として確認することが 19) できる。それのみでない。新たな労働が維持する素材ないし使用価値が,それ 自体すでに先行する労働の生産物だとするならば,新たな労働による使用価値 的実体の維持(「材料の質の維持」)とは,とりもなおさず「先行する労働の質 の維持」(26g)を意味する。これを『要綱』は,「対象化された労働を対象化さ れた労働としてのその質において維持するという,生きた労働のもつ特有な 20) 質」(26g)として取りだす。労働の旧労働質維持作用と呼ぶことかできよう。 19) 「綿花……」の例は原素材の使用価値維持を中心としたものであるが,労働用具に ついても話は同様である。 「労働者が用具を用具として使用し,原素材により高度な 形態の使用価値をあたえることによって,それらのもの〔用具および原素材〕を維持… するのは,労働自体の自然〔本性〕のうちにある。」(268) 20)新労働の付加が同時に旧労働を維持するという労働の二面的性格については,『資 本論』では新価値付加と旧価値維持という価値形成上の問題として,主に第1部第6 章「不変資本と可変資本」で取りあげられていることは,周知のところである。『要綱』 での旧労働質維持作用の指摘も,じつはこの価値形成の問題中に展開されており, 純粋に使用価値形成の問題として展開されているわけではない。がしかし,本文中の 「綿花……」の引用文にもあるように,『要綱』は,新労働による「もとの使用価値 の維持」が「単純な生産過程でおこなわれる」ことを多分に強調している。のみなら ず,この問題を例の「生産一般」論にふくませる構想さえ示している。「労働は,労 働の生産物を,新たな労働の対象とすることによって維持するが,しかしそれは,1) 新たな労働をつけくわえたり,また 2)それのほかに他の労働によって原素材の使 用価値を維持したりするのではない。労働は,糸を織ることによって,糸としての綿 む む む ロ ロ 花の効用を維持する。 (このことは,すべて生産一般にかんする第1章にすでに属し ている。)」(267)『要綱』の「単純な生産過程」論はこのように独自『要綱』的な「生 産一般」論と重なりあう面も少くない〔他にcf.206)。ということは,「単純な生産
38 使用価値実体の維持とは,一般的には同時に旧労働質の維持である。労働 のもっこれらの維持作用は,『要綱』マルクスによって「労働力能の自然属性 (Natureigenschaft)」(269),「労働の活力賦与の自然力(belebende Naturkraft)」 (263)とよばれているように,労働の合目的的な形態付与活動と別個におこな われるのではなく,あらゆる形態付与活動が本来的・自然的にふくんでいる作 用である。 『要綱』にいう単純な生産過程における形態変換と実体維持とは, 以上のことである。 Ilr個体化と要素化の物質代謝過程 合目的的かつ合自然的な活動,形態変換的かつ実体維持的な活動,つまりは 労働,一その中性的結果は生産物である。生産物においては,労働が対象化 (物質化)され素材が形態をあたえられており, 「そこでは原素材は労働と結 合したものとして現れている」(208)。もちろん労働はここで完了し停止してい る。しかし,まさにこの労働の停止・固定によって判明してくることは,労働 と素材との「結合」なるものがじつは「外的・無関心的」な関係でしかないと いうことである。 その物的定在において労働がもはやたんに消滅した形態としてのみ,労働 の自然的実体の外面的形態一この形態はこの実体自体にたいして外面的 である(たとえば,木材にたいし机という形態,あるいは鉄にたいしロー ラーという形態)一としてのみ,つまり素材的なものの外的な形態にお いてもっぱら存在するものとしてのみ,存立しているような,そのような たんに対象化された労働時間〔つまり物的に定在する労働生産物〕とい うことから,形態にたいする素材の無関心性(Gleichgi’ltigkeit des Stoffs gegen die Form)が発展する。労働は形態を,たとえば木が木としての形 過程」論(『要綱』)と「労働過程」論(『資本論」)との間には,少くとも諸論点のカヴ ァー範囲において相違があり,その背後にはさらに「生産一般」構想の採否という方 法論的な相違が伏在しているものと思われる。なお『要綱』「生産一般」論について は,佐藤金三郎「「経済学批判』体系と『生産一般』」『経済学雑誌』第39巻6号,1958 年12月,のすぐれた分析を参照。
「単純な生産過程」における人間と自然 39 態を維持するように,再生産の生きた内在的法則によって維持しはしない (木材は一定の形態での木として自己を維持しているが,これはこの形態 が木材の形態であるからであり,これにたいし机としての形態は,木材に とっては偶然的なものであって,それの実体の内在的形態ではない)。 労 働は素材的なものにたいし外的な形態としてのみ存在する。いなむしろ労 働は〔対象化されているかぎり〕それ自体素材的にのみ存在する。だから 労働の素材が解体にさらされているのだが,素材が解体されるということ は労働をも同様に解体することである。(265) 労働は生産物(対象化された労働)に結果した途端に,自然の側からは無関 心性によって遇され,解体にさらされる。そうなるのはそもそも,労働自身に よる素材への形態付与なるものが,労働にとっては合目的的であっても,素材 にとってはその内在的自然法則とは関係のない外的・偶然的変形だからであ る。だから「形態にたいする素材の無関心性」とは,裏からいえば,素材にた いする労働の外面性の謂であり,素材にとっての形態(労働)の無常性の謂で ゲ シ ユ タ ル テ ン フオル ある。「労働は生きて物に姿をあたえる火であり,生きた時間による物の形態 ムノグ 変化としては,物の無常性(Verganglichkeit)であり,その一時性(Zeitlich− keit)である。」(266)労働は,素材の形態を変換することによってその実体を 維持することはできても,実体を創造したり無化したりすることはできないの であるかぎり,人間(主体)と自然(客体)とのこの外面性 A・シュミッ カ トのいう「解消不可能性」一は厳存する。少しく補足するならば,労働は歴 史過程をつうじて仮に使用価値的実体を創造・無化することができたとして も,純自然的実体をそうすることはできないのである。このことは人聞による アノアイクヌング 自然の「領有=同化」(g,270)なるものが自然対象の絶対的支配を意味するも のではないことを証すと同時に,自然の究極的な実体の絶対性を証すものでも ある。 ただし自然実体の絶対性といっても,子実体は自然過程のなかで静止してい 21)A.ScHMIDT, op. cit., S.78.前掲邦訳,78頁。 22) 向井公敏前掲論文(注11)),83頁,参照。
40 るのではない。よく知られているようにr要綱』以降のマルクスは自然の自己 運動を, 「自然の単純な物質代謝(einfacher Stoffwechsel der Natur)」(182) ヨの の あるいは「(自然の)一般的物質代謝」「自然的物質代謝」とよぶ。そこに彼が みているものは,「個体化されたもの(das Individualisierte)の要素的なもの (das Elementarische)へのたえざる分解は,要素的なもののたえ.ざる個体化 おら と同様に自然過程の一契機である……」(116)とも指摘されているように,要 素的なものと個体的なものとの間の,形態変換をともなうたえざる循環の過程 である。有機的自然に即していえば,有機体それ自身と外的な無機体,生と 死,摂取と排泄,等々(それぞれ前者が個体性ないしは個体化,後者が要素性 ないしは要素化)の循環である。 人間は生命体としてこの自然的物質代謝に服しているのはもちろんである が,労働という主体的活動をおこなう存在としては,決して単純な自然的物質 代謝の直接的麦配下にあるのではなく,まさに人間と自然との物質代謝とよば れるにふさわしい合目的的な過程のうちにある。だがしかし他方では,その合 目的的な物質代謝過程において, 「人間は自然そのものと同じように振舞いう るのみである」という合自然的制約も,厳然として自己を貫徹する。たんに労 働過程が合自然的制約のうちにあるのみでなく,人間と自然との物質代謝過程 の全般が自然の制約下にあるのである。つまり労働によって「要素的なもの 〔非使用価値〕のたえざる個体化〔使用価値化〕」をおこなったとしても,逆 に「個体化されたものの要素的なものへのたえざる分解」が人間的物質代謝を も貫徹しているのである。要素的なものへの分解は,使用価値の生産的および 個人的消費をとおしておこなわれるのみでなく,使用価値が消費されなくて も「形態にたいする素材の無関心性」 (自然素材にたいする労働の本来的外面 23)資本論草稿集翻訳委員会訳『資本論草稿集4,経済学批判(1861−1863年草稿)1』 大月書店,97−8頁。 24) 『資本論』(2),338頁。 25) この一句の解釈をめぐっては次を参照。A. ScHMIDT, Op cit., S。71.前掲邦訳70 −!頁。平田清明『経済学と歴史認識』岩波書店,1971年,254−5頁。真木悠介『現 代社会の存立構造』筑摩書房,1977年,102頁。
「単純な生産過程」における人間と自然 41 性・一時性)をとおしておこなわれる。重要なことは,個体化された使用価値 はあくまでも要素的な非使用価値へと形態変換するのであって,要素化された からといって素材実体が文字どおり無化(消滅)するのではないということで の ある。「無からは何ものも生じない」のと同様,生じたものは「無になるので はなく,他の形態をもった実体になるのである」(21g)。このような自然的物質 代謝したがってまた人間的物質代謝の本質的循環性と,それをつうじての実体 の本質的自己同一性とを考慮するとき,はじめに指摘した労働における目的定 立の内容は,ひろく生産と消費および人間と自然のそれぞれの総体連関のなか で,つねに対自化され検証されねばならないのみでなく,人間的物質代謝の展 開とともにますます高度な総体的見地から反問されつづけねばならないであろ う。 以上,『要綱』「単純な生産過程」論を人間一自然関係に焦点をあててブォロ ーしてぎたのであるが,みられるように上のかぎりでは,生産過程論としても 人間一自然論としてもきわめて抽象的である。諸個人相互の歴史的社会的関連 (経済的形態規定)を捨象し諸個人の総体をそのまま一個の人間としてくくる う という想定,極論的に比喩すれば孤立人の想定のもとで,人間の対自然関係 を,これまた自然素材や自然力利用の歴史的経済的形態規定ぬきに,姐上にの ぼせるにすぎない点で,そうである。マルクス自身がそれを自覚して, 「これ 〔労働過程〕はその抽象性,純粋な素材性のために,あらゆる生産形態にひと しく固有である」(212),「生産過程一般,これはあらゆる社会状態に固有な, したがって歴史的な……性格をもたない」(226)と自己限定している。しかし 「生産一般」にかんして『要綱』が,「それによっては現実の歴史的な生産諸 段階はどれも理解できない」(10)にもかかわらず,「生産一般は共通なものを 現実にうきださせ,固定させ,したがってわれわれに反復をまぬかれさせるか 26) 『資本論』(2),382頁。 27) 「単純な労働過程一異常な孤立的人間でもあらゆる社会的援助なしに行わねばな らぬような労働過程」 (『資本論』㈱,1243頁)。
42 ぎりで,合理的な抽象である」(7)と述べていたように,「単純な生産過程」 論もそれのみでは歴史的生産形態を理解できはしないが,だからといってそれ 28) ぬきにもこれを理解しえないという前提的基礎認識の位置にある。この点で 『要綱』 「単純な生産過程」論はたしかに『資本論』 「労働過程」論の原型を 29) なしている。 当面の生産力論にひきつけて「単純な生産過程」論を再反省するならぽ,ま さにその生産力論としての抽象性が,むしろその基礎的前提性が,まずは十分 に確認されるべぎであろう。たしかに「単純な生産過程」論が人間一自然関係 を射程におさめているかぎりで,それは生産力論の大前提をなし,この自然的 基礎ぬきに生産力は絶対にありえないことは十分に確認されねばならぬとして も,しかし人間一自然論のみではおよそ生産力論を構成することはできない。 せいぜい生産力の「要素」論を抽象的に構成しうるにすぎず,その「構造」や 28) 内田義彦,前掲書,83一・4頁,参照。 29) ただし,この原型ということに一定の留保をつけくわえるならぽJさきの注20)て 記した「生産一般」構想の採否のほかにも,相違点がある。すなわち労働過程論を措 修するさいの視角において,「資本論』は周知のように,「資本の生産過程」の本来 的分析の方法的出発点として,その意味でマルクスの自覚的な方法視角の明確な所産 として「労働過程」を次のように位置づける。「使用価値または財の生産は,それが 資本家のために資本家の統制のもとでおこなわれることによっては,その一般的本性 を変じはしない。だから労働過程は,さしあたり,どの規定された社会的形態にもか かわりなく考察されるべきである(zu betrachten sein)。」(『資本論』(2),329頁)こ れに対して「要綱』は,過程自身の進行がおのずと現象させる最初の側面として,つ まり事実的出発点として「単純な生産過程」を展開するという色合いも少くない。 「資本は一方には,あらゆる形態関連が消滅している受動的対象としてのみ現れる が,他方では,資本が資本として,すなわち自己の実体とは異るものとしてはいりこ むのではない,単純な生産過程としてのみ現れる(erscheinen)。1(210)「労働の資本 への合体によって,資本に生産過程になる。ただし,さしあたり物質的な生産過程, 生産過程一般になり(werden),その結果資本の生産過程は物質的生産過程一般と区 別されなくなる。資本の形態規定は完全に消えさる(erloschen)。資本がその対象的 存在の一部を労働と交換したことによって,その対象的定在自体は対象と労働として の自己に解消され,両者の関連が生産過程を,あるいはさらに厳密にいえば労働過程 を形成する(bilden)。」(211)
「単純な生産過程」における人間と自然 43 「性格」の論理には至らない。そもそも諸個人の社会的関連をぬきに人間一自 然関係は存在しえないのであって,生産力なるものもこの社会的関連ぬきには ラ 決してありえない。 「単純な生産過程」論は生産力論にとって,直接的出発点 ではなく前提的与件の位置にあるのであり,事実マルクスも労働過程論次元で は「生産力」なることばを決して口に出しはしない。労働過程の簡単な三契機 (労働,労働手段,労働対象)を「生産力の三要素」に置きかえて何が主要要 素かを探したり(かつての技術論研究でしばしばなされた),生産用具と人間 なるものをもって「社会の生産力」の要素と見たてたり(スターリン)して終 るのは,後からどんなに修飾をほどこしたとしても,結局は,生産力概念がも つべき社会的性格の認識を遠景に押しやってしまうことになるのではなかろう かQ 30)1861−63年の草稿は生産力諸姿態論を展開するにあたって,まず「自然的諸条件」 の「前提.」的意義を指摘したのちに,「社会的生産」こそが本来的主題であることを 次のように述べていた。「ここで問題になるのは,むしろ,それ自体が資本制的(総 コ コ ロ ロ コ コ む む じて社会的)生産の所産であるがぎりでの労働の生産カ……なのである。/主要な形 態は,協業,分業,および機械,あるいは科学力等々の応用である。」 (『資本論草稿 集4,経済学批判(1861−1863年草稿)1』406一・7頁)