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新マルクス主義の最適経済体制論(1) : 移住プラハ学派のばあい

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新マルクス主義の最適経済体制論(1)

一移住プラハ学派のばあい一

福 田

敏  浩

はじめに 工 新マルクス主義の諸潮流 ff新マルクス主義の発展の背景 は じ め に  本稿の目的は,新マルクス主義(Neomarxismus)の系譜に連なる移住プラハ 学派の最適経済体制論の特徴を描き出すことにある。ここに移住プラハ学派と は,チェコスロヴァキアにおける1968年のいわゆるプラハの春を指導した経済        学者のうち当局の追及を逃れるべく西側に移住した人びとをさしている。        マ  この学派の中心にいるのは,オタ・シク(Ota Sik),ラドスラフ・、セルツキー (Radoslav SeluckY)ならびにイージre一・コスタ(Jifi Kosta)である。三者とも 68年のラジカルな体制変革に参画したという共通の体験をもつが,なかでもシ クは当時のドプチェク政権の副首相としてこの変革の陣頭指揮にあたり内外の 注目を浴びたことはいまなおわれわれの記憶に新しいところである。もとより シクは単なる実践のひとではない。卓抜なる理論家でもある。チェコにあると きは科学アカデミー経済研究所長および経済改革審議会議長の要路にあって体 制変革の理論面の指導にあたったのである。そのシクは現在はスイスのザンク ト・ガレン大学で社会主義経済学を講じている。  コスタとセルツキーはともにシクのもとにあって体制変革のプランの作成に 参画した。知名度ではシクに一歩遅れをとるといえども両名とも一級の理論家 1)移住プラハ学派という用語は筆者自身によって考案されたちのである。

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 74 彦根論叢 第232号 であることに変わりはない。ひところシクの助手を勤めたこともあるコスタは 現在,西ドイツのフランクフルト大学にあって社会主義経済体制論の教鞭をと っている。一方セルツキーは70年に祖国を出て一時アメリカにいたが,今はカ ナダのカールトン大学に籍を置いて健筆をふるっている。  上記3人の学者は,西側に出たのちも社会主義の再生を意図して最適経済体 制モデルの構築に精力的に取り組んできた。もとより最適経済体制にかんする 基本構想はチェコ在住当時と変わらないが,しかしその構想に彫琢が加えられ てくるのはかれらが西側に移ってからのことである。つまり,西側でのかれら の仕事は最適経済体制モデルの体系化および具体化に向けられてきたのであ る。では,かれらの考える最適経済体制とは何か。その内容を明確化すること が本稿の課題のひとつなのだが,あらかじめこの問いに対して解答を与えてお        2) くと,それはシクのいう「第3の道」(Der dritte Weg)である。ここに第3の道 とは現存の二つの経済体制,すなわち西の現代資本主義と東のソ連型集権社会 主義を超えたよりよい経済体制といったほどの意味である。したがって,第3 の道は現存する東西両体制のあいだという意味での中間の道(Der mittele Weg) ではな:く,両者の否定に立った文字どおり第3の新しい体制の主張にほかなら 2)学説史的に振り返ってみると,第3の道という言葉は,もともとドイツの新自由主  義者レプケ(W.Ropke)やりュストウ(A. RUstow)によってはじめて用いられたも  のである。最近では,シクのそれをも含めて,第3の道という言葉は論者によってさ  まざまの意味で使用されている。第3の道というタイトルを冠したドイツ語の書物に  は次のようなものがある。MJanicke, Der Dritte VVeg−die antistalinistische OPPos一       ソ  ition gegenσlbricht seit i953, K61n 1964,0. Sik, Der Dritte VVeg−die marxistische−  leninistische Theorie”nd die moderne Industriegesellschaft, Hamburg 1972, R. Dohse,  エ)er 1)ritte Weg−die Neutralitde’tsbestrebungen in W「estdeutschland xwischen 1945  und i955, Hamburg!974, W Heidt, Der Dritte Weg−Die Alternatiwe zu K砂  italisfnus zend Kommunismus, Achberg 1974, H. C. F. Mansilla(Hrsg.), Probleme  des Dritten Weges−Mexiko, Argentinien, Bolivien, Tansania, Peru, Darmstadt  u・Neuwied !974.これらについては次の文献を参照。0. K. Flechtheim, Sozialismus  als Dritter Weg, in, U. Gtirtner, J. Kosta(Hrsg.), Wirtschaft und Gesellschaft:         Kritik und AJternativen:Festgabe/ftir Ota躁脚mσO Gebzertstag, Berlin 1979.

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       新マルクス主義の最適経済体制論 (1) 75 ない。この意味で第3の道はシクにとってめざすべぎ最適経済体制なのであ る。より具体的にいうと,シクにおいてはこの第3の道は「社会主義的計画== 市場経済」(s・zialistische Plan−und・Marktwirtschaft)または「社会主義的計画市場       3) 経済」(sozialistische geplante Marktwirtschaft)と考えられている。コスタとセル ツキーも表現こそ違えシクと同様の道をめざしていることはいうまでもない。 社会主義的計画市場経済という表現から知られるとおりかれらのめざす第3の 道はいわゆる混合経済(mixed economy)であるが,これについてはのちに詳述 することにしよう。  ところで移住プラハ学派の最適経済体制論は,もともとチェコスロヴァキア における体制変革と密接なつながりをもっている。それはいわぽ体制変革の青 写真でもあったのである。そして事実,これに即しつつ1968年1月1日を期し て大胆な体制変革が開始されたが,しかしそれは政治の領域をもその射程に入 れたためソ連の干渉を受けて頓挫をきたしたことは周知のごとくである。この ように,移住プラハ学派の最適経済体制モデルはその祖国においては十分に時 間をかけて実践に付されることはなかった。したがって,その功罪のほども明 らかにならずじまいに終わってしまったのである。しかしながら,このことに よって,移住プラハ学派の最適経済体制論は単なる机上の理論ではな:く,すぐ れて実践的志向の強い経済政策構想(wirtschaftsp・1itische K・nzept1・n)であると いう本来の一大特色が失なわれてしまったというのではない。ここにわれわれ がこの学派の学説に注目したゆえんのひとつがある。 工 新マルクス主義の諸潮流  移住プラハ学派の最適経済体制論の検討に先立って,われわれはまず新マル クス主義という用語法を整理する作業から始めなければならない。というのは この用語法は一義的ではなく,論者によってさまざまに異なる内容をもって使 われているからである。したがって,新マルゾス主義は移住プラハ学派のそれ       3) これについては次の文献を参照。0.Sik, Demokratische und Soxialistische Plan一  und Marktwirtschaft, Ztirich 1971, S 11,43,

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76 彦根論叢 第232号 をも含めて複数の思潮を包摂しているのである。われわれの知りえたかぎりで は,新マルクス主義と銘打たれた思潮としては次の七つのものがある。以下こ れらについて簡単にみていくことにしよう。  (1)新マルクス主義という用語法が学界や論壇でいわば市民権を得て多用さ れるようになるのは1960年代に入ってからのことであるが,しかしこれ以前に もこの用語法およびこれに近いものはすでに使用されている。そのうちでもも っとも早い時期に属するのは,シュムペーター(J.A. Schumpeter)の用語法で あろう。シュムペーターは,1942年に公刊されたr資本主義・社会主義・民主 主義』(Capitalism, Socialism and Dem・cracy,!>bw Y・rk)の中で新マルクス学派 (neomarxist schoo1)および新マルクス主義者(neomarxist)という用語でもって 一群のマルクス主義者の思想を一括している。そこに名前の挙げられた論者 は,バウアー(0.Bauer),ヒルファーディング(R. Hilferding)およびアドラー         4) (M.Adler)である。これらの論者は,今世紀の初めの20年問にウィーンを中心 に活躍し,マルクスならびにエンゲルスの学説を敷銀する形で帝国主義論や民 族問題に先鞭をつけたことは周知のごとくである。アンダースソ(P.Anderson)    ら  によれば,これらの論者はマルクス以後のマルクス主義のいわぽ第2世代にあ たり,マルクス主義経済学および政治学の発展に多大かつ重要な貢献をなし た。そればかりではない。これらの論者はまた精力的な実践家でもあった。た とえば,バウアーはオーストリア社会民主党の中心人物として,またヒルファ ーディングはドイツ社会民主党の著名な国会議員としてそれぞれ当時の政界で 大きな役割を演じたのである。  ところで,このようなマルクス主義の一派は普通にはオーストリア・マルク ス主義(Austromarxismus)と称せられていることは周知のごとくである。シュ ムペーターの用語法はこのオーストリア・マルクス主義をさしていることにつ 4) シュムペーター『資本主義・社会主義・民主主義』(中山伊知郎,東畑精一訳)東  洋経済新報社 昭和44年,91−92ページ。 5)P.Anderson, Consideralions o7t IJ/estern Marxism, London 1976,中野実訳『西  欧マルクス主義』新評論 !979年,22−23ページ。

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      新マルクス主義の最適経済体制論(1) 77 いては多言を要しまい。したがって,新マルクス主義という用語法が20年代以 後,とりわけ第2次大戦後のマルクス主義の諸潮流をさすものであること,ま たオーストリア・マルクス主義という用語法が学界ではポピュラーとなってい ることを考え合わせると,シュムペーターの用語法は弘通のものとは異なる特 殊な用例であるといわねばならない。  さて,西側の学界や言論界で通常新マルクス主義というばあいはとりわけ第 2次大戦以後における西側でのマルクス思想につながる諸思潮が含意されてい        6) るのが普通である。アンダースンのいう「西欧マルクス主SXIJ (Western Marxism)          アラ の流れがこれにあたる。そのアンダースンによれば,このような新マルクス主 義は次の三点をもって特徴づけられる。まず第1は,論者の研究関心が哲学に        の 向けられていることである。第1次大戦以前の古典的マルクス主義が経済学な らびに政治学の諸領域に関心を示したのとは著しい対照をなしているといわね ばならない。第2は,その哲学的研究においては方法上の諸問題をめぐる認識 論が主要テーマとなったことである。また,方法が実際に適用される領域は下 部構造ではなく,広義の文化的な上部構造とりわけ美学となった。第3は, 1920年代以降マルクス主義を特色づけていた理論と実践との有機的統一が崩壊 し始めたことである。つまり,職業的哲学者が大半を占める新マルクス主義者 の活動の場が大学に移ったことによって実践性の欠落と理論偏重の傾向が生じ た。このため一方で新マルクス主義の大衆からの遊離が,他方で理論の密教化         のが進行したのである。  6)たとえば,ヴァイス(A.v. Weiss)は「!945年に始まり今日に及んでいる時期が新マ   ルクス主義の時期と決めることができる」としている。A. v. Weiss, Neomff.rxismus,   エ)ie P勿屍召磁ゴ∫認∬fo72蜘餓・励嬢脚π・smzas der Jahre 1945 bis i970, Freiburg/   Mdnchen 1970,磯江景孜訳『新マルクス主義の根本問題』晃洋書房 1978年,4ペ   ージ。  7) アンダースソ『西欧マルクス主義』参照。  8) ヴァイスも「新マルクス主義は哲学体系というクラスに属している」と規定してい   る。ヴァイス『新マルクス主義の根本問題』2ページ。  9) クレア(K.E. Klare)もこれと同じことを指摘している。すなわち,「地下水脈派   のマルクス主義の業績の多くはそれらのエリート主義的性格と壮麗な技巧に走った反

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 78 彦根論叢第232号  以上のように特徴づけられる新マルクス主義は単一の思想体系から成るので はなく,さまざまの立場からするさまざまの主張を内に含むのであるが,大別       10) するとそれらは以下の三つの思潮に集約しうるであろう。  (2)ル三一チおよびコルシュの流れ1920年代におけるルカーチ(G.Lukacs) とコルシュ(K.Korsch)の哲学的研究は,マルクス主義に新生面を拓いた。す なわち,かれらはことに第2次大戦以後に盛んとなる「人間学的マルクス主

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義」に先鞭をつけたのである。若き日のルカーチには『小説の理論』(Die The− Orie des R・nZdins,1916)に代表される文芸批評的研究があるが,かれの名を一躍 高めたのは1923年の『歴史と階級意識』(Ge∫chihite und Klassenbewusstsein)の 出版であった。この書においてルカーチは,カウツキー(K.Kautsky)に代表さ れる第2インターナショナルの客観主義的・経済主義的なマルクス解釈を批判 し,主体一客体の歴史的弁証法の理論をもってプロレタリアの主体的・革命的 な実践の意義を強調した。  一方,1912年の渡英を機にサンジカリズムの労働者自主管理思想の洗礼を受 けたコルシュは,政治的実践に従事するかたわら自己の理論の体系化に精力 的に取り組んだ。その努力の結晶が,ルカーチの前書とともに人間学的マルク ス主義の原点となったあの『マルクス主義と哲学』(i14ar z’ismus und PhilosoPhie,  啓蒙主義によって損われてきた。「高等文化』の洗礼を受けた,古典的な教育を受け  た才人たちによって理論が書かれた。グラムシを除いた理論家たちは,大衆:文化と社  会史の諸問題に持続的に関わりえなかった。また彼らは(多くの例外はあるとしても)  大学教育を受けた学老たちにしか近づき得ないようなスタイルで書を著したのであ  る」と。D. Howard and K. E. Klare(ed.),7「heση馳。測㌶Dimension. European  Marxism since Lenin, N. Y., London 1972,川喜多喬他面『レーニン以後のヨーロッ  パ・マルクス主義』上,現代の理論社 昭和48年,24ページ。 10) ここでの分類は,次の二書に多くを負っている。野尻武敏『選択の時代」新評論  1980年,72ページ以下,D. Be11, The Social Sciences since the Seco?2d W’orld War,  N.Y.1982,蟷山昌一訳『社会科学の現在』TBSブリタニカ1984年,192ページ以下。 11) ヴァイス『新マルクス主義の根本問題』113ページ。 12)ルカーチおよびコルシュについては野尻『選択の時代』,ベル『社会科学の現在』  および岡崎次郎編『現代マルクス=レーニン主義事典』社会思想社 1980年春参照し  た。

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       新マルクス主義の最適経済体欄論 (1) 79 1923)であった。本書でのコルシュの聞題意識は,先のルカーチのばあいと根 本において一致している。すなわち,コルシュは第2インターナショナル系の マルクス主義者(とくにカウツキー)の革命的実践性の欠如を批判し,プロレタ リアの自立的な革命実践の意義を強調するとともに,その実践にさいしての哲 学の重要性をも力説したのである。また,かれは労働者評議会による直接民主 主義を柱とした評議会社会主義(Ratesozialismus)のヴaジョンをも提示した。  以上のようにルカーチとコルシュの主張は第2インターナショナルおよびボ        ユおう ルシェヴィズムの「科学的マルクス主義」と対決し,革命や変革における人間 の主体性を強調する主体的唯物論をもって特徴づけられる。だが,周知のよう にルカーチもコルシュものちにこうした主張を取り下げてしまう。ルカーチは ハンガリー革命の挫折後のソ連亡命中に『歴史と階級意識』の放棄を強要さ れ,コルシュはナチ政権の登場とともにデンマークを経てアメリカに亡命し晩 年にはマルクス主義そのものを否定するに至った。しかし,20年代のかれらの 思想はことに以下にみるフランクフルト学派,フランス左翼実存主義およびブ タペスト学派に多大な影響を与えることになるのである。  ⑧ フランクフルト学派 西側の新マルクス主義の第2の流れは,いわゆ       ヱの るフランクフルト学派(Frankfurter Schule)である。この派の哲学は批判理論 (kritische Theorie)をもって知られてはいるが,しかし単一の思想体系が確立 されているわけではなく,論者によってその主張に違いがみられる。  フランクフルト学派の起源は第2次大戦前に遡る。より正確にいうと,1930 年代初頭である。そしてその拠点となったのは,フランクフルト大学に併設さ れていた社会研究所であった。1930年に同研究所の第2代所長に就任したホル クハイマー(M.H・rkheimer)は,32年にr社会研究雑誌』(Zeitschrift fu’r Soziαg− fOrschung)を創刊して同研究所の研究方向の刷新を図った。かくてこのr雑 13) ヴァイス『新マルクス主義の根本問題』113ページ。 14) ここでの論述は,野尻『選択の時代』,ベル『社会科学の現在』,岡崎『現代マルク  ス=レーニン主義事典』,ヴァイス『新マルクス主義の根本問題』に多くを負ってい  る。

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 80  彦根論叢 第232号 誌』の創刊とともにポロック(EPollock)らの当初からのメンバーに加えて, 新たにマルターゼ(H.Marcuse),フロム(E. Fromm)ならびにアドルノ(T. W. Ad・rn・)らの俊秀が参加し,ここに今日いうところのフランクフルト学派が成 立したのである。しかし,1933年のナチ政権の登場とともにこの学派は苦難の 道を歩まざるをえなくなる。反体制ユダヤ人がこの学派の多数を占めていたか らである。こうして上記の人びとをはじめ主だった論者は亡命を余儀なくさ れ,多くはアメリカに渡った。また,1934年には社会研究所それ自体もアメリ カのコロンビア大学への移転を余儀なくされている。同研究所が再びフランク フルトに帰ってくるのは第2次大戦後のことであるが,しかし亡命した論者の すべてが行を共にしたのではなかった。ホルクハイマー,ポロックおよびアド ルノ以外の論者の多くはアメリカに留まり,その中にはたとえばマルターゼの ように新左翼のイデオローグとして活躍するようになる人物も含まれていた。 フランクフルトで活動を再開した社会研究所にはいわば第2世代ともいうべき 若き俊秀ババーマス(J.Habermas)やシュミット(A. Schmidt)らが加入して研 究態勢が拡充され,多彩な活動が展開されるようになった。  さて,先述のように一口にフランクフルト学派といっても完結した単一の思 想体系があるわけではなく,論者によって主張内容に開きがあり,この意味で そこには多様な思想が内包されているのである。もとより,この学派の基調を なすいわぽ通奏低音にも似た共通項がないというのではない。それは,この学 派の主張が批判理論をもって呼ばれているように,実証主義を攻撃すること,        15) そして否定の弁証法を発展させることにある。すなわち,経験的現実をあるが ままに容認する実証主義の立場を反動的立場と断じてこれを斥ける一方,現状 に対する徹底した批判のうちに理性と実践の統一を追求し,主体的な実践参加 を強調するところにこの学派の一大特色があるといえるであろう。こうした立 場からアドルノがポパー(K.Popper)に対して実証主義論争を,・・バーマスが ルーマン(N.Luhman)に対してシステム論争を挑んだことはわれわれの記憶 に新しいところである。また,先の立場から,あらゆる理論の完結化および教 15)ベル『社会科学の現在』204ページ。

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      新マルクス主義の最適経済体制論(1) 81 条化を糾弾することにもフランクフルト学派の特色のひとつがある。かくてこ の学派ではマルクスの思想さえもが相対化され,その絶対化の道をたどったマ ルクス=レーニン主義は厳しく批判されたのである。         フランクフルト学派の多彩かつ多様な研究内容は次の三点に集約しうる。ま ず第1は批判理論の哲学である。そのポイントは,一口でいうと,一方で伝統 的マルクス主義の下部構造還元主義を,他方で上部溝造を下部構造から切断し てこれを孤立的に捉える観念論を批判し,上部構造と下部構造との相互作用に 着目して歴史の全体を捉えようとすることにある。ホルクハイマーやアドルノ はこのような視座をもって資本主義においてその上部構造がいかに物象化され ているかを解明した。また,アドルノとベンヤミン(W.Benjamin)も同様の視 座をもって資本主義のもとでは芸術作品が商品化され,その芸術性が露なわれ てしまうという独特の文芸批評を展開した。  研究内容の第2は,現存する東西両体制の分析と批判である。マルクス主義 に弘通の資本主義の必然崩壊と社会主義の必然到来という通説に対して,経済 への計画的国家干渉によって資本主義の延命化の可能性が出てきたという見解 が打ち出された。また,マルターゼが典型的にそうであるように,現存する資 本主義と社会主義に共通する事項としてテクノロジーによる権威主義的支配の 確立が析出されかつ批判された。  第3は,社会心理学的研究である。この分野で不朽の業績を残したのはフロ ムである。かれはフロイト流の精神分析とマルクス流の社会批判との接合を通 してことに資本主義の個性を描き出すことを試みた。フロムによれば資本主義 は父権制的心理構造を柱とした体制なのである。  (4)フランス左翼実存主義の流れ 西側における哲学的な新マルクス主義の 第3の流れはフランスの左翼実存主義である。その代表的論者はサルトル(J.P.      エの Sartre)である。1905年生まれのこの哲学者の研究関心は多方面に及び,その研 16) これについては岡崎『現代マルクス=レーニン主義事典』1782一一84ページを参照。 17)サルトルの経歴および思想については次の文献を参照。加藤周一『サルトル』講談  社 昭和59年,竹内芳郎,鈴木道:彦編『サルトルの全体像』ぺりかん社 1966年.P.

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 82 彦根論叢第232号 究内容はだから多彩である。そればかりではない。サルトルはまた行動の人で もあった。そのときどきの政治的事件一ナチのフランス占領,スターリン批判お よびハンガリー事件,ヴェトナム戦争68年のパリの5月革命など一に対して明確な 意思表示を行ない,その所信を街頭で訴えかけたのである。そしてサルトルは このような行動の中で自己の思想を練り上げていった。この意味でサルトルは          ユ ラ 行動する哲人であった。  1933年にドイツに留学して・・イデッガー(M.Heidegger)およびフッサール (E.Fusser1)の哲学に接した若き日のサルトルは,その哲学研究の第一歩を実 存主義者として踏み出した。この方面の研究成果があのr存在と無』(出潮の 冗6翻, 1934)という記念碑的作品である。だが,この作品の段階までのサルトル にはマルクスおよびマルクス主義の影響は全くみられない。サルトルが積極的 にマルクス主義への接近を開始したのは,第2次大戦後とくに50年代前半であ る。と同時に実践的にはフランス共産党に対して論争・接近・再対立という行 動をとった。この時期におけるサルトルの研究は『弁証法的理i生批判』(Critique de la ra・son dialectique,1960)に集大成された。        ユの  いまダニエル・ベルに従って本書に盛り込まれたサルトル説の要点を挙げて おくと,次のごとくである。まず第1は,サルトルはエンゲルス流の模写説を 斥け,歴史が人間にかんする真理を開示するというヘーゲル的原理を改めて主 張しkことである。第2は,サルトルにあってはマルクス主義の限界は自然お よび歴史にかんする抽象的概念からいかにして個人の具体的生活と個々の事柄 の特殊性へ移行していくかについての媒介の理論を欠いていることにあると捉 えられ,この媒介変数として実存主義的方法が採用されたことである。こうし てここに独特のマルクス主義的実存主義の哲学が展開されることとなる。最後  Chiodi, Sartre e il mαrxismo, Milano 1966,西川一郎訳『サルトルとマルクス主義』  合同出版 1967年,ベル『社会科学の現在』,岡崎『現代マルクス=レーニン主義事  典』。なおここでの論述はこれらの文献に多くを負っている。 18) ただし,サルトルは大衆運動家ではなかった。知識人としての自らの良心に従って  いわば個人として行動したのである。 19) ベル『社会科学の現在』206−207ページ。

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       新マルクス主義の最適経済体制論(1) 83 にサルトルは,マルクス主義の弁証法的唯物論の難点は歴史過程の基盤を自然 の中に置いていることにあると捉え,これと対決する形で自由をめざす人聞の 弁証法的論理を開示しようとした。これにかんして人間の自由を拘束するモノ の稀少性の問題,そしてこれによって人間同士が互いに他をモノとしてあるい は他者として扱わざるをえなくなるという疎外の問題などについて鋭い分析が 展開された。  以上に簡単にみてきた西側における三つの新マルクス主義の思潮は哲学の分 野に属する思潮であり,通常新マルクス主義というばあいはこれらが念頭に置 かれていることが多い。だが,西側における新マルクス主義はこれらに限られ るのではない。社会科学一とりわけ経済学や社会学  の分野においても新マル クス主義という用語法が使用されている。われわれの知りえたかぎりではステ インチカム(AStinchcombe)の用語法がこれにあたる。  (5)ステインチカムはその著r経済社会学』(Ecoノ・OMic Soc・ology, N. Y. and London,1983)の第1章の標題を「新マルクス主義の経済社会学」と名づけ,そ の中で属名の論者の学説を要約しそれぞれについて簡単なコメントを付してい コの る。そこに挙げられている四人の論者の名前とその著書ぱ以下のごとくである。 ウォーラーステイン(1.Wallerstein):『近代世界システム』(丁舵Moゴ6㍑VVorld System, V・1.1,1974, V・1. E,!980),ペイジ(J. Paige):r農業革命』(Agrarian Rewolution,1975),スコポール(T, Skocpol):『国家と社会革命』(States and Social Rewolutton,1975),ライト(E.0. Wright):『階級構造と所得の不平等』(αα∬駆 ructure and Inc。me IneqZtality,197g)。ただし,ステインチカムがどのような観点 から以上の論者を新マルクス主義に位置づけたかは明らかではない。したがっ てまた,かれの説明をみるかぎり上記四人の論者の説とマルクスとの関連がい まひとつ明らかになっていない。だがともあれ,ステインチカムの前書に依拠 しつつ上述の四人の学説をごく簡単に紹介すると以下のごとくである。  これらの論者のうちわが国の学界で比較的よく知られているのはウォーラー 20> A, Stinchcombe, L”eonomic Sociology, N, Y. and London 1983, pp. 1−20.

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 84 彦根論叢 第232号       21) ステインである。そのかれは,マルクス,フランスのいわゆるアナール派のプ ロデール(F.Braudel)ならびに新従属理論派のフランク(A。 G. Frank)の影響 を受けているといわれる。ウォーラーステインの主要.な研究テーマは世界シス テム(world system)の史的展開であるが,そのさいかれの立場は,歴史的に実 在したシステムは孤立的自給経済を別として必ず世界システムの形をとってき たという見解をもって特徴づけられる。世界システムは世界帝国と世界経済の 形をとってきた。前老は特定の分業体制をもつとともに政治的に統合されたシ ステムであり,後者は政治的統合の欠如した分業システムである。近代以前の 世界システムは世界帝国の形をとる傾きが強かったが,一方近代のそれは世界 経済の形をとっている。この独特の世界経済はヨーPッパ世界経済と呼ばれて いる。  ウォーラーステインにおける世界経済は中心(center),半辺境(semi−periphery) ならびに辺境(periphery)から成る。これらの地域のあいだには分業体系を通 して支配一従属関係が形成される。すなわち,強力な国家機構を有する中心地 域は半辺境および辺境諸地域から交換を通して一つまり後老諸地域の輸出入を支 配することによって一その経済的余剰を収奪するのである。このようにウォー ラーステインの諸著作では中心と半辺境・辺境とのあいだの支配従属関係が歴 史的に心底に描写されている。この方面でのかれの貢献は,南の発展途上国に かかわる諸問題はむろんのこと,同時に北の先進国の諸問題をも扱いうる理論 的枠組を提供したことにあるといえるだろう。        22)  さてステインチカムによると,ペイジはマルクス主義的手法をもって発展途 上国,とりわけペルーやベトナムにおける農業経済の態様と社会革命との関連 を解明している。つまり,ペイジは地主一小作・農業労働者という支配従属関 係を縦軸にし,支配者および被支配者階級の所得が土地・労働・資本のいずれ 21) ウォーラーステインの学説については,ステインチカムの書物のほか,次の文献を  参照した。1. Wallerstein, The Modern World System, Vol.1,1974, Vol.皿,!980,  川北稔訳『近代世界システム』1,∬,岩波書店 1981年。 22) Stinchcombe, Economic Sociology, op. cit., pp. 6−12.

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       新マルクス主義の最適経済体制論①  85 に依存するかを横軸にして社会革命の勃発の可能性を実証的に分析している。 また,スコポールは社会革命の勃発の条件のひとつを農村の社会経済構造と一 国の政治体制との関連のうちに見,この視点をもって1789年のフランス革命の        23) 分析を試みている。さらに,ライトはマルクスの資本家一労働者という階級二 分法でもってしては現代の社会階級は的確に把握しえないという認識に立っ て,所得分配関係を軸にし,ことに資本財企業における経営者の問題を扱って  24) いる。  さて以上にみてきた新マルクス主義はいずれも西側における思潮であるが, 新マルクス主義という言葉は東の社会主義諸国における新しいマルクス主義の 流れを示すためにも使われている。たとえぽ,東欧研究家として知られるフ ランスのフェイト(F.Fejt6)はその著『スターリン以後の東欧』(H㍑o加des de’mocraties popalaires, Aprさs Staline,1953−!975)の中で,ハンガリーのブタペス ト学派およびユーゴスラヴィアの『プラクシス』グループを新マルクス主義と       25) いう言葉で一括している。以下,これら二つの潮流について簡単にみておくこ とにしたい。        ヨの  ㈲ ブタペスト学派と『プラクシス』グループ ハンガリーのブタペスト学 派(Budapest SchooDとは,第2次大戦後にソ連から帰国したルカーーチの思想に 同調して形成されたマルクス主義者のグループをさす。この学派の主なメγ バーは,哲学者ヘラー(A.Heller),マールクシュ(G.M独us),ヴァイダ(M. Vajda),文芸評論家フェヘール(F. Feh6r)ならびにかつて首相を勤めたことも ある社会学者ヘゲデューシュ(A.HegedU’s)である。  ブタペスト学派の問題意識は,一口でいうと体制化・保守化・教条化したス ターリン主義に対決して若きマルクスの思想とりわけ『経済学・哲学草稿』に 23) Ibid., pp,12∼14. 24) Ibid., pp.18−19. 25) F.Fejt6, Histoire des d6mocrαties populaires, Apr2s Stαline,1953−1975, Paris   1975,熊田亨訳『スターーリン以後の東欧』岩波書店 1978年,382ペーージ。 26)以下の論述は,岡崎『現代マルクス=レーニン主義事典』1757一ユ761ページおよび  1774−1776ページに多くを負っている,

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 86    彦根論叢  第232号 依拠しつつマルクス主義ヒューマニズムの再生を図り,このことを通して社会 主義の活性化をめざすということにある。また,現存社会主義体制における官 僚制支配の批判を通して社会主義の人間化を追究することもこの学派に共通の 澗題意識となっている。これらからして,ヘゲデューシュが明言しているよう 27) に,この学派は批判的マルクス主義とも呼ばれる。  ブタペスト学派の出発点はルカーチの『歴史と階級意識』にある。つまり, スターリン主義の客観主義的・自然主義的歴史解釈に対決して歴史における人 間の自由および創造力を強調することにこの学派の一大特色がある。また,ヘ ゲデューシュが典型的にそうであるように,現代の東西両社会における人間疎 外の根因を官僚制支配のうちに見出し,その克服の道を新しい社会主義に求 めることもブタペスト学派の主要な仕事となっている。,ヘゲデ.ユーシュによれ  う ば,社会主i義の現段階で労働者の利益に反する現存の官僚機構を打破するには 社会統制がもっとも有効である。この社会的統制は,国会および地方評議会の 権限の拡大・強化,企業やその他の経済組織における労働者監督委員会の創設 を内容としている。要するにこれは,政治および経済の各級レベルでの民主化 の提案である。  さて一方,ユーゴスラヴィアの『プラクシス』グループとは,この国のザグ レブ大学の哲学者や社会学者を中心に!964年に創刊された哲学雑誌rプラクシ ス』(Praxis)に結集した一群のマルクス主義者をさしている。このグループの 代表的論者としては,ボシュニャク(B.Bognjak),グルリチ(D. Grli6),コーラ チ(V.Kora6〕,マルコヴ/チ(M. Markovi6)ならびにヴラニツキ(P. Vranick1) らが挙げら;れる。  『プラクシス』グループの哲学思想は,根本において先のブタペスト学派の それと一致するといってよい。すなわち,このグループにおいても教条化・硬 直化したスターリン主義を拒否し,マルクスに立ち帰ってその本来の思想を蘇       ダノ 27)A.Hegedus, Sxocialismus tis Bdr’rokrticia, London 1976,平泉公雄訳『社会主義と  官僚制』大月書店 1980年,251ページ。 28)ヘゲデ4一シュ『社会主義と官僚制』62ページ以下を参照。

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       新マルクス主義の最適経済体制論(1) 87 生せしめることが試みられた。かくて,マルクス思想の根底をなすのは人間で あるとの認識に立っていわば人間学的マルクス主義の体系化が展開された。 rプラクシス』グループによると,人間の本質は実践的存在にある。世界を変 革したり人びとの諸欲求を充足せしめたりする主体的かつ創造的な存在が人間 をして人間たらしめるものなのである。  『プラクシス』グループは以上の人間観をもって現代社会における病理現象 なかでも人間疎外の解剖とその克服の道を追究した。このグループの考えで は,疎外現象は現存社会主義においても存在する。その根因となっているのは 官僚制支配であるとされる。この見方はブタペスト学派と同じである。こうし て『プラクシス』グループは,人間疎外の克服の道として労1動者自主管理を選 択する。だが,周知のようにユーゴスラヴィアでは現実に労働者自主管理の制 度化が展開されてきた。 『プラクシス』グループは,こうした制度化を原則的 に支持することはいうまでもないが,しかし他方で現実の労働者自主管理制度 の欠陥や不徹底さを指摘したり批判したりすることも忘れなかった。このため このグループに対する政府当局の反擾が強まり,1975年にはrプラクシス』誌 は廃刊に追い込まれ,これに伴なってグループの活動は停止を余儀なくされて しまったのである。  (7)移住プラハ学派 新マルクス主義の第7番目の思潮はわれわれのいう移 住プラハ学派であるが,これを新マルクス主義と規定するにさいしてわれわれ はスイスの社会哲学者ウッツ(A.Utz)の定式化をそのまま踏襲した。ウッツ は,1975年に公刊されたr新自由主義と新マルクス主義のあいだ一斗3の道の 哲学』(Zwischen Neoliberalismus und 2>bomarxismus・Die PhitOSOPhie des Dritten Weges)という経済哲学のモノグラフの中でオタ・シクの第3の道の構想の根底 にある哲学的立場を明らかにし,これを新マルクス主義の系譜に位置づけたの    の である。ウッツはもっぱらシクの議論だけを問題にしているが,しかし前述の とおりコスタやセルツキーの立場もシクと同様であってみれば,両名ともウッ 2g) A.Utz, Zwischen Neoliberalismers und Neomarxismtes: Die Philosophie des Dritten  Weges, K61n !975, Vgl. Kap. W,

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 88 彦根論叢 第232号 ツ流の新マルクス主義に当然含まれてくることになる。われわれがシク,コス タおよびセルツキーを移住プラハ学派として一括し,これを新マルクス主義と 規定したゆえんである。  ところで移住プラハ学派の発祥の地は,いうまでもなくチェコスnヴァキア である。したがって,この学派も東側起源の新マルクス主義に位置づけられて しかるべきであろう。また,この学派の問題意識は,他の二つの東の新マルク       1 ス主義つまりブタペスト学派と『プラクシス』グループと重なり合う部分が多 いといえる。その詳細についてはのちに譲らざるをえないが,たとえば現存社 会主義における官僚制支配に対する批判の論理や社会主義の再生を意図した体 制変革の提唱などは三者に共通する特微となっている。もとより,移住プラハ 学派と他の二つの思潮とのあいだにはいくつかの相違点があることはいうまで もない。そのひとつは,ブタペスト学派ならびに『プラクシス』グループのメ ンバーが主として哲学者であるのに対し,移住プラハ学派は経済学者をもって 構成されていることにある。このことから,前者の理想とする社会主義像が抽 象的かつ観念的であるのに対し,後者のそれがより具体的かつ現実的であると いう違いが出てきている。その細目についてはのちに譲ることとするが,とも あれ移住プラハ学派の第3の道の構想は少なくとも他の二つの構想よりも実現 可能性が高いものであるといえよう。 III新マルクス主義の発展の背景  新マルクス主義の源流は,前述のとおり1920年忌に求められる。アソダース        30) ンの解釈によれば,西欧の20年代は革命的労働運動の退潮と敗北をもって特徴 づけられるが,新マルクス主義はこのような歴史的流れの中で成立した。そし て,この思潮は反動勢力の攻勢とともにますます実践活動からの後退を余儀な くされたものの,理論面ではかえって独特の体系化が成しとげられたのであ る。  新マルクス主義が飛躍的に伸長するのは第2次大戦以後のことである。とり 30) アγダースソ『西欧マルクス主義』58ページ以下9

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       新マルクス主義の最:適経済体制論(1) 89 わげ西側諸国でそれがその勢力を急速に拡大するようになるのは1960年代であ る。60年代がマルクス・ルネサンスと呼ばれるゆえんである。ダニエル・ベル    3i) によればその背景としては三つのものが考えられる。うち二つは現実的背景で あり,残りのひとつは学問的背景である。  (1)現実的背景のひとつは,いわゆる第三世界の拾頭である。戦後の世界勢 力地図の激変に伴ない,西欧の植民地ならびに半植民地は相ついで独立した。 この傾向はことに55年のバンドン会議を機に加速化し,南の地域に新生の国家 群が噴出した。しかし,これらの国ぐにの国情は一様ではなく,容共国,反共 国および中立国に分かれているのが実情であるが,新マルクス主義との関連で 重要なのは世界政治に少なからぬ影響力を保持するようになった容共国家群の 形成である。この国家群に属するのは,キューバ,ベトナム,モザンビーク,ア ンゴラ,南イエメン,アフガニスタン,リビア,アルジェリアな:どである。こ れらの国では例外なしに少数のエリートによって革命が企てられたが,そのさ いエリートたちはマルクス主義を反帝国主義のレトリックとして,また大衆動        お ラ 員のテクニックとして利用した。つまり,かれらは後進国革命を合理化するた めにマルクス思想をそれぞれの国情に即した形に修正したのである。このよう な南のマルクス主義も新マルクス主義として位置づけることができるかもしれ ない。たとえば,キューバ革命を精神的に指導したゲバラ主義は,人間が発展 の根本的な要因であるとの認識に立って革命における前衛の革命意識および連        ヨヨラ 帯意識の動員を強調しているが,たしかにこのような見解は根本において東と 西の新マルクス主義と一回相通ずるものがある。だが,南のマルクス主義は一 様ではなく,加えてマルクス主義を標榜しているにもかかわらず実体のほどは マルクス思想から遠くかけ離れているものも少なくない。われわれが南のマル クス主義を新マルクス主義に含めることを留保したゆえんである。だが,南の 31)ベル『社会科学の現在』192−94ページ。 32) ベル『社会科学の現在』193ペーージ。 33) これについては次の文献参照。∫.Kosta, Soxialistische Planwirtscni aft,7「伽卿  zt71d Praxis, Opladen !974, S.106−111.

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 90 彦根論叢第232号 マルクス主義の拾頭と普及は,とりわけ西側におけるマルクス主義の復権や活 性化に間接的ながらも大きな役割を演じたことは疑いのないところであろう。  (2)現実的背景の第2は,西側先進工業諸国における60年代の若き世代によ る反体制運動である。資本主i義に内在する物質主義や消費主義が攻撃される一 方,社会的差別(人種差別や女性差別)が糾弾され,生態系および環境の破壊が 告発された。これらの抗議運動が最高潮に達したのは,68年のパリの5月革命 であった。このような運動の中で若き過激派が拠り所としたのは新マルクス主 義の諸思潮であったが,このことによってこれらの思潮とりわけフランクフル ト学派やフランス左翼実存主義の影響力がいっそう強まりかつ波及したのであ る。  ㈲ 新マルクス主義の発展を促した第3の背景は,マルクス原典の出版であ  う る。マルクスの哲学的諸著作が出版され始めるのは,ようやく1930年代に入っ てからのことである。たとえぽ,rドイツ・イデオP継嗣』とr経済学・哲学草 稿』のドイツ語版が出たのは30年代であり,これらの英語版はそれよりもはる かに遅れて出版されている。また,『経済学批判要綱』のドイツ語版が公刊さ れたのは1950年代に入ってからのことである。こうしてアソダースンが指摘し       ているように,西欧において初期マルクスの哲学的著作の影響が頂点に達し, これらの著作から導き出されるさまざまのテーマがもっとも広範に普及するよ うになるのは50年代後半のことである。このような事態の推移が新マルクス主 義の発展に一役買ったことはいうまでもない。  (4)新マルクス主義の拾頭・発展を推進した原因は上述の三つに尽きている わけではない。東の新マルクス主義の発展を直接促したのは上述の三つの原因 ではなく,むしろ東方圏諸国の現実動向であった。それは,一口でいうと,ソ 連からの遠心運動の発生とその加速化である。この遠心運動は1948年のユーゴ スラヴィアのソ連圏からの離脱を先駆として50年代半ばごろから加速化する。 その直接の契機となったのは,56年2月に開催されたソ連共産党第20回党大会 34) アソダースソも同様のことを指摘している。『西欧マルクス主義』94ページ。 35) アンダースン『西欧マルクス主義』94ページ。

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      新マルクス主義の最適経済体制論(1> 91 におけるスターリン批判である。この政治的大事件は,東欧諸国に計り知れな いほどの衝撃を与えた。かくていわぽモスクワの雪解のムードの高まる中で, 脱ドグマ化の風潮が高まり,少なくとも経済にかんするかぎりいわゆる科学的 な論議が許容されうるような素地が形成されることとなったのである。このよ うな政治的・知的な環境の形成が,東の新マルクス主i義の発展の現実的背景と なったことは確かである。また,このような東側の動きが西の新マルクス主義 の発展に少なからぬ影響を与えたことも事実である。  だが,こうした自由化の動きは,一部の国におけるパンと自由を要求する急 進的運動(56年6月,10月のポーランドの暴動,同年!0月のハンガリー事件)とその挫 折のゆえに一時阻止され,再硬化の波が東方圏諸国をおおうこととなった。し かし,60年代に入る前後から事態は新たな展開をみせ始めた。つまり,ソ連・ 東欧諸国は一様に全般的な経済不振に見舞われ始めたのである。それは経済成 長率の鈍化の形で現われたが,ソ連圏内の工業先進国(東ドィッ,チェコスpヴァ キァ.ソ連)ほど事態は深刻であった。たとえば,1963年の国民所得成長率は, 東ドイツ2.9%,チェコスロヴァキア,マイナス2.2%,ソ連4。1%であった。 こうして各国とも経済制度の改革を通して事態の打開を図らざるをえなくなっ た。かくて63年の東ドイツを皮切りに,65年以降ソ連をはじめ残りの東欧諸国 も一斉に経済改革に乗り出していった。経済改革のパターンは国ごとに異なる が,大別すると部分的改革をめざす体制保持的改革と全面的かつ根本的改革を めざす体制改変的改革に分類することができる。ソ連,ポーランド,東ドイツ などは前者の道を,チェコスロヴァキア(1968年の1年間)およびハンガリーは 後者の道をたどったことは周知のごとくである。このような経済改革の高まり の中で,東の新マルクス主義がその勢力を伸長せしめたことはいうまでもない。 ことに移住プラハ学派は,チェコの経済改革の準備段階からイニシアチブをと り,一時期この国の政治を左右するほどの実力を示したのである。

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