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保育者・教師養成における人権教育

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19-27

発行年

2010-03-30

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保育者・教師養成における人権教育

Human Rights Education in the Teacher Training Curriculum

のぞみ

Abstract

This essay is a consideration of human rights education in the teacher training curriculum at the college and university. After World War II, the idea of human rights came to be acknowledged in international society, and the role of education became important for the understanding and esteem of human rights. However, in academic higher education, human rights education does not yet have scholarly status, and not much interdisciplinary research has been done on the subject.

When the history and the current state of such human rights education are analyzed, human rights education is found to be facing some peculiar obstacles, such as feelings of noncommitment and fear, and the problem of learners’ empowerment.

It is necessary to think about spirituality in education in order to overcome the peculiar difficulties relating to human rights education. These suggestions from spiritual education give hints for methods of human rights education in the teacher training curriculum at Christian universities and offer encouraging prospects for the future.

キーワード:人権教育、エンパワメント、スピリチュアリティ

1 .はじめに:戦後の人権教育

「人権」の思想は、その成立の歴史をたどれば、 古代にまで遡って議論しなければならないが、本稿 では、まず第二次世界大戦後に世界的に承認されて いる「人権」について、教育の観点から考察する。 人権は、あらゆる人間が人間である限り持っている 自律の自由と権利として自明のことのようでありな がら、現実には保障されているとはいえない状況が 今も世界各地で続いている。 1945年の国連憲章は、「人権と基本的自由の尊重 の奨励と促進」への協力を国際的に求め、人権を守 ることは現代の礎となる精神、また構成原理として 位置づけられた。この実現のために、国連の世界人 権宣言(1948年12月10日)は、「教育」に言及 し、 第26条において「これらの権利と自由の尊重を指導 及び教育によって促進することに努力する」とし て、人権への理解、促進のためには「教育」が重要 な役割を担うことを宣言している。このような流れ の中で、子どもの権利宣言(1959年)、人種差別撤 廃条約(1966年)1)、女子差別撤 廃 条 約(19年 国 連採択)などが生まれていく。 人権を教育・指導する活動は、1993年ウィーンで の世界人権会議においても再確認され(ウィーン宣 言および行動計画)、国家レベルでのフォーマルな 教育ならびに、非政府組織を含む社会機関によるイ ンフォーマルな教育においてもその促進に責任を 持って努力することが求められるようになる。さら に第49回国連総会は1995年∼2004年までを「人権教 育のための国連10年」と定め、1990年代に「人権教 育(human rights education)」の用語と概念は、そ れまでの「人権の教授(teaching of human rights)」 といわれるあり方に代わって国際的に認知され、中 心的な用語として定着してきたのである。 その後は、「人権教育のための国連10年」の終了 を受けて、2004年12月に国連総会は「人権教育のた めの世界計画」を採択、その実施方法等の具体的内 容を定めた「行動計画」(国連人権高等弁務官事務 所及びユネスコにより起草)を2005年7月の国連総 会にて採択し、人権教育推進の努力が続いている。 * Nozomi KOMI 聖和短期大学(子どもと人権、キリスト教保育Ⅱ、保育と研修) 1)「あらゆる形態の人種差別の撤廃に関する国際条約」1966年に国連総会で調印され、69年に発効。日本は95年に加入。 本稿において、これらの国際的な宣言、条約等に関しては、福田弘編訳『人権・平和教育のための資料集―英語・フ ランス語原典テキスト付―』明石書店、2003年を参照している。 − 19 −

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日本においても、戦後の世界的な流れに呼応し、 日本国憲法が掲げる「民主的で文化的な国家を建設 して世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決 意」を実現するために、「根本において教育の力に 待つべきものである」と前文にうたわれた1947年の 教育基本法が土台となって、2006年の法改定に至る 60年の戦後の人権教育は進められてきた。47年教育 基本法の第1条には「教育の目的」として、「人格 の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者と して、真理と正義を愛し、個人の価値をたっとび、 勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身とも に健康な国民の育成」が挙げられ、「個人の価値を たっとぶ」精神に基づいて、教育課程の編成がなさ れてきたのである。 また忘れてはならない日本の戦後人権教育におけ る大きな原動力は、同和教育推進の流れである。戦 後同和教育の目的を明らかに示す1953年全国同和教 育研究協議会結成趣意書は、「人間が人間を差別し ている。基本的人権が不当に蹂躙されている。日本 の封建制は今も尚、固く殻を閉して解放への真の喜 びの日は尚遠しの感が深い。われわれはそのもっと も代表的な姿を同和問題に見る」との問題意識に立 ち、「個人の自由、平等、人格価値の尊厳を基調と する教育」が民主教育であるのだから、それらが奪 われ、無視され、傷つけられる事態があるとすれば、 民主教育は「敢然としてこの事態と取り組み、これ と闘う教育でなければならない。即ち、民主教育は 当然同和教育に高い位置を与える教育であるべきで ある」として、日本のあらゆる教育現場における同 和、民主化の課題と取り組んだのである。 これ以降、同和教育・同和保育が90年代に人権教 育へと変わっていく中で、幼児教育保育施設を含む すべての学校段階における同和教育・同和保育の教 育課程はどのような変化をなしていったのか、また それらの教育は地域性とどのように関連付けられる のかについての詳述は、紙幅の関係でできないが、 ここではごく簡単に近年(「人権教育のための国連 10年」1995年∼2004年を挟んでごく最近に至 る 期 間)の人権教育をめぐる動向を述べておく。 近年の日本では、人権教育とは、「人権尊重の精 神の涵養を目的とする教育活動」(「人権教育及び人 権啓発の推進に関する法律」:平成12年法律第147号 第2条)であり、「そもそも幅広い教育活動と関連 を有するものであるが、生涯学習の視点に立って、 幼児期からの発達段階を踏まえ、地域の実情等に応 じて、学校教育と社会教育とが相互に連携を図りつ つ、実施していく」ものとされている2)。この法律 を受け、文部科学省は、「人権教育・啓発に関する 基本計画」(以下「人権教育基本計画」)を2002年に 閣議決定し、「各都道府県教育委員会等に同計画の 趣旨の周知を図り、人権教育の一層の推進を図って いるところである」としている。 この「人権教育基本計画」では、「基本的人権の 享有を保障する日本国憲法の下で、人権に関する諸 制度の整備や人権に関する諸条約への加入」をな し、様々な施策を講じてきたにもかかわらず、「今 日において、生命・身体の安全にかかわる事象や、 社会的身分、門地、人種、民族、信条、性別、障害 等による不当な差別その他の人権侵害がなお存在し ている」との現状認識がなされている。その上さら に、「我が国社会の国際化、情報化、高齢化等の進 展に伴って、人権に関する新たな課題も生じてきて いる」として、現代社会に生まれている新しい差別 や人権蹂躙の形があることが指摘される。 ここからは、人権教育の浸透により、社会に人権 意識が相当に認知されている半面、問題は深刻化、 潜在化していることがうかがえる。社会のグローバ ル化により、人権問題は世界規模に拡大し、情報化 社会は、秘匿のモバイル・インターネットによって メディアの性格を一変することで、新たな人権問題 を起こすに至っている。効率や能力、早さが求めら れる資本主義の競争社会は、高齢者を厭い、「老廃 物」とする厳しい現実を当然の帰結として生み出 し、エイジイズム(高齢者層差別)には歯止めがか けられない現状がある。 そこでいよいよ、新たな時代の「人権尊重の精神 の涵養を図ること」が不可欠であり、そのために行 われる人権教育・啓発の重要性と推進への努力が、 「人権教育基本計画」に表明されているのである3) このような国内外の流れの中で、日本独自の人権 教育、同和教育の推進とその調査研究に関わる出版 が進められるとともに、世界の人権教育の理論に関 する著作ならびに様々な教材、実践プログラム集等 の翻訳出版物の刊行も多く見られるようになってい 2)法務省、文部科学省編『平成19年版 人権教育・啓発白書』2007年、132頁。 3)『平成19年版 人権教育・啓発白書』、133頁。 聖 和 論 集 第37号 2009 − 20 −

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る。1999年に出版された『世界の人権教育―理論と 実践』4)の原題は、Human Rights Education For The

Twenty-First Centuryであり、21世紀を「人権教育 の世紀」として位置づけようとするものであろう。 この序文のなかで、シュラミス・ケーニッヒは、人 権教育を「子どもたちの未来と人間全体の運命に希 望を与える」ものとして、「闘いと日常生活の中で 人権を学んでいる女性・男性・子どもが人間の尊厳 と自由を守り、保持することが出来るように促す」 教育プログラムの開発の必要を説き、「人権教育は まさに地球規模の変革のプロセスに不可欠であり、 世界のあらゆる社会の教育文化活動に含まれなけれ ばないものである」としている5) しかしながら同書には、「人権教育は、人々に自 分たちの権利について教えることを含んでいるが、 難しい仕事である」6)との率直な表現もあり、この 言葉が端的に語るように、それはすべての個々人に 関わることでありながら、極めて困難な課題である こともまた事実である。人権を侵害する状況は絶え ないし、新たな人権問題は形を変え深刻化して発生 し続けている。それらを防ぎ、人権侵害のない社会 を創造するための教育と研究が、追いつかない現状 がある。 その中で本稿においては、あらゆる社会的教育活 動の分野でもとめられる人権教育のうち、筆者の現 場である、大学等の高等教育機関における人権教 育、それも特に教員養成、保育者養成における人権 教育の意義ならびに教育内容と方法の検討を行いた い。教員養成や保育者養成における人権の教育の具 体的な実践状況と、その教育課程が抱える特徴的な 障害を検討、整理することで、今後の人権教育の方 向性が展望できればと考える。 また、今後の研究の展開として、特に女子学生の みで保育者の養成を行っている短期大学保育科で の、人権教育の在り方を問い、充実させていくため に、「子ども」や「女性たち」の虐待や人権蹂躙と、 その権利の回復や保障のための闘いとの関連付け や、保育者自身の成熟を目指した成人教育や研修、 継続学習の課題との関連付けをどうもっていくのか を視野にいれたい。そして、最終的にはキリスト教 を建学の精神として掲げる大学であることの意味、 つまり人権教育における宗教性、キリスト教教育な いしはスピリチュアリティの基礎付けの影響や可能 性を考察していくための序章となればと思う。

2 .教員養成・保育者養成課程における

人権教育

先述の『世界の人権教育』は、理論篇と実践篇に 二分されているが、その実践篇(Ⅱ部∼Ⅴ部)の冒 頭の第Ⅱ部全体を「教員養成、カレッジ、および成 人教育へのアプローチ」と題している。ここには 「教師教育」「大学における人権教育」「成人教育」な どをキーワードとした論考7)が収められており、人 権教育の実践において、大学教育でどのように教育 課程を策定するのか、また教育に直接関わる教師教 育において、真に批判的で自律し、成熟した成人指 導者を養成することが、人権教育の大きな課題、ま た関心事であることが伺われる。 しかし、これらの章が取り上げているアメリカに おける人権教育の状況は、大学等の高等教育機関に ついてみるならば必ずしも組織的、制度的に整備さ れているとは言えないようである。リタ・マラン は、国連憲章から半世紀を過ぎた人権教育の発達の 歴史は、こと大学教育とアカデミックな研究におい ては、不適切な矛盾の中におかれたままであると指 摘する。 マランは代表的なパラドックスを三点挙げ、それ らを克服されるべきものとしている8)。三点を要約 すると以下となる。①「人権は問題とすべき課題」 だとする大学教師は多いが、その多くがこれを学究 の対象として学問体系の中に位置づけられるものと は思っていない。②教育と実践は分離した活動で あって、人権運動家であることとその活動は、大学 での教授ならびに教授職と別の事柄と考えられ、実 4)ジョージ・J・アンドレオポーロス、リチャード・ピエール・クロード編著『世界の人権教育―理論と実践』(Human Rights Education For The Twenty-First Century)黒沢惟昭監訳、明石書店、1999年。なおこの本は、「人権教育のため の国連10年」を実現する主要な原動力となった NGO「民衆による人権教育の10年」組織委員会の支援を受けて刊行 されている。 5)『世界の人権教育』5頁。 6)『世界の人権教育』11頁。 7)ナンシー・フラワーズ、デイヴィッド・A・シャイマン「教師教育と人権のビジョン」(第10章)、リタ・マラン「大 学における人権教育―パラドックスと展望」(第12章)、マシュー・カウィー「成人教育のための批判的教育学に向け て」(第15章)。 8)リタ・マラン「大学における人権教育―パラドックスと展望」『世界の人権教育』248―250頁。 保育者・教師養成における人権教育 − 21 −

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際に分離している。③人権教育は実際には「学際的 なトピック」であるにもかかわらず、国際法に関す るコースに位置づけられ、法律に基づく科目として 教えられ、法学研究科(school of law)に限定して 考えられている。 このような傾向にあるアメリカの大学の中で、教 師教育に関する論考では、「教師に人権教育者とし ての態度を準備させ」ることや「あらゆる学校段階 の教師に対する予備教育および現職教育に人権教育 モーメント のテーマを採り入れ」、「教室に『人権の契機』を創 出する」ことによって「人権に敏感な教師を生む教 育」が提言されている9)。この章では、人権が教職 教育の根本的な構成原理となることの意義と必要性 が明確に語られ、取り扱うべき分野などの例示も共 に記されている。 これらの提言は、なぜ人権教育が教職教育にとっ て重要なのかを闡明にしている点で評価されるが、 実際のカリキュラムの上では、「『人権教育はどこで うまく収まるのか?』という永遠の問い」10)がある とされ、教職教育課程の現実において、人権教育が 科目として反映されていないことは明らかである。 つまり、アメリカにおいては、教育学部や教職教育 課程が人権教育の学究・教育の本拠地として考えら れていないのである。 一方日本では、本学を含め短大・大学等での保育 者養成、教員養成の教育課程に、免許・資格取得に 関連して「同和問題特殊講義」や「人権・同和教 育」、「子どもと人権」等の科目名の授業が設定され ている。これは、家柄や学歴、職業、国籍、地域、 性別、年齢、「しょうがい」の有無などで人をみる 人間観や様々な差別意識からくる人権問題を知るこ と、また、それらを自己の課題として捉えて豊かな 人権感覚を培うことが、保育者・教師となることに とって極めて重要であり、当然養成課程に必須のこ とと理解されているためだと言える。 これはまた、あらゆる学校段階で教育課程に、ま た幼児教育、保育、学校教育プログラムに「人権・ 同和教育/保育」が取り入れられてきた地域性に基 づくニーズと高い教育文化、意識に根ざしたもので あるが、平成19年版人権教育・啓発白書が、以下の ように述べている精神を踏襲するものということが できる。 学校における教育指導の充実に当たっては, 学校教育の担い手である教職員が,人権尊重の 理念について十分な認識を持ち,子どもへの愛 情や教育への使命感,教科等の実践的な指導力 を身に付けるなど,教職員の資質能力の向上を 図ることが重要である。文部科学省では,これ まで,初任者研修の制度化(昭和63年),大学 における教員養成カリキュラムの改善等(平成 10年),大 学 院 修 学 休 業 制 度 の 創 設(平 成12 年),10年経験者研修の制度化(平成14年)な どを行い,対応を進めてきたところである11) 現在、大学等の保育者・教員養成課程で行なわれ ている「人権教育」等の科目の変遷と実際を、先駆 的、先進的モデル・先行研究としてみるとき、保育 者・教師への専門準備教育としての人権教育は確か に課程に位置づけられている。「人権に敏感な教師 を生む教育」が目指され、教師、保育者となるため にそれは学修上の必修となっている。 しかし、この学修の習熟という点については、現 在も多くの課題があるのではないだろうか。動機付 けの点でも、評価の基準の観点からもこの学修には 多くの困難が見受けられる。またそれは、どこかで 常に教授者、学習者双方から「忌避」されがちな雰 囲気をもっている場合が多い。 次節以下では、その原因や、克服のための努力、 展望すべき方向性を考察していく。このことが、保 育者・教員養成課程における人権教育が真に浸透し ていく可能性や、「制度上」の必修を通して、教室 が学ぶ者の「人権の契機」の場となるための、手掛 かりとなればと思う。

3 .「人権教育」が抱える特有の困難

人権教育関連の教科は、教員・保育士養成課程を 持つ各大学によって、科目名称をはじめ、カリキュ ラム編成や内容、用語を変えながらなされてきた。 科目名では、部落差別を主に扱った「同和教育」「同 和保育」から、幅広い「人権教育・平和教育」へ、 また「子どもと人権」等へと向かう流れの中で、特 9)「教師教育と人権のヴィジョン」『世界の人権教育』209頁。 10)『世界の人権教育』218頁。 11)『平成19年版 人権教育・啓発白書』、3―4頁。 聖 和 論 集 第37号 2009 − 22 −

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に、多 様 性 ト レ ー ニ ン グ や 共 生 を 目 指 す ワ ー ク ショップ、開発教育などの要素を取り入れ、被抑圧 者たちが自身のセルフエスティームを高め、エンパ ワメントされることにつながる教育という概念が近 年大きく取り上げられている12) これは、人権教育が、単に人権の歴史や人権尊重 を規定する国際法、人権侵害の現状などを知識とし て獲得することにとどまらず、学習者自身の人権意 識が磨かれ、他者、特に子どもの人権の擁護者とな ることと同時に、自分自身の尊厳と尊重、抑圧や差 別からの解放につながることを目指してなされてい ることを示している。人権教育が、自分とは関わり のない人々の権利の主張や、誰かの権利回復運動と して、学習者の外に置かれる限り、その実施は実質 的な意味をなさないこと、つまり人権教育とは学習 者の主体的参加と変化なしには成立しないものであ るとの認識と反省からくる方向性であろう。 しかしながら、このような人権教育は、大学の授 業としては、外部の人権運動家などを客員、非常勤 講師として特別講義に招くことでなされる場合や、 学内者であっても人権に熱心な一部教師に担われて いることが多い。前節にあげたリタ・マランの指摘 のように、それは「運動」であって、「教育」や「学 究・研究」ではないとする考え方があり、学際的、 体系的な研究として、実施大学の教育課程に深く根 ざしたものとなり得ていない場合が見られるのであ る。また、このような教える側、プログラムを提供 する大学側の諸問題とともに、学習者たちにも、で きれば避けたい授業として否定的な風潮が依然強く 見られ、タブー視される傾向が強いことも指摘され ている13) ここですべての、人権教育の障害となるものを取 り出して論ずることは出来ないが、障壁や問題のう ち、その教育内容ともいえる「エンパワメント」に 関わって生ずる問題と、学習者の動機や態度をめぐ る問題の二つの点を特に取り上げて、その原因と なっているものについて分析、考察を加えておく。 1 )「エンパワメント」をめぐる問題 そもそも人権教育の内容を表す用語、概念として の「エンパワメント」は、先の注4にあげた「民衆 による人権教育の10年」組織委員会の人権教育の定 義に使われていることから、日本語でもこのまま使 用 さ れ て き た と 思 わ れ る。「『人 権 教 育(human rights education)』とは、人権が人間関係と社会関 係の基本的原則であることを認識できるよう、あら ゆる人びとをエンパワーする芸術的・活動的・学問 的 な あ ら ゆ る 経 験 を さ す」(The Organizing Committee for the “DHRE1991―2001 Empowerment through Education” 1991)。ここで人権教育は、基 本に人権をすえた関係づくりへとあらゆる人々をエ ンパワーするあらゆる経験であるとされている。つ まり、「教育を通したエンパワメント」ということ が、人権教育の目指すものを一言であらわしたもの と言えるだろう。 ここでのエンパワメントの日本語の説明は人に よって種々であるが、包括的な理解を示すものをあ げてみる。もともと「権限付与」を意味する言葉で、 ここから発展して近年人権教育を語る際に使われ、 「さまざまな権力基盤の点で弱い立場にあり、セル フエスティームをもちにくくされている人びとが、 みずからの立場を自覚し、潜在的な自己の力や個性 に目覚めて自己表現しはじめ、社会のあり方を変革 するべく立ち上がっていく力をのばす過程とそのた めの働きかけをさしている」とするものである14) 戦後40年、人権を尊重するための教育の努力は、 この「エンパメント」という言葉に集約され、人権 教育をもっとも特徴づける言葉となっている。しか し、この「エンパワメントとしての人権教育」とい う特性こそが、諸刃の剣のようにして、教育の営み としての人権教育を困難なものとしているという結 果を招いているのである。 12)日本における人権教育の今については、部落解放・人権研究所編『子どものエンパワメントと教育』解放出版社、2000 年参照。特に「エンパワメント」と「セルフエスティーム」の用語がなぜ使われるのか、また現在人権教育の文脈の 中でどのように展開されているのかは、同書所収の平沢安政「子どもがエンパワーする人権教育研究プロジェクトに ついて」、森田ゆり「子どものエンパワメント」、金香百合「セルフエスティームとエンパワメント―かかわる側のお となのエンパワメントも含めて―」の論考が参考となる。 13)学校における人権教育が直面する課題の分析としては、中野陸夫、池田寛、中尾健次、森実『人権教育をひらく 同 和教育への招待』(以下『同和教育への招待』)解放出版社、2000年、7―51頁を参照。この中で「同和教育が応えきれ なかったのは?」「同和対策事業が変えたもの、変えられなかったもの」などの項目があげられ、同和教育が実際に 行われた時、教室と子どもたちに起こったことが分析されていて、人権教育を考える際の貴重な観察資料、考察と なっている。 14)『同和教育への招待』、111頁。 保育者・教師養成における人権教育 − 23 −

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ガース・マインチェスは、「エンパワメントとし ての人権教育―教育学についての省察」15)と題する 優れた論考の中で、エンパワメントの「意味と性質」 が、教育学的な困難を引き起こすものとなりやすい 点に注目し、その原因となることを二つの点に絞っ て説明する。①「参加者のエンパワメントを目指し た人権教育は、教育学的な目標としては類のないも ので、慣習に従って定義された教育の他の領域にお ける目的とは、明らかに異なるものであるというこ と」そして②「民衆の水準において、人々に力をつ ける(empower)ことを目指した人権教育は、エ リートにとっての脅威とみなされることが多く、特 定の型の政府機関とは敵対する可能性があるという こと」である16) マインチェスは①の点をさらに説明して、「エン パワー教育学(empowering pedagogy)の性質と力 学は、パウロ・フレイレが『銀行型』教育と名付け た種類の教育とはまったく性質の異なるもの」だと 語る。銀行型教育において、絶対的無知とみなされ る生徒は、教育によって自身の批判的意識を奪われ るが、エンパワー教育学においては、文字通り「力 をつけた生徒」たちは、「知識を創造することへの 自分自身の関与や、現実の経験を概念化および再概 念化する批判的能力を意識するようになる」のであ る。 筆者は、マインチェスが注意深く①に述べた「教 育学的な違和感」とでも呼べるものこそ、大学等の 学校、つまりアカデミックであることを一つの権威 として位置づけやすい学校型の教育において、人権 教育を阻む非常に大きな原因だろうと考えている。 これは、単に今までの教育とは違っていて、慣れて いないからと言うレベルのことではない。特に学校 教育が「教育」としてきたものと、それは、根本的 に違う「教育」なのである。この教育の実施を遠ざ けようとする意識は、エンパワー教育学がもたらし てしまうものへの恐れに起因しており、その点で② に通じると言えるだろう。 そこで、マインチェスはエンパワメントとしての 人権教育が、「最終的に成功するかどうか」は、「力 をつけてきた人たちが、旧来の抑圧的な権力関係を 超越することが出来るかどうかにかかっている」17) とし、人権教育による解放やエンパワメントは、も しそれが真に目標を実現するならば、従来の体制そ のものを変革してしまうことになることを暗示す る。このため、伝統的な教育、フォーマルな教育プ ログラムのカリキュラムに、反体制側の論理である エンパワメント教育学=人権教育を「統合する試み の見識を問題視する人さえいる」という。まさに、 人権教育は、②で語られた「エンパワメントの脅威」 となって、体制側に作用するのだろう。 エンパワメントの目標が達成された場合、それは 「支配エリート」には脅威になるという結果を予想 し、これを十分に踏まえ、克服する理論と方法をも つことなしには、人権教育、特に大学等でのフォー マルな教育における教育は展望の道はないことを思 わされる。「知」の力が、分断や支配、権威主義と いった暴力と結びつかない教育理解が、大学教育に おいて共有される必要があるだろう。 2 )学習者にみられる人権学習を「阻むもの」 現在行われている同和教育、人権教育の評価と現 状、研究と報告からは、上述した教師側、体制側に 起こる、エンパワメントをめぐる問題から来る壁と 裏あわせのようにして、いくつかの学習する側がも つ特徴的な「阻むもの」が表れている。 大学での同和教育が、どのように学習者に経験さ れるのかを伝える記述をまず紹介する18)「大学で 同和教育の授業を受けるのは、たいてい教員志望で あり、部落問題をみずから積極的に考えようとして いる学生である」にもかかわらず、「部落問題は過 去の問題である」とか差別意識をもっている高齢者 がいなくなれば「部落差別は自然となくなっていく だろう」といった「現実をあまり知らない」状況が あるという。その背景として、高校までの同和教育 をふりかえっての感想の代表的なものの内容があげ られている。「大切な話だとは思ったが、身近には 感じられなかった」「どうして同じことばかりくり かえすのだろう」「自分たちは、差別されもしなけ れば、差別しもしない」「私たち子どもに教えるよ りも、差別しているおとなに教えるべきだ」という ものである。 これらの教育現場の現実のなかに見受けられるの 15)ガース・マインチェス「エンパワメントとしての人権教育―教育学についての省察」『世界の人権教育』96―115頁。 16)マインチェス、98頁。 17)マインチェス、99頁。 18)以下本段落中の引用はすべて『人権教育をひらく 同和教育への招待』、7頁。 聖 和 論 集 第37号 2009 − 24 −

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は、まず、①「寝た子を起こすな」論に代表される、 「知ること」、「知」に関わる事柄であるといえる。 これは同和、人権教育の学修そのものや、問題や現 状を知ること自体の否定につながっている。そもそ も、「寝た子を起こすな」論とは、「運動団体や学校 やマスメディアなど、公的な機関が部落問題をとり あげずそっとしておけば、みんなが知らなくなり、 部落差別は解消する」というもので、総務庁の意識 調査(1993年)によれば38パーセントもの市民がそ う思っているという19) しかし、どんなに公的な告知を規制し取り締まっ たところで、現実にあるものを隠すことはできな い。実際に、同じ93年の調査では81パーセントの成 人が部落問題の存在を知っているという結果があ る。それら「知っている」人たちからの非公式、私 的な伝聞を100パーセントなくすことはできない以 上、公式な規制、取り締まりは意味をなさないので ある。「知らせない」ことは不可能であり、「知らな い」ことは問題の解決にはならない。ましてや、差 別されている人にとって表面的に「知らない」でい られることは、「知られる」ことへの恐怖を常に抱 えることになり、それは苦痛以外のなにものでもな いことになる。 このようにわかりきったことが、しかし、なぜ語 られ続けるのか。ここには、真実を「知ること」が、 お互いの愛、解放や共生につながらず、かえって差 別構造の保持、力関係の継続など、他者を支配する 力に結びついているという、「知」についての誤っ た認識が横たわっていると思われる。 これ以外の顕著な、学習者に現れる現象として、 ②課題に対して「無関係」であろうとする態度があ るといえる。百歩譲って、知的に同和問題、人権問 題を学習し、頭で理解したとしても、「自分は」「私 たちは」差別の構造には関わっていないし、差別さ れている人たちとは関係がないとする態度である。 この「無関係への指向」とも呼べるものは、①のよ うな誤った理解や議論が生まれるきっかけともなっ ている態度であり、真実に対して、自ら主体的に参 与することを拒み、傍観者として客観的な立場に身 を置こうとするものである。 差別を自分とは無関係なとことろに置き、遠ざけ る態度は、実は非常に深刻な課題である。森実は、 「『避ける』が『攻撃する』に変化するメカニズム」 として、ゴードン・オルポートの「偏見が行動化す る諸段階」の項目を用いながら説明する。つまり、 無関係であるとして避けることは、締め出しや攻 撃、最終的には絶滅へと向かうプロセスの第一歩で あり、それはナチスドイツをはじめとする歴史の事 実として検証されているというのである20)。教育現 場に蔓延する「無関係への指向」を、わたしたちは どう考え、変えていくことができるのだろうか。 勉強したとしても、それは「身近には感じられな い」、教室での遠い主題であり、わたしには関係が ない。これは、現代の教室と教育が、学習者の生活 の場、アイデンティティや生き方、自分が確かにそ こで変わるということ、つまり現実の生―と分離し たものとなっていることを強く印象付ける。また同 時に、今教室で共に学ぶということは、関係性を強 めることへと向かうのではなく、かえって、同時代 に共に生きる人々、隣にいる人々との関係性やつな がりの希薄化、分離と個別化へとその歩みを進めて いることがうかがえる。教育を受けることが、他者 への想像力や共感、愛や連帯とは逆方向へと学習者 を追いやっている。 同和教育を受ける学習者に見られる特徴として、 最後に、③「責められる感情」など、学習への忌避 感を呼び起こすことになる、学習者の感情の問題を あげておきたい。またこの感情の問題は、その教室 の中に共にいる被差別学生の気持ちや感情の問題を も当然含んでいる。森実は、授業の感想のなかに、 差別の実態を知り、自分が「部落でなくてよかった」 という素直な気持ちが、「差別だ」と教員に糾弾さ れた経験などから、「うかつに言えない」「正直な自 分の気持ちを言ったら大変なことになる」と思うに 至るケースが多いことを報告している21) これは、自分の本心や素直な心の動き、学習者が 教育の場で当然出会う気づきや、湧き起こる感情に 対する、教室の、教師の、学校教育の対応がどのよ うなものかを的確に物語っている。本来、それ以降 の学習を助け、変化を促す扉となるところの、真実 を知り出会ったことからくる感情―驚きや嫌悪感 が、教室においてそのように受けとめられていない 19)『同和教育への招待』、7―20頁。 20)『同和教育への招待』21―23頁。 21)『同和教育への招待』23―25頁。 保育者・教師養成における人権教育 − 25 −

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現実がここにある。いわんや差別を受けている学生 の感情や気持ちは無視され、人権教育によって、教 室の中で、深く傷つけられていることも多いだろう ことが想像される。感情の問題を置き去りにするこ とは、かえって問題の忌避、自分との距離感を広げ ること、心を閉ざすことへと向かっており、看過で きない課題である22) このように、人権教育の現状を分析していくと、 目的としてのエンパワメントからも、また、教師、 学習者双方からも、教育を「阻むもの」の存在が認 められる。同和教育、人権教育がなされる場に起こ る共通した問題点は、現代教育の直面する困難やひ ずみを露わにするものだと言える。 もちろん、すでにこれらの学習上の障害を現実と して踏まえ、授業方法の改善に取り組む動きは出て きている。「学習者本人の気づき」や「自分自身と の関わり」「セルフエスティーム」に焦点を当てた 目標設定をする、参加型学習を導入する、「ノート のやりとり」などきめ細やかな対応をとるなど、授 業改革へ努力がなされている。しかし、実際の大学 教育においては、人的にも時間的にも、個々人に対 応する膨大な労力を伴う作業を継続することは難し く、大人数のクラスにおいては物理的に不可能な方 法も多いのが現状である。

4 .おわりに:スピリチュアリティを

視野に入れた人権教育の可能性

先に紹介した「人権教育は、…難しい仕事である」 の表現の通り、無知とされている学習者や差別され ている者、力を奪われている者たちをエンパワーす ることを目的とする人権教育が、アカデミックで専 門性という権力を有する大学という場においてなさ れることは、非常に難しい。しかしもう一方で、大 学における保育者、教師養成について考えるとき、 実際に幼い者や子どもたち、青年たちを育成する立 場にたつ人たちが、その準備教育、専門教育として 人権教育を受け、人権を尊重し、人権擁護の働きを 担う成熟した保育者、教師として現場に出ることの 重要性も計り知れないものがある。 このジレンマの中で、伝統的に、「小さき者」「弱 くされた者」など抑圧された者への視点と共生を掲 げ、建学の精神とするキリスト教主義学校における 人権教育の可能性について考えさせられる。教育の 現場で、ヒューマニズムでは越えられない壁を、ス ピリチュアリティを視野に入れることで開くことは 可能なのだろうか。キリスト教という宗教が人権と 深く関わっていることの理論的根拠については他へ 譲るとして23)、キリスト教の人間理解とスピリチュ アリティを基盤としてなされる人権教育を積極的に 見直すことは、人権教育の展望に示唆を与えるもの ではないかと考える。 そもそも「スピリチュアリティ」は、日本語で言 われる霊性・霊感など神秘的で神がかり的なことと いうより、キリスト教においては神からの働きかけ の「息」である。しかもそれは、一方的な作用では ない。『キリスト教のスピリチュアリティ』におい て、ゴ ー ド ン・マ ー セ ル は、「『ス ピ リ チ ュ ア リ ティ』は、神の継続的な創造行為とともに」、つま り神からわたしたちと世界への、「意味・アイデン ティティ・秩序、そして目的を授ける」働きかけで あるだけでなく、「『霊によって』生きることに関わ るすべてを指す」としている。それは、「イエス・ キリストによる神との関係において営まれる生活の 総体…(そこには身体的性も含まれる)」と換言で きるのである24)。つまり、「息」としてあらわされ る、神からの創造的で絶え間ない働きかけと、それ を受けている者として生きることのすべて―と言い 表わされるものなのである。 教育との関連ならびにスピリチュアルケアとの関 連において、スピリチュアリティを考える際には、 以下の伊藤高章の説明が的確で、スピリチュアリ ティを短いながらよく表現する25)。伊藤によれば、 22)教育の場における「感情」の場所づくりについては、特にパーカー・パーマーの論説から示唆を得ている。P. J. パー マー著『教育のスピリチュアリティ』小見のぞみ、原真和訳、日本キリスト教団出版局、2008年、166―173頁参照。 23)キリスト教という宗教と人権の関係については、日本カトリック大学キリスト教文化研究所連絡協議会編『キリスト 教と人権思想』サンパウロ、2008年が興味深い論集となっている。特に以下の3つの論文は筆者にとって非常に参考 となった。人権尊重と平等主義の矛盾を解説し、キリスト教が人権に対して「教導」の要素を持つという特徴を説く、 遠藤徹「人権―平等―キリスト教」(13―35頁)、「人権の哲学的基礎は自然法である」ことと、キリスト教が「人格」 としての尊厳を有するとすること−はどのように理解できるのかを論じた、稲垣良典「人権・自然法・キリスト教」 (97―112頁)、人権思想の歴史と教会の関わりを述べるとともに、いま、宗教の終焉が叫ばれる中で、「諸宗教のなか に人権思想の基盤となるものはないか」が問われていることを論じる、高柳俊一「人格的存在としての人間の尊厳と 権利―現代カトリック教会における人権思想の展開」(155―174頁)。 24)ゴードン・マーセル監修『キリスト教のスピリチュアリティ』、新教出版社、2006年、5―6頁。 25)伊藤高章「スピリチュアリティと宗教の関係」『スピリチュアルケアを語る』関西学院大学出版、2004年、47―81頁。 聖 和 論 集 第37号 2009 − 26 −

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人は生きる際、「『現実性』、つまり実生活における 他者とか社会とかへのその人の応答パターン」であ る「パーソナリティ」を持つ。と同時に、「各自が 持っている『超越性』への応答のパターン」=スピ リチュアリティをも備えている。そこで「スピリ チュアリティ」は「超越性」、「絶対他者」との関係 性とも言い換えられる26) いずれにしても、スピリチュアリティは、人が、 目に見える現実の世界、社会を生きようとする際 に、目に見えない超越の世界(キリスト教にとって は神)を視野にいれ、その絶対他者との関係の中に 自分のいのちを置くことで、現実の生を生きること を表わしている。人はこの意味でスピリチュアルな 存在であり、人が学び、知り、変化し、生きること を取り扱う教育において、スピリチュアリティは欠 くことのできない領域であり基礎となる概念だとい うことができる。 短大・大学における教師・保育者教育において、 荒廃し、恐れ、真実な学びを「阻むもの」に満ちた 教室で、人権教育という極めて困難な課題と取り組 むためには、スピリチュアリティを支えとした教育 ということが必要不可欠なのではないだろうか。 エンパワメントがもたらす解放を脅威と感じるこ となく、教師を学習者と世界との共生へと導くこ と、無関係への指向と孤立化から共同の学びへと学 習者が開放されること、身体や感情をも含めた全人 的な受容の中に教育空間を創造することなど、人権 教育が取り組むべき課題は、スピリチュアリティが 与えるところの理念と教育方法に密接に関わり、教 師の徳の霊性による育成の裏付けなしには成しえな い側面を持つ27)。人権教育の今後にとって、このよ うなスピリチュアリティの視点を活かした取り組み の模索と研究は、極めて重要であると思われる。そ してそこに、キリスト教主義学校における保育者、 教育者養成の意義もあるのではないだろうか。 参考文献 ・アンドレオポーロ,J、クロード,R. P. 編著 黒沢惟昭 監訳 1999年『世界の人権教育―理論と実践』明石書 店 ・部落解放・人権研究所編 2000年『子どものエンパワ メントと教育』解放出版社 ・法務省、文部科学省編 2007年『平成19年版 人権教 育・啓発白書』 ・福田弘編訳 2003年『人権・平和教育のための資料集 ―英語・フランス語原典テキスト付―』明石書店 ・伊藤高章著 2004年「スピリチュアリティと宗教の関 係」『スピリチュアルケアを語る』関西学院大学出版 ・マーセル,G 監修2006年『キリスト教のスピリチュア リティ』新教出版社 ・中野陸夫、池田寛、中尾健次、森実著 2000年『人権 教育をひらく 同和教育への招待』解放出版社 ・日本カトリック大学キリスト教文化研究所連絡協議会 編 2008年『キリスト教と人権思想』サンパウロ ・パーマー,P. J. 著 小見のぞみ、原真和訳 2008年『教 育のスピリチュアリティ―知ること・愛すること―』日 本キリスト教団出版局 26)伊藤、50頁。 27)パーマー、第7章「教師の霊的形成」204―237頁は、教師のスピリチュアリティの育成が、エンパワメントを起こし 変化を促すような教育がなされる上で土台となることを語っており、今後の「スピリチュアリティを視野に入れた教 育」を研究、展開する上での重要な考察となる。 保育者・教師養成における人権教育 − 27 −

参照

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