• 検索結果がありません。

宗敎に於ける超厭世的傾向

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "宗敎に於ける超厭世的傾向"

Copied!
25
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

宗教に於ける超厭品川的傾向 四

宗教に於ける超厭世的傾向

j

J

<

.

~、 店

て呈2

;

f

f

.

静かに聴診器右胸仁あて\心臓の鼓昔仁聴き入ってゐると長しレ勢で奔つてゐる血液の肢かな昔が 如何にも生物’としての自己の生命活動を剣然ご現貨に戚ぜしめる。然し乙の鼓動の停止ミ同時に忽に して自己が滅亡するのだと想、ふと全く頼りない焦がする。貨に露よ b も 果 か な き は 生 物 の 生 命 で あ 旬、風よ b も頼・りなきは生の管みである。・露や風と嘆き、夢や幻

t

悲しみ、生老病死の四苦等主偶者 が謂ふのも皆悉く生物の生命や生の管みの生滅無常なる相につきていふのである。その作の真偽は兎 に角所謂蓮如の﹁それ人間の浮生なる相!一をつら/\観じた白骨文章の如きはよ︿これを物語つ 1 ゐ る。今到に語 h ,、笑ひ、悲しみ、唄ひ、踊 b 歩レてゐたものが突如ごして倒れ死むで行く相を想ふと ま乙と仁心あるもの、やるせない淋しきゃ悲しみにうたれるのも無理からぬところであり、亦死した が 最 後 、 はや永劫にそいり賞在の姿を現はさね・﹄さの如何にも不思議に戚ぜられるのも営然の想ひであ

(2)

らう。私共の意識に深かい意味をもって生きてゐる他人がまだ現在してゐる p p − 意 識 し て ゐ な が ら も 、 その姿公眼前から掻き消してゆく生別に於て

3

え一五ひ知れぬ淋しい悲しい気持になるのだもの生涯

l

ー永劫にその委の現在に接するニミの能きね死別に於ては無限に淋しい悲しい気持になるに達ひな ぃ。亦自己が何時の日か突如として人間世界の一切のものから切離されて地に沈むのだと想えば樗牛 でなくても誰しも耐えられぬ淋しい悲しい戚傷的な気持にうたれながら人間的生活に無限の愛著をき え戚ぜ守に居られ円たらう。内省的で戚傷的な人にあっては殊に生滅無常なる生物的生命活動者三し ての人聞の死といふ不可避的宿命に劃して底知れぬ淋しい戚情に生の悲峨を唄たはずに居られぬ芦ら ぅ。千年も万年も生告たいといふ人間的欲求も無下に凡俗の迷情な b と下だすわりにはゆかない。何 主なればそこに真剣な人間の欲求が見られるからである。眼前の細事に怯或制されて静かに生命の事を 想ひみて悟った生涯を昧はふ乙とをなし得ないものは不幸である o 聖日蓮が﹁まづ臨終の乙とを習ふ て他事をならムペし﹂と言ふたのは死ねことを想ふことそ h v ふのではなく異に生虫ること生命の乙と を習ふて人生の本道を歩いて行けといふことである。宗敬は本来生命の問題を中心としてゐる。凡てが F O V S 駒 吉 田

n z

に充たされてゐる世界である。私はこの宗敢的生命の問題を中心ごして宗教に於げる超 厭世的傾向仁就いて考へて見ゃうと想ふ。地に沈むでも向自己といふものが存繍するのでゐれば蝉の 宗教に於ける超厭品川的傾向 五

(3)

出 部 数 に 於 け る 超 厭 世 一 的 傾 向 一 六 様に地から復抜付出

τ

も来るにらうりれど紳話や信仰や詩や欲求とすれば別であるが輪廻轄生ごいふ ことも自然科皐的には全然考へられね無根擦な思想である。知何にも自然科皐的知識に於℃考ふれば 生物的生命活動の止︵死︶といふことは何の不思議もない解

b

きった生物的生問的な自然的事賞であっ て生問的心珂皐から考ふれば肉体印生理活動の止︵苑︶と共に脳細胞や紳経系統、戚畳器閥等の生理 的活動に因つ

τ

生ずると考へられる意識活動も時間的にも空間的にも限界を有し或時或所に於て滅亡 するものでみのるから生命の無限とか不滅の霊魂とかといふもの、全︿ないことは動かされね科皐的知 識である。勿論生珂的器聞に困って生ずる意識現象と云っても意識活動そのもの\原因や根本が生理 器開であるといふのでは決してなく、車にそ

μ

は意識活動の生理的器闘を生理皐的に考察する事に由 て生物的生命の時空的有岐性 4 7 設かうとしたまで、ある。生理活動の因果関係は生理活動それ自身の 上に於て考ヘらるべきであり、意識生活の動機因果は意識活動そのものに於て求めらるぺきものであ って意識生活ミ生理活動との聞に因果関係はないのである。心と体とは相互に影響し A 口ふものと一般 に考へられてゐるがその聞に悶果闘係を認め得る立場は生四的心開事といふ一つの自然科事的立場に 於て一一百はれ得るであろう。然しそれは飽迄も自然科串的立場に於ける因果概念なる機械観的自然界の 之とであって開想化的活動左考へらる、精神生活の文化償値的目的論的世界三はみ t くその立場を異に

(4)

するものである。忍共は﹁生物的生命﹂といふ同一語を杢く異った二つの意味仁於て把握し使用し明究 しておることを注意し−なければならない。 一は生物皐や生理曜といム自然科串的意味に於

τ

、他は人 生観や世界観といふ精神生活上の目的論的債値的意味に於て把握し使用し研究し記述説明されてゐ る。前者は生殖費生氏始り生命活動の外現ミしての所謂生活を特み最後に生殖細胞と体細胞との分化 に因る﹁死﹂に終る生物亦は生理態を或は分掠亦は綜合し、或は観察亦は寅験

L

所謂粧験的方法を用 ひ唯その存在自然の相に於て把握し記述説明する場合に用ひられるつ生物的生命﹂は全く存在判断に 基︿非債値的機械的所謂自然科皐的意味に於て用ひられるものである。後者はか、、る立場の意味とは 杢︿異った債値判断に基いて債値的目的論的哲率的意味に於て用ひらる\﹁生物的生命﹂であるから 例へば自然科串的非慣値的生物的生命慨念に基いて樹立された世界観や人世観であってもそれは依然 私共の債値的目的観的哲皐的意味を出でないものである。勿論生物皐や生理事さいふ自然科事的特殊 科用干の立場をごって現はれて来る所謂自然科皐的人生観や世界観が営然それが慎一倒的背皐的立場の巾 に蹄するのみなら守自然的個別科皐の特殊的立場を債値的哲皐的に導いて文化的債値的哲皐の普遍的 立場に奪って代らしめ様とすることは明かに部分を全体と見る偏狭なる考へである。自然科串的知識 としての生命概念ご債値的立場に於て考へられた所謂自然科率的生命概念とは全く匝別きるぺきであ 宗教に於ける越厭情的傾向 七

(5)

宗教に於ける超厭世的傾向 i¥ る。自然科事的知識は唯﹁在ると乙

λ

の も の L の普遍必然的機械的原理法則を接見しそれによって自 然の個々の経験的事質を記述説明するところのもの?として統一的体系的知識に組織構成さ札たもので あるから所謂生物的生命に闘する自然科撃的知識も科事的知識それ自身ごしては全今別な濁立的知識 であるが﹁在るべき三乙ろのもの﹂の世界印慾望ご財︵理想︶との閥係亦は現賓の理想化的世界とい ふ債値的哲皐的立場に於て言はれる場合の﹁生物的生命﹂は杢︿偵値的意味に於げるものであるから 哲皐や宗教に於ける生物的生命の常無常等の論議は有償値無償値︵非と無とは明瞭に直別せねばなら ぬ︶といふ債値的意味に於て考へらるべきものである。 何故に生物的生命を債値的に見ねばならぬかと言ふに宗敢や哲皐が債値問題に成立する文化現象な るが故のみならや生物的生命は必ず無限的永遠的普遍的絶封筒値的生命に封して有限的無常的部停的 相針債依的生命として考へられるからみ一く償値的にみられたものである。債値意識は常に要求する世 界と要求せぎる世界、有債伐のものと無償値のものとを封峠的に創造樹立する。そして理想的なるも のに由って反理想的なるものを征服せしめる。単に征服せしむるのみならや終には反理想的なるもの を理想的なるものに由って征服統一せしめ其仁珂想的なるものとして生かすことに於て絶針的情偵を 主 張 す る 。 宗教に於ても然りである。 宗教信者の心の中には二つの世界が創造され相封峠せしめら

(6)

れる。乙の二つの世界は勿論私共

m

倒値意識に困って創造され亦は何等かの方法に由って直観亦は立 識されたものでゐる。そして私共はその理想的償値的なるものに由って異に生かされゐのである。例 へば闘に於

τ

はプラト

1

ン︵

2

a

o

p

お 可

s ・ l ・

2

吋 ・ 回 −

n

︶の威畳世界に封する超戚費的正

g

の世界、キリス トの地上に劃する天閥、悌散の繊土に劃する樺士、裟婆仁掛する寂光土口亦人に於てはキ9ストの罪 人民針する紳 o 古代印度哲皐の我に劃する覚。悌教の衆生に針する備といふ如き相劃僻する債他的な るものが何等かの意味に於てその各々の後者の絶針性を主張することに由って前者を征服統撮するの である。所謂救務。済度。成備。往生。の如きは絶掛的債値者の働きを示すものである o 扱古来哲事や宗教に於ける人生観上の厭世思想は一一般に生物的生命の無常観と生物的生活の反債値 槻に根ぎしてゐるご考へられてゐる。勿論厭世観のなかには自己の将来に劃する失望、過去の言行に 関する蟻悔.現在の境遇、生活の煩鎖不幸等現世生活に封する悲観や嫌悪から来る厭世観もあるであ ろう。亦生物的肉体的生命や生活の無常無償値を厭ふて霊界や精神的超越的賞在界を宰想する古い思 静的形而上準的厭世観もあるであろう、或は早にネグアイ

1

プな離苦といふことのみを重要視し、人 聞は肉体のみならや﹁心﹂ゐるばかかに一切の悲苦を生ん

r

b

戚じた

b

するの‘たからピ声 ロ 1 l ン ︵ 勺 ﹃ 同 長 o p 凶 小 ︵ ︸ | N U ﹃ ︷ Y 回 −

n

・ ︶ の様に判断中止 8 0 n r .巾否寧意識活動の停止をなして

k

g

g

亦は寂静混 宗教に於ける殻朕情的傾向 九

(7)

宗教に於ける超朕世的傾向 四 0 繋 q f 得る柏崎に無意識生活に蹄

b

若くは生物ごしての有機組織そ断滅して無機物に踊るこごを主張すゐ 偶者の所謂友身減智的な厭世観もあるであらう。 叉自然科県単行は厭世観の按生原因等に就℃或は例人の健康航態を生問問中や持皐上から説明し或は生 物的生命の無常や枇曾生活の不幸等に封する悲苦

ω

戚情とか生 b d A L ﹂する意志力 lil 生活力といへば 一般仁外面的な物質的経済的にのみ考へられてゐるけれども人間にとって更仁根本的なものは物質や 財の有無と h t ふことよりも生きゃうとする内面的能動的な意志力が最も根本的な生抗力の重要々素で あるの拭乏といふ心理的事貰ケふ坑例人に於て指摘しそれが厭世思想を捕かせて絡に死仁到らしめ わ九等?乙心開串上から解稗し或は枇曾組織や制度の閥係 1 4 んは環境の影山特を審脊一して枇合事上から論究す るものもあるであろう o 私はん]此に此等の版世制慨に就て組織的に記述説明し殿・笛に乙れそ批判し様子﹄するのでもなく亦厭世 制の費生、動機、原悶等に就て解説しその是非営論究し様とするのでもない。個人によって復雑極ま らな︿時代や民族枇舎によってその意味を異にする多校なる厭世観の経験的事貨を細大漏らさず記述 し批判する乙とは困難なこ三であムリ、亦か、、る煩雑多様なる厭世的事費をあらゆる時

ll

慮 ’

ll

人に 於げる総べての場合や意味そ指摘して組織的科事的に説明することは私共の有限な艇験や知識を以て

(8)

しでは杢︿望まるべきこごではなレ。唯私共はその時その借地その人に於て最大の事貰を科串的に記述

L

説明し及思想的に之を批判する乙止に於て足りるのである。生開皐や心開皐等の科四四千的説明は厭世 翻費生の生理的亦は心理的な朕態や動機原因等に就て客観的に観察し記述し説明し得るのみで全く経 験的事貨に限られてゐるのでゐるから厭世思想それ自身仁就て説明し批判するものではない。きれば 科風下的説明も事貨の状態や動機原因等の客観的解蒋であるから僻験的知識として勿論客観的異訓性を 有し厭世削酬を即解する上に重要なるものであるが厭世思想そのもの、問解説明批剣とい

λ

乙 と は 入 上 く その立抑留そ具仁する偵値皐特に哲皐的立場仁於てのみ可能である。私は今厭世観や厭世的事貫の経験 的提生的動機原因等に就て科事的立場に於て考へ様とするのではな︿思想そのもの否、寧殊に宗教に 於りる厭世観仁就

τ

論則的哲撃的に解剖し批判してそれが到り着︿超厭世的傾向に就て論じてみやう ? 乙 忠 ふ の で あ る 。 既に述ぺた様に厭世削酬の根本には共通な然も重要な要素吉して人間生活の無情殊に生物的生命の無 常といふ観念が流れて此等厭世観の動機原因をなしてゐる様に思はれる。何となれば若し何等か存在 的意味に於て生命活動が永劫でゐると意識されてゐるならば現世的生物的生命の車なる忌避仁よって その生命話動を悲苦の地獄から救ふ’﹄とは他土の世界を謀想しなげれば不可能であるが然しそれでは 宗教に於ける超朕情的側向 四

(9)

凸不敬に於げる組版情的傾向 四 会く生に針して一時的忌挫営企て生への反逆をなしても若し永劫に生乞免れぬものならば結局その白 殺的行局も徒勢に蹄するからである。亦永生ごいふ事が決定的なるものと意識されてゐるならば人 は 事

λ

有限的生物的生命の無常滅亡を敬ふる生物事や地球崩壊の終末伝説く地文串や生理活動の止に 依って意識活動

ω

断滅を数ふる経験心開皐の如き自然科率的知識に基く特殊自然科皐的世界観や人生 磁の下に生の一時的麻庫陶酔含味ぶ潟に自暴自棄的敗頚者的享楽主義に陥るものが多いに違レないの でゐるが私共の経験的事貨ごして生物的生命活動の無常滅亡といふ之とは動かちれぬ確貨な知識でゐ b 亦それ以外の生命活動は経験的知識に於ては全く考へられぬから自然科皐的立場以外の郎存在の世 界以外の世界例へば樹値の世界に於℃可能であるとし℃も生物的生命の無常滅亡観は動かすぺからざ るものでゐゐ、この生物的生命活動の無常滅亡離が厭世行錯を成就させ、これが亦厭世思想の根底を 流れてゐる共通観念であると想はれるのである。生物準地文畢等から考へでも人類の永存といふ乙ぐ﹄ はな︿亦心開皐から考へでも霊魂の不滅とか輸魁特生ごいふことは全く考へられぬ、人間の生命は生 に始ま b 死仁終るのである。自然科皐的知識からすれば全く死後の生活や世界ごいふものは無いので ある。斯る皐設に卦して能︿宗敢信者は自然科皐的知識は寓能にあらや。人智は有限な

b

o

故に死後 の霊魂ゃをの牛.活及世界を見る力なしご力説して白然科皐的知識の否定を鴻す者がゐるとすればその

(10)

人は自己に自然科皐的知識の否定を主張する力もないことを白から主張するといふ自己矛盾の愚を曝 らし自殺的論法に陥入ってゐる乙とを知らねばならぬ。私共は存在に劃する自然科事的知識の巌然た る樹立性と浸すぺからまる権威とを認めねばならぬ。従って自然科皐的知識’としては人類の永存や霊 魂の存荘

A

その不滅性並に天間や西方帯土や地獄とレふ世界が全くないこごを承認せねばなら向。若 しきうでなかったならば人聞は自己の調性に劃する信頼を全く根本的に捨てるごいふ人間自身の自己 否定即自殺に陥る外はない。か、る自然科串的知識に劃して宗教はこれを肯定する乙とも否定する乙 とも能

3

ない。何となれば宗教には自然科皐的知識に封して肯定亦は否定する何等の纏利もないから である。自然科事的知識ごして人類は永存せず紳は貨在せ今、霊魂は存在ちせず従って不滅にもゐら 子実闘や地獄ごいふ世界も宇宙の奈迭を探査しても全く存在するものにあら子ごの主張が確質不動の ものでゐるご論やれば宗教信者は宗教の根本を倒壊されたかに戚じて或は狼狽し或は反駁挑戦して所 有思想史上に見らる、如

3

自然科皐と宗殺との守を想像するであろう。如何にも自然科皐は紳、霊魂、 天岡の貨在のみならず人類の存績といふことを全く否定し、宗殺は之を肯定して然も之に嬢って成立 してゐるのであるから一見全く予盾する重大問題であるかの如︿考へられる。そして結局此場令宗教 信者は斯く主張するであらう。自然科串的知識は人間の有限なる経験的知識に懐つてのみ見る世界な 山 知 数 に 於 け る 超 厭 品 目 的 傾 向 同

(11)

宗教に於ける超厭附的傾向 四 四 るが故仁一柳や霊魂や天闘の如主超戚費的世界を見る力が無い。宗教の世界は知識仁非やして偽知や思 寵といふ如

3

信仰意識に撮ってのみぞれ等の賢在界を見得るのであるから自然科皐者の経験的知誠の 量 h 知る乙ごの能きぬ世界であると。反之自然科皐者は明笑冷罵するであらう。全く無主ものを有乙 J ﹄信じ、見られざるものを見得ると空想し.興奮に困る戚情の麻庫陶酔者、幻七 T ︶迫ふて走る夢遊病者 に過ぎ泊。宗殺は阿片である。人間の文化生活な害する毒であると。私共はか、、る水掛論争が各々全 くぞの知識の限界を越えた無盆の論争なるこ正に注意せねばなら向。勿論相矛盾し℃雨立し難き不統 一的思想はその思惟の本性上宥るされないに達以ない。けれども此自然科皐と宗教の立場は全くその 世界を異にするものである、立場を異にするもの\問に於℃は全く矛盾はみのり得ない。同一線上の相 逆行するこつの汽車は衝突するが異線上の二つの汽車は如何に何方に走つでも全く相闘せぎるところ である。自然科串者は自然の存在に関する非債値的知識の世界であり宗教は文化生活の珂想に闘する 使値的世界である。きれば全くその成立の根擦を別にしてゐる。従って私共はカント︵関自ニロナ民主・ ﹀

b

・︶ご共に紳を存在三して古来の賞体論的に或は宇宙論的に或は物理神皐的目的論的に証明せんと する之との全く不可を主張するのみならず神を存在ごして自然科事的知識に於て見る事を杢︿断念し 唯賞践間性の要請としてのみ成立する債値的なものとして考ムぺきである o と同時に存在ごして暇定

(12)

するのでなく債値的生活を深かき根底に於て生かす苫乙ろの絶封債値的資在ごして体験に於てそれ自 ら現貫すると乙ろのものと考へねばならね。きればか、、る神の貫在に封しては全然自然科皐的知識の 関知せぎるところのものである。自然科皐に於ては経験的で然も白然的存在ごしての紳や霊魂を否定 するに止まるものであるから奈︿乙の立場を異にして成立すると乙ろの開想目的的で然も体験せらる 、、,と乙ろの債値界のそれ等仁封して云云すぺきものでもなく亦それに立入って肯定亦は否定するとレ ふ権利を有しないのである。信仰に於

τ

体験せらる、ところの宗殺の債値的事貨は文化科皐亦は哲皐 に於てのみよく認識され把握主張されるのである。故仁私共の批剣哲皐的立場に於ては一一印自然科皐 的知識の濁立性を保主阻し従ってそれが設

f

ごころの知識内容に封しては絶動に容鳴しないと共に他面 宗教の猫立性を保証してぞれの信仰内容に封しては絶封に容鳴するを得ないものである、唯自然科事 的知識の上に世界翻人世観を立て、形而上皐に濁麗し宗教の信仰内容が亦思排的形而上皐の仮面を葎 ふて相互に相戟ふ時その各の立場を明かにしその各の知識の模利を無親し限界を越えたる場介警鐘を 乱打して各々のその成立根擦を明かにしその限界を規定する、か︿て自然科皐は宗教を犯す乙とも宗 教が自然科串を座することも能きぬことを問解せしめる。きれば自然科皐が否定する神や霊魂の存在 は会︿宗敢が肯定する紳や霊魂の存在とは会︿意味を異にして居るものであるから一見矛盾に見えた 宗教に於ける超厭品目的傾向 四 五

(13)

家殺に於ける超朕情的傾向 四 ノ、 るものも全く雨者相互に相聞知せぎるととろのものである。従って神亦は霊魂といふ同一語ではある が自然科皐が否定するとこ

λ

のものと宗教が肯定するところのものごは金︿本質的にその意味を異に するのであるから自然科皐的知識の主張も宗教の主張ち共に異質なるものであって決して相矛盾する 主ころのものではないと云はねばならぬ。賓際に於て自然科皐者に宗教信者ゐ

b

宗教信者に自然科皐 者があるのも嘗然の事買であるといはねばならぬ。私共は一面自然科準的知識として生物的生命活動 を考へその無常を是認すると共に他面理想的生命活動’としてそれの高下浅深是非善惑を味はひみてそ の偵値的意味から或は否定し亦肯定する乙之が能主る。この意味は先に述ぺ先生物的生命といふ同一 語の異義を照令して考ふれば明瞭するであらう。陵越の如く生物的生命が一時的有限的現象なるこミ は宗教に於ては債値的意味から是を考へ斯る無常観を根抵として厭世観が費生描出される。斯る思想 民基く厭世観は阜に自己ぞ殺すことに由て一切結末を建﹁るからそれ以上想以及ぶ何物もない様に思 はれる o 乍然貨は然らずして、その背後に於て生命の常恒といふことが生命の無常を悲しませ厭世観 を惹起せしめてゐるのである。厭世観に於て意識され

τ

ゐるものは生物的生命の無常であるがその無 常を意識せしめてゐるものはよ b 深かき普遍常恒なる生命の意識である乙とに気付かねばならね。 古来キリ f スト教に於

τ

も備敬に於ても凡そ宗教と名付げらる、ものは皐にか、、る生命の無常断滅を

(14)

説かず必ず彼岸的世界や永劫に働ける絶卦的生命者︵紳︶を信ずる。例へ厭世的傾向を多分に有って わるものでも一面現世的一昨的有限的生命活動を想定してこれを厭離し他国彼岸的永劫的無限的生命 活動を有する絶針者を想定して乙れを渇仰印刷山慕するごいム様に宗教的服世相慨は常民同じく後者を橡想 し根抵ごし珂想標的としつ\常に南面を相閥的に有してゐる。か町、る二元的生命観日於て現世的生活 の厭離︵否定的、消極的︶仁重心を置くものと、彼岸的生活の欣求︵肯定的、積械的︶に重心を有し てゐるものとのこつの傾向があるのを注意せねばならぬ。多く前者を指して厭世観ミ稀ぶ場人口が多い。 それは厭世観互いふ字義が前者に相営してゐるからである。けれども単に現世ヤ厭離するといふのみ では何等宗致的と云ふ性質を持たない。何となれば宗敬は常に現想世界を目的として成立するからで ある。宗敢に於ては単に絶望に因って自己を殺す﹀一考へられる消極的なるものに於てさえ本来の世界 約川町の生活を決然ながら意識してゐるし亦積極的なるもの仁ゐつては寧ろ永劫の生命や彼岸の卒踊な る生活を欣求する憐ムリ生滅無常なる生物的個人的生命を殺す三いふ善導の如

3

往生思想を持つのであ る。他士を欣求するごいふ点から考へろと何等悲観や服世をして居るのではないから厭世観と考へら れぬが然し此土を厭離するといふことが必ずその他面に随伴してゐるから勿論厭世観として積極的な 排現世的なものでゐる。宗教偵値から考ふれば盟・仁現貨の現世的生活を厭離するといふ動機仁因 h リ 彼 山 不 敬 に 於 け る 越 朕 静 一 的 傾 向 四 七

(15)

宗教に於ける超厭品目的傾向 四 ) \

岸的生活を望むといふ消極的なるものよりも到想の彼岸的生活を欣求する飴

b

現世的生活を厭離する といふ積極的信念に基︵厭世観の方がより深かくより高きものである。勿論問想主義的二元的生活湖 に基︿この二つの傾向は相互関係を有ってゐる不可舟のものであるがよく考へてみると此等の厭世観 に於て現世的生の否定をなすのも単に死なうと思ふ動機ぷ因るのでなく生

3

ゃうとする本能亦は立志 に基くものである。元来自ら生

3A

とする熱望の飴 b 生

3

るべき問想を失以現在仁於ける自己の将来 に於りる即想が自己の力の到底及ぶべくもない乙とを悲しみ、現在の自己否勝来の白巳に望みを見出 し 作 A V終には生存の償値否定的思想に基いてそ乙に厭世制酬が生れるのであるから経験心開皐上から考 へると一般に厭世翻は生に封する失望に基︿と考へられるがその貨深かい生そのものへの執着が生に 劃して失望を起きしめ終には自己を殺すに至るのである。郎円己を﹁生か

3

うとするもの﹂が自己を ﹁殺す﹂のである。然し自己を殺して無に蹄す芯想ふてもその賓彼は自己を殺す乙とに由って或世界 仁生きてゐるのである。超個人我は個人我を殺す、紳は人を殺す。人は殺されて異に人は一岬に生きる ことが能

3

る o 生への意志も執着色持たないものに自己を殺さう等といふ深刻な考へが起らう告はな ぃ。か、るものに於ては生死の乙とは意識外のこご故原世ごいふこと自身が既仁無立昧である。厭離 とか欣求とかといふことは元より私共の欲望及卸想に基くものであち此土他土といふことも欲望生活

(16)

に困るるのであるから債値観上に於てのみ言はる、ことである。何ものが自己の瑚想を欲求しその欲 望の満足を得られぬ時初めて失望が起り失望の極自己否定的厭世観を抱き自殺を決行する。自己否定 は自己と環境との闘係に於て生ずるご考ふる之とも能主るが飽迄も欲望と現想の闘係に於けるその 充足如何に困る o 人聞が寓物の霊長たる所以はぞの開想化的生活をなす点にあり自然の理想化といふ 三ころに文化が成立する。 私共の生活は凡て乙の現想に関係する。 経済皐に於℃欲望と財︵被欲望 物︶ミの問に於て債値閥係が生ずるといふのも宗敢皐に於て宗教とは人︵欲望︶ミ榊︵理想者︶との ︵ 偵 値 的 ︶ 闘 係 な

b

とレふのもよくその聞の事情を物語ってゐる、阜に生の無常を悲しむ者ご蹴もそ の生に劃する自己の欲望の渦不渦に基いて起されるのであるから寧ろ生そのものへの執着といふより も一歩立入って考ふればそれは欲望の浦不揃に困る偵値事貨に基くものといふべきである。故に偵値 が異に生命をして生命たらしむるものだといはねばならぬ。宗教に於て・

l

文化生活は凡てきうであ る

il

謂はる、生命概念は凡て慣値的生命でゐるとい−ふことが能きる。現世的ごか彼岸的といふ乙ご は全く積値的仁考へられて直別されたものでゐるから此等雨界に劃する否定も肯定も偵値的立場に於 てなされるのである。ぞ乙で現世的生の否定をなすには何等かそれ自身に否定さるべき融点と理由根 擦と含有しなければなら向。勿論現世的生それ自身では自己を評債し否定する何等の現由雄操も評偵 宗教に於ける魁厭時的傾向 間 九

(17)

宗敬に於ける超朕機的傾向 五 0 の標準も布たぬのであるから否定も肯定、もそれ自身としては全く不可砲の乙主でゐる。然らぱ現世的 生か﹂評憤する償値標準とは如何なるものであらうか。正しく此調値標準は理想的生そのものでなりれ ばならね ω 理想的生に相照会して始めて現質的生の故点そ観じ無償値そ認識し且乙れを評偵するこ芭 が能きる。理想的生といふ債値標準に擦って現世的生、か評債され然し

τ

後初めて現世的生の否定が可 能ごなるのである。即無常的有限的生は永劫的無限的生を珂想とし標準とするから厭離され否定され るのでゐる。単に視世的生の無償値や債値否定を主張する消極的厭世観も必ず此開想的彼岸の世界を 強想することなしに生ずるものではなく亦理想的彼岸の世界を欣求する除り他面現世的生を厭離する 積極的厭世観仁於ては更に明瞭にこれを観取する乙とが能きる。 在共は右の如き潤想主義に基く羽世否定的厭世的宗教仁一見全く逝反する現世肯定的饗天的宗敬を 見るととが能きる。 一般に現貫主義の宗敬と呼ばれ℃ゐる。然し現貫主義といふこの語は極めて誤解 され易い。それは人舶の生命活動の究極の意味は因果法則に因って自然

l

l

寓物を支配し現貨の幸一職 を増進し現質的欲望の満足にあ

b

とする賞誼主義剛

U

S

E

ω

B

E

と 間 違 へ ら れ 日 現 レ 。 唯 在 る ぐ ﹄ こ ろ の ものは現質的事賓のみであると考ふる賞護主義は全く宗教ご相容れねものである。何言なれば宗敢は 何等かの意味に於て常に理想を迫以即一想に嬢って生きるものであってそれは本質的仁理想主義に立脚

(18)

するからである o 車なる現質的自然主義は宗教の本質を無視するものである。亦線ての文化は人聞の 賓際生活に役立つ潟にのみ必要であるといふ賓利主義 ︵剛

u

s

m

B

E

Z

B

︶ と間違えられ易い。賢利主義 は皐問も貨生活の震に宗教も貫生活の鋳にのみ必要な

b

z

いふのであるがそれは明かに皐や宗殺の 紳塾を胃腸するものである。皐の矯の生活宗教の震の生活こそ神聖なるものである。勿論か、る寛利 主義と関連ふべきではない。故に現貫主義の宗教と云つ℃もそれは所謂厭世的宗殺の現質否定主義に 劃する現賓肯定主義といふ意味であっ℃雨者共に理想主義に立脚し

τ

ゐることは動かし難いのみなら ず共にそれが本質的に宗教と稀ばれる所以でもある。所謂現賞肯定的宗教はその本来の甥想世界を現 賞世界の中に貸現し

τ

異に理想の賃現であると共に克に想想が自らの本然の姿を表はす世界が現貨界 邸現世であるといふ点から依然とし

τ

現想主義に基︿ものでゐる。然してそれが一面に於て珂想的生 を考へ他面に於て現世的生を考ふる点に於て厭世的宗教と何等その債値的意味に異る慮はない。亦そ れが草なる現世一的生を厭ふて理想的生を渇仰する点に於ても異る慮はない。唯厭世的宗教も珂想的生 に由って現世的生を救以以て異に生きゃうごするものであり現質的宗裁も単なる現世的生を理想的生 ξ 見るのではなく理想的生に擦って現世的生を異に生げるものと蹴て現世的生を救ひ以て異に生きや うとするものであ b そしてそれが共に信仰意識に於て成就される三いふ点から考ふれば宗教哲串の立 宗 敢 に 於 け る 超 朕 品 川 的 傾 向 五

(19)

凸不敬に於ける超脱附的傾向 五 場から両者の宗致的偵値に就て差等是非を一概に附げらるぺ

3

性質のものではない。勿論低成宗教が 如何なる立味に於て現世的生を観、如何なるものを理想的生としてゐるかは各宗教の教義内容に立人 って昧ははねば解らぬことでゐるが敢義内存に立入ってその日記非善惑を一評償することは宗救哲皐の棋 利外の乙三でゐるから慢しまねば・ならぬ。唯私は火の如︿言ひねるであらう、宗教は理想に立脚して ゐる。従って厭世、楽天何れを聞はずそれが偵値意誠の要求に基き問想的生と反哩想的生揚吉すれば 彼川町的生と現世的生とが一牲封比的に差別

3

れ再往後者が前者に却現世的生が何等かの立昧に於て理 想的生に統撮され救済成偽せしめられる。即宗教の本質からして刊想化される世界であるといふ乙と をり如何なる立昧に於てか宗教は現貨的生を理想的生に由って救ふ開想化生活といふ意味から所謂厭 世的宗殺も柴天的宗教も共に現世的生活を厭離しっ、然も乙れを救ムごいふ超厭世的なものであるこ 之を私共は理解することが能

3

た様に想ふ o ところが私共は栂めて重要なる最後のものを残してゐる。 何ごなれば以上に於℃設かれた有限的無常的相針的償値的な現世的生と無限的常恒的絶針的債値的な 松山岸的︵理想的︶生三は私共の債値意識に基いて創造され剣別されたる二つの相封的債値界である。 現世的生が厭離されるのも理想的彼岸的生に針比して考へられる崎純であり彼岸的生が渇仰されるのも 現世的生に針比して考へられる魚である o きればか\る彼岸的生は絶針的生ではない。寧ろそれは相

(20)

封的なものであり同一像の表裏と考ふぺ主ものでゐらう。然し去一裂を合しても同一像は出米ない。何 となれば如何に二つの世界を一つにまとめ様ごしても依然として二つは二つでゐるからである。され ば現世的生と封比して捕かれた彼岸的生に由つては如何にしても現世的生は統揺され救済されること は能きない。創造され考へられたる絶卦的問想的生は憤値標準とされ亦それに依って現世的生が評偵

3

れるには達ひないが、斯る問想的生は亦現世的生仁封比して評債されるものであるから異に絶針的 無限的永劫的なる生では無い。相劃に到する絶封は依然ごして相針的組封であって異の絶卦ではない。 従つ℃創造され考へられた絶罰的問想的生はそれ自身に依って現世的生を厭離する乙三も統揖するこ ごも乃至は救済する乙とも能きない。斯る立場に於ては何故に絶封的問想的生はその相劃性を抜出る ことが能

3

ぬのであらうか。それは金︿創造され考へられたるもの印もその二つの世界は共に立誠内 容でゐるに止まるからである。従つ℃立誠内容とし℃の二つの世界が針比的に考へられ全く異ったも のと想はれるのは嘗然の事である。きれば私共はか、る死せる抽象的な意識内容ごしてのもの以外の 何物かを考えねばならない。如何にしても客観的意識内容とならずして然も立識内容を創治し統撮す るものを考へることが能きぬだらうか、宗敢に於ける先験的なものを考えることが能きぬであらうか。 私共は生きた具体的なる普遍的一一般者を考える事が能主ぬであらうか口私共をして厭世せしめてゐる 宗教に於ける越厭附的傾向 五

(21)

宗教に於ける越厭時的傾向 五 四 ご乙ろのものは何でゐらうか o それは生きた井一過的瑚想的的他的絶封者でなくて何であらう。意識一 般を貨在と考へることは許るされないけれども宗敬はある生ける脊遁的絶針者を考へることなしに宗 殺を理解するこさは能主ない。か\るものこそ創造者でゐり統掃者である。か、、るものは客観的に翻 ぜらる\内容的なものではな︵常に一切の背後にあって一切を創造し統撮してゐるものである。私共 は乙れを直観に現はれる主客未分の貫在者といふことも能きゃう。か、、るものが立識の背面にあって 初めて厭世の意識も欣求の立識も生れるのである c 従って異に普遍的理想的絶針的偵値者が生き℃ゐ る世界である。理想的世界が欲望されるのは現世的生仁封する敏之の戚が然あらしめるのである様仁 考へられるが買はその欲望の意識はその背後に完全者普遍者が働いてゐるから現世的世界の不完全を 意識し敏之の戚を抱き、その立誠、その戚が強︿働けば働く程、強く完全を欲望するのである。それ は二つの世界が立誠内容となっ℃ゐる相針的意味のもの、場合とは全︿異

h

普遍的完全者が兎不完の 何れの世界・’いも現世彼岸の何れにも一切に生きてゐる卸普遍者自身が働い

τ

ゐる絶封の世界でゐる。 私共はか、る普遍者そ絶針債値的貿在者と呼ぶ乙とが能きるであらう。従って不完全なる現世的生の 成立も厭世の情も亦完全なる彼岸的生の成立も欣求の情もその根本に完全なる瑚想的絶封的債値者が 働いてゐることに困って初めて可能であるミ云はねばならぬ。普遍的完全者のみ能︿普遍的完全者を

(22)

見、偽

ω

み能く悌を見るこごが能

3

る。か、、る生ける普遍的完令者に向って意識内容とし℃の爾界が 創造されか、るものが異に此被雨界守生かすものである。斯く考へ乙乙とに由って初めて異に統一的 絶針的なるものを考へることが能きる。絶卦的無限者の自己限定に由つ℃有限者が生れるのである o 内容として考へられた彼岸は有限的彼岸である何となれば現世仁相劃せしめられたものでめるからで ある。生げる絶針的生のみよく相針的生を生かし異に生りる救摘を想ふことが能主る。きれば無限者 は有限者に内在する

t

云つでも有限者は無限煮に操って生かされると云っても同じでゐる。か、、る立 昧から親鷲の知きは備力の外何ものも考へや信力きへも働力なりご一元的に徹して来たのであら’フ。 阜に上 H 升的に理想的彼岸の世界を欣求するといふのみでなく彼岸の世界否普遍的完益者が下向的に来 迎して現世を救済するまいふ世界は阪に厭世観ではない。亦上昇的に彼岸を欣求するのも賞は究覧者 それ自身の自己反省の心であり行でゐって現世を最も強く生かし異に現世をして現世たらしむゐもの であるから最も深かき彼岸の立場に於て現世を生かしてゐるものとき口はねばならぬ。 元 よ b 事賞、賞在する生命活動に二つの全く別個のものがあり得ない乙とは明かである。偵値立誠 がかく二つの世界乞判別するに過ぎ品。債値意識と云つ℃も別に債値意識といふものが濁立的に質在 するわりではない。私共は宗敢に於ては先づ第一にか、る唯一絶到の煩値的賞在者を考ふることなし 凸 部 数 に 於 け る 越 駅 静 一 的 傾 向 五 五

(23)

宗教に於ける超厭品川的傾向 五 六 に何事も論やることは能きない。か\る質在は事貨として思惟言設を絶したものである。思惟し言説 されたものは抽象的なものであるに過ぎぬ o 具体的事賓としての賞在者は直視に於て自己自身を如挽 する。思惟は直視の器展といふ乙とが能きるが思惟言説された貨在は肢に普遍者でなく思惟内容ぐ﹄し ての部介的なものである思惟内容となった部分的なものを一つの手懸りとしてな共はその中に普遍者 を観る。かくて観られたる普遍者は抽象的なるものである。山首在の似委に過ぎない、私共が思惟に由 って今把握したところのものも抽象的問論に過ぎねこごは論ずる迄も−ない。直視的資在的に考ふれば 生命は唯一一絶針なるものであると同時に内面的聯績を保って無限費展をなすものである。債値的絶針 的貿在者が直視に於てそれ自身を現はして来る。そしてか、るものが異に三世十方を貫徹する絶均者 でゐるとい

λ

乙之が能主る o 宗殺は徹頭徹尾紳が﹁生きる世界﹂である。そこには現貨も理想もない。 唯紳が生きる世界こそ異に光明書命無量の世界である。これに劃すぺき何の世界もないそれが総ての 世界であり絶針の世界である。 × × × × 私は今此に筆を捌︿に方つでもう一度論頭に還って考へてみやう。周閣の人んにか死ねのを槻℃淋し い悲しい心持ちになるのは何故だらうか。心理皐的には他人の死に於て自己の生物としての死の宿命

(24)

g

抗接聯想するから、だといふ聯想誌とか自分の戚情を彼に移入することによ

h

彼を感み悲しむ情が起 るのだごいふ戚情移入説等に依って説明されてゐるが私は草に他人の死によっで自己の死を聯想する から J ﹄か或は自己の戚情を彼仁移入し亦は移入する乙とにより

τ

彼の戚情が更に自己に移入され斯く

τ

自他戚情の融通交錯によりて淋し U 悲しいといふ気持に−なるの、だといふのでな︿或は亦他人ごは自 己の意識仁内在する他人なるが故にその内在的他人の消失は自己意識の一部の滅亡消失であるから力 を落して悲しむのだといふのでもなく、会︿自己が彼に於て生き、彼が自己に於て生き℃ゐたからで あると想ふ。印彼に生

3

てわた自己も自己に生きてゐた彼も個人我封個人我の閥係ではなく超個人我 の中の佃人我であり然もその個人我に内在する超個人我の乙\ろであるから要するにそれは一自我の こ と で あ

b

、その自他地越的自我の生主方に封する言ひまわしの異に過ぎ向。正しくそれは超個人我 が個人我の綜 J 験的憤値的存在としての委の消失を悲しむこ L ろである。偵値的に生きる印永劫無限な る絶調的債値者としてのこ、ろが普ね︿恒に強く働げば働︷程経験的現世的生命の消失そ悲しむ情が 一層深かいのであらう。それ自らの委を直観に於て表はして来る他人自体といふ直観的貰在者がその 直接的現貨の委を消失して再びモれ自身の現質的委を表はきやヲ単に再生観念として反省意識に非宵在 的観念に依て追憶想起されるに過ぎないーからといふのでな︿亦単にその悲しみが皐なる個人我の悲し 宗教に於ける超厭世的傾向 五 七

(25)

宗教に於ける超厭階的傾向 五 八 みでなく個人我の背後なる普遍者がそれ自身の債値的見地から﹁他者﹂

Z

いふ桐体的経験的存在を惜 しむこ\ろからであると想ふ。車に死を悲しむその情が悌

r

といふのでな

f

貨は自己に於ける普遍者 即悌が悲しむでゐると考ふべきである自己の死乞悲しむといふのも備の情から悲しむのでなりれば無 意味である。千年も万年も生きセいといふ乙、ろは凡俗の迷情でなく異に悌がきうこ、ろさせる乙、 ろであると想ふ。 11 ー 一 九 二 丸 、 一

o

、 二 八 、 | | i 或店時い原稿の一部を幹事君の懇請に 4 り抜出して務書したのであるが締切期日が阪に過ぎて再諌熟考の時を奥へられずして奪は れれ伐

ι

思想の未熟、叙惑の不正、誌の過不足、京叫悼の γ 小徹等種々の飲点を多分合むでゐること L 慮ふ。殊に−使命、生活、生存 といふ如き詩の区別を概念的に規定して論を抽出めてないのは蕊稿の一部の抜出であるから致方ないとしても識者い多々娯びをか け る ・ ・ と L 憶ふ。伏して洪湖の智者の叱正を希ふ o 但しこの稿を譲みて他宗から我宗を車ぶことをせぬ伐に外道説法呼ばはりさ れることは御免在家りたい。唯哲感の立場に於て自然科般に謝して宗教の宣場を鼎談した点を山什れられ多少なりとも所論に扮ふ べきものありさすれば背骨ぴ身にあふる− h を 曲 賞 ゆ る で あ ら う 。

参照

関連したドキュメント

と言っても、事例ごとに意味がかなり異なるのは、子どもの性格が異なることと同じである。その

   がんを体験した人が、京都で共に息し、意 気を持ち、粋(庶民の生活から生まれた美

「欲求とはけっしてある特定のモノへの欲求で はなくて、差異への欲求(社会的な意味への 欲望)であることを認めるなら、完全な満足な どというものは存在しない

信号を時々無視するとしている。宗教別では,仏教徒がたいてい信号を守 ると答える傾向にあった

である水産動植物の種類の特定によってなされる︒但し︑第五種共同漁業を内容とする共同漁業権については水産動

自然言語というのは、生得 な文法 があるということです。 生まれつき に、人 に わっている 力を って乳幼児が獲得できる言語だという え です。 語の それ自 も、 から

を育成することを使命としており、その実現に向けて、すべての学生が卒業時に学部の区別なく共通に

を育成することを使命としており、その実現に向けて、すべての学生が卒業時に学部の区別なく共通に