<論説>遺言の錯誤 ─ドイツ民法を手掛かりにした考察─
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(2) 横浜法学第 28 巻第 3 号(2020 年 3 月). るのかが問われることになる。これらの問題を考究することは、95 条が遺言 法に適用できるのかを問う契機ともなろう 1)。 他方で、総則の錯誤規定の母法とも呼べるドイツ民法に目を転じると、遺言 の錯誤について詳細な規定が用意され、判例・学説の蓄積も豊富である。そこ で本稿では、ドイツ民法の遺言における錯誤制度を検討することでわが国の遺 言と錯誤の問題についての示唆を得ることを目的とする。ドイツ民法の遺言錯 誤制度については、特に、取消可能な錯誤の種類とその要件、取消権者、遺言 錯誤の法律効果、を検討の対象とする。 なお、 以下では、 ドイツ民法の条文を参照する際は 「BGB 〇〇条 2)」と表記し、 日本民法の条文を参照する際は、現行のものを「改正前〇〇条」 、改正される 条文を「改正〇〇条」 、変更のないものを「〇〇条」と表記する。. Ⅱ.ドイツ民法典における遺言錯誤 1.遺言にける錯誤概論 ドイツ民法の遺言錯誤規定は、総則の錯誤規定の特別規定であり 3)、単独遺 言、共同遺言、相続契約に適用される。単独の遺言は、普通方式の遺言と特別 1)ドイツ民法典における遺言錯誤の成立過程を検討したものとして、中谷崇「ドイツ民法 典における遺言錯誤の生成 (1)~(3・完) 」 立命 383 ~ 385 号 (2019 年) 参照 (以下、 「中谷・ 遺言錯誤」として引用する) 。本文における問題意識は、中谷・遺言錯誤(3・完)419 頁 以下で提示したものである。 2)なお、紙幅の都合により逐一条文訳を掲げることは避ける。条文訳と注釈のまとまった ものとしては、神戸大学外国法研究会編『独逸民法Ⅴ[相続法] 』 (有斐閣、1955 年) 、太 田武男・佐藤義彦編『注釈ドイツ相続法』 (三省堂、1989 年)がある。また、ドイツ相続 法研究会による遺言についての注解(遺言(1)〜(21) )が民商法雑誌に掲載されてい る(1990 年〜 2003 年) 。 3)もっとも相続法の錯誤規定に規律がないものについては総則の錯誤規定が用いられる (MünchKomm/Leipold, §2078, Rn.12.) 。 324.
(3) 遺言の錯誤. 方式の遺言に大別され、普通方式の遺言には自筆証書遺言(BGB2247 条[自 筆証書遺言] )と 公正証書遺言(BGB2232 条[公正証書遺言] )が あ る。共同 遺言とは、特に配偶者間で行われる終意処分の結合体である 4)。また、被相続 人は契約によって相続人の指定、遺贈や負担 5)の指示ができる(BGB1941 条 [相続契約] )6)。遺言と違い拘束力が生じるので自由な撤回は制限される。相 続契約にも遺言の錯誤規定は適用されるが、相続契約では撤回が自由でないた め、被相続人自身にも取消権がある(BGB2081 条[取消の表示]1 項) 。 遺言の法定事項もわが国とは異なる(表 1 参照) 。特に、相続人を指定でき る点が重要である。これは相続人を誰にするかだけでなく、指定した相続人の 相続分の割合まで指定できる(BGB2088 条[割合での指定] ) 。 遺言において錯誤がある場合、取消可能である。BGB2078 条[錯誤または 強迫に基づく取消]7)によれば、表示錯誤(1 項)であっても、動機錯誤(2 項)であっても、同一の要件の元に顧慮される。さらに、BGB2079 条[遺留 分権利者の不顧慮に基づく取消]によれば、遺留分権利者が遺言において顧 慮されなかった場合にも、同人は当該遺言を取り消すことができる。これは BGB2078 条[ [錯誤または強迫に基づく取消]の特別規定だと理解されている。. 4)周知のようにわが国では、同一の証書でする共同遺言は禁止されている(975 条) 。 5)負担(Auflage)とは、終意処分に含まれる被相続人の指示であり、それによりある者 は給付の義務を負うが、遺贈とは異なり、受益者(いない場合もある)はその給付を請 求する権利を有さない。たとえば、被相続人が A を単独相続人に指定し、向こう 10 年 間、家族墓の世話をすること、という負担を設定する場合である(Frank / Helms, §10, Rn.14.) 。 6)ドイツにおける相続契約について、詳細は、岡林伸幸「ドイツにおける相続契約につい て(1) 」千葉 31 巻 2 号(2016 年)23 頁以下。臼井豊「ドイツ法上の『相続契約』概説」 同法 68 巻 7 号(2017 年)567 頁以下を参照。 7)ド イ ツ 相続法研究会「遺言(二) 」民商 103 巻 5 号(1991 年)815 頁以下[松倉耕作]に 注釈がある。 325.
(4) 横浜法学第 28 巻第 3 号(2020 年 3 月). 表 1)遺言の法定事項(Brox / Walker, Erbrecht, Rn.87 を参考にしたまとめ) 相続人の指定(BGB1937条[終意処分による相続人の指定])、相 1. 法定相続との相違 続からの廃除(BGB1938条[相続人指定のない相続からの排除])、 に関する定め 先位相続・ 後位相続の指示(BGB2100条[後位相続] 以下)、 予 備相続の指示(2096条[予備相続]以下) 遺贈(BGB1939条[遺贈]、BGB2147条[遺贈義務者])、 負担 2. 個々の出捐に関す (BGB1940条[負担]、BGB2192条[適用規定])、30日ルールと異 る定め なる指示(BGB1969条[30日ルール]1項2文) 分割の排除(BGB2044条[分割の排除])、分割指示(BGB2048条 3. 複数の相続人間で [被相続人による分割指示]以下)、清算義務(BGB2050条[法定 の分割に関する定め 相続人である卑属に対する調整義務]) 4.遺留分に関する定め. 遺留分の制限(BGB2336条[方式、証明負担、不確定的無効化]、 BGB2338条[遺留分制限]). 遺言による遺言の撤回(BGB2254条[遺言の撤回]、BGB2258条 5. 死因処分の完全な [新遺言による撤回])、 共同遺言における相互関係的処分の新た 破棄または一部破棄 な共同遺言による撤回、新たな相続契約による相続契約の破棄、 に関する定め 相手方当事者死亡後の遺言による相続契約における解除権の行使 (BGB2297条[遺言による解除]以下) 遺言の執行者の任命(BGB2197条[遺言執行者の任命] 以下)、 第三者の妥当な評価に従った共同相続人間の分割が行われるもの 6. 第三者の権限に関 とする指示(BGB2048条[被相続人による分割指示]2文)、受遺 する定め 者や遺贈の目的物を定める第三者の任命(BGB2151条[終意処分 による受益者が複数いる場合の遺贈義務者または第三者による指 定権]、BGB2154条[選択遺贈])、和解裁判所の指示(ZPO1066条) 死亡に基づいて子供が取得する被相続人の財産に関する両親によ 7.家族法における内容 る財産管理の排除または制限(BGB1638条[財産配慮の制限]以 についての定め 下)、 未成年者に対する後見人の任命(BGB1777条[任命権の要 件]3項)など 8.生きている者の間で の法律行為に関係する 遺言による贈与の撤回(BGB531条[撤回の表示]) 定め. 本条は、遺留分権利者との関係で問題になる特殊な錯誤規定であるため、本 稿ではこれ以上立ち入らない。なお、総則(BGB122 条)で定められている錯 誤者の賠償義務は排除されている(BGB2078 条 3 項)8)。 326.
(5) 遺言の錯誤. もっとも、錯誤が問題になるよう場合でも、一般に解釈が優先すると理解さ れている(判例・通説 9)) 。つまり、被相続人が現実に何を考えていたかが明 らかである場合(狭義の解釈) 、あるいは現実を正しく評価していたら何を意 欲したか(仮定的意思)が確定できる場合(補充的解釈)には、解釈が優先す るとされる 10)。これは、取消の効果との関係でも問題になるため、後に詳し く扱う。また、遺言の解釈の際に複数の解釈が可能な場合には、遺言を有効と する方向で解釈される(BGB2084 条[有効性を尊重する解釈]11)。 遺言における錯誤があった場合にも、被相続人には取消権がない(通説) 。 2080 条[取消権者]によれば、取消によって直接利益を得ると認められる者 のみが取消権を有する。 遺言錯誤取消に関する規律は、総則の錯誤規定の特別規定として優先する。 もっとも相続法に規律のない部分については相続法が顧慮される 12)。たとえ ば、取消の効果や取消の相手方については、BGB142 条[取消の効果]1 項や BGB143 条[取消可能な法律行為の追認]4 項が適用される。 (1)表示錯誤 BGB2078 条 1 項は、 「終意処分は、①被相続人が表示の内容につき錯誤に 8)立法過程では第一委員会の段階で、遺言が相手方のいない単独行為であることを理由に、 錯誤者の信頼利益の賠償義務が排除されていた(中谷・遺言錯誤(1)509 頁) 。 9)Staudinger / Otte, §2078, Rn.6. 10)MünchKomm/Leipold, §2078, Rn.11. は、意思と表示の乖離または因果関係のある動機 錯誤の有無が解明可能なのは、取消をしなかったならば表示がいかなる内容でもって法 的に妥当すると認められるかを解釈(補充的解釈も含む)によって確定する場合だけで ある、という。 11)ドイツ相続法研究会「遺言(二) 」民商 103 巻 6 号(1991 年)960 頁以下[神谷遊]に注 釈がある。 12)MünchKomm/Leipold, §2078, Rn.12. 327.
(6) 横浜法学第 28 巻第 3 号(2020 年 3 月). 陥っていたか、②当該内容の表示を全くなすつもりがなかった場合で、かつ③ 同人が事態を知っていたならば当該表示をなさなかったであろうと認められ得 る場合に限り、取り消すことができる。 」 (数字は筆者)と規定している。①が 内容の錯誤、②が表示行為の錯誤を意味している。錯誤がなかったならばその 遺言を作成しなかったという主観的因果関係のみがあればよく、客観的な重要 性は必要とされない。つまり、客観的な事情を考慮する BGB 119 条[錯誤に 基づく取消可能性]1 項と比較して、被相続人の主観的思考方法や物の見方に 照準が合わせられている 13)。なお、因果関係の立証責任は錯誤取消の主張者に ある。 たとえば、表示行為の錯誤としては、自筆遺言証書での書き間違いや、公正 証書遺言での口授の際の言い間違いなどが挙げられる。内容錯誤としては被相 続人が遺言で用いた法概念や単語の意味を誤解している場合が挙げられる。た とえば、法定相続が生じる旨の遺言が記されたが、被相続人が全血兄弟の卑属 のみが法定相続人として資格があり、半血兄弟にはその資格がないと被相続人 が考えている場合、当該遺言は内容錯誤に基づいて取消可能である 14)。 被相続人がもちろん解釈によって被相続人の意思が確定できる場合取消は問 題にならない(遺言の解釈の優先)15)。 13)議事録では客観的要件が不要とされた理由は明らかではないが、おそらく終意処分におけ る被相続人の真の意思(錯誤がなければ当該遺言をしなかったであろう意思)の尊重、相 手方の不存在、という事情が考慮されたと考えられる(中谷・遺言錯誤(3・完)脚注 213 参照) 。もっとも、通常は、被相続人がその場合を思慮分別をもって評価したならば、意思 表示をしなかったか否かを考慮することは許される(MünchKomm/Leipold, §2078, Rn.25.) 。 14)RGZ70, 391. この事件における錯誤は、内容錯誤(1 項)ではなく動機錯誤(2 項)で あるとの指摘がある。確かに、法律効果が同一であるのだから実務的には内容錯誤と動 機錯誤を区別する意味は乏しいが、法定相続が生じるという被相続人の表示は処分では なく、その表示がなくても生じる法律効果の指摘でしかないという(Staudinger / Otte, §2078, Rn.12) 。 15)Brox / Walker, Erbrecht, Rn.232; Staudinger / Otte, §2078; Rn.6, MünchKomm/Leipold, §2078, Rn.11. 328.
(7) 遺言の錯誤. (2)動機錯誤(詐欺含む)と強迫 BGB2078 条[ [錯誤または強迫に基づく取消]2 項は、いわゆる動機錯誤に ついて規定している。即ち、第 1 項の規定は被相続人が、①ある事情の発生 または不発生を誤って想定もしくは期待することによって、または②違法な 強迫によって、当該処分をすることを決定した場合にも適用される。①がい わゆる動機錯誤に当たるが、本条で顧慮されるべき動機錯誤の範囲は BGB119 条[錯誤に基づく取消可能性]2 項(性状錯誤の顧慮規定)と比べても各段に 広く、将来の事情も含めてあらゆる動機が顧慮されうる。②は強迫による取 消を定めている。詐欺の場合は規定されていないが、①に包摂されると解釈 されている 16)。 遺言における錯誤がこのように広く考慮される理由としては、遺言の場合に は取引の安全を考える必要がなく、かつ保護に値する「相手方」がいないため だとされる 17)。そして、表意者の現実の意思を重視する意思ドグマが総則よ りも厳格に貫かれている。この観点から、BGB122 条[取消者の賠償義務]の 信頼利益の賠償義務も排除されている(BGB2078 条[錯誤または強迫に基づ く取消]3 項)18)。 以上のように、BGB2078 条[錯誤または強迫に基づく取消]2 項に基づく取 消においては、法律の形式上はあらゆる動機錯誤が顧慮される。しかし、実際. 16)Staudinger / Otte, Rn.13; Brox / Walker, Erbrecht, Rn.233. 17)Brox / Walker, Erbrecht, Rn.230,233. 終意処分による受益者(受遺者・相続人)は、表示 の受け手でなく、仮に相続人が遺贈義務や負担を課せられていたとしても、それは反対 給付ではないため、無償で財産を取得することを考慮すると、同人らは遺言における表 示内容を信頼しても保護には値しないという(Brox / Walker, Erbrecht, Rn.198.) 。遺言 はいつでも撤回可能である以上、遺言による受益者の信頼は保護に値しないとも言われ る(MünchKomm/Leipold, §2078, Rn.6.) 。 18)Mugdan, Materialien, Bd.5, S.24f. 詳細は、中谷・遺言錯誤(2)342 頁以下参照。 329.
(8) 横浜法学第 28 巻第 3 号(2020 年 3 月). にはさまざまな形で制限がかけられている 19)。以下では、BGB2078 条[錯誤 または強迫に基づく取消]2 項を検討対象とし、いくつかの判決の検討を通じ て、その適用の一断面を浮かび上がらせることを目的とする。. 2.顧慮される動機の錯誤 (1)被相続人の観念(想定または期待) BGB2078 条[錯誤または強迫に基づく取消]2 項における顧慮される被相続 人の観念は、遺言作成時点を基準に、過去、現在の事情の存在または不存在、 将来の事情の発生または不発生に関係する。 ①積極的な観念(想定または期待). 本来の意味において錯誤に陥っている(=誤解している)場合であり、何か について積極的に考えているがそれが不正確である被相続人の観念である。た とえば、受遺者に資金がない、受遺者がある試験に合格した、受遺者とは近親 関係にある、などの想定である。実際の例としては、受遺者の二人がお互いと 結婚すると想定する(BayObLG FamRZ 1984, 422.) 、遺贈する財団が被相続人 が入所しようと思っていた施設の運営者であると想定する(BayObLGZ 2003, 136)などである。 ②消極的な観念. 問題となるのは、消極的観念の場合である。特に、被相続人が特定の事情に 関して考えを持っていなかったが、後にその事情に根本的な変化が生じ、その 変化を被相続人が知っていたら処分をしなかったと認められるような場合に 錯誤取消が認められるかどうかである 20)。の問題につき、BGB 成立過程では、 19)たとえば、ライポルトはこのような立法政策に批判的で、取消が被相続人の意思を危険 にさらすおそれがあることも考慮して、意思決定と動機錯誤との間に因果関係は高度の 証明が必要とされるという(MünchKomm/Leipold, §2078, Rn.6.) 。 20)も ちろん、自明の観念は現在や過去の出来事に関係することもある。たとえば、相続 330.
(9) 遺言の錯誤. 現在・過去・将来事情についての積極的かつ明確な観念のみ錯誤の対象とし、 一般的な観念(消極的観念)は取消の対象とならないと考えられていた 21)。 もっとも、判例は BGB 成立当初は錯誤と不知を同視し、将来の事情の不発 生についての消極的観念を錯誤とみなしていた 22)。 [判決①]ライヒ裁判所 1911 年 10 月 16 日判決(RGZ77,165)23) 事実: 夫婦が共同遺言をし、互いを単独相続人に指定し、一方が死亡し相続した配 偶者の死後は双方の親族らに遺産を与える旨の取り決めをした。妻が死亡した 後、夫が相続した。その後、夫は遺言作成後で妻の死亡前に生まれていた婚外 子である被告を養子とした。夫はこの子を単独相続人に指定した。夫の死後、 被告は夫婦が共同遺言で行った処分の取消を主張し、単独相続人となった。原 告(妻の親族)も、 同処分の取消を主張し、 遺産の半分につき法定相続人になっ ていると主張した。 判決内容: 「2078 条において『ある事情の不発生についての誤った想定ないし期待』が 取消を正当化する、因果関係のある動機錯誤として認められている場合には、 上記の積極的かつ明確な観念は 2078 条 2 項では決して要件とされていない。 およそ将来の事情の発生ないし不発生に関して、積極的かつ明確な観念を抱 くことなどできない。せいぜいのところ、将来起こり得ることを多かれ少な かれ検討し尽くすことくらいしかできない。被相続人の考えの及ぶ範囲は将 人として指名された者が犯罪歴がなく誠実な人柄であるとの観念である(BayObLG FamRZ 2003, 708) 。 21)Mugdan, Materialien, Bd.5, S.540-542.詳細は、中谷・遺言錯誤(3・完)391 頁。 22)遺言における将来事情についての動機錯誤をどこまで顧慮すべきかについては、青竹美 佳「遺言における錯誤無効について」公証法学 37 号(2007 年) 23)青竹(前掲脚注 22)56 頁以下に紹介がある。 331.
(10) 横浜法学第 28 巻第 3 号(2020 年 3 月). 来の出来事とはかけ離れているのだから、そうした検討が全くされていない としても、 『不発生の誤った想定』 を問題とすることはできる。 そうであれば、 まさにその消極性(Negative) 、 ある事情に考えが及んでいなかったこと(das Nichtbedenken des dennoch eingetretenen Umstandes) は、 被相続人 の 錯誤 と なる」 (下線筆者) 。妻が事後の展開を想定していたら、そのように処分したか は疑わしいとして原告の錯誤取消の主張を認めた。 しかし、ライヒ裁判所はその後に態度を翻し、立法者資料を参照し、被相続 人の錯誤に陥った積極的な観念がある場合にのみ取消可能であるとの立場に 立った。 [判決②]ライヒ裁判所 1915 年 2 月 4 日判決(RGZ86, 206)24) 事実: 被相続人(夫)と被告(妻)は、互い及び 3 人の子を相続人に指定し、生き 残った配偶者は死亡または再婚まで遺産(夫 40 万マルク、妻 10 万マルク)を 自由に処分できるとの共同遺言を作成した。被告は遺言作成後に精神病のため に禁治産宣告を受けている。子供の世話人が共同遺言の取消を求めて提訴した。 判決内容: 「遺言では、妻が誠実で良心的に子供に対する母としての義務を果たすだろ うとの夫の期待を看取できる。確かに今や被告は未亡人として全く堕落した暮 らしぶりである。しかし、このことは精神病の後遺症であり、1905,6 年には 兆候はすでに表れていたはずである。彼女の生活態度をして彼女の道徳的堕落 や義務違反を咎めることなどできない。従って取消は根拠がない。たとえば、 被告の精神病が発症しないとの期待や想定で遺言が作られていたこと、夫がそ うした可能性を考慮していたら異なって処分したと認められることは問題なり えない。 」 「たとえ考えなかったことと処分の内容との間に因果関係が認められ. 24)青竹(前掲脚注 22)58 頁以下に紹介がある。 332.
(11) 遺言の錯誤. るとしても、被相続人が考えなかったというだけでは、終意処分を取り消すの に十分とは言えない。このことは、2078 条 1 項に含まれている規定に至る協 議でも明らかになっている。第一草案 1781 条 25)によれば、被相続人が将来の 出来事の発生ないし不発生を前提として処分をする気になっており、この前提 が実現せず、かつ当該前提が処分で明示にまたは黙示に表示されている場合に のみ、取消が許されるものとしている。第二委員会で、前提という表現に異議 が唱えられ、削除される決議がなされたが、それでもって実質的な変更が惹起 されたものではない。 」 「第二委員会は決議に当たり以下のような考量を基礎に していた。…たとえば被相続人にとって重要であったと言える出来事であれば 何でも取消原因となるのではなく、被相続人が積極的な観念を抱いていた出来 事のみが、 取消原因となるのである、 と。 」 (下線筆者) 。 [判決②]では、以上のような理由で錯誤取消は認められたなかった。確か に第二委員会では積極的な観念のみが対象になることが認められていたが、他 方で被相続人が自明としていた事情についての動機錯誤も顧慮されることは暗 に認められていた 26)。本判決の結論の当否はともかく消極的かつ自明の観念 も取消の対象になることを認めた上で取消を認めないという判断もあり得たの ではなかろうか 27)。 その後、ライヒ裁判所は、RGZ86, 206 の判決を維持しつつも、将来に向け られた想定ないし期待は、被相続人にとって自明のものと思われる観念である 場合には、意識されずとも存在しているとの判断をした(RG WarnR 1931 Nr. 50.) 。 25)第一草案における錯誤規定については、中谷・遺言錯誤(2)参照。 26)中谷・遺言錯誤(3・完)395 頁。 27)この問題は、煎ずるところ、誤った観念が積極的か消極的かということが重要なのでは なく、当該終意処分にとってその誤観念(動機の錯誤)が唯一決定的な影響を与えてい たかどうかのみが問題であるように思われる。 333.
(12) 横浜法学第 28 巻第 3 号(2020 年 3 月). 戦後の連邦通常裁判所も、消極的な観念は否定するものの、積極的な観念に 「被相続人はもちろん意識して採用していないが、自明のものとして処分の基 礎とした」観念を加える形で、消極的な観念に対応している。 [判決③]連邦通常裁判所 1962 年 10 月 31 日判決(BGH NJW 1963, 246) 事実: 86 歳の被告と 77 歳の原告(二人は兄弟)とが相続契約をし、被告が原告を 土地の相続人に指定した。この土地は別の兄弟(すでに死亡)から単独相続に より譲り受けたものである。ところが、原告はこの土地の持ち分を遺産分割履 行前に第三者に譲渡してしまった。被告はその土地が家族の土地の一部であり 続けると考えていて、これにより兄弟間で争いが生じた。被告は生涯にわたり 兄弟に不和が生じず、原告が被告を困難に陥れることはしないだろうと考えて いた。そこで、被告が錯誤に基づいて取り消したのに対して、原告が取消の無 効を求めて提訴した。原審では原告の主張が認めれた。 判決内容: 「控訴裁判所は、もちろん、被相続人が同人において当時知らなかった事情 を知っていたら抱いていたであろう観念や期待ではなく、被相続人が相続契約 締結に当たり現実に抱いていた観念や期待が2078 条2 項の取消を根拠づけうる という法的な観点においては適切である。取消の場合の事情は、 (補充的な解 釈という方法で)被相続人の仮定的な意思も重要であり得る意思表示の解釈の 場合とは異っている。しかし、被相続人がもちろん彼の意識において採用しな かったが、 自明のものとして処分の基礎にした観念や期待も、 現実の観念や期待 に属する(いわゆる無意識の観念) 。 」 (下線筆者) 。そして、将来事情に関する 無意識の誤観念も錯誤取消の対象になりうるが、動機錯誤と当該相続契約との 間の因果関係は一般的な経験則によってではなく、個々の具体的事情によって 導かれる、と判断した上で、本件では、 「被告が相続契約締結に当たり、事実 おそらく『無意識で』しかないとしても、 そのような根本的で実質的な困難(筆 334.
(13) 遺言の錯誤. 者―原告の売却により被告の生活基盤が揺らいだこと)と個人的な軋轢の将来 の不発生を出立点としていたこと、そしてこれが被告の処分にとって決定的で あったことは、如何なる可能性もない、とかこれっぽっちもあり得ないという ことは決してない。 」 。この点の検討を事実審の裁判官は怠ったとして、差し戻 された。 [判決③]では無意識の観念も錯誤取消の対象になりうることが認められた。 しかし、 「無意識の観念」という概念は学説の批判を受け 28)、連邦裁判所とし ても「自明の観念」という概念に置き換えられた。 [判決④]連邦通所裁判所 1987 年 5 月 27 日判決(BGH NJW-RR1987, 1412) 事実: 被相続人が被告(相続開始後にスイスで設立された財団(Stiftung) )を単独 相続人に指定した。現評議員(Stiftungsrat)である S が遺言執行者となった。 被相続人が原告とおいに 50000 マルクの遺贈をしたが、被告がそれを取り消し た。被相続人は、税金逃れのために、有価証券と貴金属の入った貸金庫の名義 を原告の母に書き換えさせたが、被相続人の死後に、原告は、この名義書き換 えは贈与であると主張した。被告は被相続人が原告のこのような行為を知って いたら 50000 マルクを与えなかったであろうと主張した。 判決内容: 連邦通常裁判所は、消極的観念についてのライヒ裁判所の諸判決に触れたう えで、以下のように言う。 「1930 年には、ライヒ裁判所は、期待という概念に ついて『積極的観念』と『不知』という選択肢の間で中間的な立場をとった。 将来に向けられた期待は、それが被相続人にとって自明のものと思われる観念 28)Pohl, Unbewußte Vorstellungen als erbrechtlicher Anfechtungsgrund?, 1976, S.36─69. もっともポールは刑法に倣い「付帯的に意識された観念(mitbewußte Vorstellung) 」と 呼ぶことを提唱していた。 335.
(14) 横浜法学第 28 巻第 3 号(2020 年 3 月). であるとき、無意識に存在している(RG, HRR 1931 Nr. 744 = WarnR 1931 Nr. 50) 」 。 「連邦通常裁判所もこの中間的な立場をとった。つまり連邦通常裁判所 も、 まず 1930 年に法実務に導入された『無意識の観念』なる概念を引き継いだ。 この概念は、その矛盾を考慮して、回避されるべきであった。判例は、自らの 意思を形成し外部に示す者の観念の世界では詳細に考慮されることはなく、 同 人が具体的に意識することはないが、 やはりいつでも呼び出し(anrufen) 意識 することができるほど自明な事情のことを考えている。これに対して、心理学 は意識が把握できない事柄を『無意識』と呼んでいる。 」 (下線筆者) もっとも本件では、動機錯誤と遺言との因果関係が否定されている。すな わち、 「2078 条 2 項が 119 条 2 項の規律に比して動機錯誤に基づく取消可能性 を拡張しているにもかかわらず、この規定の文言からは制限を設定する意図 を読み取らねばならない。被相続人に特有の観念も考慮してまさにこの被相 続人をして実際にしたのとは異なる遺言をせしめたと確実に認められる特に 重大な事情だけが、 取消を基礎づけることができるものとされる。もしかする と信頼が成立していたかもしれず、それが裏切られていたかもしれないとい う程度では、取消原因としては、決して十分ではない。 」 (下線筆者) 「2078 条 2 項は、被相続人の誤観念を構成し、取消を認める事情が、最終意思の原因で あっただけでなく、最終意思をする気になった理由であったことを要求して いる。動機の著しい重大性があってはじめて、 処分者は2078 条2 項の意味での 処分をする気にさせられたと言える。あらゆる原因に動機の重要性があるわ けではない。 」としたうえで、本件では「被告は被相続人が原告によって主張 された行為を知っていた場合の被相続人のありうる反応に関する他の受遺者 の観念を証明したに過ぎない。 」しかし第三者のそのような観念は決定的では ない。 「被相続人の自明の理解に関して、客観的に確定可能な被相続人に特有 の外部への表示および行動方法に照らして疑いなく確定される事柄だけが決 定的であると言える。 」 (下線筆者)として、客観的な外部事情から見て被相 続人の動機錯誤と遺言との間の決定的因果関係は否定され、錯誤取消は認め 336.
(15) 遺言の錯誤. られていない。 [判決④]は、消極的観念と呼ばれるものも自明の観念として把握できる限 りで、錯誤取消の対象になることを認めた上で、錯誤の対象たる動機の重大性 とその立証の厳格さで縛りをかけている。さらに当該動機が当該遺言にとって 唯一決定的であったことも必要となる 29)。 [ 判決④ ] では、自明の理解に関して外部への表示により確定できる事柄が 重要であるとされているが、処分それ自体において現れている必要はない。も ちろん表示されていたらそれは動機が当該遺言にとって重要であったという証 拠となる 30)。 なお、本判決は、相続開始後に初めて生じた事情が取消原因として考慮され るかという問題に対しては、傍論において、本件では判断の必要はないとして 態度を保留している。 ③相続開始後の事情. 消極的誤観念による錯誤取消が認められると言っても無制限のものでないこ とは以上に述べた通りである。特に、相続開始後に生じる事情に関する消極的. 29)BGH NJW-RR 2002, 727 参照。たとえば、誤った動機 A により遺言をしたが、当該動機 錯誤がなければ当該遺言をしなかったというだけでは不十分で、動機 B も当該遺言をす る原因になっていたら、動機 A の錯誤を理由として取り消すことはできない。つまり、 (誤っている)動機 A が当該遺言をする唯一決定的なものであったことが必要となろう (MünchKomm/Leipold, § 2078, Rn.38 und 45 ; Brox, a.a.O, S.147.) 。動機錯誤の顧慮にあ たり、誤った動機が遺言にとって決定的であること(決定的な因果関係)を要求する考 え方は、普通法や立法過程での議論でも見られた(普通法の法文については、中谷・遺 言錯誤(2)347─3489 頁、立法過程のまとめとしては、同(3・完)413 頁以下参照) 。 30)BGH NJW 1965, 584(遺言 で 動機 を 挙 げ て も、当該動機 が 現実 に 決定的 で あ る こ と の 事実上 の 推定 で し か な く、反証可能 で あ る。 ) ; MünchKomm/Leipold, §2078, Rn.36; Staudinger / Otte, §2078, Rn.6. 動機の表示要件が第二委員会で条文から落ちた理由に ついては、中谷・遺言錯誤(3・完)391─395 頁。 337.
(16) 横浜法学第 28 巻第 3 号(2020 年 3 月). 誤観念(錯誤)も取消を基礎づけるかについては争いがある 31)。ライヒ裁判 所は認めているが(判例①) 、連邦通常裁判所はこれを未決定としている( [判 決④]傍論) 。しかし、下級審ではこのような錯誤で取消の主張を認めたもの がある。 [判決⑤]1981 年 1 月 13 日判決(OLG Muenchen NJW 1983, 2577)32) 事実: 被相続人 は、1972 年月 5 か ら 1974 年 1 月 20 日(被相続人 の 死亡日)の 間 に作成された遺言により、孫を単独相続人に指定し、娘に孫の 25 歳の誕生日 まで遺言執行人に任命した。相続開始後、1980 年 1 月 23 日に 25 歳を迎えた 孫は宗教団体ハーレクリシュナに入信していることが明らかになり(78 年の 春に娘が知る) 、相続した土地を教団に売り渡す意図を持っていた(これは 80 年 1 月 23 日以降に判明) 。そこで、娘は遺言の取消を申し立て、38,000 マルク の債権保全のために仮差押えの申立てをした。 判決内容: 「判例によれば、被相続人が明確には考慮していないものの、自らにとって自 明とみなすことができた事情が生じている場合、取消が許される。本件では、 被相続人が誤った想定ないし期待によって被告を単独相続人として指定する気 になっていたということが真実だと考えられている。 」 「被相続人は、証人 X の 陳述によれば、非常に勤勉で、働き者で親切で『典型的な昔ながらのミュンヘ ン女性(typische Urmünchenerin) 』であり」 「被相続人が彼女自身にとって自 明であったように、孫が家族、特に母親に感謝し、そして庶民的な考え方と物 の見方(bürgerlichen Vorstellungen und Anschauungen)にありがたみを感じ 続けることを被相続人は出立点としていた。彼女の孫が少なくとも 25 歳になっ. 31)Frank/Helms Erbrecht, §7, Rn.36. 32)青竹(前掲脚注 22)59 頁以下に紹介がある。 338.
(17) 遺言の錯誤. た後も被相続人が考える意味での庶民的で理性的な生活を送り、被相続人にとっ て意味がある方法で、つまり理性的かつ倹約的に遺産を用いるだろうことを被 相続人が自らにとって自明のものとみなしていたことは信じるに足りる。 」 [判決⑤]は、被相続人の残した家屋敷を教団に売却するということを被相 続人が想定していなかった、つまり被相続人の死後にも孫が自身と同じように つつましく理性的に生きていき、遺産もその意味で用いられるだろうという想 定が被相続人の死後に裏切られたことを理由に錯誤取消が認められている。 しかし、相続開始後の事情についての誤想で取消を認めることには学説では異 論が多い。たとえば、次のように言われる 33)。BGB2078 条の目的は、死に臨 んでの被相続人の現実の意思に矛盾しない判断を確保することにあるのだか ら、その基準は相続開始まで(被相続人の死亡時)である。その後に起こるこ とについては、条件なり負担なりを課すことができるのに、それをしないので あれば、被相続人はそのリスクを負うべきである 34)。 ④因果関係. 上記、上記連邦通所裁判所 1987 年 5 月 27 日判決(判決④)に お い て、取消 が認められるためには、動機錯誤と遺言との間に決定的な因果関係(動機の著 33)Frank/Helms Erbrecht, §7, Rn.36. 将来事情の錯誤はわが国の 95 条では一般に顧慮さ れないと理解されているので (松本光一郎「裁判実務における錯誤論」判タ 1247 号(2007 年)61 頁以下。これに疑問を呈するものとして金山直樹「錯誤は < 現状の誤認 > の場 合にだけ発動されるべきか」 『民事判例Ⅱ -2010 年後期』 (日本評論社、2011 年)138 頁 以下) 、本稿ではこの問題にこれ以上立ち入らない。ドイツにおけるこの問題の詳細は 青竹(前掲脚注 22)参照。 34)錯誤の対象となる事象の存在・不存在を確信するのではなく、疑ってありうることだと 考えていた場合、また、将来の展開が一様でないことを前提とした遺言をした場合には 動機錯誤は顧慮されないという(MünchKomm/Leipold, §2078, Rn.27.) 。ライポルトの この指摘は一般的な錯誤とリスク分配という視点でも重要である(試論として、中谷崇 「法律行為の内容とリスク分配」滝沢昌彦ほか編『円谷峻先生古稀祝賀論文集 民事責 任の法理』 (成文堂、2015 年)135 頁以下) 。 339.
(18) 横浜法学第 28 巻第 3 号(2020 年 3 月). しい重大性)が必要なことが明らかになったが、因果関係の有無はどのように判 断されるのか。これに関して、バイエルン州最高裁判所は、誤った想定ないし期 待と処分との因果関係は、個々の事例の具体的事情から判断され(経験則によ らない) 、 しかも現実の意思(仮定的意思では不十分)の証明が必要であるという。 [判決⑥]バ イ エ ル ン 州最高裁判所 2001 年 7 月 24 日決定(BayObLG FamRZ2002, 915)35) 事実: 2 度の離婚歴のある被相続人(交通事故で死亡)は一人目の妻と子である当 事者 1 と 2 がいる。二人目の妻との離婚前から、当事者 3 と交際をしており、 被相続人が死ぬまで婚外の形で同居していた。被相続人は当事者 3 を単独相続 人に指定した。当事者 1 と 2 は、被相続人が遺言作成時、父親になれるかもし れないとの期待を抱いていた、または将来当事者 3 と不和にならないとの期待 を抱いていたが、当事者 3 には医学的に子供を産むことができず 36)、遺言作 成後に被相続人に対して冷たくなったことを理由に錯誤取消を主張した。 決定内容: 「そのような( 「無意識」でもある)期待(筆者─当事者 3 と将来不和になら ない)と、特にそれと被相続人の処分との因果関係は、あらゆる場合あるいは 通常の場合でさえも一般的に認めるべきではない。これは人生経験によっては わからない。取消者に課された、 錯誤と処分との因果関係の存在の立証責任は、 その一般的性を志向する経験則によって導かれることはなく(一応の証明も排 除されている。なぜなら、この問題で重要なのは、人間の理性活動と精神活動 における個人的な事象だからである。 ) 、個々の場合の特別な事情によって導か れる。 」 (下線筆者) 。 「その主張(筆者─遺言作成後に当事者 3 が被相続人に冷 35)青竹(前掲脚注 22)61 頁以下に紹介がある。 36)本件では被相続人は当事者 3 に子供ができないことを知った後にも遺言を変更しなかっ たため、処分を有効にしたと認められ、取消は否定された。 340.
(19) 遺言の錯誤. たくなったこと)は、被相続人が遺言作成の際にまだ知らなかった事情に関係 しており、遺言作成時の被相続人の意識的ないし無意識の観念と期待の推論を 許すものではない。原審が、2078 条 2 項の取消の枠組みでは、遺言作成時に 知らなかった事情を知っていたら抱いていたであろう被相続人の観念と期待は 重要ではないと指摘しているのは正当である。ここでは、遺言の補充的解釈と は違い、仮定的意思は重要ではない。 」 。 [判決⑥]では、普通の人なら不和にならないことを自明の観念として遺言 をした、という主張では因果関係の立証として不十分であり、当事者 3 が急に 冷たくなったからそのような観念を有していたはずだという仮定的意思の推測 も許されないことが明らかになる。つまり、取消権者は被相続人の誤った想定 と遺言との因果関係を裏付ける具体的事情を立証する必要がある。判決③でも 同様のことが認められている。. 3.取消権者の範囲 2.で確認したように、2078 条[錯誤または強迫に基づく取消]2 項の錯誤 取消が認められる範囲は、実際には、その顧慮されるべき観念や因果関係にお いて制限されてきた。しかし、その制限は実体的要件においてのみならず、取 消権者との関係でも生じる。以下、取消権者について論じよう。 (1)被相続人の生前 被相続人の生前には─相続契約の場合を除いて(BGB2281 条[被相続人に よる取消]以下参照)─何人にも取消権はない。被相続人は終意処分をいつで もどんな理由でも撤回できるのだから(BGB2253 条[遺言の撤回] ) 、取消は 不要であるとの理由による 37)。他方で、遺言作成後に遺言能力を失う高齢者が. 37)Brox / Walker, Erbrecht, Rn.237; MünchKomm/Leipold, §2080, Rn.2. 341.
(20) 横浜法学第 28 巻第 3 号(2020 年 3 月). 増加しているという問題を受けて、相続契約における自己取消権(BGB2281 条 以下)を類推して被相続人ないし法定代理人に取消権を認める見解もある 38)。 しかし、立法者としては被相続人が遺言能力を喪失しても BGB2080 条[取消 権者]所定の取消権者に取消権を委ねたこと、被相続人は生前に遺言を取り消 しても遺言能力喪失のゆえにもはや遺言を更新できないこと、を理由に被相続 人の生前取消権を認めない見解が多数である 39)。 (2)被相続人の死後 BGB2080 条[取消権者]40)によれば、取消権者は「終意処分の破棄によっ て直接利益を有すると認められる(unmittelbar zustatten kommen würde)者」 である(1 項) 。すでに述べたように被相続人には取消権はない。 [例1] 被相続人Aが、遺言でBを単独相続人として指定したが、後にAはBではなく別の 人物を指定していようとしたことが明らかになる(表示錯誤:2078条1項2選択号) 。ただ 誰を指定しようとしたかは明らかでない。AのおいCは法定相続人として遺言を取り消す ことができるか。またはCの息子Dは取消すことができるか41)。. この場合、C には取消権がある。相続人の指定がなかったことになれば、C が法定相続人となり、直接利益を得るからである。しかし、その息子 D は C が死亡して初めて相続人になれるだけであって、C が生きている間は間接的な 利益しかないと解される。 1 項に照らして取消権者が判断される際に、被相続人の錯誤が特定の取消 権者にだけ関係する場合には、この者にしか取消権がない(BGB2080 条[取 38)Harke, JZ2004, Testamentsanfechtung durch den Erblasser?, S.180ff. 39)MünchKomm/Leipold, §2080, Rn.2; Staudinger / Otte, §2080, Rn.1 und 33 参 照。 Mugdan, Materialien, Bd.5 , S. 30f. 理由書の詳細は、 中谷・遺言錯誤 (2)360 頁以下参照。 40)ドイツ相続法研究会「遺言(二) 」民商 103 巻 6 号(1991 年)952 頁以下[今西康人]に 紹介がある。 41)Brox / Walker, Erbrecht, Rn.230 より。 342.
(21) 遺言の錯誤. 消権者]2 項) 。他に処分の破棄によって直接利益を有する者がいたとしても、 これらの者には取消権はない 42)。 [例2] ①被相続人Aが、遺言でBを単独相続人に指定したが、その後、Bが死亡したと誤 解して遺言を撤回する場合、②相続人Cが被相続人Aを中傷したと誤解して、Aは遺言に よってCを相続から排除する場合、誰に取消権があるか43)。. ①では、A の錯誤は B の状態に関係し、②は C の行為に関する。従って、 他に直接利益を受ける者がいても取消権は①では B、②では C にしか認めら れない。第三者は、2 項の取消権者が処分を有効なまま放置していた場合にも 取消はできないし、相続開始前に 2 項の取消権者が死亡していた場合には誰 にも取消権はない。ただし、相続開始後に死亡した場合はその取消権は相続 される 44)。 BGB2080 条[取消権者]は、 上記のように取消権者を制限している。つまり、 同条所定の取消権の目的は表意者の意思決定に錯誤や強迫がなければ不利益を 被らなかったであろう者のみを保護することにある 45)。 (3)取消の表示 取消は無方式の表示により行われ、処分の破棄の意思が外部に現われてい れば、 「取消」という言葉を使う必要もなければ、取消原因を挙げる必要もな い 46)。ただし、取消の表示は受領が必要である(BGB2081 条[取消の表示] 、 42)第一草案の理由書では、錯誤が関係する者以外の受益者が棚ぼた的利益を得るのはやむ を得ないが、独立の取消権まで認めると、錯誤の関係者が当該遺言を放置する場合や完 全に認める場合において、妥当ではないとされた(中谷・遺言錯誤(2)360─361 頁) 。 43)MünchKomm/Leipold, §2080, Rn.8 より。 44)MünchKomm/Leipold, §2080, Rn.8. 45)中谷・遺言錯誤(3・完)418 頁参照。MünchKomm/Leipold, §2080, Rn.1 は 終意処分 の 関係者の法的地位の保護、Staudinger / Otte, §2080, Rn.1. は被相続人による瑕疵ある終 意処分の有効性に対する残された者の保護を挙げている。 46)Brox/Walker, Erbrecht, Rn.239. 343.
(22) 横浜法学第 28 巻第 3 号(2020 年 3 月). BGB143 条[取消の表示] ) 。 ①相手方. 相続人の指定、相続からの排除、遺言執行者の任命およびこれらの処分の 破棄については、遺産裁判所 47)に対する表示によって取り消す必要がある (BGB2081 条[取消の表示]1 項) 。遺産裁判所は、処分によって利益を受ける 者に取消の表示の通知をしなければならない(2 項) 。公的機関を介すること で法的安定性に資し、かつ取消の相手方を見つけるという苦労も省かれるため である 48)。また、負担(BGB1940 条[負担] )の取消も遺産裁判所に対してな す必要がある(3 項) 。 遺贈や分割指示といったその他の処分には BGB2081 条[取消の表示]は適 用されないため、 一般原則に戻り、BGB143 条[取消の表示]が適用される。従っ て、取消は遺言に基づいて直接に法的な利益を得た者に対して行われなければ ならない(4 項) 。 ②期間. 取消は、取消権者が取消原因を知った時点から開始し(BGB2082 条[取 消期間]2 項 1 文) 、1 年以内に行使しなければならない(1 項)。取消原因 を知るとは、取消権を基礎づける事実を知るということであり、最も早い時 点は相続開始時である。ただし、相続開始から 30 年で取消権は消滅する(3 項) 。 取消期間を経過しても、遺言に基づいて義務を負う者(遺贈の場合)は抗弁 として取消可能性を主張できる(BGB2083 条[取消可能性の抗弁] ) 。 ③追認 47)遺産裁判所とは、相続に関する非訟事件で裁判所の決定を必要とするものにつき決定を なす区裁判所であり、被相続人の最後の住所地を管織する区裁判所が管轄を有する(山 田晟『ドイツ法律用語辞典』より) 。 48)Brox/Walker, Erbrecht, Rn.239. 344.
(23) 遺言の錯誤. 瑕疵ある意思表示の追認によって取消は排除される(BGB144 条[取消可能 な法律行為の追認] ) 。被相続人自身には取消権がないのだから、追認はできな いと解される。また被相続人は新たな終意処分で取消可能性を排除できるの だから、追認を認める必要はない 49)。通説は、利益状況の類似性を考慮して、 表意者と取消権者を同視し 50)、144 条[取消可能な法律行為の追認]を類推し て追認権を認める 51)。 反対説は、被相続人の追認権を認める。つまり、取消権者は、表示の有効性 をその後どうするか決めることができるのに対して、被相続人は、遺言(表 示)を自由に撤回できる地位にある。つまり、より高い支配力(gesteigerte Herrschaft)を表示に対して備えているのだから、BGB144 条の意味での追認 ができるはずであるという。 なお、複数の取消権者がいる場合の追認は、その者自身の取消権だけが排除 される 52)。 相続開始後の追認について、被相続人の意思表示の問題であるとして否定す る見解、そして取消権者は表意者ではないが、取消権を持つものは終意処分の 有効性を決する立場にあり、遺言錯誤の場合の取消権者も 144 条[取消可能な 法律行為の追認]が想定する通常の場合と同じ地位を占めるとの理由から、取 消権者に追認権を認める見解がある 53)。. 49)OLG Hamm ZEV 1994, 168. 50)つ まり、取消権者は、終意処分の有効性を決める権利を持っており、それは BGB144 条で考えられた表意者自身が持つ地位と同じである(MünchKomm/Leipold, §2078, Rn.65) 。 51)MünchKomm/Leipold, §2078, Rn.63. 52)MünchKomm/Leipold, § 2078, Rn.66. 53)MünchKomm/Leipold, § 2078, Rn.65. 345.
(24) 横浜法学第 28 巻第 3 号(2020 年 3 月). (4)直接利益を受ける者 ①法的な利益 (a)物権的・債権的利益. この場合の利益とは、法的な利益であって純粋に事実的なものではない 54)。 法的 な 利益 は、大別 す れ ば、相続権 に 関 す る も の、請求権 の 取得、義務 (Beschwerung)からの解放に分けられる 55)。相続権に関するものとしては、た とえば、法定相続人が、遺言で相続から廃除されたり、他の者が相続人に指定さ れた際に、当該遺言を取り消す場合、指定相続人が、旧遺言における相続人指 定が遺言で撤回された際に、その撤回遺言を取り消す場合、予備相続人が遺言 による相続人の指定を取り消す場合、後位相続人が先位相続人の指定を取り消 す場合 56)、である。請求権の取得としては、遺贈が遺言で撤回された際に当初 の受遺者が撤回遺言を取り消す場合である。最後に、遺贈義務・負担義務から の解放としては、遺贈義務を負う相続人が遺贈を取り消す場合、負担義務者がそ の負担を取り消す場合、先位相続人が後位相続人指定を取り消す場合である(表 2 参照) 。. 54)Staudinger / Otte, §2080, Rn.2. 55)MünchKomm/Leipold, § 2080, Rn.5. 56)予備相続人、先位相続人、後位相続人とは以下のようなものである。後位相続人とは、 先位の相続人の後に始めて相続人になる者である (BGB2100 条[後位相続人] ) 。たとえば、 被相続人が遺言によってまず妻(先位相続人)を相続人に指定し、妻が死亡した場合に、 息子(後位相続人)をその相続人に指定するという場合である (2 回権利承継が行われる) 。 他方、予備相続人は相続開始の前後に相続人が脱落する場合に備えて被相続人が指定し た相続人のことである(BGB2096 条[予備相続人] ) 。つまり、最初の資格者が相続人で はなくなるという条件のもとで相続が生じる(Brox / Walker, Rn.335ff und 343ff.) 。 346.
(25) 遺言の錯誤. 表 2)法的な利益の例(MünchKomm/Leipold, § 2080, Rn.5.) 法的な利益 相続権 請求権の取得 遺贈義務・負担義務. 取り消されるべき対象 法定相続人の相続からの廃除、他人の相続人指定、旧遺言におけ る相続人指定の撤回、相続人指定(予備相続人がいる場合)、先 位相続人の指定、後位相続人の指定 受遺者への遺贈の撤回 遺贈、負担(墓を世話せよ、など)、後位相続人指定. (b)処分権限・管理権限. 57). さらに、物権的・債権的な権利でなくとも、処分権限や管理権限の取得も法 的利益となる。たとえば、予定されていた遺言執行者は、その任命の撤回を取 り消すことができる 58)。家族法においても、遺言によって財産管理を制限さ れた両親(BGB1638 条[財産配慮の制限] )も取消権限がある。 ②利益を受けている者の判定. 取消権者に当たるかどうかは、処分が有効な場合の法状況を、有効に取り消 された場合に生じる法状況と比べて判断されなければならない。 [判決⑦]連邦通常裁判所 1985 年 5 月 8 日判決(BGH NJW 1985, 2025) 事実: 被相続人が 1969 年に自らの息子(生死不明)を単独相続人し、死亡してい る場合、被告を含む 3 人の甥を予備相続人に指定した。その後 1976 年に同遺 言を取り消し(第 1 部) 、息子を単独相続人に指定し、死亡していたら、原告 を予備相続人に指定し(第 2 部) 、 「1999 年まで息子の失踪宣告がされないこ 57)MünchKomm/Leipold, § 2080, Rn.7. 58)Brox / Walker, Rn.237 も。他方 で Staudinger / Otte, §2080, Rn.7 und 11 は、遺 言 執 行 者の職務の他利益性を理由にこの場合の遺言執行者の取消権を疑問視する。そして、遺 言執行者に取消権が認められる場合は、少なくとも相続人による取消も認められるべき であるという。遺言執行者の職務が不当に妨害されないことは相続人の利益にもなるか らである。他方で、遺言で遺言執行者の報酬請求権(BGB2221 条[遺言執行者の報酬] ) が制限される場合には取消権があることは問題ないとする。 347.
(26) 横浜法学第 28 巻第 3 号(2020 年 3 月). とが切なる願い」と記すとともに原告を遺言執行者に指定する旨の遺言をした。 被相続人の死亡後、原告は被相続人の息子の失踪宣告手続きをし、単独相続人 となった。被告は原告の行為を理由に錯誤取消を主張。それに対して原告は自 らに単独相続人の資格があることを求めて訴えた。 判決内容: 連邦通常裁判所は、被相続人が真の事態を知っていたら原告を予備相続人に 指定しなかったであろうことは認めた。しかし、被告が取消権者になるために は、相続人たる原告がいなくなることが被告にとって直接利益になるであろう ことが必要であり、この利益は確定されていなければならないとして、以下 のように述べる。 「2078 条 1 項 2 項の枠組みで遺言それ自体ではなく、遺言に 含まれた個々の終意処分だけが常に取消可能である。その際、取消可能性は、 2078 条の明確な文言を考慮して、錯誤が及んだ範囲と表示の内容に影響を及 ぼした範囲でのみ及ぶ。…原告の相続人指定の破棄が直接に利益となる者は、 取消に基づいて明らかになるであろう法状況と比較してのみ判断される」 「被 告は、1969 年の遺言に基づいて、取消によって同時にこの撤回もその効力を 失った場合にはじめて、意思による共同相続人として指示されていたと言える …、被告の取消が、それは 1976 年の遺言の第 1 部に対しても向けられている が、その限りで同じように影響を及ぼすか(durchgreifen)どうか、つまり被 相続人が1969 年に処分をした相続人の指定を、 本判決で確定した錯誤がなけれ ば、 撤回しなかったであろうことが認められるべきかどうかに左右される」 (下 線筆者) 。これについては事実審で解明が必要であるとされた。 [判決⑦]から帰結されるように、取消権者であると認められるためには、旧 遺言で相続人に指定された者が、旧遺言の撤回(第 1 部)と別の者を相続人に 指定する内容(第 2 部)を含んだ新遺言において、原告がすぐに息子の失踪宣 告をしたならば同人を相続人に指定することはなかったと言えても、旧遺言を 撤回した部分(第 1 部)にもそう言えるかは不明である。また、この証明に成 功しなくても、BGB2085 条[一部不確定的無効]の要件が満たされていれば、 348.
(27) 遺言の錯誤. 図 1 BGH NJW 1985, 2025 における動機錯誤と遺言との因果関係. 被告の主張が認められることになるが、この点も不明であるとされた(図 1 参照) 。 以上のように、利害関係者に本当に取消権限があるかどうかも遺言における 錯誤取消を制限・抑制する機能がある。 (5)取消の効果 取り消された遺言は、遡及的に無効だとみなされる(BGB142 条[取消の 効果]1 項) 。取消の対象は、遺言に含まれた、瑕疵ある意思によって行わ れた個々の処分であり、遺言全体ではない(RGZ 70, 391、判決⑦ほか)59)。. 59)Brox/Walker, Erbrecht, Rn.231; MünchKomm/Leipold, §2078, Rn.17. 349.
(28) 横浜法学第 28 巻第 3 号(2020 年 3 月). これによって法定相続が生じるか、あるいは、たとえば遺言を撤回した遺言 (BGB2254 条[遺言による撤回] )が取り消される場合は過去の遺言が復活 する。 個々の処分の無効が全体の無効を生じさせるかは、BGB2085 条[一部不確 定的無効]が規律している。つまり、その処分がなかったならば他の処分をし なかったであろうことが認められる場合に、遺言全部が無効になる(BGB2085 条) 。ただし BGB2079 条[遺留分権利者の不顧慮に基づく取消] ]は全部無効 が推定される 60)。 では、取消権者が複数人いる場合はどうなるか。この場合、その各人が単独 で取消権を行使でき、 その効果は絶対的(absolut)であると解されている( [判 決⑦参照] )61。つまり、他の取消権者の意思に反しても、彼らにもその効力が 及ぶ。これら者は、 相続財産にかかわりたくないならば、 放棄(BGB1944 条[放 棄の期間] )するほかない。 ①無効が妥当でない場合 [例 3]① 被相続人 A が友人 B を単独相続人に指定しようとしたが、誤記して C と遺言で 書いている。A の死亡後 A には面識のない唯一の法定相続人としておい D がいる 62)。 ②被相続人 A が、使用人 BC のうち、C を単独相続人に指定した。それは B が A から盗 みを働いていたと考えたからである。ところが盗みを働いていたのは C であることが発覚 した。A の死亡後 A には面識のない唯一の法定相続人としておい D がいる 63)。. 通説によれば、取消は消極的な効果だけを有する。つまり、意思の瑕疵が 60)BGB2078 条は、意思と表示の不一致または動機と主観的因果関係がある「限り」で、取 り消されると規定されているが、BGB2079 条はそのような規定になっていない(Frank / Helms, Erbrecht, §7, Rn.53) 。 61) Staudinger / Otte, §2080, Rn.17. こ れ に 反対 す る 見解 と し て、MünchKomm/Leipold, §2080, Rn.11ff 参照。 62)Brox/Walker, Erbrecht, Rn.199 より。 63)Brox/Walker, Erbrecht, Rn.197 より。 350.
(29) 遺言の錯誤. ある終意処分が無効となり(BGB142 条) 、法定相続が生じる 64)。例題では、 A の遺言における表示錯誤が問題になっており、この遺言を D が取り消した 場合、法定相続により D がすべて相続することになる。しかし、A は明らか に D よりも B を優先する意思であるため、この結論は妥当ではないように思 われる 65)。この問題を解決するために、錯誤がなければ被相続人が当該表示 とは別に有していたはずの意思(仮定的意思)66)を有効にするという方法が 提案されている。 (a)解釈の拡大 67). 解釈が錯誤取消に優先することは判例・通説の認めるところである 68)。表 64)MünchKomm/Leipold, §2078, Rn.4, Staudinger/Otte, §2078, Rn. 6 und 36 など。 65)Brox, Die Einschränkung der Irrtumsanfechtung, 1960, S.140. 66)これは真意とも呼ばれる。しかし真意とは多義的な用語であるのでここでは仮定的意思 という用語を用いる。真意(真の意思)は、最も広義には、あたかも神の視座から見た かのような表意者の本当の意思、というような意味で用いられるが、狭義には錯誤がな ければ有していたであろう意思、といったような意味で用いられることもある。後者は、 ①錯誤がなければ当該意思表示をしなかったであろう意思、②錯誤がなければ有してい たはずの別の具体的意思、に分けられる。②は一般に仮定的意思とも呼ばれる。①は、 舟橋旧説における真意概念に対応するが(舟橋諄一・須永醇「錯誤における『真意』に ついて」志林 89 巻 1 号(1991 年)53 頁以下。 ) 、仮定的意思をこの意味でも用いる論者 もいる。 67)ド イツ法における遺言の解釈については、浦野由紀子「遺言の補充的解釈(1) 」民商 115 巻 1 号(1996 年)31 頁以下、同「遺言の補充的解釈(2・完) 」115 巻 2 号(1996 年) 50 頁以下(以下、 「補充的解釈」とする) 、岡林伸幸「遺言における最終的意思の実現」 名城法学 49 巻 1 号(1999 年)133 頁以下、堀川信一「遺言の解明的解釈の方法と限界に ついて」大東 53 号(2009 年)81 頁以下がある。特に錯誤取消との関係に触れるものと して、 浦野・補充的解釈(1)45 頁以下、 泉久雄「遺言の無効」家裁月報 30 巻 10 号(1978 年)16 頁以下。 68)錯誤が問題にならない場合にも遺言の解釈は問題になる。被相続人が遺言で受遺者を特 徴づけるために特定の名前を用いた場合(その遺言は別の者が考えられていたことの拠 り所を含んでいない、被相続人による異なる名前用法も確定できない) 、被相続人が表 351.
(30) 横浜法学第 28 巻第 3 号(2020 年 3 月). 示錯誤では、狭義の解釈により被相続人の意思が、動機錯誤では被相続人の仮 定的意思が確定される場合に、解釈によってその意思が有効となる。 たとえば、ブロークスは以下のように言う。表示錯誤では、錯誤取消が検討 される前に、被相続人の表示の解釈がされるべきであり、その際には遺言だけ でなくあらゆる資料が裁判官によって考慮されなければならない。そこで意思 と表示の乖離が確定したならば、相手方の信頼保護が問題にならない遺言にお いては、被相続人の意思を重視すべきである。このように解釈によって被相続 人の現実の意思に照らした遺言の改定(Reformation)が導かれる 69)。こう考 えると、BGB2078 条 1 項は無用のものとなるとの批判がありうるが、解釈の 際に被相続人が表示内容を意欲していなかったことは確定できるが、実際に何を 意欲していたかまでは確定できない場合には錯誤取消の余地が残っている 70)71)。 次に、動機錯誤については以下のように言う。動機錯誤においても、被相続人 が意思の基礎になっている評価因子を正しく評価したならば、何を意欲してい たかに照準が合わせられるべきである。不正確な評価因子と正確な評価因子を 取り替えることで、法学的な意味でのー心理学的な意味ではないー被相続人の 現実の意思が確定される。この際にも裁判官は遺言以外の全資料を考慮しなけ ればならない。この際の誤った評価因子と遺言との因果関係は、当該評価因子 が欠如したら被相続人が異なって遺言をしたであろう程度に遺言内容に影響を 示の際に誤り、実際には別の人を考えていたとの主張は、解釈の方法によって考慮され てはならない。反対に被相続人が配偶者を「Mutti」母を「Oma」と呼んでいる場合、 ワイン倉庫を図書館と常に呼んでいる場合、当人が正しく考えた内容という意味で解釈 が妥当するという(MünchKomm/Leipold, §2084, Rn.19f.) 69)Brox, a.a.O, S.140f. 70)Brox, a.a.O, S.141f. Brox / Walker, Erbrecht, Rn.199. 71)BGB2078 条の起草段階では誤記の場合は終意処分の有効性に影響を与えないという条文 案があったが、第二委員会で意思表示の解釈に委ねられるべきという理由で採用されな かった(詳細は、中谷・遺言錯誤(3・完)394 頁) 352.
(31) 遺言の錯誤. 与えるものである 72)。この際、被相続人が別の動機あるいは複数の動機によっ て、当該遺言をなしていた場合には、当該動機がなくても当該遺言をしていた と言えるため、当該動機錯誤は考慮されてはならない。つまり、当該動機が当 該遺言をなすのに唯一決定的なものであった必要がある 73)。 たとえば、被相続人は悪口を言われたと思って友人 X ではなく、友人 Y を 単独相続人に指定したが、実際には X は悪口を言ってなどいなかったという 場合には、 誤った評価因子(X による悪口)が正しい評価因子(X は悪口を言っ ていない)に取り換えれば、X を単独相続人にしたと言えるならば、これは満 足のいく結果になる。仮に錯誤取消を認めると法定相続が生じ、被相続人に見 ず知らずのおいしか相続人がいない場合、友人 Y よりもそのおいが優先され てしまうが、これは被相続人の意思に合致しないだろう 74)75)。 72)Brox, a.a.O, S.145. 73)Brox, a.a.O, S.147. 74)Brox, a.a.O, S.144f. ブロークスは、このような判断は既にローマ皇帝ハドリアーヌスに よって認められていたとして、以下のローマ法源を挙げる(S.147.) 。学説彙纂第 5 巻 第 2 章第 28 法文(パウルス) 「ある母親が軍人たる息子が戦死したと誤って知らせ受 けたので、遺言により別の者を相続人に指定した際に、神皇ハドリアーヌスは、自由 (libertates)と遺贈が与えられる限度において相続財産は当該息子に帰属すべきである と勅した。この点で、自由と遺贈に関して付け加えられた事柄が指摘されるべきである ※。何となれば、遺言が近親に対する忠実の義務にかなっていない(inofficiliosum)と 明らかになるとき、 (本来は)当該遺言に基づいては何事も有効ではないのだから。 」 (訳 出したローマ法の法文はモムゼン版(P. Krüger / T. Mommsen, Corpus Iuris Civilis, Vol. pr. Institutiones / Digesta, Weidmann, 1973)による。 ) 。※の部分は、モムゼン版の本文 では adnotare の完了受動分詞 adnotatum が記されているが、校訂欄によれば、動形容 詞 adnotandum が指示されている。文脈上そちら方が適切だと思われるので、校訂欄の 指摘に従い受動の義務の意味で訳出している。 75)ドイツでは一般に、遺言で全く示唆(Andeutung)されていない事情を解釈で考慮する ことは許されていない(示唆理論・示唆説) 。しかし、ブロークスは、示唆理論は妥当 な結果にならないとして論難する(Brox, JA 1984, S.549ff.) 。示唆理論については、浦野・ 補充的解釈 (2・完 )228 頁以下、岡林(前掲脚注 67)135 頁以下、堀川(前掲脚注 67) 86 頁以下参照。 353.
(32) 横浜法学第 28 巻第 3 号(2020 年 3 月). (b)取消の積極的効果. 取消に処分の遡及的無効という消極な効果ではなく、処分を積極的に作出す るという効果を与える考え方である。連邦通常裁判所の判決にはこの見解を採 用するものがある( [判決⑦]傍論) 。つまり、 「連邦通常裁判所の判例および 学説で一致して指示された見解によれば、2078 条に従った処分の基礎づけら れた取消は、それを複数の取消権者の一人だけが(適時に)主張するとして も、その者のためだけに作用するのではなく、絶対的に作用し、その他の当事 者の利益にもなる。この見解はライポルトが批判しているが 76)、この批判に 対しては、死因処分の取消が通説が考えるようにそれに関係する取消権者の 利益にのみ資するのではなく、同時に被相続人の利益にもなり、被相続人の意 思の瑕疵を『絶対的に』 考慮し、 被相続人の(仮定的) 意思を広範囲で有効にす るという理由で反論することができる。これは、2078 条 1 項の基本的な考え と合致している。つまり、2078 条 1 項は取消権がある者が基礎づけた取消に、 当該処分が意思の瑕疵に関係している『限りで』力を持たせる(durchgreifen) のであり、 『取消権者が処分によって不利益に扱われる限りで』しか力を持た せないのではない。 (他の)取消権者が(部分的に)処分を取消可能なまま にしておくつもりの場合、つまり取り消すつもりがない場合、同人の利益と 対立するかもしれないが、その利益は、 被相続人の処分の(絶対的な) 修正に 対する利益やともに関係する取消権者による同人に委託されたも同然の措置 (gewissermaßen treuhänderischer Wahrnehmung) に対する利益よりも重要で はない可能性もある。 」 (下線筆者) 。 (c)批判. 以上のような被相続人の最終意思の実現に対して、ライポルトは以下のよう に批判する。解釈が取消に優先するとしても、解釈の拡大により被相続人の仮 76)ライポルトは、取消の目的が取消権者の保護であると見て取消の絶対効に疑問を呈して いる(MünchKomm/Leipold, § 2080, Rn.13.) 。 354.
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