徐壽輝西系紅巾軍の内部構造 - 元末天完政権の体質と限界 -
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(2) (二)徐壽輝集団と「普」字問題 一鈴木中正氏論の検討一 鈴木中正氏は、その著r中国史における革命と宗教』(19プ4年、東大禺婚合)に於いて、「西之. の方こそ、茅子元の法流に属する白蓮教系統である。」という新説を発表した。その論理 構成は次の①∼⑦の通りである。 ①徐氏集団の指導者の中には、郷普勝・欧普祥・趙愈愈・丁普郎。項普瑞・陳普文の如く. 「普」字を上に冠した人名の多いことに気づく。. (古身集団には全く見られないし、張由良や方国宣の配下にも見られない。従って, 面出集団の性格を示す何らかの事情を物語ると考えるのが自然であろう。) ②『浄土農鐘』虚血(清鰍三年周論議〉に、近世の白蓮・無為・円頓・浬樂・長生・受持. などの諸教が仏祖の教論の端くわを利用し、いかさま教法を偽作したと非難し、そ の一例として「妄りに歯冠女面を分つものあり」ということを挙げている。特に男 性信者は”普”、女性信者は”妙”の字を冠した法名を称したという。また、. A.清代の羅教では血忌を冠した法名が男女を問わず与えられた。 B.円頓教の祖師も代々虚字の法名を称していた。 ③このような慣行は南面茅子元(白蓮宗の醐)が仏教教理を総括するものとして説いた”普”・ ”豊”・”妙”・”道”の四文字にあると推測される。元代の白蓮宗関係文書にも”普”の字. を冠した人物名がみえる。. ④子忌死後もその教法を奉じ、その教団の流れを汲む組織に属すると自認する人々が ”普”・”毘”などの字を冠した法名を称する習慣が続いたのであろう。. ⑤明清時代の民間宗教諸派は、教義や信仰対象の点で茅子元のそれと著しく異なった. ものとなったが、子元の在俗者布教は後世に深い感化を与えたから、後代の民間宗 教結社員が腰元の法統を汲むと考え、点字を冠する法名を称したのは不思議ではな い。. ⑥徐氏集団の郷普勝は彰面心和尚の教説を奉じる宗教派である。また欧普祥は激道人 と称した。白蓮宗の信者が「白蓮道人」と自称していたことからみると、普字名と. 併せ考えて、欧普祥が茅子元の流れを汲むと考えてよかろう。二面集団中、宗教的 性格を確かめうる虚字名の人物は上の二人である。. ⑦趙油垢・丁普郎・項心血・陳普文・子壷略・魯応訴・陳普略などは、いつれも軍人 或いは政治家として活躍したが、残念ながら彼らの宗教性については知る由もない。 しかし、話説したところがら考えて、彼らが宗教派に属し、子息の教説を伝えると 自認していた自認していたとなしうる可能性は大きいと思われる。 結論]重松教授が皇霊出前系統を弥勒古血となし、往航集団系のものを白蓮教系とさ れたのとは違って、徐氏集団の方こそ、子元の法流に属する白蓮教系とすべき. 一2一.
(3) であろう。 この鈴木氏の新説に対して、反論したのは相田洋氏である。相田氏は、当初はこの新説 を肯定されたが、その後否定された⑧。 相田洋氏の反論は、次の①∼③の通りである。 ①三四児集団では、 (史料に)「白薄書會を以って、云々」と明記されているが(9》、. 徐二三集団には、どこにも「白蓮教」と書かれていない。 ②徐壽輝集団が「白蓮教」を奉じたと㌢・う鈴木説のポイントは、徐壽輝集団では「普」 の字の附く名前の者が多いが、これは南宋の「白蓮宗」で、「普・覧・妙・道」の四 字と尊んだからであるという点であろう。しかし「普」の附く名前は佛教関係者に. よく使われる名前で、茅子元の法系の専売とはいえない。例えば南北宋交替期に 「紅巾」を掲げて三軍の侵入に対する自衛武装団を結成していた長藍(鵬鮒近)の崇. 福輝の行者は普倫・普健・普斌という名前である。 ③同じ集団内で、ある共通の文字を使う習慣は、仏教集団だけでなく、南北宋交替期 の武装集団などでも見られ、「白蓮教」独特の習慣とは言えない。 結論]徐二丁の集団は、弥勒佛信仰を奉じていたので、やはり重松俊章が「弥勒教系」 と名付けたようにすべきであろう。. 明末清初の人鏡謙益の著したr國初撃雄事略』の巻3天完徐壽輝と巻4漢三友諒から西 系紅巾軍の配下にあったと思われる部将をリストアップすると表1のようになるqω。. 表■ 番号 人名. * 1郷普勝. 史構瀦. 3 椀文郁. 至正11年 至正11年 至正11年. 4項甲. 至正U年. 2椀文俊 * 5丁普郎 6 徐明遠 7 曽法興 * 8 欧普祥. 9欧文廣 10許甲 ll陶九 * 12項目暑. 13彰翼達. 至正12年 至正12年 至正12年 夏至正12年 忌至正12年 至正12年 至正12年 至正12年 至正12年 至正12年 至正12年 _至正12年.. 配下 徐壽輝 徐壽輝 徐壽輝 徐国事 徐早早 徐壽輝 徐壽輝 徐壽輝 徐壽輝 徐壽輝 二上二 等壽輝 徐壽輝 徐壽輝 徐壽輝 徐壽輝.. 一3一. 備考 天完面戸. 黒 鯛伽弟. 項普暑と同一人物か 潮砒(漢陽). 江西衰州府(衰国公). 贈孟子. 彰受玉と目一一人物か. 江酷輝.
(4) 17 康壽四 *. 18江二螢 19趙普勝 20 周駿 21 命懸正. 22窯仲夏 23 劉萬戸 *. 24許堂島 25魯普泰 26 二二顔 27 陳伯祥 28 姜珪 29 明玉門 30 陳鷺山. 31王雪国. 32康泰 33趙壕 34銭i清 35孟至徳. 36 張士道. 37幸文才 38圧禁野 39 陳友徳. 40里雪兇. 41三等 42胡総管. 43郭泰 44蟹克明 45張篭先 46張定邊 47羅忠顕 48 張志雄 49 梁鉱 50 喩國興. 51二世彷 52長西元 53 幽光 54 侯二佐 55 劉敬 56 陳友仁. _貿_劉仁__. 至正12年 至正12年 至正12年 至正12年 至正12年 至正12年 至正12年 至正12年 至正13年 至正13年 至正13年 至正15年 至正璽7年. 至正17年 至正18年 至正董8年. 至正18年 至正18年 至正18年 至正18年 至正18年 至正18年 至正19年 至正19年 至正19年 至正19年 至正19年 至正18年 至正20年 至正20年 至正20年 至正20年 至正20年 至正20年 至正20年 至正20年 至正20年 至正20年 至正20年 至正20年. 徐壽輝 徐壽輝 徐壽輝 徐壽輝 徐壽輝 徐壽輝 徐壽輝 徐壽輝 徐壽輝 徐壽輝 徐壽輝 徐壽輝 徐壽輝 徐壽輝 陳友諒 陳友諒 陳友諒 陳友諒 陳友諒 陳友諒 陳友諒 陳友諒 陳友諒 陳友諒 陳友諒 陳友諒 陳友諒 陳友諒 棟友諒 陳友諒 陳友諒 陳友諒 陳友諒 陳友諒 陳友諒 陳友諒 徐壽輝・陳黛. 鵜嚇紬身. 湖北(酬). 天鯵政. 大夏購翫. 醸塵設. 趨甑唖下. 倣勧鵡. 鰭勲餅 趨鵠の部下. 鰭勲部下. 繍の緻 纐鵬 陳嫡の丞相. 陳嶽の樹. 趨普融部下. 矯人職鵬. 厳勧参政 陳友諒 欧普祥 鰭勘鋤 陳嫡の弟 陳友諒 =至正2旦隻_一欧普祥,.,._____. 一4一.
(5) 58黄彬 59 王搏. 60墨壷道 田 王謡曲 62 粛明. 63彰壽 64慈心 65 郭敬 66 孟興. 67感冒壽 68羅康榮 69 登志明 70 胡二二. 71祝宗 72鄭仁傑 73 胡二二 74 彰時中. 75孫本立 76 曽萬中.. 77 曽粋中 78 言置瑞. 79徐指揮 80呉員外 81二二事 82二二臣 83熊元震 84 削去仲. 85蒋必勝 86陳友貴 *. 87 陳普略. 88陳榮 89魯某 90李才 91小舎命 92王副椹 93質愈院 94楊丞相 95韓副椹 96 羅復旧 97 陳友才 密養. 至正20年 至正21年 至正21年 至正21年 至正21年 至正21年 至正21年 至正21年 至正21年 至正21年 至正21年 至正21年 至正21年 至正21年 至正21年 至正21年 至正22年 至正22年 至正22年 至正22年 至正22年 至正22年 至正22年 至正22年 至正22年 至正22年 至正22年 至正23年 至正23年 至正23年 至正23年 至正23年 至正23年 至正23年 至正23年 至正23年 至正23年 至正23年 至正24年 至正24年 累. 欺普祥 陳友諒. 厳勧平章. 徐韻・購. 韻鵬. 陳友諒 陳友諒 陳友諒 陳友諒 陳友諒 陳友諒 陳友諒 陳友諒 陳友諒 陳友諒 陳友諒 陳友諒 陳友諒. 王渤弟. 徐談・1髄. 1日繍時中. 陳友諒 陳友諒 陳友諒. 顯鵬. 繍輝・購. 紅鵬. 熊天瑞 熊天瑞 熊天瑞 陳友諒 熊天瑞 熊天瑞 陳友諒 陳友諒 陳友諒 陳友諒 陳友諒 陳友諒 陳友諒. 陳嫡の縮 倣勧萬戸 疎友渤平章. 陳餓の敗 陳友諌の縮. 購の元帥 陳友諒蠣戸. 登棚の弟 陳嫡の儲丞相 陳友勧儲平章. 帥の弟. 厳諒の知院. 畷舐 激勧知院. 繍の弟 甑諒の平章 陳嫡の平章. 陳友勧鋤 骸諒の儲使 藻鹸の儲使. 陳友諌. 陳友諒の枢密使. 陳友諒 陳友諒 陳友諒 陳友諒 陳友諒. 購の儲使. 糖の兄. 諒,___灘__。 一5一.
(6) 99亡友富 100陳友直. 至正24年 陳霊廟 繍鵬 至正24年 陳友諒 醐薦硯. r國初華雄事略』からの摘出を補うために、さらに楊訥・陳高面諭r元代農民戦争史料 上編』(韓書目1985年衡)の「面谷輝・陳友諒の部」から徐壽県西朗朗巾軍集団の中でr國初. 富雄事略』には見られなかった「普」字のついた人物だけをリストアップすると、表2の ようになる。. ◇表2 恥. *1 *2 *3 *4 *5 *6 *7. *8 *9 *io *11. .人名. 況普天 楊普雄 口引四 張普献 李普成 王語誌 鐘温品 二二清 四則哲 方普徳 鄭普泰. 溺 顛 江西 徐二二 『正観鮪志』巻1 至正12年 駄(翼臨〉 r骨導嚇』巻1 徐壽輝 至正12年 枇(頼路) r羽麟』巻4 徐壽輝 至正12年 江西 徐壽輝 至正12年 r瀦醐瀦蜷9 江西 胴㈱1階』巻6 徐壽輝 至正12年 江酉 r購酬縮』巻6 徐壽輝 至正12年 胴治瑞欄志蜷6 徐壽輝 至正12年 甑 江西 叶ウ12年 .徐壽輝 『二型昌嚇蜷24 r弘治雪暗蜷9 至正玉2年 徐壽輝 鋪 安徽(酬路) r夷白旧稿』巻17 爆撃輝 至正12年 r元史』巻144 卜顔帖本晃伝 湖北(斬州路) 徐壽輝 至正13年 蝋年回. 研 ,. \. 二つの史料から摘出された亜系紅中軍の部将数は111人であった。表1と表2の事項か らっぎのようなことが指摘できる。. ①名前に「普」字を冠した部将は、19名が列挙される。 ②名前に「普」字を冠した部将は、西系紅巾の乱の第1段階[特に至正11年(1351)から 至正12年(1352)頃]に登場している。しかし、第2段階[至正15年(1355)頃から]以降は、. ほとんど史料にみえない(lD。. ③名前に「普」字を冠した部将の活動地域は、江西省から安徽省にかけてが多く、特に 天完工の首都薪水から東の方向へ進軍していった部将に多くみられる。 ④名前に「普」字を冠した部将は、ほとんど徐壽輝の配下にあった。 ⑤陳友諒の配下には、名前に「普」字を冠した部将はほとんど見えない。 (同様のことは、徐壽輝の斎言にあった明玉珍集団にも指摘される。). 摘出した111人の部将の中には、初め徐壽輝に従い、その後寺台諒に従った者、徐壽輝 にだけ従った者、陳友諒にだけ従った者、途中から朱元璋に降伏した者などがあるが、と にかく徐壽輝西曲言巾軍(天爵政権)に包含される人物を列挙した。その中で名前に「普. 字を冠した部将は、19名であり、摘出した111人中に占める割合は17.1%に過ぎない。. したがって、徐壽面心系紅出軍の中に名前に噌」字を冠した部将が見られるというこ とは史実ではあるが、それは徐壽輝集団のあくまで一部を占めるに過ぎないものといえよ う。このように考察してくると、先の鈴木氏の論考は、徐壽輝集団のあくまでヅ部に見ら. 一6一.
(7) れる特色をもって、徐畜生西系紅巾軍全体の宗教性を論じ、「白蓮教系統」という位置付 けを行ったということになるのではないかと考えられる。 筆者の論点は,次の①∼④の通りである。. ①「普」字を冠した部将は、徐壽輝集団のあくまで一部に見られることである。. ②「普」字を冠した部将は、白蓮教系統とされる東系紅巾軍の韓山童・韓林児集団には 全くみられない現象である。また東系紅巾軍に関しては、r元史』順帝本紀に「韓山 童の祖父が“白蓮會”を主宰し、そのために広平の永年縣に諦徒された」とあるが、徐 壽乱曲系紅血軍集団には史料上「白蓮」という文字は全くでてこない。 ③名前に「普」字を冠することは仏教関係者によく使われ、茅子元の白蓮宗に限ったこ とではないという指摘があることG2)。・. ④面心輝を西系紅巾軍の首領に推戴した命婦玉和尚は、葉子奇r草木子』六三克謹直に 「能く掲頬を為り、人に勧めて“弥勒佛”を念じせしむ。」とあるように弥勒教を奉じて いた。(これが重松俊章氏が西系紅巾軍を弥勒教系統と位置付けた大きな根拠である。). 以上のような考察から筆者は、鈴木氏のように「普」字問題と結び付けて徐壽輝西系紅 巾軍集団の宗教性を系統付けることには無理があるのではないかと思わざるを得ない。徐 壽輝西系紅巾軍集団は、全体としてやはり戦前の重松俊章氏が「弥勒教系統」と分類し、先 の相田洋氏が重松氏の見解を支持したように、「弥勒教系統」と位置付けるのが適当ではな いかと考えるのである。. (三)彰螢玉・郷普勝・徐壽輝の関係. 一献系紅一軍の成立過程とその権力構造一. 前項で「普」字を冠した部将は油壷輝集団の中で必ずしも多数を占めるものではないと いう事を検証したが、集団の一部にせよ名前に「普」字を冠した部将が見られ、鈴木氏が この点に着目したことは、雨漏輝集団の特質を考察する上での重要な視点であることは確. かである。それは、「普」字を冠した部将には、前項の表1・表2から指摘したような① から⑤の特徴が看取され、登場時期や活動地域に偏りがあるからである。このことは天完 政権(西暗紅懸軍)の初期権力構造とも関連してくると考えられる。そこで次項では、西系. 紅巾軍を組織した彰当面・郷普勝・徐白蜜という三者の関係を中心に、合わせて西系紅巾 軍の成立過程と初期の権力構造について考察する。・. 1.彰榮玉と鄭普勝の関係について. 戦前、重松俊章氏は、r明実録』巻8徐壽輝伝の、 初富墨壷化寺僧彰螢玉里妖術惑衆、其徒周子旺因聚衆欲作目、事覚、元江西行国劇兵、. 一7一.
(8) 捕母子承知、螢理体至准西匿民家、離調獲。既而麻匠人郷普野中以其術鼓妖言、謂 「弥勒佛下生、當爲世主。」遂起兵爲齪。以壽輝相貌異、衆乃推以還主、挙紅巾四幅。. という記述から、鄭普勝が彰螢玉の術を以て弥勒下生を唱えたとして両者の関係を師弟 (門弟)関係と規定されたq4㌔また、鈴木氏は「彼(鄭単勝)は、彰螢玉の教説を信奉する. 宗教派であった。」と述べq5)、谷口氏も「同勢国の建国に当たって、その実質的動力と. なったのは、鄭普勝であって彼は妖僧彰螢玉の直系の弟子であり、天完国の最も枢要の地 位にあった。」と述べられq6>、重松氏の見解を踏襲している。これまで両者の関係をこ のように師弟関係とする見解に懐疑を示した論考は全く見られないが、筆者はこの両者の 関係について、いま少し考察してみたい。. 重松氏は、先の郷宇戸が彰螢玉の門弟であったことは疑いの余地はないと述べられたの に続けて、1一かかる意味から云えば此の紅軍に於ける彰和尚の教門上の位置は広袖汝頴派. 紅軍に於ける小明王のそれに匹敵すべきものであったが、但、周園の事情や彰和尚の個人 的境遇などから小明王の如くその教鞭團の首領として推戴さる、に至らなかったやうであ る。」と論ぜられたG7)。ここで注意したいのは、彰々玉が郷曇勝や徐壽輝の教門上の師. に当たるとしながらも、彼が小明王(東系紅巾軍の何丈児)のように推戴されなかった理 由が、「周園の事情や彰和尚の個人的境遇」という極めて具体的でない理由で説明がなさ れている事である。また、なぜ導灯玉が韓林児のように推戴されなかったという論点につ. いては、重松氏以外の研究者は全く誰も論及していない。谷口氏の言うように鄭普勝が彰 螢玉の直系の弟子であり、その関係が強固な師弟関係であったとすれば、徐追贈の天意国 が成立した際、敷砂勝が天完国の「太師」という地位に就いたように、その師である彰蒲 魚も何らかの参謀的地位或いは名誉的地位に就いて然るべきと考えられる。しかし、徐幽 思集団に於いて彰繭玉が何らかの中枢的地位に就いたという記録は存在しない。しかも、, 都重質の就いた「王師」という地位は当時の元朝の官制から言えば、三公(太師・面面・太. 保)という名誉職の中でも最高に位置するものであり、これ以上の官職は新たに作らない 限りは存在しない。ということは郷普勝は、天完国の中で皇帝徐壽輝に次ぐ最高の位置に 座り、名誉職的にでもその師である彰螢玉を上位に置くっもりはなかったと考えられる。 また史料的には、至正11年(1351)8月の徐壽輝集団蜂起以後、徐飼物や都曇勝に関する記 録はあっても彰榮玉に関する記録はほとんどみちれないという点が指摘される。彰螢玉と. 江戸輝や鄭普勝が強固な師弟関係で結合していたとすれば、叛乱以後の歴史史料に彰榮玉 ・に関する記述が、もう少しあってもよいのではないかと考えられる。そこで、重松氏が 「周園の事情」・「彰和尚の個人的境遇」と論ぜられた点に注意しながら彰螢玉と鄭普勝 の関係を、もう一度史料的に検証してみたい。. 先のr明実録』巻8徐壽輝伝の記述からは、至元4年(1338年)の周子旺の乱以後、准西 に逃れた彰螢玉が、やがて麻城(湖北省麻城縣)の睡郷普勝と結合して徐壽輝の容貌が異 相なのをみて叛乱の盟主に担いだことが読み取れる。但しこの間、14年の時間が流れてい 一8一.
(9) るという事に注意しなければならない。その間の整合玉はどのような行動をしていたので あろうか。このことに関連して『正徳壱州立志』巻Il凶事志に、次のような記述がある。 至正八年、萬載盛人彰国玉誰白蓮教(18)以惑衆、暴言r撒豆守兵、白茅成心」、. 謀爲不軌。前敗、鳳至麻城、糾鄭普勝、合衆数萬、七堂血膿號。. また、r嘉靖蓑州府志』巻9人物志第12−2にも 至正八年、面向詞人彰国玉以白蓮惑衆、謡言「撒豆成兵、淫心成剣」、謀不軌。 事敗、籟入麻城、合郷普勝之総数萬、以紅巾心霊。. という同様の記述が残されている。この史料に初めて着目したのは、中国の研究者楊訥で ある。彼は、この史料を1960年代初め忌日含に送り、呉昭はその著r朱元暦傳』(1965年刊行本). の中で、この彰国玉を血路玉であると註の中で論じたq9)。一方その後顧訥は、この史 料を充分な検証なしに呉暗に送ったとし、義血玉が彰祖師と尊称されていることから伽}、. 彰国玉はそのような地位の高い人物にみえないとして、これを彰螢玉と同一視することに 否定的見解を出した12D。しかし、筆者は、この史料にみえる彰国玉は呉曙のように彰螢 玉と理解して良いのではないかと考える。その論拠は、次の通りである。 ①彰螢玉の修行した慈化寺は江西衰:州府訳載縣にあり、彰国玉の起乱の地と同一地域 であること。. ②彰国玉の「直面成兵、飛茅成剣」という一種の詐術は、彰螢玉が周子旺の乱でみせ た「背中に赤字を書くと官兵は傷つけること能はず」という詐術と通じるものがあ り(22>、同じく歴代の弥勒教匪の乱に見られる詐術現象と同一に類すること(23)。. ③麻城に逃れて郷複勝の衆と合したという経過記述もr明実録』やr明史』の記録に 基本的に符合していること。. このことから考えると彰螢玉は、至元4年(1338)の周子旺を担いでの蜂起に失敗後、一 旦准西に逃れたが、その後身州府に戻り、10年後の至正8年(1348)に再度萬載縣で蜂起し. て失敗し、再び南西に近い麻城に逃れたということになる。つまり、麻城に潜入してきた 段階では二度目の敗残の身の上の状態であったのである。そして、彰螢玉を受け入れる側 の鄭普勝は、史料に「郷衰容と糾し、衆を合すること数萬」・「鄭普勝の衆と合すること. 数萬」とあり、この「衆を合する」という記述に着目すると、郷普勝は、彰螢玉や螢玉の 徒党と合する以前の段階で、独自の衆(集団)を持っていたと理解できるのである。また、 彰螢玉と郷普勝の関係がより密接なものとなっていったのは、至正8年(1348)以降である. ということになる。そうすると至正11年(135D8月の蜂起までの時間は3年弱しかなかっ たということになる。二度目の罷申の身で本拠地江西衰州を離れて麻城に潜入してきたと いう立場の彰建玉と、麻城を本拠地とし、自らも衆(集団)を持っていたと思われる都立勝. ・一. X一.
(10) の間に、この短い期間の中で強固な師弟関係が築き上げられたであろうか。 2.郷画室と忌垣輝の関係について 郷普勝と徐壽輝の結合過程については、r國初繭雄事略』巻3回虫 「湖山訴訟」に、 至正辛卯、中原謡言、壽輝行山中、獲襲鐡十斤。麻城鐡工鄭普勝居鶉壽輝、 夜回有黄龍婚其鐡礒。明日、壽輝携鐡過之、令製銭鉗、鱒座鐡碓上。普勝心異之、 告之日:ザ今天下尚須鎖銀活耶。當煉一劒贈君耳。」子是爾人三相結、陰謀畢大事。 玉詞和尚重詰富豪L、普古言與衆盲推古輝爲主、墨兵、以歩巾爲號。. とある。この史料の大意は次のようであろう。平生販布を商売として㌶山路と黄州路の間. を往来していた徐壽輝が山中で鉄片を発見した。麻城の鉄工であった鄭出勝は壽輝と平静 から顔見知りであったが、ある夜、鐡砲に黄龍がとぐろをまく夢を見た。その翌日、徐壽 輝が鉄片を携して郷二五のもとを訪れ農具の鋳造を依頼して、(夢で魏がとぐろをまいた)鐡硲の上に 樽座した。郷普勝は、これを異に思い(壽箪不思融勧的なもの備じて)、徐壽輝に告げて言った。. 「今の天下の情勢は農具を必要とするような時勢ではないから、この鉄片から一剣を作り、 君(徐壽輝)に贈ろう。」 ここに於いて両者は深く結合し、大事(叛乱)を爲さんとする陰謀. をかわした。そして、彰和尚の妖党が乱を為そうとしているのに会し、郷信勝が衆と共に. 徐壽輝を推して盟主とし、叛乱を起こしたのである。この記述から鄭普勝も徐壽輝もその 鉄工や綿布売りの職業を通して、元朝の圧政に対する民衆の世情に通じていたことがわか る。「至正辛卯(至正ll年)、中原盗品。」とあるから、鄭出勝と徐壽輝は日頃から顔見知り. の関係であったとしても、叛乱を策し深く結合したのは、東系紅巾の乱が起こった至正U 年(135D5月から徐・鄭らが蜂起する同年8月までの間であったという事になる。そうす ると徐壽輝は叛乱の直前に担ぎ出されたということになる。また、この両者が深く結合し ていく過程に関して、彰螢玉は直接的にはほとんど関与していないことが指摘できる。し たがって、徐油画は彰螢玉よりも止立勝との関係がより密接であったと言うことができる であろう。. 3.彰榮玉と徐壽輝の関係について 葉子奇r草木子』巻3克謹篇によると、「妖彰」(彰油玉)の衆が、乱を為そうとして中心. 人物を物色中に、徐三三が盤塘の水中に浴くす機会を見、徐壽輝の体から光りが放たれて いるのを見て驚き、遂に立てて帝と為したとある。これに関連して『草木子』は「妖彰の 衆、乱を爲さんと欲するに及び、その主を得んと思ふ。」と記しているが、なぜ彰螢玉自 身が叛乱の盟主となることができなかったのであろうか。. 一10一.
(11) 先のr正徳瑞州府志』やr嘉靖衰州府志』の記録から考察すると、彰螢玉が郷普勝らと 合流し、徐壽輝を盟主にして朝餐紅巾の乱を起こしたのは、醗酵玉にとっては三度目の蜂 起となるわけである。周子旺の乱や至正8年(1348)の江西蓑州府萬載縣での叛乱までは、 彰螢玉自身に民衆に対するカリスマ性(ここで言うカリスマ猷は、貧困に駅踪に強く生き磯とその勇気を弓1き附韻を胞し、. 訴や殿の嗣醜顯を郁力を持・た籟的擁性臆味する。)がまだ強く存在していた。それは、二日の出自に関. するr庚申外史』の「蓑州府の民衆が螢玉に仕えること神の如し。」という記述からも窺 い知ることができるが、それだけ名前が知れ渡っているということは、逆に蜂起が失敗し た時の反動も大きいと言えよう。したがって、この二つの叛乱の失敗は彼自身の持つカリ スマ性を希薄にさせ、もはや彰臭墨独りの唱導だけでは民衆を叛乱に大量動員させること は不可能に近づいていたのではないかと推測される。重松氏が「周囲の事情」「個人的境 遇」と述べられた意味は、このあたりにあったのではないだろうか。だからこそ、どうし ても民衆叛乱の象徴となって螢玉自身に代わるカリスマ性を内包した人物、或いはカリス マ性を付帯させ得る人物を探す必要があったのである。そしてその象徴として選ばれたの が徐壽輝であったと言えよう。. 即ち、彰螢玉と徐毒舌の関係は旧来のものではなく、蜂起直前に成立したもので、彰螢 玉としては、徐壽輝はその利用対象でしがなかったのである。しかし、ここで注意しなけ ればならないのは、後述するように徐壽輝が単に利用される人物に止まらず、西系紅巾軍 集団の中で彰螢玉に代わってかなりのカリスマ性を持つに至ったという事である。 4。徐壽輝の性格について. 徐壽輝の人物像については、同じくr草木子』巻3克謹篇の、「姿状戸出にして他に長 ずるところなし。」・「資性寛縦にして、権は臣下にあり、徒に空名を存するのみ。」と. いう記述に代表されるような厳しい評価がほとんどである。『明実録』巻8にも「木強に して他に能なし。」とある。重松氏も「その爲人は、鐙貌魁偉、木強にして寛容の性質の 外、他の能力なき全く一介のロボット的人物。」と述べられている伽)。. 徐壽輝は、r草木子』やr明実録』の記すように彰螢玉や郷士勝の惚編に過ぎない人物 であったのだろうか。この点を考える上で参考になる史料がある。 歳庚子(鉦20年)、徐之藩臣陳友諒殺徐、而自立更偽凶日漢。君(砒)乃泣日、. 「我與陳石工君上臣、陳不道乃ホ、玉吟北面而事之邪。」. 宋濠r宋学士文集』巻3rF指揮墓誌銘 これは、徐壽輝の部将であった都昌(三跡昌縣)の人垣光師,が、徐が臣下の陳友擦に殺害. されたことを嘆き、「陳も自分も皆徐輝輝の臣下ではなかったか。」と陳の非道を非難し、 「北面(天子を北に見る。賜、骸諒の臣下となることを意昧する)して、陳運脚を主と仰ぎ、その節制下に入ること. 一i1一.
(12) ができようか。」と泣いて語ったことを記述したものである。子光については、同じく宋. 灘r宋学士文集』巻3干指揮墓誌銘に、 君(税)幼心読書通大義、緒紳先生幽魂、既長嘉落有大志。 とある。「読書を知り、大義に通じ、蕩落(心が大きく樽にとらわれない)に長じて大志有り。」という記. 述から彼は恐らく儒学を学んだ有能な知識人層(士大夫層)の人間であったことが理解され. る。その子光が超越輝の死に涙を流して悼んでいるのである。徐壽輝は、少なくとも干光 という有能な人間を落涙させるだけの器量のある人物であった。. この史料を記したのはまさに元女紅巾の乱の時代を生きた宋濠であり、翁面璋のブレー ンとして高名な儒学者であっ痙。その愛心が朱元璋と覇権を争った仇敵陳腰強の旧主であ. る徐心血を知らないわけがない。したがって、このr宋学士文集』巻3予指揮墓誌銘と いう史料の信慧性は高いのである。その後、醤油は朱盛典に降り、明室の北伐の部将とし て元朝の援廓帖木兜(ココティムーのと戦い、戦死を遂げている。. また、徐壽輝の配下にあった四川の明玉珍も徐壽輝の死を悼み、徐適応の廟を立てて春 秋の祭を行ったとされる(26)。これに関連して徐壽輝は、明玉珍を自軍に招聰するに際し て、次のように語っている。 癸巳(i鉦13年)冬、徐壽輝使人三三三日「予起兵學義く期逐胡虜、以靖中夏。若帰、. 〈中略〉. 共心大事、不急、且先蘇之。」 壽輝待殊礼、授爵兵濃鼠大元帥。. 蝋益 r闘初至雄事略』 巻5 夏舅王珍 所引『弱氏実録』. この記述から虚血玉らの弥勒佛下生信仰とは別に\徐壽輝の中に激しいナショナリズム に立った反元朝意識があったことが看取される(2η。そしてこのナショナリズムと反元朝 意識は、徐壽輝の「天立国」から“征虜大元帥㌔“朧心行藍鼠丞”を拝命し、徐壽輝亡き後、. 三戸王を自称して亡友諒や身元璋と対抗した明玉珍の「大亡国」に受け継がれていくので ある(28)。. 以上のような点を考えると、徐鴻益は集団内の部将(胱・旺盛など)の尊敬を受け得るに足る. 資質を持っていたのであり、彼に1資性寛縦」なところがあったとはいえ、「徒に空名を 存するのみ」というr草木子』の評価はあまりにも譜面輝を低く評価していると考えられ る。そして、このように徐壽輝の死に哀悼の意を表する部将が西系紅巾軍集団の中に存在 し、それに関する史料記述が残されているのに対して、敦盛玉に対しては全くこれに類す るような記述が残されていない。このことは西系紅巾軍集団に対する彰榮玉和尚の影響力 が次第に希薄になっていった事を示しているのである。. 一12一.
(13) 5.彰虚心と欧普祥・嫁比暑の関係について 徐壽輝の西系紅両軍の中で、一貫して彰螢玉の出身である江西蓑州府の攻略にこだわり、 蓑州府に拠点を置いて動かなかった部将として欧溢血がいる。欧普祥は適薬輝の天道国の. 有力な部将の一人であった。r明実録』巻15甲辰6月福山の条に、 普祥、黄赤出堅人、歳辛卯(至正11年)、従徐血続以焼香番兵、爲元帥、人称爲欧道人。 壬辰(至正12年)二月、引治浪江西諸郡縣、攻陥衰州、焚室名掠人民以去、遣別面守之。. 既言分三面人彰繕凱與元帥別速堅起義兵復衰州、普祥怒。. 〈 中略 〉 癸已(至正13年)二月、復攻衰州、元帥別速堅與萬戸寳同等堅守。. 十二月、城陥、普祥遂披之。. とある。この記述の大意は、歌面心が徐立話に従って元帥となり、至正12年G352)2月に 蓑州を攻略し、別將(29)を以て副将となし、守備させた。しかしその後衰州府は分宜縣人 の彰継凱と元朝の元帥現出堅によって奪回された。欧普祥は至正13年(1353)2月から再度. 衰州府を攻撃し、遂に12月に衰州府を占領して、ここに操したということである。これ以 後、彼は至正22年(1362)に朱元璋に降伏し、至正24年(1364)に死ぬまで一貫して衰州府を. 根拠地として離れていない。さらにr万暦南宗府志』巻18人物には、 (至正12年)晶晶・訴訟二二蓑州、L吉水等州都目萢]復亨募集義勇、力戦而死。. とあり、これに拠ると虚心玉も欧露祥と共に衰州府を攻略していることがわかる。欧普祥 が”焼香”して起兵し、一貫して蓑州攻略に熱心であったことより、彼が西系紅巾軍内で彰. 螢玉により近い人物であったことは間違いないと言えよう。そこで注意したいのは、彼が 震州府を再度陥落させた至正13年(1353)12月という時期は、天主国の都斬水が元朝の軍:隊. によって占領され、徐壽輝以下天完国の首脳は自分たちが逃亡するのに必死であった時期 ということである。. 重松氏や鈴木氏・谷口氏が指摘されているように彰油玉と徐壽輝・鄭謡扇とが強固な師 弟関係で結合し密接な人間関係を持っていたとするならば、彰螢玉に近い欧普祥が徐壽輝 や郷普勝を救出する行動をとる可能性が高いと考えられる。またそうでなくとも欧普祥と. 徐酒壷らとの関係が強固であれば、欧普祥は衰州府から出て毒忌輝や郷普勝を救出するた めに薪水へ向かう行動をとることが想定される。しかし、欧砂嵐は唇面輝盤面国の危機を 無視して、ひたすら蓑州府攻略に専心しているのである。. ところで、先に「普」文字の付く部将は、概ね天完国首都薪水から東へ進軍し、江西か ら安徽にかけて多いと述べた。彼らの中で特に有名なのが項普署(項奴兇)であり、r元史』. 一13一.
(14) 順帝本紀の至正12年(1352)3月の記述をみると、江西(饒艸6)から安徽(徽州・信州)に入っ. て、直立関を越えて杭州を攻略している。これに関して、宋濠のr宋文憲公全集』巻5 注文節公神道碑に、 歳壬辰(i証12年)、斬黄紅巾彰党祖構乱、其余聾自徽憲宣州(安徽宣城縣)。. とあり、また鏡謙益のr牧齋初学集』巻80答鳳調馬瑞草書に、 元季盗之初、起先占汝頴、而後輪壽墨壷薪黄、布三王起野州、孟海馬起裏陽。 各有公衆各画面地。布三王最早滅。孟海馬後滅。掲徐壽輝之衆久而彌熾。 良心祥歯面州、妖彰・項書画組戸、悦文俊陥武漢、明玉真陥蜀、古血壽輝之虚号。. とある。この内r牧齋初学集』の史料は、布三王や孟海馬らの紅白軍が早く滅亡したのに 対して、徐面心を奉じる白系紅巾軍の各部将が各地を攻略し、勢い熾んであったことを述. べたものである。史料の「彰党祖」・「妖彰」は先のr草木子』巻3克勤篇や陸深r平胡 録』の記述から彰露玉の事を指している。「項甲」もr元史』の記述(30)との比較から項 普署の事を指している事は疑いない。したがって、徽州から宣州(杭州攻略路の途上に位置する)を冠し. たのは、螢玉の絵党であり、面出自身も饒州や徽州の攻略に項普署と共に参加していたと 考えられる,。また、項面谷らが至正12年(1352)7月10日、杭州を攻略した際、杭州の「明 慶寺」や「血行寺」という寺院に駐軍し、”弥勒佛出世”を唱えて衆を惑わしたこと(3Dや. 彼らが、まもなく杭州奪回のため進軍してきた元朝の董搏害の軍との戦闘に敗れた際も 「接待寺」という寺院に立てこもったこと(鋤などから考えると、項普署らの軍は、宗教 的色彩が濃かったことが看取され、”弥勒佛信仰帰の観点からも彼らは、先の欧普祥と同じ. く面面玉の「妖黛」であったと言えよう。しかし先述の如く杭州は、その後元朝の董幽香. らによって奪回され、董搏胃はさらに進んで昼嶺関を越え徽州も回復した㈹6そして 項普署らの軍は潰散し、彼自身も捕らえられ謙された(34)。また、呉晧はこの時期(至正1 2年)に、当逃玉も元軍によって殺されたと推測している(35)。. r元史』女帝本紀の至正欝年5月の項をみると、 江西行省左丞相面魂真班、江漸行皇儲丞老老醜兵取道自信州、 元帥韓邦彦、喀迷取道由徽州、浮梁、同復饒州、蕨・黄等賊聞風皆奔潰。. とある。したがって、至正12年中に江西東部から安徽・漸西にかけて展開した彰螢玉一派. と見られる西系紅巾軍は、亦憐真班・老老・韓邦彦・袷迷といった元朝の部将たちの攻撃 によって、至正13年前半の殺階でほぼ潰滅させられた。この地域に展開した「普」文字の 部将が至正14年以降、一部を除いてほとんど史料に登場しなくなるのは、この影響のため. 一ユ4一一.
(15) であろうと考えられる。. このような「普」文字の部将の動きのなかで、逆に豊水から西に進軍したのは郷普勝と 丁普郎の二人だけである。丁普郎は徐三遠と共に漢陽を攻略している。郷普勝は斬水から 西に武昌に進軍し、その後、軍を東に返して江州(江酪加:市)を攻め、南下して南昌(晒蚕食路). を攻撃している。これに関連してr万暦南昌府志』巻24紀事に、 (i証12年)秋、鄭(甑)遣其党自興国幽晦寧、奉新、豊城入南昌之境、勢欲攻城。. とあり、彼は項普署らのように安徽から漸西方面へは、軍を動かしてはいない。また、先 に郷普勝は独自の衆を持っていたと理解できると述べたが、ここにも「其党」という記述 がある。彼は、明らかに彰露玉らとは別の行動を取っていたのである。 (四)おわりに. 以上、本稿では彰螢玉・郷油壷・徐西谷らの関係を中心に、初期の徐壽輝盆画紅血軍の 内部権力構造について考察してきた。いままで述べてきた諸点をまとめてみるとつぎのよ うな事が指摘される。. ①郷普勝には彰螢玉を徐壽輝の天完国の中で、自分自身よりも高い重要な地位に就かせ る考えはなかった。. ②恵雨玉は、至元4年(1338)の周子旺の乱失敗以後、至正8年(1348)にも衰州府盗心縣. で叛乱を起こし、敗れて皇城に逃亡してきた。そして二度目の敗残の身で鄭普勝の集 団と合流するに至った。西系紅巾の乱を起こす以前の段階で、彰・郷両者とも自前の 集団を持っていた。. ③徐壽輝は彰螢玉よりも鄭普勝との関係がより密接であった。しかも徐壽輝と郷普勝の 結合過程に瀬戸玉は、全く関与していない。. ④西盛紅藍軍集団の中で、徐壽輝を哀悼したり信望している記述は見られるが、彰碧玉 を師と仰ぐような記述はみられない。また、徐壽輝には単に弥勒佛下生信仰による民 衆救済を唱えるだけに止まらず、「胡虜を駆逐して中華を靖んぜん。」というナショナ. リズムを背景とした強い反元朝意識を持っていた。. ⑤西系紅巾軍の部将の中で彰螢玉により近い関係にあった欧普祥は、元朝の攻撃をうけ て至正13年(1353)12月、天工国の首都薪水が陥落した際、徐壽輝らを救出に兵を動か. していない。しかも、その後、螢玉の出身地但州を一貫して守備して、本拠地を移動 させていない。. ⑥「普」文字のつく部将の多くが項普暑のように、墨水から東へ進軍し、江西から安徽・. 心心に展開し、彰螢玉の一派に近いと思われるのに対して、郷普勝は「其党」を擁し. 一15一.
(16) て、初め出水から西へ進軍し、湖北・江西から出ておらず独自の行動を取っている。. 以上のような考察結果を総合して考えると、徐壽輝西系紅巾軍の蜂起に関して、r庚申 外史』は、. 薪油壷宗油鼠玉和尚、又推面諭南扇首、陪徳論・河陽・安陸・武昌・江陵・江西諸臣。. と記し、この一文からは確かに西系紅送膳が彰螢玉の宗教を奉じていたことが看取され、. 士官が宗教的指導者であったことが理解される。また先に引用したr明実録』巻8の記述 のように郷温温も弥勒佛下生信仰を唱え、螢玉の弟子であったと受け取られるけれども、 実際の(類的な)出鼻玉と郷二六・徐垂心の関係は、むしろ鄭・徐の集団と宿払玉の集団との. “同盟関係”に近いものであり、重松氏が曾て指摘し、鈴木氏や谷口氏も踏襲してきた従 来の見解のように強固な師弟(門弟)関係であったとは考えられないのである。. この結論は、また先述したように重松氏以外は誰も論及していない所の「なぜ彰螢玉和 尚が、遂に東系紅二軍の二品児(小明王)のように西二二二軍の首領に推戴され得なかった のか。」という論点の答えにも成り得ると考える。即ち、重松氏がその理由を「周囲の事 情」・「(鰻玉の)個人的:境遇」と述べられた見解を本稿ではより深く考察し、その考察結果. として“彰螢玉和尚が推戴され得なかった具体的内部事情”が浮かび上がって来たからで ある。 , ’. このように彰二二と二二勝・二二輝ρ関係は師弟関係と言うよりも、実質的には同盟関. 係に近いものであった。したがって、先に鈴木氏は初期西系紅二軍は彰気山・都普勝・二 二輝の三者が中心となって組織し、彼ら宗教派が主導して叛乱を展開していったと述べら れたが(36,、その中枢である弥勒信仰を唱える宗教派勢力の中にも、彰螢玉と郷普勝・徐 壽輝という二つの勢力があったのである。. 換言するならば、彰螢玉の弥勒佛信仰は直系面面の乱に民衆を動員する名目的な手段と は成っても、西系紅巾軍をして、血温を中心とした中央集権的な組織構造にする強固な紐. 帯とはなり得なかったのであり、西系紅巾軍はその成立当初からその集団内に分権的要素 を含有していたのである。. そしてこの宗教派勢力の周囲に、やがて悦文俊や趙虚心のような水冠的武力集団(3η、 明玉珍や李明道のような富農土豪的集団(38〕、干光のような郷紳的知識人、陳友諒のよう な漁業の家系出身の下級官吏の不満武力分子(39)、熊天心のような楽工(鋤、七本立や瀞. 克明といった無頼任侠の徒(4Dなどが、蜂起直後或いは叛乱の途中から参加し、徐壽輝の 西系紅巾軍を構成していったのである。』. 本稿に於ける以上のような考察結果と西系紅葉軍の展開過程を総合して考え、想定した. 徐壽輝の西系紅巾軍の権力構造の変遷が図1から図3である。このように天完国建設直後 から徐壽輝の西系民謡軍集団は宗教派勢力を中枢としながらも、その内部に[彰螢玉]と. 一ユ6一.
(17) [郷普勝。虚病輝]という二極を有し、これに他の複数の勢力集団を加えた連合体であり、 地方分権的傾向をその特性として持っていたのである。 この徐壽輝西系紅三軍集団に見られる分権的傾向は、至正15年(1355)以降台頭し、天完. 国の丞相となった武力派の侃文俊が、徐壽輝を殺して天完国の実権を掌握しようとして遂 にできなかったこと、及び至正20年(1360)、陳友諒が亭亭輝を殺して自立した際も、先の. 干光や欧一三・明玉珍のように寒天国国の部将が多く離反し、陳友諒の傘下に服さなかっ たことに看取されるのである(42㌔帰心輝の西系前編軍は、集団の成立当初から潜在した この分権的体質から遂に最後まで脱皮することができなかったと言えよう。. ◇徐三遍晶系晶晶軍の構造 第1段階[至正11年(1351)∼至正13年(1353). 首都:斬水]. 天 完 国. 諸 諸王加分子 諸 参加分. 参加分子. 宗教 派 勢 カー一謄一,憎一臼丁一”,}一F},鴨胴一一,山一一一一一F一一一一一圏「一一一一一一一一一一一−囲一一一一『冒一■一■一一置mπ”冒而π,■一一一一一冒一■一一F一曹一・. ス普勝・徐丁丁÷彰螢玉・欧普祥・項普署 同盟関. 博Q加分子 畢 第2段階[至正15年(1355)∼17年(1357). 首都:漢陽]. 出 兀 諸勢力. 諸勢力. 宗教二 諸勢力. 武力 派 諸勢力. 悦文俊・丁丁諒. 郷丁丁・徐壽輝 衡. 白勢力. 諸勢面. 唇 第3段階[至正18年(1358)∼20年(1360) 天 渦 虚 普躍. 国. 虫壽輝. 明瞭劣. 後の大破政権. 墜緒. (後に大疑国. 武力強. 周時. 盛友諒 異仏. 首都:江州]. 欧普. 廷山. 明. 一ユ7一.
(18) 註−. (1)紅巾の乱に関するこれまでの研究論文については、拙稿「紅巾の乱研究の動向と課題」r東洋史 訪』創刊號 兵庫教育大学東洋史研究会編1995年目中で紹介した論文リストを参照されたい。 (2)戦前の研究に、重松俊章「晶晶時代の紅乱軍と元高の弥勒・白蓮教匪に就いて(中)」r史淵』26. 號1941隼がある。重松俊章には、弥勒教や白蓮教に関する多くの論考があり、この分野の開拓 者というべき研究者であった。また中国の代表的研究者には、 r三元二二』で有名な呉囎がいる。 (3)鈴木中正r中国史における革命と宗教』第5章元・明鞘と白慧東大出版会1974年. 谷口規矩雄「二丁諒の大漢国について」r東洋史研究』第39巻第1號1980年 (4)註(3)前掲鈴木著書p79、 p 80. (5)註(3)前掲谷口論文plO6. (6)相田洋「紅巾考一中国に於ける民間武装集団の伝統一」r東洋史研究』第38巻第4丁目980年 (7)鈴木氏は、徐壽輝集団の「普」文字の部将の中で、宗教的性格を確かめうる人物として郷普勝と 欧普祥の二人を指摘している。これに関しては、後述する。 (8)相田氏は、「白蓮教の成立とその展開」一中国民衆の変革思想の形成一r申国民衆反乱の世界』. 1974年では肯定したが、「紅巾二一中国に於ける民間武装集団の伝統一」r東洋史研究』第38巻. 第4號1980年では否定した。. (9)『元暦』巻42順帝本紀5 (10)徐壽輝の配下にあった明玉珍集団の部将は除いた。これは、明玉珍集団には全く「普」文字のつ いた部将は看取されないからである。 (11)徐壽輝西下三綱の乱の展開過程を3段階にわけることについては、拙稿「徐琴平西系紅巾軍の活. 動に関する一考察 一元門門巾の乱に見られる水冠的側面一jr中国水利史研究』第25号 1997年 参照されたい。 (12)註(6)前掲相田論文p70. (13)特に彰二野和尚の宗教性については、拙稿「〈妖僧〉彰螢玉一元三西系紅巾の乱の宗教的指導者. に就いて」r東洋史訪』第2號1996年を参照されたい。 (14)重松俊章「宋元時代の紅二軍と元末の弥勒・白蓮教匪に就いて(わ」 r史淵』26號1941年p144. (15)鈴木中正r中国史における革命と宗教』第5章元・明革命と白蓮教東大出版会1971年 (16)谷口規矩雄「二丁諒の大漢国について」 r東洋史研究』第39巻第1號1980年plO1 (17)註(14)前掲重松論文p144. (18)この史料の「誰白蓮教三惑衆」という記述を以て彰国玉を白蓮教匪であるとするのは適当ではな. い。r正徳瑞州府志』は、明代中期に明朝官吏の手によって編纂されたものであり、この時代に は三二の弥勒教は、既に白蓮教の中に包含化され、”弥勒佛”とあれば概ね一括して”白蓮教”と記. 録することに官憲が懐疑しなくなったということが背景にある。 (参照:野口鐡郎「元代宗教結. 社の諸相一白蓮教の形成にかかわる臆二一」r中国史における乱の構図』雄山閣出版1986) (19)二日含r二元鐘傳』 (1965年刊行本)p89上海人民出版社. (2の“彰祖師”という記述は、鏡謙益『國二塁雄二二』巻3天賦二二輝所引回本r紀事録』にある。. 命本のr忌事録1は紅南の乱関係の史実を朱元璋(明の太祖)に忌詮なく叙述したものとされる が(和田清「明の太祖と二二の賊」 r東洋学報』13巻2號19三年)、原本は存在せず、 『國初. 一18一.
(19) 撃工事略』に引かれたものしかみることはできない。「正徳瑞州府志』め記事は、明朝の官憲の 手によって編集されたものであり、当然明朝の節制をうける立場にあって編纂されたものである。. 史料登場人物の尊称は、記述者の主観や外的要因の影響を少なからず受けるものである。したがっ て、楊訥のように彰螢玉と彰国玉の識別を尊称の視点だけから判断するめは適当でない。. (21)字並「天完皇漢紅巾軍史述論」r元史論叢』第1號1982年 (22)棲衡r庚申外史』に、次のようにある。. 蓑州面面彰埜玉、徒弟周子旺盛血温焼立寅日歯時反。 反者背心意添字、以亀有佛字刀兵不能傷。. また、この“前年寅月晦日寅時反。”ということについても筆者は以前に着目し、若干の考察を 加えている。拙稿「〈妖僧〉彰面面一元末西系紅血の乱の宗教的指導者に就いて一」. (r東洋史訪』第2號1996年 p22 p23)を参照されたい。 (23)弥勒仏下生信仰にもとつく民衆反乱は、概ね階代に始まり、益子賢の乱・向面明の乱などがある。. また北宋では王則の乱が有名である。これらの弥勒教徒の反乱には、字面玉が取ったのと同じよ うな詐術が共通してみられるのである。註(22)前掲拙稿 p23、 p24、 p26を参照されたい。. (24)註(14)前掲重松論文p143 (25)r明史』巻133に列伝がある。. (26)鎮謙益r國七六雄事略』巻5夏毛玉珍七六 「孟夏録」に、つぎのようにある。 立壽輝廟於城南、春秋奉祀。 (27)徐壽輝らが建国した天心国の「天完」という国号も、「大元(元朝)」を字形によって圧するとい. う意味があったという。恵山(「舞天完」r歴史研究」1978年第1期)を参照されたい。 (28)鏡謙益ir國初出雄事略』巻5夏品玉珍勾引 「明氏実録」に、明記珍の至正23年(1363年)正月、 “大夏鳥”建国の詔が示され、その詔の文中に、. 元三北秋三品中夏、倫理以之晦冥、人物爲之消滅。. とある。「元朝は夷独の分際で我が中国を汚し、倫理はこれがために晦冥(暗闇)となり、人物 (有能な士)はみな消滅してしまった。」というこの詔中の一文は、明玉珍の強い反元朝意識を如. 実に表現している。鈴木中正氏も「明玉壷が元朝を出血の支配として排撃し、強い中華主義民族 主義の態度を示したことは特筆すべきであろう。」と述べられている(同氏r中国史における革. 命と宗教』第5章元・明革命と白蓮教p82)。命玉珍のこのような態度には、旧主徐壽輝の影 響が大きいと言わねばならない。. (29)この別義は、黄彬という人物である。r正徳蓑州府志』巻6に 回避辰(至正12年)、壽輝遣欧祥陥蓑州、遂命守御、以彬爲副長。. とある。また幽幽は、徐壽輝が陳友諒に殺された際、駄普祥に対して陳友諒に付かず朱元璋へ付 くことを勧めた。この言を入れて欧番謡は官爵面出に付いた。さらに陳友諒が弟三友仁に歌普祥 を攻撃させた際も、歌虚心は陳話語を破り捕虜にして、陳友諒と和約後釈放している。 (r明史』巻131黄古伝)を参照されたい。. (30)r元卑』順帝本紀至正12年3月の項には、 画譜輝無血項盛暑回虫州路、遂画素州・信州。. とある。この濠州・信州の攻略に関して、r元史』巻195魏中立軸に、この時元朝の信州総連だっ た干大本について、. 一19一.
(20) 賊又犯信州、信州総二子大本以土兵備御。賊首回三三東門乱入、. 執大本、至薪水爲俘献。 とあり、干大本は、項甲によって捕らえられ、二水に送られた。この二つの史料記述から二二暑 と項甲は同一人物であると考える。中国の邸三三も項普暑=項甲としている。 (邸樹森「元二丁二軍的政権建設」 r旧史論叢』 第1號1982年)を参照されたい。 (31)陶宗儀r綴耕録』巻28「刑賞三二」、 r明実録』巻3至正12年の条を参照されたい。 (32)r旧史』巻188董搏書伝の至正12年の条に、つぎのようにある。 遂歩兵干城。賊迎敵、至盛橋、搏書鷹肚士突前、斬殺数級、而諸軍相縄三二之、 凡七戦、追殺至清河坊。賊奔接待寺、塞其門而焚之、賊皆死、丁丁杭州。 (33)『元三』巻188二二二時を参照されたい。 (34)元三の人趙彷r東山存稿』巻5「克復二三碑」に、 項奴見(項普客)之二二干漸西、間道逃来、民争起逐之。 侯(八武麻失里)與邑義士遮捕、生得項奴児、艦車送行省、伏謙。. とあり、巻4「休寧縣門下花四八侯武功記」にも (至正12年)十一月十三日、 〈 中略 〉 侯(八武州失里)與邑義士二道遮捕、斬首三十余級、生得項奴児、 其将二人、婦:女二、二四、二一、銀牌一、偽符牒五。. とある。野馬見(項平滑)は、7月の杭州での戦闘の後、U月に安徽省休寧縣で捕縛され殺されて いる。谷口氏はζ「万暦休寧爾志』巻1輿地沿革の年表等をもとに「徽州府でも項普署とその弟 子と考えられる甲奴見が活動していた。」と述べられているが(註(3)前掲谷口論文)、楊訥を はじめとする中国の研究者(呉日言・楊訥・邸樹森・周良寄・野菊英など)は、前記r東山旧稿』の記. 事から項奴児=項馬子として論じている。 『東山旧稿』の著者趙游(字は子常)は、安徽省徽州府套源縣の人であり、隠居して官に仕えな. かったが、至正末に元の元帥圧同が兵を起こしたのを助け、郷土を守るため江南行枢密院都事と なった元一代の人である。したがって、r東山存稿』は正に野末の紅巾の乱の展開されているな かで書かれたものであり、その史料的価値は高い。このような点を踏まえ、先の引用史料の「項 奴見之衆智干下平」という記述と、 (至正12年4月)賊将項奴見自斬黄来、門門兵急攻杭之門門関、分冠建徳。宣州。. r東山存稿』巻5克復休寧碑 賊将項奴児自薪黄来、下衆急攻杭州。 r東山存稿』巻4休寧縣達魯花赤八侯武功記 という記述がr元史』順帝本紀の記述と基本的に符号することなどから、趙油が記した項奴見は r元亨』が記した項普暑(項甲)と同一人物であると判断する。項普暑は、r弘治休寧縣志』巻35 趙東山「生野奴見」に、 項二見、身長七尺、胆有余、意気干与三三殊、不食金二三何有、二三土壌將焉如。 とある。「欲窃土壌丁丁如。」という記述の意味はよくわからないが、「身長七尺、胆有余、意 気門与群楡殊、不食金肥(黄金と妊)亦何有。」という記述から、彼が名利にとらわれない胆力のある. 有能な武将であったことがわかる。そしてこのことは、・同じくr弘治休寧三三』巻32上禮東山 「贈金彦直授官序」の記述からも伺うことができる。. 其最後擁衆来、所過不掠民財、唯索丁壮三軍、即畠中呼項二二、. 一20一.
(21) 既対吏自心匠面面、残郡邑四十余所者也熔奴見至体寧、遣其徒求金鎮撫甚急。 これは、趙虚心項普署捕縛に元朝の部将血忌馬面里と共に功のあった金彦直(牌銘士)について記. したものであるが、この記述をみると項云為は紅巾軍の中では項明応と坪ばれて休寧の官吏に対 蔓て、自らノ「名は奴見、郡邑四十余を残す(毒す碩も面してき勧韓の者なり唱6,」と答え、金彦直を自軍. ・に招請レようとしていることがわか凱.ここでも、彼は下民財を歯していない6」また、官吏に. 対して》自ら名前を名乗るということはよほど自信がなければできることではない。民衆叛乱の 参加者は自.己の一族に官憲の弾圧が及ぶめを素論れるからである6このような丁弘治雷丸縣志』 ・の項奴見の行動態度に関する記述は、先述した杭州攻略を記した陶宗儀r報耕録」巻28「刑賞失. 宣」の輩述とも符号する。以上のことからも、項奴見は温温尋の弟子ではなく、本人に間違いな い。彼は、官憲が所謂盗賊・無頼の類いに入れるよケな小事な人物ではなかったのである。項普. 唇はr明実録』では項普瑞と書かれ、温温r豫章漫抄』巻3所記「絵干新志」では、項普壽と記 さ鞄てい:る。同様の史料詣述の差異は、二二輝や彰璽玉にもみられる事である。. (35)・註②前掲二二r二元璋伝記第3章p87rp89を参照されたい。 呉曙は》銭謙益」地誌初学集』巻80回金正函館詔書に、 嘗観元末起汝・頴、而嚢・漢・斬・黄磨之。斬黄之賊既陥江州、旋略南康、都陽、即由婆源犯. 休寧、一夕三三三州、由三二三星嶺闘、破杭州、蔓延呉興・延陵、江南之塗炭從之始6 鴬二二二二・杭、殺妖彰・項二見諸盗魁、二二二方張之勢、錐董搏寄・三二八二督学勅禦、 而在同ρ程国勝・三三結集民兵干死血戦恢復城柵、其功尚多。 とあり、:二野霜らが至正珍年に杭州や徽州を回復した際、妖彰(彰螢玉)や項奴見(門門暑)を殺し. たという二二を元に,『正徳瑞州府志』巻11丁丁志の史科(彰国玉らが至正12年、元朝江西行省 左二三逆赤に捕ウえられ殺されたとある。祠助恣(1850−19君3)r新元史』は、これを採用して彰 螢玉は、門門で殺されたと記述している。)などを参考にして、彰螢玉は、安徽(徽州)或いは江 西(丁丁)のどちらで殺されたかはわからないが、.“至正12年”に殺されたことは確かであろうと述. べている。筆者は、この二日言の彰二二の死に関ずる考察を基本的に支持するが、若干私見を述べ た覧㌔ド二月実録』,巻17に、. (鉦25年8月)羅田鼠盗藍望見詐称彰螢玉、造妖言以二二鋳印章、設官吏。. とあり、徐壽輝の出身である湖北省山田縣で藍鼠見が、二二玉を詐称して叛乱を起こしているこ と均》ら、まず至正25年(1365年)の段階までには、彰螢玉は既に死んでいたと二二る。次に藍丑見. が叛乱を駕ζした至正25年8月目ζの時徐壽輝・陳友諒は既に亡いが、(徐壽輝は至正20年5月 死亡,陳友諒は至正23年8月死亡)、四川の明玉珍は{まだ存命している。、(明玉珍が死ぬの. は至正26年2月)明玉珍が彰藍玉を熟知していれば、藍丑晃の詐称に対して何らかの反応があっ て然るべきである。また明玉出が徐壽輝の西系紅雨軍に参加したのは至正13年11月目されており、 彰品玉がこの時点まで存命で叛乱を指導していれば、当然、明室珍との面識や交遊もあってよい。 しかし史料上も、明玉珍と彰螢玉を結ぶような記述は全く見当たらない。このことから推察する と、明玉壷は彰埜玉の顔をよく知らなかったし、螢玉との直接の交遊も全くなかったと考えられ る。したがって、少なくとも彰毛玉は至正13年以降は存命していないと判断せざるを得ない。ま た、彰螢玉が死んだ時期が、至正25年よりもかなり以前でないと民衆に”漏話玉”を詐称しても効. 果がないと思われる。伝説が生まれ、人物像が民衆の中で美化されていくのには、少し時間がか かるものだからである。. 一21一.
(22) また、『皇明開国臣伝』巻11「指揮倉事左公」に、. 公名君弼、塵州人。元季群雄信乱、有彰祖者、擾江・潅間、君弼聚衆応之。. 未幾、彰祖敗、遂独据塵州。 とある。これは元末塵州の人左君弼が、1彰祖」という者の叛乱に応じて参加したが、幾くなら ずして、「彰祖」が敗れたため、左君彊は三州(安徽省合肥市)に自立したという記事である。 この「彰祖」が彰螢玉とすれば、璽玉は西系紅巾の乱の早い段階で敗死していたといえる。先述 した呉時「朱元璋傳』の指摘に加えて、以上のような考察から判断すると、呉日言の言うように、. 彰螢玉は西系紅巾の乱の始まった至正11年8月から至正12年・13年頃の叛乱の早期の段階で元潮と の戦闘によって殺された可能性が高いと言わねばならないのである。. ところで、陸深のr豫章漫抄」巻3所払「鈴前出志」という史料に、 以備参考彰七島所謂妖彰者、(至正)十八年爲陳友諒幽谷。 という記述がある。これは、朱元琿が陳友諒の部将だった呉宏(江酉幽幽を以て朱白丸に帰順し. た)を招撫する際に、呉宏が大変緩孝行なのを知り、その母を大事に扱い、呉宏を自軍に付かせ ることに成功したことを述べ、朱元琿の知謀の非凡さを強調し、陳友諒が彰翼を簡単に殺したこ とと比べて参考とせよと記した史料である。. 日本や中国の学界の定説では瞳深の「平胡録」や訟訴益のr最初撃二二略」などの史料をもと に彰謡言=彰翼と説明されているから、この記述からは彰螢玉は至正18年に陳友諒に殺されたと いうことになり、先の呉R言や筆者の見解と矛盾することになる。この点について、この史料から. 二三玉が至正18年まで生きていたとすれば、至正ll年から至正18年の間に、もっと彰翼の名前が 各史料に登場してよいはずである。軽言は慎まねばならないが、筆者は「飴干新志」の誤りか、 或いは彰二二=彰翼とされる通説の方に問題があるのではないかと考えている。 (36)註(3)前掲鈴木著書p79、 p 80. (37)葉子奇r草木子」巻3克二二、「明実録」巻5至正15年の条を参照されたい。 (38)明玉珍については、鑓晶晶「國初心雄事略』巻5夏品玉珍、鈴木氏前掲書p8童. 李明道については、r明実録』巻14至正24年2月の条、谷口氏前掲論文p106を参照されたい。 (39)r明史」巻]23陳友諒伝を参照されたい。 (40)r明史』巻123陳話声伝に、豆州(湖北省試陵縣)の楽工とある。 (41)鐘謙益r國初富雄事略』巻4訴陳友鳥所引r太祖実録」に、 「本立、塵岳人、少くして無頼、 産業に事えず。」とあり、「苛克明新士人、少きより無頼、面しいままに郷里を横す。」とある。 (42)前掲四三諒伝に、「豪雨有権術、兵強一時、及i試適稻帝、璽下多不服而叛、遂至滅亡。」とある。. 一22一.
(23)
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