『知識学入門講義(1813)』におけるフィヒテの立場
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(2) 2. 阿部典子. 2 . ベルリン大学時代 ベルリン大学は、精神的な力による国家の再興を考えたプロイセン国王によ り 、 1810年に設立された。この大学設立をめぐっては、当時の見識者たちが様々 な立場から建白書を提出している。フィヒテ自身もまた、大学設立を推進して いた政府顧問官に請われて、 1807年『ベルリンに設立予定の高等教育施設の演 鐸的プラン』を執筆した。ドイツ観念論哲学は、 18世紀末に始まっていた新た な総合的高等教育施設の構想に関して、その思想的基盤を担ったといえるので ある。そして、その立場から論じられた大学論や学問論は、国家政策として大 学が設立されたとはいえ、おおむねベルリン大学において実現されていったの である o 大学のあり方に関してドイツ観念論の学問観及び大学観の中で特に重要であ るのは、以下の点である(!)。まず第一に、学問は真理認識であり、したがって 学問そのものは自律性と自由を有していると位置づけられる点である。それゆ え、真理を認識しようとする精神の営みに際しては、外部からの干渉を受ける ことなくいわば純粋に認識が営まれなければならないと説かれる。第二には、 学問は個別の学科領域に限られた特殊な認識としての知識に限定されるのでは なく、それぞれの領域が有機的に関連づけられる体系的な全体として形成され るという点である。それゆえ、それぞれの個別的領域は、真理認識としての学 問の原点に絶えず立ち返りながら、体系的全体を形成する一分野として営まれ ることが要求される。そしてその中心的役割を担うのが哲学であると位置づけ られるのである。さらに第三には、学問も含めて、人類そして社会は常に進歩 発展していくという歴史観である。 また、フィヒテは学者の本質や使命に関していくつか著作を書き残しており、 そこでは学問に関わる者の姿勢として以下のことが強調されているロ真理探究 188.65) (2) と名づけるので である学問に関与する人をフィヒテは「学者 J ( あるが、学者には単に真理を認識することが求められるのみならず、それを「他 者に伝達すること J ( 188 . 6 6 )、及び、認識した真理に従って、自然や立法な どに代表される、「意志を持たない領域を形成すること」が求められている。そ れゆえ、学者は具体的には真理探究に携わる研究者であり、かっ同時に、真理 を他者に伝達する教育的指導者であり、さらには真理に沿った社会形成に関わ る活動家であることになる。 人が学者というあり方を選択し、そしてまた学者であり続けることができる 188.67) 可能であるとされ のは、フィヒテによれば「理念への愛によって J (. る。そしてその理念への愛を、人が現実の日常的生活において持つことができ るのは、人が「誠実 J ということを理解し、「誠実」であろうとするからに他な.
(3) 『知識学入門講義(18 1 3 )j におけるフィヒテの立場. 3. らない、とフィヒテは考えるのである。しかしながら、そもそも誠実というこ とが可能であるとみなされるのは、フィヒテを含むドイツ観念論全体に共通の 認識が土台にあると言えるのではないだろうか。 ドイツ観念論においては、私たちの手に触れ目に写るこの世界は現象界とし て位置づけられる。すなわち、何ものかがそこに現われ出ている姿である。私 たちの具体的な様々な行為においては、私たちは直接的に自分たちが経験する この世界に関わっていると考えているのであるが、この経験界を現象界と捉え るならば、その時経験的直接的な行為は、さらに経験界に現われ出ている何も のかにも間接的に関わっていることになる。経験界として現われ出ている何も のかをどのようなものとして捉えるかというその内容に関しては、. ドイツ観念. 論全体に共通認識があるとは決して言えないのであるが、しかし、経験界を有 限な世界と捉える限り、その有限な世界を現われとして可能にする何ものかは 絶対的な次元に位置づけられるという点では一致していると言える。 この絶対的な次元は、フィヒテにおいては生きて活動する絶対的生命として 明らかにされていく。そしてこの経験界をその絶対的生命の現われとみなすこ とができ、さらに、その絶対的生命がそれ自身の現われのひとつである「我々 1-88.97) ことがで の現存在について、ひとつの意図を持っていると考える J ( きるならば、そのように考え、その考えに基づいて行為することを「誠実 J と 呼ぶことができる、とフィヒテは説明している。それゆえ、このフィヒテの立 場から人間の行為を見ていくならば、真理探究に関わる学者に関しては、その まなざしを経験界の背後にまで向けることが要求され、それが果たされるなら ば、その時そこから、経験界に対する関わり方つまり経験界における様々な事 柄に対する関わり方の誠実さということは、いわば必然的に結果してくること なのである。 さらに、学者がその活動の拠点を大学に置いた場合には、そのあるべき具体 像がたとえば『学者の本質~ ( 18 0 6 ) においては次のように描写されている。理. 念を把握した学者がその伝達を口頭で行なう場合すなわち講義を行なう場合の 学者のあり方に関しては、当然のことながら学者は理念、のー側面を相手すなわ ち学生に対して伝えるのであるが、その際に学生の可能性を顧慮しつつ伝え続 ける、ということが要求される。しかも、伝達される理念は同じ観点からの単 なる繰り返しによって伝えられるのではなく、常に新たな展開において伝達が なされなければならない。また、理念そのものに対する誠実さが現れるならば、 学生が単に聞きたがらないという理由から語ることをやめてしまったり、また 事柄にそぐわない言葉を用いて理念をことさら飾り立てたりするようなことは 戒められるのである。あるいはまた、把握した理念を文書で伝達する場合すな わち著作活動に従事する場合には次の点が注意される o 著作による伝達の場合.
(4) 4. 阿部典子. には口頭での伝達とは異なり、相手が理解できるまで伝達し続ける可能性がな いために、そもそも著者自身と同じように理念を捉える可能性のある人たちに 向けて執筆がなされることになる。この執筆に際しての誠実さとは、既存のも のよりもよりよいものである限りにおいて文書に残す価値があることを確認で きているかどうか、という点に示されるのである。 一方、真理を伝達される側すなわち学生に対しでもあるべき姿が求められる だろう。フィヒテはそれを以下のように描いている。学生はいまだ理念の認識 には到達しておらず、しかし、理念の認識を目指している者であるから、理念 の認識に到達するために、まずもって理念と対極に位置するものを避けること 18 が必要とされる。避けるべきことは、フィヒテによれば「凡俗で卑しい J ( S . 9 9 ) とみなされるものであり、具体的には次の事柄を避けるよう促されてい. る。まず最初に、想像力を低下させて理念への興味を鈍らせてしまうものとし て「感性的快楽をもてあそぶこと j、次いで、精神的力を弱めてしまうことにな 、そしてさらに、自尊心や自分への信頼感をなくしてしまいかねない る「怠惰 J ものとしての「臆病さ J や「無気力」、「怠慢 J である。これらを避けようとす るところにフィヒテは学生の誠実さが現れてくると見るのである。 以上のような学者像、学生像を現実のものとするため、フィヒテはベルリン 大学での研究と教育に力を注いだのである。 3. 入門的講義. 3- 1 入門的講義の必要性 ブイヒテにとって哲学は、経験の根拠を明らかにすることをその課題として 持つ。そしてフィヒテ自身は終生、自分の哲学はカント哲学の本質を捉え、さ らにそれを推し進めたものであるという確信を持ち続けた。しかしながら、そ もそも哲学とはそれとは別のものである、という反論の可能性を考慮、し、また、 フィヒテ自身の哲学がカント哲学によって擁護されることを期待するものでは ないために、「不毛な言葉の争いに立ち入らなしリ(14S.187) ょう、みずから の哲学を「知識学」と名づけたのである。 最初の知識学は、フィヒテがイェナ大学で講義を行なうに際して、聴講生へ のテキストとして書かれたものである。したがって、フィヒテ自身述べている 14 ように「自分が理解されるまで、し、くらでも口頭で説明することができた J( S.183) 環境にあった。しかし、その著作が広く世に知れ渡るようになると、. 聴講生以外の人々からの様々な意見がフィヒテの耳にも届くようになる。フィ ヒテはそれらを「冷笑と悪口、そして私の学説が心から嫌われていること、理 解されていないことを示すありふれた証言 J ( 14S.184) と理解した。そして、.
(5) 『知識学入門講義(18 1 3 ).1におけるフイヒテの立場. 5. 知識学への序論ないし入門的な著作を著し、それらの著作がまったく無駄であ ると納得できるようになるまでは、知識学理解のための全責任を自分が引き受 けるべきだと感じたのである。こうした背景から書かれたものが、初期の『知 識学への第一序論~ ( 1797)などの入門的な書物である。. しかしながらそのような事情ないしフィヒテの受け取り方はベルリン大学時 代に至るまで変わらなかったようである。本論のタイトルに掲げてある『知識 学入門講義』の冒頭にも同じような事情が述べられている。つまり、フィヒテ がここで手引きしようとしている教説はカントが三批判書において述べたもの と同じであること、そしてこの教説は正しく理解されてはおらず、「反論したり、 見下げたり J (8.3) (3) の対象になっていることが述べられているのである。そ して、知識学が反論される場合には、どこかで知識学が誤解されているはずで あり、それは改められなくてはならないとフィヒテは感じた。このような状況 の中で行なわれた入門的講義では、知識学にむかうための前提が提示され、知 識学の入口へと聴講生や読者は導かれるのである。聴講生や読者そして知識学 によせるフイヒテの期待は大きく、この入門的講義では次のように語りかけて いる。「もし人類を、理解力を持ち、かっ悟性の規則にしたがって自分の言葉に おいて計算をなすものと考えるならば、人類の見解と現存在全体、そして、こ の現存在のカを狭い範囲の所与を越えて拡大しようとする(知識学の)約束は 大いに歓迎されるであろうし、彼らに感謝の気持ちを起こさせ、その情熱を刺 激するであろうことを期待しないわけにはし、かない。 J ( 8 . 7 ). 3-2 新しい感覚 知識学を理解するために必要であるとしてフィヒテが前提するのは「まった く新しい内的な感覚器官 J ( 8.4)が働き始めることである。この感覚器官が働 くことによって、新たな感覚が形成され、それによって、「普通の人にとっては 全然存在しない新しい世界が与えられる j ようになるからである。すなわち知 識学の成立である o もちろん、この感覚器官は人間に本来具わっているもので あり、したがって「新ししリと言われている感覚の素質は誰もが持っているの であるが、それは今までまったく使われることがなかったにすぎない。それゆ えこの感覚は知識学によって担造されるようなものではない。それでは、この 感覚とはし、かなるものであり、この感覚によって与えられる新しい世界とはど のようなものなのだろうか。それらを明らかにする前に、フィヒテが「普通の 人間」と特徴づけた人々にとって存在するのはどのような世界なのか確認して みることにする。 普通何かあるものに接する時には、感覚器官が働くことによってすなわち例 えば見たり触ったりすることによって様々な感覚を得て、そのことにおいて物.
(6) 6. 阿部典子. を直接に知覚していると思っている。この場合にその人にとって世界は直接的 絶対的なものとして存在し、その人は「物は存在する、物はかくかくである、 S . 1 1 ) と言う。つまり、この状態に没頭し続けるのみであ そしてそれでよしリ (. って、彼がその時何を行なっているのかを再確認することもなければ、彼自身 がそう感じてそう言うのだということをひとつの出来事としてさらに述べるこ ともない。フィヒテはこのような立場で存在を理解する感覚の本質を「見立. ( A b s e t z e n )J ( S . 1 2 ) と名づけている。そしてこの存在理解に納得して、存在 の根拠へのさらなる問いには目を閉じたままでいる状態を「人間の自然的な生 来の現存在 J ( S . 1 3 )であるとして、その状態を「盲目性」とみなすのである。 それゆえ知識学への入門の第一の仕事は、このいわば古い感覚への固執を解 き放ち、新しい感覚を人間の中に目覚めさせることとなる。フィヒテはこの解 放を「姪楕からの解放、桂桔の消滅 J (8.15) と呼び、これに成功すればその とき同時に新しい感覚が目覚めると言う。すなわち、単なる外的感覚以外にも 「別の内的感覚 J があって、それが存在を与えているという確信が芽生えると 言うのである。そしてこの新しい感覚が「自覚 J の働きであること、その働き において存在のあり方が明らかになることが以下のように導かれている。 古い感覚に固執するあり方は、みずからの感覚を存在の感覚とみなしてしま うという点に特徴がある。直接的に存在を捉えていると思い込み、そのように 捉えている側の主体自身に目が向けられることはない。知識学はいわばこの古 い感覚の方向を転換しようとしていると言えるだろう。そして、その主体のま なざしの向きを変え、存在を捉える仕方そのものに考察の目を向けようとする ならば、認識する主体みずからがその認識作用そのものに焦点を合わせる必要 がある。このような構造はそれを解明しようとしている本人自身がどのように 存在に接しているのかを見ることにおいて可能であり、したがって、自覚とい う方向においてのみ行ないうることであって、他者のそれをみることは構造上 不可能となる。そして、自己自身のあり方が反省され、自覚がなされるならば、 直接的なものはみずからの感覚であり、それを単純に存在の感覚とみなすこと はできないということに気づかされる。すなわち、みずからの感覚を素材とし て、その感覚をまとめあげ、ひとつのものへと構成していくことによって、「物 が存在する J という事態が成立していることが見えてくるのである。したがっ て、「物が存在する」ということは、感覚を媒介としたひとつの判断であって、 決して直接的知覚そのものではない。このように存在を捉えることによって成 立してくるのが、前述の「まったく新しい内的な感覚器官 J によって与えられ る「新しい世界 J である。古い感覚の人間はまた「自然的 j なあり方とも呼ば れるのであるが、この新しい世界は人間の自然的なあり方を越えて、「自然の彼 岸に自然を越えて横たわる J ( 8 . 1 1 ) 世界であり、フイヒテはここに人間の「自.
(7) 『知識学入門講義(18 1 3 )j におけるフイヒテの立場. 7. 由」が生じると見るのである。 存在する」と理解されたものは、自覚を経る 自然的な見方において「在る J r ことによって、判断作用において「成る J r 生成する」と理解されるようになる。 このような見方の変化によって、今まで必然的であった世界は、人間の判断作 用において生成された世界となり、見る次元の変化によって見える相が変わっ てくることが示されるのである。世界の見え方が変わってくれば、世界との関 わり方もおのずと変わってくるはずであり、それゆえフィヒテは、知識学は単 に世界を説明する理論としての教説であるにとどまらず、「この教説に関わる 8 . 6 ) を行なうものであると考えている。人間のあり方がより包 全人の改造 J (. 括的な領域に拡大され、存在の根拠にまで至る目が聞かれることによる改造が 行なわれるのである。 この二つの見方、古い見方と新しい見方は次の三点から特徴がまとめられて いる。 第一に、直接的直観が知の基礎であるという点に関して次のように特徴が示 される。古い見方においては見たり聞いたりなどの感覚が直接的なものと捉え られ、そこから無媒介的に「物が存在する J と結論づけられる。したがってこ れは見たり聞いたりという直接的感覚に知の全体が基づいているとする捉え方 である。他方、新しい見方では、見たり聞いたりということは「直接的な内的 自己直観から推論された自己限定 J ( 8 . 1 8 ) であって、それ自体は直接的なも のではなく、直接的なものはむしろ内的な自己直観である。これが新しい感覚 と呼ばれたものである。直接的として捉えられるものが二つの立場では異なる のである。 第二には、物と精神という観点から次のように特徴が示される。古い感覚の 立場では、ただ物が存在し、精神は「不可視的 J ( 8 . 1 9 ) なままである。それ に対して新しい感覚は「精神に対する感覚 J、働きそのものに対する感覚であり、 この感覚に対しては精神のみが直接に存在することができる。この精神がまた 自由と呼ばれ、生命と呼ばれるのである。ここで古い感覚における存在は、そ の本質が明らかにされることになる。すなわち、精神が拘束され、自由が奪わ れ、生命が硬直してしまったものが古い感覚にとっては存在という姿を示して いるのである。 第三には、自然必然性と自由との観点から次のように特徴が示される。古い 見方では、人聞を屈服させ束縛する自然必然性が存在するという考えが一般的 8 . 2 2 ) に他な 見解としてあり、フィヒテによればこれは「最も有害な誤り J (. らない。そして、もしこの必然性を恐れる人がいるならば、それは自分自身の 影を恐れていることと同じであると言われる。なぜならば、新しい見方におい て明らかになるように、自然は「各人の自由の反映 J であり、自由の模写であ.
(8) 8. 阿部典子. るからである。この立場に立てば、自然に対して働きかける力が生じ、自然へ の依存から抜け出て、自然を越え出たあり方の可能性が聞かれるのである。. 3-3 互通 ( D u r c h ) 知識学の前提は以上のように新しい感覚であり、その感覚によれば存在は生 成されるものとして捉えられ、直接的に示されるのは存在ではなくむしろ存在 の生成作用ということになる。それゆえ、直接的な直観の対象は生成作用その ものであり、この作用を働きとして、生命として捉えること、したがって動き として他との関係性のなかで捉えること、つまり固定し孤立したものとして他 から切り離してしまわないようにすることが不可欠である。 この生成作用を解明するに際して、知識学では「知そのものとは何か j とい う聞いが用いられる。古い見方の人はこの間いに対して個別的な知の個々の例 を与えることによって、すなわちすでに出来上がった特定の知において答えよ うとする。それに対して知識学では「新しい感覚 j において、すなわち「知そ のものの直観 J において間いに答えるのである。この答え方は「感官によって 与えられているものではないものの自由な構成、自由な思惟と形成 J によって のみ与えられる o そしてこれはまったく内面的な活動であって、これに関わる ためには、各人がそれぞれの内面で実際にこの活動を行ない、それを見る、と いう以外に方法はない。それゆえ、知識学は各人が実際にやってみることを要 求し、聴講生や読者はそれを自己自身において遂行しなければならない。そう して初めて知識学は理解されることになる。これが実際に知識学で示されてい る新しい見方を可能にする方法である。 フィヒテは知識学理解のこの場面と同様なあり方を「数学 J ( 8 . 2 8 )に見る。 たとえば、三角形を考察対象とするとき、そもそも「その所与態において観察 J するという方法をとるならば、認識はまったく観察に依存することになる。仮 に千個の三角形を観察したとして、その中に二つの鈍角あるいは直角を持つ三 角形がないことを偶然のこととみなすのならば、これはその場の観察に依存す る見方となる。このような見方からは、厳密な学としての数学は成立しない。 そしてこれが前述の古い感覚によって存在を理解する立場と同じ見方なのであ る 。 当然のことながら、そもそも三角形は二つの鈍角あるいは直角は持ちえない。 そのような三角形が千個の三角形のなかに存在しないのは偶然のことではなく、 他のようにはありえないことがらである。この認識に立てば、先の観察に依存 する見方とはまったく別の観点と世界が生じることになる。つまり「法則に従 8 . 2 9 ) の区別に基づく観点である。このことの説明は三 った存在と非存在 J ( 角形を「生成 Jすること、自らが構成することによって与えられる。そうする.
(9) 『知識学入門講義(18 1 3 )j におけるフイヒテの立場. 9. ことにおいて、この構成作用は悉意的なものではなく、むしろ三角形の本質、 概念によって制限されていることが明らかになる。「三角形の無限な規定可能. 8 . 3 0 ) のである。この事態 性のなかに、確固とした不変の法則が存在する J ( は知の場合も同様であると捉えられる。「知の無限の規定可能性のなかに、確固 とした不変の法則が存在する」のである。本来的哲学としての知識学は、知を 構成することにおいて知の法則を確認していくことになる。これは知の働きそ のものを見ることであって、出来上がった知を見ることとはそもそも手法が異 なり、この働きの直観を各自がみずからのうちに呼び覚ますことが要求される のである。この点に知識学の特徴をみることができるだろう。そして、この働 くというところをフィヒテは存在の本質と理解するのであり、生命や光、絶対 者と名付けるのである。 知識学で直接に考察の対象とされるのは知であるが、それは知が我々にとっ て経験界を理解するための直接的接点であるからである。それゆえ、理解でき るのは<我々にとって>の存在である。そのために、新しい感覚において確認 されるのは、我々は我々の感覚を構成することによって存在に接しているとい うことであった。この構成による存在がはじめて正当に「存在する」と言われ る。ここでは、我々が最も原初的に接しているであろうと思われる「存在その もの」と、我々が言明する存在すなわち「存在すると言われる存在」とのこつ の次元が区別される。区別されるのであるが、しかし同時に、両者は我々にと っては同ーのものである。この関係が存在そのものとその像として本来的哲学 としての知識学で考察されるのである。我々が「存在すると言う J ことにおい てこの経験界は経験界として我々に対して立つのであるが、その存在定立には したがって二つのことが統一されていることになる。すなわち「存在そのもの J と「存在の言表」である。この二者の統一が我々に対する経験界を形成してい るのである。 存在そのものには存在の言表は含まれない。したがって存在にとって存在の 言表は外的なことになる。これに対して、存在そのものは内的なものと言える だろう。存在そのものと存在の言表とを内と外と見るとき、その特徴はより明 確に示される。内と外とは、一方は他方ではないものとして、「他者を通じて (durch) 自己の規定と自己の特性を持つ J (8. 46 ) ことにおいてはじめて可能. となるような関係にある。したがって「いずれも他方を自己自身によって、自 己の存在によって要求」するのである。この観点において両者はひとつであり、 融合し合うことにおいて存在すると言えるだろう。しかしながら、どちらか一 方の特徴に限定されてしまうこと、一方による他方の否定が固定化されてしま うことは決してない。その場合にはどちらか一方のみが存在することになり、 一方は他方を通じて存在しうるのであるから、どちらも存在しないという事態.
(10) si 噌. n u. 阿部典子. になるからである。それゆえ両者の融合は絶えざる動きのなかにあり、常に新 たに融合活動が行なわれていると捉える必要がある。両者のこのようなあり方. D u r c h )J と呼ぶ。ここに、我々にとっての存在、したが をフィヒテは「互通 ( って存在定立の本質が「互通 ( D u r c h )J として示されるのである。 一般的に、「これ J は「あれ J との対立において、「自己」は「他」との対立. D u r c h )J と において理解され、それゆえその対立において存在する。「互通 ( して示された構造は、経験界一般の構造として理解されると言えるだろう。経 験界は我々に対して「存在すると言う J ことにおいて成立し、この存在言表の. Durch)Jであるならば、経験界そして経験界に起こることはど 構造が「互通 ( れひとつとしてこの関係を逃れることはできない。そしてこの見方は、相互依 存関係を理解することと同じであると思われる。しかも、その依存関係は常に 動いているものであり、新たにされるものである。この躍動性が生命に他なら ない。この本質的構造を理解するところにフィヒテの言う「全人の改造 j の可 能性が聞かれると言えるだろう。 知識学の基本的立場は存在を生命の動きそのものにおいて理解しようとする 姿勢にあり、入門的講義では、動きをそのまま理解するということへの導入が なされている。そして、動きそのものが確固とした立脚点となれば知識学が成 立するとフィヒテは考えたと思われる。そしてまた、その具体像が前述の学者 及び学生のあるべき姿として示されているのである。 注 (1)W ドイツにおける学問の自由と大学自治~ (松元忠士著. 敬文堂刊) r 第三. 章ドイツ理想主義における学問の理念と学問の自由」参照。. (2)J . G . F i c h t eGesamtausgabe d e rBayerischenAkademied e rWissens c h a f t e n からの引用。同全集からの引用は全て本文中にそのページ数を 記し、同ページからの引用が続く場合には記載を省略した。. (3) F i c h t e sWerke I X からの引用。. 同書からの引用は全て本文中にその. ページ数を記し、同ページからの引用が続く場合には記載を省略した。.
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