発行:公益社団法人
燈 光 会
規格:A3判規格サイズ カラー 14枚綴り 用紙は、カラーがひきたつコート紙を 使用。販売価格
600
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表紙 出雲日御碕灯台(島根県出雲市) 1月 小樽港島堤灯台・小樽港北副防波堤灯台 (北海道小樽市) 2月 御前埼灯台(静岡県御前崎市) 3月 大王埼灯台(三重県志摩市) 4月 剱埼灯台(神奈川県三浦市) 5月 大間埼灯台(青森県下北郡大間町) 6月 佐田岬灯台(愛媛県西宇和郡伊方町) 7月 入道埼灯台(秋田県男鹿市) 8月 角島灯台(山口県下関市) 9月 日和山灯台(北海道小樽市) 10月 那久埼灯台(島根県隠岐郡隠岐の島町) 11月 犬吠埼灯台(千葉県銚子市) 12月 残波岬灯台(沖縄県中頭郡読谷村) 後付 のぼれる灯台15基の写真掲載 〒105-0001 東京都港区虎ノ門1丁目3番6号 彩翠ビル4F TEL(03)3501−1054 FAX(03)3507−07272016
平成28年
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公益社団法人燈 光 会
昭和31年1月24日第三種郵便物認可 平成27年11月5日発行(隔月1回5日発行)「燈光」第60巻・第7号 燈 光 燈 光 平成二十七年 十一月号 第 三 種 郵 便 物 認 可 発 行︵ 隔 月 一 回 五 日 発 行 ︶ ﹁ 燈 光 ﹂ 昭 和 三十一 年 一 月 二十四 日 平 成 二十七 年 十一 月 五 日 十一月号 第 六十 巻 第 七 号 Nov. 201511
「灯台絵画コンテスト 2015」入賞作品
●金 賞(中学生の部) ・赤松海岸から見える白い灯台 安 あんどう 藤 美み ほ穂 さん 愛媛県宇和島市立城北中学校 3 年 ・家族で行った潮岬灯台 川 かわかみ 神 天あ す ま真 君 和歌山県日高町立内原小学校 2 年 ・大好きな樫野埼灯台 鈴す ず き木 はな さん 和歌山県御坊市立御坊小学校 6 年 ●金 賞(小学生低学年の部) ●金 賞(小学生高学年の部)・灯台と朝日 山 やました 下 嵩しゅうた太 君 鹿児島県姶良市立松原なぎさ小学校 3 年 ●銀 賞(小学生低学年の部) 2 点 ・みんなを守る灯台 土つ ち や屋 昌まさひろ寛 君 熊本県熊本市立健軍東小学校 3 年 表紙:「灯台絵画コンテスト 2015」海上保安庁長官賞受賞作品 ・秋の予感 奥 おくがわ 川 司つかさ 君(愛知県稲沢市立稲沢中学校 2 年) 評:灯台が荒々しい海の自然環境に立ち向い、海の安全を守 っている姿が色使いよく描かれている。
●銀 賞(小学生高学年の部) 2 点 ・都井岬灯台 鈴す ず き木 千ち は る遙 さん 宮崎県日南市立北郷小学校 6 年 ・口之津の灯台 今い ま い井 涼りょうすけ介 君 長崎県南島原市立有馬小学校 6 年 ●銀 賞(中学生の部) 2 点 ・今宵も点灯・潮岬灯台 川 かわかみ 神 茜あ か ね音 さん 和歌山県日高町立日高中学校 2 年 ・海にそびえたつ灯台 鈴す ず き木 天あ ま ね音 さん 神奈川県横須賀市立大矢部中学校 1 年
●銅 賞(小学生低学年の部) 5 点 ・夏の思いで 松 まつもと 本 菜な ゆ佑 さん 石川県白山市立東明小学校 2 年 ・わたしはうみをみつめた 浅あ さ お尾 美み う羽 さん 富山県射水市立堀岡小学校 1 年 ・震災復興へいざ出陣! 渡 わたなべ 部 朔さ く や矢 君 ・漁港と灯台 中 なかじま 島 康ひろあき顕 君 富山県射水市立堀岡小学校 3 年
●銅 賞(小学生低学年の部) ●銅 賞(小学生高学年の部) ●銅 賞(小学生高学年の部)5 点 ●銅 賞(小学生高学年の部) ・灯台へ続く道~みんなの灯台~ 上 かみつる 靏 大だ い ち智 君 鹿児島県鹿児島市立吉野小学校 4 年 ・あんこさんのおでむかえ 平 ひらぐち 口 幸こ う め芽 さん 静岡県焼津市立焼津東小学校 2 年 ・夕日に照らされる灯台 上 かわむら 村 踊よう さん 鹿児島県枕崎市立桜山小学校 6 年 ・灯台 曽そ が我 千ち ひ ろ紘 さん 愛媛県八幡浜市立神山小学校 5 年
●銅 賞(小学生高学年の部) ●銅 賞(小学生高学年の部) ●銅 賞(中学生の部) 5 点 ●銅 賞(中学生の部) ・灯台 東 ひがし なみ さん 北海道釧路市立鳥取中学校 2 年 ・そびえ立つ灯台 髙 たかはら 原 萌もえ さん 大阪府大阪市立東我孫子中学校 3 年 ・樫野埼灯台へのぼったよ 野の む ら村 和か ず し志 君 和歌山県御坊市立塩屋小学校 4 年 ・奄美の伝統舟こぎ競争を見守る灯台 松 まつやま 山 航こうだい大 君
● 銅 賞 (中学生の部) 横 よこみぞ 溝 葉は る瑠 さん 北海道釧路市立鳥取中学校 2 年 佐さ と う藤 千ち あ き晃 さん 北海道釧路市立鳥取中学校 2 年 髙 たかはし 橋 和な ぎ さ紗 さん 大阪府大阪市立東我孫子中学校 3 年 ・夕暮れ時の灯台 ・灯台と青い海
はじめに 本年 月に沿岸域情報提供システム︵ MICS ︶の スマートフォン用サイト︵以下﹁スマホサイト﹂とい い ま す。 ︶ の 試 験 運 用︵ 詳 し く は 燈 光 月 号 を 参 照 く だ さ い。 ︶ が 開 始 さ れ る こ と と な り、 第 九 管 区 海 上 保 安本部交通部企画課では、積極的に認知度向上・利用 拡大策を講じました。いくつかの初の試みもありまし たので、本誌面でこれらを紹介させていただきます。 ええい。やってみるさ。 着任早々の 月某日、やっとパソコンの設定作業が 完了し、まったりしていると、幹部から﹁九本部でも 記者レクやってみよう。 ﹂との指令が下りました。 準備期間はスマホサイト試験運用開始日︵ 10日︶ま での数日間、また、世の中は、統一地方選挙真っ只中 であり、記者が反応してくれるのかとの不安も残りま す。 直ちに課内で作戦会議を開催し、地方選対策として レ ク 日 を 回 設 け る こ と、 ス マ ホ サ イ ト 画 面 を プ ロ ジ ェ ク タ ー に 映 し 出 し て 説 明 を 行 う こ と 等 の 方 針 を 決 定 し、 準 備 に 取 り 掛 かりました。 ﹁ 課 長、 H D M Ⅰ 接 続 可 能 な プ ロ ジ ェ ク タ ー も M H L ケ ー ブ ル︵ ス マ ホ か ら テ レ ビ 等 に
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第九管区海上保安本部交通部企画課
写真 企画課長へのぶら下がり取材
̶ 2 ̶ ̶ 3 ̶ 出力可能なケーブル︶もありません。 ﹂﹁足らぬ、足ら ぬは工夫が足らぬ!﹂⋮⋮方々当たったところ、新潟 海上保安部に HDMⅠ 接続可能なプロジェクターがあ ることが判明、 MHL ケーブルはア○ゾンで購入しま し た。 ︵ 購 入 後 翌 日 に は 到 着 す る ○ マ ゾ ン の 凄 さ に 改 めて感動︶ 結果、事前に 社、当日に 社の取材を受け、当日 のテレビニュース、翌日の新聞記事にスマホサイトが 取り上げられ、 多大な PR 効果がありました。 ︵写真 ︶ 蛇足ですが、 回目の記者レクには、 社の取材申し 込みもありませんでした⋮⋮。 歯くいしばれ! そんなポスター修正してやる! 月初旬、管区特別事業の内示︵落選︶の情報が入 りました。 ﹁ 課 長、 管 区 特 別 事 業 に 応 募 し て い た ス マ ホ サ イ ト の認知度向上・利用拡大方策が落選しました。役務費 も 少 な い の で、 自 前 で は 活 動 困 難 で す。 ︵ 本 職、 ま っ たりします︶ ﹂﹁何 ⁉足らぬ、足らぬは工夫が足らぬ。 日海海防にお願いしてみよう!﹂との提案 ・・・ 。 早速、公益社団法人日本海海難防止協会の事務所を 訪ね、ポスターの作成及び掲出費用等の協力の相談を したところ、快く引き受けていただけたうえに、当初 予定していた予算よりも多い額を応援していただける ことになりました。 ポスターの素案は、すでに作成済みでしたので、そ れ を 元 に 課 内 で 作 戦 会 議 を 行 っ た と こ ろ、 ﹁ 面 白 く な い。 ﹂だの﹁ひねりがない。 ﹂だの﹁ニュー MICS は 伊達じゃない。 ﹂だの辛辣な意見が相次いだため、 ︵そ れ な ら﹁ み ん な 巻 き 込 ん で や る。 ﹂ と の 担 当 官 の 想 い の元︶急遽、ポスター DEキャッチコピー交通部長カッ プを開催することとなりました。 課内の自称コピーライターの面々が、ルーチンワー クを ほ っぽり出し、ああでもない、こうでもないと検 図 スマホサイトのポスター
討 を 行 い、 ﹁ マ リ レ の 達 人 さ あ M I C S を 持 ち 歩 こ う。 ﹂ を キ ャ ッ チ コ ピ ー に、 交 通 部 長 カ ッ プ を 経 て 完 成したポスターがこちらです。 ︵図 ︶ 少し砕けすぎた感があったので、本部幹部からお叱 り を 受 け る の で は? と 不 安 に 思 っ て い ま し た が、 ﹁ な か な か の 出 来 栄 え。 ﹂ と の お 褒 め の 言 葉 を 頂 き、 ほ っ と胸を撫で下ろしました。 P R と は い つ も 2 手 3 手 先 を 考 え て 行 う も の だ 。 ポスターの案も完成し、掲出場所の調整をしていた と こ ろ、 ﹁ 課 長、 ポ ス タ ー は、 各 部 署 の 啓 発 活 動 に 合 わせて配布等してもらう ほ か、本部においては、管内 の道の駅 0 箇所、 JR新潟駅、富山駅、金沢駅、前 橋 駅 及 び 長 野 駅 ほ か 駅 に 掲 出 す る こ と と し ま す。 ﹂ ﹁ ふ む。 足 ら ぬ、 足 ら ぬ。 工 夫 が 足 ら ぬ。 も う 一 手 ほ し い な。 ﹂ と の お 言 葉、 ま た、 ハ ー ド ル が 上 が り ま し た⋮⋮。 手元の JR東日本企画 の パ ン フ レ ッ ト を め く る と 、 J ・ A D ビジョン︵主要駅ネットワーク型サイネージ、以 下﹁ デ ジ タ ル サ イ ネ ー ジ ﹂ と い い ま す。 ︶ と い う 斬 新 なメディアがあるではないですか。デジタルサイネー ジは、 新潟県内の JR 14駅に計 30面設置された電子看板 で、それぞれ 50∼ 70インチのサイズがあり、改札付近 の 視 認 性 抜 群 の 場 所 に 設 置 さ れ て い ま す。 ︵ 図 ︶ 回 15秒、 日あたり 75回同時に音声付で放送されるこ とから、さながら、県内 JR駅を全駅ジャックした様相 になるでしょう。 さっそく、課内で作戦会議を実施したところ、県内 の駅に設置されたデジタルサイネージを同時に活用す る取り組みは、おそらく当庁初であり、啓発活動と組 み合わせ、更に広報を活用すれば、注目度も抜群だろ うとの結論を得て、早速、準備にかかりました。 啓発活動と組み合わせることから、デジタルサイネ ージで表示させる内容は、全国海難防止強調運動をメ 図 新潟県内のデジタルサイネージ
̶ 4 ̶ ̶ 5 ̶ インに、 MICS の周知を下段に盛り込むこととしま し た。 ︵ 図 ︶ 音 声 は、 本 部 一 番 の 美 声 の 持 ち 主 で あ る九 OP の Y 官に原稿を読んでもらい、画像と編集し て、 無事デジタルサイネージのデータが完成しました。 ︵ 放 映 費 用 に つ い て は、 こ れ ま た 公 益 社 団 法 人 日 本 海 海難防止協会にお願いしました。 ︶ めぐりあい JR新潟駅 啓発活動は、全国海難防止強調運動の開始日である 月 16日に JR新潟駅万代口で、北陸信越運輸局、新潟 漁業調整事務所及び新潟海上保安部と連携して行うこ ととしました。 JR新潟駅、関係機関とも非常に協力的 であり、事前準備はすんなりと進めることができまし た。 一方、今回の活動では、報道機関の取材を受け、ニ ュース映像や新聞記事になることが至上命題です。こ ちらは、投込みに対する報道機関からの反応が芳しく なく、また、台風 11号の影響も気になるところです。 結局、期限ギリギリまで安全課専門官が電話による営 業活動を行うなど涙ぐましい努力を行い、テレビ局 社、 新 聞 社 か ら 取 材 申 込 み を 受 け る こ と が できました。 活 動 当 日 は、 こ れ ま で の 実 績 か ら お お よ そ 時 間 活 動 で き る 量 の 配 布 物 を 準 備 し ま し た が、 台 風 11号 の 影 響 に よ る 曇 空 を も の と も せ ず、 わ ず か 時 間 弱 で 配 布 物 が 無 く な る ほ ど の 大 盛 況 で し た。 配 布 物 を 受 け 取 ら れ る 皆 様 は 非 常 に 好 意 的 で あ 写真 安全課長へのぶら下がり取材 図 デジタルサイネージで表示させる内容
り、 労 い の 言 葉 を か け て 頂 く な ど、 今 後 の 活 動 の 励 み に な り ま し た。 ま た、 当 日 の 夕 方 に は、 デ ジ タ ル サ イ ネ ー ジ の 放 送 状 況 も 含 め テ レ ビ ニ ュ ー ス で 取 り 上 げ ら れ、 翌 日 の 朝 刊 に も カ ラ ー 記 事 が 掲 載 さ れ る な ど、 多 大 な P R 効 果 が あ っ た も の と 思 います。 ︵写真 、 ︶ まだだ。まだ終わらんよ。 第九管区交通部企画課では、引き続きスマホサイト 内容の充実を図るとともに、今後も斬新なアイデアを 模索しながら、ポジティブアプローチで周知活動を推 進していく所存です。 写真 JR 新潟駅改札口のデジタルサイネージ
̶ 7 ̶ し続けています。 月 29日︵ 月 ︶、 定 期 点 検 で 水 ノ 子 島 灯 台 へ 向 か う 用船に、大園次長 ほ か 名の職員に加え、 OBS ︵大 分放送︶スタッフ 名が同乗しました。 30分の航海を終え、水ノ子島に着いた OBS のスタ ッフは、小さな島にそびえ立つ 40メートルの石造りの 灯台の迫力に驚嘆の声を上げました。 平成 27年 月某日午後、大分海上保安部交通課執務 室 で 外 線 電 話 が 鳴 り 響 き ま し た。 ﹁ O B S で す け ど、 主任官いらっしゃいますか。水ノ子島灯台の取材をお 願 い し ま す。 ﹂ 架 か っ て く る こ と が わ か っ て い た か の 如く主任航行管理官 がすぐに電話を取り 対応しました。 水ノ子島灯台は、 明治 37年 月 20日初 点、蒲戸埼 ︵大分県︶ と由良岬︵愛媛県︶ を結ぶ ほぼ中央に位 置し、豊後水道を航 行する船舶の安全の ため、 111 年照ら
地元
T
V
局水ノ子島灯台点検を密着取材
∼
カメラがやや気になりました
∼
大分海上保安部交通課
写真 :海上からの取材 写真 : 等大型レンズ
取材は、各機器の点検の様子をメインに、先の太平 洋戦争の爪あと︵戦闘機による弾痕︶や灯台の歴史な どについて行われ、特にカメラマンは、 等大型レン ズ︵高さ センチメートル︶の大きさや仕組みに 感激し、いつまでもカメラを回し続けていました。こ の際、カメラマンから主任航行管理官に対し、点灯し ながら回転しているレンズの点検を依頼され、ワンシ ーンの撮影が終わった直後、突然、記者から灯台に関 す る 感 想 を 聞 か れ、 ﹁ 船 舶 の 航 行 安 全 の た め 日 夜 保 守 しています。これまでの諸先輩の台風襲来や燃料運搬 場所において、船舶の安全を見守り続けている灯台の 重要性を認識し、海上保安庁の多岐に渡る業務の一端 を理解されたようです。帰り際、記者から﹁これから も 海 の 安 全 の た め、 お 仕 事 が ん ば っ て く だ さ い。 ﹂ と 笑顔の挨拶に、保安部職員 名は感無量でした。 こ の 密 着 取 材 は、 月 日︵ 金 ︶、 夕 方 の 時 15分 からのローカルニュースで放映され、約 分半ではあ りましたが、大分県民の皆さんに広く水ノ子島灯台を 紹介できたものと感じました。 などの苦労かつ保守に加え、灯台の設計、 工事にかかわった方々の苦労があり点灯し 続けています。私たちも先輩達からの技術 な ど を 伝 承 し、 未 来 永 劫 保 守 し て い き ま す。 ﹂ と、 噴 出 す 汗 を 拭 く こ と な く 回 答 し ました。 昼食をはさむ約 時間の取材対応、アナ ウンサーとしてニュース番組を担当してい る明眸皓歯な記者に緊張しながら、カメラ マンのリクエストや記者の質問に冷静に対 応して無事に終了しました。 スタッフの皆さんは、自然環境の厳しい 写真 :帰り際に記者から頂いたメッセージ 写真 :レーダービーコン装置点検
̶ 8 ̶ ̶ 9 ̶ エピソード その 1 用船の船長さんは、水ノ子島をぐるっと一周して くれ、粋な計らいをしてくれました。 その 航行 管理官 この日のために散髪してきました。 その ︵写真 5参照︶ 主 任航 行 管理官 水ノ子島に上陸する記者の足元 がおぼつかないと思うや、さりげなく手をさしのば す。なかなかやるものです。 その ︵写真 6参照︶ 等大型レンズの前でのインタビュー、 シ ナリオ では次長と暗黙の了解でしたが、なぜか 主 任航行 管 理官⋮⋮ こ れ は 撮 影 が 始 ま る 前 に、 カ メ ラ マ ン か ら、 ﹁ 誰 か 名、 ピ ン マ イ ク を つ け て い た だ け ま せ ん か。 ﹂ やはり、 主 任官でしょう、となり。また、 主 任航行 管理官の電球交換作業の撮影があり、その流れでし た。 その 太平洋戦争の爪あと や滞在中していた居 住 区の撮影では、スタッ フの方々に対して事前 説明をしました。本番 では記者は、引き締ま った表情でマイクを持 ちながら自分のメモな しにカメラの前で話す ところ、さすがはアナ ウンサーと感心しまし た。 その 梅雨時期にしてはす ばらしい日︵翌日から は雨模様の天候︶で、 四国まで望め、この灯 台踊り場からの眺めに 写真 :記者を優しく! 写真 : 等大型レンズ前でインタビュー
も O B S の ス タ ッ フ の 皆 さ ん 感 激。 ﹁ 踊 り 場 か ら、 太陽電池パネルから波力発電の建物までいい感じで 撮影できますよ。 ﹂の助言に、カメラマンは、 ﹁実は 高所恐怖症で怖いのですよ、カメラを落としたら大 変なことになります。 ﹂ 趣 味 が カ ラ オ ケ と い う 記 者 は、 ﹁ 運 動 不 足 で 高 い 灯 台 ま で 登 り、 明 日 は 筋 肉 痛 に な る か も し れ ま せ ん。 ﹂ その 出港した港に帰り、スタッフが用船から上陸した と き、 記 者 に 対 し て 次 長 は、 ﹁ こ れ か ら 担 当 す る ニ ュ ー ス 番 組 を 毎 回 見 ま す。 応 援 し ま す。 ﹂ と 握 手、 そして逆に両手で握手を返してもらいしっかりエー ル交換。その後男性のカメラマンとスタッフの方と も握手⋮⋮ 帰 り の 車 の 中 で 主 任 官 か ら、 ﹁ 点 検 で 汚 れ た 手 で よく握手しましたね。 ﹂の突っ込み がありました。 その 月 日の午前中、次長のところに外線電話が。 O B S の 記 者 か ら、 ﹁ 本 日 の 夕 方 の ニ ュ ー ス で オ ン エアされます。特集で すので、 時 20分から 30分の間に放映されま す。今編集中です。 ﹂ ﹁ あ り が と う ご ざ い ま す。ぜひかっこよく流 してください。昨日ニ ュースを見ました、緊 張しているように感じ ましたよ。テレビより 実際のほうが可愛くて 素敵です。 ﹂に対して、 ﹁ あ り が と う ご ざ い ま す。 ﹂ と 微 笑 ん だ 声 が 返ってきました。 ︵ 注 記 者 は、 月 か ら 報 道 製 作 局 報 道 部 に 異 動 に な り、 夕 方 の ロ ー カ ル ニ ュ ー ス 番 組 の 木 曜 日 と 金 曜 日 を 担 当 し ています。 ︶ 写真 :記念写真 写真 :緊張がほぐれて微笑
̶ 11 ̶ メガシステムを開発した海軍研究所において、それぞ れオメガシステムの技術的事項等に関する打ち合わせ を行うことを目的として訪れました。 その後、ニューヨークのブルックリンにあるコース トガードのサプライセンターにおいて、日本のオメガ 局の機器等︵アメリカ製でアメリカ政府から借用して いた︶の予備品の補給、機器の修理などに関する打ち 合わせなどを行う目的で訪れました。また、ニューヨ ークは、平成 10年 月に亡き妻との最後の外国旅行で 訪れた都市でもあります。 前記の米国航海学会では 人程の参加者の前で 約 20分 間 の ス ピ ー チ と 数 分 間 の 質 疑 応 答 を 行 い ま し た。そして、ここでの私の発言が翌年︵昭和 47年︶の 通常国会の内閣委員会の場で問題となりました。要点 は、当時海上保安庁灯台部電波標識課専門官であった 私が、米国航海学会で﹁オメガ局の建設に関して技術
はじめに
平成 26年 月 25日から 10月 日までの 10日間、思い 出の地であるニューヨーク、ワシントン DC など米国 東海岸の都市を一人旅してきました。 43年程前の昭和 46︵ ︶年 11月に、初めての 外国への出張、日本から米国ノースダコタのジェーム スタウンまで及びロスアンジェルスから日本までの間 は同僚と一緒でしたが、ジェームスタウンからニュー ヨーク、ワシントン DC 、サンディエ ゴ 及びロスアン ジェルスまでの間で、初めての外国での一人旅を経験 しました。ニューヨークには、ホテルで開催された米 国の航海学会において、当時海上保安庁が建設を進め ていたオメガ局についてのプレゼンテーションを行う ことを目的として訪れました。また、ワシントン DC にあるコーストガード本庁及びサンディエ ゴ にあるオ米
国
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的 な 情 報 等 を 提 供 し て 頂 い た 米 国 海 軍 研 究 所 に 対 し て、 こ の 場 を お 借 り し て お 礼 を 申 し 上 げ ま す。 ﹂ と 述 べ た こ と に つ い て、 ﹁ 建 設 中 の オ メ ガ 局 は、 ベ ト ナ ム 戦争において米国海軍の潜水艦が使用する目的の施設 であることは明らかであり、憲法違反の施設であり、 そ の 建 設 は 直 ち に 止 め る べ き で あ る。 ﹂ と の 質 問 で あ り ま し た。 答 弁 の 概 要 は、 ﹁ オ メ ガ 局 に 関 す る 情 報 は すべて公開されており、世界中のすべての船舶がこれ を利用することが可能で、オメガ局は船舶交通の安全 確保及び運航能率の増進を目的としたものであり、指 摘は当たらない。 ﹂でありました。 その後ワシントン DC は、コーストガードにおいて オメガ局の建設、各局の発射電波の同期の維持に関す る課題等についての打ち合わせのために、数回訪れま した。 今回訪れた ボ ストン、セーラム、 ボ ルチモア及びニ ューヨークは皆港町であり、航路標識に出会うことが 出来ましたので紹介したいと思います。
ボストン
月 25日の夕方成田を出発し、現地時間の同日夕方 にニューヨークに到着、アムトラックのペンシル バ ニ ア駅の近くのホテルに宿泊しました。 ペンシル バ ニア駅は通称ペンステーションと呼ばれ ており、マンハッタンの中心部で、エンパイア・ステ ートビル、タイムズスクエア、 番街などがあるミッ ドタウン・ウエストと呼ばれている地区にあって、マ ディソンスクエアガーデン︵ バ スケット ボ ール、 ボ ク シング、プロレス、アイスホッケー等が開催されるス タジアムである︶の地下にあります。地下 階に切符 売り場、待合室、ホール等があり、地下 階にホーム があります。 26日午前 時過ぎにアセラ特急でニュー ヨークを出発しました。アセラ特急にはファーストク ラス及びビジネスクラスの車両がありますが、両クラ スとも指定席はありません。ニューヨークからアセラ 特急で、 時間 30分程で ボ ストンのサウスステーショ ンに到着しました。 ボ ストンは 30数年前に訪れており、今回が 回目で あります。 26日の午後には、フリーダムトレイルを歩 き、人々がアメリカのイギリスの植民地からの独立、 建国へ向けて活動した時代の史跡、教会、学校、州議 事堂、 集会場、 帆船 U SS コンスティテューション号、 記念塔などを見て回りました。 このフリーダムトレイルは、ダウンタウンからノー̶ 12 ̶ ̶ 13 ̶ スエンド、チャールズタウンと呼ばれる地区に跨がっ て、道路上の赤色の線で結ばれており、その距離は約 キロメートルです。 チャールズタウンの海軍造船所等跡地で、チャール ズ タ ウ ン・ ネ ー ビ ー ヤ ー ド︵ Navy yard ︶ と 呼 ば れ、 国 立 公 園 局︵ National Park Service ︶ が 管 理 し、 一 般に公開されている歴史公園内の埠頭に、米国船コン ス テ ィ テ ュ ー シ ョ ン 号︵ U n it ed S ta te s S h ip Constitution ︶︵ 写 真 │ ︶ が 係 留 さ れ て い ま す。 同 船 は 無 料 で 見 学 出 来 る の で す が、 乗 船 す る た め に は 写 真 付 き の 身 分 証 明 書 が 必 要 で、 当 日 は パ ス ポ ー ト を ホ テ ル に 置 い て き た た め、 残 念 な が ら 乗 船 は 出 来 ま せ ん で し た。 そ の 代 わ り、 近 く に あ る U S S コ ン スティテューション号博物館で情報を収集しました。 この U SS コンスティテューション号は 年に 建造された世界最古の戦闘艦で、排水量が ト ン、長さが 63メートル、幅が 13・ メートルです。 年 月にアメリカはイギリスに対して宣戦 布告し、 月 日に U SS コンスティテューション号 はカナダの沖合でイギリスの戦闘艦と敵対し、砲撃を 交え、イギリスの戦闘艦を炎上させました。また、 12 月 29日 に は ブ ラ ジ ル 沖 で 砲 撃 を 交 え 再 び 大 勝 利 し、 年 月の最後の戦いでイギリスの戦闘艦 隻を降伏させました。 27日には、 ボ ストン港からフェリー ボ ートでセーラ ムへ向かいました。 ボ ストン港には防波堤がありませ ん が 、 港 へ 向 か う 航 路 に は 灯 浮 標 が 設 置 さ れ て い ま す 。
セーラム
セーラムは ボ ストンの北へ約 20キロメートル行った 所にある港町です。 ボ ストンからは列車で約 35分、フ ェリー ボ ートで約 45分で行くことが出来ます。セーラ ム 港 の 入 口 に は Port Pickering Light ︵ 写 真 │ ︶ が あ り ま し た。 こ の Port Pickering Light は Winter 写真− 世界最古の戦闘艦 USSコンスティテューション号Island Light と も 呼 ば れ て お り、 年 に 建 設 さ れ、 年までコーストガードが運用していまし た。 年からは私設航路標識としてセーラム市 が運用しています。灯光の高さは海面から ・ メー ト ル で す。 こ の 灯 台 は Winter Island の 歴 史 的 地 区 に あり、 年 月 14日に国の歴史的箇所として登 録されました。 港の奥には防波堤があり、その先端には灯台があり ました。この防波堤灯台︵写真│ ︶の脇にあった案 内 板 に は 概 ね 次 の 通 り の 説 明 が あ り ま し た。 ﹁ セ ー ラ ム が、 か つ て 世 界 的 な 海 港 で あ っ た 理 由 は、 港 の 地 理 に 起 因 し た も の で は 無 く、 セ ー ラ ム の 海 員、 商 人 及 び 貿 易商の企業心によるものであります。 セ ー ラ ム 港 は ニ ュ ー ヨ ー ク の よ う な 他 の 主 要 港 と 異 な り、 内 陸 に 都 市 や 市 場 を 有 す る 大 き な 河 川 に 繋 が っ て い ま せ ん。 港 内 は 浅 く、 年 以 降 に 建 造 さ れ た 大 き な 商 船 が 停 泊 す る に は 浅 す ぎ ま し た。 加 え て、 港 へ 向 か う 海 域 に は 多 く の 島 や 冠 水 し た 岩 が あ っ て、 夜 間 若 し く は 霧深い天候の際には航行が危険でありました。 港内における船舶の航行の安全を図るためにアメリ カ政府は 年にこの防波堤の先端に灯台を建設 しました。最初の光源は油を燃やすランプで、後にア セチレンガスになりました。 年には電化され ました。この灯台は現在も使用されており、灯器はコ ー ス ト ガ ー ド が 維 持 し て お り、 建 物 は 国 立 公 園 局 ︵
National Park Service
︶が維持しています。
﹂
写真− セーラム港入口にあるPort Pickerig Light 灯台
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ワシントン
DC
28日の午前、 ボ ストンから空路ワシントン DC へ向 かいました。同日の午後、スミソニアン博物館の一つ である国立航空宇宙博物館を訪れました。この博物館 には、初期の航空機、プロペラ機、ジェット機等多く の歴史的航空機が展示されており、その中には、第二 次世界大戦中に日本の主力戦闘機であった零式艦上戦 闘 機︵ ゼ ロ 戦 と 呼 ば れ て い る ︶︵ 写 真 │ ︶ も 展 示 さ れていました。また、アポロ 11号司令船、 ボ イジャー 宇宙探査機なども展示されていました。更に時間及び ナビゲーションのコーナーには、ロランについての説 明があり、 年 月のロランのサービス範囲、 ロランチャート及びロラン受信機が展示されていまし た。 ︵写真│ 、 ︶ ロ ラ ン に つ い て 概 ね 次 の よ う に 説 明 さ れ て い ま し た 。 ﹁ 年 に 英 国 の 科 学 者 達 と 技 術 者 達 が、 組 み 合 わ せ て 発 射 さ れ る 電 波 間 の 時 間 差 を 計 る こ と に よ 写真− 零式艦上戦闘機 写真− ロランのサービス範囲 写真− ロラン受信機り、数百マイルまで到達する現実的な中距離レンジの GEE と呼ばれる無線航行システムを開発しました。 こ の 成 果 を 基 に 米 国 は ロ ラ ン︵ L O R A N Long Range Navigation ︶と呼ばれる、 船舶及び航空機のた めの大洋をカ バ ーする長距離レンジのシステムを開発 しました。 当初は天文航法より正確ではありませんでしたが、 ロランには、空が曇で覆われている時でも作動すると いう大きな利点がありました。昼間、六分儀と太陽の 利用で一つの位置の線が得られるのみですが、ロラン は正確な位置情報︵緯度・経度︶を提供することが出 来ました。ロラン及び GEE は第二次世界大戦におけ る米国軍及び英国軍にとって非常に重要な道具であり ました。 第二次世界大戦の終わりには、 72局のロラン局から なるロランチェーンが、主に北半球において、地球表 面の 30パーセントの範囲をカ バ ーしました。船舶、航 空機及び潜水艦で 万台以上の受信機が使用され、冷 戦の高まりにより、ロランのサービス範囲は地球表面 の 70パーセントに及びました。 このロランチャートは 年に太平洋の戦闘域 で B │ 29の航空士達が使用しました。航空士は、オシ ロスコープを使用して、主局と従局から発射された電 波間の時間差を測定して、ロランチャート上で双曲線 状の位置の線をマークし、二つの位置の線の交点から 正確な位置を決めることが可能でありました。 ﹂ 当初の旅行計画では、 ボ ストンからワシントン DC 、 ボ ルチモア、そしてニューヨークへと航空機を利用し て移動するものでしたが、よく調べると ボ ルチモアか らニューヨークへ行く適当な航空便がありませんでし た。その結果、 29日の朝にワシントン DC から ボ ルチ モアへ行き、当日は観光の後 ボ ルチモアに宿泊し、 10 月 日にワシントン DC から航空便を利用してニュー ヨークへ行くために、 30日の午前中に ボ ルチモアから ワシントン DC に戻りました。同日の午後には、ワシ ントン DC で国立アメリカ歴史博物館、ホワイトハウ スビジターセンター、フォード劇場博物館等を訪れま した。
ボルチモア
ボ ルチモアはワシントン DC の北東約 65キロメート ルに位置しており、メリーランド州の最大の都市で、 港町です。 29日の朝、ワシントン DC のユニオン駅か らアムトラックを利用し、約 40分で ボ ルチモアのペン̶ 16 ̶ ̶ 17 ̶ シル バ ニア駅に着きました。港はインナーハー バ ーと 呼ばれており、チェサピーク湾に面しています。 港 に は 灯 船 チ ェ サ ピ ー ク 号︵ L ig h ts h ip CHESAPEAKE ︶ 及 び 帆 船 型 戦 闘 艦 コ ン ス テ レ ー シ ョン号︵ US Sloop of War CONSTELLATION ︶が係 留されていました。 灯船チェサピーク号︵写真│ ︶は、 0 年に 完成した当時、米国で灯台業務に使用出来る最も近代 的な船舶でした。この灯船は 75キロワットのディーゼ ル発動発電機を有し、 万 カンデラの電気灯 光機、電気式霧笛、ラジオビーコン等を装備していま した。この灯船は、 年から 1933 年までの 間には Fenwick Island の浅瀬の局のとして、 その後、 第二次世界大戦の開始前まではチェサピーク湾の入口 を示す標識として、 年から 年までの 間 に は Cape Cod 海 峡 を 巡 視、 調 査 す る 船 舶 と し て、 年から 20年間はチェサピーク湾に入出航 す る 際 の 航 路 を 示 す 標 識 と し て、 年 か ら 0 年 ま で は Delaware 湾 に 向 か っ て 航 行 す る 際 の 標 識 と し て、 そ れ ぞ れ 使 用 さ れ ま し た。 同 船 は 年 か ら ボ ル チ モ ア の イ ン ナ ー ハ ー バ ー の 号 埠 頭 に 係 留 さ れ 、 H IS T O R IC S H IP S in B O LT IM O R E に よ り 管 理 さ れ て お り、 有 料 で 見 学 す る こ とが出来ます。 帆 船 型 戦 闘 艦 コ ン ス テ レ ー シ ョ ン 号︵ 写 真 │ ︶ は、 排 水 量 が ト ン、 長 さ が 54メ ー ト ル で、 年 に 建 造 さ れ、 中 東 艦 隊、 ア フ リ カ 艦 隊 等 に 所 属 し、 後 に 海 軍 大 学 校 の 実 習 船 と な り、 最 後 は 年 か ら 年 ま で 大 西 洋 艦 隊 写真− 灯船チェサピーク号 写真− 帆船型戦闘艦コンステレーション号
共に居住しており、 年から 年までの 間 に は 灯 台 守 が 交 代 で 滞 在 し て い ま し た。 Seven F oo t K no ll 灯 台 は 、 年 に 自 動 化 さ れ 、 年 代 の 終 わ り 頃 に は 老 朽 化 に よ り 廃 止 と な り、 年に ボ ルチモアの内港に移動され、 年 に コ ー ス ト ガ ー ド か ら ボ ル チ モ ア 市 に 移 管 さ れ、 年からは ボ ルチモア水族館の一部になり ました。 埠頭の先端と思われる場所にも灯台︵写真│ 10︶が あり、港内には灯浮標︵写真│ 11︶があります。
ニューヨーク
10月 日の朝、ワシントン DC のナショナル空港か らニューヨークのラガーディア空港へ向かう予定の航 空機に搭乗したものの、ラガーディア空港の天候不良 により離陸を前に 時間半程待機することとなりまし た。結果、ニューヨーク到着が 時間半以上遅れまし た。 に所属しました。 年から ボ ストン にあり、 年からは ボ ルチモアにあ り、 前 記 の 灯 船 チ ェ サ ピ ー ク 号 等 と 共 に HISTORIC SHIPS in BOLTIMORE に よ り管理され、有料で見学することが出来ま す。 埠 頭 に は Seven Foot Knoll 灯 台︵ 写 真 │ ︶がありました。この灯台は、チェサ ピ ー ク 湾 の 航 路 標 識 と し て Seven Foot Knoll と 呼 ば れ る 浅 瀬 に 年 に 建 設 されました。 Seven Foot Knoll 灯 台 は 年 か ら 年までの間には灯台守が家族と写真− Seven Foot Knoll灯台
̶ 18 ̶ ̶ 19 ̶ 日の午後には、マンハッタン・ミッドタウンのタ イムズスクエア、 番街、グランドセントラルターミ ナル等を散策しました。 日の午前中には、マンハッタンの西側のハドソン 川沿いの 83埠頭からフルアイルランッド・クルーズの 観光船に乗り、マンハッタンを一周しました。途中、 ハドソン川に架かっているジョージ・ワシントン橋の マンハッタン側の橋脚付近に一つの灯台を見つけまし た。 イ ン タ ー ネ ッ ト で こ の 灯 台 に つ い て 検 索 した結果、 次のことが明らかになりました。 こ の 灯 台 は 小 さ な 赤 灯 台 呼 ば れ、 正 式 名 が Jeffrey ’s Hook 灯台 ︵写真│ 12︶であり、 マ ン ハ ッ タ ン の ワ シ ン ト ン 公 園 の 先 端 の ハ ド ソ ン 川 沿 い に あ り ま す。 初 代 の 灯 台 は 年 に 整 備 さ れ、 現 在 の 灯 台 は、 高 さ が 12メ ー ト ル、 鉄 の 鋳 物 製 で、 年 に コ ー ス ト ガ ー ド に よ り 整 備 さ れ ま し た。 年 に ジ ョ ー ジ・ ワ シ ン ト ン 橋 が 完 成 し ま し た が、 こ の 灯 台 は、 年 ま で コ ー ス ト ガ ー ド に よ り 運 用 さ れ、 年 に は ニ ュ ー ヨ ー ク 市 の 所 管 となり、 年にニューヨーク市のランドマーク に指定され、 年にニューヨーク市により再度 点灯されました。 私 に と っ て、 ニ ュ ー ヨ ー ク の 象 徴 は、 エ ン パ イ ア・ ステート・ビルディング、ワールド・トレード・セン ター・ビルディング︵ W TC ︶及び自由の女神です。 エンパイア・ステート・ビルディングは、 年 に 完 成 し た 高 さ メ ー ト ル の ビ ル デ ィ ン グ で、 年に最初に訪れた際には、その高さ、美 写真−11 港内の灯浮標 写真−12 Jeffrey’s Hook 灯台
しさに非常に驚かされた記憶があります。その際の展 望 台 か ら の 昼 間 の 景 色 は 非 常 に 素 晴 ら し い も の で し た。 年に今は亡き妻と訪れた際の夜景もまた 非常に素晴らしいものでした。写真│ 13はロックフェ ラー・センターの 70階建ビルの屋上にあるトップ・オ ブ ・ ザ ・ ロック展望台から見たエンパイア ・ ステート ・ ビルディングです。 年に訪れた際の W TC は建設中で、 W TC のツインタワーは日系アメリカ人の斬新な設計による も の で、 当 時 完 成 直 前 で、 米 国 経 済 の シ ン ボ ル と し て 非 常 に 話 題 に な っ て い ま し た。 こ の ツ イ ン タ ワ ー は 年 に テ ロ に よ り 破 壊 さ れ て し ま い ま し た。 新 し い シ ンボ ル は ワ ン・ ワ ー ル ド・ ト レ ー ド・ セ ン タ ー ︵ 当 初 フ リ ー ダ ム・ タ ワ ー と 呼 ば れ た ︶︵ 写 真 │ 14︶ で、 そ の 高 さ は ア メ リ カ 独 立 年 ︵ 年 ︶ に ち な ん だ フ ィ ー ト︵約 メートル︶となっています。 自 由 の 女 神 は 年 に 世 界 遺 産 に 登 録 さ れ ま し た が、 そ の 年 ほ ど 前 の 年 に 自 由 の 女 神 を 訪 れ ま し た。 段 以 上 の 階 段 を 使 っ て 王 冠 部 分 の 展 望台に登り、その展望台から見たマンハッタンの景色 の素晴らしさに感動した覚えがあります。今回は船上 から自由の女神を眺めました。 ︵写真│ 15︶
終わりに
外国を一人で旅をすると、初めての体験、驚かされ ること、楽しいこと、嬉しく思うことなど色々な事に 出合います。 ニューヨークから ボ ストンへ向かう間及びワシント 写真−13 エンパイア・ステート・ビルディング 写真−14 ワン・ワールド・トレード・センター̶ 20 ̶ ̶ 21 ̶ ン D C と ボ ル チ モ ア と の 間 の 移 動 に ア ム ト ラ ッ ク と 呼 ば れ る 列 車 を 利 用 し ま し た が、 次 の よ う な 事 が あ り ま し た。 駅 の 乗 車 券 売 り 場 で は I D ︵ 写 真 付 き の 身 分 証 明 書 ︶ の 提 示 を 求 め ら れ、 乗 車 券 に は 氏 名 が 記 載 さ れ て い ま し た。 駅 には日本の駅の様な全体の改札口はありません。各ホ ームにはそれぞれ改札口があり、通常、各ホームの改 札口は閉鎖されており、乗客はホームに入ることが出 来ません。乗客はホールまたは待合室で改札口が開く のを待っています。ホールには掲示板があり、列車番 号、行き先などが表示されていますが、ホームの番号 はある時間になるまで表示されていません。 列車出発の 10分程度前になると、列車番号、行き先 及びホーム番号についてのアナウンスがあり、それと 同時に表示板にもホームの番号が表示され、それを見 て乗客は一斉にそのホームの改札口へ移動します。改 札口で駅員による乗車券及び ID の確認を受けた後に ホームへ入り、乗車することになります。 乗車前に、駅の待合室やホールには列車を待つ人が 大勢居るのに、乗車券売り場には ほ とんど人が居ない ことを不思議に思いましたが、列車内で車掌が検札に 来た時にその理由が分かりました。多くの乗客は手持 ちのスマートフォンに乗車券を取り込み、車掌にはス マートホォンのディスプレー上の乗車券を見せ、車掌 はレーザー光線でそれを読み取っていました。到着駅 のホームからはチェックなしに自由に出ることが出来 ます。 日本からインターネットを利用してアムトラックの 乗車券を購入しようと試みましたが、出来ませんでし た。また、 J TB はアムトラックの乗車券を取り扱っ ていません。 ま た、 ア メ リ カ 人 の 親 切 な 人 柄 に 触 れ る こ と が 出 来 ま し た 。 ニューヨーク、マンハッタンのロックフェラー・セ ン タ ー に あ る 高 さ メ ー ト ル の G E ビ ル の ト ッ プ・オブ・ザ・ロック展望台に昇るための切符を購入 写真−15 自由の女神
した際に小銭入れを落としてしまいました。それに気 が付いたのはセキュリティゲートを通る際でした。小 銭入れには、ホテルの部屋のカードキー、クレジット カード及び小銭が入っていました。展望終了後、ホテ ルに帰り、部屋のカードキーを再発行してもらい、日 本へ電話をしてクレジットカードを無効にする手続き を行いました。電話終了後、フロントから、私の小銭 入 れ を 拾 っ た と い う 人 か ら 電 話 が あ り、 ﹁ 電 話 を し て 欲しい﹂との伝言があった旨の連絡がありました。電 話をかけると出たのは女性で、拾った小銭入れをどう したら良いかと聞いてきました。折角拾って、連絡し てくれたので、受け取りに行きたいと思いましたが、 その時は既に夜となっており、翌日は帰国する日であ り、時間の余裕がなかったので、その旨説明し、お礼 を申し上げ、 適当に処分して ほ しい旨お願いしました。 私 が 今 で も 外 国 で の 一 人 旅 を 楽 し め る 要 因 の 一 つ は、色々なチャンスを与えてくださった清野浩さんの お蔭であると思っています。清野浩さんは、私が海上 保安庁灯台部電波標識課技術係員及び技術係長であっ た時の電波標識課長であり、元海上保安庁警備救難部 参事官、元セナー株式会社社長でもあります。 チャンスの一つ目は、 年代半ばに、ナビゲ ー シ ョ ン シ ス テ ム の 勉 強 の 為 に 英 国 へ 行 く 計 画 が あ り、同僚 名が英国へ行き、私は事情があって実現し ませんでしたが、その準備のために半年間英会話学校 に通うことが出来たことです。 二つ目は、 国際海事機関︵ IMO In te rn at io n al Maritime Organization ︶ 職員の募集があり、 その試験 ︵結果は不合格でした︶を受けさせて頂いたことです。 三つ目は、オメガシステムを構成する、世界に 局 のオメガ局の一つの局を、日本に建設することとし、 その整備を開始されたことです。 私は、 機器設置工事、 機器の調整、電波発射、予備品の補給、オメガ局間の 同期の維持などに関する打ち合わせのために米国コー ストガードを訪問することとなり、米国への一人旅が スタートすることになりました。また、オメガ局を運 用している か国による技術会議に参加のため、ノル ウエーのスタ バ ンゲル、 オーストラリアのキャンベラ、 リベリアのモンロビア及びフランスのパリへの一人旅 をすることにもなりました。 四つ目は、 年当時国際航路標識協会︵ I A L A International Association of Marine Aids to Navigation and Lighthouse Authorities ︶ の 工 業 会 員
̶ 22 ̶ ̶ 23 ̶
委員会
︵
IMC
Industrial Member Committee
︶ の ア ジ ア 地 区 代 表 委 員 を 務 め て お ら れ た 清 野 浩 さ ん か ら、次の IMC の委員を引き継いで欲しいとの要請が あり、 年 月ドイツのハンブルグで開催され た I A L A 総会の際に、当時沖電気工業株式会社に勤 務していた私が選挙により IMC のアジア地区代表委 員に選ばれ、以降 年間に IMC 委員会に出席するた めに、フランスのパリなど外国への 12回の一人旅を経 験することが出来ました。 このような英会話等の習得及び数多くの外国一人旅 のきっかけを作って頂いた清野浩さんには感謝をして います。 オメガシステムに関する打ち合わせ、 I A L A 総会、 I A L A ・ V TS 委員会、各国の V TS センター訪問 等で、外国の航路標識業務に従事している多くの方々 にお会いする機会がありましたが、 ほ とんどすべての 方々は協力的であり、情報の共有に積極であり、多く の事を学ぶことが出来ました。航路標識の今後の向上 には世界的な情報の共有、協力等が重要であると思っ ています。 イギリス・ドー バ ー、オランダ・ロッテルダム、ド イツ・ハンブルグなど世界の 13か所の V TS センター を訪問し、見学をしました。最初に訪れたのは 年イギリス・サウサンプトン港の V TS センターで あり、そのレーダーディスプレーは PPI 方式で、運 用室は薄暗い状態でした。最後に訪れたのは 年高速コンピューターを活用した画像合成等を取り入 れた近代的な運用システムのポルトガル沿岸 V TS セ ンターであります。この 年から 年ま での 27年間における V TS の機器、伝送システム、情 報処理システムなどの発展の段階、技術の進歩、アイ ディアなどを訪れた各国の V TS センターで学ぶこと ができ、非常に貴重な経験をすることが出来ました。 ロッテルダム、ドー バ ー及びカナダ・ バ ンクー バ ーの V TS センターには 回訪問し、旧システムと新シス テムとを見学することも出来ました。実際に稼働して いる外国の航路標識の施設、システム等を見学するこ とにより多くの事を学ぶことが出来ると思います。 外国旅行は、出張であれ、私的であれ、感動する事 などがあり、 楽しいものです。 今年 79歳になりますが、 今年も外国一人旅を計画したいと思い、週に ∼ 回 ス ポ ー ツ ク ラ ブ で 筋 力 ト レ ー ニ ン グ を 楽 し ん で い ま す。
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かつて薩摩半島の南西端に、電波標識の華として君 臨した電波の灯台 ﹁野間池ロラン A 局﹂ がありました。 現在、 串木野海上保安部交通課で勤務する私にとって、 巡回の折、局舎、送受信空中線や職員宿舎があった場 所へ足を伸ばしてみると、当時の記憶が甦り何ともい えない懐かしさが込み上げてきます。沖縄の慶佐次ロ ラン C 局も遂に平成 27年 2月 1日に廃止され、我が国 からロランなる言葉が無くなる運命を思うと寂しさも ひとしおというところでしょうか。 今回、過去に野間池ロラン A 局に勤務された方や撤 去工事に携わった方からの話をもとに、平成 9年 5月 9日に廃止された野間池ロラン A 局と同事務所、職員 宿舎が現在どのようになっているかを紹介することと いたします。 ︵図│ 1︶ 図− 旧野間池ロラン A 局及び旧野間池ロラン 航路標識事務所の位置図 旧野間池ロラン A 局 旧野間池ロラン航路標識事務所 いちき串木野市 鹿児島市 南さつま市(旧加世田市) 指宿市 枕崎市̶ 24 ̶ ̶ 25 ̶ 野間池ロラン A 局の沿革 昭和 27年 米軍によって ﹁野間池ロラン局﹂ が設置され、米国コーストガー ドにより運用開始 昭和 41年 4月 1日 加世田航路標識事務所設置︵職 員数 10名︶ 昭和 41年 5月 1日 米国コーストガードよりロラン 局移管 昭和 42年 7月 ﹁野間池ロラン航路標識事務所﹂ に名称変更 昭和 43年 12月 薩摩野間岬灯台と片浦港防波堤 灯 台 が﹁ 枕 崎 航 路 標 識 事 務 所 ﹂ から﹁野間池ロラン航路標識事 務所﹂へ移管 平成 9年 4月 1日 ﹁野間池ロラン航路標識事務所﹂ 廃止 平成 9年 5月 9日 ﹁野間池ロラン A 局﹂廃止 ロラン A 局の配置と有効範囲 ロ ラ ン︵ L O R A N ︶と は、 Long Range Navigation ﹁ 長 距 離 電 波 航 法 ﹂ の 頭 文 字 を と っ た も の で あ り 双 曲 線航法のひとつです。 双 曲 線 航 法 と は、 ﹁ 2つ の 局 か ら の 信 号 の 到 達 時 間 ︵ 距 離 ︶ 差 が 一 定 の 値 と な る 点 の 軌 跡 は、 そ の 局 を 焦 点とする双曲線となる﹂ という原理を応用した航法で、 2本 以 上 の 双 曲 線 上 の 位 置 の 線︵ L O P Line Of Position ︶の交差が船位となります。 当時、 双曲線航法を使用した電波標識には、 ロラン、 デッカ、オメガがあり、その特徴は表│ 1のとおりで す。 GPS が当たり前のように普及した今では驚きです が、当時、ロラン A の有効範囲は昼間 1 キロメ ートル、夜間 2 キロメートルであり、日本各地 に 局 を 作 り 日 本 周 辺 海 域 を カ バ ー し て い ま し た。 ︵ 図 │ 2︶ また、野間池ロラン A 局は S レートと S レ ー ト の 主 局︵ M 局 Master ︶ で あ り、 対 馬 と 慶 佐 次 が従局︵ S 局 Slave ︶になっていました。 主 局、 従 局 と 呼 ぶ 元 の 英 語 名 は Master ︵ 主 人 ︶ と Slave ︵ 奴 隷 ︶ で あ り、 今 と な っ て み る と 表 現 上 問 題 になりかねないような名称だったような気がします。
各施設跡 野間池ロラン A 局跡地一帯には九州電力の風力発電 施設 10基︵発電能力 1基当たり キロワット︶が 建設され、自然に優しいエネルギーの供給源として新 しい歴史を刻んでいます。 ⑴ 局舎跡 局舎︵写真│ 1︶は 1階建てで、 2棟が通路で繋が れていました。雑木林の中に建設されており、夜にな ロランA ロランC デッカ オメガ 使用周波数 1750∼1950kHz 100kHz 70∼130kHz 10∼14kHz 送信電力 130kW 1500∼1800kW kW 10kW 電波発射形式 同一周波数のパルス波 パルス波 持続波 持続波 距離測定方法 時間差 時間差及びパルス群の位相差 位相差 位相差 有効範囲 昼間 1300km夜間 2600km 200km 昼間 700km夜間 400km 全世界 誤 差 0 9∼数 km 0 5km 以内 0 05∼0 75km ∼ km 局の組合せ 主局と 従局 で1組(レート)。 レート以上の 測定で位置を決 定。 主局と 従局 以上で 組(チ ェーン)。 チェーンで位 置を決定。 主局と 従局 以上で 組(チ ェ ー ン )。 チ ェーンで位置を 決定。 局で全世界 表− 双曲線航法を使用した電波標識の特徴 図− ロランAの有効範囲図 当時の
̶ 26 ̶ ̶ 27 ̶ ると狸が出没し、夕食の残った残飯などを与えたりし ていました。現在は、盛土が施され野間池ウインドパ ークとして整備されています。 ︵写真│ 2、 3︶ 局の跡らしきものを探そうかと思いましたが草が茂 り断念いたしまし た。 ⑵ 送信空中線跡 野間池ロラン A 局は主局として送 信空中線︵写真│ 4︶から電波を放 射し、昼間 1 キロメートル、 夜間 2 キロ メートルの有効エ リアをカ バ ーして いました。現在は 何もなく︵写真│ 5︶、 岬 の 先 端 に は薩摩野間岬灯台 があり毎晩灯火の 写真− 盛土部分に整備された 野間池ウインドパーク 写真− 送信空中線の全景 写真− 現在の跡地(雑木林)
確認をしていました。春先になると、岬 周辺はつわぶきやたらの芽、竹の子がた くさん芽を出して、食卓に上ることもよ くありました。 ⑶ 受信空中線跡 受信空中線︵写真│ 6︶の跡地には風 力発電施設︵写真│ 7︶が建設されてい ます。 ⑷ SSB 空中線跡 局舎横の高台にあった対馬ロラン A 局 及び慶佐次ロラン A 局との連絡用 SSB 空 中 線︵ T 型 ︶︵ 写 真 │ 8︶ の 跡 地 は、 現在、風力発電施設︵写真│ 9︶が建設 されています。 ⑸ 事務所及び宿舎跡 当 時、 加 世 田 市 内︵ 現 南 さ つ ま 市 ︶ に平屋の事務所、 倉庫、 車庫︵写真│ 10︶、 3階 建 て の R C 造 の 宿 舎 が あ り、 事 務 所 からロラン局まで車で約 1時間かけて通 写真− 風力発電施設 写真− 連絡用SSB空中線 写真− 風力発電施設 写真− 送信空中線の全景 局舎 SSB空中線
̶ 28 ̶ ̶ 29 ̶ っていました。現在は、 跡地に病院が開業︵写真 │ 11︶されています。事 務所横にあった料亭﹁瀬 里菜﹂はまだ営業してい ます。 ⑹ その他 当時、ロラン局の当直 者︵ 2名 3班編成で 1日 交代勤務︶の食料を購入 していた木場商店︵写真 │ 12︶は、現在は閉店して おり、自動販売機のみ置か れています。 機器類等 当時使われていた機器類 は、 野 間 池 漁 港︵ 写 真 │ 13︶に隣接し、 2 年 に オ ー プ ン し た 観 光 施 設 ﹁ 笠 沙 恵 比 寿 ﹂︵ 写 真 │ 14︶ 内の博物館に展示されてお り、第二の人生を歩いてい ます。 施設内の博物館には、ロ ランタイマー装置、看板、 立 て 看 板 等︵ 写 真 15∼ 18︶ が展示されており、当館を 訪れる方々に当時のロラン A の偉業を紹介し続けてい ます。 また、野間池ロラン A 局 (写真左側には宿舎) 写真−12 食料を購入していた商店 写真−14 観光施設「笠沙恵比寿」 写真−13 野間池漁港
には約 2キロメートルの専用 道路があり、その入口には通 行注意の立て看板が設置され ていました。専用道路の先に は住宅や納骨堂、畑、水道施 設などがあり、地元の方々が 通行していました。 野 間 池 ロ ラ ン 局 は 昭 和 二 七 年 米 軍 に よ り 建 設 さ れ、 昭 和 四 一 年 海 上 保 安 庁 に 運 用 が 引 き 継 が れ た。 平 成 九 年 に 廃 止 さ れ る ま で、 東 シ ナ 海 を 航 行 す る 多 く の 船 舶 の 安 全 を 見 守 り 続 けた。 写真−15 野間池ロラン局の歴史などを紹介している掲示板 写真−17 廃止された事務 所とロランA局 の看板 写真−16 ロランタイマー 群(装置上部に はUSCGから 引き継いだ当時 の看板) 写真−18 専用道路入り口に設置さ れていた通行注意板
̶ 31 ̶ 私は 3年程前、鹿児島の家で座椅子に座っていて、 急に立ち上がれなくなり、救急車で運ばれたことがあ った。救急車など自分には全く無縁のものだと思って いたので、運ばれている時は、不思議な感じがして、 どこを走っているのだろう、どこへ運ばれるのだろう などと考えていた。運ばれた先は大きな救急病院で、 到着すると数人の医師と看護師が待っていて、次々に 医療器具のところに流れ作業で運び検査をして行く。 ﹁インフルエンザだな﹂という医師の声が聞こえた。 熱があったらしい。しかし、色々検査をしてもインフ ルエンザではなく、結局なにも判らず、 3日程入院し てからそれまで毎月通っていた別の病院に引き継ぐ形 で転院したのである。 それから 1か月、胃カメラから腸、心臓等の検査を 繰返し、腎不全、腎性貧血という 2つの病名をつけて もらって退院し、 以後通院治療を続けることになった。 胃カメラや腸の検査には親族の同意が必要で、私の主 治医になった女医は東京にいる娘に電話で胃の検査の ついでに腸も検査をしたら、と言って了解をとってし まったのである。なんと手回しの良いことかと感心し たり恐れ入ったり⋮。 腸の検査は肛門からカメラを入れるので痛いという ことを聞いていたから、私は返事を渋っていたのだけ れど、娘はこの際、序に検査をしてもらったらいいよ と、言い、先生もまた﹁私も子供が小さいので今日午 前中に検査をしてきました﹂と、検査は簡単のような ことを言われて、止める訳にいかず検査をすることに なってしまった。 これらの検査の話のときに、私はもう 85歳で、十分 生きたから今更痛い思いをしてまで検査をしたくない といったのだが、なんとなく先生に押切られて検査を することになってしまった。この年になると、あと何 年生きるかということよりもどんな死を迎えるかとい こうことの方に関心を持つようになる。 そのようなときに格好の図書の広告が目に入った。 宗教学者 山折哲雄 著﹁往生の極意﹂ ︵太田出版︶ である。
生
か
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年
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西行・仏教・腎臓透析
普通会員松
本
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二
︵東京在住︶﹁往生の極意﹂ に興味を感じたのは、 その最初に西行 の死について﹁断食と自死﹂という見出し項目があっ た か ら で、 西 行 は、 ﹁ 願 は く は 花 の 下 に て 春 死 な ん そのきさらぎの望月のころ﹂ という、 有名な歌を詠み、 その歌どおりに死んだといわれている。これはなんと も凄いと、かねがね思っていたからである。西行は、 出家する前は平清盛と同じ北面の武士︵佐藤義清︶で 文武両道に秀でており、なかでも和歌の名手としても 名を馳せている。佐藤義清が北面の武士から出家して 西行になったのには諸説があり、小説にもなっている が私は小説﹁宿神﹂に興味を感じた。その内容には触 れないが 23歳の若さで官位と妻子を捨てて出家したの には大変な決意が必要だったであろう。並大抵のこと ではない。 その西行が 72歳の秋に予め桜の木を植えて準備して いた東河内の庵で生活を始め、断食から最後は水を絶 って旧暦きさらぎの満月の日に合わせて︵実際はお釈 迦様の涅槃の日をずらして 16日︶に死んだ。桜の花は 満開だし満月からは一日ずれたけれど思いどおりの往 生を遂げたのである。これは並大抵のことではない。 私は仏教信者ではないが、歴史上の多くの上人・聖が 一様に驚嘆しているのをみれば、矢張り凄いことなの だろうと思う。 あるとき新聞紙上で、この世での極楽は、お寺の本 堂⋮金や赤で飾られた、人間が作り出した空間なのだ と書いていた人がいたが、 まことにそうかも知れない。 しかし、 そうはっきり言ってしまうと身もふたもない。 昔から山に籠って修行した僧侶たちは悟りを開くため 山中に入り時によっては獣と同じような生活をしなが ら﹁ 修 行 ﹂ を し て 悟 り を 拓 き、 そ し て 民 衆 を、 迷 い・ 悩み・死の恐怖から救おうとしたのである。 上人とか聖と言われた高僧は、 修行して達した境地 ・ 考えによって民衆を導いたのである。西行の後の主な 高僧達の布教の様子などを略記してみる。 ◎ 法然︵ 1133 ∼ 1212 年︶ 85歳没 親鸞の師で、高僧の名に相応しい聖人。 妙法蓮華経の念仏のみを選択すると称して多くの 民衆の心をつかんだ。 ◎ 親鸞︵ 1173 ∼ 1262 年︶ 90歳没 師の法然に対する随順の姿勢は生涯崩さず、師が 説いている念仏の ほ かになにを加えようとしてい たのか、はっきりしないが、主著﹁教行信証﹂は 生涯加筆修正を繰り返した難解な教えで、凡小の
̶ 32 ̶ ̶ 33 ̶ 者たち、愚鈍の者たちのためにと、 4つの入り口 を設けた。 そしてこれが著書の題名となっている。 ︵山折哲雄 ﹁教行信証を読む﹂ ︶ 教 = 経文 行 = 修行 信 = 信仰 証 = 悟り 詩の世界 論理 経文 テキスト 道元︵ 1200 ∼ 1253 年︶ 53歳没 傘松道詠︵和歌︶はるは花 なつ ほ ととぎす あ きはつき 冬ゆきさえて冷しかりけり の世界に 移動した。 正法眼蔵の理論から和歌の世界に移動、座禅によ って到達する正法の悟りを説いた。 日蓮︵ 1222 ∼ 1282 年︶ 61歳没 妙法蓮華経の真実性だけが世の中を救うと主張。 題目の功徳を唱える。 一遍︵ 1239 ∼ 1289 年︶ 51歳没 仮寝と草堂泊り、乏しい食料と、劣悪な環境の中 で念仏札を配り︵ 60万人に︶遊行の生活と念仏踊 りを行う。念仏踊りは盆踊りの原型といわれる。 生ぜしもひとりなり、死するもひとりなり、さす れば 人と共に住するも独りなり、そのはつべき 人なき故なり 旅ころも 木の根 かやの根 いずくにか 身の 捨てられぬ処あるべき ◎ 一休︵ 1394 ∼ 1481 年︶ 88歳没 一休は何度も山中に身を隠した。酒を飲み肉や魚 を食べるなど世俗的生き方をしながらも人として のあるべき生き方を示した。 ◎ 蓮如︵ 1415 ∼ 1499 年︶ 85歳没 本願寺を巨大な教団にした。 ﹁御文﹂や布教活動は圧倒的な成功をおさめた。 ◎ 良寛︵ 1758 ∼ 1831 年︶ 74歳没 寺を持たず日々托鉢で暮す。 自らの質素な生活を示すことや簡単な言葉 ︵格言︶ によって庶民に分り易く仏法を説いた。 4月に東京の板橋区で﹁アニメ映画と仏教講座﹂と いうのが 3回に分けて行われた。 ﹁親鸞聖人に学ぶ会﹂ という、真宗の布教を目的とした団体が主催したもの のようだった。丁度その頃、新聞に親鸞フォーラムが 千代田区丸の内で 5月 31日に行われるという広告をみ
て、それに行きたいと思ったのだが、家族にそんなと こ ろ に 行 っ て も 耳 が 遠 い の に 聞 こ え る の か と 言 わ れ て、それもそうだなと、断念したところだったので、 こちらは公民館で、歩いて行ける近いところにあり、 小さい会場だから前の方に座れば大丈夫だということ で、こちらに決めた。 電車で乗り換えたりするのは娘に付いてもらわない と危ないし、耳も遠くなっていて一日中耳をそばたて て聞くのも疲れるから⋮。私も随分歳をとったものだ と、改めて思った。しかし、その後嬉しいことに﹁花 に殉じる│歌に生きた西行の詩情と信仰﹂という講座 が有楽町のよみうりホールで開かれることが新聞にで た。こちらには娘が付いて行ってくれるというので、 すぐに申し込んだ。 流石は東京だと感心した。西行そのものを学べるの が有難い。 ﹁ 親 鸞 聖 人 に 学 ぶ 会 ﹂ と い う の は、 親 鸞 の 教 え を 通 して仏教を広めるのが目的で、月刊誌﹁とどろき﹂と いう本も販売していた。聞きに来ていたのは、高齢者 ばかり 10人くらい。当然のことながら若い人は一人も いない。 宗教の布教というのは、なかなか大変な根気が要る ものだなと思った。 そして会への入会を勧められたが、 こ の よ う な 会 に 入 る ほ ど 宗 教 に 興 味 は も っ て い な い し、ただ、西行が出家したことから宗教について少し ふれたかったので、調べるために仏教講座に出席した までなので学ぶ会には入らなかった。 さて、当時、疫病として恐れられた天然痘では、 7 37 年には藤原一族をはじめ多くの死者がでたと記録 にあり、また 925 年には醍醐天皇が疱瘡を病み、 1 143 年には近衛天皇・崇徳天皇が、また待賢門院璋 子も疱瘡を病むという記述もあった。待賢門院はこの 時亡くなっている。病魔退散を願って高僧が、 3日 3 晩祈ったという。 待賢門院璋子︵ 1101 ∼ 1145 年︶は鳥羽天皇 の皇后で崇徳天皇・後白河天皇の母である。 なお、天然痘は明治になっても大流行して 3万 2千 人の死者が出たこともあったが、 1990 年 W HO は、 世界の天然痘は根絶したと宣言した。昔は、疫病が流 行したら神仏を鎮めるために加持祈祷をしたり祭礼を 行ったりした神頼みでしか対策がなかったので、流行 病は恐ろしかったであろうことは、想像できる。 私も健康の時には余り気にしなかったが、年をとっ