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人文論究67-1(よこ)(P)☆/5.木野

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(1)

ルートヴィヒ一世とバイエルン王国:第二代国王の

少年時代から即位まで

著者

木野 光司

雑誌名

人文論究

67

1

ページ

79-104

発行年

2017-05-20

URL

http://hdl.handle.net/10236/00025780

(2)

ルートヴィヒ一世とバイエルン王国

──第二代国王の少年時代から即位まで──

木 野 光 司

は じ め に

本稿では,バイエルン王国に着目することで,ハプスブルク家やプロイセン 王国の視点から見た場合とは異なる 19 世紀南ドイツの姿を明らかにする。初 代国王マックス・ヨーゼフ一世の業績についてはすでに拙論「マックス・ヨー ゼフ一世とバイエルン王国」において論じた(1)。ここではその長男で第二代

国王になるルートヴィヒ一世(Ludwig der Erste, 25. 8. 1786 - 29. 2. 1868) を取り上げる(2)。ただ,ルートヴィヒは大変な記録魔であった上に 81 才まで 長生きしているため,彼が残した文献は膨大な量に及ぶようである(3)。また 彼はバイエルン王国の文化施設整備と首都ミュンヒェン改造に最も大きな刻印 を残しており,その業績に関する文献も数多い(4)。このような事情から,第 ──────────── ⑴ 木野光司「マックス・ヨーゼフ一世とバイエルン王国」(関西学院大学文学部ドイ ツ文学研究室年報『KG ゲルマニスティク』第 13 号 2008 年所収)67-96 頁参 照。(本論文からの引用は「マックス・ヨーゼフ一世とバイエルン王国」と略記す る。) ⑵ ルートヴィヒ一世の呼称については,本稿では王位に就くまでは「ルートヴィ ヒ」,王位就位後は「ルートヴィヒ一世」と呼ぶことにする。

⑶ Heinz Gollwitzer : Ludwig I. von Bayern. Königtum im Vormärz. Eine poli-tische Biographie, S. 84参 照。(本 書 か ら の 引 用 は Ludwig I. von Bayern. Königtum im Vormärzと略記する。本稿で引用する全文献の発行所,発行年につ いては末尾の【参考文献】リストを参照されたい。) ⑷ 1825 年までのルートヴィヒの美術品収集やミュンヒェン改造などの文化的活動に ついては,拙論「バイエルン王国初期のミュンヒェン改造−1778 年から 1825 年 までの業績を中心に−」(『KG ゲルマニスティク』(関西学院大学文学部ドイツ ↗ 79

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二代バイエルン国王の功績の考察は長いものにならざるを得ない。本稿はルー トヴィヒ誕生の 1786 年から国王に即位する 1825 年までの 40 年に限って見 てゆくことにする。

第 1 章 成人までの教育

1 節 流浪の少年期から選帝侯国後継者へ 1.軍人の息子時代 ルートヴィヒは 1786 年にシュトラスブールで生まれた。父は当時フランス 軍アルザス連隊の指揮官であったマクシミリアン・ヨーゼフ(Maximilian Joseph, 1756-1825),母はヘッセン家出身のアウグステ・ヴィルヘルミー ネ・マリア(Auguste Wilhelmine Maria, 1765-1796)であった(5)。「マック

ス・ヨーゼフ一世とバイエルン王国」に記したように(6),この時バイエルン 選帝侯国を治めていたのはプファルツ系ヴィッテルスバッハ家出身のカール・ テーオドールであり,彼には後継者がいなかった。彼に嗣子が生まれない場 合,マックス・ヨーゼフの兄カール・アウグストがバイエルンの後継者にな り,またその長男が後を継ぐ可能性があった。 しかし,そのカール・アウグストが 1784 年に病死したため,マックス・ヨ ーゼフがバイエルン選帝侯国の後継者になる可能性が膨らんでいた。そのこと に注目したフランス国王ルイ 16 世が彼の長男ルートヴィヒの名付け親になっ た(7) ルートヴィヒ誕生 3 年後の 1789 年 7 月に突如フランス革命が起こり,マッ クス・ヨーゼフ一家は同年 11 月,革命軍から逃れてシュトラスブールを立ち ──────────── ↘ 文学研究室年報 19・20 合併号 2016 年所収)にまとめた。(本論文からの引用は 「バイエルン王国初期のミュンヒェン改造」と略記する。) ⑸ この夫婦からは,順にルートヴィヒ,アウグステ,シャルロッテ,カールの 4 人 の子供が生まれる。Ludwig I. von Bayern. Königtum im Vormärz, S. 85 f. 参照。 ⑹ 「マックス・ヨーゼフ一世とバイエルン王国」70-71 頁参照。

⑺ Ludwig I. von Bayern. Königtum im Vormärz, S. 56 参照。 80 ルートヴィヒ一世とバイエルン王国

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退き,マンハイム,ダルムシュタット,アンスバッハへと不安に満ちた放浪生 活を余儀なくされる(8)。ルートヴィヒはダルムシュタットにいる時には疱瘡 に罹り,マンハイムでのわが家はフランス軍の砲撃で破壊されたという(9) さらに,不安定な暮らしの中で 1795 年に第四子カールを産んだ母アウグステ が 1796 年 3 月に結核で亡くなった(10) 1796年,マックス・ヨーゼフは,避難していたアンスバッハにおいて,同 様に故郷から逃れてきていたバーデン辺境伯家の 20 才になったばかりのの娘 カロリーネ・フリーデリケ・ヴィルヘルミーネ(Caroline Friederike Wil-helmine, 1776-1841)に一目惚れし,結婚を申し込む(11)。カロリーネのプロ テスタント信仰を尊重するという「結婚契約」を結んだ上で,1797 年 3 月に カールスルーエの城で結婚式が行われた(12)。先妻の長男ルートヴィヒはこの 時 10 歳であった。 2.父および義母との関係 1799年 2 月にバイエルン選帝侯カール・テオドールが没し,マックス・ヨ ーゼフが無事その後継者に治まったことで,一家はようやく安住の地を見いだ ──────────── ⑻ ケルナーは,幼少年期の辛酸がルートヴィヒの「フランス嫌い」の原体験となって いると述べている。Hans-Michael Körner : Geschichte des Königreichs Bayern, S. 64 ff.(本書からの引用は Geschichte des Königreichs Bayern と略記する。) ⑼ Golo Mann : Ludwig I. von Bayern, S. 28 参照。

⑽ Martha Schad : Bayerns Königinnen, S. 18 参照。(本書からの引用は Bayerns Königinnenと略記する。)

⑾ 本稿では二番目の妻を「カロリーネ」と略記する。彼女は 8 人の子供を産んだが, 息子 2 人と娘 1 人は夭逝し,5 人の娘が成人した。Bayerns Königinnen, S. 368 系図参照。娘達の内,エリーザベトとアマーリエ,続くゾフィーとマリア・アンナ がともに双子だった。彼女らの嫁ぎ先を歳の順に見ると,エリーザベトは後のプロ イセン王 Friedrich Wilhelm IV. の妻,アマーリエは後のザクセン王 Johann I. の妻,ゾフィーはオーストリア大公 Franz Karl の妻,マリア・アンナはザクセン 王 Friedrich August II. の後妻,ルドヴィカはバイエルン公爵 Maximilian の妻 となり,それぞれ 19 世紀ドイツ語圏の大国で大きな役割を果たすことになる。 Bayerns Königinnen, S. 34-38参照。

⑿ Bayerns Königinnen, S. 23 f. 参照。

81 ルートヴィヒ一世とバイエルン王国

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した(13)。ルートヴィヒもバイエルン選帝侯「マックス・ヨーゼフ四世」(14) 後継者となった。しかし,先妻の子供ルートヴィヒ達と後妻に入ったカロリー ネの関係は必ずしもよくなかった(15)。またルートヴィヒと父との関係も良く なかった。父はルートヴィヒに厳しく,息子は父の前に出るのを怖がったとい う(16)。マックス・ヨーゼフはといえば,後継者である息子のせっかちで適応 力のない性格に君主としての弱点を見ていた。ルートヴィヒは生来の重度の難 聴と発話困難のせいで,幼少期から学習に遅れがあった。ただ,10 歳頃から フランス語を熱心に学び,話せるようになったようである(17)。またルートヴ ィヒの容貌も決して良いわけではなく,背丈は中背で,鼻はとんがり,上述の 疱瘡の跡も残っていた(18)2 節 選帝侯後継者としての教育 1.家庭教師による教育 一国の君主の後継者となった 12 歳のルートヴィヒに君主教育が始まる。マ ックス・ヨーゼフが付けた家庭教師キルシュバウム(Kirschbaum)は,教育 熱心ではあるが凡庸な男で,ルートヴィヒの尊敬を得ることはできなかっ た(19)。大伯父のクリスティアン四世が宗教教師にと派遣してきたサラベール ──────────── ⒀ ただし,1800 年 3 月にはフランス軍がミュンヒェンに侵入し,一家は 1 年余りの 間,再びプファルツ方面を放浪する苦難を経験している。Bayerns Königinnen, S. 31-33参照。

⒁ この時点での正式名称は“Kurfürst Maximilian der Vierte Joseph”であるが, 1806年王国昇格後には,“König Maximilian der Erste Joseph”と名前が変わっ ている。本稿では選帝侯時代は「マックス・ヨーゼフ」,王位就位後は「マック ス・ヨーゼフ一世」と呼ぶことにする。

⒂ 幼かった末のカールだけは兄達と違って新しい母になつき,成人後も二人の仲は良 かった。Bayerns Königinnen, S. 25 および S. 30 参照。

⒃ Ludwig I. von Bayern. Königtum im Vormärz, S. 85 f. 参照。

⒄ Karl Borromäus Murr : Ludwig I. Königtum der Widersprüche, S. 15 参照。 (本書からの引用は Ludwig I. Königtum der Widersprüche と略記する。) ⒅ Ludwig I. von Bayern. Königtum im Vormärz, S. 249 参照。

⒆ ルートヴィヒには厳しい訓練が課されたが,成人になってからも口頭でのやりとり は容易ではなかったようである。フランス語が一番できたが,ドイツ語はプファル ツ方言であったらしい。Ludwig I. von Bayern. Königtum im Vormärz, S. 87 ↗ 82 ルートヴィヒ一世とバイエルン王国

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(Salabert)という司祭は,洗練された男であったが,ルートヴィヒの目には 「みだらな司祭」としか映らなかった。この司祭は政治的に無能であったにも かかわらず,マックス・ヨーゼフに気に入られて大臣になっている。もう一人 の宗教教師ザンブガ(Sambuga)は,その実直な性格によってルートヴィヒ の信頼を得た。ザンブガが,少年期のルートヴィヒに,国王としての基本的信 条,王制への信頼,カトリック信仰,国王は民に仕えるべしという啓蒙君主思 想など,時には相互に矛盾する信条を身につけさせたという(20) ザンブガのもう一つの功績は,1811 年にオーバーアマガウの「受難劇」 (Passionsspiel)の復活を国王に認めさせたことである。国王の信頼を一身に 集めていた大臣モンジュラはこの教師を嫌い,ルートヴィヒが大学に進む時に 同行を禁じ,彼の王子への影響力を減じようとした。ルートヴィヒはザンブガ の死後に彼の記念碑を建てたり,家族に援助をしてやったりしている(21) しかし,ルートヴィヒはこれらの家庭教師達による手厚い教育にもかかわら ず,王位に就いてからもふさわしい礼儀を身につけることができなかったよう である。後年,オーストリア皇后になっていた妹のシャルロッテが,兄の不作 法な振舞いをロシア皇帝に詫びるようなことも起こっている(22) 2.大学教育 ルートヴィヒは 1803 年 5 月から 7 月末にかけて首都に一番近いランツフー ト大学で教育を受けるが,そこでも家庭教師キルシュバウムの見張りが厳しか ったようである。当地の大学では保守派の教員とロマン派の教員が入り混じっ ていた。そのため,キルシュバウムがルートヴィヒの受講科目を選別した。こ のように彼の大学生活は自由からはほど遠かった(23)。教授の中ではカトリッ ──────────── ↘ および S. 105 参照。

⒇ Geschichte des Königreichs Bayern, S. 62-64 および Ludwig I. von Bayern. Königtum im Vormärz, S. 92 f.参照。

Ludwig I. von Bayern. Königtum im Vormärz, S. 94参照。 Ludwig I. von Bayern. Königtum im Vormärz, S. 95参照。 Ludwig I. von Bayern. Königtum im Vormärz, S. 96 f.参照。

83 ルートヴィヒ一世とバイエルン王国

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ク神学の教授ザイラー(Sailer)が週 3 回宗教と道徳の個別授業をおこない, ザンブガ以上に大きな影響を及ぼした。ザイラーもモンジュラ大臣の敵であっ たが,ルートヴィヒの目にはその温厚な人柄で宗教者の見本と映った(24)。ザ イラーはすでにこの時期からルートヴィヒの治世が訪れることに期待をかけて いた。 ルートヴィヒは,17 才になった 1803 年の 10 月からはゲティンゲン大学で 学ぶことになる。ゲティンゲンは当時のドイツで一番評判の良い大学で,啓蒙 主義の自由な雰囲気に包まれていた。また多くの貴族の子弟 が 学 ん で い た(25)。ルートヴィヒはランツフートでも,ゲティンゲンでも,正式登録書類 以外は身分を隠して「伯爵」で通した。彼はそこでカール・ザインスハイム伯 爵(Karl Seinsheim)と ハ イ ン リ ヒ・フ ォ ン・デ ア・タ ン 男 爵(Heinrich von der Tann)という友人を得た。二学期間でルートヴィヒの大学時代は終 わりを告げる。 3.イタリア旅行 君主教育の仕上げはイタリア旅行であった。これ は,当 時「騎 士 旅 行」 (Kavalierstour)とか「ヨーロッパ旅行」(Tour de l’Europe)と呼ばれてい た(26)。キルシュバウムの提案でイタリアが目的地と決まり,1804 年 11 月 12 日に 18 才のルートヴィヒはイタリアに向けて出発した(27)。ルートヴィヒは 嫌がったが,キルシュバウムが同行した。また友人のザインスハイムも同行し た。 一行はヴェネツィア,ローマを経てナポリ宮廷を訪問し,カーニヴァルの終 わりを待ってローマに戻った。当時老齢に達していたローマ在住のドイツ人画 ────────────

Ludwig I. von Bayern. Königtum im Vormärz, S. 97参照。 Ludwig I. von Bayern. Königtum im Vormärz, S. 98参照。

その目的は,観光や見聞を広めること,各宮廷の訪問および著名人との交際であっ た。Ludwig I. von Bayern. Königtum im Vormärz, S. 99 参照。

イタリア旅行中の出来事については,Ludwig I. von Bayern. Königtum im Vor-märz, S. 100-103に詳しい。

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家アンゲーリカ・カウフマン(Angelika Kauffmann)の絵を知っていたの で,ルートヴィヒは彼女を訪問した。そして彼女の導きによってルートヴィヒ はローマ在住のドイツ人画家たちと親しく交わるようになった。また当地でバ イエルンの「画廊監督官」(Galerieinspektor)をしていた旧知のディリス (Georg von Dillis)と再会したことも大きかった。ルートヴィヒは彼を気に

入って,この後数十年にわたり彼の助言を求めるようになる。 イタリアにおいてルートヴィヒと家庭教師の間で対立が先鋭化する。ルート ヴィヒは成人であることを盾に自由を求めたが,父マックス・ヨーゼフとキル シュバウムは監督の手をゆるめようとしなかった。彼がマックス・ヨーゼフ宛 にルートヴィヒの芸術家達との交わりを誹謗する報告を送ったりしたため,ル ートヴィヒは遂に堪忍袋の緒を切らせ,監督者をロイス伯爵(Graf Reuß)に 代えるよう父に要求した。父親がその要求を飲んだ結果,キルシュバウムは 12年にわたり勤めた家庭教師の任を解かれて国へ戻っていった(28)。キルシュ バウムを追い払った後のイタリア滞在は快適なものになり,彼はジュネーヴ, ローザンヌ,シュトラスブールを経て,1805 年 9 月に帰国した(29) ルートヴィヒはこの 10 ヶ月間の旅行によって教養を身につけることの重要 性を悟った。彼が王位に就くのはずっと後の 1825 年であるが,それまでの 20年間を主に自己陶冶に当てることになる(30)。ルートヴィヒは解りやすい芸 術や文学を好み,思弁的哲学や宗教書は読まなかったという(31)。ホメロス, ヘロドトス,プルタルコスなどを読んだことが日記に記されている。1807 年 からは教師についてイタリア語とスペイン語も学んでもいる。また 1806 年春 にはナポレオンの招待で半年余りパリに滞在し,そこでフランス古典主義の劇 などを見ている。しかし,ルートヴィヒの敬愛する文学者は,第一にシラーで ──────────── ルートヴィヒは後にキルシュバウムとの和解を形で示した。後年 1827 年には Staatsratという名誉称号を与えている。Ludwig I. von Bayern. Königtum im Vormärz, S. 103参照。

Ludwig I. von Bayern. Königtum im Vormärz, S. 103参照。 「バイエルン王国初期のミュンヒェン改造」79-85 頁参照。

Ludwig I. von Bayern. Königtum im Vormärz, S. 104参照。

85 ルートヴィヒ一世とバイエルン王国

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あり,次にゲーテであった。自らも愛国的な詩を書き,後にゲーテと同じ題名 の詩集『ローマの悲歌』(Römische Elegien)5 巻をコッタから出版してい る(32) しかし,ルートヴィヒの考える愛国主義は,「反フランス」とほぼ同義で, ゲルマン対ロマンスという構図でもなかった。ゴルヴィッツァーによれば,生 涯にわたる彼の理想は,現在「ノイエ・ピナコテーク」に飾られているオーヴ ァーベック(Johann Friedrich Overbeck)の絵『イタリアとゲルマニア』 (Italia und Germania)に巧みに表現されているという。それはゲルマン文

化とイタリア文化の統合であった(33)

第 2 章 王位継承者時代の活動(1806-1825 年)

1 節 ナポレオンへの臣従 1.「王国」昇格の代償 ルートヴィヒがのんびりとイタリア旅行を楽しんでいた時,父親とモンジュ ラ大臣は大きな決断を行っていた。1805 年 8 月にフランスとの同盟条約を結 んだのである。そして同年 12 月 2 日に東欧のアウステルリッツで戦われた 「三帝会戦」においてナポレオン軍がオーストリアとロシア連合軍に大勝した 結果,南ドイツのバイエルン,ヴュルテンベルクそしてバーデンは「ブリュン 条約」(12 月 10 日),「プレスブルク条約」(12 月 26 日)によって,フランス への忠誠の大きな褒賞を与えられることになった(34) ──────────── ゴーロ・マンはその詩の出来映えについて「可もなく不可もない」と評している。 Golo Mann : Ludwig I. von Bayern, S. 40-45。また Ludwig. I. Königtum der Widersprüche, S. 19も参照。

Ludwig I. von Bayern. Königtum im Vormärz, S. 113および Christian Lenz : Die Neue Pinakothek München, S. 38の“Italia und Germania”を参照。 ナポレオンは,すでに 1801 年の「リュネヴィル条約」によってこれら三国を服従 させていたが,1805 年 8 月 24 日にバイエルンと,10 月 5 日にヴュルテンベルク のフリードリヒと軍事同盟を結んだ。Harald Schukraft : Kleine Geschichte des Hauses Württemberg, S. 201および Kathrin Ellwardt : Das Haus Baden in Vergangenheit und Gegenwart, S. 29-31参照。(両書からの引用は,Kleine ↗ 86 ルートヴィヒ一世とバイエルン王国

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1805年 12 月 31 日にミュンヒェンに入ったナポレオンとその妻ジョゼフィ ーヌ同席のもと,1806 年 1 月 1 日に「バイエルン王国」昇格の儀式がおこな われ,1 月 13 日にはナポレオンの義理の息子ユジェーヌ・ボアルネと初代国 王「マックス・ヨーゼフ一世」の長女アウグステの結婚式が執り行われた(35) この時点からルートヴィヒも「選帝侯位継承者」(Kurprinz)から「王位継承 者」(Kronprinz)に格上げされた(36) 1806年 1 月 26 日,ルートヴィヒはナポレオンの招待でパリに向けて出発 した(37)。その途上,一族の故郷マンハイムで民衆に歓呼で迎えられ,しばら く逗留した。そして 2 月 10 日にパリに到着し,7 ヶ月間ティルリー宮で過ご した。もともとフランスとの同盟に反対していたルートヴィヒではあるが,毎 土曜日にナポレオンの食卓で食事をし,ナポレオンが建てたパリの壮麗な建築 群に目を見張った。各国からの美術品が収められた「ナポレオン美術館」には 33回も足を運んだという(38) バイエルンは 1806 年 7 月 12 日パリにおいて,他の 10 ヶ国とともに「神聖 ローマ帝国」からの離脱とフランスの提唱する「ライン同盟」加盟を含む条約 に調印した。ためらっていたヴュルテンベルクも 8 日後に追随し,その旨が 8 月 1 日にレーゲンスブルクの「帝国議会」へ通告された。これを見た神聖ロ ーマ皇帝フランツ二世は 8 月 6 日に神聖ローマ帝国の消滅を宣言し,自らは すでに戴冠していた「オーストリア皇帝」フランツ一世となった(39) ────────────

↘ Geschichte des Hauses Württemberg および Das Haus Baden in Vergangen-heit und Gegenwartと略記する。)

ナポレオンがマックス・ヨーゼフに強引に迫った政略結婚は,式の直前に知り合っ た二人が互いを気に入った結果,幸せな結婚になった。Sigmund Bonk, Peter Schmid : Königreich Bayern. Facetten bayerischer Geschichte 1806-1919, S. 11および S. 23 参照。(本書からの引用は Königreich Bayern. Facetten bayeri-scher Geschichte 1806-1919と略記する。)国王の妻カロリーネがこの結婚に強く 反対した経緯については,Bayerns Königinnen, S. 69-73 参照。

Ludwig I. von Bayern. Königtum im Vormärz, S. 128参照。 Ludwig I. von Bayern. Königtum im Vormärz, S. 129 f.参照。 Ludwig I. von Bayern. Königtum im Vormärz, S. 131参照。 Kleine Geschichte des Hauses Württemberg, S. 208 f.参照。

87 ルートヴィヒ一世とバイエルン王国

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バイエルン選帝侯国はフランスの同盟に入ることで,「王国」に格上げして 貰うとともに領土を 2 万 km2 増やすことに成功した(40)。隣国ヴュルテンベル ク公国のフリードリヒ二世もナポレオンに服従することで,1803 年の「帝国 会議決議」によって「選帝侯」(Kurfürst)へ,さらに 1806 年 1 月 1 日には バイエルンと並んで「王国」への昇格を果たした(41)。ヴュルテンベルクに劣 らず大きな利益を得たのは,バーデン辺境伯カール・フリードリヒである。彼 は 1803 年に小国の「辺境伯」(Markgraf)から「選帝侯」への格上げと大き な領地を獲得し,1806 年の帝国消滅後には「大公」(Großherzog)へ昇格し, 隣接するオーストリア領も得て,ほんの数年の間に元の数倍の広さの領土を得 た(42) 1806年 9 月になってルートヴィヒはパリを去ってミラノの妹を訪ね,その 後スペインへ回った。その頃フランスはロシア・プロイセンと戦争になり,バ イエルン軍に出動を命じた。ナポレオンは,ルートヴィヒが戦場から遠いスペ インにいて協力する姿勢を見せないことを咎めた。その知らせを受けたマック ス・ヨーゼフ一世は急遽息子を呼び戻し,ベルリンのナポレオンの所へ急行さ せた。また,この戦争の前に持ち上がっていたルートヴィヒのロシア皇女カタ リーナとの結婚話についても,マックス・ヨーゼフ一世は,ロシアまたはオー ストリアとの縁組みをしないことをナポレオンに誓った(43) ルートヴィヒはバイエルン軍の第二師団長としてポーランドへ配置され, 1807年 5 月に初めて戦闘を経験した。フランス側について従軍しながらも, ルートヴィヒの反フランス感情は変わることなく 1807 年 3 月には「ドイツ人 へ」(An die Teutschen)という反ナポレオンの詩を書き,またドイツの英雄

────────────

この間の経緯については,「マックス・ヨーゼフ一世とバイエルン王国」75-78 頁 で詳述した。

この間のヴュルテンベルクの動きについては,Kleine Geschichte des Hauses Württemberg, S. 199-204参照。

この間のバーデンの動きについては,Frank Engehausen : Kleine Geschichte des Großherzogtums Baden, S. 17-21および Das Haus Baden in Vergangen-heit und Gegenwart, S. 30-32参照。

Ludwig I. von Bayern. Königtum im Vormärz, S. 133参照。 88 ルートヴィヒ一世とバイエルン王国

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たちを祀る神殿の計画を立てている。その頃知り合ったスイス人歴史家フォ ン・ミュラー(Johannes von Müller)が,それにゲルマン風の「ヴァルハ ラ」(Walhalla)という名前を付けるよう提案し,後にその構想が実現される ことになる(44) 1809年 4 月に始まったフランスとオーストリアの戦争でも,ルートヴィヒ はナポレオン軍に従軍しながらもオーストリアへの共感を折に触れ表明して, 父親やナポレオンの不興を買っていた。しかし,ゴーロ・マンによると,ナポ レオンはルートヴィヒと並んで寝ながら「20 日後にはウィーンに入城してみ せる」と宣言し,彼を畏怖させたそうである(45)。事実,ナポレオンはたった 1ヶ月でオーストリア軍とティロル反乱軍をバイエルンから撃退した(46)。し かし,ルートヴィヒがナポレオンを畏怖しつつもなお反フランス感情を保持し たことで,ナポレオンは彼を王位に就かせないことまで考えたらしい(47) 2.政略結婚と後継者誕生 1810年マックス・ヨーゼフ一世は,ルートヴィヒの結婚相手として親戚筋 の「ザクセン公爵」 (Sachsen-Hildburghausen)の娘の一人テレーゼ(There-se, 1792-1854)を選んだ。それは同盟国であるバイエルン王家とザクセン王 家の結婚を望んでいたナポレオンの意に沿うものであった。テレーゼの父は小 さな公国の君主にすぎなかったが,母はプロイセン王妃ルィーゼの姉シャルロ ッテだった。ザクセン王家との結婚を望んでいなかったルートヴィヒにとって も,ドイツ人との結婚は甘受しうるものであった。ただ,ルートヴィヒは結婚 に際して,テレーゼのカトリック改宗を強く望んだ。しかし,テレーゼはそれ を拒んだ(48)。ルートヴィヒは,背の高い,気立ての良い 18 才の娘が気に入 ──────────── ヴァルハラについては,「バイエルン王国初期のミュンヒェン改造」85 頁および Ludwig I. von Bayern. Königtum im Vormärz, S. 136参照。

Golo Mann : Ludwig I. von Bayern, S. 56参照。 Bayerns Königinnen, S. 46-47参照。

Ludwig I. von Bayern. Königtum im Vormärz, S. 145 f. および Ludwig. I. Königtum der Widersprüche, S. 31 f.参照。

Ludwig I. von Bayern. Königtum im Vormärz, S. 147参照。

89 ルートヴィヒ一世とバイエルン王国

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ったので,テレーゼの改宗を断念して婚約した(49)。ルートヴィヒは,この婚 約によってフランス人と結婚させられる危険を免れることができたのである。 1810年 10 月 11 日,ルートヴィヒは,ナポレオンに嫁ぐ途上にミュンヒェ ンを訪れたオーストリア皇女マリー・ルイーゼの歓迎行事をおこなった。そし て翌 12 日,ミハエル教会でおこなわれたマックス・ヨーゼフの「聖名の祝 日」(Namenstag)の祝いに続いて,今度は王宮礼拝堂でルートヴィヒとテレ ーゼの結婚式が執り行われた(50)。国王は,この結婚を祝って入場自由のオペ ラ上演,コンサートなどを開催した。とりわけ 10 月 16 日にゼンドリンガー 門外の草原で開催された競馬や民族衣装を着た農民達の祝賀行事が市民を喜ば せ,世間の評判になった(51)。これに気をよくした国王は,同じ行事をこの時 期の「農業祭」に合わせて継続することにした(52) マックス・ヨーゼフ一世は王子夫妻に年間 22 万 5 千グルデンを与え,王子 を 1809 年にオーストリアから獲得した領地「イン・ザルツアハ州知事」に任 命した。その結果,二人は,冬にはインスブルック,夏にはザルツブルクの宮 廷に住むようになった。彼らは両方の市民に歓迎されたが,ルートヴィヒは美 しいザルツブルクにより大きな魅力を感じたそうである。 マックス・ヨーゼフ一世は初孫の誕生をミュンヒェンで見たいと望み,王子 夫妻はテレーゼの出産が近づくと首都に移動し,1811 年 11 月 28 日にルート ────────────

二人の婚約は 1810 年 2 月 12 日に Hildburghausen でおこなわれた。Hans Rall, Marga Rall : Die Wittelsbacher in Lebensbildern, S. 325 f.参照。(本書からの 引用は Die Wittelsbacher in Lebensbildern と略記する。)

Die Wittelsbacher in Lebensbildern, S. 326参照。

同上。他方,Königreich Bayern. Facetten bayerischer Geschichte 1806-1919, S. 55は,この競馬のおこなわれた日付を「10 月 17 日」としている。

後にこの草原は花嫁の名にちなんで「テレージエン・ヴィーゼ」と命名され,この 行事は「オクトーバーフェスト」(Oktoberfest)と呼ばれて盛んになる。それに刺 激されて,ヴュルテンベルク第二代国王ヴィルヘルム一世も,1818 年 9 月 28 日, 自身 37 歳の誕生日に同様の祭り「カンシュタッター・フェスト」(Cannstatter Volksfest)を始めた。Ludwig I. von Bayern. Königtum im Vormärz, S. 148 お よび Bernhard Mann : Kleine Geschichte des Königsreichs Württemberg 1806-1918, S. 89参照。

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ヴィヒの長男マクシミリアン,後の第三代国王になる男子が生まれた(53)2 節 政治情勢の大転換 1.ナポレオンからの離反 1811年,パリにいたヴレーデ将軍が,ロシアとフランスの緊張が高まった という情報をミュンヒェンにもたらす。マックス・ヨーゼフ一世は,これまで 常にフランスよりオーストリアを怖れてきた。しかし,ルートヴィヒはナポレ オンが自分の即位を阻むことを怖れ,早くからオーストリア大使に接近してい た。父親と息子の意見の対立は,ナポレオンのロシア遠征の大失敗によって思 わぬ解決を見ることになる。 1812年 6 月,ナポレオンが決定したロシア遠征に,バイエルンはプロイセ ンやオーストリアよりも多い 3 万 3 千人の兵隊を派遣しなくてはならなかっ た(54)。一方,ナポレオンはルートヴィヒの出陣は求めなかった。歴史上例を 見ない 60 万人を動員したロシア侵攻は,1812 年 6 月から翌年 1 月まで長引 き,悲惨な結末を迎えた(55) 1813年前半,国王とモンジュラはフランスへの臣従を継続すべきか否かに ついて頭を痛め,その方針は揺らぎ続けた。5 月には一旦同盟の破棄を決める もすぐにそれを撤回し,8 月 26, 27 日の「ドレスデン会戦」でのナポレオン の勝利を見て,国王は 5 月にとった自分の判断をほめる。しかし,9 月になる と再びナポレオン軍の状況は悪化し,マックス・ヨーゼフ一世も今度はオース ────────────

Ludwig I. von Bayern. Königtum im Vormärz, S. 151参照。

Hubert Glaser(Hrsg.):Krone und Verfassung. König Max I. Joseph und der neue Staat. Beiträge zur Bayerischen Geschichte und Kunst 1799-1825, S. 56 (本書からの引用は Krone und Verfassung と略記する。)「ロシア遠征」時のバイ エルン軍の状況に関しては,Napoleon und Bayern, Katalog zur Bayerischen Landesausstellung 2015, S. 235-262参照。

ロシア遠征によって,バイエルン軍 3 万 3 千人の内 3 万人が死亡,ヴュルテンベ ルク軍の兵員数は不詳であるが 1 万 5 千人が死亡,バーデン軍は 7 千人のうち 6 千数百人が死亡した。その多くは,戦闘ではなく,飢え,寒さ,病気によるものだ った。Kleine Geschichte des Hauses Württemberg, S. 214 および Das Haus Baden in Vergangenheit und Gegenwart, S. 34参照。

91 ルートヴィヒ一世とバイエルン王国

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トリア側に就くことを考え,モンジュラもオーストリアとの交渉開始に賛成す る。

ヴレーデ将軍が,10 月 8 日に密かにもたれた「リート会談」で,ライン同 盟の解消とバイエルンの連合国側へ参加をオーストリアに約束し,10 月 14 日 にマックス・ヨーゼフ一世はフランスに「宣戦布告」をおこなった。10 月 16 日に始まる「ライプツィヒ郊外の大会戦」(Völkerschlacht bei Leipzig)のた った 2 日前の寝返りにより,バイエルンは「戦勝国」側の一員となることに 成功した(56)。この大会戦に関する本において,著者のターマーはバイエルン の寝返りに言及して次のように述べている。「バイエルンはそれ(=開戦)以 前に寝返り,その見返りに 10 月 8 日の「リート条約」でオーストリアから, 国の存続の保証を取り付けた。この手本に多くの国が倣った。」(57)まさに綱渡 りの方針転換であった。この大会戦の勝利は,ドイツ諸国にとってフランスか らの解放を意味し,19 世紀のナショナリズムの高揚と共に次第にドイツ国内 で美化されるようになってゆく。 2.ナポレオン失脚後のルートヴィヒ 19世紀初めのバイエルン国民の意識において,「神聖ローマ帝国」とは「オ ──────────── ナポレオンからの離反に至る経緯については「マックス・ヨーゼフ一世とバイエル ン 王 国」78-79 頁 に 詳 し い。「ラ イ プ ツ ィ ヒ 郊 外 の 大 会 戦」の 詳 細 に 関 し て は Hans-Ulrich Thamer : Die Völkerschlacht bei Leipzig. Europas Kampf gegen Napoleon, S. 59-77参照。(本書からの引用は Die Völkerschlacht bei Leipzig と 略記する。)

Die Völkerschlacht bei Leipzig, S. 77より引用。バーデンは大会戦後の 11 月に 寝返って連合国側に付いた。Das Haus Baden in Vergangenheit und Gegen-wart, S. 34参照。ザクセンは,1806 年 12 月の「ポーゼン条約」でバイエルンに 約 1 年遅れて「ライン同盟」に加盟し,「王国」に昇格してもらっていた。ところ が,1813 年 10 月には自国が戦場となり,ナポレオンの側で戦わざるを得なかっ た。ザクセン王フリードリヒ・アウグスト一世は敗戦後に捕虜となり,1815 年の 「プレスブルク条約」によって国土の半分以上を失った。Frank-Lothar Kroll : Die Herrscher Sachsens. Markgrafen, Kurfürsten, Könige. 1089-1918, S. 212-220および Jürgen Helfricht : Die Wettiner. Sachsens Könige, Herzöge, Kur-fürsten und Markgrafen, S. 29参照。

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ーストリア」であり,「敵」という位置づけであったという(58)。他方,ルート ヴィヒ自身は,古い帝国の信奉者でもバイエルン愛国主義者でもなく,新しく 生まれた「ドイツ愛国主義」の立場をとって,フランスを敵視する立場に立っ ていた。すなわち,ナポレオンによるドイツ諸国占領という「被支配体験」 が,ドイツ社会各階層に「統一ドイツ国家」という目標を与えたと言えるよう である(59)。ルートヴィヒは「バイエルンへの忠誠」と「統一ドイツ国家への 忠誠」を矛盾なく信じられる,新たに生まれた「ロマン主義世代」の一人であ った。対する父マックス・ヨーゼフ一世やモンジュラにとっては「統一国家ド イツ」ではなく,「バイエルン王国」が守るべき唯一の国であった。父親は長 男の上のような政治思想や判断に不信を抱き続け,彼をできる限り重要な政務 から遠ざけていたが(60),ルートヴィヒは次第に自らの考えを政策として実現 することを主張するようになっていった。 ルートヴィヒは解放戦争の後,ナポレオンへの厳しい措置をオーストリア皇 帝フランツ一世に求めたが,1814 年 5 月の「パリ条約」によって,ナポレオ ンは「エルバ侯」に格下げという寛大な処置で済まされた。1814 年後半の交 渉および「ウィーン会議」には侯爵に昇格したヴレーデ元帥がバイエルン全権 として交渉に当たった(61)。ルートヴィヒは父の許可を得てウィーン会議に参 加したが,重要な役回りを果たす場面はなく,ウィーンでさまざまな行事や情 事を経験するに止まった(62) ナポレオンが 1815 年 3 月 1 日エルバ島を脱出しフランスに戻ったという知 らせでウィーン会議は中断され,各国君主は軍隊をフランスに派遣した。ルー ────────────

Ludwig I. von Bayern. Königtum im Vormärz, S. 156参照。

Ludwig I. von Bayern. Königtum im Vormärz, S. 158 f参照。ルートヴィヒに 「立憲体制」の必要性を教えたのは,1814 年のパリ滞在時に知り合ったプロイセン のシュタイン男爵であり,同年訪れたロンドンでの見聞であったという。Die Wit-telsbacher in Lebensbildern, S. 326参照。

Ludwig I. von Bayern. Königtum im Vormärz, S. 196-197参照。 Ludwig I. von Bayern. Königtum im Vormärz, S. 170参照。

Ludwig I. von Bayern. Königtum im Vormärz, S. 176および Golo Mann : Lud-wig I. von Bayern, S. 97参照。

93 ルートヴィヒ一世とバイエルン王国

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トヴィヒも父に逆らって出陣したが,5, 6 月はマンハイムで市民の歓迎を受 け,次男ルイトポルトの誕生の知らせを聞いていた。このようなルートヴィヒ の動きとは無関係に,6 月 18 日,ブリュッセル南方で戦われた最後の大決戦 「ワーテルローの戦い」においてナポレオンの敗北が決した(63) ルートヴィヒの 3 度目のパリ滞在は 1815 年 7 月 12 日から 10 月 27 日であ った。彼は交渉の場でライン左岸のドイツ語圏をフランスから取り戻す要求を 持ち出し,ナポレオン時代に領土を拡大してこの話題を避けようと腐心してい た父や大臣の顰蹙を買った。ただ,ナポレオンが各国から奪った美術品の返還 交渉においては,ルートヴィヒの主張は成果をあげた(64)。1815 年 11 月 20 日締結の「第二次パリ条約」において,戦勝国はフランスのブルボン王朝復興 と和平のみを求め,フランスからの領土の割譲を求めなかった(65) 他方,オーストリアはナポレオン支配下でバイエルンに割譲した領土の回復 を求め,ティロル,ザルツブルク,イン河沿いの領土の返還を実現した。バイ エルンはその見返りにヴュルツブルクとアシャッフェンブルクを得た(66)。ル ートヴィヒは一族の祖国プファルツも望んだが,そこはバーデン大公国の領土 になっていて返還されなかった。1815 年 6 月 10 日,オーストリアとプロイ センは秘密条約を結んで,バイエルン領土をこれ以上拡大させないことを決め ていたのである(67)。また,ライン左岸のドイツ領はオーストリアとバイエル ────────────

Ludwig I. von Bayern. Königtum im Vormärz, S. 179参照。

「バイエルン王国初期のミュンヒェン改造」81 頁参照。また Ludwig I. von Bay-ern. Königtum im Vormärz, S. 180参照。

ナポレオン失脚後の領土再配分は多岐に亘り非常に複雑である。「ウィーン会議」 の結論の概要に関しては,ゲオルク・シュタットミュラー著(丹後杏一訳)『ハプ スブルク帝国史−中世から 1918 年まで』115-118 頁参照。

バイエルン王国とオーストリア帝国の国境問題は,1816 年 4 月 14 日に締結され た「ミュンヒェン条約」によって決着を見た。境界線の変移については Wilhelm J. Wagner : Bayern. Zwei Jahrhunderte bayerische Geschichte, S. 29参照。 (本書からの引用は Bayern. Zwei Jahrhunderte bayerische Geschichte と略記す

る。)

歴史家ゴーロ・マンは,ドイツ語圏の中欧地域にはせいぜい二つの大国しか成り立 ち得ないことを歴史が示していると述べ,18 世紀のプロイセン王国興隆によって, バイエルンが大国になる道はとうに閉ざされていたと述べている。Golo Mann : ↗ 94 ルートヴィヒ一世とバイエルン王国

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ンの共同支配地とされた。1816 年の所領の変更に伴い,ルートヴィヒは居城 をザルツブルクから,まずアシャッフェンブルク,次いでヴュルツブルクへ移 し,10 年後に王位に就くまでそこを本拠とした(68) 3.ルートヴィヒの「ドイツ連邦」への態度 1815年のナポレオン蜂起の時,ヴレーデ侯爵が戦争に赴き,レヒベルク伯 爵(Rechberg)が後任のバイエルン代表として「ドイツ連邦」に関する協議 をおこなった。彼はバイエルンの孤立を避けるためには早い妥協が必要と判断 し,1816 年 11 月 5 日にフ ラ ン ク フ ル ト で 開 会 さ れ た「ド イ ツ 連 邦 議 会」 (Bundestag)に大使として参加した。 1817年春にルートヴィヒは,父の側近で政策の主導者であったモンジュラ を失脚させることに成功し,それ以降政治的発言力を持つようになる(69)。彼 はモンジュラの後任の外務大臣にレヒベルクを任命し,また内務大臣にツェン トナーを任命する(70)。モンジュラ失脚後の政府の中では「ドイツ連邦」への 対処法について意見が分かれていた。ツェントナーは,バイエルンの主権保持 のためには「ドイツ連邦」から抜けるべきだと考えていた。連邦の中でのバイ エルンの地位を高めるべきと主張する者もいた。バイエルンがオーストリア, プロイセンに対抗して生き残るためには,連邦の他の国と組むべきであるとい う意見も根強くあった。その際の問題は,どの国と組むかであった。まず可能 性として大きく二つの選択肢があった(71)。ひとつはヨーロッパの他の国と組 むこと,もう一つは複数のドイツ中小国と組むことであった。後者の方策は, プロイセン,オーストリアに伍する「第三極」として南ドイツ諸国を統合する 「三極構造」(Trias-Konstruktion)と呼ばれる構想であったが,その実現可能 性は低かった。そのため,ルートヴィヒもこの方策には関心を示さなかった。 ────────────

↘ Ludwig I. von Bayern, S. 66 参照。

Ludwig. I. Königtum der Widersprüche, S. 42 f.参照。

ルートヴィヒによるモンジュラ追い落としの経緯は,次節で述べる。 Ludwig I. von Bayern. Königtum im Vormärz, S. 210参照。 Ludwig I. von Bayern. Königtum im Vormärz, S. 192 f.参照。

95 ルートヴィヒ一世とバイエルン王国

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マックス・ヨーゼフ一世とモンジュラはバイエルンの主権(Souveränität) を最重要視してきたが,ルートヴィヒの悲願は,自分たちの故郷であるライン 右岸プファルツをバーデン大公国から取り戻すことであった。 プファルツを領有するバーデン大公国に肩入れしていたプロイセンとの同盟 は考えられなかったので,バイエルンに残された可能性は,オーストリアとの 連携のみであった。しかし,オーストリアもしばしばバイエルンの頭越しにプ ロイセンとの交渉で物事を決めることが多く,必ずしも信頼できる同盟相手で はなかった。これらの事情が相まって,19 世紀前半のバイエルンは,その 時々の状況に実際的な対処をするしか方策はなかったようである(72)3 節 国王即位の準備 1.モンジュラ大臣追い落とし マックス・ヨーゼフ一世はルートヴィヒの気持ちを国政からそらせる方策と して,1812 年頃彼に首都ミュンヒェンの芸術収集と建築等の文化政策を担わ せてやった。父と息子のものの考え方は多くの点で対照的であった。マック ス・ヨーゼフ一世は 18 世紀絶対主義の申し子で,「ドイツ統一」を唱える者 を「ジャコバン派」と見なし,宗教を単なる国家の装置としか考えない現実主 義的な君主であった。彼を支えたモンジュラは 18 世紀啓蒙思想を体現する有 能な官吏であった。対して,ルートヴィヒは「ドイツ統一」を求める愛国主義 を評価し,カトリックを神の恵みとして尊重する「ロマン主義者」であった。 両者の根本的な考えの相違が王位継承問題を引き起こしかけたが,隣国ヴュル テンベルク王国における父フリードリヒと息子ヴィルヘルムに見られたような 決定的対立を避けるべく,マックス・ヨーゼフ一世は息子に文化政策という逃 げ場を与えてやったのだった(73) ────────────

Ludwig I. von Bayern. Königtum im Vormärz, S. 194参照。

Ludwig I. von Bayern. Königtum im Vormärz, S. 198参照。ヴュルテンベルク のフリードリヒは嫡男に厳しく,その反発からヴィルヘルムは 1805 年に市民の娘 と駆け落ちし,パリに 2 年間滞在するなどした。Hubert Krins : Könige und Königinnen von Württemberg, S. 9参照。

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ルートヴィヒの取り巻きの中で重要な任務を与えられたのは,上述のゲティ ンゲン大学時代の友人ザインスハイム伯爵とフォン・デア・タン男爵の二人だ った。前者は後に財務大臣になるが,政治家肌ではなかった。タンはフランケ ン出身の政治能力のある男で,ルートヴィヒが国王になってから良き助言者と なった。 ルートヴィヒが王子時代に側近と計っておこなった最大の政治的陰謀は,モ ンジュラ伯爵追い落としであった(74)。彼はモンジュラの非ドイツ的,親ナポ レオン的政策を嫌った。バイエルンの官僚達の多くも,外務,内務,財務とい う三職掌を独占するモンジュラに次第に不満を募らせるようになっていた(75) モンジュラ夫人が関与していたとされる 1816 年の「宝くじ不正事件」をきっ かけに,モンジュラの辞職を求める声は高まっていった。また軍のトップであ ったヴレーデ侯爵もモンジュラの軍備縮小政策を批判していた。 実際のモンジュラ解任は,1816 年 12 月 22 日から 1817 年 1 月 31 日にマ ックス・ヨーゼフ一世が娘シャルロッテと皇帝フランツ一世の婚姻行事でウィ ーンに滞在していた時,ヴレーデの説得によって決められたという(76) 最終的には 1817 年 2 月 2 日,ミュンヒェンに戻ったマックス・ヨーゼフ一 世がモンジュラと会談を持つ前に,ヴレーデがモンジュラの失政の証拠となる 書類を持参し,王子ルートヴィヒによる「告発状」も示したらしい。そこには モンジュラが陰謀を企むイルミナートであるという告発も書かれていた(77) これ以上庇いきれないことを悟ったマックス・ヨーゼフ一世は,もはやモンジ ュラの弁明も聞かず,涙ながらに免職の命令書を書いた。告発の真相は問題に されず,父は息子を失わないために,長年彼を支えてくれた有能な大臣を罷免 ──────────── この陰謀については,「マックス・ヨーゼフ一世とバイエルン王国」86 頁を参照。 また Ludwig I. von Bayern. Königtum im Vormärz, S. 201 ff. も参照。

モンジュラ(Maximilian Joseph Montgelas, 1759-1838)の業績については,「マ ックス・ヨーゼフ一世とバイエルン王国」80-86 頁参照。

Ludwig I. von Bayern. Königtum im Vormärz, S. 206参照。

1817年 2 月 2 日の国王とヴレーデのやりとりの詳細については,Bayern. Zwei Jahrhunderte bayerische Geschichte S. 32に詳しい。

97 ルートヴィヒ一世とバイエルン王国

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した(78) モンジュラの大きな功績は,古くさい領邦国家バイエルンを啓蒙主義的な近 代国家に改造したことであった。しかし,国王が 60 歳を過ぎ,次期国王が宮 廷で力を付けてきたこの時,国王の右腕として 20 年にわたり辣腕を振るって きたモンジュラは,障害物として政府から排除されることになった。ルートヴ ィヒ時代の到来が目に見える形で示された出来事といえるだろう。マックス・ ヨーゼフ一世は,1819 年に解任したモンジュラに「帝国参事」(Reichsrat) の称号を与えた。ルートヴィヒ一世も後に,モンジュラをバイエルン「第一院 の第二議長」(2. Präsident der Ersten Kammer Bayerns)という名誉職に任 命して,その功績に少しだけ報いている。 2.憲法の擁護 すでに 1808 年段階で内務大臣モンジュラは,ナポレオンが作った傀儡国家 「ヴェストファーレン王国」の憲法をモデルにした「バイエルン憲法」草案を 作成していた。ナポレオンが「ライン同盟」諸国に一律の憲法を押しつけよう とした際には,それに先んじてバイエルン独自の憲法を制定しようという現実 的かつ周到な配慮からであった(79)。他方,ルートヴィヒは全く別の理由から 憲法に関心を持ち,自ら何度も憲法草案を書いている。この頃のルートヴィヒ は,民意をよく反映する議会制度を規定する進歩的憲法を構想していた(80) 1816年に「ドイツ連邦議会」が開催された後,今度はオーストリアがドイ ツ連邦全体に拘束力を持つ反動的な法律の整備を始めたことに危機感を持った ──────────── 「マックス・ヨーゼフ一世とバイエルン王国」86 頁参照。 Ludwig I. von Bayern. Königtum im Vormärz, S. 214参照。

Ludwig I. von Bayern. Königtum im Vormärz, S. 216 ff.および Geschichte des Königsreichs Bayern, S. 51参照。憲法制定に肩入れする若きルートヴィヒの理想 は,当時のロマン主義世代の多くの若者に共通する傾向であった。愛国的ロマン主 義者の服装「中世ドイツ風の服装」(Altdeutscher Rock)を身につけたルートヴ ィヒの肖像が残されている。Alois Schmid, Katharina Weigand(Hrsg.):Die Herrscher Bayerns. 25 historische Portraits von Tassilo III. bis Ludwig III, S. 311参照。

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バイエルン政府は,1818 年初めから積極的に憲法条文を練り上げ,同年 5 月 26日に祝砲とともに「バイエルン憲法」を公布した(81)。この時期,ルートヴ ィヒ自身はイタリアに滞在していて,手紙によるやりとり以外ほとんど草案に 関与していなかった。この憲法の特徴は,国王による発布,第一院(=貴族 院)と第二院(=身分制議会)の「二院制」という保守的なものであった が(82),民衆はこれを歓迎した。1819 年 2 月には最初の議会が開かれ,現実政 治に疎いルートヴィヒは議会側に味方して父親を困らせた。 1815年から 1819 年までが憲法制定ブームの期間であった。しかし,ドイ ツ連邦の二大強国オーストリアとプロイセンは頑強に憲法制定を拒み続け,メ ッテルニヒはプロイセンと計って 1819 年 8 月にカールスバートで開催した主 要国大臣会議において,自由主義的な活動と出版物を禁止する「カールスバー ト決議」を採択した。さらにオーストリアはバイエルン憲法を廃止するように 圧力をかけたが,ルートヴィヒの強い要求なども功を奏して,憲法は維持さ れ,バイエルンの主権も守られた(83) 3.教会政策の変更 1817年に啓蒙主義者モンジュラが解任されたことは,カトリック教会にと って好都合であった。バイエルンの宗教政策の風向きが変わることを察知した バチカン教皇庁は,バイエルン側の交渉相手のヘフェリン男爵と速やかに話を ──────────── ドイツ語圏の主要国家で最初に「憲法」を制定したのはバイエルン王国で,次いで ヴュルテンベルク王国だった。ヴュルテンベルクは,4 年半に亘る憲法論争の後に 1819年 9 月 25 日に第二代国王ヴィルヘルムが憲法を制定した。Krone und Ver-fassung, S. 114および Kleine Geschichte des Königsreichs Württemberg 1806-1918, S. 91参照。

議会を構成する身分の割合については,Bayern. Zwei Jahrhunderte bayerische Geschichte S. 39参照。また Ludwig I. von Bayern. Königtum im Vormärz, S. 221も参照。

フランケン貴族でルートヴィヒの友人のシェーンボルン伯爵が,バイエルン憲法制 定 を 祝 う 記 念 柱(Konstitutionssäule)を ヴ ュ ル ツ ブ ル ク 東 方 の ガ イ バ ッ ハ (Gaibach)に建立した。ルートヴィヒも招かれた 1821 年 5 月 26 日の定礎式の様 子が絵画に残されている。Bayern. Zwei Jahrhunderte bayerische Geschichte S. 38の絵(Peter von Hess 作)参照。

99 ルートヴィヒ一世とバイエルン王国

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進め,同年 8 月 7 日にはバチカン優位の「政教協約」(Konkordat)案を纏め た(84)。この案に対してプロテスタントやリベラル側から強い批判が出された が,すでに合意手続きが進みすぎていた。マックス・ヨーゼフ一世もその案に 不満であったが,若干の修正を加えるだけで批准せざるを得ず,同年 10 月 24 日に批准がなされた。ただ,国王は苦肉の策としてこの政教協約を 1818 年 5 月 26 日発布の「憲法付則」とし,政教協約の効力を憲法および宗教規定の下 位に置くことで,バイエルンの主権を守る方策を採った。 モンジュラ失脚後,聖職者の任用においても徐々に王子の意見が強まってい ったようで,彼のランツフート大学時代の恩師ザイラーとその取り巻きを要職 に就けるようになった。これ以降,マックス・ヨーゼフ一世とモンジュラ大臣 の政権下で力を失っていたバイエルンのカトリック教会が,次第に息を吹き返 した。 ルートヴィヒはカトリックの守護者を自認していたが,上述の通り,彼の義 母カロリーネも妻テレーゼもプロテスタント信仰を守り続けていた。バイエル ン選帝侯国にプロテスタントが認められたのは古いことではなく,夫と共にカ ロリーネがミュンヒェン宮廷に入った 1799 年のことで,当初プロテスタント は選帝侯妃とその取り巻きのみから成っていた。マックス・ヨーゼフは 1801 年 11 月の政令によって,バイエルンのプロテスタントに市民権を与えること を命じた。その後,プファルツなどのプロテスタントがミュンヒェンに移住す るようになった(85)。しかし,カロリーネとテレーゼが多額の資金援助をして バイエルン初のプロテスタント教会「マテウス教会」(Matthäuskirche)が完 成するのは,はるか後の 1833 年のことになる(86) ────────────

1817年の「政教協約」の詳細については,Krone und Verfassung, S. 136-138 参 照。

Bayerns Königinnen, S. 59-63参照。 Bayerns Königinnen, S. 64-65参照。

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4.ナポレオンの甥の冷遇 1814年以降,ナポレオンの甥で元イタリア副王のユジェーヌ・ボアルネ (Eugène Beauharnais)の処遇が問題になる。ルートヴィヒにはすぐ下の妹 アウグステが大事だが,フランス人の婿はバイエルンに置きたくなかった。マ ックス・ヨーゼフ一世はボアルネを高く買っていてボアルネ一族をヴィッテル スバッハ家の傍系に入れようとするが,ルートヴィヒはフランス人を家系に入 れることに強く反対した(87)。この問題は 1818 年 11 月 15 日に一応の解決を 見た。王はボアルネに「アイヒシュテット領主ロイヒテンベルク公爵」(Her-zog von Leuchtenberg, Fürst von Eichstätt)のドイツ名を与え,バイエルン 第一等の家系と承認した。ボアルネ一家は郊外イスマニングの館に住んでいた が,王宮脇に「ロイヒテンベルク宮殿」(Palais Leuchtenberg)を建てはじ めた(88)。しかし,ルートヴィヒが彼を一族と認めなかったため,ボアルネは 怒って一時宮殿建築を中止した。妹のアウグステも怒りの手紙をルートヴィヒ によこした。彼女は「あなたが私に頼んだこの結婚のお蔭でバイエルンは王国 にしてもらったのに,あなたはその恩を忘れたのか?」(89)と忘恩の兄を非難し た(90)。アウグステとボアルネは仲むつまじく暮らしたが,ボアルネは 1824 年 2 月に脳腫瘍のため 42 歳の若さで亡くなった(91) バイエルンはアウグステの妹シャルロッテも政略結婚に利用していた。マッ クス・ヨーゼフ一世は,ナポレオンの指示で 1808 年にシャルロッテをヴュル テンベルク王子ヴィルヘルムに嫁がせたが,ヴィルヘルムはこの妻に興味を示 さなかった(92)。ナポレオンが失脚した 1814 年,ヴィルヘルムは離婚手続き ────────────

Ludwig I. von Bayern. Königtum im Vormärz, S. 243参照。

この館の詳細は,「バイエルン王国初期のミュンヒェン改造」83 頁参照。 Ludwig I. von Bayern. Königtum im Vormärz, S. 245参照。

ルートヴィヒは,後にボアルネとアウグステの長女がスウェーデン王子に嫁いだ際 においてもなお,彼女を「バイエルン王女」と認めなかったという。Golo Mann : LudwigI. von Bayern, S. 84参照。

Golo Mann : Ludwig I. von Bayern, S. 84および Bayerns Königinnen, S. 74 参 照。

この不幸な結婚は全くの形式に止まり,二人が寝室を共にすることはなかったそう である。Bayerns Königinnen, S. 74 および Kleine Geschichte des Hauses ↗ 101 ルートヴィヒ一世とバイエルン王国

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を取ったが,カトリックの妻の離婚に必要な教皇の認可を得るのに時を要し た。ようやく 1816 年 1 月に認可が出て離婚が成立した。離婚後に名前をカロ リーネ・アウグステと変えたシャルロッテは,再び政略結婚をさせられる。彼 女は 1816 年 10 月に 24 才も年上のオーストリア皇帝フランツ一世の四番目の 妻となった(93)。しかし,彼女もオーストリア帝国の後継者を生むことはでき なかった(94)4 節 待望の国王即位 ルートヴィヒは王と王子が同居しないという当時の習慣に従って,1816 年 に獲得したヴュルツブルクの城に移り住んでいた。このフランケン地方の取り 巻きの貴族たちは,リベラルな考えを持った者が多かった(95)。王子は,政治 から遠ざけられていたこともあり,旅行と建築,美術品収集に時間を費やすこ とが多かった。旅行先としてはイタリアが際立っていた。1817/18 年,1820/ 21年,1824 年とイタリアに滞在していた。 1810年頃にルートヴィヒが自由に使えた金額は,上述の通り 22 万 5 千グ ルデン(交際費 17 万 2 千グルデン,私費 5 万 3 千グルデン)であった(96) 彼はその歳費の大部分を美術品の収集とミュンヒェンの美術館や歴史記念碑の 建造に当てていた(97)。ルートヴィヒは国王となるための準備もしていた。特 に財政問題に取り組み,むだな支出を減らす方策を研究していた。軍隊と大学 のあり方に関する研究もおこなっていた。 ──────────── ↘ Württemberg, S. 212-214 参照。

Ludwig I. von Bayern. Königtum im Vormärz, S. 246参照。

Bayerns Königinnen, S. 74-75参照。1835 年 5 月に没するフランツ一世の後継に は,虚弱で知的障害のあった長男フェルディナント一世が即位し,実権は宰相メッ テルニヒが握り続けた。ロビン・オーキー『ハプスブルク君主国 1765-1918』117 頁,新人物往来社(編)『ハプスブルク帝国』120-121 頁,別冊歴史読本 80『皇妃 エリザベートとハプスブルク家』117 頁参照。

Ludwig I. von Bayern. Königtum im Vormärz, S. 231参照。 Ludwig I. von Bayern. Königtum im Vormärz, S. 231参照。

即位までのルートヴィヒの文化的業績については,「バイエルン王国初期のミュン ヒェン改造」80-86 頁に詳しく述べた。

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ルートヴィヒが即位する日は,1825 年 10 月に訪れた(98)。父のマックス・ ヨーゼフ一世が 10 月 12 日深夜にミュンヒェンで亡くなり,ルートヴィヒは その知らせをバート・ブリュッケナウで受け取った。10 月 18 日にミュンヒェ ンに到着したルートヴィヒは,10 月 19 日に即位の宣誓をおこなった。 国王「ルートヴィヒ一世」は,この時から,「三月革命」の騒動の中で退位 を余儀なくされる 1848 年 3 月 20 日まで,22 年半にわたりドイツ第三の国家 を支配することになる。国王即位後のルートヴィヒ一世の業績については,稿 を改めて論じることにしたい。 参考文献

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マックス・ヨーゼフ一世の最後については,「マックス・ヨーゼフ一世とバイエル ン王国」87 頁参照。即位の様子については,Ludwig I. von Bayern. Königtum im Vormärz, S. 265 f.参照。

103 ルートヴィヒ一世とバイエルン王国

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参照

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増田・前掲注 1)9 頁以下、28