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Title
沖縄を生きる ―元鉄血勤皇師範隊員と元看護学生のライフヒスト
リー―
Author(s)
川島, 由利子
Citation
架橋, 5, pp.115-165; 2004
Issue Date
2004-03
URL
http://hdl.handle.net/10069/31340
Right
沖
縄
を
生
き
る
ー元鉄血勤皇師範隊員と元看護学生のライフヒストリーー
川島
由利子
は じ め に 問 題 の 提 起 │ 一、二人の沖縄戦と戦後の歩み (一)元鉄血勤皇師範隊員・長田勝男さんの場合 (二)元看護学生・久場千恵さんの場合 二 、 沖 縄 戦 体 験 と 、 戦 後 の ﹁ 生 ﹂ に つ い て の 考 察 ( 一 ) ︿ 生 か さ れ た 者 ﹀ の 責 任 (二)戦争体験の継承と平和教育 お わ り にl
残された課題│は じ め に
l
問題の提起│ 沖縄と闘いて人々は何を想像するだろうか。青い空、青い海、サンゴ礁の島々、琉球王国の歴史と文化をもっ魅力 満載の沖縄に、人々は癒しと娯楽を求めている。美しい海岸沿いにはリゾートホテルが建ち並び、世界遺産に登録さ れた首里城には園内だけでなく国外からも多くの観光客が訪れる。沖縄は一度は訪れてみたいと思う南国の﹁楽園﹂ で あ る 。 しかし五十九年前、史上まれにみる激烈な戦火がこの島々を襲った。一九四一(昭和二ハ)年一二月八日にはじま った太平洋戦争において、日米最後の地上戦闘として戦史に特筆される沖縄戦である。沖縄戦は一九四五(昭和二O
)
年 コ 一 月 一 一 一 二 日 か ら は じ ま り 、 日 本 軍 の 組 織 的 抵 抗 の 終 了 ( 六 月 一 九 日 ) 、 軍 司 令 官 ・ 牛 島 満 の 自 決 ( 六 月 二 三 日 ) を 経 て、米軍の沖縄作戦終了宣言が発せられた七月三日をもって一応の終幕となる。南北約一三0
キロの細長い沖縄本島 を主戦場に戦われた戦闘にしては異常な長期戦である。米軍側の掃討作戦が終了した六月末日を終点とした場合でも ち ょ う ど 一OO
日 の 長 き に 及 ん で い る 。 これほどの長期戦になった要因は二つ考えられる。第一の要因は、沖縄守備軍(第三二軍)の作戦方針が﹁戦略持 久戦﹂であったことによる。もしも、守備軍が飛行場の防衛に重点をおいて読谷(よみたんて北谷(ちやたん)海岸 で﹁水際盤滅戦法﹂に出るか、あるいは米軍の上陸地点が港川海岸になっていたとしたら、戦闘はこれほど長引くこ とはなかっただろう。その結果﹁鉄の暴風﹂と形容されるほどの激しい砲爆壊が三ヶ月以上も続くことになった。山 容があらたまるほどの巨弾の雨は沖縄戦の特徴の一つであったが、もともと海戦用の戦艦、巡洋経の主砲が長期的に 地上射撃に用いられたこと自体が戦史上異例のことであった。この時期、日本海軍の連合艦隊はほぼ潰滅し、世界最 強をほこる米第五経隊にはもはや海戦の相手が存在しなくなっていた。したがって、ありあまる砲弾を沖縄本島のジユ ウ タ ン 砲 撃 に 転 用 し た の だ 。 第二の要因は、米軍の目標が沖縄本島の航空基地にあったために地上戦闘が行なわれたことである ω 米攻略部隊に 与えられた任務は、﹁沖縄奪取、基地としての整備、沖縄諸島における制空、制海権の確保(アイスパ
l
グ作戦計画ご であった。きたるべき本土進攻作戦にむけて沖縄の航空基地を自由に使用するには、沖縄の島々を完全に占領し、し かもその安全を確保するために、敗残兵といえども徹底的に掃討しなければならない。全面的な掃討作戦によって最 後の一兵にいたるまで追撃したのはこのためであった。要するに、沖縄戦が長く激しい地上戦闘になったのは、日米 岡 田 阜 の 作 戦 目 的 に よ る も の だ っ た 一 。 沖縄戦の最大の特徴は、正規軍人より一般住民の犠牲者数がはるかに多かったことである。日本本土の一角で戦わ れた戦闘としては硫黄島と沖縄本島の場合がよく似た戦例だが、決定的に異なるのは、硫黄島の場合は住民がすべて 島外に疎開させられたのに対し、沖縄戦は住民をまきこんでの戦闘であった点である。一般邦人が戦線にまきこまれ た例はサイパン、フィリピン、満蒙(現在の中国東北部 U 旧満州と内蒙古)でもみられるが、これらは引き揚げの機 を逸した結果であって、老幼婦女子までも戦力化して敵前に送りこんだのは沖縄をおいて他にない。結果的に沖縄住 民は、身をもって戦場の生き証人にされた数すくない﹁選ばれた民﹂になったのである。 しかし、戦場における住民は、軍からみれば危険な二面性をもっている。すなわち、﹁戦闘協力者﹂として利用でき る面と、作戦の足手まといになる﹁邪魔者﹂としての存在である。この二つの面が、戦局の状況によって陰陽さまざ まにおりなされたのが沖縄戦の悲劇の源泉だった。政府や県の疎開計画が円滑にすすまなかったのは、船腹不足や心 理的不安も障害要因であったが、根本には現地軍の住民戦力化の方針があったからである。米軍の上陸直前まで、﹁敵 は水際で撃滅されるからあわてて練関する必要はない﹂と宣伝して陣地構築作業や弾薬運搬、食糧調達などに老幼男 女をかりだした。米軍上陸後も、弾雨の中を弾薬運徴にかりだされた婦人部隊、老人部隊は少なくない。だが、この軍民協力の関係は、彼我接近しての混戦状態になると逆転する。壕や食料の確保、陣地の秘匿という点 で住民の行動が邪魔になるだけでなく、彼らが敵の手に落ちた場合、利敵行為を働くかもしれないという不信感が根 強く潜在していたからである。 沖縄戦の戦死者数は正確なところはまだ不明であるが、推定数だけでも﹁本土﹂出身兵六万五九
O
八名、沖縄出身 軍人軍属二万八二二八名、戦闘参加者五万五二四六名、一般住民三万八七五四名、米軍一万二五二O
名 、 計 二ο
方 六 五 六 名 と な っ て い る 。 こ の う ち 、 ﹁ 戦 闘 参 加 者 ﹂ と は ﹁ 戦 病 傷 者 戦 没 者 遺 族 等 援 護 法 ﹂ の 適 用 を 受 け た 一 般 住 民 の こ と で あ り 、 ﹁ ザ 般 住 民 ﹂ とは﹁援護法﹂の適用を受けていない住民のことで、内容は全く同じ住民である。この両者をあわせると九万四00
0
名となり、さらに﹁沖縄県出身軍人軍属﹂のなかには防衛隊や学徒隊、男女義勇隊もふくまれるので、実質的には 正規軍人と区別しなければならない。これに、終戦前後のマラリア病死、餓死などを含めると、おそらく一般沖縄県 民の犠牲者数は一五万前後になるだろうと推定される。当時の県人口約六O
万人のうち実に四人に一人が戦没したこ とになる。この一般住民の高い死亡率の原因は、疎開の不徹底、激しい無差別砲爆盤、逃げ場のない孤島の地理的条 件、食糧不足、医療品不足等々、多くの悪条件が重なってのことではあるが、根本はやはり帝国陸軍の﹁玉砕精神﹂ で あ っ た 。 もちろん、正規軍人の戦死率も異常に高い。米軍の記録によれば、日本軍の戦死者一一万七一名に対し、捕虜はわ ず か 七O
四一名しかない(沖縄本島のみて普通、軍事学の常識では三分の一の戦死傷者が出ると部隊は崩捜したとみ なされ、戦傷者と戦死者の比率は三対一を標準とするものだが、沖縄の日本軍にはこうした常識が通用しない。﹁最後 の一兵まで﹂という玉砕方針が撤退された証拠であり、沖縄は本土決戦準備に必要な時間かせぎの捨て石に利用され た 。 こ の 軍 の 方 針 が 住 民 に ま で 貫 徹 さ れ 、 結 果 と し て 住 民 犠 牲 者 が 過 半 を 占 め た の で あ る 一 二 。このように、沖縄戦では一般住民が戦闘にまきこまれ多大な犠牲を払っていることが最大の特徴であり、かつ最大 の悲劇であるといえる。第一次世界大戦の死者は軍人が九五%で民間人はわずかに五%にすぎない。と三ろが、第三 次世界大戦では軍人の犠牲者が五二%に対し民間人は四八%となる。太平洋戦争となると日本本土では頃人の死者が -一三%に比べ民間人は七七%にのぼり、さらに朝鮮戦争では軍人が一五%で民間人が八五%、ベトナム戦争において は軍人の死者はわずかに五%なのに比べ、民間人は九五%も犠牲になっている由。一般住民を巻き込み強力な兵器で 応戦しあう現代戦においては、兵士よりも現地の住民の方が大きな被害を受けることが沖縄戦でも明らかになってい ザ 。 五 o 沖縄戦についての残された記録というものは、アメリカ・日本の各軍隊側からとらえた戦闘過程を記述したもの、 そして一般住民が各身経験した過程を記述したものが圧倒的に多いと恩われる。日本国内で唯一﹁戦地﹂となり一般 住民が巻き込まれた沖縄戦を生き抜いた人(元鉄血勤皇隊員)が、その後どのように生きてきたのかという観点での 記述はあまり見られない。そこで本稿では当時沖縄に住み、実際に沖縄戦を経験した人にインタビューをおこない、 戦争体験と戦後の軌跡を記録したい。日本を軍国主義一色の挙国一致体制にしていく上で皇民化教育が大きな役割を 果たしていた当時、沖縄において生まれてからどのような環境で育ち、どのような教育を受けて沖縄戦をむかえるこ とになったのか、そして戦後どのように生きてきたのかを検討したい。
[ 注 ︺ 一大城将保﹃改訂版沖縄戦
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民 衆 の 眼 で と ら え る { 戦 争 ] l t ﹄ ( 高 文 研 ・ 一 九 九 五 年 ) 六 九 、 二同右七七!七八頁 で 一 局 右 七 九 │ 八 一 一 員 回大田昌秀﹃沖縄平和の礎﹄(岩波書底・一九九六年)一二五頁 五﹃沖縄県平和祈念資料館総合案内﹄(沖縄県平和祈念資料館・二OO
三年)八三頁 七 一 I ・ e -七四頁}一、三人の沖縄戦と戦後の生 本章では、沖縄戦の過程と並行して沖縄戦のなかを生き抜いてきた沖縄の一般住民二人におこなったインタビュー を基に戦争体験と戦後の軌跡を構成していく。筆者がおこなったインタビュー対象者は鉄血勤皇師範隊として沖縄守 備軍(第三二軍)に編入された長田勝男さん、日本赤十字社の看護生として野戦病院に従事した久場千恵さんの二名 で あ る 。 長田勝男さんは二
OO
一一一(平成十五)年六月三十日の毎日新聞に﹁沖縄戦七十五歳語り部﹂として記事が掲載され ていた。住所を調べ連絡を l どったところ、快く引き受けてくださった。久場千恵さんは、長崎大学教育学部政治学ゼ ミナール第二期生・金城恵子さんの父・金城隆俊さん、﹁なんよう文庫﹂川満昭広さんのご協力によりお願いした・どこ ろ 快 く 引 き 受 け て く だ さ っ た 。 ところで﹁鉄血勤皇師範隊﹂とは、沖縄守備軍が陣地構築や飛行場建設、戦闘部隊として動員した沖縄師範学校生 徒の組織名である。軍隊組織の末端に序列化された戦闘集団の学徒隊ではあるが、沖縄戦のために沖縄守備軍が強制 的に戦地に投入したものであり、正規軍人ではなく一般住民であることには変わりない。また、当時の日本赤十字 社 は 一 九 一O(
明治四一二)年に定められた新条例により、陸・海軍の戦時衛生勤務を助けることを任務とし、陸・海 軍大臣の監督下におかれ、軍事的性格のものとされていた五久場さんは沖縄県支部看護養成所の学生のとき戦渦に 巻きこまれ、野戦病院で負傷兵の看護にあたった。 以上のような異なる立場に置かれた二人の沖縄住民の眼には沖縄戦はどう映ったのであろうか。彼(女)が生まれ てから沖縄戦を経験するまでの環境や教育、そして戦後どのように生きていったのかを描写していき、そこから彼(女) にとって沖縄戦とは何だったのか、またその戦争体験をもって戦後を生きるとは何だったのかを考えてみたい。(一)元鉄血勤皇師範隊員・長田勝男さんの場合 ︹ 戦 前 ・ 少 年 期 ] 長田勝男さんは一九一一八(昭和一二)年六月六日、沖縄県今帰仁(なきじん)村で生まれた。今帰仁は沖縄本島の北 西部にあり風光明婦なところである。みかんやすいか、パイン栽培がおこなわれ、世界遺産に登録された今帰仁城が ある。勝男という名前は、ちょうど長田さんが生まれた頃に国政選挙があり、父親が選挙応緩をしていた候補者が当 選し、選挙に勝つ男は縁起がいいということで勝男と名付けられた。長田さんは長男で、姉が二人(ミツ子・京子)、 弟が六人(武夫・勝一・勝美・勝哉・勝信・秀男)の九人姉弟である。父(菊栄)と母(マツ)、そして九人の兄弟と いう大所帯で本当に貧乏だった。祖父の代から鍛冶屋を営み、鍬、包丁、鎌、銃などの農具を作り、それらを芋や米、 野菜と交換して生活していた。当時は銀飯(白米)が月一回食べられたらいいほうで、さつまいもなどの野菜が主食 だった。世界恐慌により農産物の価格が暴柑惜し、沖縄県民のなかにはさつまいもさえ口にすることができず、ソテツ の 実 や 斡 を 食 べ て 飢 え を し の ぐ あ り さ ま で ﹁ ソ テ ツ 地 獄 ﹂ と 呼 ば れ る 窮 状 だ っ た コ 一 。 お 風 呂 も な い の で 川 で 水 を 裕 び 、 電気もないのでランプで過三した。姉のミツ子さんは尋常小学校を卒業したら大阪の紡績工場に出稼ぎにいき、京子 さんは小学校卒業とともに県内で女中奉公にだされた。しかし貧乏を苦に思ったことはないという。今帰仁の大自然 で魚や貝を捕ったり、回植えや稲刈り、芋ほりなど農作業をいっぱいした。兄弟やたくさんの友達と真っ裸になって いかだを作り、川や海で遊んだ。また、戦争の足音が近づき子づくりが奨励され、男の子が生まれたら万万歳という 時 代 だ っ た 。 長田さんは小柄な体格だったが負けず嫌いだった。相撲で負けたら走って勝負し、喧嘩で負けたら頭で勝負した。 これだと決めたらまっしぐらに突き進み、誰が何と言おうが絶対に聞く耳をもたなかった。郷里の先輩から﹁尾張・ 名古屋は城でもつ長田勝男は口でもつ﹂と言われるほど口が達者で、少々のことでは絶対に自分の意見を曲げなか
っ た c このような性格は父母よりも祖父の影響を強く受けた。﹁男が一度言い出したら、少々悪いなと思っても詫びた らいかん。自分の意見を通しなさい﹂、﹁ぬすどうとちゆくるさあやいがいはおえてんしなさ(盗人と人殺し以外は若 いあいだに何でも経験しなさい)。でも人に迷惑をかけたら駄目だ﹂という祖父の後ろ、姿を見て育ってきた。非常に気 骨があり腕っ節もよかった祖父は﹁偉い人になれ﹂﹁喧嘩をするな﹂とは一言も言わず、﹁人間(にんじん)になりな さ い c 悪いことをしたら人間にさえなりきれない﹂と言っていた。 小学校阿では常に﹁忠君愛国﹂ということを教えられた。天皇陛下のために働くことが国を愛するととである、い ざ戦争だというときは自分を投げうって天皇陛下のために戦い、戦場で死んだならば清国神社に国の守り神として配 られることが
H
本男児の最高の名誉であり親孝行であると教わった。 一九四一(昭和一六)年、十三歳の頃太平洋戦争が勃発すると、先生は常に﹁鬼畜米英﹂と言っていた。﹁米国や英 国の捕虜になると男は股裂きにされて戦車でひき殺される、女は暴行や辱めをうけて戦車でひき殺される。だから絶 対に捕まるな、捕まる前に自分で自分の身を消しなさい﹂と教えられた。長田さんは勉強ができるほうだつたので、 担任の先生が師範学校五に行くことを薦めてくれた。師範学校は国立で国費によって授業料も教科書代もすべてまか なわれるので、貧乏人でも行けると思った。当時の義務教育は八年なので小学校六年生の頃から勉強を始め、卒業と 同時に受験した。一九四四(昭和一九)年四月七日‘長田さんは十五歳のとき沖縄師範学校に入学した六 O [ 戦 中 ] 大本営は一九四四(昭和十九)年三月、南西諸島方面の防衛強化のため沖縄守備軍(第三二軍)を創設した。同年 四 月 以 降 沖 縄 守 備 軍 の 陣 容 の 強 化 を 図 る た め 、 大 本 営 は 独 立 混 成 第 四 四 旅 団 ( 球 部 隊 ) 、 独 立 混 成 第 四 五 旅 団 ( 球 部 隊 ) 、 第九師団(武部隊)、第二八師団(豊部隊)、第二四師団(山部隊)、第六二師団(石部隊)を編入した。海軍でも沖縄方面根拠地隊が編制され、同年九月までに沖縄守備箪の陣容がととのえられた七。第三二軍の配備以降、陣地づくり と飛行場建設が沖縄全域でおこなわれた。建設工事の多くを人カに頼る箪は現地の住民を根こそぎ動員し、満十七歳 以上四五歳未満の男子はほとんど軍にかり出されてしまった。難攻不落と一言われたサイパン島が陥落すると全島要塞 化は急を要したが、必要な工具も資材も本土からは送られてくることはなかった。﹁国家総動員法﹂(一九三六年公布) を発動し、回や畑、墓地などが地主との交渉も事前通告もなしに強制的に接収された。資材不足を補うために森林は 乱伐され、校舎も解体して用材にまわされた。墓石や民家の石垣まで壊して陣地造りにまわされるさまで、当然住民 のなかには軍の横暴を恨む感情が穆積していたが、表立って抗議することはできなかった。﹁軍に強カしない者はスパ イだ﹂と公然と言われていたからであるも軍司令部は﹁現地物質を活用し一木一草と雄も之を活用すべし﹂と命じ、 戦闘部隊を投入し、防衛隊を召集し、沖縄全域から労務者を徴用して﹁軍民一体の郷土防衛﹂がくりひろげられた。 婦人や老人、学童たちの勤労奉仕隊もかり出され、早朝から日没まで作業は続いた。その問にも竹槍訓練や防空訓練 があり、幼少年には過重な労働だったが﹁自分たちの郷土は自分たちで守れ﹂という合い言葉で互いを励ましあって い た 。 当時、長田さんは十六歳で沖縄師範学校二年生で最初は勉強らしい勉強ができたが、だんだん戦争の雲行きがあや しくなってきて米軍が沖縄に上陸するんじゃないかと噂で聞くようになった。それからは教科書のいわりにツルハシ やシャベルを持って日本軍と一緒に飛行場や陣地を造ることが多くなっていったという。 米軍は一九四五(昭和二十)年三月、日本近海にせまり沖縄の沖合いに集結した。米軍が沖縄攻略作戦(アイスパ
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グ作戦)に動員した兵力は太平洋戦争のどの作戦よりも大規模なものであった。地上戦闘部隊の第一O
軍だけでも 八個師団・十八万三千、これを支援する海軍部隊、補給部隊、後方部隊を合わせると総勢五五万、艦艇および輸送船 など一五OO
隻、つまり西太平洋の全、戦力が沖縄本島の一点に集中したといっても過言ではない。これを迎え撃つ沖縄主部軍は総兵力およそ一 に 過 ぎ な か っ た 。 戦闘準備を終えた米軍は、コ一月一一三日から攻撃を開始。沖縄の島々は猛烈な空襲と艦砲射撃にさらされるようにな った。沖縄戦にはイギリス艦隊も参戦し、宮古、八重山諸島に艦砲射墜と空爆攻撃をおこなった。攻略部隊がまワさ きに狙ったのは慶良間諸島であった。本格的な作戦にさきだち根拠地を確保するのが米軍の常套戦法だった。 日本軍は海上特攻艇と少数の守備隊を配備していたが米軍の猛攻の前にほとんど抵抗できず山の中へ退却し、あと には約三千人の島民が敵前に放置された。目の前に異形の米兵たちの姿を目撃した住民はたちまちパニックに陥って しまった。人々は援護を求めて友軍陣地に殺到したが、作戦の邪魔になるという理由で追いかえされた。座間味島で は﹁住民は男女を問わず軍の作戦に協力し、老人子どもは忠魂碑前に集合、全員自決せよ﹂という通達がなされた。 自決用の手摺弾も防衛隊をつうじて配られていた。逃げ場を失った人々は山中であるいは家庭壕で、家族・親類ぐる みで自決を決行した。手権弾のない者はカミソリ、鎌、包丁などで互いに刺しあって絶命した。二一月二六日米軍はほ とんど無傷で島々を占領し、ただちに本島上陸作戦の補給基地を建設したも 米軍が慶良問諸島に上陸すると、沖縄本島に凄まじい数の砲弾を撃ちこんできた。長田さんら学生はほとんど軍に 徴集され、住んでいた寮も奪われた。しかたなく首里城の近くに壕を造り、そこから陣地造りに昼夜交代に出ていっ た 。 一 万 、 しかもその三分の一は防衛隊や学徒隊を含む現地徴集の補助兵力 米軍が明日上陸するという三月二二日は壕の中に潜んでいた。外は雨霞のごとく砲弾が飛び、空が真っ赤に焦げて いるようだつた。そのうえ雨も降っていた。師範学校の校長先生が﹁学生も先生方も外に出なさい﹂と言ったので、 みんなで壌の外に出た。照明弾が上がって真昼のような明るさだった。砲弾が飛び交い雨が降っているなか膝をだい て座ると、校長先生はうつむきかげんで何かしら寂しそうな顔をして小さな声で﹁今から修了式をおこないます。在
校生のみなさんは進級することを認めます﹂と言った。たった二,三分で修了式は終わった。と同時に向こうから日 本万を腰にさげきれいな軍服を着てピカピカ光る勲章をつけた少佐が現れ﹁師範学校の職員ならびに学生諸君三八六 名、第三二軍直轄の学徒兵として動員する﹂と言い、号令をかけて去っていった。すると後ろにかまえていた兵隊が パ夕、ハタと現れ﹁おい、学生。貴様らは今日から学生じゃねえぞ。いいか、大日本帝国陸軍人の一人だ。教官の命令 は 天 皇 陛 下 の 命 令 と 思 え ﹂ 、 三 れ が 日 本 軍 の 第 一 声 だ っ た 。 師範学校の学生は鉄血勤皇師範隊として以下の五つの隊に編成された。 勤皇隊本部--軍司令部どの連絡調整、食料の調達と炊飯(別名自活隊) 菊水隊:・敵陣地に夜間攻撃や肉薄攻撃を実施する切り込み隊 千早隊:・作戦中情報宣伝活動や米軍占領地へ侵入し地下工作活動をする 野戦築城隊:・敵前でも陣地構築、対戦車地雷源対戦車壕の敷設と主要路橋の破壊 特編中隊・:首里戦線の途中から軍司令部直属の警護隊として特別に編成された 長田さんは野戦築城隊に配属された。師範学校の学生の七五%は野戦築城隊だったという。野戦築城隊の任務は人 を殺す地震と戦車を破壊する地雷を埋める。それから食糧、弾薬を弾室に運ぶ。そして橋を爆雷で破接する。米軍の 戦車が通れないようにして進路を遅らせるためだった。橋は徹底的に全部破壊したという -0 0 慶良問諸島に本拠地を固めた米軍は、四月一日いよいよ沖縄本島への上陸作戦を開始した。上陸地点は読谷村から 北谷村にかけての中部西海岸、陸軍北飛行場と中飛行場の占領が第一の目標であった。上陸部隊は、艦砲射掌や空爆 援護のもと上陸用舟艇や水陵商用の戦車で幅十三キロの長さにわたる密集隊形で海岸に殺到した。この模様を陸上か
ら偵察していたある兵士は﹁海が見えない﹂と報告したほどだった。対する沖縄守備軍は水際での反撃をおとなわず、 本土決戦の時間をかせぐ持久作戦をとり、首里方面の主力陣地にたてこもって米軍の無血上陸を許した。米軍はその 日のうちに北、中両飛行場を占領した後、さらに東へ侵入し上陸わずか二日後の四月三日、東海岸に達して沖縄本島 を南北に分断した。作戦計画では沖縄本島を南北に分断するのに一五日を要するとみられていたが、わずか二,二一日 で 達 成 さ れ た の で あ る -一 。 日本軍が首里城の軍司令部を中心に宜野湾、浦添一帯に守備陣地を築いていた中部戦線は、日米商軍の主力部隊が 激突する決戦場となった。米軍の無欠上陸を許した日本軍は四月六日から航空作戦を開始し、九州や台湾の基地を飛 び立った航空部隊が沖縄を包囲する米艦隊に総攻撃をかけた。特に特攻機による体当たり攻撃は、駆逐艦、魚雷艇、 輸送船など数隻を撃沈し心理的な衝撃を与えたが、そのほとんどが撃墜された。守備軍は大本営からの積極攻勢の要 請におしきられるかたちで、四月一二日と五月四目、二次にわたって空陸適応して夜間総攻撃を決行したが、いずれ も大損害を被って途中で先戦を打ち切らざるをえなかった。総攻撃とはいいながら一方では持久戦のための兵力温存 もはからなければならず、作戦が不徹底に終わった結果だった。 米軍は目標地点を砲爆撃で徹底的に叩いた後戦車を先方にたてて歩兵部隊が突撃し、火炎放射器や爆雷、ガス弾で 地下陣地をひとつひとつ潰していった。これに対する守備軍は地下陣地から貧弱な武器で応戦するほか、夜間の切り 込みなどの肉弾戦法で頑丈に抵抗を続け、血で血を洗う白兵戦が五
O
日以上も続いた。米軍は一日平均一00
メ ー ト ルしか前進できず、一ヶ月で約二キロ南進したにすぎなかった。特に嘉数(かかず)高地、前田高地、安里(あさk
)
高地、運玉森(うんたまむい)などの丘陵陣地の争奪戦は一進一退の激闘になった。 四月中旬長回さんは﹁おいそ学生。貴様ら戦車を破壊させるための爆弾を第一線に届けろ﹂と命令された。戦車 を 爆 破 さ せ る 一0
キロ程の爆弾を背中に背負って、数人の学友と雨が降る夜中出発した。照明、弾が上がると隠れ、時くなったら前進し、また照明弾が上がると隠れる。これを何百四繰り返したかわからない。潜んでいた首里の壊と第 一線は四,五キロしか離れていないのに一晩ではたどり着けなかった。だから夜が明けないうちタコツボを自分の身 が隠れるくらい掘って、体操座りをしてじっと隠れていた。背負っている一
0
キロの爆禅が背中に食い込んでものす ごく痛かった。、だけど少しでも頭を出したら命の保証はない。弾がジヤンジヤン飛んでくる。雨も降り続いて腰まで 水が浸かった。持ってきた非常食は今でいうビスケットのようなもので、雨で濡れてしまったので手でぎゅっと握る とたったのひとかけらになった。一口で食べて、雨水が溜まった泥水を手ですくって飲んだ。夜が明けてから日が暮 れるまでずっとこうしていた。日が暮れてまた前進しようとしたら下半身が療れて動かない。叩いても痛くも摩くも ない。何とかしてタコ壷から這い出たものの立ち上がることができず、地面を這って前進した。どれだけの時間違っ て進んだのかわからないが、何とかして第一線にたどり着くと日本軍だけではなく健児隊や学徒隊、防衛隊が待って いた。この時から長田さんは自分が生きるか死ぬかなどの意識、感情はまったくなくなったという。死への恐怖や不 安 が 迫 る よ う に な っ て く る の は 、 も っ と 先 の こ と で あ っ た 二 一 。 米軍は約五O
日以上におよぶ一進一退の攻防戦の後に中部戦線を突破し、首里城地下にある軍司令部の防衛線に達 した。守備軍は安里高地や運玉森などで激しく抗戦したが、首里城は三方から包囲され戦闘はやがて終わるものと思 われた。守備軍のカは主力の八五%を失い、残存する総兵力は負傷兵も含めて約四万から五万とみつもられたが、そ の八割方は防衛隊などの補助兵員でしかなかった。小銃も一二分の一か四分の一にしかゆきわたらない状態で、食糧も 一 ヵ 月 分 し か 残 っ て い な か っ た 。 しかし第一二二箪司令部は五月二二日の作戦会議において、南部に後退し態勢を立て直して抗戦をつづけることを決 定した。本土決戦を有利にするため、沖縄でさらに時間をかせぐ必要があったからである。ここへきて沖縄戦は﹁時 間稼ぎの捨石作戦﹂という性格を帯びてきた。南部撤退時にあたって高級参謀は次のように書き記している。﹁軍の主戦力は消耗してしまったが、なお残存する兵力と足腰の立つ島民とをもって、 の南の涯、尺寸の土地の存する限り、戦いを続ける覚悟である﹂。 軍司令部の後退は五月二七日、第一線主力の後退は五月二九日を予定し、負傷者および軍需品の後送をただちに開 始するよう各部隊に命令した 4 二 一 。 長田さんも部隊と一緒に南部の方に移ることになったが、その途中魔の十字路、死の十字路といわれる一日橋を通 った。照明弾で明るくなるとそこには死体の山しか見ることができなかった c あちらこちらに人間が転がって死んで いた。兵隊や女性、子どもに年寄りまでみんな死んでいた。暗くなると﹁助けて:・助けて・﹂﹁おかあちゃ
l
ん : ・ お と う ち ゃl
ん﹂という声が聞こえた。照明弾が上がったので長田さんは死に物狂いで走り、民家と大きな木の間に滑 り込んだ。次の照明弾があがる前にそこから逃げようとしたら、何かに足を捕われてパタツとひつくりかえった。見 たらおじいさんとおばあさん、小学校一年生くらいの子どもと三,四歳くらいの子どもが石垣に倒れていた。逃げよ うとするとおじいさんは長田さんの足をつかんで﹁あんた:沖縄の学生でしょう:・年寄りは死んでもいいから孫二人 を連れていって・・連れていって・:﹂とひっぱった。逃げよう逃げようとするけれどもおじいさんはひっぱる。照明弾 が上がり明るくなって見ると、おじいさんは大腿部をやられて仰がなんとかぶらさがっているだけでひっばったらプ ツツと切れそうだつた。おばあさんは頭から血を流して着物は血でいっぱいだった。子どもたちは手首をもってガタ ガタ震えていた。手首からは何かちょろちょろ流れていたけど雨なのか水なのかわからなかった。おじいさんは﹁学 生3
ん;お水ちょうだい・:﹂と言うと足をつかんでいた力が弱くなった。長田さんは照明弾が上がるなかを必死に走 っ て 逃 げ た 回 。 多くの出血を強いられながら守備軍がたどり着いたのは、沖縄本島の最南端喜屋武半島であった。摩文仁岬に軍司 令部を置き、残った兵隊およそ三OO
人が一帯のガマ(自然洞窟)にたてこもり、最後の一兵になるまで抵抗を続け 最 後 の 一 人 ま で 、 そして沖縄るという時間かせぎの出血作戦を展開させるためであった。南部島尻(しまじり)の洞窟地帯にはすでに一
O
数 万 の 住民が避難しており、日本軍の撤退作戦によって地獄の戦場にまきこまれることとなった。住んでいた町や村が戦場 となった住民にとって壕や墓などが避難場所であったが、南部へ撤退してきた日本軍は、陣地として使用するという 理由で壕や墓を強奪した。軍民雑居の戦場となった日本軍は、住民から軍の機密が漏れるのを極度に恐れ、米軍に投 降することを許さなかった。迫りくる米軍を前に﹁軍民共生共死﹂の指導方針をとったため、命令や強制、誘導によ り親子・親類・知人同士が殺しあう集団死が各地で発生した。その背景には﹁天皇のために死ぬ﹂という国をあげて の皇民化教育、軍国主義教育があった玉。 長田さんたちが逃げてきた時には、先に逃げてきた住民と兵隊でいっぱいだった。入れる濠はなく、岩陰に身を潜 めることしかできなかった。長田さんが潜んでいたところからこ00
メートルほど離れた壕には、女性や子ども、年 寄 り が 一O
数名揺れていた。そこに日本軍がばたばたと入り﹁おい、貴様らが戦争をしているんじゃないぞ、出て行 け。ここは我々が使う﹂と怒鳴っていた。お母さんは赤ちゃんを抱いて、おじいちゃんおばあちゃんは孫の手をひい て出て行くのを見た。兵隊と住民が一緒になっている雑居壕では、子どもが泣き喚いたりしたら﹁おい、子どもを何 とかしろ﹂と言って鉄砲を持ってくる。おじいちゃんが子どもを連れて濠から出て行こうとすると、入り口にも兵隊 がいて﹁貴様どこへいく。米軍に捕まったら俺たちがここにいることをばらすだろう﹂と言ってまた鉄砲を向ける。 しかたなく壕内に戻っても何もあたえるものはないし、自分の口にっぽを集めて口移しで子どもに飲ませていた。長 岡さんはこのような状況を三回見たという。これが壕内での精一杯の努力だった一六。 南部の壊に来てから四,五日後﹁おい、学生。俺たちは八重瀬岳の応援にいくから、お前たちは手楠弾を持って俺 た ち が 出 発 し て = 一O
分後に八重瀬岳に来い﹂と命令された。見たこともない、何の関係もない兵隊だったが上官の命 令は天皇陛下の命令なので逆らわなかった。私たちは死んだ兵隊から手摺弾を奪い、潜んでいた壕から四キロ隊れた八重瀬岳の応援にいった。そしたら八重瀬岳はもう米軍の手に落ちて何百というテントが張られ、電気を光々と照ら して、自動小銃を持った米軍が見回りをしていた c 友達が手摘弾を投げようとして構えた瞬間、弾がパパパバパと撃 たれドサツと倒れる音がした。照明弾が上がり彼を見ると、彼は口をもぐもぐさせて全身からたらたら血が流れてい た。駆け寄っていこうにも弾が飛んでくるので身動きができない。五, L ハ分経ってまた照明弾で明るくなると、彼は 全身窓筆を起こして最期の姿だった。この時から自分もこうなるんだという死の恐怖を感じたという。遺体をそのま ま放置して、先に行った兵隊の﹁学生はおらんかl!助けて!!助けてlf﹂という声を尻目にものすごい勢いで走 り、さつまいも畑の畝と畝の聞に入り込み、空を見上げてじっとしていた。そしたら足立日が近づいてきた。もはやこ れまで、と思った。米兵はすぐそばで話しているけども何を話しているのかわかない。サーチライトで照らし、弾を 乱射した後足立田は遠ざかっていった。途端に長岡さんは起き上がってサトウキビ畑のなかに死に物狂いで走った。弾 が飛んできて体の中を突き絞けていく感じがしたという。避けようとして体をそらしたら煙草を皮膚に焼き付けられ た痛みがした。歩いては倒れ、這うようにして一冗の壕に帰ると兵隊も四,五人帰ってきていた。﹁おい、学生。貴様 ら何で帰ってきた。自分たちの郷土を自分たちで守らないでどうする!お前たちはここにいる資格はない。出て行 け!﹂。長田さんはこてんぱんに怒られ、もう精も根も尽き果てた。 ふらふらと歩いて岩陰に身を潜めた。どれだけの時間経ったのかわからないが気がつくとあちらこちらに人間が重 なり合って死んでいた。米軍の火炎放射器で焼かれたのか青い木、車問い草はまったくなかった。白と黒しかなかった。 死体には姐が集っていて、ご飯粒をまきちらかしたようだつた。親や兄弟の顔が浮かび、自分は長男なのに死んでし まったら家はどうなるんだろうというような事を考えた。 水が欲しくて欲しくて一人で街復った。兵隊なら持っているかもしれないと思い、死んだ兵隊の腰にぶら下がって いる水筒を奪ったが一滴たりとも入っていなかった。冷たく硬くなった手を押しのけて雑納もあさってみたが、口に
するものはさつまいものつるさえなかった。あるのは家族の写真や手紙だった。長田さんは倒れこみ、もう動くとと が で き な か っ た 一 七 。 六月一人目、沖縄守備軍は崩接した。牛島司令官は自決に先立ち最後の軍司令官命令を発した。 ﹁全将兵/三ヶ月ニワタル勇戦敢闘ニヨリ遺憾ナク軍ノ任務ヲ遂行シ得タルハ同慶ノ至リナリ。然レドモ、今ヤ刀 折レ矢尽キ、軍ノ命旦夕ニ迫ル。スデニ部隊問ノ連絡社絶セントシ、軍司令官ノ指揮困難トナレリ。爾後各部隊ハ各 局地ニオケル生存者ノ生存者ノ上級者コレヲ指揮シ最後マデ敢闘シ悠久ノ大義ニ生クベシ﹂。 米軍上陸から三ヶ月、一
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数 万 人 の 住 民 と 一O
万の将兵が死んだが、司令官はこれを﹁軍の任務を遺憾なく遂行で きた﹂と言って、﹁同慶の歪り﹂としているのである。そして、この事態にいたっても、生き残った将兵に対し降伏を 許さず、最後まで戦って死ねと命令した。六月一一一二日、将軍らは住民の保護について米軍と交渉することもせず、砲 煙弾雨のなかに放置したまま自決した。牛島中尉は六月一八日に解散命令を発したが、長田さんは栄養失調で意識が 膝膿として倒れていたため全然知らなかったという。しかし、解散命令が出たあとも元気な学友は前線を突破して米 軍の後に回り、後から攻陸軍をしなさいという命令があったことを戦後聞いた。牛自問中尉が六月二三日に自決したこと も 知 ら な か っ た 。 それから二,一二日、長田さんはかろうじて生きていた。背中をボンボンル﹂叩かれゆっくり後ろを振り向いてみたら 赤鬼の米兵が三人自動小銃をかまえて立っていた。銃を乱射して、足をつかんでひっぱりだしてあれこれ話していた。 米兵は上半身裸、顔は真っ赤に日焼けして、胸毛いっぱい髭もいっぱいだった。しばらくして背の高い兵隊が水筒の 水 を 差 し 出 し た が 、 飲 ま な か っ た 。 飲 め な か っ た の だ 。 飲 む 一 元 気 も な か っ た 。 そ し た ら 二 人 の 米 兵 が 回 し 飲 み を し て 、 それからまた差し出した。︼人の米兵が私の後ろにまわって飲ませようとした。元気があれば必死に飲んだだろうけ ど口をだらりと開けるので精一杯だった。米兵は少しづっ長田さんの口にチヨロ、チヨロ、チヨロと三回にわけて水を入れたが、水を飲み込む体力もなかった。米兵は笑って銃を構え、二人の米兵に両手をつかまれて連れて行かれた c 学友からは﹁お前が捕虜になったのは六月二五日だ﹂ご一八日だ﹂と言われるが長田さんは六月三六日だと思ってい 見 ︺ て 八 。 長田さんは一九四五(昭和二十)年六月一一六日に捕虜になってから四,五日は米軍の野戦病院で治療を受け、それ からハワイの収容所に連れていかれた。当時米軍は沖縄の風土病にたいへん神経を尖らせていて、三ヶ月ほど隔離さ れたという。捕虜になったとき名前を書きなさいと言われ、長田さんはローマ字で書いた。捕虜になってしまい国賊 扱いされるととを恐れ、自分の身分を隠そうとしたのだ。当時日本人でローマ字を書けたのはほんのわずかだったの で、それが速のつきだった。ハワイの日系二世もヨーロッパ戦線に徴集され日本語が上手に話せる人が少なくなって いたため、通訳の養成を受けた。朝九時から一一一時までと午後一時から三時まで英会話の特訓をし、それが終わった ら五時までもう戦争は終わったから出て来いという投降の宣伝ピラ作りをした。そのピラはおそらく日本の本士で撒 か れ た 待遇はとてもよく、おいしいご飯とパインジュースやアップルパイ(果実パイと呼んでいた)などのおやつ、そし て三五セントの手当まで受けた。その二五セントでコ
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ラを五本買うことができた。サイパンで捕虜になった大学卒 の仲間も二人いて、ハワイでの生活はなかなか楽しかったようである。 日本の敗戦を知ったのは一九四五(昭和二O
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年八月一八,一九日頃だった。花火が上がったりいろんな音がした ため、日本がハワイに逆襲して爆弾を落としているのではと心の中で喜んだ。後で敗戦を知ったが、悔しいとか戦争 が終わってうれしいといった感情はまったくなかったという。ただ日本に帰って親や兄弟が生きているのか確認した かったを[ 戦 後 ] ハワイの収容所に一年七,八ヶ月収容され、一九四七(昭和二二)年一八歳のとき日本に一民った。浦賀に着くと本 土の人間と沖縄の人間は区別され、福岡の沖縄事務所を経由して沖縄に一戻ってきた。一九四五(昭和二
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年十月に は収容所から指定地への住民移動が始まっていたので、長田さんはまっすぐ今帰仁に帰ることができた。今帰仁はア メリカの箪用地に接収されていなかったが、道路の幅が広がっていて様変わりしていたという。以前家があった場所 には米軍のテントが張つであり、そこで母は夕飯の支度をしていた。﹁お母さん﹂と声をかけても母は何も一言わなかっ たが、しばらくすると﹁勝男か、勝男か﹂といって抱きついてきた。畑仕事をしていた父もすっ飛んできた。長田さ んはもう死んだものと位牌がつくられていた。沖縄はまだ焼け野が原の状態で、衣食住に困り果てていた。家は米軍 の使い果たされたテントが瓦礁で建てられ、野草を炊いて食べていた。ハワイでの収容所生活の方があきらかに豊か だったが、それでも沖縄に戻ってこれて本当にうれしかったという。それから三週間後くらいに、長田さんはマラリ アにかかった。戦後も沖縄ではマラリアが蔓延し、長田さんが戻ってきてからも毎日誰かが死んでいった。高熱に苦 しめられたが、米軍から支給されたキニーネという薬を飲んで回復した。 しばらくしてから恩師に先生が足りないから先生をしてくれないかと頼まれた。長田さんは師範学校を卒業してい ないから一度は断ったが、一時の聞でもいいからと懇願され小学四年生を受け持った。学校といっても立派な校舎は なく、掘っ立て小屋で米軍の弾薬箱が机だった。教科書もなく子どもたちの学力低下は著しかったため、放課後子ど もたちを残して夜の八時まで勉強させたという。長田さんは、やはり高等学校も卒業していなかったので名護高校の 編入試験を受けて合格したが、同級生はみな四年生だったのに長田さんだけ三年生だった。﹁四年生に入れてくれ﹂と 頼んだが承諾されなかったので、今度は石川高校の編入試験を受けて四年生に入れてもらい、それからすぐに転校証 明書をもらってまた名護高校へ転校した。そして名護高校を卒業してから、元の小学校に仮教員として勤め始めた。そとの小学校は港の近くであったため、時々船から降りた米兵が運動場で遊んでいた。長田さんが英語で話し掛ける と米兵は驚いて、どこで習ったのかと聞いてきた。ハワイの収容所で習ったと告げると教員の給料よりもいい職業を 紹介してあげると言って、沖縄の中部に連れていかれた。そして米軍の高官に沖縄の歴史や地理を教えるゲスタ
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ズ ハ ウ ス で H 年くらい働いたという。給料はいいし、食事も豪華、コl
ラも飲み放題で豊かな生活だった。 一九四九(昭和二四)年長田さんは一つ年上で学校の教員だった道子さんと結婚する。二人とも独身で何でも話し 合える仲ではあったが、恋愛ではなかったし結婚なんてまったく考えていなかった。しかし二人で遊びに行ったりす ると、当時沖縄はまだ封建的であったため村中で噌がたつでしょうがなかった。 ある晩長田さんは道子さんのお父さんに呼びだされた。 ﹁お前うちの娘と仲が良いと評判だが、あんたたち二人は結婚を前提にして付き合っているのか、それともただの 友 達 な の か は っ き り 言 一 い な さ い ﹂ 長田さんはあっけにとられてしばらく返事が出来なかった。 ﹁ た だ の 友 達 で す ﹂ ﹁友達にもいろいろある。将来を約束している友達なのか、それともただの友達なのかはっきりせい。もしもただ の友達なら絶対にダメだ。結婚を前提に付き合うのならばおおいに付き合ってよろしい﹂ 長田さんの家は貧乏だったが道子さんの実家はかなりの金持ちで、天と地の差があった。﹁二,三日考えさせてくだ さ い ﹂ ﹁ 今 す ぐ に 答 え な さ い ﹂ ﹁ そ し た ら お 宅 に お ま か せ し ま す ﹂ ﹁何ぃ、僕に任せるとはどういうこと、だ。僕が結婚するんじゃないだろうが。あんたが結婚するだろうが﹂長 田 さ ん は 困 り 果 て た 。 ﹁おい道子ちょっと来い。お前勝男と結婚するつもりなのか、それともただの遊びかどうかはきりせい﹂ 道子さんも返事に困り、二人で相談して決めることで何とかその場は納得してくれた。それから二人は恋愛が始ま り 結 婚 し た と い う 。 道子さんはとても明るい性格で夫婦喧嘩らしい喧嘩はしたことがないという。子どもたち(道男、正己、利津子) には﹁いい成績をとるとかいい仕事につくとか考えなくていい。大事なことは人に迷惑をかけないように生きていく こ と 、 そ し て あ い さ つ の で き る 人 間 に な り な さ い ﹂ と 言 い 聞 か せ た 。 あ い さ つ は 相 手 と 自 分 を 近 づ け る 一 番 短 い 善 一 一 ロ 葉 であり、自分が悪いときは素直に頭を下げ、相手からはありがとうと頭を下げられる人間になりなさいと教えた。 結婚後、教員養成学校、琉球大学の夜間に通って教員免許状を取得し、一九五二(昭和二七)年正式な小学校の教 員になった。教員時代一番思い出深いのは、﹁第二次世界大戦と沖縄戦﹂という戦争体験の脚本を書いて子どもたちと 劇を作り、当時の戦争の悲惨さを人々に訴えたことだという。学校の先生の生きがいは校長先生や教頭先生、教務主 任でもなく学級担任の先生だと長田さんは思っている。学級担任は自分が考えていることを子どもたちに教えること ができるし、自分ができなかったことを子どもたちにさせることができる。自分の前に子どもがいて先生であり、先 生の楽しさを味わうことができるという。 しかし教員という職業は楽しいことばかりではなかった。教え子が立ち入り禁止の川にフナを捕りにいき、足を滑 らせて溺れ二人亡くなったのだ。教師としての最高の悲しみであり苦しみを味わった。責任をとって辞めようと恩っ ていたが、学校を休んでいると教え子たちが﹁先生、いつ学校に一戻ってくるの。みんな待ってるよ﹂と何回も見舞い に来てくれた。校長先生や教頭先生からも﹁残った子どもたちのために元気を出してください﹂と励まされて学校に 復帰した。それからは﹁人間は元気に生きることが一番大事だよ﹂と子どもたちに常に教えるようになった。
また、教員時代は沖縄の士地関争の真つ只中で長田さんも反対運動をした。デモを何十回とおこない、スクラムを 組んで米軍のブルドーザーの前に立ちはだかった。一九五九(昭和三四)年の祖国復帰促進県民大会での基地拡張反 対、核持ち込み反対といったスローガンが非常に印象に残っているという。ハワイから沖縄に戻ってきてしばらくは、 生きていくととが精一杯で米軍の占領には何も感じなかったし、対立したところで改善されるという期待もなくあき らめの気持ちがあった。しかし、長田さんは一九五五(昭和三二年の﹁由美子ちゃん事件﹂を機に反米、視国復帰 の感情を抱くようになった。﹁私たちは日本国民なのにどうして米軍から統治されているんだ。日本に復帰して当然だ﹂ と学校でも子どもたちに話をし、教職員組合で各家庭に日の丸を購入、掲揚することを奨めた。しかし、復帰した途 端に教職員'組合を含め、沖縄全土で反日の丸、君が代の運動がおこった。﹁日本の日の丸は血に染まった侵略の旗だと いう教員がいたが、そうであるならば私は教員として侵略の旗から平和の旗へとしていく責任があると思った。泣き すがって掲揚しないでくれと言う教員もいたが、学校行事ではいつでも国旗を掲揚した﹂という。毎日嫌がらせの電 話がかかり、新簡には日の丸先生と非難された記事が載った。それでも長田さんは教員としての責任を貫き通した。 ﹁ 反 省 な く 過 去 を 云 々 一 言 つ で も し ょ う が な い で し ょ う 。 そ と に は 前 進 が な い ﹂ と 語 る 。 語り部をしようとはまったく恩わなかったという。しかし社会科の時聞には戦争の話をよくしていた。教え子たち が大学をでて社会人になったとき﹁先生、先生は沖縄戦を体験したんだからみんなに伝えていかないとだめだよ﹂と いう教え子たちからの要求があって、気持ちが変わった。沖縄県では六月二三日周辺を沖縄の平和週間、平和月間と いうのが設けられていて、自分の学校はもちろんのこと各学校から要請があれば沖縄戦の体験談をするようになった。 しかしどうしても触れられない体験があった。孫を助けてくれと懇願されたが見捨てて逃げることしかできなかった 事実。大阪の中学生が修学旅行に来たとき﹁長田さん、沖縄戦を体験したんだったら、本当に体験したことをちゃん ど話してください。生の体験を聞かせてほしい﹂と先生に要求され、勇気を出して胸の内にしまい込んだ体験を語り
始 め た 。 その後県庁に勤めている教え子たちに沖縄平和ガイドの養成講座の講師としてしょっちゅうかり出され、沖縄県観 光ボランティア友の会のガイドやパスガイド、タクシーの運転手に沖縄戦の講話をするようになった。 現在長国さんは、沖縄県観光ボランティア友の会の会長を務め、自ら平和ガイドの活動をして忙しい毎日を送って いる。趣味が多彩でボーリングやゴルフ、短歌に俳句を詠むこ止を楽しんでいる。また、園内では新潟と福島以外の 都道府県、国外もヨーロッパやカナダなど一三ヶ国を観光するほどの旅行好きである。 故郷の今帰仁については、友達と駆け回った回んぼの畦道は宅地になったり交通整備が進み当時の面影はだんだん なくなってきている、と残念そうに見えた。若者が集まりにぎやかな国際通りも、以前は沖縄独特のガジュマルの木 がおおい茂りふくろうが鳴いていた。 そのような光景は北部の山原(ゃんばる)でしか見ることができなくなっている。また、米軍基地によって住民が狭 いところに押し込められ、米兵による犯罪に怯えて生活していることにも﹁米軍基地がなくなれば沖縄はもっと広々 として、観光地としてもいろんなことができる。どうして外国の軍基地が沖縄にあるのか﹂と不満をもっ。 ﹁私は戦争で死ぬベき命が生き抜いてきた。その恩返しを子どもたちのために、社会のために尽くすことができる ような先生になろうと思っていた﹂と長田さんは語る。退職してから一六年経つが一ヶ月間すら長々と働かなかった ときはないという。三月三一日に退職して四月末から教育委員会や平和ガイド養成講座の講師、平和講和などですぐ に 働 い た 。 自衛隊のイラク派遣については﹁絶対に反対。他国の軍隊が駐在しても何の解決にもならない。捕が飛び交うとこ ろに平和なんて訪れない﹂と主張する。戦争放棄という素晴らしい憲法があるのに改憲の声が高まりつつある今、時 代は逆流し歴史が繰り返されるのではとないかと心配している。
﹁私に終戦はありません。今でも戦争と戦っています。私の青春時代は戦争一色で苦難な日々でした。二度と若者 たちに自分と同じ体験をさせたくない。今伝えなければ誰が伝えるんだという気持ちで話しています﹂。長田さんは自 分が体験した沖縄戦、その事実と悲惨さを語り伝えていくことは生かされた者の責任だと思っている。亡くなった学 友の冥福を祈るつもりで現在の活動をおこない、その責任を果たそうとしているのだ一♀ (二)元看護学生・久場千恵さんの場合 [ 戦 前 ・ 少 女 期 ] 久場千恵さんは一九二九(昭和四)年三月十日、大阪で生まれた。父(千代治)も母(カナ)も沖縄県今帰仁村の 人だったが、当時沖縄は非常に貧しく出稼ぎで大阪に移ってきたという。まわり近所もほとんど沖縄の人だった。父 は水道管のパイプや蛇口を造る会社に勤めていた。兄(千蔵)が一人いたが沖縄の祖父母にあずけられたままで、兄 との生活はほとんど記憶にない。三,四歳の頃障子の桟にはさまっていた二五銭を取って、友達とこっそり駄菓子屋 でお菓子を買ったがすぐにパレて怒られた。アメ玉が好きで、千歳飴や重曹が入った茶色いアメをよく食べていたと い λ ノ 。 小学校は今宮第五(現、橘)小学校に通った。家からは第六小学校が近かったが、そこには朝鮮人が多く通ってい たため懸念された。一年生の時伊集院公子先生という髪が長くて袴を着た締麗な人が担任になったが、島袋(旧姓) と い う 苗 字 を 変 な 名 前 主 一 一 一 口 わ れ 嫌 い に な っ た 。 こ の 頃 明 仁 親 王 ( 現 、 平 成 天 皇 ) が 誕 生 し 、 街 中 大 騒 ぎ だ っ た と い う 。 昼は旗行列、夜は提灯行列、学校では皇太子殿下がお生まれになったという歌を作って踊った。久場さんは何となく 喜ばしいことだなと患っていた。成績はいいほうではなかったが、大阪での生活はとても楽しかった。今までで一番
幸 せ だ っ た と い う 。 妹(愛子、典子、美千代)が生まれた頃、一九二九(昭和四)年より始まった恐慌で大阪から沖縄へ引き揚げるこ とになった。久場さんはことから悲しみは始まったと語る。沖縄まで船で引き上げた。岸壁から船に乗るとき、下か ら見える波が怖くて大声で泣き誰かに剖引っ張られるようにして乗船した。船室というよりは貨物室のような船底のマ スメ席でごろ寝、そして大勢の人の臭い、油の臭い、吐いた臭いが混ざったような臭いがしてとにかく臭かった。し ばらくしてから一人で甲板に出てみたら、波の高さに驚き恐怖を感じた。沖縄に帰ることはわかっていたが、もう大 阪に戻れないということは考えていなかった。 久場さんにとって今帰仁はとにかく怖いところだった。茅葺の屋根からねずみを追いかけてハブが入つできたり、 野いちごや山桃を採っているときもハプを恐れていた。蚊がものすごく多くて日本脳炎が流行り、豚やヤギと一緒に 住んでいるような屋敷で不潔だった。そして今帰仁に来てから弟(健治、勝則、明治)が三人生まれて大所帯となり、 生活もさらに苦しくなった。大阪に帰りたくて帰りたくてしかたなかった。 一九三九(昭和十四)年、沖縄県は﹁沖縄県教育綱領﹂の冒頭に標準語励行をかかげ、県民運動を展開した。軍国 主義の高まりとともに、皇国臣民であることを証明する政策であった。久場さんは沖縄に来た当初関西弁しか話せな かったが、悪いことは先に覚えてしまうもので﹁痛いつ?﹂という一言葉を﹁あがっ 1 ﹂と沖縄語で言ってしまい方言 札をかけられたという。とてもプライドが傷付いた。自分がかけられた札は他人が沖縄諮を話しているのを見つけな いとはずすことができず、何とかして方言を見つけようと必死だった。先生が監督するわけでなくお互い同士が取り 締り、誰がスパイかわからなかったそうである。正月や天皇誕生日、紀元節などの行事があるときは普段は奉安殿に 納められている天皇の御真影と教育勅語を取り出してきていた。でも御真影を見ることは絶対に許されていなくてみ
んなうつむいていた。久場さんはどうしても見てみたくてちらちらと上目遣いをしていた。当時は鼻ったれが多くて、 ずっとうつむいているもんだから鼻水が出てきてすする音があちこちから聞こえていた。教育勅誼聞を読み上げて最後 に御名御璽と言うまで顔を上げることはできなかった。私たちは天皇の子 Y ﹂ も だ か ら 天 皇 の 命 令 は 絶 対 に 従 わ な い と いけないと教えられ、そのとおりに覚えて暗唱させられた。しかし、教育勅語のすべてが悪いとは思わないという。 少しはいいことも書いであって、今の子どもに身につけさせたら少年犯罪などおきないのではと久場さんは語る。 小学校六年生の頃から久場さんは何とかして沖縄から飛び出したいと考えるようになった。友達が買った婦人雑誌 をみんなで屈し読みをしていると、日本赤十字沖縄県支部看護養成所の募集要項を見つけた。﹁日本赤十字社は独特だ った。必ず軍隊と一緒に行動し、敵味方関係なく傷ついている者は全員救うという精神だった。私はそれを読んでと ても感動した﹂と久場さんは語る。しかも官費六十円支払われ、一ニ食付きという条件の良さだった。国民学校高等科 を一九四三(昭和十八)年十四歳で卒業し、十五歳のときに看護養成所に入学した一て o ︹ 戦 中 ︺ 看護養成所では県立病院の看護婦、日本医療団の看護婦、助産婦、日本赤土子社の看護婦という四つの団体の養成 をしていた。県立病院の看護婦は県立病院、日本医療団の看護婦は結核療養所、助産婦さんはそのまま残ったり地方 の病院に派遣される予定だった。日本赤十字社は一期上まで陸軍病院や中園、満州に派遣されていたが、久場さんた ちは沖縄戦に備えてか、初めて野戦病院に派遣された。勉強半ばで派遣され、とても残念だった。野戦病院に派遣さ れることを通達されたときは、沖縄に米軍が上陸して戦争が始まるという感覚はなかったという。いつか戦場に行か なくてはならないとは思っていたが中国や満州を意識するだけで、まさか沖縄で戦争に巻き込まれるとは夢にも思わ なかった。もっと勉強したかったが拒否しようしどいう気持ちはなく、使命感すら感じたという。久場さんは﹁今考え
ると皇民化教育の結果でしょうね﹂と語る。上から命令されたことを拒否すると国賊とみなされ、ただまともに受け る だ け だ っ た 二 G 一九四四(昭和十九)年七月のサイパン玉砕にともない、政府は南西諸島の老幼婦女子・学童の疎開を決定し、沖 縄県に対しては十万人の疎開を命令した。しかし、沖縄近海にはさかんに米潜水艦が出没しはじめ、嘉義丸、湘南丸、 富山丸、宮古丸など県民になじみの深い航路船が次ずと魚雷の餌食になっていた。また政府の疎開計画と現地軍の根 こそぎ動員の間に矛盾があって、疎開業務はうまく進まなかった。 同年八月一一一日に第一回の学童疎開船として那覇港を出港した三隻の疎開船は、二隻の駆逐艦に護衛されながら危 険な海域を鹿児島に向っていた。翌二二日、船団は敵潜水艦の攻撃を受け、最も船足の遅い老朽船の対馬丸が三発の 魚雷を喰ってトカラ群島沖で撃沈された。学童たちは暗い海に放り出され、学童だけでも死者七五八人を数えた一一↓石 一九四四(昭和十九)年十月十日、南西諸島は米機動部隊の猛烈な空襲を受けた。米艦載機による攻撃は五波、延 べ一千余機におよび、県都那覇市はじめ各地の飛行場や港湾施設に大きな損害をあたえた。空襲の犠牲者は軍民合わ せて死者六六八人、負傷者七五八人におよんだ。 この突然の大空襲は守備軍の無能、無力を県民の娘前に露呈させてしまった。﹁無敵皇軍﹂を豪語する友軍が敵の来 襲も探知できず、大損害を受けたのである。官民の問に軍への不信感、厭戦気分が流れたことは無理もなかった。﹁沖 縄は見捨てられた﹂という感情が県民の間に疎開気分をかきたて、翌年三月までに九州へ六万人、台湾へ二万人が疎 開 し て い っ た 一 一 回 。 首 里 械 の 近 く に は 酒 屋 で 裕 福 な 家 が た く さ ん あ り 本 土 へ 疎 開 し て い た た め 、 空 家 が た く さ ん あ っ た 。 久場さんが従事した野戦病院はそこを借りきっていたが、爆曲事が激しくなってそこに居られなくなると防空濠を転々 と し た と い う ご 苓 久岨輔さんは小池という軍医中尉のそばで働いた。野戦病院に運ばれてくる患者はみんな重症だったので、すぐに手
足を切り落とさなければならない状態だった。小池箪医はずっ左手足を切っていた。切った手足はチリ箱に入れて外 に出しておくと、もう翌日には爆撃を受けて吹っ飛んでなくなっていたりした。包帯も薬も麻酔もなくなり、治療を するとき患者は大暴れした。皮膚の近くに神経が残っていると後々痛がるので、体のなかから神経をひっぱりだして 切り落とすと大暴れしていた人が気絶してしまった。小池軍医は﹁この方が暴れないから仕事をやりやすい﹂と独り 言のようにつぶやいていた。骨を切り落とす時はのこぎりで切り落とした。処置をしても傷口から組虫が品開いて膿を 吸い取ってものすごく痛がる c とにかくはやく診てくださいとせがまれ、注射器で流そうとしたが全部は取れなかっ た。骨のあいだに姐虫が湧いているときはピンセットで引っ張り出した。 久場さんは衛生兵から﹁もう重症で歩けないから、とれを注射してきでくれ﹂と言われた。先に入っていた同僚が ﹁だめ!打っちゃだめ!﹂と言っていた。注射を打たれる患者はとても酒好きでモルヒネでは麻酔がきかなかった。 ﹁ あ
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いい気持ちだった。もう一回打ってくれ﹂と起きたが、しばらくすると死んでいた。野戦病院を移動する時、 重症患者をおんぶして歩き回るわけにもいかないし、足を切られた人はもう這っていた。 野戦病院には五月二七日に撤退命令が出ている。最後に持たされたのは軍人の靴下一杯づっの米だった。第一陣で =一人の同僚と数人の兵隊と一緒に療を出たが道を間違えて第一線の方に行ってしまった。引きかえしてくる途中砲弾 が飛んできて同僚の体を貫通した。﹁起きてつ﹂と叫んだが起きず、自の前で即死した。医療看護生も野戦病院を移 動するたびに死んでいった。医療関係者は圧倒的に少なくて残った人数で補っていた。追われっぱなしでお腹が空い たなんて考えられなかった。カンパンをお腹が空いたことに気づいたら食べた。おにぎりが出ることもあったが自分 の手元にくるまでに腐っていることもあった。痩せているのか太っているのかまったくわからなかった。生理が止ま ったが止まっていてよかった、止まらなければ地獄だったという。防空壕が少し窪んだところに寝たりしていた 野戦病院にも最初は二段ベッドもあったが、どんどん患者が運び込まれてくると足りなくて地べたに寝かせた。久場さ ん た ち は ま と も に 是 を 伸 ば し て 寝 る こ と は で き ず 、 少 し 窪 ん だ と こ ろ に 座 っ て 寝 る し か な か っ た -一 六 。 生 き て い る 同 僚は四人だったがみんな別々で、誰と Y ﹂こをどう歩いたか全然記憶がない。常に一人だったような気もするし、誰か と 一 緒 だ っ た 気 も す る と い う 一 一 七 。 と の 撤 退 作 戦 に は 大 き な 犠 牲 が と も な っ た 。 傷 病 兵 の 処 置 で あ る 。 残 存 兵 の な か に は各地の野戦病院に収容された傷病兵が約一万とみつもられていたが、これらの﹁廃兵﹂を喜屋武半島まで担送でき る余力はなかった。目的地には収容施設もないし食糧も残り少ない。そこで、作戦の足手まといになる重症患者は手 檎弾と毒薬で措置するという決断がくだされた。久場さんは﹁自分の身が危なくなってくると、人の死に慣れ何も感 じ な く な っ て き た ﹂ と 語 る 。 久場さんは南部の米須村米須防空壕で擬装している父に偶然会った。父は正式な軍人ではなく現地徴集される防衛 隊に入っていた。連れて行ってとは言えないし、父も連れて行くとは言えない。﹁誰かに会いたいとか家に帰りたいと か、生きのびたいという気持ちを持つてはいけなかったんです。皇民化教育の成果ですよ﹂と語る。父は﹁体に気を つけて行きや﹂と関西弁で言って去っていった。戦後、久場さんは別れた父を偲んで詩を詠んでいる。 帰 ら う よ 故 里 へ 春 看取られることもなく只一人 戦場の露と消えし父 四十路の道もなかばにて 去りし御霊よ何処へか
手に触れたくも自に見えづ 心残りもしみじみと マブニが里の春がすみ おだやかなれど母の待つ あなたの家へ帰らうよ 夏 硝煙のたちけぶりたる米須村 出会いし日より忘れえず 涙に濡れしその面影 ﹁ こ の 時 局 仕 方 が な い ﹂ と 子を残し去り行く姿哀れなり マプニが塁の夏の日は 想い出すのも苦しすぎ 消せるものなら忘れたい 父よさあ帰らうよ あなたの故里今帰仁へ 秋
少しばかりの幸福も 踏みにじられて生命迄 断たれし戦世の慣わしは 誰に語りて癒やされよう このくやしさを悲しさを 晩秋のマブニが皇の芝露は さぞ冷めたからう寒からう 仏の御手に抱かれて さあ帰らうよ故里へ 父母の鎮もるあなたの家へ 朱 、 星の降る冬空のマプニの塁は 幾重にも寂審深かく影おとし 礎に刻まれし名も悲しかり 老いし母の齢も百年近く 背負いし苦労も昔のはなし はらから集いですぎし日の 想出語り夜も更けて