• 検索結果がありません。

訳注日本文徳天皇実録(一)

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "訳注日本文徳天皇実録(一)"

Copied!
16
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

訳注日本文徳天皇実録(一)   本稿は、二〇一八年の十月頃から四人で輪読してきた成果の一部を、 発表するものである。輪読会が始まった経緯などについては、全巻完 結の際に記すこととして、今回はとりあえず簡単な凡例のみ掲げるこ ととしたい。 ・底本は新訂増補国史大系本を用いた。 ・字体は原則として常用漢字を用いる。 ・ 六 国 史 及 び ﹃ 類 聚 国 史 ﹄﹃ 日 本 紀 略 ﹄ に つ い て は 、 原 則 と し て 出 典 を記さず、 ﹁ 年月日紀 ﹂ とする。 ・﹃ 公 補 任 ﹄ は ﹃ 公 ﹄ と す る な ど 、 史 料 名 は 省 略 す る こ と も あ る 。 類推されたい。 ・辞典や先学の研究に負うところも少なくないが、いちいち典拠は記 していない。ご海容を請う次第である。   輪読自体はすでに巻一を終えて巻二に入っているが、紙幅の都合上、 今回は嘉承三年三月いっぱいとした。続きも追って発表する予定だが、 四人ともに斯様な作業は初めてなので、忌憚なきご批正・ご示教を賜 れば幸いである。   なお、原稿作成においては、中村・林原両氏の尽力を得た。 ︵告井︶   日本文徳天皇実録巻第一   起嘉祥三年三月尽六月 ●即位前紀 【書き下し】 ① 文 徳 天 皇 、 諱 は 道 康 、 仁 明 天 皇 の 長 子 な り 。 ② 母 は 藤 原 氏 、 ③ 贈 太 政 大 臣 正 一 位 冬 嗣 の 女 な り 。 年 十 六 、 ④ 承 和 九 年 八 月 乙 丑 、 立 ち て 皇 太 子 と な る 。 ⑤ 嘉 祥 三 年 三 月 己 亥 、 仁 明 皇 帝 、 清 涼 殿 に 崩 ず 。 ⑥ 時 に 皇 太 子 、 殿 を 下 り 、 宜 陽 殿 東 庭 の 休 廬 に 御 す 。 ⑦ 左 右 大 臣 、 諸 及 び 少 納 言 ・ 左 右 近 衛 少 将 等 を 率 い 、 ⑧ 天 子 神 璽 ・ 宝 剣 ・ 符 節 ・ 鈴 印 等 を 献 ず 。 ⑨ 須 臾 に し て 輦 車 に 駕 し 、 東 宮 雅 院 に 移 御 す 。 ⑩ 陣列の儀、一らに行幸に同じ。但し警蹕無し。 ︿史料紹介﹀

訳注日本文徳天皇実録︵一︶

  

  

  

みどり

  

由美子

(2)

史   窓 【現代語訳】 文徳天皇、名前は道康といい、仁明天皇の第一子である。母は藤原 氏で、贈太政大臣正一位藤原冬嗣の娘である。十六歳になった承和 九年八月四日に、皇太子に立てられた。嘉祥三年三月四日に、仁明 天皇が清涼殿で崩御した。その際、皇太子は清涼殿から退下して、 宜陽殿東庭の休廬に移った。左右の大臣が、公たち、そして少納 言、左右の近衛少将等を率いて、天子の神璽・宝剣・符節・鈴印等 を献上した。しばらくして輦車に乗り、東宮雅院に移った。行列の 様は行幸の際と同じであったが、警蹕は無かった。 【注釈】 ① 文 徳 天 皇   ︵ 八 二 七 │ 五 八 ︶ 皇 太 子 正 良 親 王 ︵ 仁 明 ︶ の 長 子 。 二 十四歳。 ② 母 は 藤 原 氏   藤 原 順 子 ︵ 八 〇 九 │ 七 一 ︶。 順 子 の 母 は 藤 原 真 作 の 娘、尚侍美都子。正良親王︵仁明︶の室となり、天長四年︵八二 七︶八月、十九歳で道康︵文徳︶を生んだ。同十年、仁明の即位 と共に女御となり、従四位下に叙された。承和九年︵八四二︶八 月、皇太子恒貞親王の廃太子により、道康親王が仁明の皇太子に 立 っ た ︵ 承 和 の 変 ︶。 同 十 一 年 正 月 辛 卯 ︵ 八 日 ︶ 従 四 位 下 か ら 従 三位。四十二歳。 ③ 贈 太 政 大 臣 正 一 位 冬 嗣   ︵ 七 七 五 │ 八 二 六 ︶ 右 大 臣 内 麻 呂 の 第 二 子。母は飛鳥部奈止麻呂の娘、女孺百済永継。桓武皇子良峯安世 とは異父同母である。天長三年︵八二六︶七月己丑︵二十四日︶ 薨 去 。 五 十 二 歳 。 翌 辛 卯 ︵ 二 十 六 日 ︶、 勅 使 が 深 草 の 別 業 に 遣 わ され、正一位が贈られた。山城国愛宕郡深草山で火葬された。太 政大臣を贈られたのは、本年七月壬辰︵十七日︶ 。 ④ 承 和 九 年 八 月 乙 丑 、 立 ち て 皇 太 子 と な る   同 日 紀 に 、﹁ 公 重 上 表︵中略︶伏願、准的旧儀立為太子︵中略︶是日、立皇太子︵後 略︶ ﹂ とある。 ⑤嘉祥三年三月己亥、仁明皇帝、清涼殿に崩ず   同日紀に ﹁ 帝崩於 清涼殿。時春秋四十一 ﹂ とある。 ⑥時に皇太子…   二月庚戌朔紀に ﹁ 聖躬不予。皇太子侍殿上。公 尽 候 ﹂ と あ る 。 宜 陽 殿 東 庭 休 廬 は 、 平 安 京 内 裏 の 日 華 門 の 東 に あった皇 み こ や ど り 子宿︵御輿宿、御子宿とも︶のこと。同日紀には ﹁ 諸衛 府禁衛厳密。左右近衛少将各一人率近衛等、陣於皇太子直曹 ﹂ と ある。 ⑦ 左 右 大 臣 …   二 月 庚 戌 朔 紀 に は 、﹁ 参 議 従 四 位 上 左 兵 衛 督 藤 原 朝 臣助、率左右近衛少将・々曹等 ﹂ とあり、左右近衛少将はみえる が 、 左 右 大 臣 ︵ 左 大 臣 源 常 、 右 大 臣 藤 原 良 房 ︶、 参 議 以 外 の 公 のことはみえない。一方、将曹は本条にみえない。また少納言に つ い て は 同 日 紀 に 、﹁ 散 位 従 五 位 下 小 野 朝 臣 千 株 ・ 少 納 言 従 五 位 下県犬養宿氏河監鈴印櫃 ﹂ と具体的な人名がみえる。養老職員 令 に よ る と 、﹁ 少 納 言 三 人 。 掌 奏 宣 小 事 、 請 進 鈴 印 伝 符 、 進 付 飛 駅函鈴、兼監官印 ﹂ とある。 ⑧ 天 子 神 璽 ・ 宝 剣 ・ 符 節 ・ 鈴 印 等 を 献 ず   二 月 庚 戌 朔 紀 に も 、﹁ 齎 天子神璽・宝剣・符節・鈴印等、奉於皇太子直曹 ﹂ とあり、ほぼ 一致している。天子神璽は養老公式令に ﹁ 天子神璽。謂、践祚之 日寿璽、宝而不用 ﹂ とある。符節は固・解関などの時に用いる関

(3)

訳注日本文徳天皇実録(一) 守 従 四 位 下 滋 野 朝 臣 貞 雄 ・ ㉖ 宮 内 少 輔 従 五 位 下 橘 朝 臣 伴 雄 等 、 ㉗ 六 位 已 下 三 人 を 、 養 役 夫 司 と な す 。 ㉘ 山 城 守 従 四 位 下 茂 世 王 ・ ㉙ 右 京 亮 従 五 位 上 橘 朝 臣 枝 主 等 、 ㉚ 六 位 一 人 を 、 作 路 司 と な す 。 中 納 言 従 三 位 源 朝 臣 弘 を ㉛ 前 次 第 司 の 長 官 と な し 、 ㉜ 治 部 少 輔 従 五 位 下 藤 原 朝臣松影を次官となす。六位已下各二人を以て、判官・主典となす。 ㉝ 参 議 宮 内 従 四 位 上 滋 野 朝 臣 貞 主 を 後 次 第 司 の 長 官 と な し 、 ㉞ 従 五位下橘朝臣永範を次官となす。判官・主典は前と同じ。是の日、 ㉟ 散 位 従 五 位 上 高 階 真 人 清 上 ・ ㊱ 従 五 位 下 藤 原 朝 臣 緒 数 等 を 遣 わ し 、 ㊲ 諸 衛 を 率 い て 左 右 の 兵 庫 を 監 護 せ し む 。 ㊳ 京 畿 七 道 を し て 挙 哀 の 礼 を 成 す こ と 、 限 る に 三 日 を 以 て す 。 ㊴ 喪 服 の 期 は 、 日 を 以 て 月 に 易 え し む 。 ㊵ 式 部 省 百 寮 を 率 い 、 紫 宸 殿 の 前 に 於 い て 挙 哀 す 。 公 及び侍臣以下東宮に於いて挙哀す。 【現代語訳】 二十二日。縁葬の諸司を定めた。中納言従三位源朝臣弘・権中納言 橘朝臣峯継・参議従四位下伴宿善男・散位従四位上源朝臣生・弾 正大弼従四位下清原真人長田・左中弁清原真人岑成・左近衛少将従 五位上良岑朝臣宗貞・大蔵大輔藤原朝臣貞本・大外記外従五位下朝 原宿良道等と六位以下四人を、装束司とした。中納言従三位源朝 臣定・大蔵平朝臣高棟・参議従四位上藤原朝臣助・散位従四位下 正 躬 王 ・ 右 京 大 夫 従 四 位 上 源 朝 臣 寛 ・ 従 四 位 下 木 工 頭 興 世 朝 臣 書 主・散位従五位下文室朝臣笠科・勘解由次官山代宿氏益等と六位 以下四人を、山作司とした。後で中納言従三位安倍朝臣安仁・散位 従五位下藤原朝臣正岑・山口朝臣春方等を、追加で山作司に補任し 契。鈴は駅鈴。印は内印。 ⑨須臾にして輦車に駕し、東宮雅院に移御す   二月庚戌朔紀にも、 ﹁ 皇 太 子 御 輦 車 、 廻 於 東 宮 ﹂ と あ る 。 東 宮 雅 院 は 、 平 安 京 大 内 裏 に設けられた皇太子の御所。内裏の東、待賢門内の北にあり、春 宮坊の曹司もその中に置かれた。 ⑩陣列の儀、一らに行幸に同じ。但し警蹕無し   二月庚戌朔紀にも ﹁ 六 衛 府 陣 列 、 如 行 幸 之 儀 ﹂ と あ る 。 警 蹕 は 、 天 皇 の 出 御 ・ 入 御 などを知らせるために、近衛大将などが発する音声。 ﹁ おお ﹂﹁ お し ﹂ などと言ったらしい。   ︵告井︶ ●三月庚子(二十二日) 【書き下し】 庚 ︵ 廿 二 ︶ 子 。 ① 縁 葬 諸 司 を 定 む 。 ② 中 納 言 従 三 位 源 朝 臣 弘 ・ ③ 権 中 納 言 橘 朝 臣 峯 継 ・ ④ 参 議 従 四 位 下 伴 宿 善 男 、 ⑤ 散 位 従 四 位 上 源 朝 臣 生 ・ ⑥ 弾 正 大 弼 従 四 位 下 清 原 真 人 長 田 ・ ⑦ 左 中 弁 清 原 真 人 岑 成 ・ ⑧ 左 近 衛 少 将 従 五 位 上 良 岑 朝 臣 宗 貞 ・ ⑨ 大 蔵 大 輔 藤 原 朝 臣 貞 本 ・ ⑩ 大 外 記 外 従 五 位 下 朝 原 宿 良 道 等 、 ⑪ 六 位 以 下 四 人 を 、 装 束 司 と な す 。 ⑫ 中 納 言 従 三 位 源 朝 臣 定 ・ ⑬ 大 蔵 平 朝 臣 高 棟 ・ ⑭ 参 議 従 四 位 上 藤 原 朝 臣 助 ・ ⑮ 散 位 従 四 位 下 正 躬 王 ・ ⑯ 右 京 大 夫 従 四 位 上 源 朝 臣 寛 ・ ⑰ 従 四 位 下 木 工 頭 興 世 朝 臣 書 主 ・ ⑱ 散 位 従 五 位 下 文 室 朝 臣 笠 科 ・ ⑲ 勘 解 由 次 官 山 代 宿 氏 益 等 、 ⑳ 六 位 已 下 四 人 を 、 山 作 司 と な す 。 後 に 追 っ て ㉑ 中 納 言 従 三 位 安 倍 朝 臣 安 仁 ・ ㉒ 散 位 従 五 位 下 藤 原 朝 臣 正 岑 ・ ㉓ 山 口 朝 臣 春 方 等 を 以 て 、 ㉔ 重 ね て 山 作 司 に 補 す 。 ㉕ 前 丹 波

(4)

史   窓 た。前丹波守従四位下滋野朝臣貞雄・宮内少輔従五位下橘朝臣伴雄 等と六位以下三人を、養役夫司とした。山城守従四位下茂世王・右 京亮従五位上橘朝臣枝主等と六位一人を、作路司とした。中納言従 三位源朝臣弘を前次第司の長官とし、治部少輔従五位下藤原朝臣松 影を次官とした。六位以下各二人を、判官・主典とした。参議宮内 従四位上滋野朝臣貞主を後次第司の長官とし、従五位下橘朝臣永 範を次官とした。判官・主典は前次第司と同じようにした。この日、 散位従五位上高階真人清上・従五位下藤原朝臣緒数等を遣わし、六 衛府を率いて左右の兵庫を監護させた。京畿七道諸国で挙哀の礼を 行うのは、三日を期限とする。服喪の期間については、十三箇月を 十三日に代えさせた。式部省は全官人を率いて、紫宸殿の前で挙哀 を行った。公と侍臣以下は東宮で挙哀を行った。 【注釈】 ①縁葬諸司を定む   縁葬諸司は後述の装束司以下、葬送儀礼のため に置かれる臨時の官。 ﹁ 縁葬諸司 ﹂ の語は本日条を初見とするが、 この後、文徳崩御︵即位前紀、天安二年︵八五八︶八月乙卯︵二 十 七 日 ︶︶ に 際 し 、﹁ 公 於 蔵 人 定 縁 葬 諸 司 ﹂︵ 浄 教 房 真 如 蔵 写 本 。 国 史 大 系 で は ﹁ 送 葬 諸 司 ﹂ を 採 る ︶、 清 和 崩 御 ︵ 元 慶 四 年 ︵ 八 八 〇 ︶ 十 二 月 癸 未 ︵ 四 日 ︶ 紀 ︶ に も ﹁︵ 薄 葬 の 遺 詔 に 付 き ︶ 勿 任 縁 葬之諸司 ﹂ とある。 ② 中 納 言 従 三 位 源 朝 臣 弘   ︵ 八 一 二 │ 六 三 ︶ 嵯 峨 皇 子 、 母 は 上 毛 野 氏。弘仁五年︵八一四︶賜姓。宮内・刑部・治部等を歴任 し た 後 、 承 和 九 年 ︵ 八 四 二 ︶ 参 議 。 同 十 四 年 従 三 位 。 嘉 祥 元 年 ︵ 八 四 八 ︶ 中 納 言 と な り 本 日 条 に 至 る 。 三 十 九 歳 。 弘 は 先 の 淳 和 崩御の際も装束司を勤めている︵承和七年五月癸未︵四日︶紀︶ 。 ③ 権 中 納 言 橘 朝 臣 峯 継   ︵ 八 〇 四 │ 六 〇 ︶ 贈 正 一 位 右 大 臣 橘 氏 公 ︵ 嵯 峨 皇 后 橘 嘉 智 子 の 弟 、 承 和 十 四 年 ︵ 八 四 七 ︶ 薨 ︶ の 長 子 。 母 は 橘 継 麿 の 娘 。 承 和 九 年 蔵 人 頭 。 同 十 一 年 参 議 。 嘉 祥 二 年 ︵﹃ 公 ﹄ では三年︶従三位権中納言となり、本日条に至る。四十七歳。 ④ 参 議 従 四 位 下 伴 宿 禰 善 男   ︵ 八 一 一 │ 六 八 ︶ 伴 国 道 の 五 男 。 承 和 十四年︵八四七︶蔵人頭・右中弁。嘉祥元年︵八四八︶参議従四 位下となり本日条に至る。四十歳。 ⑤ 散 位 従 四 位 上 源 朝 臣 生   ︵ 八 二 一 │ 七 二 ︶ 嵯 峨 皇 子 。 母 は 笠 継 子 。 後 に 賜 姓 ︵﹃ 公 ﹄ 貞 観 六 年 ︵ 八 六 四 ︶︶ 。 承 和 三 年 ︵ 八 三 六 ︶ 従 四位上。同十年加賀守。任期を終えて散位︵位階だけあって官職 に就いていない者︶となり、本日条に至る。三十歳。なおこの後、 本年中に山城守になる。 ⑥ 弾 正 大 弼 従 四 位 下 清 原 真 人 長 田   ︵ 生 没 年 不 詳 ︶ は じ め 長 田 王 と 称 し た 。 承 和 十 四 年 ︵ 八 四 七 ︶ 従 四 位 下 。 嘉 祥 二 年 ︵ 八 四 九 ︶、 岑 成 王 と 共 に 清 原 真 人 を 賜 姓 さ れ ︵ 十 一 月 壬 子 ︵ 二 日 ︶ 紀 ︶、 同 三年弾正大弼となり、本日条に至る。詳しい系譜は不明だが、清 原姓が清原夏野・長谷・岑成等舎人親王後裔に賜姓されているこ とから、同じく舎人親王の後裔と思われる。 ⑦ 左 中 弁 清 原 真 人 岑 成   ︵ 七 九 九 │ 八 六 一 ︶ 一 品 舎 人 親 王 玄 孫 。 嘉 祥元年︵八四八︶従四位下。同二年、長田王と共に清原真人を賜 姓 さ れ ︵ 十 一 月 壬 子 ︵ 二 日 ︶ 紀 ︶、 同 年 左 中 弁 と な り 、 本 日 条 に 至 る 。 五 十 二 歳 。 岑 成 は 先 の 淳 和 崩 御 の 際 に ︵ 当 時 は 岑 成 王 ︶、

(5)

訳注日本文徳天皇実録(一) 養役夫司を勤めている︵承和七年五月癸未︵四日︶紀︶ 。 ⑧ 左 近 衛 少 将 従 五 位 上 良 岑 朝 臣 宗 貞   ︵ 八 一 六 │ 九 〇 ︶ 桓 武 皇 子 良 岑 安 世 の 第 八 子 ︵﹃ 慈 覚 大 師 伝 ﹄︶ 。 承 和 十 三 年 ︵ 八 四 六 ︶ 左 近 衛 少 将 。 嘉 祥 二 年 ︵ 八 四 九 ︶ 蔵 人 頭 ︵﹃ 蔵 人 ﹄︶ 。 同 三 年 正 月 従 五 位 上となり、本日条に至る。三十五歳。仁明の寵臣であったことか ら 、 本 日 条 の 後 間 も な く 出 家 し て い る ︵ 本 年 三 月 丙 午 ︵ 二 十 八 日︶紀︶ 。 ⑨ 大 蔵 大 輔 藤 原 朝 臣 貞 本   ︵ 生 没 年 不 詳 ︶ 父 は 藤 原 縄 主 、 母 は 藤 原 薬 子 。 弘 仁 元 年 ︵ 八 一 〇 ︶、 平 城 太 上 天 皇 の 変 ︵ 薬 子 の 変 ︶ に 連 座 し 、 飛 驒 権 守 に な る ︵ 九 月 丁 未 ︵ 十 日 ︶ 紀 ︶。 天 長 十 年 ︵ 八 三 三 ︶ の 天 下 大 赦 に よ り 、﹁ 弘 仁 元 年 座 事 配 流 者 ﹂ が 近 国 に 移 さ れ た 際 、﹁ 殊 放 還 京 ﹂ と し て 特 別 に 帰 京 を 許 さ れ た ︵ 六 月 甲 子 ︵ 九 日 ︶ 紀 ︶。 そ の 後 、 承 和 十 三 年 ︵ 八 四 六 ︶ 従 五 位 上 。 同 十 四 年 大 蔵大輔となり、本日条に至る。 ⑩ 大 外 記 外 従 五 位 下 朝 原 宿 祢 良 道   ︵ 生 没 年 不 詳 ︶ 大 学 頭 浅 原 道 永 の孫、左少史朝原諸坂の子。左少史、少外記を経て、承和十三年 ︵八四六︶大外記︵ ﹃ 外記 ﹄︶ 。嘉祥元年︵八四八︶外従五位下とな り、本日条に至る。 ⑪六位以下四人を、装束司となす   装束司は葬儀の衣服・調度の仕 度と設営などに当たった臨時の官。本日条では五位以上九人と六 位以下四人の計十三人がこれに当たった。なお、光仁の葬送では 五位以上十四人、六位以下八人の計二十二人。桓武の葬送では五 位以上十三人、六位以下七人の計二十人が任じられている。一方、 淳和の葬送では五位以上九人と六位以下三人の計十二人と大幅に 減少しており︵平城は ﹃ 後紀 ﹄ 欠落のため詳細不明。嵯峨は薄葬 の た め 設 置 せ ず ︶、 本 日 条 ︵ 仁 明 の 葬 送 ︶ で は 淳 和 朝 の 規 模 を 踏 襲したものと思われる。六位以下四人の詳細は不明だが、その人 数は文徳の葬送における五位以上八人、六位以下四人の数に引き 継がれている。 ⑫ 中 納 言 従 三 位 源 朝 臣 定   ︵ 八 一 五 │ 六 三 ︶ 嵯 峨 皇 子 。 母 は 尚 侍 従 三位百済慶命。淳和の猶子となり、鍾愛された。天長四年︵八二 七︶には、淳和が嵯峨に定の親王宣下を求めるが、聴されなかっ た ︵ 貞 観 五 年 ︵ 八 六 三 ︶ 正 月 三 日 丙 寅 ︵ 三 日 ︶ 紀 ︶。 ﹃ 公 ﹄︵ 天 長十年︶はその後、天長五年に賜姓されたとする。同九年従三位 に勅叙され、翌十年参議。治部・中務等を歴任し、嘉祥二年 ︵ 八 四 九 ︶ 中 納 言 と な り 本 日 条 に 至 る 。 三 十 六 歳 。 先 の 養 父 淳 和 の崩御に際しては、装束司を勤めている︵承和七年五月癸未︵四 日︶紀︶ 。 ⑬ 大 蔵 卿 平 朝 臣 高 棟   ︵ 八 〇 四 │ 六 七 ︶ 桓 武 皇 孫 。 一 品 原 親 王 の 長 子 ︵ 貞 観 九 年 ︵ 八 六 七 ︶ 五 月 丁 巳 ︵ 十 九 日 ︶ 紀 ︶。 天 長 二 年 ︵八二五︶賜姓。大蔵・刑部などを経て、承和九年︵八四二︶ 再び大蔵。翌十年従三位となり、本日条に至る。四十七歳。 ⑭ 参 議 従 四 位 上 藤 原 朝 臣 助   ︵ 七 九 九 │ 八 五 三 ︶ 贈 太 政 大 臣 藤 原 内 麻呂の十一男。承和六年︵八三九︶従四位上。右近衛中将・右衛 門督を経て、同十年参議となり、本日条に至る。五十二歳。 ⑮ 散 位 従 四 位 下 正 躬 王   ︵ 七 九 九 │ 八 六 三 ︶ 桓 武 皇 孫 。 贈 一 品 万 多 親 王 の 七 男 ︵ 貞 観 五 年 ︵ 八 六 三 ︶ 五 月 癸 亥 朔 紀 ︶。 文 章 生 か ら 国 司などを歴任し、参議、左大弁を兼ねる。しかし承和十三年︵八

(6)

史   窓 四 六 ︶、 法 隆 寺 僧 善 ぜん 愷 がい の 少 納 言 登 と 美 みの 直 なお 名 な に 対 す る 告 発 に 際 し 、 右 少弁伴善男との訴訟の受理に関する法理論争となり、これに敗れ た。そのため伴善男を除く他四人の弁官と共に解官され︵承和十 三 年 十 一 月 壬 子 ︵ 十 四 日 ︶ 紀 ︶、 翌 十 四 年 に は 位 記 を 破 毀 さ れ て いた。嘉祥元年︵八四八︶一等降格となる従四位下に再び叙され、 本 日 条 に 至 る 。 五 十 二 歳 。 な お 、 散 位 と あ る が 、﹃ 公 ﹄ で は 、 承 和 十 四 年 か ら 本 年 治 部 に な る ま で 、﹁ 大 蔵 ﹂ の 官 職 を 載 せ る。 ⑯ 右 京 大 夫 従 四 位 上 源 朝 臣 寛   ︵ 八 一 三 │ 七 六 ︶ 嵯 峨 皇 子 。 母 は 安 倍氏。後に賜姓される。承和三年︵八三六︶従四位上。国司、神 伯を歴任の後、承和十四年右京大夫となり、本日条に至る。三 十八歳。寛は先の淳和崩御の際も、山作司を勤めている︵承和七 年五月癸未︵四日︶紀︶ 。 ⑰ 従 四 位 下 木 工 頭 興 世 朝 臣 書 主   ︵ 七 七 八 │ 八 五 〇 ︶ 内 薬 正 吉 田 古 麻呂の子。承和四年︵八三七︶吉田連から興世朝臣への改姓を許 さ れ て い る ︵ 六 月 己 巳 ︵ 二 十 八 日 ︶ 紀 ︶。 同 十 二 年 木 工 頭 。 同 十 四年従四位下となり、本日条に至る。七十三歳。 ⑱ 散 位 従 五 位 下 文 室 朝 臣 笠 科   ︵ 生 没 年 不 詳 ︶ 承 和 三 年 ︵ 八 三 六 ︶ 従五位下。同六年土佐守。任期満了の後、散位となり、本日条に 至る。 ⑲ 勘 解 由 次 官 山 代 宿 禰 氏 益   ︵ 生 没 年 不 詳 ︶ 遣 唐 使 録 事 と し て 名 前 が み え る ︵ 承 和 六 年 ︵ 八 三 九 ︶ 十 月 丁 巳 ︵ 九 日 ︶ 紀 ︶。 そ の 後 、 右 少 史 か ら 大 外 記 ︵﹃ 外 記 ﹄︶ 、 国 司 な ど を 歴 任 し た 後 、 嘉 祥 二 年 ︵八四九︶勘解由次官となり、本日条に至る。 ⑳六位已下四人を、山作司となす   山作司は山陵の築造に当たった 臨時の官。本日条では五位以上八人と六位以下四人の計十二人が これに当たった。光仁の葬送では計十九人。桓武の葬送では計十 七人。淳和の葬送では計十一人と、装束司同様、人員は減少して いる。またここでも六位以下四人の詳細は不明だが、淳和の葬送 時における六位以下四人を踏襲している。 ㉑ 中 納 言 従 三 位 安 倍 朝 臣 安 仁   ︵ 七 九 三 │ 八 五 九 ︶ 参 議 従 四 位 下 大 宰大弐安倍寛麿の二男。承和十五年︵八四八︶従三位中納言兼民 部となり、本日条に至る。五十八歳。 ㉒ 散 位 従 五 位 下 藤 原 朝 臣 正 岑   ︵ 生 没 年 不 詳 ︶ 装 束 司 藤 原 貞 本 の 子 。 母は橘嶋田麻呂の娘。承和九年︵八四二︶兵部少丞の時に承和の 変 に 連 座 し 、 因 幡 権 掾 に 左 遷 ︵ 七 月 戊 午 ︵ 二 十 六 日 ︶ 紀 ︶。 同 十 四 年 頃 、 許 さ れ て 入 京 し た も の と 思 わ れ る 。 そ の 後 、 道 康 親 王 ︵ 文 徳 ︶ の 春 宮 大 進 を 勤 め 、 嘉 祥 二 年 ︵ 八 四 九 ︶ 従 五 位 下 と な り 本日条に至る。 ㉓山口朝臣春方   詳細不明。 ㉔重ねて山作司に補す   注釈 ⑳ 参照。これにより山作司は五位以上 十一人、六位以下四人の計十五人となった。この内、安倍氏は先 学において、紀氏と共に、伝統的な食膳奉仕氏族として葬司に重 用されたことが指摘されている︵佳子 ﹁ 古代における天皇大葬 管掌司について ﹂︵ ﹃ 国立歴史民俗博物館研究報告 ﹄ 第一四一集、 二〇〇八年︶ ︶。人員としては、淳和崩御時の十一人の員数をみる に、先の計十二人で事足りたはずである。しかし更に安倍氏を含 む三人を増員したことは、先の人員での不足を補う何らかの理由

(7)

訳注日本文徳天皇実録(一) があったものと思われるが、詳しくは不明である。 ㉕ 前 丹 波 守 従 四 位 下 滋 野 朝 臣 貞 雄   ︵ 七 九 五 │ 八 六 〇 ︶ 滋 野 家 訳 の 第三子。貞主の弟。大学寮で学び、詩に習熟し、嵯峨に近侍した。 承和十二年︵八四五︶正月戊午︵十一日︶丹波守。本年正月丙戌 ︵七日︶従四位下となり、本日条に至る。五十六歳。 ㉖ 宮 内 少 輔 従 五 位 下 橘 朝 臣 伴 雄   ︵ 生 没 年 不 詳 ︶ 橘 長 谷 麻 呂 の 子 。 承和十三年︵八四六︶九月壬子︵十四日︶侍従となった時、従五 位下であることが確認される。 ㉗六位已下三人を、養役夫司となす   養役夫司は陵墓造営のために 畿内およびその周辺から差発された役夫の食料を管轄する臨時の 官。皇后・皇太后崩御の場合は、養民司とよばれた。奈良時代に は、五位官二名、六位以下は六名もしくは十名の構成となってい た。 ㉘ 山 城 守 従 四 位 下 茂 世 王   ︵ 生 没 年 不 詳 ︶ 仲 野 親 王 の 第 一 子 。 桓 武 の孫。承和八年︵八四一︶十一月丙辰︵二十日︶従四位下となり、 本日条に至る。同九年八月壬申︵十一日︶に大学頭となっている。 ㉙ 右 京 亮 従 五 位 上 橘 朝 臣 枝 主   ︵ 生 没 年 不 詳 ︶ 嘉 祥 二 年 ︵ 八 四 九 ︶ 十一月甲戌︵二十四日︶従五位上となり、本日条に至る。同三年 二月甲戌︵二十五日︶には、嵯峨皇女秀子内親王の薨時に、その 喪事を監護している。 ㉚六位一人を、作路司となす   作路司は葬送の道筋の道路・橋梁を 整備する官。称徳崩御の時にはじめて任じられた。 ㉛前次第司   前次第司は葬列に異乱のないように、その威儀を掌る 官。後次第司も同じ。 ㉜ 治 部 少 輔 従 五 位 下 藤 原 朝 臣 松 影   ︵ 七 九 九 │ 八 五 五 ︶ 藤 原 北 家 魚 名流、星雄の子。承和十一年︵八四四︶正月庚寅︵七日︶従五位 下、嘉祥二年︵八四九︶二月壬子︵二十七日︶治部少輔となり、 本日条に至る。五十二歳。 ㉝ 参 議 宮 内 卿 従 四 位 上 滋 野 朝 臣 貞 主   ︵ 七 八 五 │ 八 五 二 ︶ 滋 野 家 訳 の子。長女縄子は仁明女御。縄子の妹奥子も文徳の寵愛を受けた。 承和六年︵八三九︶正月庚申︵七日︶従四位上、同九年七月丁巳 ︵ 二 十 五 日 ︶ 参 議 、 嘉 祥 二 年 ︵ 八 四 九 ︶ 九 月 丙 子 ︵ 二 十 六 日 ︶ 宮 内となり、本日条に至る。六十六歳。 ㉞ 従 五 位 下 橘 朝 臣 永 範   ︵ 生 没 年 不 詳 ︶ 承 和 八 年 ︵ 八 四 一 ︶ 正 月 甲 申︵十三日︶従五位下となり、本日条に至る。 ㉟ 散 位 従 五 位 上 高 階 真 人 清 上   ︵ 生 没 年 不 詳 ︶ 長 屋 王 の 後 裔 。 承 和 九年︵八四二︶正月壬寅︵七日︶従五位上となり、本日条に至る。 ㊱ 従 五 位 下 藤 原 朝 臣 緒 数   ︵ 生 没 年 不 詳 ︶ 藤 原 内 麻 呂 の 孫 。 福 当 麿 の子。嘉祥二年︵八四九︶正月丁丑︵二十二日︶には、百済慶命 の薨時に、喪事を監護している。 ㊲諸衛を率いて左右の兵庫を監護せしむ   諸衛とは、左右近衛府・ 左右兵衛府・左右衛門府の六衛府をさす。譲位・崩御などの際に、 変事に備えて三関に固関使を発するとともに、諸衛および左右馬 寮・左右兵庫寮に対して警固を命じることがあった。 ㊳京畿七道をして挙哀の礼を成すこと…   挙哀とは、死者に哀悼の 意を捧げるために泣き声をあげること。ここでは、京畿七道諸国 の国庁の前において、三日間行うことが定められた。 ㊴喪服の期は、日を以て月に易えしむ   月を日に換算して十三日間

(8)

史   窓 に短縮するということ。本年四月辛亥︵四日︶紀に ﹁ 為除凶服。 先遣大中臣氏人於五畿内七道諸国。以修大祓 ﹂。同乙丑︵十八日︶ 紀に ﹁ 宣詔内外云、易月之制、雖拠旧章、臣子之道、須存心喪。 宜仰有司、朞年之内、禁宴飲作楽、及著美服 ﹂ とある。 ㊵式部省百寮を率いて…   式部省は、文官の考課や選叙などの一般 人事、国家の儀式などを職掌とした。文徳崩御の挙哀においても、 ﹁ 式 部 省 率 百 官 於 冷 然 院 南 路 頭 挙 哀 。 公 及 侍 臣 已 下 於 東 宮 ﹂ と ある︵天安二年︵八五八︶九月壬戌︵四日︶紀︶ 。   ︵中村・林原︶ ●三月辛丑(二十三日) 【書き下し】 辛 ︵ 廿 三 ︶ 丑。 ① 東宮服を成す。公百寮これに従う。 【現代語訳】 二十三日。東宮は喪に服し、公および全ての官人がこれに従った。 【注釈】 ①東宮服を成す…   養老喪葬令に ﹁ 凡服紀者、為君・父母、及夫・ 本主、一年 ﹂ とあり、本来天皇は、父母が死んだ場合に一年間錫 紵を着用したが、本年四月癸丑︵六日︶紀に ﹁ 帝公除。百官吉服。 大祓於朱雀門前 ﹂ と、早くも除服の記載がみられる。前日に、諸 国の服喪期間を、月数を日数に代え十三日間と定めているのと同 様に、東宮についても十三日間とされたことがわかる。 ︵木本︶ ●三月癸卯(二十五日) 【書き下し】 癸 ︵ 廿 五 ︶ 卯 。 ① 仁 明 皇 帝 を 深 草 山 陵 に 葬 る 。 ② 送 終 の 礼 、 皆 倹 約 に 従 う 。 これ遺詔を奉るなり。 【現代語訳】 二十五日。仁明天皇を深草山陵に葬った。葬送の礼は、すべて倹約 に努めた。これは遺詔に依るものである。 【注釈】 ①仁明皇帝を深草山陵に葬る   山陵の所在地は山城国紀伊郡︵現京 都 市 伏 見 区 ︶。 本 年 四 月 十 四 日 に は 、 左 近 衛 将 曹 粟 田 真 持 に 、 樹 木を一丈間隔に植樹させ、同十八日には、卒塔婆の陀羅尼︵梵字 で書かれた経文︶が自然と落ちてしまったので、伴善男に安置さ せている。貞観三年︵八六一︶六月十七日に、その四至が ﹁ 東西 限一町五段、南限純子内親王冢地、北限峰 ﹂ と定められ、さらに 同八年十二月二十二日には ﹁ 東至大墓、南至純子内親王冢北垣、 西至貞観寺東垣、北至谷 ﹂ へと先の四至が変更されている。天安 二年︵八五八︶ 、清和によって制定された十陵四墓に列す。 ﹃ 延喜 式 ﹄ 諸 陵 寮 に は ﹁ 兆 域 東 西 一 町 五 段 、 南 七 段 、 北 二 町 。 守 戸 五 烟 ﹂ と記され、近陵とされている。 ②送終の礼、皆倹約に従う…   同日紀に ﹁ 遺制薄葬。綾羅錦繍之類、

(9)

訳注日本文徳天皇実録(一) 並以帛布代之、鼓吹方相之儀、悉従停止 ﹂ とある。文徳について も ﹁ 送 終 之 礼 、 皆 従 倹 約 、 一 如 仁 明 天 皇 故 事 ﹂︵ 天 安 二 年 ︵ 八 五 八︶九月甲子︵六日︶紀︶と、仁明の例に従っている。   ︵木本︶ ●三月甲辰(二十六日) 【書き下し】 甲 ︵ 廿 六 ︶ 辰 。 ① 従 四 位 下 行 民 部 大 輔 基 兄 王 ・ ② 外 従 五 位 下 豊 階 公 安 人 等 を 遣 わ し て 、 ③ 御 葬 に 供 す る の 諸 大 夫 を 存 問 せ し む 。 ④ 是 よ り 先 、 諸 衛甲を着し、以て非常に備う。今日脱却し、各常儀に従う。 【現代語訳】 二十六日。従四位下行民部大輔基兄王・外従五位下豊階公安人等を、 葬送に携わった諸大夫の許へ遣わし、慰労させた。これまで、六衛 府の官人は甲を着用し、非常時に備えていたが、今日甲を解き、通 常の威儀に戻った。 【注釈】 ① 従 四 位 下 行 民 部 大 輔 基 兄 王   ︵ 八 二 四 │ 八 一 ︶ 桓 武 の 孫 、 井 親 王の長男。基枝王とも。承和十一年︵八四四︶無位から従四位下 と な る ︵ 正 月 庚 寅 ︵ 七 日 ︶ 紀 ︶。 そ の 後 、 宮 内 大 輔 を 経 て 、 同 十 四 年 に 民 部 大 輔 と な り ︵ 二 月 丁 丑 ︵ 十 一 日 ︶ 条 ︶、 本 日 条 に 至 る 。 二十七歳。行とは位署書の一種で、 ︵一︶ 官位相当ならば官・位の 順。 ︵二︶ 官位不相当ならば位・官の順とし、位卑官高なら ﹁ 守 ﹂、 位高官卑なら ﹁ 行 ﹂ の字を官の上に記す。 ② 外 従 五 位 下 豊 階 公 安 人   ︵ 七 九 七 │ 八 六 一 ︶ 本 姓 は 河 俣 公 で あ っ た が 、 延 暦 十 九 年 ︵ 八 〇 〇 ︶ に 豊 階 公 に 改 姓 。 承 和 五 年 ︵ 八 三 八︶少内記、後に大内記に転じている︵貞観三年︵八六一︶九月 乙 未 ︵ 二 十 四 日 ︶ 紀 、 卒 伝 ︶。 同 九 年 に は ﹁ 少 内 記 正 六 位 上 ﹂ と み え る ︵ 三 月 辛 丑 ︵ 六 日 ︶ 紀 ︶。 同 十 五 年 外 従 五 位 下 ︵ 正 月 戊 辰 ︵ 七 日 ︶ 紀 ︶ と な り 、 嘉 祥 二 年 ︵ 八 四 九 ︶ に は 道 康 親 王 ︵ 文 徳 ︶ の東宮学士に任じられている。但し、当該期における役職は不明。 本年四月十七日には、文徳の即位に伴って従五位上となる︵なお、 ﹃ 三実 ﹄ に載せる卒伝には ﹁ 外従五位上 ﹂ とある︶ 。文徳の葬送に 際 し て も 、 本 日 条 と 同 様 に 存 問 使 の 役 を 勤 め て い る ︵ 天 安 二 年 ︵八五八︶九月乙丑︵七日︶紀︶ 。五十四歳。 ③御葬に供するの諸大夫を存問せしむ   御葬司に対する ﹁ 存問 ﹂ の 語句は、六国史において、仁明と文徳のみにみられる。 ④是より先、諸衛甲を着し…   本年三月十七日に固関使を発遣し、 仁明が崩御した二十一日には、諸衛府に禁衛を厳密にさせ、二十 二日には左右兵庫を監護させるなど、仁明の崩御前後から、厳戒 態勢がとられた。本日条では甲冑を着す命令が解かれたが、四月 二十二日に ﹁ 六衛解厳 ﹂ とみられるので、全ての厳戒態勢が解か れたわけではない。なお、同日紀には ﹁ 左右近衛陣著鎧甲 ﹂ とあ り、この日から鎧甲を着けたかのように記載されている。   ︵木本︶

(10)

史   窓 ●三月乙巳(二十七日) 【書き下し】 乙 ︵ 廿 七 ︶ 巳 。 ① 晏 駕 の 後 、 初 め て 七 日 を 盈 つ 。 ② 仍 っ て 使 を 近 陵 の 七 ヶ 寺 に 遣 わ し 、 以 て 功 徳 を 修 せ し む 。 ③ 右 近 衛 少 将 兼 土 佐 守 従 五 位 下 小 野 朝 臣 千 株 、 及 び ④ 内 舎 人 一 人 ・ 内 竪 十 人 を 、 ⑤ 紀 伊 寺 使 と な す 。 ⑥ 正 四 位 下 行 大 舎 人 頭 兼 越 前 権 守 高 枝 王 ・ ⑦ 侍 従 従 五 位 上 嶋 江 王 ・ ⑧ 刑 部 大 輔 正 五 位 下 藤 原 朝 臣 行 道 、 内 舎 人 一 人 ・ 内 竪 十 人 を 、 ⑨ 宝 皇 寺 使 と な す 。 ⑩ 従 四 位 上 行 加 賀 守 正 行 王 ・ ⑪ 中 務 大 輔 従 五 位 上 並 山 王 ・ ⑫ 散 位 従 五 位 下 藤 原 朝 臣 正 岑 ・ ⑬ 駿 河 守 丹 墀 真 人 貞 岑 を 、 ⑭ 来 定 寺 使 と な す 。 ⑮ 従 四 位 下 行 大 学 頭 時 宗 王 ・ ⑯ 従 五 位 下 正 親 正 善 永 王 ・ ⑰ 刑 部 少 輔 藤 原 朝 臣 関 雄 を 、 ⑱ 拝 志 寺 使 と な す 。 ⑲ 従 三 位 行 大 蔵 平 朝 臣 高 棟 ・ ⑳ 散 位 従 四 位 下 世 宗 王 ・ ㉑ 従 五 位 下 永 直 王 、 内 舎 人 一 人 ・ 内 竪 十 人 を 、 ㉒ 深 草 寺 使 と な す 。 ㉓ 散 位 従 四 位 下 基 棟 王 ・ ㉔ 従 五 位 下 安 原 王 ・ ㉕ 大 原 真 人 宗 吉 ・ ㉖ 橘 朝 臣 三 夏 等 、 内 舎 人 一 人 ・ 内 竪 十 人 を 、 ㉗ 真 木 尾 寺 使 と な す 。 ㉘ 散 位 従 四 位 下 道 野 王 ・ ㉙ 従 五 位 下 高 原 王 ・ ㉚ 大 判 事 藤 原 朝 臣 本 雄 ・ ㉛ 加 賀 介 良 岑 朝 臣 清 風 、 内 舎 人 一 人 ・ 内 竪 十 人 を 、 ㉜ 桧 尾 寺 使 と な す 。 是 の 日 、 ㉝ 嵯 峨 山 陵 、 暴 風 雷 雨 、 樹 木 倒 仆 す 。 ㉞ 中 納 言 従 三 位 安 倍 朝 臣 安 仁 を 遣 わ し 、 就 い て ㉟ 察 視 を 加 え し む 。 公 奏 言 す ら く 、 事 を 天 下 に 施 す に 、 猶 ㊱ 令 旨 と 称 す 。 視 聴 に 在 り て 疑 う と こ ろ 有 り 。 請 う ら く は 天 旨 を 禀 け 、 ㊲ 令 を 改 め て ㊳ 勅 に 代 え ん こ と を 、 と 。 ㊴ 未 だ こ れ を 許 さず。 【現代語訳】 二十七日。仁明天皇が崩御して後、初七日を迎えた。そこで、使者 を近陵の七ヶ寺に送り、供養を行わせた。右近衛少将兼土佐守従五 位下小野朝臣千株、内舎人一人・内豎十人を、紀伊寺への使者とし た。正四位下行大舎人頭兼越前権守高枝王・侍従従五位上嶋江王・ 刑部大輔正五位下藤原朝臣行道、内舎人一人・内豎十人を、宝皇寺 への使者とした。従四位上行加賀守正行王・中務大輔従五位上並山 王・散位従五位下藤原朝臣正岑・駿河守丹墀真人貞岑を、来定寺へ の使者とした。従四位下行大学頭時宗王・従五位下正親正善永王・ 刑部少輔藤原朝臣関雄を、拝志寺への使者とした。従三位行大蔵 平朝臣高棟・散位従四位下世宗王・従五位下永直王、内舎人一人・ 内豎十人を、深草寺への使者とした。散位従四位下基棟王・従五位 下安原王・大原真人宗吉・橘朝臣三夏等、内舎人一人・内豎十人を、 真木尾寺への使者とした。散位従四位下道野王・従五位下高原王・ 大判事藤原朝臣本雄・加賀介良岑朝臣清風、内舎人一人・内豎十人 を、檜尾寺への使者とした。この日、嵯峨山陵において、暴風雷雨 のために、樹木が倒れた。そこで中納言従三位安倍朝臣安仁を遣わ して調べさせた。公が奏言するには ﹁ 法令を施行する際に、まだ なお令旨という名称を用いるのは、見聞きした人々の疑いを招くの で、出来ればご許可をいただき、令旨から勅旨に改めたい ﹂ とのこ とであったが、まだ許可しなかった。 【注釈】 ①晏駕の後、初めて七日を盈つ   仁明の崩御は三月二十一日。この

(11)

訳注日本文徳天皇実録(一) 日、初七日を迎えた。以後七日ごとに七七日︵四十九日︶まで中 陰供養が行われる。 ②仍って使を近陵の七ヶ寺に遣わし…   天皇や上皇の中陰供養が行 わ れ る 場 所 は 、 奈 良 時 代 に は 、 四 大 寺 ︵ 大 安 寺 ・ 薬 師 寺 ・ 元 興 寺・弘福寺︶や︵大宝三年︵七〇三︶二月癸卯︵十一日︶紀等︶ 、 七大寺︵四大寺に東大寺・西大寺・法隆寺・興福寺等を加える︶ な ど ︵ 天 平 勝 宝 八 年 ︵ 七 五 六 ︶ 五 月 辛 酉 ︵ 九 日 ︶ 紀 等 ︶、 官 寺 で 行われている例が多くみられる。平安時代には、桓武の場合、初 七 日 が ﹁ 京 下 諸 寺 ﹂︵ 大 同 元 年 ︵ 八 〇 六 ︶ 三 月 丁 亥 ︵ 二 十 三 日 ︶ 紀 ︶、 つ ま り 平 安 京 周 辺 の 寺 院 で 行 わ れ て い る 一 方 で 、 五 七 日 は 大安寺・秋篠寺といった旧都周辺の寺院でも行われている︵同乙 卯 ︵ 二 十 二 日 ︶ 紀 ︶。 秋 篠 寺 は 、 桓 武 と の 関 わ り が 深 い こ と か ら 中陰供養の場所としてばれたのだろう。また、淳和の初七日に は ﹁ 京辺七ケ寺 ﹂ で誦経されているが︵承和七年︵八四〇︶五月 己 丑 ︵ 十 四 日 ︶ 紀 ︶、 そ の 七 ヶ 寺 は 特 定 さ れ な い 。 本 日 条 は 使 者 が紀伊寺・宝皇寺・来定寺・拝志寺・深草寺・真木尾寺・桧尾寺 の七ヵ寺に遣わされ法要が行われたことが明記されており、どの ような寺院が選定されるのかを考察するために重要な史料である。 なお、 ﹃ 文実 ﹄ には ﹁ 近陵 ﹂ とあるが、 ﹃ 紀略 ﹄ 同日条は ﹁ 近隣 ﹂ と記しており、桓武や淳和と同様に平安京周辺の七ヶ寺で供養が 行われたものと解されている。但し、真木尾寺を除く六ヶ寺が仁 明の深草陵に近い、紀伊郡・愛宕郡・宇治郡に所在している点、 次の文徳の中陰供養の際には ﹁ 安置十僧於近陵山寺、四十僧於広 隆寺。合五十口。始自今日、至于四十九日 ﹂ とあるように︵天安 二 年 ︵ 八 五 八 ︶ 九 月 乙 丑 ︵ 七 日 ︶ 紀 ︶、 文 徳 の 山 陵 ︵ 真 原 山 陵 ︶ に 近 い 広 隆 寺 を 中 心 に 僧 侶 が 置 か れ て い る 点 な ど か ら み て 、﹃ 文 実 ﹄ に記されているとおり ﹁ 近陵 ﹂ とするのが妥当であろう。 ③ 右 近 衛 少 将 兼 土 佐 守 従 五 位 下 小 野 朝 臣 千 株   ︵ 生 没 年 不 詳 ︶ 天 長 十 年 ︵ 八 三 三 ︶ 正 六 位 上 か ら 従 五 位 下 ︵ 十 一 月 庚 午 ︵ 十 八 日 ︶ 紀 ︶。 尾 張 介 ・ 備 中 守 ・ 出 羽 守 を 経 て 、 承 和 十 二 年 ︵ 八 四 五 ︶ 二 月甲辰︵二十七日︶弾正少弼、三月辛亥︵五日︶土佐守となって いる。仁明の崩御に際して県犬養氏河と共に鈴印を監護しており ︵本年三月己亥︵二十一日︶紀︶ 、そこには ﹁ 散位 ﹂ と記されてい る。また本年四月己酉︵二日︶紀に ﹁ 従五位下小野朝臣千株為右 近衛少将 ﹂ とあることから、本日条における右近衛少将は誤りで あろう。 ④内舎人一人・内竪十人   内舎人は、中務省に属し、禁中において 帯刀宿直し、雑使などを務める。養老軍防令に ﹁ 凡五位以上子孫、 年二十一以上、見無役任者、毎年京国官司、勘検知実、限十二月 一 日 、 幷 身 送 式 部 申 太 政 官 検 簡 、 性 識 聡 敏 、 儀 容 可 取 、 充 内 舎 人 ﹂ と内舎人の採用要件が記されている。大同三年︵八〇八︶に は四十人と定められている︵ ﹃ 類国 ﹄ 一〇七︶ 。内豎は、朝廷の行 事に供奉し、宮中の雑事に召し使われた。令制にはないが、弘仁 二年︵八一一︶正月庚子︵五日︶紀に ﹁ 制。上殿舍人一百二十人。 復旧名為内竪 ﹂ とある。奈良時代中期から存廃を繰り返したが、 これ以後長く存続する。 ⑤紀伊寺   所在地は不詳。紀伊郡紀伊郷の地名を冠したものであろ う 。﹃ 山 城 名 勝 志 ﹄ 所 引 の ﹁ 笠 置 寺 縁 起 ﹂ で は 、 隆 城 寺 の 別 号 と

(12)

史   窓 している。 ⑥ 正 四 位 下 行 大 舎 人 頭 兼 越 前 権 守 高 枝 王   ︵ 八 〇 二 │ 五 八 ︶ 桓 武 の 孫 、 伊 予 親 王 の 第 二 王 子 。 大 同 二 年 ︵ 八 〇 七 ︶、 父 の 謀 反 の 罪 に よ っ て 遠 流 と な っ た が 、 弘 仁 元 年 ︵ 八 一 〇 ︶、 嵯 峨 即 位 に よ り 赦 免され帰京した︵天安二年︵八五八︶五月乙亥︵十五日︶紀、卒 伝 ︶。 天 長 三 年 ︵ 八 二 六 ︶ 無 位 か ら 従 四 位 下 に 叙 さ れ る ︵ 正 月 甲 戌 ︵ 七 日 ︶ 紀 ︶。 承 和 八 年 ︵ 八 四 一 ︶ 従 四 位 上 ︵ 十 一 月 丙 辰 ︵ 二 十日︶紀︶ 、嘉祥二年︵八四九︶正四位下︵正月壬戌︵七日︶紀︶ 。 天長十年三月壬辰︵五日︶紀には因幡守とみえる。承和七年大舎 人 頭 ︵ 十 月 戊 午 ︵ 十 六 日 ︶ 紀 ︶。 本 日 条 に 至 る ま で に い つ 越 前 権 守に補されたかは不明。但し、仁寿元年︵八五一︶二月甲子︵二 十一日︶紀に任命記事が見られるため、本日条における越前権守 は不審。四十九歳。 ⑦ 侍 従 従 五 位 上 嶋 江 王   ︵ 生 没 年 不 詳 ︶ 承 和 二 年 ︵ 八 三 五 ︶ 正 月 癸 丑︵七日︶無位から従五位下に叙される。同八年大監物︵二月丁 未︵六日︶紀︶ 。同十五年従五位上︵正月戊辰︵七日︶紀︶ 。本日 条に至るまでにいつ侍従に補されたかは不明。 ⑧ 刑 部 大 輔 正 五 位 下 藤 原 朝 臣 行 道   ︵ 生 没 年 不 詳 ︶ 参 議 従 三 位 楓 麻 呂の孫。従五位上城主の長子。弘仁八年︵八一七︶正七位上から 従五位下に叙される︵ ﹃ 類国 ﹄ 九九︶ 。承和二年︵八三五︶従五位 上 ︵ 正 月 癸 丑 ︵ 七 日 ︶ 紀 ︶、 民 部 少 輔 ・ 美 作 介 ・ 近 江 介 ・ 兵 部 少 輔・丹後守を経て︵斉衡元年︵八五四︶十二月庚午︵十九日︶紀、 卒 伝 ︶、 同 十 二 年 に 刑 部 大 輔 ︵ 二 月 甲 辰 ︵ 二 十 七 日 ︶ 紀 ︶ 嘉 祥 二 年︵八四九︶正五位下︵正月壬戌︵七日︶紀︶となり、本日条に 至る。 ⑨ 宝 皇 寺   ﹃ 雍 州 府 志 ﹄ は 、 天 安 二 年 ︵ 八 五 八 ︶ 四 月 庚 子 ︵ 九 日 ︶ 紀に ﹁ 是夜、宝皇寺火︵俗名鳥戸寺︶金堂礼堂尽為灰燼 ﹂ とみえ る ﹁ 宝皇寺 ﹂ を珍皇寺の前身とみている。応仁の乱以前を描いた 考 証 地 図 の ﹃ 中 古 京 師 内 外 地 図 ﹄ は 珍 皇 寺 と は 別 寺 と し て 阿 弥 陀 ヶ 峰 西 麓 に 所 在 を 記 し て い る 。 大 同 元 年 ︵ 八 〇 六 ︶ 四 月 戊 申 ︵十五日︶の桓武の四七日でも、鳥戸寺で供養が行われている。 ⑩ 従 四 位 上 行 加 賀 守 正 行 王   ︵ 八 一 六 │ 五 八 ︶ 贈 一 品 万 多 親 王 の 第 二子。天長十年︵八三三︶三月、仁明即位に際して従四位下を授 けられ、侍従となる。時に十八歳。仁明の寵遇を受け、承和五年 ︵ 八 三 八 ︶ に 越 中 守 を 兼 ね 、 同 九 年 に 左 馬 頭 、 同 十 三 年 に は 従 四 位上に叙され、左京大夫に転じ、本日条に至る。四十五歳。卒伝 によれば仁寿元年︵八五一︶に加賀守に任じられたとあり、本日 条と矛盾する。 ⑪ 中 務 大 輔 従 五 位 上 並 山 王   ︵ 生 没 年 不 詳 ︶ 承 和 十 五 年 ︵ 八 四 八 ︶ 二 月 甲 辰 ︵ 十 四 日 ︶、 時 に 従 五 位 下 で 中 務 大 輔 と な る 。 嘉 祥 二 年 ︵八四九︶正月壬戌︵七日︶に従五位上に叙され、本日条に至る。 ⑫散位従五位下藤原朝臣正岑   三月庚子︵二十二日︶条注釈 ㉒ 参照。 嘉 祥 二 年 ︵ 八 四 九 ︶ 十 一 月 乙 亥 ︵ 二 十 五 日 ︶、 皇 太 子 入 覲 の 夜 に 従五位下に叙爵し、本日条に至る。 ⑬ 駿 河 守 丹 墀 真 人 貞 岑   ︵ 七 九 九 │ 八 七 四 ︶ 中 納 言 多 治 比 広 成 の 曾 孫。右京の出身。五十二歳。若い頃から大学寮で学ぶが、文才が あり、奉試に及第して文章生となる。天長九年︵八三二︶多治比 貞成の奏請により、一族と共に多治比から丹墀に改姓する。翌十

(13)

訳注日本文徳天皇実録(一) 年兵部少丞に任ぜられ、同大丞を経て、承和五年︵八三八︶従五 位下加賀介。同九年刑部少輔、同十四年民部少輔に任ぜられる。 本年五月甲午︵十七日︶に駿河守に任じられており、ここに駿河 守 と あ る の は 不 審 。 貞 観 八 年   ︵ 八 六 六 ︶ 姓 の 名 が 一 族 の 祖 先 で ある多治比古王に由来するにもかかわらず、以前丹墀姓に改姓し た こ と か ら 、 元 の 多 治 比 に 戻 し た 上 で 、 煩 雑 さ を 避 け る た め に ﹁ 比 ﹂ の時を省略して多治姓への改姓を上表し許されている。 ⑭来定寺   山城国愛宕郡鳥部辺りにあった寺。天暦六年︵九五二︶ 八月十五日に崩じた朱雀は、同二十日に ﹁ 山城国来定寺北野 ﹂ で 火 葬 さ れ 、 翌 二 十 一 日 父 の 醍 醐 陵 近 く に 納 骨 さ れ た 。﹃ 醍 醐 雑 事 記 ﹄ 所引の帝王系図には ﹁ 葬来定寺北野、置御骨於醍醐山陵傍 ﹂ と あ り 、﹃ 帝 王 編 年 記 ﹄ に は ﹁ 葬 法 性 寺 東 中 尾 南 原 陵 、 置 御 骨 於 醍醐山陵 ﹂ と記す。すなわち火葬の場である来定寺北野は、法性 寺東中尾南原である。 ﹃ 類聚大補任 ﹄ にも、 ﹁ 有鳥部野 ﹂ とみえる ので、鳥部野の中尾山陵の南原ということになろう。中尾陵は、 ﹃ 延 喜 式 ﹄ 諸 陵 寮 に ﹁ 中 尾 陵   贈 皇 太 后 藤 原 氏 、 在 山 城 国 愛 宕 郡 鳥部郷、陵戸五烟、山四町五段、四至、東限谷、南限田、西限隍、 北限谷 ﹂ とみえ、大体の位置が知られる。鳥部郷は愛宕郡の南端 で紀伊郡と接しており、鳥部野は愛宕から紀伊まで広がっていた。 来 定 寺 も そ の 付 近 に あ っ た と 考 え ら れ る 。﹃ 山 州 名 跡 志 ﹄ は 来 定 寺を ﹁ 古ヘ在リ法性寺ノ東。案スルニ此所東福寺ノ境内歟。此ノ 寺 天 暦 年 中 ニ 存 ス 。 東 福 寺 建 立 ハ 後 也 ﹂ と 記 す 。 ま た 、﹃ 京 都 府 地 誌 ﹄ に は 、﹁ 廃 来 定 寺 ﹂ と し て ﹁ 旧 跡 、 滝 尾 社 東 三 丁 ニ ア リ 。 字ヲ雀森ト云。帝王系図ニ朱雀天皇御火葬所トス ﹂ とする。 ⑮ 従 四 位 下 行 大 学 頭 時 宗 王   ︵ ? │ 八 五 八 ︶ 承 和 三 年 ︵ 八 三 六 ︶ 白 馬叙位において、二世王の蔭位により无位から従四位下に直叙さ れる。同十四年治部大輔、次いで大学頭に任ぜられ、本日条に至 る。 ⑯ 従 五 位 下 正 親 正 善 永 王   ︵ 生 没 年 不 詳 ︶ 承 和 八 年 ︵ 八 四 一 ︶ 十 一 月丙辰︵二十日︶朔旦冬至の詔で、正六位上から従五位下に叙さ れ、仁寿元年︵八五一︶二月辛亥︵八日︶正親正に任じられ、本 日条に至る。 ⑰ 刑 部 少 輔 藤 原 朝 臣 関 雄   ︵ 八 〇 五 │ 五 三 ︶ 藤 原 北 家 、 参 議 真 夏 の 五男。天長二年︵八二五︶に文章生試に及第するが、官途につか ず東山に閑居し ﹁ 東山進士 ﹂ と呼ばれた。淳和の再三の要請によ り承和元年︵八三四︶官に出仕し、勘解由判官などを経て、同六 年従五位下に叙爵。同八年五月壬午︵十三日︶刑部少輔。嘉祥二 年︵八四九︶二月壬子︵二十七日︶再び刑部少輔となり、本日条 に至る。四十六歳。 ⑱拝志寺   山城国紀伊郡拝志郷にあった寺院。同郷は深草郷の隣郷 で あ る 。﹃ 延 喜 式 ﹄ 玄 蕃 寮 に ﹁ 凡 近 都 諸 寺 、 東 拝 志 以 北 、 西 石 作 以 北 、 停 預 講 師 、 僧 綱 検 察 ﹂ と あ る 。﹃ 雍 州 府 志 ﹄ は ﹁ 拝 志 寺   在拝志里 ﹂ とする。拝志里は、復元された条里地割によれば、東 福寺︵現京都市東山区︶辺りに ﹁ 林里 ﹂ の里名が残り、また永久 元年︵一一一三︶十二月日付玄蕃寮牒案にみえる拝志郷下の里は 東九条から竹田︵現伏見区︶辺りにあたり、あわせて拝志庄の荘 域 ︵﹁ 正 応 六 年 三 月 十 六 日 付 山 城 拝 志 荘 代 坪 付 注 進 状 ﹂ 東 寺 百 合 文書︶を考えると、東福寺から東寺︵現南区︶南・城南宮︵現伏

(14)

史   窓 見 区 ︶ 辺 り に わ た っ て い た ら し い 。﹃ 日 本 地 理 志 料 ﹄ は 下 津 林 村 ︵ 現 西 京 区 ︶ を 遺 名 と し 、﹃ 大 日 本 地 名 辞 書 ﹄ は 大 亀 谷 ︵ 現 伏 見 区︶辺りと下鳥羽・横大路︵現伏見区︶辺りとを併記している。 拝志寺もこの付近にあったと考えられる。 ⑲ 従 三 位 行 大 蔵 卿 平 朝 臣 高 棟   ︵ 八 〇 四 │ 六 七 ︶ 桓 武 第 十 五 皇 子 原親王の長男。弘仁十四年︵八二三︶従四位下に叙される。天長 二年︵八二五︶閏七月平朝臣の姓を賜わり、臣下に降る。大学頭 を 長 く 勤 め る 。 承 和 九 年 ︵ 八 四 二 ︶ 八 月 壬 申 ︵ 十 一 日 ︶、 時 に 正 四位下で大蔵となり、翌十年四月壬申︵十四日︶従三位となっ て、本日条に至る。四十七歳。 ⑳ 散 位 従 四 位 下 世 宗 王   ︵ 生 没 年 不 詳 ︶ 承 和 七 年 ︵ 八 四 〇 ︶ 正 月 甲 申︵七日︶无位から従四位下となり、本日条に至る。 ㉑ 従 五 位 下 永 直 王   ︵ 生 没 年 不 詳 ︶ 承 和 十 五 年 ︵ 八 四 八 ︶ 正 月 戊 辰 ︵七日︶正六位上から従五位下となり、本日条に至る。 ㉒ 深 草 寺   山 城 国 紀 伊 郡 深 草 郷 に あ っ た と 考 え ら れ る 。﹃ 広 隆 寺 末 寺別記 ﹄ に ﹁ 深長寺又号深草寺、山城国木郡在之。本尊弥勒丈六 脇 士 在 之 。 奉 為 大 津 宮 、 秦 久 丸 建 立 也 ﹂ と 記 さ れ る 。﹃ 日 本 霊 異 記 ﹄ は行基が紀伊郡の深長寺に居住していたと記している。仁明 の深草陵、同御願の嘉祥寺、清和御願の貞観寺なども近辺に所在 し、奈良時代から寺院の営まれることの多かった地であった。な お、京都市伏見区深草谷口町には、奈良時代後期から平安時代中 期に属すると推定される、おうせんどう廃寺跡があり、深草寺の 可能性がある。この地は稲荷山の南、大亀谷の北にあたり、古く 難波から淀川を上って伏見辺りで上陸し、この一帯を経て東国に 向かう重要な交通路にあたっていた。 ㉓ 散 位 従 四 位 下 基 棟 王   ︵ 生 没 年 不 詳 ︶ 承 和 六 年 ︵ 八 三 九 ︶ 正 月 庚 申︵七日︶正五位下から従四位下となり、本日条に至る。 ㉔ 従 五 位 下 安 原 王   ︵ 生 没 年 不 詳 ︶ 嘉 祥 二 年 ︵ 八 四 九 ︶ 正 月 壬 戌 ︵七日︶无位から従五位下となり、本日条に至る。 ㉕ 大 原 真 人 宗 吉   ︵ 生 没 年 不 詳 ︶ 承 和 三 年 ︵ 八 三 六 ︶ 正 月 丁 未 ︵ 七 日 ︶ 正 六 位 上 か ら 従 五 位 下 と な り 、 本 日 条 に 至 る 。 大 原 真 人 は ﹃ 新姓氏録 ﹄ 左京皇別では、敏達の孫百済王から出たとする。 ㉖橘朝臣三夏   ︵?│八八〇︶ ﹃ 尊卑 ﹄ によれば、奈良麻呂の曾孫、 嶋田麻呂の孫、常主の子。斉衡元年︵八五四︶正月壬辰︵七日︶ に み え る 三 冬 は 弟 。 本 年 正 月 丙 戌 ︵ 七 日 ︶、 正 六 位 上 か ら 従 五 位 下となり、本日条に至る。 ㉗真木尾寺   京都府宇治市山王の槙ノ尾山近辺︵旧宇治郡朝日池尾 村槙尾山︶にあったか。京都市右京区の槙尾山西明寺︵栂尾山高 山寺と高尾山神護寺の間︶ではなかろう。 ㉘ 散 位 従 四 位 下 道 野 王   ︵ ? │ 八 五 五 ︶ 大 宰 帥 二 品 賀 陽 親 王 の 第 一 子。卒伝に依ると、酒色に淫り、非常に管絃が上手かったが、性 は甚だ謹厚で、未だ曾て傲慢であったことはなかった。天長九年 ︵ 八 三 二 ︶ 正 月 辛 丑 ︵ 七 日 ︶ 无 位 か ら 従 四 位 下 、 承 和 三 年 ︵ 八 三 六︶武蔵守となり、本日条に至る。 ㉙ 従 五 位 下 高 原 王   ︵ 生 没 年 不 詳 ︶ 一 品 新 田 部 親 王 の 裔 。 承 和 五 年 ︵ 八 三 八 ︶ 正 月 丙 寅 ︵ 七 日 ︶ 正 六 位 上 か ら 従 五 位 下 に 叙 さ れ 、 本 日条に至る。貞観元年︵八五九︶九月五日、時に左京人散位従五 位上で、三原朝臣の姓を賜った。

(15)

訳注日本文徳天皇実録(一) ㉚ 大 判 事 藤 原 朝 臣 本 雄   ︵ 生 没 年 不 詳 ︶ 天 長 八 年 ︵ 八 三 一 ︶ 正 月 癸 卯 ︵ 四 日 ︶、 正 六 位 上 か ら 従 五 位 下 に 叙 爵 、 嘉 祥 二 年 ︵ 八 四 九 ︶ 二月壬子︵二十七日︶大判事となり、本日条に至る。 ㉛ 加 賀 介 良 岑 朝 臣 清 風   ︵ ? │ 八 六 三 ︶ 大 納 言 贈 従 二 位 安 世 の 第 三 子。嘉祥二年︵八四九︶正月壬戌︵七日︶に正六位上から従五位 下に叙爵。卒伝には同四年に加賀介になるとあり、実際、仁寿元 年︵八五一︶正月甲申︵十一日︶紀に任官記事があるので、本日 条の加賀介は不審。 ㉜ 檜 尾 寺   山 城 国 紀 伊 郡 深 草 郷 に あ っ た 寺 院 。﹃ 伊 呂 波 字 類 抄 ﹄ に ﹁ 檜 尾 寺   法 禅 寺 是 也 。 実 恵 心 僧 都 居 住 所 也 ﹂ と あ り 、 法 禅 寺 ︵ 院 ︶ は ﹃ 行 基 年 譜 ﹄ に ﹁ 法 禅 院 檜 尾 九 月 二 日 起 。 在 山 城 紀 伊 郡 深 草 郷 ﹂ と み え る 。﹃ 安 祥 寺 伽 藍 縁 起 資 材 帳 ﹄ に ﹁ 山 五 十 町 ︿ 東 限大樫大谷、南限山陵、西限堺峰、北限檜尾古寺所﹀在山城国宇 治郡余戸郷北方、安祥寺上寺在其裏、建立已後経九箇年、至斉衡 三年︿歳次丙子﹀冬十月、太皇太后宮買上件山、施入安祥寺 ﹂ と あり、桧尾古寺が粟田山の四至に含まれている。二〇一七年から 一八年にかけて梶川敏夫氏の指導のもと京都女子大学考古学研究 会が行った調査で、大文字山︵如意ヶ嶽︶の南斜面において二棟 の建物跡が発見され、そのうちの一棟から塑像の破片五十点が出 土した。分析の結果漆の表面に金箔を貼った ﹁ 漆箔 ﹂ が施されて おり、須弥壇に置かれていた仏像のものと考えられる。ほかにも、 九世紀前期の土器や瓦、緑釉陶器の破片約五百点等が見つかった。 遺物と前掲 ﹃ 安祥寺伽藍縁起資材帳 ﹄ の記述から檜尾古寺跡と判 断される。 ﹃ 檜尾古寺跡 ﹄︵同会、二〇一九年︶参照。 ㉝嵯峨山陵   嵯峨は崩御に際し薄葬のことを詳細に遺命し、葬所に ついては、山北幽僻不毛の地を択び、壙穴は棺を容れれば足り、 封を築かず草を生えしめ、永く祭祀を断つべき旨を示した。そこ で崩御の翌日その遺詔に従って山北幽僻の地に陵所を定め、即日 葬 儀 を 終 え た 。 国 忌 荷 前 は 置 か れ ず ﹁ 諸 陵 式 ﹂ に も 登 載 さ れ な かった。現在は宮内庁により京都市右京区北嵯峨朝原山町にある 嵯峨山上陵に治定されている。 ㉞中納言従三位安倍朝臣安仁を遣わし   安仁の経歴については三月 庚子︵二十二日︶条注釈 ㉑ 参照。弁官の要職に就いたが、同時に 嵯峨にその他人を以ては代えがたい才能を愛され、院別当に任じ られて嵯峨にも近侍し、滞っていた院事を整理したという。また 嵯峨は、諸国司で安仁の信濃介の能治に及ぶものはないと評した。 本日条で使者となっているのも嵯峨の近臣だったからであろう。 ㉟察視   物事の状況などをよく見きわめ調べること。 ﹃ 後漢書 ﹄︵列 伝巻七十七、酷吏列伝第六十七、周 䊸 ︶に ﹁ 聞便往至死人辺、若 与死人共語状、陰察視口眼有稲芒 ﹂ とある。 ㊱令旨   令旨の令は、皇太子・三后︵皇后・皇太后・太皇太后︶ら の意志・意向・命令をいい、令旨はそうした令の旨 むね を意味する語。 あるいはそれを他者に伝達するために、春宮坊ないし三后宮職が 作成する公文書。公式令の規定では、命令を伝え聞いた坊・職が 起草。これに皇太子・三后が日付を書入れたものを案として留め、 別に写しを作って施行することになっている。 ㊲令を改めて   今回の字句上の類例として、 ﹃ 北史 ﹄︵列伝巻十三、 列伝第一后妃上、魏宣武霊皇后胡︶に ﹁ 及明帝践 阼 、尊后為皇太

(16)

史   窓 妃 、 後 尊 為 皇 太 后 。 臨 朝 聴 政 、 猶 曰 殿 下 、 下 令 行 事 ︵﹃ 通 志 ﹄ は 下令施事︶ 。後改令称詔 ﹂ とみえる。 ㊳勅に代えんことを   勅旨とは公式令に規定された天皇の命令を下 達する文書。詔書よりも軽微な事項に用いられ、書式も簡略。勅 旨田 ・ 勅旨牧 ・ 勅旨炭のように、供御料であることを示す語、あ るいは天皇の意思、詔勅の趣旨の意としても使われた。 ㊴未だこれを許さず   文徳はいまだ即位しておらず、皇太子の身分 のままであったので、勅の字を用いることを許さなかった。   ︵木本・告井︶ ●三月丙午(二十八日) 【書き下し】 丙 ︵ 廿 八 ︶ 午 。 ① 左 近 衛 少 将 従 五 以 上 良 岑 朝 臣 宗 貞 、 出 家 し 僧 と な る 。 宗 貞 、 先皇の寵臣なり。先皇崩ずるの後、哀慕已むこと無く、自ずから仏 理に帰し、以て報恩を求む。時の人愍れみおわんぬ。 【現代語訳】 二十八日。左近衛少将従五位上良岑朝臣宗貞が、出家して僧となっ た。宗貞は、先 ︵ 仁 明 ︶ 皇の寵臣である。先皇崩御の後、悲しみ慕う気持ち が止むことなく、自ずから仏の道に帰依し、これによって恩に報い ようとしたのである。人々はこれを不憫に思った。 【注釈】 ①左近衛少将従五位上良岑朝臣宗貞   経歴については三月庚子︵二 十二日︶条注釈⑧参照。仁明朝の蔵人、次いで蔵人頭を勤め、仁 明に近侍した。仁明葬送に際し装束司を勤めたが、本日条にて出 家。遍照と称した。比叡山で円仁・円珍に師事。後に仁明が淳和 より譲られた離宮紫野院を、仁明皇子常康親王から託され、貞観 十一年︵八六九︶親王薨去後、ここを官寺雲林院とし、別当を勤 めた。仁和元年︵八八五︶僧正に昇り、寛平二年︵八九〇︶正月 十九日遷化︵ ﹃ 紀略 ﹄︶ 。 ︵中村︶  

参照

関連したドキュメント

ローマ日本文化会館 The Japan Cultural Institute in Rome The Japan Foundation ケルン日本文化会館 The Japan Cultural Institute in Cologne The Japan Foundation

に本格的に始まります。そして一つの転機に なるのが 1989 年の天安門事件、ベルリンの

[r]

[r]

3日 文化の日 昼食 23日 勤労感謝の日 昼食 12月 21日 冬至 昼食 23日 天皇誕生日 昼食 24日 クリスマスイヴ 昼食 25日 クリスマス 昼食.