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これからの保育構造論構築に関する一考察

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これからの保育構造論構築に関する一考察  

近行あさみ*・眺  金櫨*   

横松 友義・浅野 泰昌*  

今日の環境を通しての教育において,保育全体を構造化しようとする保育構造論は,保育   全体の中で今の実践がどう位置づくのかを理解する上で活かされると考えられる。この観点   に立って保育構造論を構築しようとするとき,例外があることや作り直すものであることを   前提にし,保育者の受けとめ方も考慮する必要がある。これらの点を踏まえた上で,保育実   践構造論と保育内容橋造論とに場合分けして活かし方について考察した上で,それぞれの構   築を進めていく必要があろう。特に,保育内容構造論については,カリキュラム等と共に,  

基本的な考え方として頭に入れておけば,保育者が豊かな指導をより確実に実現できるもの   を構築する必要がある。また,それを活用する保育者も,保育に関する知識と共に,人間と   して望ましい文化とか人の育ちの過程とかに関する知識を積み重ねていく必要があろう。  

Keywords:保育構造論,批判の分析と検討,保育実践橋造論,保育内容構造論,論構築  

1.「環境を通しての教育」を充実させる上での保    育構造論への注目  

1980年代後半以降,環境を通しての教育,子ど   もの自発的活動への総合的指導が,わが国の保育の   基本的考え方として確立されていく中で,保育全体   を橋造的にとらえる保育構造論は,あまり注目され   なくなったといわれる。その理由として,例えば,  

日本の幼児教育方法史について研究を行ってきた田   中は,1998年刊行の『幼児教育方法史研究』の中   で,「構造論的視点では,子どもの生活や活動に保   育者の一方的な立場から分断的に捉える傾向にな   る」1)という主張を取り上げている。この主張には,  

保育者の視点から子どもの活動や保育をとらえてい   く見方では,環境を通しての教育は進めにくいとい   う理解があるといえるであろう。   

しかし,環境を通しての教育を行うことを基本的   立場としながらも,保育構造論にも注目する研究者   がいる。例えば,光本は,2000年の論文「『保育構   造∠ 論についての一考察」2一において次のように論  

じている。現在の幼稚園教育要領と保育所保育指針   が改訂された際の特徴の一つとして,「保育者の役   割および指導性を明確に位置付けようとしている  

点」をあげることができる。「保育者の指導性の顕   在化が志向される今日,保育を構造的に捉える視点   について再考することは,保育者の指導技術の構築   のための一助となるのではないかと考える。」こう   論じた上で,彼女は,1960年代後半からのよく知  

られている保育橋造論を再検討した上で,その後の   保育橋造論橋築のあり方と保育構造論の存在意義に   ついて考察している。また,他方,前述の田中は,  

保育における構造的なとらえ方の必要性について次   のように述べている。3)「1990年代以降,子どもの   自発的な遊びを通した総合的な教育が強調されたこ   とによって,構造論は急速に消えていった。構造論   的視点では,子どもの生活や活動に保育者の一方的   な立場から分断的に捉える傾向になるというのがそ   の理由である。果たしてそうだろうか。……子ども   の生活がどのような質で周囲と関わりを持って成り   立っているのか,保育者が重層的・構造的に捉えて   おくことは,子どもへの多様で豊かな指導を保証す   る上で,必要ではないだろうか。」   

保育全体を構造的にとらえることは,保育者の役   割や指導性を明確にすることにつながり,現実の保   育所・幼稚園において豊かな指導をより確実に実現  

岡山大学教育学部幼児教育講座 700−8530 岡山市津島中3−1−1  

AStudyontheConstructionofTheoriesofFrameworksforEarlyChiIdhoodCareandEducation  

TomoyoshiYOIくOMATSU,YasumasaASANO*,AsamiCHIKAYUKI*andJin−ZhuangYAO*  

DepartmentofEducationforInfantS,FacultyofEducation,OkayamaUniversity,3−l.1Tsushima−naka,Okayama700−  

8530  

*GraduateSchoolofEducation(Master sCourse),OkayamaUniversity  

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する上で必要であると考えられる。今日,豊かな指   導をより確実に実現する志向性が強まっているとい   え,そのための理論的研究は,筆者らも重要である  

と考える。   

そこで,本稿では,環境を通しての教育を行うこ   とを基本的立場としながらも保育構造論の観点を再   評価しようとする主張と,保育構造論に対する今日   の批判とを再検討する。その上で,豊かな指導をよ  

り確実に実現するために,保育構造論の観点はどの   ように活かすことができるのか,また,活かされる   保育構造論とはどのようなものなのかについて考察   する。  

2.平成元年以降における保育構造論批判の分析と   

検討   

ここでは,環境を通しての教育という考え方がわ   が国の幼稚園教育の基本として公表された平成元年   以降を今日の教育観に基づく時期ととらえ,この時   期における保育構造論批判を分析・検討する。今日   の教育観に基づく時代に限定したのは,何をどのよ   うに育てるかについての基本的考え方が異なれば,  

当然批判の仕方も異なってくるからである。また,  

今日の主張は,今日的研究水準のものであり,これ   から保育界で保育構造論についての考え方を構築す   る上で,研究対象として有効と考えられるからであ   る。   

1)保育構造論という用語で意味される内容を分   類することの必要性   

まず,保育構造論という言葉の意味内容について   どのようにとらえられているかについて述べる。/ト   川は,2004年刊行の日本教育方法学会編『現代教   育方法事典』において,この点に関連して次のよう   に述べている。「一般的には『幼児教育の構造』と   いう言葉は,実践的には,幼稚園・保育所の区別な  

く,『保育内容の構造』という意味で使われる。言   いかえれば,計画的に保育活動を展開するためには,  

幼児の発達特性や活動特性を考えてどのように保育   内容を構成するかが問われることになる。」そう述   べた上で,保育内容を生活と遊びに二分して構成す   る考え方,生活と遊びと課題に向かう活動ないし課   業の三つに分けて構成する考え方を紹介している。4)  

この種の構造的とらえ方については,保育内容構造   論と呼んだ方が意味を限定する上で適切と考えられ  

る。   

一方,光本のように,保育実践全体を構造的にと   らえようとする保育構造論を問題にしている研究者   もいる。5 保育実践全体を構造的にとらえようとす   る場合,保育の目標,内容,乳幼児の発達,周りの  

環境,保育者の働きかけ等,保育にかかわることを   構造的にとらえることが必要となる。この種の構造  

的とらえ方については,保育実践構造論と呼んだ方   が意味を明確にする上で適切と考えられる。   

保育構造論批判と言っても,保育内容構造論を批   判する場合の論展開の仕方と保育実践構造論を批判   する場合の論展開の仕方とでは,当然異なってくる   ことが予想される。なぜなら,子ども,保育者,ね   らい,環境等保育にかかわることを構造化していく   場合の保育実践全体の構造化と保育のねらいやねら   いを達成するための指導事項(願う活動内容)を構   造化していく場合の保育内容の構造化とでは,当然   内容も異なってくるし,保育における活かし方も違   ってくると考えられるからである。こうしたことか   ら,意味内容に応じて,保育内容構造論と保育実践   構造論という言葉を使い分けて,批判を検討する必   要があると考える。   

このように意味内容を二つに分けて,それぞれの   意味内容ごとになされている批判が妥当であるかど  

うかを分析・検討した研究は,国立国会図書館の   NDL−OPACで平成元年以降刊行の雑誌記事に範囲を  

限定して検索を実施したが,見いだすことはできな   かった。そこで,本稿では,最初に,諸批判を明確   にした上で,保育実践構造論の場合と保育内容構造   論の場合に分けて,再検討することにする。   

2)批判の分析   

平成元年以降の保育構造論批判を明確にする。   

田中は,前述のように,「構造論的視点では,子   どもの生活や活動に保育者の一方的な立場から分断   的に捉える傾向になる」という主張を取り上げてい   る。(; この主張は,保育構造論への批判ととらえる   ことができる。   

小川は,前掲吾において,前述の保育内容を構造   的にとらえようとする試みについて次のように述べ   ている。「こうした試みは教育する側が自らの意図   的計画的活動を明確に自覚したいという意味で,学   校教育における教育課程や指導計画の考え方を強く   反映しているといえる。それゆえ,そこでは,幼児   の自主的遊びの活動の場は保障するけれども,幼児   の成長発達にとって必要とされる生活にかかわる活   動,大人が提供する文化に関する活動は,幼児に必   要とされるものとしてきちんと位置づけるという考   え方がみえる。それゆえ,これらの構造論は子ども   たちに何を経験させたいかという点からの構造化で   あって,それらの内容が幼児たちにとってどのよう   な意味をもつかといった点からのものではない。」7  ここでは,「子どもたちに何を経験させたいかとい   う点からの構造化」である点が問題の核心となって  

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(3)

走・一斉活動を,明確に位置づけたり重視する風潮   にあった」。しかし,「1980年代以降,保育構造論   の提案は,激減する」。「この保育構造論の衰退」に   ついて,小山は「構造論の限界と問題点が明らかに  

されたことと関連している」と考える。そして,  

「その問題点とは,一つには,構造論により保育の   全体構造を把握することはできても,子ども一人ひ  

とりの内面の育ちを読みとることができないこと,  

二つには,保育構造論の中にもみられるように,  

『仕事』や『課業』などの保育者側の意図的活動が   強調されすぎたため,幼児教育の根幹となる『自由   遊び』が疎かにされることに警鐘を鳴らす幼児教育   関係者の意見があったことである。」この保育構造   論の衰退と関連する議論として,彼女は,「『構造論   は保育実践に役立つのか』といった構造論と保育実   践との関連を問う議論」と「子どもの育ちのプロセ   スを検討するための方法を模索する議論」とをあげ   る。そして,次のように論じる。1990年代に,研   究の中心は,「保育実践を検討するための子ども 一   人ひとりの育ちを読みとる保育カンファレンスや自   由遊びにおける子どもの分析方法の検討」にとって   代わられた。「つまり,幼児教育者の関心が,保育   構造論にみられる保育理論や保育目標といった保育   全体の枠組みへの関心から,保育者の自己の保育行   為を検討する視点や検討方法へと移っていったので   あり,そのことも,幼児教育内における保育橋造論   の衰退の要因といえるであろう。」   

以上のことから,小山は,1960年代からの保育   構造論の展開の歴史的意義について,「保育構造論   の展開により,保育者に保育を見る際の様々な指標   を提示し,よりよい保育内容を考えるという共通認   識を幼児教育全体に与えたといえるであろう」と述   べる。そして,「保育橋造論は,保育実践者に保育   をどう見るか,どのように検討するかといった視点   をもたらした」と考えている。   

小山は,子ども一人ひとりの育ちを読みとること   ができない点と自由遊び軽視に警鐘を鳴らす幼児教   育関係者の意見があった点とを保育構造論の問題点  

ととらえている。このとらえ方も,田中が取り上げ   た批判や小川白身による批判のように,子どもの視   点を重視する立場に立つものといえる。しかし,彼   女の場合も,保育実践構造論と保育内容構造論とに   場合分けして考察されたものではないといえる。   

4)今後の保育構造論構築のあり方に関する研究   の分析   

光本は,1960年代後半からの保育構造論を概観   した上で,保育橋造論の構築の仕方と存在意義につ   いて論じている。その際,1985年に公表された森   いるといえる。そして,この点から生じる保育内容  

の構造化について,次のように批判する。ホ)「『生活』  

と『遊び』を区別する必然はない」。「特に,遊びは  

……自主的な群が成立したり,自主的に何かをつく   り出すことを学ぶ機会である。こうした遊びはさら   に生活習慣のお片づけや,食事の準備などを自分た   ちのグループで自力でやる喜びとも結びついてい  

く。」「子どもにとっては,なかでも3歳児などでは   ごっこ遊びとお片づけは,区別できる活動ではな   い。」ここでは,理論が子どもの活動の実際に合っ   ていない点が問題視されている。   

田中の取り上げた批判と小川自身による批判は,  

子どもの視点からでなく大人の視点から構造化がさ   れており,その結果,子ども白身の生活全体が適切   にとらえられていなかったり,子どもの活動と合わ   なかったりするというものである。そして,小川は  

「幼児教育の構造は上から(大人から)降ろすとい   う発想ではなく,子どもから構成され直す必要があ   る」り)と主張する。ただし,こうした批判や主張に   ついては,保育実践橋造論に対するものなのか,そ   れとも,保育内容構造論に対するものなのかを明ら   かにする必要があるし,仮に保育内容構造論に対す   るものであることが明らかである場合でも,保育者   のねらいや指導する事項(願う活動内容)を構造化   する保育内容構造論に対して,妥当な批判であるか  

どうかを検討する必要があるといえるであろう。   

3)保育構造論の展開・衰退過程に関する歴史的   とらえ方の分析   

保育橋造論に関する歴史的研究として,小山の   2002年の論文「幼児教育力リキュラムの史的展開   一戦後わが国の『保育構造』論を中心にして」10   

をあげることができる。ここでは,1960年代以降   の保育構造論の展開・衰退過程に関する彼女のとら   え方を概説する。   

小山の考えでは,保育の構造化は,学校教育の思   想的影響を受けて推進された。「小・中学校等の学   校教育では,1950年前後に起こった生活経験主義   批判を受け,戦後数年間に実践された生活経験主   義・生活単元学習から,教科内容と教育課程の系統   的編成への転換が図られた。幼児教育でも当時の学   校数育の思想的影響を受け,保育実践に教育課程の   系続性の思想が持ち込まれ,『保育の系統性』や  

『保育の構造化』が鍵概念として用いられた。」「そ   の際,幼児教育研究者は,教育内容配列や順序とい  

う概念を子どもの心身の発達段階や発達の道筋とし   て捉え,子どもの発達段階をカリキュラムや指導計  

画の立案の基礎としながら保育内容の配列を考え」,  

また,「保育者主導の『課業」】や『仕事』などの設  

(4)

を行った小山も,よく知られている保育構造論を分   析・検討した上でこれからの保育構造論構築の仕方   や存在意義について論じた光本も,前掲の1985年   公表の藤野・森上・吉村による座談会記録「座談会   構造論は保育実践に役立つのか」に注目している。  

小山は,この記録を保育構造論衰退に関係した資料   ととらえ,光本は,保育構造論構築上の課題につい   て論じたものとして検討対象としている。現在の研   究水準で,同資料は1960年代以降の保育構造論に   ついて研究する上で重要な資料と位置づけられてい   るといえよう。そこで,本稿でも,同資料を再度分   析・検討することにする。   

同座談会記録に述べられている保育構造論への批   判や保育構造論構築上の課題については,光本が概   説している。その内容は,次のようにまとめてよか   ろう。保育実践を保育構造論に当てはめることによ   り,その中に含まれる子どもの育ちのプロセスや生   命の躍動を示す多様な要素を読み取ることが困難に  

なり,実践が硬直化する危険性がある。この点を乗   り越えるためには,保育構造論を構築する際,①実   践者自身が保育構造を崩しては組み替えられる性質  

と,②保育者と子どもの相互作用を読み取れる視点   が含まれることとが必要である。   

筆者らは,光本が取り上げた部分以外に,同座談   会記録において,どのような構造論が取り上げられ   ているのか,構造論の存在意義はどのように論じら   れているのか,構造論に対してどのような批判がな   されているのか,構造論構築上どのような課題があ   げられているのかを再分析し,その内容について再   検討する。これまでの研究では,保育構造の意味内   容によって場合分けして考察がなされていないの   で,詳細な考察はいまだできていない状況にあると   考えられる。考察を詳細にすることを試みる。   

取り上げられている構造については,二つあげる   ことができる。   

一つは,藤野の言う「人間のもっている伸びてい   く仕組み」という構造である。物的人的環境とのか   かわりの中で子どもたちが自ら伸びていく構造とい  

ってよかろう。これを保育実践とのかかわりで言う   と,保育実践の中で子どもたちが伸びていくプロセ   スの構造といえ,理論的には保育実践構造論の問題   といえる。   

今一つは,藤野の言う「上から与える教育内容の   骨組み」という構造である。これは,理論的には保   育内容構造論の問題といえる。この種の構造論の場   合,教育(保育)内容が,教育(保育)者のねらい   とか指導する事項とかを意味している場合,保育者   側の願いを表すものである以上,全体として構造化   上史朗司会による藤野敬子及び吉村真理子との座談  

会記録「座談会 構造論は保育実践に役立つのか」‖)  

における議論に注目している。その中の,「保育実   践を『保育構造よ論に当てはめることにより,保育   実践の多様な要素の読み取りが困難をきし,実践が   硬直化する危険性を含んでいる」という主張を取り   上げ,読み取れない要素は「子どもの育ちのプロセ   スと生命の躍動」という言葉で示されていると言う。  

そして,それを乗り越えるための課題という観点か   ら資料内容をまとめると,「①実践者自身が崩して   は組み替えられる『保育構造」」。②保育者と子ども   との相互作用が読み取れる視点の構築についての掟   示がみられる。」と述べる。12 

この点に対して,光本は,「どのような視点で構   造化するか,もっといえばどの課題の必然性に応え   て,『保育構造』を作りあげるかによって,保育実   践の見え方が異なってくる」という意味で,保育構   造は,「子どもの実態一保育のねらいカリキュラ   ム作成一保育の実践一保育の分析といった実践のサ   イクルの各要素それぞれに位置づく」ことが必要で   はないかと主張する。このことは,実践のサイクル   の各要素での把握や設定や作成や実施や分析の場面   ごとに,対応した保育構造の把握・活用が必要とい   うことであろう。また,「実践現場において保育者   の指導について考察する場合,保育者の指導とその   他の要素との関連について,意図的に問題とされ検   討されることは少ない。…それはその保育者の経験   知にゆだねられていることが多いように思われる。」  

と述べた上で,「経験豊かな保育者」は,子どもと  

「どう関わるか」を「判断する」瞬間に,「保育を構   造的に捉えかえしているといえるのではないだろう   か」と論じる。その上で,次の結論に至る。「保育  

を構造的に捉えるという視点は,単に保育活動の成   り立ちを重層的に捉えるということではなく,それ   ぞれの要素が相互に力動的に作用することを掟示  

し,保育実践活動における 〈保育者の指導内容およ   び方法〉 と 〈子どもの発達〉 とを広角的に捉えてい  

くことを含んでいる。その意味では,保育者の指導   性の壊小化,保育者の指導と子どもの自主的活動と   の偏向をとどめる可能性を含んでいるといえよう。」13−   

彼女の主張は,実践のサイクルの各要素ごとに対   応した保育構造について考察することの必要性と保   育における指導上の偏りを検討する上での保育構造   論の存在意義とを指摘しているものといえる。  

3.保育構造論の衰退に関係すると考えられる座談    会記録の再分析と再積討   

保育構造論の展開・衰退過程に関する歴史的研究  

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(5)

しようとするとき,子どもの相互作用や生命の躍動   感や育っていくプロセスの詳細は,理論的に含まれ   ないはずである。したがって,上から与える形と解   釈されやすいが,そもそもそのような性質のものと   いえる。   

保育内容構造論については,「カリキュラム等と   共に,基本的考え方として頭に入れておけば,保育   者が豊かな指導をより確実に実現できるかどうか」  

という点から検討する必要があると考える。ここで   いう「基本的な考え方として」ということは,例外   を認める,つまり,その保育内容の構造から離れる   柔軟さも認めるということである。クーンのパラダ   イム論14Jにおいても,パラダイムとは,一定の専   門家集団に対して問い方や答え方の手本を示すもの   を意味するが,例外もあることを前提にしている。  

そのパラダイムを持つことが,基本的に問題解決上   有効であるという考え方といってよいであろう。保   育内容という用語の意味内容を踏まえた上で,保育   内容構造論について検討する場合,パラダイム論と   同様な観点から検討することが妥当ではないか。つ   まり,カリキュラム等と共に,その保育内容構造論   を基本的考え方として頭に入れておけば,保育者が   豊かな指導をより確実に実現できるかどうかを問う   ことが重要である。   

保育構造論の存在意義の論じ方については,長年   の保育実践経験を持つ吉村が,次のように論じてい   る。「保育者は目の前の子どもの姿,現象といった   ものに目が行きやすい。生き生きとした姿とか熱中   している姿,あるいは保育効果のような部分に,ほ   とんどすべてが注がれる傾向がありますからね。た   とえば各種の月刊保育雑誌に出てくる実践などを読   んでみますと,その活動でいかに子どもが生き生き   と遊んだかが記されています。私はそれはとても大   切なことだと思いますが,一方でその活動が保育の   全体のかかわりの中で,どういう位置づけにあるの   かというとらえが,乏しいと思うのです。」「構造論   の効果は,そうした個々の活動が長い見通しの中で  

どういう時点にあるのか,または生活全体の中では   どんな位置を占めているのかを関連づけて考えるこ   とに気づかせてくれる点にあるのではないでしょう   か。」吉村は,保育構造論が存在すれば,長期的視   野,生活全体の中での活動の位置づけを保育者が意   識していける可能性について論じている。   

保育構造論への批判については,言語によるモデ   ル提示の限界に関するものをあげることができる。  

藤野は次のように論じる。「幼児教育の構造という   のは,あくまでも,私たちが目にすることのできな   い複雑怪奇な営みを,言語を使ってひとつのモデル  

にしたものだと思うのです。そのことはとても意義   のあることではあるのですが,あくまでもモデルに   すぎず,そこから漏れるものはいくらでもあるわけ   です。……人間の成長や保育の営みの中にある未知   の部分に刻々と目を開かれていく喜びがなければ,  

構造論も静的な枠組みとして実践を締めつけてしま   うことになるでしょう。」この批判については,そ   の構造論に,そこから漏れる部分への対応の仕方が   含まれていれば問題ないとい  うことになる。   

保育構造論構築の課題については,四つあげるこ   とができる。   

一つは,長期的視野から保育で特に重視すること   を明らかにしていくことである。藤野は,「それぞ   れの活動が構造のどこにあてはまるかを考えていく   のではなく」,「ライフサイクルから見た重点のかけ   方,価値の選択が,これまでの構造論ではものたり   ないし,これからの幼児教育では必要になってくる   でしょう」と言う。また,「大人の側の尺度を性急   に持ち出さずに,もっと長いサイクルでとらえれば,  

それぞれの時期にゆったりと楽しむというか,生命   の躍動と絡み合いのある生活の構造が見えてくるの   ではないかと思うのです。」とも述べる。  つまり,  

子どものそれぞれの活動をすべて同じように位置づ   けるのではなくて,生涯とかの長期的視野から重視   することを考えていくことを主張している。   

今・つは,子どもの活動を正確に,あるいは,細   やかにとらえることができるものにすることであ   る。森上は次のように述べている。「たとえば遊び   と基本的な生活,生活習慣にかかわる活動などは,  

子どもが発達していく段階で徐々に別れていくべき   ものだと思いますが,2,3歳児の段階では明確に   は分けられないでしょう。手を洗うにしても,水を   使うおもしろさや,石鹸で遊ぶといった要素がかな  

りあるわけですよ。ですから,これは生活・仕事,  

次が遊びと単純に分離できない。そのあたりをてい   ねいにとらえていくことのできる構造論でなければ   ならないでしょう。」また,彼は次のようにも言う。  

「もしこれから保育構造論を作っていくとすれば,  

遊びと仕事についても,遊びの課題が仕事の課題に   なっていったり,分けられない部分や行ったり来た   りする部分もあるという,そのあたりをきめ細かく   だしていかねばならないでしょう。」   

さらに今一つは,子どもの育ちについてとらえる   ことのできる構造論にするということである。例え   ば,吉村は次のように言う。「子どもがそこで何を   経験し,どういうことに気づいているかをとらえて   いくと,‥・…保育者自身が子どもの具体的な姿を見   ながら,  ・人ひとりの活動がそれぞれにどう位置づ  

(6)

う。そして,二人の見解を踏まえて,森上も「でき   たものが大事なのではなく,作るプロセスが大事で   すね。それを経験していれば,常に作り変え,変化  

させていけると思います。」と主張する。つまり,  

保育者一人ひとりが,保育構造をとらえ直し続け,  

その中で自らの保育を変える方向性が分かることが   重要ということであろう。   

以上の議論をまとめると,次のようにいえよう。  

保育構造論は,その時の保育実践が保育全体の中で   どのような位置にあるのかを各保育者が意識するよ   うになる上で存在意義がある。しかし,保育構造論   構築には保育構造論から漏れるものがあることを前   提にしておかなければ,保育実践が硬直したものに  

なる。また,保育において特に何を重視するかにつ   いては,生涯とかの長期的視野から考える必要があ   る。長期的視野から考えると,子どもの生命の躍動   感とか子ども同士の相互作用とかを細やかにとらえ   ることができ,子どもの育つプロセスを把握できる   保育構造論が求められる。さらにまた,保育者によ   る保育構造論の受けとめ方を考慮したり,保育者の   年齢やその時の考え方の違いに応じて保育構造のと   らえ方は変わってくるので,保育者自身が保育構造   論を作り直すプロセスを重視したりする必要があ   る。   

保育構造論の存在意義については,保育全体の中   で今の実践がどう位置づくのかを意識できることに   つながり,保育者の指導性の矯小化や保育者の主体   性か子どもの主体性かのどちらか一方を偏重するこ  

とをとどめることができるであろう。このことで,  

豊かな指導をより確実に実現できる可能性は高まる   であろう。保育構造論の存在意義についての吉村の   見解は,光本の主張と共に,妥当ではなかろうか。  

保育者の役割や指導性を明確にすることが重視され   ている今日において,特に,保育構造論は存在意義   があると考える。   

また,光本は,この議論を踏まえて,保育実践サ   イクルの各要素ごとに十分に機能する保育構造論を   追究することの必要性を主張していると考えられ   る。この点については,保育構造論から漏れるもの   を含むことができるようにする方向性で,保育構造   論の追究を進めているといえるのではないか。   

これに対して,筆者らは,保育構造の追究の仕方   については,保育実践構造論と保育内容構造論とで   は,その構築のあり方について分けて考察する必要   があると考える。   

この座談会記録でも,両者の場合に分けて考察さ   れていない。前述のまとめた内容から考えると,保   育実践構造論を対象にした検討の仕方がなされてい   いているのかを見るといった,小さな構造論とでも  

いうようなものを作っていく必要性があると思うの   です。」また,藤野も次のように述べる。「子どもの,  

いまでなければできないことが明らかにされたり,  

創造的活動の中での自己学習の仕組みがわかった   り,育ちの基本としての人とのつながりといったも   のの意味が見えてくるような構造があるといいと思   います。」   

これらを踏まえると,森上が次の主張を行うこと   は納得できる。「もし,これから保育の構造を考え   るとすれば,枠としての構造ではなく,…具体的な   個々の子どもがイメージされ,その育ちの複雑なネ  

ットワークが見えてくるものでなければいけないで   しょう。しかも柔軟なものである必要があります。」   

最後は,保育者の受けとめ方にかかわることであ   る。吉村は,「これまでのいろいろな構造論も,そ   れを受けとめる保育者の一般的な資質といったもの  

を考えますと,有効にはなりにくいというか,なじ   みにくいと言えるのではないでしょうか。私自身,  

かつて保育者であったわけですが,どうも構造論の   ような理論的なものの現場の受けとめ方に問題があ   るように思います。」と述べる。また,森上も「構   造論と保育者の関係を考えていかなければならない   部分はたしかにあると思います。」と述べる。両者  

とも,保育者の受けとめ方を考慮することの重要性   を指摘していると言ってよい。   

また,保育者による保育構造論の活用に関連する   次のような重要な議論がある。吉村は,「たとえ森   上先生がとても柔軟な構造論を作られたとしても,  

運用していく保育者がそれを十分に活用していくた   めには,プラスアルファといったものが求められる   でしょう」と指摘する。そして,長い現場での実践   経験を振り返り,「プラスアルファというのは保育   者なりに違ってくるし,同じ保育者でも年齢やその   時の考え方で変わってくるのが自然だと思います」  

と主張する。吉村には「保育は人間が生きていくた   めにどのような経験でなければならないのか,どう   いう内容でなければならないのか,を考えていくこ   とが,乳幼児の生活経験の組み立てになっていく」  

と述べている部分があり,人間が生きていくために   求められる経験のあり方についての考え方もこのプ  

ラスアルファに含まれると考えられる。したがって,  

彼女は「すべての人が納得するような構造論を望む   のはおかしいでしょう」と述べる。藤野も,「構造   論というのは組み立てだから,自分で考えながら何   度も組み直してみることのできるようなものである   といいわけですね」と述べ,「自分の保育を変えて   いく方向性がわかるようなものがあるといい」と願  

−108 −   

(7)

保育者による保育内容構造論の受けとめ方におい   て問題が生じないようにする上で,前掲座談会記録   における吉村の考え方が参考になる。長い実践経験   をもつ彼女の言葉を次にあげる。「教育とか保育と   いうことになれば,昔から伝わってきている人間の   育ちの過程を知って,本当に人間として望ましいと   思えるような文化の中で育ててやりたい。しかも,  

それぞれの家庭環境や生育の歴史を背負っている一   人ひとりの子どもに対して,その子に欠けているも   のを補っていきたいと思うわけです。興味をもつか   もたないかの選択は子どもに委ねるとしても,少な   くともそういう刺激は与えたいというのが,私たち   保育にかかわる者の願いではないでしょうか。」「私  

はやはりきちんとした骨組み,設計図は必要だと思   います。しかし,保育の場面ではその骨組みを子ど   もに感じさせないものであり,保育者自身も忘れて   しまうことがもしかしたらいちばんいいのかもしれ   ません。自分の中で理論化されていなくても,それ   ができる保育者もいると思います。よくそれを感性  

とおっしゃる人がいるけれど,それは生まれつきの   ものではなく,やはり知性というか知識の積み重ね   によって支えられているものだと思います。」「構造   といった骨組みは,内に秘めておいて,外には表わ   れないものではないでしょうか。」   

彼女の考え方を参考に筆者らは,次のように考え   る。本当に人間として望ましいと思えるような文化   の中で育てたいという願いを保育者は心に秘め,考   えられる経験を情造化し,それを羅針盤のようなも   のとするが,実際の保育においては子どもに寄り掠   っていくことが重要である。このことを実現するた   めには,保育そのものに関する知識と共に,人間と  

して望ましい文化とか人の育ちの過程とかに関する   知識も積み重ね,知性を磨くことが必要である。そ  

うした意識を保育者が持ち,自らの願う経験も考え   直しつつ保育内容構造論として構築・再構築してい  

くことが重要である。それが可能になれば,保育者   の役割や指導性を明確にする議論も必要なくなり,  

愛情と共に知性の磨かれた保育者の保育実践が期待   できるのではなかろうか。   

教育基本法における幼児教育の基本を踏まえれ   ば,人格の完成へと向かう上での基礎形成とはどう   あればよいのかについての認識を保育者は深めてい   かなければならない。その認識については,経験や   教養や洞察力が異なれば,違ってくるであろう。し   かも,その認識に基づいて,幼児期の経験の中で特   に何を重視するか,特に重視すべき経験と他の経験   はどう関係するのかは,考察される。そうした意味   でも,保育者の願いとその構造化についての追究を   ると考えられる。したがって,保育実践構造論構築  

のあり方についての考察は深められているが,保育   内容構造論構築のあり方については,意識的な考察   がなされていないと考えられる。前述のように,保   育内容は,保育者のねらいや指導する事項を意味し   ている場合,保育者側の願いを表すものである以上,  

その願いを全体として構造化しようとするとき,子   どもの相互作用や生命の躍動感や育っていくプロセ   スの詳細は,理論的に含まれないはずである。この   点を踏まえれば,保育内容全体の構造については,  

クーンのパラダイム論と同様な考え方で,カリキュ   ラム等と共に,基本的考え方として頭に入れておけ   ば,保育者が豊かな指導をより確実に実現できるか   どうかという観点から検討することが重要であると   考える。ここで言う  「基本的考え方として」という  

ことは,例外を認める,つまり,その保育内容の構   造から離れる柔軟さも認めるということである。ま   た,パラダイムは,周知のように,転換が起きるこ  

とが前提になっている。つまり,作り変えられるこ   とが前提である。したがって,パラダイム論と同様   な観点に立って保育内容構造論を構築しようとする   とき,次の点の検討が必要ということになる。長期   的視野から特に何を重視するかが考えられている   か。カリキュラム等と共に,基本的考え方として東   に入れておけば,保育者が豊かな指導をより確実に   実現できるか。保育者の受けとめ方が考慮されてい   るか。  

4.保育実践構造論と保育内容構造論の構築に関す    る基本的考え方   

保育実践構造論については,今日,  環境を通して   の教育が重視されていることを考えると,子どもの   生命の躍動感とか子ども同士の相互作用とかをとら   えることができ,子どもの育つプロセスを把握でき   るものが望ましいと筆者らも考える。また,基本的   な見方として理解し,例外も認めるという考え方は   必要であろう。さらに,保育者の受けとめ方を考慮   すると共に,保育者が作り変えるものという点も重   要であろう。森上らの議論を踏まえながら,パラダ   イム論と同様な観点を加えて保育実践構造論を橋  

築・活用することが妥当であろう。   

保育内容構造論といえるものは現在も研究されて   いるが,保育内容構造論については,長期的視野か  

ら保育において特に何を重視するかが考えられてお   り,カリキュラム等と共に基本的考え方として頭に   入れておけば,保育者が豊かな指導をより確実に実   行できるものを構築する必要がある。また,保育者   が作り変えるものという点も重要であろう。  

(8)

深めることになる保育内容構造論構築は,実践にお   いて子どもに寄り添う等の留意事項を踏まえた上で   はあるが,今日重視されなければならないと考えら   れるのである。  

注  

1)田中まさ子『幼児教育方法史研究』風間書房,  

1998年,326ページ。  

2)光本弥生「『保育構造』論についての一考察」  

『中国四国教育学会 教育学研究紀要』第46巻第   1部,2000年,626−631ページ。  

3)田中まさ子,前掲書,326ページ。  

4)小川博久「幼児教育の構造」日本教育方法学会    編『現代教育方法事典』図書文化社,2004年,  

133ページ。  

5)光本弥生,前掲論文。  

6)田中まさ子,前掲書,326ページ。  

7)小川博久,前掲書,133ページ。  

8)小川博久,前掲書,133ページ。  

9)小川博久,前掲書,133ページ。  

10)小山優子「幼児教育力リキュラムの史的展開    戦後わが国の『保育構造E】論を中心にして−」  

『島根女子短期大学紀要』第40号,2002年,4ト   

51ページ。  

11)藤野敬子・森上史朗・吉村真理子「座談会 梼    造論は保育実践に役立つのか」『保育研究』第6    巻第2号,1985年,7−20ページ。  

12)光本弥生,前掲論文,630ページ。  

13)光本弥生,前掲論文,630−631ページ。  

14)T.S.Kuhn,rねe gfγ祝C豪祝γe げ5c宜e常吉げic   

Revolutions,Third Edition,The University of    ChicagoPress,1996.(トーマス・クーン 中山茂   

訳『科学革命の構造』みすず書房,1971年。)  

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参照

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