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フィリピ書の修辞学的分析

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フィリピ書の修辞学的分析

著者 原口 尚彰

雑誌名 ヨーロッパ文化史研究

号 14

ページ 55‑78

発行年 2013‑03‑30

URL http://id.nii.ac.jp/1204/00024339/

(2)

ヨーロッパ文化史研究 (2013年3月30R)

第14号

ララ

今岡

フイリピ書の修辞学的分析

原口尚彰

問題の所在 主要研究の検討 il参辞学的分析 3.1 修辞的状況 3.2配列構成 3.3 修辞的種別 3.4 il豊辞的コメント 結論

4

1. 問題の所在

修辞法(pmOpLKi)とは,古代ギリシアにおいて発達した言葉による説得の技術であり (プ ラトン 「ゴルギアス」 452e‑453a;アリストテレス「弁論術」 1355a) .都市国家において 指導者たちが行う公共の演説に用いられていた' ・修辞法の理論は, 後にローマ人によっ て継受きれ, ギリシア・ローマ世界全体の文化的伝統の一つとなった (キケロ I発想論」

1.6‑7; 「演説について」 1.8.32‑33; 1.32.138; クウインテイリアヌス 「弁論家の教育」

2.15.1‑37)。ギリシア人やローマ人は, 法廷弁論や議会演説, ざらには祝典演説や追悼演 説を通して, 共同体を形成したのである (キケロ「発想論」 1.2.23; 「弁論家について』

1.8.3233)・

初期のキリスト教はローマ帝政下の地中海世界に広がったので, 新約聖書中の文書にも 周辺世界であるギリシア・ローマ世界の修辞法の影響が見られることが注目を集め.英語 圏の学者たちを中心に,修辞学を聖書解釈の方法論として応用する修辞学的批評の試みが なされるようになった。特に国際的しベルで修辞学的批評が注目きれるようになったの は, 1974年の国際新約学会(StudiorulnNoviTbstamentiSocietas)において H.D.Betzが行っ

' R.Volkmann,Di(JRノ1EIUr/AdfJrGri"/暉卯 I"1dRdFIMr"7 s)IsIヒ"川〃江/TErUIJErsir/1r (LeiPzig:Teubner, 1885;Nachdruck,Hildcsheim: G.Olms,1987) l16; l.Mdrtin,A"〃kER/rmrikf 7セご加般型 Mど"Iof左 (Miinchen: Beck, 1974) 1 12;H,Lausberg,H["1cJI'00AQfLiiemr)」RIierorj[; AFb""d""。"/brLiremr)'sf"[j)' (tran5.M.T̲BliSS/A. lansen/DEOTton. Leiden: Br111, 1998) 、3233 (=ppl7‑18) ,

(3)

た主題講演によるところが大きい'2・数年後に彼は注解書「ガラテヤ人への手紙(Gajα‐

"α"s)j を刊行し、 一つの新約文書全体を修辞学的視点から解釈してみせた 。 さらに,

1984年に刊行きれたG.A.Kelmedy著「修辞学批評による新約聖書解釈(jWw恥、"le"r J"reiPret"jo'1 ilir・"gl'RjIEm""ICrj"""1)」は, 修辞学批評による新約聖書本文の解釈の分

かり易いモデルを提示し, 以後の修辞学批評の発展に大きな貢献をした'』'・

新約聖書の修辞学的研究についての'五l際学会が, 1992年にドイツのハイデルベルクで 開催されて以来定期的に開催きれ, 聖書の修辞学研究に従事する世界の学者達の重要な 研究フ十一ラムとなった帥。国際新約学会(StudiorumNoviTEstamentiSocietaS)において 20022008年に設けられたセミナーグループ<PaulandRhetoric)は,その研究成果をまとまっ た論文集の形で公表した6・古典古代や初期キリスト教の修辞法の研究の手引きとなる包 括的な基本苦も次々に刊行され, 修辞学的研究を行うために参照すべき補助手段も整って 来ている '・新約聖書の修辞学的研究は 既に主要な聖耆解釈の方法論として定着したと 考えて良いであろう。

日本の聖書学会では まだまだ歴史的・批評的方法論による聖書解釈の伝統が強く 修 辞学批評のような文学的方法は十分に理解されているとは言えないが.一質して修辞学的 解釈を試みている山田耕太氏のような例外がある'腓'。 また.著者も注解耆やモノグラフに おいて修辞学的釈義を試み 修辞学的分析の持つ新しい可能性を示した訓。

$! H、D.BE[z, "、ThELiteraryCompositiontlndFunctlonofPaul'sLEttertotheGalatians,.、NTSZl ( 197罰353

379‑

,1 HD.BI/z,G(J/iJMIMF (Hermenen,Philadelphia : FOrtress, 1979) .

』 G.A.Kennedy,NE1''恥j、"JE打rル1花叩r ・灯"1milg/IRノ1fmri"ICrificis"r {、ChapelHill,NC:nleUniver

sitVofNOrthCamlinaPress, 1984) ,

、 Porter,SE̲andT,H.O1briCht.eds.,R/JEmrKa 〃lflWⅡ'Tb" }肥加. EssmJI's̲""'"'IJ I992HEidelIJEPg CD'l/brf""(ISNTSup90; SheH1eld: ISOI1993) ; idem.,RIIErori(‑,ScriPr"ren" j刀1"loglL EsJIJ)幅ノr・'〃〃花 ノ994Preiormco'"ど""(ISNTSup旧1 1 SheHield: Shem,aldAcademi(二PrEss, 1995,) i ldem. ,Rノ肥[。" A" ル

)崎応。/Scrjpmrf Ess")'s加加iルヒ J995Lo"(jp"Co"/tr""(ISNTSupl46; Sh巳価eld: She価eldAEademk Press, 1997) iSEPort(JrandD.L, Stihmp&eds.,刀肥Rノ1eroric"""ie'prem"・"qfScripr"re'Ess")'s."o"'〃花 I996MαノjIJMCD'l/trE""(ISNTSup l80; 511emeld: SheifieldACademifPreSS, 1999) ; S.E.POrterandD. L.

Stamps.eds.,RABmr"ICrirkiS"1"IIJr/1EBM]if (ISNTSuPl95i Sheffieid: SheffieldA(gademi(二Press,2002,) .

《Ⅲ IRSampleyandPLampeeda>PIJIJI""<JRノ1EI(JriE(NewHbrk/London: T&TClark,2010) .

7! R.VoIkmann,DieRIIEmriA側〃GrifcI肥〃IIFT[JR6醜とfが1 s)ノ3femq""ノ1Er"]ErsicITr (LeiPzig:Teubner,

1885;Nachdru(gk,Hildeshcim:GOlms, 1987) ; 1.Marti 11, 」4町〃AどR/1EI(]1・jkJ TtJ[A師klj打 jM唖加【た (Mimchtm: Beck,197411G.A.Ke]]nedy,ANEwHisioノフノ (ヅα s /RノIEmric (Princeto'',NI : Princeton UnivcrsityPress, 1994) ; S.EPOrtered.,H"I(ffJooAQ/℃I 5jmlRノ' Drk〃' 1ノIEHE"E"is"rPErj 0B,C,A,

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rir(Eugine,Org. :CascadeBooks,2009) ,

H 山田耕太「新約聖苦の修辞学」キリスト教図茜出版社 ZOO8年. 同「フイロンと新約唯苦の修

辞学」新教出版社.2012年, │司「新約学の新しい潮流」 I福脅と世界」 2012年7月号3842頁を参照・

.」 原口尚彰「ガラテヤ人への手紙」新教出版社2004年|両l 「ロゴス エー}、ス・パトス」新教

(4)

フイリピ害のil参辞学的分析 ラフ 1980年代以降パウロ書簡の修辞学的研究が急速に進展する中で, フイリピ害に修辞 学的分析を加える本格的研究が出て来た。本論考は先行研究を批判的に吟味した上で,フイ

リピ耆に新たに修辞学的分析を行って, この新しい新約聖書解釈法の持つ可能性を試して みたい[。修辞学的批評は 修辞学の概念や技法を聖書テキストの中に発見することに主眼 を置いて来たが それを越えて,語り手や聴衆が置かれている具体的な社会的・文化的文 脈の中で,語られる言説がどのような働きをなすのかという社会的・文化的機能や効果を 分析する事へ進んでみたい、

フイリビ書固有の研究課題としてその統一性の問題が,批評的新約聖書学において論じ られて来たが,特に, 1950年代後半にドイツ語圏と英語侭│において集中的な議論がなされ,

この耆簡は元々2つまたは3つの独立の書簡が後に一つにまとめられたのだとする複合書 簡説(分割説)が歴史的・批評的方法を採用する研究者の間で有力となった。他方,耆簡 の統一性を擁護する単一書簡説(統一説) も主として保守的な学者達を中心に根強く主張 きれてきた。 しかし, 1980年代末に古代耆簡論や修辞学批評を分析手段としてこの問 題に適用する研究者達が登場してからは様相が一変して,少なくとも,英語圏においては,

単一耆簡説(統一説)の方が有力になって来た。但し, フィリピ菩の統一性の問題は他の 論考で詳しく論じたので,詳細はそちらに譲り,本論考では論じない ' 。最近のフイリピ 吉の修辞学的研究には,耆簡の統一性を擁護するために修辞学的分析を援用する傾向が強 いが, 修辞学批評は複合書簡説にも単一書簡説にも結び付きうる。複合書簡説が復元した 個々の書簡について修辞学的分析を行うことも,最終形態である現存の書簡を統一体とし て修辞学的に分析を試みることも原理的には可能である。 しかし.複合書簡説が想定する 個々の書簡は,現存耆簡の中に断片的に保存されているだけなので,修辞学的分析が出来 る可能性は限られている。本論考では.書簡としての全体性を維持している現存書簡の方 に集中して修辞学的分析を加えることとする。

2. 主要研究の検討

本節では近年盛んになって来たフィリピ耆の修辞学的研究を,批判的に回顧し,学的評 価を加えることにする。G.A.KEImedyは, 新約聖書の包括的な修辞学的研究の中でブイ

出版社Zoo5年を参照。

'・# 原口尚彰「フイリピ苔の統一性問題と苔簡諭的分析」 「東北学院大学キリスト教文化研究所紀要」

第30号(2012年) 1‑27頁を参照。

(5)

ラ8 論文

リピ害に短く言及し, 「概ね演示的である」 とした'、'□ これに対して、 D.F.Watscnは,

Kennedyの修辞学的分析モデルをフイリピ書に適用した論文の中で.フィリピ書を助言(審 讓)弁論と規定した'2'・フィリピ害の執筆・送付を促した修辞的状況を構成しているのは ユダヤ主義的な宣教者達の影響が及んで,教会が分裂しパウロの宣教が損なわれる危険で あI) . パウロはフイリビ人達に対して, 福音に相応しく 、一致して生きるように勧めたの であった。Watsonによるとフィリピ書の配列構成は以下の通りである13 C

前書きl : 1‑2

序論(exordium) 1: 3‑26 叙述(narratio)l: 27‑30 論証(Probatio) 2: 1 3: 21

最初の展開2: l‐11 第2の展開2: 12‑18 脱線2: 1930 第3の展開3: 1‑21 結語(Peroratio) 4: 1‑20

繰り返し4: 1 9 感情への訴え4: 10‑20 後書き4: 21‑23

論文の後半において,WatSOnはフイリピ耆の統一性の問題を修辞学的視''.!Iから論じ.

フィリピ書は複合書簡ではなく .統一性を持った単一書簡であるとした'小。彼は言語的・

主題的観点から統一性を主張するGarlandらの意見を援朋する他に, フィリピ書が修辞学 的観点からしてバラバラの部分の集積ではなく.統一性をもった言説であることを強調し た。特に, 3 : lと3: 2の間における論調の急激な変化は, 修辞学的には移行(transitio) と評価きれ.演説においては異例ではないと主張しだ15'□ きらに,Wat5onは4: 10‑207jI ' 1 1 G.A,Kenned)',NBwTirsmFTIE郡Ⅳ虻EFPref"m""'mug/IR/1"0r"ICrimjj5171 (ChapelHill,NC:TheUnivEF

sit)'GfNorthCarolinaPrcss, 1984) 77.

Iz' D.F.Watson, &lARhetOr虻alAnalysisofPhilippiansanditslmplicationsibrtheUnit)'Question,' 'N()''歴並30 ( 1988) 59‑60; さらに, id,am, > 、4ThreeSPIsciesofRhetori(sandtheStudyofthePauilneEPIstles,''PkJIIノ ["価 Rノ1erork(eds. 1.RSample)「andPLampe;NEwYork/London: T&TClark,2010) 2829を参照,

'] WatsDn,"ARhetoricalAnalysis,''6() 80.

'、 Watson, $[ARhetcricalAnillysis,''82‑87.

唱特にWat50n, 、[ARhetoricalAnalvsIs,''85‑8fiを参照ゞ

(6)

フイリピ書の修辞学的分析 ラ9 手紙の結びの部分に出てくることも,修辞学的には不自然でないとした。演説の結びにお いて.聴衆の感情に訴えることがなされ, 4: 10‑20はその目的に適っているとするので

ドープ 16

街うつ o

WatsoI1の研究に触発きれて, フィリピ書の修辞学的分析の試みが一斉になきれるよう になった。例えば, A、H.Snymanは,Watsonによるフイリピ耆の配列構成分析を基本的 に受け入れた上で.特に,結語(4: 1 20)の部分に考察を加えた{ 17」D Snvmanは,結語の 部分が.要約(4: 1 9) と感情への訴え (4: 1020) に裁然と二分きれるのではな< ,要 約の要素と感情への訴えの要素は,結語部全体に交差して出てくると主張した{ '8'。さらに,

結語(4: 1‑20)の部分には. エートス ロゴス パトスという3種の論証法が効果的に 用いられていることを示した' 19'。尚, Snymanは, 後に. ヘレニズムの修辞学的概念を背 景が全く異なる聖書テキストに押しつけることに懐疑的になり フイリピ書自体の言葉遣 いや論理構造に即しながら. フィリピ書の記述が持つ修辞的機能を釈義的に明らかにする ことを試みるようになった 。

L、GBloomquistは. フイリピ書における苦難の主題について論じたモノグラフの後半部 で, この書簡の修辞学的分析を行ったロⅢ。彼はフ,' リピ書にIテサロニケ書と同様な勧告 的性格を認め,修辞学的には助言的タイプ・に該当するとした煙'。 また,修辞学的配列構成 分析を以下の通りに行ったで 各部分に釈義的考察を加え. 苦難の主題が中心的であるこ とを示そうとした 邸'。

手紙の前書きl : 1 2 序論(exordium) l: 3‑l1 叙述(narratio) 1 : 12‑14 分割(parititio) 1 : 15 18a 論証(argumentatio) l: 18b‑4: 7

!6 Wat50n, "ARhetori亡alAnalysIs,' . 87Z

'7 A.H.Snyman, <IPersuasioninPhilippia[154、1 20, ''Rノl幽加ca"dr/1fNとⅡ'71Jsm"r(Jr71. Ess《リs./rU師〃' 2 雄i㎡eルど照Confrg"ce (eds. 、Porter,S、E.andT.H,Olbrlcht ; ISNTSuP9() ; SheHield: 1SOIl 3) 125 137.

1H SIWman,329‑330.

1u Snyman,330336.

'0 A、H.Snyman、 $4ANEwPersPectiveonPilul'sRhetoricai Strateg)' inPhiliPPians,''AぱaPa"jsric""BJEα舟 r"l"18 (2007) 214‑230; idem., "Philippians4: 1023fromaRhetoricalPerspEctive,"Aα口TノMoIQgi"27 (2009) 168 185を参照,

噂! L.GBloomquist, 7ル F脚" "o"QJsWbrji'8j"PI"j卿〕m"S (ISNTSup78; SheHield: ISOT;1993) 119‑197、

12z BIo()mquist,ll9120 i] BIoomquist, 120−197.

(7)

bO 論文

確認l : 18b26 範例l : 27‑2: 18 論駁3: 1‑16 勧告3: 174: 7 結語(Peroratio) 4: 820 手紙の後書き 4: 2#23

TC・Geoifrionは Watsonによるフイリピ書の修辞学的分析を全面的に受け入れフィ リピ吉が助言弁論であるとした上で 釈義的研究を行い, 「福音に相応しい市民として生 き」, 「福音の信仰に堅く立つ」 (フィリ l : 27) ことをこの書簡の中心主題であるとし た'封'。特に,叙述(l : 27‑30)の部分には,都巾.国家の市民が戦争に際して.戦士として 困難や危険に対して臆する事なく立ち向かうことを勧める政治的・軍事的用語が多用され ていることを強調した2副□ このような勇ましい政治的 軍事的言説がメタファーとして用 いられている理由は キリスト教徒が天国に帰属する市民として生きることが厳しい迫 害下では 福音の戦士として生きることに等しかったからである, この指摘は一定の妥当 性を持つが, Geoifrionのように, フイリピ害全体に政治的・軍事的テーマが貫かれ, 一 致や謙遜やキリストの模範や喜びの主題はそれに従属するものであるとするとするのは,

行き過ぎた議論である26'。

DA.Blackは, フイリピ害の釈義的研究において.個々の言葉や文章に着目するミクロ 言語学的アプローチだけではなく, 文節や章構成, 文書全体の構造に着目するマクロ言語 学的アプローチが重要であることを唱えて. フィリピ書を構成する各部分の機能分析を 行った 。彼は論文の結論部分において,フイリピ苫に対して簡潔に修辞学的分析を加え,

フィリピ耆は様々な反対に抗して福音の前進ために一体性を維持することを勧める助言弁 論であ11マクロ言語学的機能分析はこの結論を支持し,補強するものであるとした 。 彼は最後に修辞学的配列構成分析を以下の通I)に行った'2,'。

z$! T.C.Geoffrion,W1ER/IfJIorj"IIP'"P"ご働加J〃,fP()li""I"ldMiI"αり,C/'"r"cierqjPhilj"i""s;Acα〃、

Sm打fJFirm(Lewiston,NY/QueenSton,Ont; Lampeter,UK;Mellen, 1993)35‑65,219‑227.

ユョ Ibid.,35‑82, 26 1bid ,83227.

17 D.A.Black, 、!ThIsDisigourseStructureofPhilippians; aStudyinTExtlinguistics,'.Ⅳ〔)1ノ踵Jr37( 1995) 1649J

#H Black,43‑45, ユリ Black,4649.

(8)

フィリピ昔の修辞学的分析 61

手紙の前書きl : 1 2 序論(exordium) 1: 3‑l1 叙述(narratio)l: 1226 提題(ProPositio) 1 : 27‑30 論証(Probatio) 2: 1‑3 : 21 結語(Peroratio) 4: 19 叙述(narratio) 4: 1020

手紙の挨拶文と後耆き 4: 21‑23

この分析は, 1 : 1226 を叙述(narratio) としている点と」: 2730を提題(Propositio) としている点において,Watsonの構成分析よりも進歩している。 しかし, 4: 1020が叙 述(narratio) とされた結果,手紙の末尾に叙述部分が出てくるという異例の配列になっ ている。Blackはl : 12‑26の叙述部分と呼応して手紙を囲い込んでいると説明するが. 末 尾に叙述が出てくることが修辞学的にと§う評価されるのかということについて考察してい ない。

C・Basevi/1.Chapaはフイリピ吉2: 5 11の部分に集中して修辞学的分析を加えた弧' 'o Basevi /Chapaによるとフィリピ吉2: 5 11の部分は従来言われているようなパウロ以 前の教会の讃歌ではなく, 詩的な要素を持つ散文であIl著者のパウロによる書き下ろし であるとした。修辞学的に言うと. フィリピ吉2: 5 11はキリストへの讃辞(encomium) であり, この部分こそフィリピ書の中,L,主題を示しているとする'3! '。 さらに Basevi/

Chapaは,演示的要素は2: 5‑11だけでなく, フィリピ耆全体を支配していると考え, フイ リピ吉は助言弁論ではなく,演示弁論であるとした'亜'・ フィリピ書には,福音に相応しく 生活することを勧める勧告的要素もあるが,演示弁論には勧告的要素が含まれる場合もあ ることを古代修辞理論を援用しながら示そうとしたい'□

ドイツ語圏では, R.Bruckerが, ギリシア・ローマ世界の文学理論における詩文と散文 の区別の問題を検討し,フイリ2: 6‑11の部分は古典古代の詩文の定義には当てはまらず,

C.BaSevI / 1.Chapa, "TheRhetori(zal FLInctlonofaPauline Hymn',"Rノ1Emr此皿"d"1ENE11,兜5,脚ど加 睡sq)'sノ70"1 fノIEI992HEidEI6EIgC"/rre,ICE (edS.,POrter,S.EandTH.Olbricht ; ISNTSup90う She価eld JSOT;1993) 338356,

] ! Basevi /Chapa,343.

'2 Basevi/Chapa,344356 M Basevi/Chapa,349356.

(9)

62 論文

散文の一種である讃辞に該当するとした'瑚!。他方 彼はフイリピ吉の修辞学的釈義を試み,

Watson l司様に助言的タイプに分類した'蕊'・配列構成についてBruckerは, 、蝿tSOnの分析に 修正を加え, l : 1226の部分を序論(exordium)ではな<,叙述(narratio) とし, 1 : 27‑30 を叙述(narratio)でなく提題(ProPositiO) としている '・他方, Bruckerは, フィリ2: 1‑

3: 21の論証部分に人物の美点や欠点を論う演示的要素が多く含まれていることを指摘し ている'罪。Bruckerによると. これらの演示的要素は自己目的ではなく,助言弁論の勧告 的機能を支える役割を果たしている'3別。

山田耕太は. フィリピ耆全体に修辞学的分析を行い, フィリピ害は演示弁論であるとし た'別,'・山田論文はキリスト讃歌の部分だけではなくフィリピ吾全体に修辞学的分析を加え て,随所に演示的要素を見出した抑。 │司論文は,まず 演示弁論についての説明をした後に,

フィリピ耆の各部の修辞学的考察を行って 演示的要素を列挙している。これは, まず演 示弁論という結論が先にあって, 次にそれに合致した要素を見つけ出しさらには,全体 の整合性を考えるという論法である。 このような論法は同様の見解を持っている論者に対 してはその確信を強める効果を持つが, そのような見解を共有しない研究者達に対して十 分な説得力を持つかと,うか疑問である。

B.Witheringtonlllは, 修辞学的視点からフィリピ書全体のi主解耆を書くことを試み た 4! '。 しかしこの注解害は一般向けの簡略なものであったために,後に彼はより本格的 な注解書を刊行することとなった'椹'・旧著において,Witheringtonは, フイリピ害はフイ

リピ人達の間に一致と統一をもたらすために助言演説の手法を用いているとした'い'・新著 も旧著の立場を基本的には維持しているが,演示的要素の存在をより重視して. 修辞学的 視点からフィリピ吉は演示的要素を伴った助言弁論に分類出来るとした'判' 。前著において

H' R・Brucker,℃ノirismsHym"e"'pder、恥deik"sc/JEP[IssmgE"' (GOmngen: Vandenhoeck&Ruprecht, 1997)

23‑173,313 319を参照.

]31 1bid,290292 ]6! Ibid.293295.

]7' Ibid.,301 346.

1丁1

聖。' 1bid.,345 346.

劃馴 山田耕太「フイリピ書の修辞学的分析:演示弁論の視点から見て文学的問題」 Iフイロンと新約

聖菩の││>辞学」新教出版社2012年157‑184頁を参照 4I) ! 1 1 1出162‑184頁を参照、

4' ' BWitheringtonlll,F"""""" JFi""r""'Ph"卿]i r TルビLE"ヒrqjP醜{〃。"IEPA" i"s (ValleyFQrge, PE: Trmit),PreSslnternfltiom1, 1994) .

蝿 B・Witheringtonlll, PIII"'sLE"frror/1ePノ'ilipPi""s:ASocioRAEf(Jri"IC・加"lei ひ,「 (GrandRapids :

EErdman5,2011)

+A Witheringtonlll,F"EndS/", 13.

"' Witheringtcnlll,P"""芯.25; idem, ,MJ1'' TIJs雌加β師RI1tJrcrk(Eugine,Org, ; CascadeBooks,2009)

i26 lZヌ

(10)

フィリピ書の修辞学的分析 63 Witheringtonは, フイリピ書の配列構成を以下の通りに理解した '。

手紙の前書きl : 1‑2 序論(exordium) l: 3l1 叙述(narratio)1: 1226 提題(proPositio) I : 27‑30 論証(Probatio") 2: 1‑4: 3 結語(Peroratio) 4: 420

手紙の挨拶文と後書き 4: 21‑23

新著も旧著が提示する配列構成を基本的には継承しているが 少し改訂を加えて.

4: 10‑20の部分を結語(Peroratio)から外し,論証であるとした円6。Witheringtonは, この 改訂の理由を説明していないが 結語(peroratio)の後に論証が来ることは通常はあり得 ないことなので, 十分な論証が必要である。

この配列構成は, 手紙の前苦き (l: 1 2) と後書き (4: 21‑23)の部分を修辞学的考察 の対象としているが. これらの耆簡定型に従って吉かれた部分も,苦き出しや結びとして 修辞的な効果を持っているので,手紙のレトリックの一部として考察すべきである。他方,

Witheringtonは.書簡の中心テーマを,一致と統一としている。 しかし 提題(1 : 27‑30) の部分の中心テーマは「キリストの福音に相応しく生活する」(l : 27)という事であI) . 「'L,

を一つにして共に戦う」ということはその一側面に過ぎないのではないだろうか。

3. 修辞学的分析 3.1 修辞的状況

フィリピ書執筆を促した修辞的状況は,複合的である 〕パウロは伝道地において福音宣 教に故に投獄されることとなった(フイリ l : 12‑13)。フイリピ人達は獄中のパウロの身 を案じて,獄中のパウロに支援金を届けると共に,世話をするためにエパフロデイトを遣 わしていた (2: 25; 4: 10‑20)。パウロは. フイリピ人達に対して 支援金への感謝を述 べると同時に, パウロの投獄の影響と獄中の自身の,L、境について手紙を書いて知らせる必

WithermgtOnlll,FriEF7"", 17ZZ.

Witheringtonlll,P/ 即加)芯,2830

(11)

04 ・文

要が出て来た。

フイリピ人達もフイリピの地で福音のための戦いをしていたので(フィリ l : 27‐

30; 4: 3)。困難な環境でも福音に相応しい生き方をし. しっかり立って. 福音のために 共に戦うことを勧める必要があった(フイリ l : 2730)。 またフイリピの有力な教会員 達の間に不和や争いが生じていたので(4: z‑3), 一致団結を図ることを勧める必要も生 じた(2: 1‑11 ; 4: 2‑3)。 また テモテを自分の代理としてフイリピに派遣して, 彼らの 状況を確認すると共に.彼らを励ます必要があった(2: 19‑24)。 ざらに,重い病気になっ ていたパフロディ トが,病気から回復したので, 送り返す必要が生じていた(2: 26‑28)。

他方.ユダヤ主義的な宣教者達の影響が及んで 教会が分裂しパウロの宣教が損なわれ る危険が生じてお│) .パウロはフイリピ人達に対して,論敵達ではなくパウロを真正な 宣教者として受け入れることを勧める必要があった(3 : 24: 1)。

3.2配列構成

現存のフイリピ書は,修辞学的視点からは下記のような構成を持っていると考えられる。

序論(叩ooiULo'' [exordium]) l: 1l1 前書きl : 1 2

感謝の祈り l : 3‑11

叙述(6LiiY'10LE[narratio]) 1 : 12‑26 提題(叩60"LE[PropoSitio])1: 27‑30

論証(TTiOTに[Probatio/argumentatio]) 2: 14: l 論証(1) 2: 1‑18

脱線2: 193 : l 論証(2) 3: 2‑4: l

結語(とw[AoYog[peroratio/conclusio])4: 2‑23 要約4: 29

強調4: 1020

後書き4: 2J23

3.3修辞的種別

修辞法において,演説はその性格と機能に応じて.法廷弁論 助言弁論,演示弁論の三

(12)

フイリビ沓:の修辞学的分析 6ラ つに分けられている (アリストテレス 「弁論術」 l358b;キケロ 「発想論」 l.5.7; 「弁論家 について」 1.6‑22; 1.31‑ 141 ;偽キケロ「へしンニウスに与える修辞学耆」 l.2.2; クウイン ティリアヌス「弁論家の教育』 3 4.1‑16)。三つの演説タイプは. それぞれ法廷,議会祝 典または葬儀という異なった社会的場において用いられ,異なった社会的機能を果たした。

さらに, 法廷弁論[弁明,告発]は過去の行為に関わり,助言弁論は未来にとるべき行動 に関わ│) ,演示弁論は現在に関わるとされる(アリストテレス『弁論術」 1358b;キケロ「発 想論」 1.5.7; 「弁論術の分析124.8387; 『弁論家について」 1.6.22; I‑31. 141 ;偽キケロ『ヘ レンニウスに与える修辞学書」 l.2.2; クウインテイリアヌス「弁論家の教育」 3.4.1‑16) '47'̲

助言弁論(AoY6EUUILIoU入信UrLK65)は審議弁論とも訳すことが出来 ヘレニズム世界では主 として議会の弁論に用いられる演説タイプである。 このタイプの演説が採り上げる典型的 対象は都市国家の公共の利益に関する重大な問題であり, アリストテレスは都市国家の財 政 戦争と平和, 国土防衛,輸入, 立法の五つを挙げている (ア'ノストテレス「弁論術」

1359b1360b)。特に, 戦争と平和を巡る助言弁論としては, デモステネスの「オリユント ス'│冑勢(第一演説)」. 及び. 「オリュントス情勢(第二演説)」. さらには, イソクラテス のI平和演説」等が有名である.

フィリピ耆は,獄中のパウロが受信人のフィリピ人達に対して近況を伝えると共に.彼 らが困難な環境でも福音に相応しい生き方をし しっかり立って,福音のために共に戦う ことや(フイリ l : 2730) , キリストの謙遜な生き方に倣って謙遜と一致を図ることや (2: l ll) , パウロが使わす使者を'受け入れることや(2: 193: 1) .論敵達ではなく , パ ウロを真正な宣教者として受け入れることを (3: 24: l)勧めているのであるから, 助 言弁論に分類出来る '・キリスト讃歌の部分や(z: 6‑11) .論敵とパウロの生き方の対比 のところ (3: 2‑4: 1)には演示的要素が強いが, これらは助言という書簡全体の目的を 補強する機能を果たしている□

3.4修辞学的コメント

修辞法において序論は,聴衆の注意を喚起すると共に,聴衆の側に好意を醸成して. 本 論の中で展開される議論に対する準備を与える機能を果たす(アリストテレス「弁論術」

47 GA.Kenned)$NEwTbsm脚E醜ル1rEFT)rEmh.〃r/1FUIIg/1Rノ1画(〕〃mノCririCiSm(ChapelHill : TheUniverSityof NDrthCarolinaPr'ass, 1984) 19‑20i原I 1尚彰「パ『ソロ普簡と修辞法について.の考察」 l‑ヨーロッパ文

化史研究」第3号12002年) 8‑9頁。

1M Watson,5960;GoeHrion,3536; 2]9220;WitheringtonIII,FrifFJJsノ'jp, 13

(13)

66 論文

1414b; クウインテイリアヌス『弁論家の教育」 4.1.5) '抑。フイリピ書はパウロ菩簡の通例 に倣って 前書き (1 : 12) と感謝の祈り (1 : 3‑ll)の部分が序論の役割を果たしている。

ヘレニズム世界の手紙の前書きには, 発信人の名前.受信人の名前 ざらには健勝を願 う定型句が置かれるのが通例であり パウロ書簡の前書きは発信人のパウロの名 受信 人の教会の名 頌栄句を含んでいる。通常の演説では. 冒頭で聴衆の名を挙げての呼び掛 けがなきれ.語り手と聞き手の関係が確認されるが(「あなた方, アテネの人々よ」 「ソク ラテスの弁明」 l7a;デモステネス「オリュントス情勢(第一演説)」 l ; 「オリュントス情 勢(第二演説)」 l ; 「冠について」 l ; ざらに, 使2: 14「ユダヤ人の人々よ」を参照) , 手紙では前書きが,発信人(語り手) と受信人(聞き手)の関係を設定することによって,

言語行為が成り立つ前提を形成している

パウロはフィリビ人たちをキリスト教に導いた伝道者であるが(使16: 11 40;フイリ l :副フィリピ耆の前書きにおいて使徒(ロマl : l ; Iコリ l : l ; IIコリ l : l ;ガラ l : l ; Iテサl : l iiu)ではな<, 「キリスト・イエスの僕」 と名乗っている (フィリ l : 1 ; ロマl : 1 1 さらに, 1コリ7: 22;ガラl : 10;エフェ6: 6;コロ4: l2を参照)ロパウロ とフィリビ教会の間の関係は非常に良好で, パウロは敢えて使徒の権威を持ち出す必要が なかった 。 「キリスト .イエスの僕(6DcAoE)」 とは, 伝道者が宣教活動を通してキリスト に仕える者であることを強調する呼称である (ロマl : l ; IIコリ4: 5;ガラl : 10;ヤコ l : l ; IIペト l : 1 ;ユダl : lを参照) '5' '。その背景として, 旧約聖書においてアブラハム や(詩105: 42) , ヤコブ=イスラエル(イザ48: 20) , モーセや(ヨシユ14: 7) ヨシユ アや(ヨシユ24: 29;士2: 81ダビデ等の(詩89: 4) , イスラエルの指導者達が, 「(主 の)僕」 と呼ばれる称号的川法が存在している唾'。 また神の言葉の告知者である預言者 を「神の僕」という呼ぶ用例も存在している(エレ25: 4;アモ3: 7) '兎'。行き過ぎた自尊 心に起因する内紛を教会内に抱えている人々に対してパウロは(フィリ2: 1 4; 4: 23) 宣教者の権威よりも.伝道者がキリストに仕える者であるという謙遜な心構えを強調して,

「キリストの僕」という称号を用いる必要があったのである(Iコリ3: 1‑9; IIコリ4: l 15 1リ Martin,60‑74; Volkmann, 127 148; Lausberg, 12] 135 (、§263288} ,

別) RLTit, <H(〕wt()Begin,andWhy? DivcrseFunEtlonsofthePauli PrcsErlptwlt軸naGI‑ecoRoman Contexl,"inPIJIJI [J"〃rAF1EjE"ILE"ErFOr"1 (eds.S,E.Porl,arandS.A.Adams; Leiden: Brill,2010) 75‑76.

原ル ギ}ノシア語名詞600A・号の詳しい語学的分析については. Bauer‑Aland,413‑414;KH.RIangstOrf

, 600入CSKでA,'' 7、ノ1WNTII 264283. ;A.WEIser, (;601}入唱加) Kでス,''EWNTI8448511R.TLlentc,:# 60CAO自、

刀IBLNTII ll41 ll45;C.SPIcq, 、, 600ノ Krス,、'TIILNT1380‑386を参照。

KHRengStorf"60010gKTA,"77IWNTII268‑271;R.Tilemie,"6oCAo:,"WJBLNTIIll41‑ll4Z; l.Byron, Sノα''er)'MemPJIDrsi"E。rl)'ノ α応"岬"dPmll"1ECノlr α"jり' (WUNT2.162;TUbingEntMohr‑Siebeck,2003) 177‑180を参照≦

R] Byron,27.

(14)

フイリピT1fの修辞学的分析 67 を参照)。

パウロは発信人として自らの名前を挙げると共に共│可発信人としてテモテの名前を挙げ ている (フイリ l : 1 2)ロテモテは後に. 使者の推薦(2: 19‑3 : l)の部分で讃辞をもっ て言及される人物である。パウロと並び手紙の共同発信人となっていることは テモテに 寄せるパウロの信頼を反映しており. 後にパウロの使者としてフイリピに派遣きれるに相 応しいと述べる言葉を裏付けている (2: 19‑24)。

感謝の祈り (1 : 3‑11)は パウロ書簡の定型に従って置かれている導入的部分である。

受信人であるフイリピ人たちの入信から現在にわたる信仰の歩みを想起しつつ, 発信人で あるパウロが神に感謝の祈りを捧げるという内容になっているので,叙述の要素も含んで いる。パウロが祈りにおいてフィリピ人達を想起し,神に感謝し,喜びを感じているとい う事実は(1 : 34) 、語り手であるパウロが彼らを常に,L,に留め 彼らに対して親しい感 情を抱いていることを表している <l : 8も参照)。パウロは福音宣教をしているときも,

獄中にある今も, 彼らを共に恵みに与るものとして覚えているのである (1 : 7)。

祈りは神に向けられた願いや感謝の言葉であるが.演説の導入部分で祈iノを捧げる例が,

ヘレニズム世界にも存在する口例えば. アテネの弁論家デモステネスは弁明弁論の冒頭で 裁判官達が敬神の,[、にかなった公正な判決を下すように, 神々の導きを祈っている (「冠 について」 2,8)。祈りの主題は公正さへの演説者の強い希求を表現するのである。パウロ は彼のフイリピ人への思いが真正であること証人として神を引き合いに出しつつ(フイリ l : 8) . 彼らが愛においても知力においても豊になり, 来るべきキリストの日に相応しい 者となるように祈っている (1 : 9 11)。祈りの主題はパウロの言葉の真実性を聞き手に対

して強調する効果を持っている。

叙述(6L'1Y'10Ls[narratio]) l : 1226

パウロは,書簡冒頭で話題を切I)出すときの常套句(「…を知って欲しい」) によって本 文部分(1 : 124: 20) を導入している (11コリ l : 8; Iテサ2 : lを参照)。この自己告知 表現は, ヘレニズム寺簡の定型句を継承したものであるが, 個人的書簡の持つ安否確認の 機能を担っている'§4・文体論の点から言うと 本文部分において彼は一人称単数形で語っ ている口書簡の本文部分において, パウロは一人称複数(「私たち」)で語ることも (例え Ijf, Iコリ8: 1‑3; 15: 12 19; IIコリ 1 : 2J1, 1222; 3: 4 18; 4: 1 8; 4: 135: 24;

ガラ2: 1521)、一人称単数形(「私」)で語ることもある(フィレ422; Iテサ5 : 27; ブイ 唱叩 1.LWhite,L埴/"伽"1A"cjど"ILE"cr5 (Philadelphia: Fortrcss, 19861 204,205を参照

(15)

68 論文

リ 1 : 3‑4: 20; IIコリ l : 15‑2: 17; 11 : 1‑13: 10;ガラl : 10‑2: 14)。一人称単数形が 用いられると,語り手であるパウロ個人の人格が強調されることになる。彼は使徒として の自己の資格やこれまでの歩みについて語る場合や(Iコリ l : 15‑2: 17; 4: 14‑15; 17:

1 16; I1コリ l : 152: 17; 1l : 1‑13: 10;ガラl : 102 : 14; フィリ3 : 5 11 ; Iテサ2:

17‑20) ,キリスト者の模範として自己のあり方を示す場合は(Iコリ4: 16‑17; 16: 10 11 ; ガラ4: 1220; 5: 2‑12;フイリ l : 12‑30; 3: 124: l) . 多くの場合一人称単数形を使用

している.

フィリピ耆において. パウロは本文の節目で時折聞き手であるフィリピ人達へ語り掛 ける言葉を挿入し,語り手と聞き手の関係を再確認しているが, フイリピ害では家族的な 親しい呼称が多用きれており (「兄弟達よ」フィリ l : 12; 3: 1) 17; 4: l ; 「愛する者達よ」

2: 12; 「私の喜び 冠である,鍵する者達」4: l ; 「あなた方. フィリビ人達よ」4: 15) 、 友好的な雰囲気を醸し出している 。

一般的に言って.叙述(陳述)は過去の行動を問題にする法廷弁論においては不可欠の 構成要素であるが(キケロ 『発想論」 1.19.17; 「演説について」 9.31) , 未来の行動を問題 にする助言弁論や現在の行動を問題にする演示弁論には不可欠ではないときれている(ア リストテレス『弁論術j l414ab; クウインテイリアヌス「弁論家の教育」3.8.10; 4.2.31)"'。

そこで 助言弁論の本体部分に叙述が存在する事実は説明を要する。パウロがフィリピ書 の本文冒頭で入獄中の心境について語っているのは(1 : 12‑26) . その事が'受信人のフイ

リピ人達の強い関心事であると分かっていたためである。パウロの入獄の事実は彼らに既 に知れており, フイリピ人達は獄中のパウロを支援するためにエパフロディ トを遣わして いた (2: 25; 4: 10‑20)。彼らが欲していたのは入獄後の現在のパウロの状況についての 新しい情報であった。そこで, パウロはまず, 入獄がむしろ福音の前進に寄与したことを 通して述べて パウロや同労者達の最大の関心事である宣教活動の進展という点では,必 ずしも憂慮すべき事態にはなっていないことを強調する (1 : 12 13)。パウロは拘留され ている班判決は未決の状態であi入死刑判決を受けて殉教する可能性も, 無罪判決を受 けて釈放きれる可能性もあるが.死ぬにしても生きるにしてもキリストが崇められるよう な生き方をしたいという心境を述べる (1 : 20)。パウロの個人的思いとしては直ちに世を 去ってキリストと共にあることの方が好ましいのであるが, 世に止まることは宣教の業を 継続することであり, フイリピ人達にとっては信仰の進歩と喜びを増し加えることである ので, この世に残る方を選ぶと述べる (1 : 21‑26)。この部分はパウロが再びフィリピ人

M1 Volkmann, 123 127;Martin,5758,79‑81 ; Lausberg,§337 (=P. 157)

(16)

フイリピ沓:の修辞学的分析 69 のもとを訪れる希望によって結ばれる (1 : 26)。この部分は殉教の可能性を前にしても,

フイリピ人達に対するパウロの切なる思いが衰えず, かえって高まっていることを承して いる。演説の中に用いられる説得推論の手法の点からすると, ここにはパトスの要素が強 く現れている.パトスとは.聴衆の感情に訴えることによる説得法である (アリストテレ ス「弁論術」 l355b, キケロ 「弁論家について」 2.51.206‑208, クウインテイリアヌス「弁 論家の教育」 4.1.2022; 6.2.8; 6 2.27‑36) 53。

提題(wp60foLg[Propositio]) l: 27‑30

この部分では. パウロは目を受信人であるフイリピ人達の側に転じて,心を合わせ一致 団結し,堅く立って信仰の戦いを戦い抜くことを通して, キリストの福音に相略し〈生活 するように勧める (1 : 27)。パウロは彼らを共に恵みに与るものとして(1 : 7) , パウロ に倣って, キリストの福音のために共に戦い, 共に苦しむ福音の戦士となることを求めて いる (1 : 2930) 57'。ここには パウロとフイリビ人との関係が福音宣教者としての同士 的結合が強調されている (1 : 2930)。キリストの福音に相応しく生活するということは.

信仰者であI)宣教者であるフィリピ人達のあるべき姿であり, この手紙の中心主題を短く 言い表した提題(叩6e印に[prOpOSitiO]) となっている。この提題が, 三人称で語られる命 題でなく , 二人称複数形で語られる命令法で表現きれていることには(l : 27 「キリスト の福音に相応しく生活しなさい」) . フィリピ誉の持つ助言弁論としての倫理的・勧告的特 色が現れている。

論証(可〔orに[prObatiO/argumentatio]) 2: l4: l 論証(1) 2: 1 18

提題(1 : 27‑30) において提示された福音に相応しい生活をするという主題は, ここで は, フイリピ人達が, 互いに思いを一つにし, 互いに遜らなければならないという共同体 の相互関係についての勧めに集約きれている(2: 1‑5)。こうした勧めがなされているのは.

フイリピ教会の会員達の間に一致がなく ,識いが生じていたという情報を獄中のパウロが 得ており,憂慮していたためである。彼は 手紙の結びの部分で.互いに不和であったエ ボデイアとシンテイケという二人の女性宣教者に対して同じ思いを抱くように勧めること になる (4: 2を参照)。

5。' VDIkmann,628(=pp.271284) ; Lausberg,9257(=pp.ll3ll7) ;Martm,96 571 Ge鯖加、,35−82

(17)

7o 総文

この勧めの正当性は論理的な議論ではなく神の子でありながら,遜って人となって「奴 隷(600A09)」の姿を取り, 十字架の死に至るまで神に対して従順であったキリストの生 涯を描く讃歌を引用することによって示きれている (2: 6‑9) '5間'・自己を空しくして神に 従った神の子キリストを神は嘉して, 高く引き上峨あらゆるものに優る名を与えたので あった(2: 9‑11)。このキリスト讃歌は. キリストの生涯を称賛すると共に, キリスト者 が従うべき模範として提示しているが(2: 12を参照) , そこには演示的要素が強く表れ ている口特に, 自己を空しくする遜つたキリストの地上の生涯と, 復活,高挙して世界の すべてのものに優る栄誉を神から与えられたこととが鋭く対照されている。 この部分は修 辞学的には, 一部の研究者が指摘しているように逆説的称賛(wa"66:。'' 俗YK(jLLLO'')に該 当すると考えられる (アリストテレス「弁論術」 1366a) {g9'・

謙遜であることや従順であることは周辺世界において美徳のうちに数えられるが「奴 隷(600入05)」のメタファーはそうではない。ギリシア・ローマ世界において、 奴隷は主 人に隷属し自由を欠く者として.低い評価しかラ.えられていない(プラトン 「ゴルギアス』

491e492a;アリストテレス「ニコマコス倫理学」VII1.13.P. 1161b; 「政治学」 P. l253b) '6M。

旧約聖書においても奴隷(可ニコラ 600)Logまたはwa1E)は主人に従属する社会的身分を表 している (出13: 141 20: 2;申5: 6ラ レビ25: 44; 26: 13; ヨシ114: 7)f' ・出エジプ ト以前のエジプトがイスラエルにとっての「奴隷の家j と呼ばれている (出13: 14;

20: 2;申5: 6)。

新約聖誉において, 「奴隷(6oCAog)」の使用例には, 社会的身分を表す場合と宣教者を 指す場合の二つの系譜がある。後者の社会的身分を表す用例において,奴隷(601AOG)は 自由人(凱噂68Epog) と対比されるか(ヨハ8: 33‑35;ガラ4: 2131を参照i支配する主 人(K'jpLOg) と対比きれ(マタ24: 45‑51 ; 25: 14‑30;ルカ12: 41‑48; 19: 11 27) , 自由 を欠く隷属状態のうちに置かれている者と捉えられている。他方.宣教者を「キリストの 僕」 と呼ぶ称号的用法は.新約書簡の冒頭で宣教者の自己呼称として用いられる場合が多 い(ロマl : 1 ; I1コリ4: 5;ガラl : 10;フィリ l : 1;ヤコl : 1 ; IIペト 1 : 1 ;ユダl : 1

見淵 この讃歌の宗教史的背策についての様々な仮説については! S.VOlienweider, &EDieMetamorphosc dcsGottEssohns. ZumepiphanialenMotivfEldinPhi12,68,'' inidem.,Horiz()""ITElliEsMF71Erlijicノ1ErC/rriS‑

IoI"ie IWUNT144;TIlbi【唱en;MohrSiebeCk,2002) 285308; 1.Byr●n,SIIwEり'MEmpノIC応j"Eqr4'ル血is",

""{JPIIIJJ"肥(コノ1riS"",ir), (WUNT2162;Tilbingen:MGhrSicbeck,2003) 150 155を参照・

ヌリ Burgess, 157‑166; l l l III耕太@ 174頁を参照,

K.HRtJngsIDrf, [(6[)OAoSKて〉し. 刀IWNTII264‑268;A、Weiser, '46ouノLf6(,J Krス,・' EWNTI844; R.TLlcnte,

卜「]

.6oC)Log,"T71BLNTII ] 141を参照コ

もl BVron,22 29を参照,

(18)

フイリピ菩の修辞学的分析 71 を参照) ' 。'コ

フイリ2: 7における奴隷(60[)入o5)は,指導者を表す称号としてではなく , むしろ, 従 属的な社会的身分を指して用いられていると考えられるい・キリスト讃歌において キリ ストが「僕の姿」を取ったことは. 「人借lの姿」を取った事と同義であり, 神の子として,

「神と等しい」栄誉ある地位を捨てたことの論理的帰結である (フイリ2: 6)ロキリスト が神への従順故にその意志に服して奴隷(600AO5)の婆を取って,恥辱に満ちた十字架の 死に至る生涯を歩んだことが(フィリ2: 78; さらに, ヘブ12: 2を参照) .神意に適っ て復活.高挙を経て, 万物にまさる世界の支配者の地位を与えられ, 主(K'jpLog) として 崇められることとなったとすることは(イザ45: 23も参照) , 周辺世界の名誉に関する価 値基準を根本的に転倒ざせる内容を持っていたい。しかも1時界のすべてに優るKIjpLoE(主)

であるとは, 地中海1廿界の絶対的支配者であったローマ皇帝の地位を凌駕するものであ る ・共和政末期の内乱を勝ち抜いて皇帝となったオクタビアヌスによって植民された退 役軍人達の子孫が多く住むローマ植民市のフィリピでは,皇帝礼拝の神殿が建設され,皇 帝は神格化され崇められていた(KIPO01/L27; 002/LO28; 226/L344)崎。、ローマ帝政下の世 界では, 皇帝がすべてに優るK'jpLoIs (主) であった岨Oxv‑l‑37.5‑6; SIG2.814‑3031, 55) 6列。従って. キリスト讃歌は, 周辺世界の世界観と鋭く対立するキリスト教独自の世 界観を提示していた□この讃歌の場合, 逆説的称賛の逆説性は非常に砿いのである。

謙遜と一致の勧め(2: 12‑18)は,手紙の結びの部分に出てくる主にある一致と喜びの 勧め(4: 2‑9) と呼応して, 手紙全体を囲い込んでいる。当時のギリシア.ローマ世界は 初期のキリスト教に対しては好意的ではなく . フイリピ宣教においてもパウロは困難に遭 遇していた(使16: 16‑40; Iテサ2: 2を参照)。フイリピの教会はごく小さなマイノリテイ 集団であり, マケドニアの他の都市にあった教会と同様に圧倒的多数の異教徒に囲まれた デイアスポラ共同体であった。フイリピ教会の信徒達の間では,教会共同体の内と外とを

nz Byron,177180,

.帥 B)Ton, 164 171 1V・lltmweider, 、:MetamorPh・sc,' 303 305を参照

" Vollcnweider, "Metamorphose,"299‑306; 1.H・HeⅡerman Re[。""r・"c"11gH()"01・ ilJRommFIPノ'iIWjj (SNTSMS132; Cambridge : CambrldgeUnivcrsit)'Pres5,2()05) 128156ISR・Nebreda,C/71・jsI"fwi")' ;A S""JS[iE""4‑R"dingq/PAiliPP""s2511 (G61tingen: Vandenlloeck&Ruprecht,2011) 316323を参照。

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(]ヲ Hellerman, 152.

(19)

72 論文

画する境界線が強く意識されていた;、フイリピ人達は,他の地域のキリスト教徒と共に, 「キ リストにある聖徒」 (1 : l ; 4: 21) , 「愛する人達」 (2: 12; 4: l)であり, 「彼らの内に 善い業を始めた方は, それをキリストの日までに完成する」 とされた(1 : 6)。キリスト 教徒であるフィリピ人達が「神の子」であるのに対して(1 : 71 2: 1副周辺世界は「こ の世」 (2: 15; 3: 19) ,或いは, 「邪な曲がった時代」 (2: 15) として否定的に捉えられ ている'岬、ディアスポラのユダヤ人達の自治組織である汀oMてそUIIcMが, 地上の都市の一角 に存在するのに対して(ヨセフスI古代誌」 14.235;アリステアス310; CIG5361), キリ スト教徒の帰属社会(打cMTEUlL[z) は, 地上ではな< , 天上にあり (フイリ3: 20) , 彼ら は地上を旅する巡礼の民とイメージされている '・

パウロが入獄地で福音のための戦いをしているのと同様に, フィリピ人達もフィリピの 地で福音のための戦いを余儀なくきれていた(フィリl : 2730; 4: 3)。キリスト教に対 して敵対する者が多い世界においてたじろぐ.ことなく信仰生活を続けることは,彼らが究 極的救いに到る道であり, 彼らはキリストを信じることだけでなく、 キリストのために苦 しむことも恵みとして与えられていた(l : 2728)。このような厳しい状況に置かれてい たので, 尚更のこと, キリスト教共同体は一致団結して歩まなければならないのである (2: 1 5)。

脱線2: 19‑3 : l

手紙の中程に出てくる使者の推薦の言葉(2: 19‑30)の中で.パウロは同労者のテモテ を使者としてフィリピヘ派遣することと (2: 19‑24) ,病気から回復したエパフロデイト をフィリピに送還する意図を語っている (2 : 253: 1)。この部分は前後の文脈とは直接 に結び付かない主題を扱っているので,修辞学的には脱線(digressio)であると考えられ る (キケロ『発想論」 1.51‑91 ; クウインテイリアヌス『弁論家の教育」4.3.12 17) '70'・テモ テの派遣とエパフロディ トの送還は, パウロ自身の差し迫った関心事であり, フィリピ人 達に対して是非共と§こかで言って置かなければならないことであった□

テモテはユダヤ人の母とし,異邦人を父とするリストラ出身の人であり, パウロの宣教 bg C.S.deVos,CIII4ハノ1"ldC()"IF"1"1jり,C・'"":刀IERtJIα"。"3I"s(y"爬刀1""I・"師",C[J"""血" ["1cJP/"‐

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S)'""gog哩ea"[jSmre ILund: AlmqviSt&Wiksell Int,amatiuIIIll,2001)239‑242もこの点に注目する〒

?[I Lausberg,5340342.

(20)

フイリピ苔の修辞学的分析 73 旅行に│司行した宣教者である (使16: 1‑4; 17: 1, 14 15; 18: 5: 191 22; 20: 4;ロマ 16: 21 ; Iコリ4: 17; 161 10; IIコリ l : 19;フィリ l : 19; 2: 19)。彼はパウロ書簡の 共同発信者としてしばしばその名前が挙げられている (11コリ 1 : l ;フイリ l : l ; Iテサ l : l)。パウロのフイリピ宣教にもテモテは同行したと推測きれ, テモテがしっかりした 人物であることはフイリピ人達へは既に知られていた(フイリz: 22)。獄中のパウロは フィリピ人達の現在の動静を知りたくて, 自分の代理としてテモテを遣わすそうとしてい た(2: 19,23)。テモテは単にパウロの手紙を届けるだけでなくパウロの代理としてフイ リビ人達の安否確認をし. ざらには.彼らに自分の言葉で語り掛け.勧めをする役割が期 待されている'7' 1.テモテがこの使命を果たせるかどうか'よ彼がフイリピ人から受け入れ

られるかどうかに掛かっているのである。

パウロはエパフロディ トをフィリピヘ送還する意図を明らかにする(2: 25)。パフロディ は, パウロの入獄の知らせを受けたフィリピ教会が,獄中のパウロを見舞い,支援金を届 けると共に (4: 17‑20) パウロの世話をするために派遣したノ、物である (2: 25)。彼は 重い病気になl)死に瀕したこともあったが.病気が回復したのでパウロは彼をフイリピヘ 送り返そうとした(2: 26‑28)口病気のために十分に使命を果たすことが出来なかったエ パフロデイトをフィリピ教会の人々が快く受け入れるかどうか不安があったので, パウロ はエパフロディトの人物と働きを褒め上げて. 彼を歓迎するようにフイリピ人達へ勧める

のである (2: 29‑30)c

論証(2) 3: 24: l

「あの犬どもを警戒しなさい」 (3: 2) という突然始まる厳しい警告の言葉は,話題を急 展開して, パウロの宣教領域にも登場するユダ.ヤ人キリスト教宣教者の働きに受信人の注 意を向けきせている□彼らは,耆簡前半部における不純な動機によって宣教活動を行う他 の宣教者のグループや(1 : 15‑17) ,福音に敵対する人々 (1 : 28) とは別の存在である。

ここで言及きれている人々は, 割礼をうけたユダヤ人であり (3: 2) , また, 「働き人」.

つまり, キリスト教宣教者であるが,割礼を受けて律法を守ることを宣教内容に含めてい たと想定きれる (3 : 2)。ここで言及されているユダヤ人キリスト教宣教者達は, 割礼を 受けることと律法の遵守を主張する点で. ガラテヤにやって来たユダヤ人キリスト教宣教 者のグループに近い(ガラl : 6‑9; 3: 1‑5; 6: 11‑13を参照)。 フイリピにおけるパウロ の論敵の特殊なところは,律法の遵守に加えて, 地上における救いの完成を想定し, 「完

テl

Bloomquist, 173

(21)

74 論文

全な者」 となっていると主張する熱狂主義的傾向を持っていることである (3: 12, 15)。

フィリピの人々の目の前には. 律法からの自由を福音の真理と考え(ガラ2: 5, 14) , 律法によらずキリストの信仰によって義とされるという信仰義認を主張するパウロらの宣 教と (フイリ3: 9) ,上記のユダヤ人キリスト教宣教者達の宣教が競合することを前提に,

パウロは自分たちの福音宣教の方を選択するように勧めるのがこの部分の主目的である。

パウロは自分の宣教内容の正当性をここでは論理的に説明するよりも論敵達の人物を 徹底的に否定的に描き,彼らの動機が不純であることを示そうとしている。同様な論法は,

ガラテヤ書や(ガラ6: 12‑13) . IIコリント吉における (IIコリ l1 : 12 13)論敵達への 否定的言及にも認められる。演説者の人格の信頼性に依拠するエートスの機能によって(ア リストテレス「弁論術」 l356a; 1377b1378a;キケロ「発想法』 1.22,34‑36; クウインテイ リアヌス「修辞学綱要」 38.4851を参照) . パウロはフィリ人達に論敵達の主張が信頼す るに当たらず, むしろ. パウロの生き方とその神学思想の方が信頼に値することを示そう としている。

パウロは厳格なファリサイ派としての生き方を捨て キリストを信じる者となった経緯 を 律法の義から信仰による義へと転換した宗教的志向の転換の体験として述べ(3: 5‐

11) , ざらには,救いの完成を目指して歩み続ける現在から未来へ向かう歩み(3: 12 16) について語っているがこうした信仰の在り方は. 自己を空しくして人となった神の 了・キ リストの生き方と共に(2: 5 11) .信徒達の模範として提示されている (2: 12 18; 3: 17 4: lを参照)。パウロは先行する議論(3: 2‑16) を踏まえて. フイリピ人達に, 否定的 範例である論敵達に倣って十字架の敵として歩むのではなく,積極的範例であるパウロに 倣う者となり. 信徒が本来所属する場所である天国からキリストがやって来るのを待望し ながら, 主にあってしっかりと立つことを求めている (4: 1)。

キリスト教への回心者が,ユダヤの律法を遵守しなければならないという考えは. 原始 教会の一部にも (使15: 5ラガラ2: 12) , アンティオキア教会の一部にも (便15: 1 2;

ガラ2: 45) , マタイ福音書の背後にある教会にも見られる (マタ5: 21‑48)。それに対 して 人が救われるにはキリストを信じる信仰だけで十分であ') 律法を守る必要がない というパウロの考えは異邦人キリスト教会の中の一つの潮流を表し,保守的なユダヤ人 キリスト教の流れに対して一線を画すること意味する。

律法の遵守, とりわけ,安息日律法や割礼や食物規定を遵守することは, ユダヤ教徒で ある目に見える印, ユダヤ人社会と異邦人社会の境界を画する指標として非常に重要な意

(22)

フ'" リピ,」1:の修辞学的分析 フラ 味を持っていたアユ。ユダヤ人が安息日を守って土曜には仕事をしないことや(タキト ,ツス

「歴史j 5.4.34; ストラボン 「地誌」 17.17‑3; 16.2.40;プルタルコス『迷僧についてj 8) , 男子に割礼を施す習'│街を持つことや(ヨセフス『アピオンj 1.171 ; 2 137; タキト リス「歴 史」5.5.2;ユベナリス『風刺詩」 14,96 104ラストラボン「地誌」 16.2.37; スエトニウス「ロー マ皇帝伝j 「ドミテイアヌス」 12.2;ディオドロス・シクーロス「朧史描ili:.l 1.55) 決し て豚肉をuにしないことや(キケロ 「フヲックス弁論」 28,67; タキト ;リスI腱史」 5.5.2;

ストラボン 『地誌」 16.760‑761) .毎年神殿税を集めてエルサレムへ送付していたことは (フイロン 「モーセの生漉」 1.254; 『律法各論』 1.53 154;キケロ 『フラツクス弁護」 28, 69; タキト リス 1.年代記」 5.5. 1 ) .ユダヤ人固有の特異な習慣として異邦人社会も良く 知っていた。 これらの事柄は先HI伝来の民族的習慣として.ユリウス・カエサル以来, ロー マ帝国の最高指導者たちによって騨車されていた(ヨセフスr・,'r代誌j 14.112‑1 13)口律 法の遵守を要求しないということは 異邦人に対する境界線を取り払うと共に キリスト 教が生まれた母胎である初期ユダヤ戦に対してキリスト教が自己定義を行い,境界線を画 する意味を持っていた7、 。 しかも. ローマ帝I卦の為政者達によって認められていたユダヤ 教の慣習と一線を胆'す結果, キリストへの信仰の故に加えられる社会の敵意や攻幣から身 を守る外的手段を欠いた苫難の道を自ら引き受けることを意味した(フイリ l : 29; 2: 10 を参照)。

結語'ltT(AoYoE[Peroratio/conclusio]) 4: 2‑23 要約4: 2−9

ヘレニズム世界では.棋説の結びの部分で.演説者の関心事を簡潔に要約して閂痩繰り 返し 聴衆の記憶に止めようとする傾向がある。 フイリピ書では有力な信徒間の不和が見

られるのを憂慮したパウロが, エボディアとシンティケに対して |両lじ思いを持ち, クレ メンスら他の伝道者達共々にノJを合わせて福者のために戦うことを勧めている (4: 2‑3).

この言葉は書簡の前半で述べていたことを (1 : 27‑30; 2: l‑l1 )再度言.蕊を換えて強 調する効果を持っている.

また,結びの勧告的部分では.受信人であるフイリピ人たちに 祈りに際して「感謝を もって神に願いを告げなきい」 と勧めており (4:6) . 感謝のテーマが1二1頭の感謝の祈i) と呼応して書簡全体を囲い込む形になっている。 また感謝の祈l)において. 「キリスト .

: WA,Meek5,刀肥FjrsjUr&("ICノ,rお"["1s; 777tJS()(riI1IWbr・ノ《 /"花Ap"IノヒP(JIJ/ (NIB,、'Have、; Yal巳Univer sit)'PrEss,1983)9798を参照

原I1尚彰『ガラテヤ人への手紙l新教出版社 2004年. 2734 1Xi devos!265275を‑参照

(23)

76 為文

イエスの│Iまで」 ( 1 : 9) . 「キリストの日に向けて」 (l : 10) というイリによって提示きれ た終末的展望は 手紙の後半部分でも 「主イエス・キリストを救い主として待ち望む」

(3: 20)や, 「主は近い」 (4: 5) という表現によって表│リ]され,菩簡全体を貫く中心主題 となっている。

フィリピ杏では,喜びの主題が手紙の冒頭から結びの部分に至るまで出て来ており, 耆 簡全体に主題的一世性を与えている (1 : 4, 18,25; 2: 17‑l8; 3: l ; 4: l,4, 10, 18)。パウ ロはまず 祈りの度にフイリピ人たちに関して感じる自身の喜びや(l : 4) , 進展する福 背の宣教について感じる喜び(1 : 18) について語る。このことは フイリピ人達を「私 の嵩ぴであり 冠である鍵する兄弟達」と呼ぶフイリ4: lと対応している。フイリ2: l7 18 になると. パウロはフィリビ人達に自身の喜びに参与し 共に喜ぶように勧めている。書 簡の半ば以降では. パウロは喜びの対象を特定せず. より一般的に. 「主にあって喜ぶ」

ことを勧めるが(3: 1 ; 4: 4) . そのことは「主は近い」 という終末期待に支えられてい る (4: 5)・ さらに.獄中のパウロへ支援金を居ける行為を, 彼の宣教活動への参与とし てパウロの牌ぶところとなっているが(4: 10) ,神が喜ぶ捧げ物であると述べる (4: 18)。

こうして パウロの宣教者としての個人的感情であった喜びが,受信人であるフィリピ人 達によって典イl.されるものとなり, さらには, 終末待望に生きる初期のキリスト教徒一般 に該)'1する蛙本的な姿勢にまで高められ,最後に. 神が再び 受け入れるという神学的基 礎が与えられるのである (4: 18)。

再確認4: 10‑20

餓後にパウロは. フィリビ人達がかつてエパフロディトを過わして. 獄中のパウロへ支 援金を届けた事実に言股する (4: 18)。彼は物欲しきにそう言うのでな<, 支援金がフイ

リピ人達がパウロを思いやっていることのしるしであllその寅散活動への連帯のしるし として喜んでいる (4: 10‑14)。 ざらに それはパウロのみならず神が喜ぶ捧げ物である と述べる (4: 18)。パウロとフイリピ人達との交わり (KDLIjml'tα) は( l : 5) , 精神的な 事ばかりでなく , 宣教活動における経済的支援も含んでいた 彼らは. パウロのアカイア 宣教の際にも (4: 15) ,テサロニケ宣教の際にも (4: 16)物を送って支援したのであった。

福音宣教の過秘で時として困窮することのあるパウロを経済的に支えて来た歴史を.彼ら がパウロと苦しみをも共にしてくれた事実を喜びをもって再度想起するのである(4: 14)。

この語│)方は 感情が龍もっておI) ,受信人の感情に訴えるパトスの要素が強い。

(24)

フイリビ書の修辞学的分析 77 後書き4: 21‑23

ここでパウロは,書簡定型に従って, 兄弟達からの挨拶の言葉と 「皇帝の家の人々」か らの挨拶の言葉を伝えている (4: 21‑22)。この部分は受信人に対して暖かい言葉を語っ て好ましい雰囲気の中に手紙を閉じる効果を持つ。 「皇帝の家の人々」 とは. ここでは恐 らく入獄地の総督府に仕える解放奴隷の中の回心者を指していると考えられる.ローマ植 民市フイリピに生きる信徒達にとっては. ローマの支配機構に奉仕する者達の間にも回心 者が生まれる可能性を示す事実として受け取られたのであろう。

「主イエス・キリストの恵みが,あなた方の霊と共にあるように」という祝祷句は(4: 23) . パウロ書簡の慣例通l)に結びの句の働きをしており (Iコリ 16: 23; IIコリ13: 13;ガラ 6: 18; Iテサ5: 28; フィレ25を参照) ,荘重な典礼的な響きを与えている。

4. 結論

フイリピ害は.修辞学的種別の点からすると,助言と演示の両方の要素を持ち,研究者 達の意見は分かれているが, 助言弁論の要素が主要であると考えられる。獄中のパウロは フイリピ人達に対して自分の近況を伝えると共に.彼らが困難な環境でも福音に相応しい 生き方をし, しっかI)立って, 福音のために共に戦うことや(フィリ l : 27‑3帥キリス トの謙遜な生き方に倣って謙遜と一致を図ることや(2: 1 11) .パウロが使わす使者を受 け入れることや(2: 193: 1) , 論敵達ではな< , パウロを真正な宣教者として受け入れ ることを (3 : 24: l)勧めているのであるコキリスト讃歌の部分や(2: 6‑11) ,論敵と パウロの生き方の対比のところ(3: 24: l) には演示的要素が強いが, これらは助言的

目的を補強する機能を果たしている。

フイリピ書においては, ロゴスよりもエートスやパトスを強調する修辞手法が用いられ ている。例えば. フィリ2: 1‑18 において, パウロはフイリピ人達に, 互いに思いを一 つにし, 互いに遜らなければならないと勧めている (2: 1 5)。この勧めの正当性は論理 的な議論ではなく,神の子でありながら,進って人となって「奴隷」の姿を取り 十字架 の死に至るまで神に対して従順であったキリストの生涯を描く讃歌を引用することによっ て示されている (2: 6‑9)。 このキリスト讃歌は キリストの生涯を称賛すると共に. キ リスト者が従うべき模範として提示されていが(2; 12を参照). そこには演示的要素が 強く表れている。特に, 自巳を空しくする遜ったキリストの地上の生涯と世界のすべて のものに優る栄誉を神から与えられることとが鋭く対照きれている。 この部分は修辞学的

(25)

78 論文

には,逆説的称賛(TKMp'i60:0!' とYK(jl,Lo,,)に該当すると考えられる (アリストテレス「弁 論術」 1366a)。

他方, フイリ3: 24: 1においてパウロは, 自分の宣教内容の正当性を論理的に説明す るよりも, 論敵達の人物を徹底的に否定的に描き,彼らの動機が不純であることを示そう としている。パウロはフイリ人達に論敵達の主張が信頼するに当たらず, むしろ, パウロ の生き方とその神学思想の方が信頼に値することを示そうとしている。律法の遵守を要求

しないということは,異邦人に対する境界線を取り払うと共に. キリスト教が生まれた母 胎である初期ユダヤ教に対して,境界線を画する意味を持っていた。そのことは, キリス トへの信仰の故に加えられる社会の敵意や攻撃から身を守る外的手段を放棄して,苦難の 道を自ら引き受けることを意味した(フイリ l : 29; 2: 10を参照)。

参照

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