坂上田村麻呂と観音伝説――「みやことみちのく」
の落穂――
著者 野崎 準
雑誌名 東北文化研究所紀要
号 46
ページ 1‑16
発行年 2014‑12‑25
URL http://id.nii.ac.jp/1204/00000495/
坂上田村麻呂と観音伝説││
二.坂上田村麻呂と観音伝説
(一)清水寺千手観音と田村麻自伝説
(二)長谷寺十一面観音と田村麻呂伝説
会ニ)鞍馬寺その他の田村麻呂伝説
にまつわる観音伝説 はじめに
四 三 都 と み ち の く
おわりに
はじめに
平安時代の武将︑東北地方の蝦夷平定の立役者とされた坂上田村
麻自について︑被征服地の東北地方を中心に各地に伝説が残ってい
るのは古くから注意されている︒
江戸時代には仙台藩の学者佐藤信要が寛保元年(一七四一)刊の
﹃封内名瞭誌﹄(註一)で田村麻呂伝説に注意し︑さらに相原友直(一
六九
一
i一七八二)が平泉の地誌﹃平泉雑記﹄(註二)に田村麻日
が創建したという社寺を調査して‑記した︒また大正時代に民族学で
東北文化研究所紀要第四十六号二O一四年十二月
﹁ み や こ と み ち の く ﹂
の 落 穂
│
│
野 崎
準
も知られる遠野の人︑伊能嘉矩(一八六七i一九二五)も﹁悪路王
とは何者ぞ﹂(註三)と題して東北各地のみならず他の地方にも蝦
夷の悪路王とそれを征伐した坂上田村麻呂の伝説があることを詳細
に調査記録し︑史料に見える蝦夷征伐の行われた地とは無関係にこ
の伝説があった事を注意している︒
史実の征夷地域以外に伝説が広まっているのはその後の開拓で植
民した人々がその出自を勝利した側の坂上田村麻邑︑或いは奥州十
二年合戦の八幡太郎義家︑平泉征伐時に戦功によって東北に所領を
得た鎌倉武士などに﹁先祖が従いこの地に来た﹂︑と結びつけるた
めではなかったか︑とは容易に想像されるが︑同時に仏教の広がり
とも関係があったと思われる︒
田村麻目伝説については故高橋富雄氏を始め高橋崇氏︑新野直吉
氏など多くの東北史研究の大先学によって論じっくされているので
あるが(註四)︑京都並びに京都の貴族らの信仰を集めていた寺院
と田村麻呂伝説を改めて検討してみたいと思う︒
(註一﹀佐藤信要﹃封内名蹴誌﹄仙台叢書第八巻
所 収 大正一四年(一九
坂上
川村
山榊
H山
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・)がある他にも本件に触れた多放
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制限
刻・
本
III!
;背7)<寺遠景
修理工恵開始前の姿である
坂上田村麻呂と観音伝説
(一
)清 水寺千手観音
と田村麻呂伝説
大和川小的年
音羽の滝 ぃ以 郎御 所︑
鹿苑平合附
︑
川以
戊ド
k
神 社
などと共にい以郎の代ぷ的問
光地
︑ 市氷 山区 山川 水の 斤羽
山
山川
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占
くから千千観汗の話局として
知られ
︑現在
の伽藍は江戸時代初期の再
建によるも
のが大半である
が︑本尊千手観立円を秘仏として厨f内に安置する舞台造りの本堂︑
‑ 一 .
屯塔
︑音羽
の花︑ 奥院
︑館山Jd
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社︑参道から移転して向かい
の陪似にある
f安 併 などが多くの参作符を集めている
︻凶版
一
清水 寺
. . ...
この前
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寸に は各 州の 総起 がい いわ り︑
その大立は
図 版 ニ
の川
川町
心がこの地の混成を知る行似川上と川会い
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下 下回行を本将とした︒後に似必大将不・‑化
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大
納・
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り子
安
時
代初則の代ぷ的所人
日出
となる以
上川村 山 榊
川が什似の途次に弘ちょ
り︑帰依して伽藍を建てた﹂と言う内容である︒
もう少し詳しく︑﹃群書類従﹄釈家部(註五)に収められている﹁大
学頭明衡朝臣﹂筆の﹁清水寺縁起﹂の概要を記す(原漢文︒(
内は野崎書き入れ)
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昔一人の聖人がおり︑名は延鎖︑(大和小嶋寺の)報恩大師
の弟子であった︒学問の末︑杖を手に山林で修業した︒宝亀九
年(七七八)四月八日に優れた地を見出した︒山城国愛宕郡八
坂郷の束の山である︒翠の山に固まれ櫨峰の如く︑滝は銀河を
落すようであった︒
草庵があり︑中に白衣の老人がいた︒その居士は延鎮の問い
に答え﹃自分は行叡といい︑隠遁して大悲観音(千手観音)を
念じ千手真言を唱えて︑二百年になる﹄︑と言い終わらない内
に消えてしまった︒延鎮は驚き︑この草庵に止まり滝で行を積
んだ
ここに(後の)大納言坂上卿が遊猟の途次︑冷水を所望して ︒
延鎮と逢い︑篤く帰依することとなり︑この地に伽藍を建設す
ると約束した︒延暦十七年(七九八)七月二日に︑延鎖聖人と
坂大将軍は同心合力して金色の十一面四十皆の観世音菩薩像を
造り仮の宝殿に収め︑清水寺︑別名北観音寺と名付けた︒
同二十四年(八
O
五)寺地を奉請し施入を受け︑柏原天皇(桓武天皇)の御願寺とされた︒
大同二年(八
O
七)︑夫人の三普命婦が寝殿を解体してこの地に運び仏堂を建てた︒康平七年(一
O
六回)八月十八日に焼東北文化研究所紀要第四十六号
二O一四年十二月 失し︑同年十一月三日に再建を終えた︒
とあ
る︒
同書に収めるもう一つの﹁清水寺縁起﹂は延鎮の出自を大和国小
嶋寺の報恩の弟子であり︑坂上回邑麿公は将監であった宝亀十年
に安産の薬にと鹿を狩った帰途に草庵を結んでいた賢心︑後の延鎮
に逢い︑殺生をたしなめられ夫人三普高子とともに帰依して寺を建
て︑金色八尺十一面四十管千手大悲大霊験観世音菩薩を造る︒この
時東国で蝦夷が逆を発したので田村麻呂は鎮守将軍として出陣︑延
鎮の祈りが通じ東国が平定されたので延暦一七年︑脇侍として勝軍
地蔵菩薩︑勝敵毘沙門天を征夷のために造ったとし︑最後に田村麻
呂の伝記をのせている︒
この清水寺は平安京の東南で︑天台密教の総本山比叡山延暦寺や
三井寺園城寺︑真言密教の京都での中心地である教王護国寺(東寺)
等の聞に在りながら︑元は延鎖の学んだ奈良仏教の法相宗(昭和四
O
年(一九六五)より北法相宗大本山として独立)に属し︑寺門(園城寺)の荒法師︑山門(延暦寺)の山法師︑南都(奈良)の奈良法
師などの僧兵が闘誇堅固の戦いを繰り広げていた古代末より中世に
かけてしばしば闘いの地となり︑また当時は森林中の山岳伽藍で
あったから雷火などの火難も多く︑古い資料や記録は残っていない︒
平成七年(一九九五)に出版された﹃消水寺史﹄の第一巻(註六)
は寺の創立について︑七種類の縁起を整理︑最も古い記録を前述の
以上
聞村
山宮
口と
創立
U伝説 l
│
﹁みやことみちのく﹂の泌総
│
│
﹃伝・
脱原明術非
・山
川水
平縁
起
﹄と﹃
扶桑
略・
記
﹄掲載の縁起とし︑
前川 にけ んえ る市 山町 の制 辿を 山
k他
九 年
(七
七八
)︑
川村・琳刊の州依は
川
一 一
作(じ八
O )
が正しいと巧説して
いる︒
その宝亀一一年の伊治公砦麻呂の乱に始まり︑来日本を誌搭させ た点北地万の蝦夷の反乱は凹村麻呂の功紛により延暗
二一
年(八
O
て)に別収地
点が予定され︑降伏し仰に辿行された敵将の
m
戊 公 判 ヨ流為︑併川
(公
ほ礼
が
削村
麻川
γけ の嘆願にもかかわらず処刑されて
一
段泌する
︒川村・跡内はこの後小
・火
山川
僚と
して
活躍
︑
ト人
納
47
円 い 叱
一. 位
ト れ 近術大将兵部卿となり弘仁
・作 中
(八
一 一
)に.九州成で必じる︒その
泣骸は﹁
峨峨天日の勅により
川中
山
・民
ハ伎
を刷
必押
し桁
を‑
平交
京の
い米
に 向けて立てたままの盗で葬った
﹂︑
と
﹃田邑麻
呂伝記
﹄にあるように︑
死後も点から都を机うものを阻む霊力を期待されていたようである︒
市水午はその山村麻川のれ仰が鰐く︑
また縁起に比られるように 蝦必征
伐の隙に
も混験があったとされて
︑
日以
初
の本立は川
村
麻
ι
の私邸を移築したものである︑とか.十安巡仰
の隙
に不
.耐
火と
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た民
間
ぃ 以
の
川紫白山取を下賜されたものである︑などの伝えがあり︑閉山吹
は
川村堂と称し︑閉山
の延館
︑行叡
の
像とと もに坂上
田村麻呂
・高
子夫妻の
像 を
まつる︻
図版
三︼3
さらに
武・
米 の時代となり源頼仰の征
必大将市任
命に始まる武将の 日 以
hH川位としての征必大将市のよ先端として︑
その活雌ぷりからの人
田村堂 清水 寺
図版三 どと混同されて説話
︑
気も
出たようで
︑初朋の武
t
として活躍し人気があった厳原利仁な物品にも登場するようになる事は山くから知
(以ド﹁川村府﹂︑﹁川
村九
﹂︒
﹁ 川 口
Ua Mm
﹂
られている所である
などと
UH
川橋治氏の﹃
坂上
川
村山
榊川
﹄(花開文献
)
ぷ記されている場合は
引川元の文献のままとした
) ︒
は日
以終
市に
そ の伝説を
﹃時奥
w→ 川
記
﹄に﹁坂耐伝怜礼・脈片
﹂﹁
川
村・ 断片 将市
﹂と
hu
山取り上げ︑
されているのを始め
︑﹃冗口
主鏡
﹄︑﹃
保元物詰
﹄︑﹃ホl
家物
一品
川
﹄ ﹃ 義経記
﹄
などに散見する田村麻呂の伝説を考証された
︒そして最後に京北地
万の川村山榊けれ伝説の特色として﹁田村山肺門辿立と伝わる年杭が広く
をあげ
︑
分釘している
﹂
として
﹃.kI忠
雄必
﹄のやげる
仙台矧内
の
. .
卜一
社年 その後の調布では
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村山琳品と例姥を開辿させている年社は旧仙台領のみならず福島県︑岩手県北部︑秋田県︑青森県など﹁田
村麻呂が足を踏み入れたとは考えられない﹂地域︑長野県など東北
往還の通過地点にまで及び︑その創立年代も大同二年(八
O
七 ) ︑
延暦一七年(七九八)が多いとされ︑その伝承は清水観音信仰を始
めとする仏教が東日本に広まった過程で有名人である田村麻呂と結
びつけたのであろうと考証されている︒
ここで紹介された仙台藩時代の地誌で田村麻呂伝説に注意してい
るのは︑まず佐藤信要の﹃封内名蹟誌﹄で︑寛保元年(一七四一)
の序・奥付がある︒伝説は社寺︑遺跡一七箇所に及び一
伊具郡
宮城郡
宮城郡
宮城郡加美郡
遠田郡
遠田郡
遠田郡 平城帝大同年中田村麿建立︒
仙台石那坂田村麿将軍の妾﹁悪玉姫﹂の観
音をまつる︒ 斗蔵山大悲閣悪玉観音
瑞巌寺前の島︑大同二年坂上田村丸造営︒
富 山 大 同 年 中 田 村 麿 建 立 の 三 観 音 ( 富 山
︑ 箆
崎︑牧山)の一︒ 松島五大堂大悲閣
郷説田村麿の勧請︒
大悲閣無夷山箆峰寺坂上田村麿の造営︒
箆峰権現大悲閣の西︑往昔田村麿東征の矢が芽吹いて
薮と
なる
︒
神楽岡 箆 四
崎 寵
塩竃神社
﹃田村丸伝﹄に延暦二年奥州の賊高丸︑悪路王
達谷に起こり駿河国清見聞に至る︒詔を奉じてこれを討
東北文化研究所紀要第四十六号
二O一四年十二月 牡鹿郡栗原郡栗原郡栗原郡栗原郡登米郡 ち︑高丸を追いこの地で殺す︒なお付近の﹁祈祷津﹂﹁毒矢撤﹂﹁旗峰﹂﹁清鱗清水﹂も田村麿ゆかりの地︒牧山大悲閣本尊は海底より出現村麿の造立c
南方村 伽藍は慈鎖︑又は回
大武略(おおたけもり)賊首大武丸を大同年
中田村丸討ち︑この地に悲閣を建つ︒
二の迫八幡社桓武帝延暦年中︑田村丸の建立なり︒
後八幡太郎義家戦勝を祈願し︑甲宵を奉納す︒
音羽山清水寺相伝は田村麿建立と︒一説に悪七兵衛師
末の子師門が京の清水観音を信仰したものとも︒
小 迫 大 悲 閣 楽 峰 山 勝 大 寺 平 城 帝 大 同 年 中 田 村 麿 建
立︒縁起には﹁坂上俊宗なるものが桓武帝の時伊勢鈴鹿
山の妖魅を千手観音の霊戚の助けで破り︑その首将大武
丸も磐瀬郡千丈獄に破り︑佐沼に打ち取り骸を埋めて大
悲閣とす︒その与党を箆獄・牧山・水越長谷・鱒淵華
足・南部三戸・小迫・富山で裁し各悲閣を建て護国の鎮
守とする﹂︑とあるが︑これは六国史︑野史︑東史(吾
妻鏡)に見える坂上田村麿を延喜時代の藤原利仁と混同
したものである︒
田村麿長谷の観音を移せる所な 長 谷 大 悲 閣 水 越 村
り︒本尊長さ八尺二寸︒
按ずるに田村麿の観音には長谷寺を移したとあるものが
版上田村麻呂と観音伝説││﹁みやことみちのく﹂の搭砲││
登米郡 多い︒田村麿の信じたのは山城清水寺の観音である︒﹁事実を弁ぜず妄りに田村の建というは尤も疑うべし﹂︒
馬頭閣鱒淵村にあり︒片崎山華足寺といふ寺あり︒大
同年中田村麿東征の時乗馬がこの地に鎚(たお)れた︒
そこで此地に痩(うず)め堂を建て馬頭観音を安置した︒
ただし﹁田村東征の時︒此地経過せし事︒正史旧記に見
えず
︒尤
も疑
ふべ
し﹂
︒
胆沢郡
鎮守府八幡八幡村平城帝大同年中田村麿建営也︒昔
弓矢・鞭策等あり︑今雄剣︑弥陀像あり︒縁起があるが
取るに足りない︒束史(吾妻鏡)に見える︒
十一面観音堂猪川村大同年中田村麿の建立也︒龍福
山長
谷寺
と号
する
︒
気仙郡
仙台藩の学問は実証主義だ︑と普聞いたことがあるが︑詳細に取
材し国史文献を熟読して客観的に書いていると感心する︒この時代
に﹃吾妻鏡﹄で既に始まっている田村麻巴と藤原利仁との混同や︑
田村麻自の信仰は清水寺千手観音なのに長谷寺十一面観音が出てく
る事などはおかしい︑と批判している︒この意見が強かったためか
現在の研究書でも長谷観音信仰と田村麻呂の伝説は後世の付けた
り︑としているものがあるが︑実は奈良県桜井市の長谷観音の古い
縁起でも田村麻自が大きく扱われていることは後述する︒
第二に相原友直の﹃平泉雑記﹄二七﹁田村将軍建立堂社﹂(註二 文献)はこの﹃封内名蹟誌﹄に補足したとしてい
胆沢郡八幡村の鎮守八幡宮(﹃吾妻鏡﹄文治五年記事)︒
(西)磐井郡遠谷の逮谷洞毘沙門堂(同じく)︒
小山
村斗
蔵観
音(
大同
年中
創立
)︒
角折
村白
山社
︒
仙台城東石那坂の悪玉観音︒
松島五大堂(大同二年建立︑慈党大師説もあり)︒
手樽
村富
山観
音(
大同
年中
創立
)︒
四竃(色麻)村の寝寵社︒
無夷
山の
箆獄
観音
︒
和淵
村和
淵神
社(
貴船
社)
︒
港村
の牧
山観
音(
長禅
寺)
︒
伊具郡江
刺郡
宮城郡加 宮 宮
美 城 城 郡 郡 郡
遠田郡遠田郡
牡鹿郡
栗原郡
栗原郡
栗原郡
栗原郡
登米郡
登米郡気仙郡 佐沼庄南方村の大武観音(蝦夷の大武丸の首を封じ大同
年中
建立
)︒
二迫庄八幡村の八幡宮(延暦年中創建・源東寺あり︒
源義
家の
奉納
品も
あり
)︒
三迫荘岩崎村の音羽山清水寺︒
小迫村の小迫観音︒正大寺︑今勝正寺と言う︑田村(伊
能嘉矩本は坂上)将軍俊宗創立︒
水越
村の
長谷
観音
︒
鱒淵村の鱒淵観音︒華足寺︑田村麻自の愛馬を葬り大
同年
間創
立︒
矢作
村長
谷山
観音
寺︒
気仙郡
気仙郡 小友村の小友観音(渓頭山常膳寺)︒
猪川村の猪川観音(龍福山長谷寺)︒
上住村(伊能本は上有住村)の五葉山神社︒気仙郡
の一二箇所を挙げる︒これも仙台領以外は調べていない︒本書も
﹃名跡誌﹄を引いて長谷観音と結びつけている伝説は︑田村麻呂の
信仰するのは薙州(山城の異称)清水寺であるから後人の妄説なり︑
と断じている︒相原友直は京都で学んだことがあると言い︑京都に
残る平泉や源義経の伝説も丹念に調べ記述しているが︑これは本務
の合間で踏査より文献調査が主だったようである︒
さて︑伝説が先で本尊千手観音菩薩の説明が後になるのは仏に対
して失礼だが︑清水寺本尊についてここで説明する︒本尊は秘仏で
あるが︑仏教美術からの清水寺本尊四十手千手観音については︑西
村公朝氏が﹃清水寺史﹄で秘仏本尊並びに江戸時代の前立仏につい
て詳細に解説している︒その要旨は一
観音菩薩像の内︑大悲観音とも称する千手観音の像には︑実際に
千骨を表現するものと︑二智を合掌し︑左右に四
O
骨の四二智で表現するものがあり日本では後者が一般的である(野崎註一合掌手を
除いて四十手千手観音ともいう︒四
O
手が各二五有界の衆生を救うので
千手
とな
る)
︒
清水寺本尊とその前立仏は一般の四二時四千手観音と違い︑二瞥を
頭上に上げて合掌した上に加来像の化仏を乗せる︒四二皆千手観音
東北文化研究所紀要第四十六号
二O一四年十二月 は合掌智以外の皆に四
O
の持物を捧げるが︑左右に如来像の化仏を各一体捧げ持つ︒儀軌ではこの尊名が不明であるが︑仏師には﹁釈
迦加来と多宝加来﹂と伝えられており︑従って頭上に捧げられた一
体の如来は釈迦加来の可能性が強い︒
中国の千手観音にも二管頭上のものがあるが︑千手を表すものが
大半であり︑四二骨で二管頭上の例は日本の清水寺やその影響下の
寺院に多いのでこれを﹃清水寺式千手観音﹄という︒類例は平安時
代の立像が岩手県平泉中尊寺︑平安末のものが岐阜県慈恩寺︑鎌倉
時代のものが神奈川県竜峰寺にあり︑印仏が京都東山三十三間堂の
鎌倉再建本尊の胎内から発見されている︒平泉の例は坂上田村麻目
の関係で東北にまで清水寺本尊の形が伝わった事を示す︒
清水寺本尊千手観音の脇侍は向かって右が﹁勝敵毘沙門天﹂︑左
が兜を被り甲宵を帯び︑錫杖と剣をもっ﹁勝軍地蔵﹂である︒春属
として二八部衆がある︒
等と説明されている︒
なお補足すると︑観音(観世音)信仰は衆生を済度するという考
えから個人の危難からの救済︑延命︑子孫繁栄︑出世︑蓄財などを
かなえるというので︑特に密教の普及後は貴族︑つづいて民衆に広
く信仰されるに至ったが︑この清水寺も長谷寺︑石山寺︑壷坂寺な
どと共に日本の観音信仰が盛んになりはじめる時期の創建で︑縁起
の内容もそれに合致したものである︒後に三十三観音霊場が設定さ
れると第十六番札所となる(註七)︒
以上 川村 山榊 川と
M M 日 仁 MA
‑‑
みや・匂とみちのく
をお 附・
1ト
︑川 川 HH
矧従
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‑‑ 版に よる (ぷ ムハ )山 川水 与山 丈一 泌築 委以 会一 端
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なお
︑一 政上 にて 附け を
トげて如米仙聞を保持する下手制限汗の閃像・彫
刻は小川の下下観点け品開の岡山公にいくつかあり︑内
a
‑
岬Hの例もある︒
刈ぬ弘道﹃卜一
而制 限行 像
・千子観tH像﹄(
‑
全 ‑ X
全日本の夫術‑一.
一 一
‑ 十 成問年
一九
九
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で は 八 附い い配 本に 造以 され た山 川水 与
の初めの本
時が︑山川の彬細川を受けた独特の肢の形をしていたことが忽仙附される﹂
としている
( 日
仁)
述 水 仙
︐M M 山
HM
仰﹄
州選 川じ
・・
千成 仁作 中
(
附利川.九年(.九じ
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一 一
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長谷寺十一面観音と田村麻呂伝説
佐山
勝
U .
袋と相川ぷ凶はい以北の川村麻リハと附わる午院に民行与があ
るの
を︑
﹁川村山榊川のい仰したのは山・水午である
と 一 蹴 し て い る が
︑ 実 は
京良
県 桜 井 市 初 制 の長谷年
ト一出制汗にも川村山肺門と附わ
るい杓い縁起がある︻
間版問
︼︒
﹃続 昨 川 知
﹄従 釈 家 部 第
二
七 樹 ド
﹁長谷平手験日記
﹂
(註
八
)
第 五
に原・上川村麻円と長谷間汗の縁起が出ている︒
佐山
勝
・制服両名が知
らなかったように治水午縁起の如く万人周知ではないようなので︑
一部現代柄下になおして似
‑ X をぷす
︒
H以
谷じ
ザ‑ U
験M山
部・ 九 川付将
M M M
刈勝市
山旬
以新
日以
符ぷ
引け
長谷寺遠景 図版四
川一
政.
火山
ノ御
下‑
一点
必起
ッテ
我制ヲ似サントシテ常時川マデ円以人
リ伴リケレ
パ
延 肘 ト
hハ年ト・川
日以上川. h
村‑ M U
Y 刊紙必大将市ノ行‑
行 ヲ 袋 リ テ 彼 ヲ防ガン為ニ米川ニ
山
ヒケルトキ
此必ニ戦ンコトイ プセク思ヒケルニャ
︒
此ノ観計二州シテ侍リケレパ
︒先ツ常
キ ニ 参 龍シ
︒今度ノ軍安臣ト祈リ山・シテ︒
七日ニ満
ジケル日︒
ノ‑ M 坊師ニ
モ祈リ
ノ が ナ ン ド 巾 シ 世 テ
︒同什五日ニ山川年ヲ山テ都‑一ド向シ付
ヌ︒
次
ノ
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点ノ宿所ヘ長谷ノ的浄坊ノ
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人ノ汗ヨリトテ
t︑
五二 上
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ヘケル侃ノ見知リタルガ収不﹄ノ胤ヲ引
テ米リテ
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今
サテモ今度不
ニ向ヒ給フ引返々ココロホ日クはがル︒
御 祈
ハ以内々疎ナル恨むルベカ
ラズ︒川一シ市ノトキハ
必ズコノ川ニ点ラセ給フヘ
シト
・
ぶヒテカハシ
テ的リケレ
パ
川村悦ンデ彼ノ防ヲ
引セテ︒
次ノ
年・
此川
十六
日ニボ
ヲ立テ常陸国へ下向シヌ︒長谷ノ師ノ教へ只観点目ノ御詞ト同事ナリ
トテ︒軍ニ向フゴトニ件ノ馬ニ乗リテ戦ヒケルホドニ︒手綱ヲ向ケ
ザレドモ進ムヘキニハ進ミ退ク可キニハ退ク︒海鰭ニ追攻ラルレパ
水ノ面ヲ走テ向ノ岸ニ着キ︒山際ニ追向ケラルレパ高峰ヲ飛ピ越へ
テ山ノアナタニ到ル︒射ルモ轍クセズ︒切共轍クトホラズ︒タマタ
マ抗ヲ蒙レパ即チ癒︒是尋常ノ馬ニ非ズ︒大聖ノ変作ナリト不思議
ニ思フテツヒニ夷ヲ討チ随へ︒陸奥国ニノハサマト云所ニテ件ノ馬
忽ニ死スc則チ墓ヲツキ石ノ唐極ヲ切テ件ノ馬ヲ納メ侍リケルホド
ニ︒彼ノ墓ヨリヒカリヲ放チテ異香薫ズルコト七箇目︒調々怖テ墓
ヲ掘りテ見レパ︒生身ノ十一面観自在菩薩在ス︒是レ嘗寺ノ観音恭
クモ畜生ノ身ヲ表シテ日本ヲ助ケ我ガ願ヲ満シタマヘル也ト尊ク覚
へケレバ︒田村其所ニ寺ヲ建テ此尊ヲ崇メ新長谷寺ト名ヅク︒此伽
藍霊戚新ニシテ其国無双ノ本尊タリ︒凡田村ハ彼ノ寺ト同時ニ奥州
ニ寺ヲ建ルコト六箇所︒同十九年六月十六日同時ニ彼ノ寺六箇寺ヲ
供養シケルニモ︒田村六所ニ分身シテ同時供養会場ニ着座シテ聴聞
ヲソ遂ラレケル︒彼ノ田村モ毘沙門ノ化身ト云コト事実ナル哉︒
則チ田村此馬ノ振舞シ事ヲ清浄坊ノ上人ニ語ッテ喜ビケレトモ都
ベテ知ラズト云フ︒禰々フシギニ思ヒ︒驚キアヤシンデ︒使ト思ヒ
侍シ其坊ノ童ニ尋ネケレパ︒努々知ラズト云フ︒誠二一是賞寺ノ観音
分身
恭哉
︒
概要をまとめると
桓武天皇時代に東夷が日本を侵略しようと常陸固まで攻めてきた︒
東北文化研究所紀要
第四十六号二
O‑
四年十二月 坂上田村麻呂は延暦二ハ年に征夷大将軍となり︑長谷観音に祈願
して出陣した︒
出陣前に長谷清浄坊の章子が名馬を述れてきた︒この馬は海を渡
り︑山を飛び越え︑傷を負っても平気な名馬であったが︑蝦夷を二
の迫まで追い戻した時に死んだ︒
馬を埋めた塚で怪異があったので掘り返したら十一面観音があ
り︑あの馬は長谷観音の化身であったと知った︒
そこでこの地に新長谷寺を建てた︒また奥州に六箇所の寺を建
て︑延暦一九年六月一六日に供養をした︒六寺で同日に行われた供
養の全てに田村麿は同時に出現した︒彼は毘沙門天の化身だったか
らで
ある
︒
都に凱旋し長谷寺清浄坊の上人に礼を言ったが︑上人も馬を連れ
てきた童子も知らなかった︒これで名馬は長谷観音の化身だと確証
が得られた︒
となる︒﹃長谷寺霊験記﹄文は﹃長谷寺験記﹄は上下巻で︑諸文献
解題は長谷寺関係の僧侶により一三世紀には成立していた︑となっ
ている︒上巻が吉備大臣入唐の話から聖武天皇による創建︑諸霊験
と火災による再建を記し︑下巻は第五に上記田村麻呂伝説を記し︑
以下にも諸霊験が記されており︑仙台伊達家の先祖である藤原山蔭
中納言と摂津国嶋下郡の総持寺創建にまつわる話も収められている︒
余談になるが︑山蔭中納言の物語は﹁山蔭中納言が幼時に継母の
計略で海に投げ込まれたが︑観音の霊力で父高房が昔助けた亀に助
坂上聞村麻呂と観音伝説││﹁みやことみちのく﹂の端艇││
けられた︑中納言は長じて父の供養のため観音像を造ろうとして遣
唐使に託して唐の霊木を求めたが日本への持ち出しを禁じられ︑海
に投じた所無事日本に漂着した︒この木を都に運ぶ途中摂津下嶋郡
で動かなくなり︑長谷観音の化身である童子がその木に彫刻し︑そ
こに寺を建てたのが総持寺とその本尊である﹂︑と記されている︒
この話は﹃今昔物語﹄巻二三にも﹁亀報山蔭中納言恩語﹂として細
部は違うが掲載されており︑﹃十訓抄﹄などにも引用されている︒
唐の栴植木が日本に漂着した︑という話は地方にある長谷観音が
﹁大和の長谷観音の余材が海から漁網にかかって引き揚げられた﹂
﹁観音像が川を流れてきた﹂という漂着伝説とつながるようである︒
この山蔭中納言は田村麻呂とよく混同される藤原利仁の父時高の弟
であ
る︒
田村麻呂伝説に戻ると︑遅くともこの縁起がまとめられた鎌倉時
代には坂上田村麻呂と長谷観音との縁が広く信じられていたことが
分か
る︒
縁起で注意したいのは第一に蝦夷が﹁我が朝を犯さんとして﹂と
日本征服の侵略軍のように書かれ︑﹃元亨釈書﹄の様に駿河国清見
の関まで来たとは言わないが︑常陸国まで攻め込んだと書いている
事である︒常陸が出てくるのは鹿島神社の本地仏が十一面観音であ
ること︑鹿島神社など常陸の社寺にはこの地まで蝦夷が攻めてきて
戦ったという伝説があるからではないかと思われる︒実際はこの付
近から︑鹿島神社の分社が多い現在の福島県浜通り地方の人々が束 北北部の征夷事業に兵士として参加させられ︑また地元の砂鉄から作られた鉄により兵器や軍用資材の生産がおこなわれるなど後方兵坊地であったためであろうが︒
古く伊能嘉矩も常陸の国の蝦夷伝承を﹁悪路王とは何者ぞ﹂(註
三文献)で常陸鹿島神社は分社が奥州に多く︑東茨木郡城里町(高
久)鹿島神社に悪路王の首あり︑鹿島神社では二月一五日に﹁祭頭
祭﹂を行う︑としている︒鹿島神宮の首像は堂々たる武将の表情で
﹁阿ヨ流為の首﹂として東北地方でも評判になり︑あちこちで複製
口聞を見ることがあるが︑高久の悪路壬首級は写真で見る限りは本物
のさらし首をモデルにでもしたのか乱れ髪の凄惨な顔である︒また
鹿島神の本地十一而観音にも今後注意する必.要があるだろう︒
次に観音の化身の馬が倒れた地を﹁ニノハサマ﹂としているのは
現在の宮城県栗原市の二ノ迫川付近であろうか︒前述のように地元
では田村麻目の馬を埋葬したのは登米郡増測村(現登米市東和町米
川)の華足寺(馬頭観音堂)という事になっている︒長谷寺縁起が
先に成立し︑後から﹁ご当地﹂の名乗りが上がった可能性もあるが︑
いずれにしても元の話は近世になっての﹁妄説﹂と一蹴できるもの
ではないことは確かである︒
最後に田村麻呂が毘沙門天の化身であった︑とさり気なく述べて
いる︒後述する鞍馬寺の伝説よりも古い︑おそらく最古の記録では
ない
だろ
うか
︒
仙台藩時代の編築物で仙台藩以外の陸奥・出羽の遺跡にも言及し
た佐久間洞巌﹃奥羽観蹟聞老誌﹄がある︒この本は仙台藩領以外の
地は歌枕と古跡の記事が大半なので︑仙台の伊勢粛助がその欠を補
おうと明治時代から﹃補修奥羽観蹟聞老誌﹄を編纂したが︑東京で
印刷中に関東大震災で原稿もろとも焼失した︒﹃仙台叢書﹄の﹃奥
羽観蹟聞老誌﹄下巻にはこの補修部分のみを活字化している(註
九)︒ここにもいくつかの田村麻呂伝説があるが︑出羽園長谷堂︑
現在の山形市長谷堂の﹁長谷堂観音﹂を﹁出羽風土略記に云う︒昔
田村将軍東征の時陣をとられし所なり﹂﹁麓に十一面観音あり︒田
村将軍高丸と合戦し給ふ時・:﹂と幾つかの間村麻呂伝説を紹介して
いる︒現在の長谷山長光院の伝承では﹁前九年合戦の折り源額義が
長谷観音に勝利を祈願し:・﹂となっているが︑ここにも長谷観音と
田村麻呂の伝説があった︒
長谷寺の本尊十一面観音も何度も焼失し︑現在の一
0
メートルの巨像は室町時代天文七年(一五三七)の再建︒巌上に立ち︑右手が
施無畏印︑左手に蓮華をさす華瓶を持つ一般の十一面観音と異なり
右手に数珠と錫杖を持つ︒脇侍の難陀竜王は鎌倉時代︑赤精童子は
本尊と同じ天文七年の銘がある︒
長谷観音は武士の信仰が篤かったといい︑神奈川県鎌倉市長谷の
長谷観音も一
0
メートルをこえる巨像で︑﹁大和長谷観音と同材で︑海に流した余材が流れ着いたので造像した﹂と伝える︒東北地方の
観音像も海︑或いは川を流れてきたとの伝説を持つものが多いのは
これに依るものだろうか︒筆者の記憶では福島県伊達市︑旧伊達郡
東北文化研究所紀要第四十六号
二O一四年十二月 梁川町八幡の﹁取揚(流れ)観音﹂も室町時代の十一面観音像で︑江戸時代再建の観音堂の天井を切り上げて収めるほどの巨像でありながら手前を流れる小さな川を流れてきたと伝えていた︒
(註八)一長谷寺霊験記下﹂﹃続群書類従﹄第二七輯下釈家部八四
(註九)﹃仙台叢書・奥羽観蹴聞老誌﹄上・下昭和三︑四年(一九二八・九)
(三)鞍馬寺その他の田村麻呂伝説
東北地方には日本の艮(東北)にあたるということか︑四天王の
東北を守護する多聞天を単独に﹁毘沙門天﹂として杷る寺院が多い︒
﹃吾妻鏡﹄が平泉滅亡後の周辺の名所として田谷(遠谷)窟の毘沙
門堂をあげ︑ここは﹁田村麿利仁将軍が給命を奉じて夷を征する時
悪路王並赤頭等が塞を構えた岩屋であり︑坂上将軍が鞍馬寺に模し
て九間四面の寺を建て多聞天を安置した﹂(文治五年九月二八日条)
旨の説明が書かれている︒東北地方のその他の寺院縁起にも東北鎮
護のための多聞天(単独で杷る場合毘沙門天と称する)を坂上田村
麻呂と鞍馬寺の関係で説明しているものが多い︒
ただ肝心の京都鞍馬寺には田村麻呂の記録はなく︑高橋崇﹃坂上
田村麻呂﹄(註四文献)でも寺の縁起には田村麻呂の記事はなく﹁口
承寺伝﹂に戦勝祈願に来た田村麻呂が凱旋の時奉納した太万がある
のみ︑とされている︒大永四年(一五二四)の写本が残る鞍馬寺の
縁起﹃鞍馬蓋寺漢文縁起﹄などにも田村麻呂の記事は見えない︒
坂上田村麻目奉納と伝える太万は片刃の直万で︑現在重要文化財
坂上回村麻呂と観音伝説││﹁みやことみちのく﹂の落穂││
に指定されている﹃黒漆剣・寺伝坂上田村麻呂剣﹄で︑正倉院の万
剣と反りのある古太刀の中間に当る希少な刀剣の例としてよく万剣
関係の文献に紹介されている︒寺宝には伝・田村麻呂奉納の鉄製
鐙︑伝三条小鍛冶宗近作の三鈷剣もあり︑藤原利仁︑源頼朝などの
万剣奉納の記事もある︒
﹃続群書類従﹄に永正十年(一五一三)細川高国の奥書がある﹃鞍
馬蓋寺縁起﹄が収められている︒鞍馬寺では漢文のものに対して﹃鞍
馬蓋寺仮名縁起﹄としている仮名交じりの縁起である︒この中に﹁文
鎮守将軍利仁といふ人あり﹂と藤原利仁が下野国高坐山の﹁千人党﹂
なる盗賊の集団を︑宣旨を受け討伐する話がある︒
鞍馬毘沙門天の助力で真夏に雪を降らせ︑千人を切り殺し凱旋した
利仁が感謝の為に毘沙門天像を造らせ︑寺で開眼式を行ったとこ
ろ︑夢に毘沙門天が現れ︑帯剣には千人を斬った利仁の万を︑と求
めた︒利仁の家来の一人がこの名剣奉納を惜しみ︑夜中に盗み取ろ
うと忍び込んだ所︑刀は空中に浮きあがり手にすることができな
かった︑そこで毘沙門天は刀を好むと﹃剣惜天王﹄と言われた︒そ
の剣は今も宝庫にあるc
という話である︒藤原秀郷と共に多くの藤原氏出身の武士の先祖
とされ﹃今昔物語﹄などにも登場し︑芥川龍之介の﹃芋粥﹄の主人
公とされた藤原利仁の数少ない史料の一つであるが︑これが僅かに
﹃吾妻鏡﹄などの﹁田村丸利仁﹂につながる話と推定できないでも
ない
(註
一
O )
︒
鞍馬寺も度重なる火災や退転で僅かに残る古い資料は仏像や考古 学資料である︒伽藍は明治後昭和までの再建になり︻図版五・六︼︑霊宝蔵に国宝毘沙門天像と国宝級馬寺経塚遺物を展示している︒
鞍馬寺は現在鞍馬弘教であるが︑﹃鞍馬肇寺縁起﹄には寺院となっ
たのは唐僧鑑真の弟子鑑禎が宝亀元年(七七
O )
毘沙門天を祭る草
庵を作り︑延暦一五年(七九六)藤原伊勢人が観音像を合わせて伽
藍を整備︑とある︒当初は真言宗であったが︑保延年間(一一三五
1四
O )
に天台宗となり︑中世以後幕末までの大半が京都青蓮院の
配下にあった︒平安京の真北にあり︑本尊(﹁尊天﹂と称し毘沙門天・
千手観音・尊天魔王を一体として祭る)は玉城鎮護︑と称している︒
田村麻呂・観音・毘沙門天の関係は前述の﹃長谷寺霊験記﹄にも
見えている︒鞍馬寺の毘沙門天像は一般の多聞天が右手に戟を執
り︑左手に宝塔を捧げるのに対し右手を腰に当て左手で戟を持つ
﹁鞍馬寺式毘沙門天﹂である︒国宝の左手を額にかざし途方を望む
﹁王城鎮護毘沙門天﹂は両手が後補であるので︑本来は鞍馬寺式で
はなかったかとする説もある︒
金堂厨子には毘沙門天を中尊とし︑東に四十二骨の千手観音立
像︑西に﹁護法魔王﹂像が並ぷと言う︒鞍馬寺の他にも︑密教では
観音像の脇侍に見沙門天と不動明王をおく例があり︑財産福徳の現
世利益の毘沙門天信仰も観音信仰の一部ではないかと思われる︒
また鞍馬寺は天台宗時代には長く京都青蓮院の下にあった︒消水
寺の項でも述べたように天台宗は清水寺とは対立関係にあり︑清水
寺の檀家坂上田村麻邑の事は口承寺伝の形でしか伝えられなかった
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図 版 六 鞍 馬 寺 本 堂 図版五 鞍馬寺 仁 王 門
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坂上田村麻日と観音伝説││﹁みやことみちのく﹂の落誕││
は遺跡も明らかでないほど破壊されたと言う︒なお
訪上宮(上宮は拝殿のみで本殿は無いから神宮寺の本堂の事か?)
も田村麻日建立︑空海が現在地に移転︑という伝説があると読んだ 観光案内で諏
記憶
があ
る︒
﹁諏訪大明神の秋山祭の事﹂には上宮の本地仏は普賢菩薩︑下宮
は千手観音であるとされている︒ただし両神宮寺は真言宗で︑これ
も清水寺とは折り合いが良くなかった宗派であった︒
﹃神道集﹄の解説で︑貴志氏はこれらの物語を一般大衆に仏教の
教えを平易に説く﹁唱導﹂すなわち説経(説法・談義・法談)によっ
て語られたものとし︑安居院法印として法然とも交流があり︑﹁唯
信紗﹄を著した聖覚(一二ハ七1一二三五)との関連を論じている︒
一ー安居底流唱導﹂のは中世話り物の文学などにも大きな影響を与え
たとされている︒
これらの話を武士や豪族︑庶民にも語った人々は勧進聖︑その配
下の御師などがおり︑さらに芸能化した説経師・絵解き法師・亙女
らによって地方に広まった︑とされており︑最近の伝承研究でも︑
地方に残る史実とは微妙に異なる諸伝説は﹁たくましい民衆によっ
て史実を超えて語り伝えられた﹂ように結論づけられている(註一
一二
)︒
そこでこのような田村麻呂伝説や清水寺・長谷寺の観音︑鞍馬寺 の昆沙門などの東北や日本各地への拡散もこれらの人々の関与が考えられる︒ただしこの話は勝手な創作でなく元の権威ある伝説があったはずで︑それは平安時代にはすでに成立していた各社寺の﹃縁起﹄が元になっていたのではないだろうか︒権威ある出典の無い噂話や全くの担造であれば熱弁を奮ってもいずれは知識のある者に一蹴されてしまったであろう︒
ただし︑﹃北越雪譜﹄の著者として知られる鈴木牧之が﹃北越奇談﹄
で石鍛を昔の人闘が作ったという説を否定し︑鬼神の作︑死者の怨
念が凝結したもの︑と考証したような勇み足もあり︑東北でも長谷
観音と田村麻呂伝説があわや抹消されるところであった︒
現在でも﹁史実を大切にせねばならない﹂と根拠のない伝承の虐
殺は継続しているようであるが︑﹁語り伝えられて来たもの﹂︑は荒
唐無稽でもそれなりに貴重であり︑﹁正史に見えない﹂﹁考古学的証
拠がない﹂の類で簡単に抹消してはならず︑その伝承の依って来る
ところまでを研究する事が大切であると痛感する︒
︿ 註一
O )
﹁鞍馬華寺縁起﹂﹃続群書類従﹄釈家部二七輯上所収︒
鞍馬寺教務部編﹃鞍馬山小史﹄鞍馬寺平成七年(一九九五)他
参照
(註一一)﹁諏訪大明神秋山祭の事﹂貴志正道訳﹃神道集﹄東洋文庫九四昭
和田二年(一九六七)・近藤喜博編﹃神道集・東洋文庫本﹄角川書底
昭和三四年(一九五九)
(註一二)志賀剛﹃式内社の研究﹄第一O
巻
・ 東 山 道 雄 山 閣 昭 和 六 一
年(一九八六)他
(諒一三)例えば熊野地方の田村麻呂伝説を調査された桐村英一郎﹁熊野の
鬼と坂上田村麻自伝説﹂清水寺﹃清水﹄一八七号1
一九
O号︑平成
二四年(二O一二)は﹁勧進僧・熊野比丘尼﹂が広めた伝説として
いる
︒
三.都とみちのくにまつわる観音伝説
以上︑都とその周辺の坂上田村麻呂伝説を清水寺︑長谷寺︑鞍馬
寺︑それに諏訪神社などを取り上げて紹介した︒
伝説的になった坂上田村麻呂の軍事行動が行われた東北地方にお
ける観音信仰︑特に千手観音と清水寺縁起の関係は古くから注意さ
れていたこと︑また田村麻巴創建と伝える千手観音・十一面観点目・
毘沙門天をまつる寺院の伝承は︑古くからコ般民衆への布教にと
もない唱導する人々によって史実とは別に後世に付会されたもので
あろう﹂︑とされていることを紹介した︒
しかしこの多くの伝説も決して布教に当って唱導師・説経師・勧
進僧から遊芸者に至る人々によって創作・担造されたものではな く︑本山となる寺には古くから東北と本尊との関わりを伝える縁
起︑あるいは関係資料が残されていることが明らかになった︒
近代歴史学導入以前から実証主義・同時代史料による検証など
で︑語り伝えられた物語は各時代の知識人によって批判淘汰されて
いるが︑それでもなお消滅せずに語り伝えられたのは︑本山の側も
積極的にこの伝承を寺院縁起などに取り入れ︑権威を持たせていた
東北文化研究所紀要第四十六号
二O一四年十二月 ためであろうか︒
積極的に伝説を取り入れて観光客誘致の一助としている宗教施設
で﹁歴史と観光は違いますから﹂という本音を聞いたことがあるが︑
宗教の拡大にもそのような裏面はあったであろう︒しかしそのため
に伝えられた物語の収集︑整理︑検討が行われ地域の歴史・文化研
究に大きな益をもた︑りしたことも確かである︒史実ではない︑と一
括消去してしまうことが許されない事を理解したいものである︒
四
おわりに
都と東北の関係で︑平安京が東を向いた都であること︑その歴史
に東国とのかかわりが常にあることを探索してきた︒今回伝説の中
で最後の大人物である坂上田村麻呂を取り上げてその都における記
録と寺社縁起を検討して見た︒
伝説の地を全て回る計画であったがもはや時間もあまり残されて
いないと感じたのでとりあえず手元に集まった資料によって論じた︒
気が付いたことは第一に︑各地に残る﹁伝・坂上田村麻日創建﹂
とある観音菩薩をまつる寺院については︑千手観音は山城清水寺︑
十一面観音は大和長谷寺︑見沙門天は山城鞍馬寺との関係があり︑
そのそれぞれの寺にさまざまな形で田村麻呂の伝説が伝わっている
事が判明した︒
従来地方寺院の創建伝説と中央の寺院との関係を︑民衆布教の僧
坂上田村麻呂と観音伝説││﹁みやことみちのく﹂の落砲ll
侶︑勧進聖︑説経師から絵解き語り︑亙女など遊芸の徒などが史実
を無視して自由に脚色していたものと考えられていたが︑それぞれ
にある程度権威のある伝承が原型になっていたことが明らかになっ
た︒今後東北地方の寺院史を研究する上で注意しなければならない
事と思われる︒
今回も多くの方々の助言︑資料のご紹介を受けて何とか論を整え
ることができた︒心から深謝の意を申し上げる次第である︒また未
曾有の大震災からの復興にいそしんでおられる東北各地の方々に心
からの応援を申し上げたい︒
(平
成二
六年
九月
九日
)