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l ti︐t ( 2 0 5 )
伊 ヤ 能 一思
・力↓思 敬 の 勉 学 i
︼
根一
気 の よ
事き
︑ 人
と し て 及 ぶ も の な し
︒ 依 て 早
朝ま
り 深 夜 に 至 る ま で
︑ 書 を 読 ん て
︑ あ く び を す る こ と な し
. 北 牛 の 噴
︑ 村 落
の童
子
句に
読 を 援 る に
︑ 倦
こと
な し n 壁 書 に 論 人 不 倦 の 語 ナ 掛
て ︑
是 に よ
てっ
終 身
︑ 燃 然 な る 事 と
︑ 手 を 空 放 す
事o
と
︑
が人
怠 榎 な る
を嫌
ふ
︒ 人 或 は 過 て 性 急 と い と
﹂ ︒
T
諸﹁
遊 芸 を 学 べ ど も
︑ 常 に 量 入 為 出 の 四 字 を 主 L し
■忠
L が 教 に
︑ 無 益 の 財 貨 を 費 す 事 な し
︒ 然 れ ど も 遊 来 の 学
︑ な
く 妙 所 に 至 ら ざ る を ほ り
︑ 廃 し
暦て
算 に 忘 し
︑ 自 ら 授 時
︑
享占
両
→1︶
ほ
の天
に
︿ 号
≡
勺こ
と を ほ り
︑ 江 戸 に 至 り
暦て
算 家 を 俳 徊 L モ 新 法 の 理
問を
ん と す る に
︑ 皆 両 暦 の 他 に 出 る 事 な し
︒ 疑 い と を
へて
空 軟 諸 暦 書 熱 読 す る 手
︑ そ に 久 年
︒ 目 ら 象 限 携 を 製 し て 洵 土 を と す
︒ 悟 層 し
名て
を 勤
ケ由
と 改 め て
︑ 本 所 深 H 辺 に 偶 吉
す ︒
そ
の後
︑ 改 暦 の 事 あ る に よ
てっ
︑ 大 阪 よ り 東 闘 子
キ!先
生 な る 君
︵ 2︶
来 る
︒ 道
に東
岡 先 生
名の
吉
聞■
て
︑ 其 同 に 遊 ぶ
︒ 再 洋 法 教 示 せ ら れ て
︑ 痛 床 ナ 忘 れ て 久 年
の疑
志 を 散 し
︑ 暦 象 考 戒 後 編 本 法 と 採用されるまて ︑わが日で用いられていた天保壬質暦は ︑この
景佑が作ったものである ︒右の児聞録は景佑あ著書ではなく
︐佑いか思敬についイ圭収/たことを ︑天文台鼻が書きとどめたも つてあるが ︑それにしても志敬という人に ︑非常に根気強い人 て土中つ工≡十こバ
・ ヽわかるe
前者は忠敬かイ戸へ出イ︑︵寛政七年 ︑ 一七九五 ︑このとき思 敬は三十一才︶悟居する以前のことであるから︑二れは景有か 人から聞いた話を語ったものであろう︒キ車九にしすもこんたた 毎日勉強はかりL手︑いたのでは商売が留守になり︑特にかれの 若い時代の ︑あのすばらしい商才が発揮てき・るはすがない ︒も っLも同じ見問録あなかにも︑ ど羽営て予に語て再く︑家業の 側ら経学をせん事を欲して ︑寸隙を得れだ書を読む革うなるをもって︑家業の妨庁をれすによって ︑家族等二撃なえを訴む ︒こ れをほふて江戸新河に来り︑米薪店を設け ︑十米薪を多く買人れて利を得て ︑家一業再興の側ら家族の詠をとけ ︑頻に書を読ん事欲す ︒然処に不幸なる設 ︑唐る事十日を歴ずして高一敵︵ と ︑人
災のこと︶に准一 ふて家財米薪悉く鳥有となる︵と ︑ このとき8技 ︑二十六才工﹁利を得んと欲する所 ︑反て不利Lなる︒ 是れやが終身の過ちた︐Lいふ ︒其後悔て ︑再び英使をはからすごというのもある︒それにし■も非常に勉学が好きfあつたこと一は年ダト 一 ない ︒
こ の
とこ
は
︑ か れ
か残
し
蔵た
書
︵ 佐 原 市
伊の
能 忠 敬 訂 念 館 蔵
︶
調を
べ
ても
わ
かる
こと
で ︑
江 戸
へ出
前る
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んて
いた
のも
分な
か
に ︑
暦 算
や測
地
に関
す
るも
ので
当 ︑
時 民 間
人と
し て
大手
で き
ユ ︑生 ホぢ書ヤ?十″ほし/んだ揃っているの
十 一 ぃ︑
ぁる ︒暦学に関する
︱ ︱ 木の吉共的な水はもちろんであるが ︑なかに天紅或岡 ︑四巻 ︑
︵西川正休校訂 ︑ 一七O︶や天学指要 ︑四巻︵西村遠呈 十 一
︶注値七七六のそれていはにすのよなも主まることるう目入官︒ ︵ 4︶ 前者は中国2座照十四年︵一六七五︶に出たもので ︑地球を中心として ︑その周函を太陽 ︑月 ︑諸遊生が遍一勤をしている軌通を 説いた西洋天文!学書であり ︑後者はそのと一棋書である︒いまか らみれば旧式な説であるが ︑前者は寛永禁書今の網をくゃつて わがロヘ入った唯一の西洋天文学書であり︑西川正体の訓点校 訂本によつて流布し︑須弥出説を主張しイいた当一時の仏基界から非常な反対をうけたものであった ︒このように佐原時代から 渋籍を通じて西洋の!学問に多少とも接していたことは ︑数十年でもみられる点であるソな一学書としては関
︵ ・孝和流和算書︶の︱
十とえば大成算経 ︑写太二⌒⑬冊︵関孝和 ︑建部唇一弘 ︑一七一一︶ 拾裁算法 ︑上巻︵有一馬積範 ︑ 一七六九
ヽ ︶ ァ およびこれを高度に発 展させたもの︑たとえば開市点兵算法 ︑手を︵村!井■漸 ︑ 一七 七〇︶など︱︱︑はもちろん ︑これも漢籍を通じて伝えられた三 角法を加珠した一踏算書 ︱︱たとえば潜学法袈原 ︑工巻︵持白敬房 ︑ 一七八七
↓ ︶ ︑ 八繰万一求法︵原本散逸︶など十11も含まれているのである.たから暦一算に関しては ︑江戸へ
︱ ︱ ︱ る前に独一学て 当時としては相一当≡其力すもつていたこともわかる︱ス測一地の
技術でも︑ 素人の技を肺
︻ し ていたことも新﹂明で≡・るのである︒ すでに隠一店の身であつたか ︑このような実力をよちて江戸へ 出てきたのたから︑古い中国流の暦学から一歩L出ていなかっ
〜
/1方(
籾,
│ ! 主
美
︵つ サ
︶
用表法との一法を以て ︑両三年の年店井可月両食を推歩す ︒東
岡先生も翁の解い気を感じて ︑たはむれに推歩先生と唱ふ ︒
共後前く測零全く備ふるを以て他行を取ふ ︒まつて朝より出
れば午正前に帰宅して午中太陽を測り︑午一後より出れは貰一育に
帰宅して星一測を為す ︒■一天ならざれは志然として対話する手な
し︒又一神生と暦一埋≡談じて︐械に黄一誉に及べは ︑一狽狽して張る物
も取りあ
始峡物守脇差をめはム ︑速急に立去て中るよっ一す︑︒︑
忘れて去る事常也 ︒足力以て不知者は性急のるす所といふ ︶足
測量に切なる?致す所なり︒因て偶然と自昼に金星市中を測丘
する手を得たり!■本邦金一と南中を測る始めなり
︲ ︒
右の文は渋川点佑述 ︑伊能翁兄問排︵写本 ︑日本学士院およ
び束北大学蔵︶から抜き出
! し
たものである︒渋川岩佑︵一七八
七十一八五六↓ ︶は伊龍忠敬の師 ︑高橋三時の次現そ ︑文化二乍
に ︑まだその名か高橋善助であつたと≡ヽ思敬の測量隊の一員
として近機 ︑中一国封童に参加した ︒のちL大文万 ︑渋川正陽の
主子となり︑家督を︐相技してから天文力に任ぜら一れ︑大文 ︑暦
羊においてその丁◆れた才一能を発揮した ︒一明治ア年に太陽暦が
(206) (207)
た一般の暦算家の指導では満足できるはすがなかった .このと
きに高橋至時rめぐり合つたのであるから︑忠故も幸福であら
経済余が的にあたけそれにすでに一硲つこともたわであるも︑︒︵ 5︶ 手伝ってか ︑モれ以後に一Λす︱︶たものには ︑すばらしい漠詰潜算書か多い ︒最も圧倒的なのは ︑崇禎暦書 ︑九六巻︵羅雅客 ︑
﹂Lgo編 ︑明 ︑崇禎年間︶が加っていることである︒ま■︵章″台俵象志 ︑ 一四巻︵南懐仁 ︑Fく?ョ8市編 ︑清 ︑ ハ七西! ︑ 暦象考成 ︑上 ︑下編 ︑ 全を ︑同表 ︑ 一票︺︵耶蘇会士編 ︑清 ︑ 王■こ ︑暦象考成 ︑後編 ︑ 一五巻 ︑︵耶蘇一会士編 ︑清 ︑ 一t四二︶などもそうである︒しかも注目に忙するこLは ︑霊を仮象志も暦象考成も︑忠抜国身の手写になるもので ︑こんな大量の漠籍生■︶て勉学をしてい一告﹂とになる ︒
こういう店書と並んで暦算菩にもすぐiたものふあつて ︑・特 に重要な意味をよ︐一つものは暦算全書 ︑二四本︸盆挑文鼎 ︑清 ︑ 一﹂L一︶の存在である︒梅伝西洋天文学を主とし︐︐と不積暦言たついて学んだが ︑暦算全書■は ︑天体観測や測量
十十よ学二里一一角 必末一不i t要な .
一 ︑ 球百三角法︶からはド﹂宝つていて ︑これら の測地への応用t詳しく説いてある︒ナ主一ナ前べることによっ て ︑忠敬の測地上の計算に最も大きな影響ナ与えたものが ︑この暦算全書であつたことがわかつた ︒和年関一係のものにもf従来の和算の殻
柿が紡一けた一一?いの力 ︑出もら卜す
地航海測や球面三角おびその平面三角よるL︑︑ せ会安著書であ法進歩十口明の対導入て計算をさ致をいのはし ﹂タ一 っていえイド毛一十
︿ ︑空
﹂′ し ︑ 用■一説
いた坂部広叶の孝暑も目につく︒また対匁求や三角閉放支一詢 日八線芸︶が麦通りも手写してあるが ︑これにはおそらくオラ
す片工〃官分ヤ4肌中︵呼一ンよワガタ
ヽしやも
ム全甲了千れて︑い
こでネ夕←あデ一 /わナ苅た︒
右の事実は ︑享保年間に外国の学術きの一愉入か緩和されるようになったので ︑中国在留の耶蘇会士によつて翻訳あるいは編 修された西一汗手術書 ︑工とに天文 ︑数字書が入ってきたこと︑ 並びにこの一影客によつf 一日本の科学も大転換瑚チ抑デ一たことを示すものであるが ︑こ工で︺項も問題となる書物は暦象考成 ︑後抑である︒これは清のけ﹂隆七年にドイツの一耶蘇牟一士吟丹呂LR
を正監たし︑ポルトガルの耶蘇会士>日母!こたどを副猛として作られたもの千ある︒暦象考成 ︑上 ︑下編の方はおもに宗 禎暦書を再一編したよ︶のだけた ︑旧式の一 人勁説を主体として!大体の運動を説一明したヽ︶のであるが ︑それても冒頭から球面三角法︵孤三角形しては
常用れいてに高精一軌道論がて通の一迫させて一円市非ケプラし︐をー︑ 沖覇組わ運動列て日の合月一牝でいかのしでは及んいな日ま︑は︑ 地動説対て作にいれに一編よてるこしl iつ・ま︒ 紋難解なものである︒天才的な高橋至時にして ︑はじめて理解できたものであるから︑いくら勉強家の忠敬で
共ての︱ .どし︑
柱度に消化できたかはわからない ︒しかL﹁ほ負考成後編不法と用共法との二法を以て ︑一 向三年の年I井同月一的金を推歩す﹂ということは ︑共体的には余程の根気のよい人でなければできない観測と計算とであつた ︒結共においてはその誤差がごくわすかで ︑した一かつて後編一 による処理かかなり正しいことが
一F i l l ︲
明
できたのてあるが ︑こんな面倒なことを︑すでに五十イを造か に越えた忠一収が実行したのである︒たからこれからでも忠牧と
十一一一 一ヤ一一 や中一 一中一一 韻
一一!!!一一 !一一
ぃぅノ′︑は実に棋気強い性枠の所右者であったこと
証力 ︑明される︒
こういうと伊悼祈小 敬とい・7人は ︑ いかにょャ戦前の修身の致一打 にふさわしいア ︑モあつたとの印象をうける︒しかしそう画吉し く︑付合いにくい人でもなかったことは﹁綿子子に長ぜり﹂L児 問録にあること︑第1図のような和歌も作っていること ︑ある いは全国測量旅行に際しての一感度からもうかがうことができる ︒ といって誤解されては困ることは ︑さればといって私は思敬を 尊敬し︑忠敬に負けないような努力をしようと思っているわけ
ではない ︒忠敬のような勉強は ︑私は過去においてもマったと とはないし︑まし■現在は聖めもしない ≡た一 ≡■■一 ! た次の二点を問題として提出したいために以
一一一一! じ≡のこレ十Y童中い■卜の
一 ︑▼ るあ︒
一 ■■■︐ その第一は ︑当時のこnの学者を師とし ︑ 一≡≡■︐ これに加えて一流の学術書で ︑その年怖から
︐一↓一!
中中 ¨中中 中中 !一球お
いは一一!者 ャこ の
伸中﹃一非中
t ヽ た 勉 一中中
一一一一 ! 南四 ぅ意味では決してない ︒しかし右のような状
!一一 !!一! 与舜 州一呼市悔一舶跡的ば粗前如一一品時郎 .つは中一r 一抑早
一■■■一 は ︑その遺著書を調へれは明らかなことであ
≡≡≡≡! るυ昨くほどの努力で打知識チ吸収した ︒し
︐■■■一 ■し工れから何も新しい一研究は生れなかった ︒
Iれはなせであろうか ︒一結局これに ︑かれの
性格から発したことではあるまいか ︒すなわち思敬はよく十勉学 なしたが ︑独創性を要求する理論的研究にはあfら関心をもた なかつたことてある ︒しかしこれは生米というib︑斗あ年齢 から米たことかもしれない ︒その代り︑その根気強さを実際の 仕手の上で生かした ︒すなわち日本全国測主と伊使図作製とい う︑古今束西起じて類がない大事業をなLとげたのである︒ 換言すれば忠敬は独創的 ︑理論的研究よりも実行を主とした人 であり︑またあの大事業を完成させた技大の根源は ︑その根気一独さにあヤったのである︒
==ザ
■: : : : : : : i : i : │ l i聾 森iギ:
t:!Iす :!:11
1 1 1 : │ : ! │ │ │ : │ ! │ │ │
│ : │ │ │ │ ! │ l i ! │ │ │ : │ │
毒 │::i:li!:│:│!
│ ■ : │ : : │ │ │
( 2 0 8 ) ( 2 0 9 )
を曇一 に ︑右にあけた学術書類からもわかるように ︑忠敬ホ学んだ西洋科学・技術は ︑すべずヽ漢籍を通じてのものである中の みならずその測量法も︑日本で以前から行われていた測量術に 天休観測を取入れた点は非常な進歩といえるか ︑この測畳や乱測の器具もおもに漢籍︵ことに霊台儀象志︶からの示唆で ︑日 本で精巧に作られたものである︒またその処理や計算でも ︑暦井全書が本きな緋い割を呆たしている︒こうして志敬の布辺学々測 地技術などにおいては ︑狭義の蘭学の影響を一兄出すことがとし ろ困難で ︑測器類の改良の一部や ︑写本である対数表などにこ れが認められるにすぎない ッまたこれは重大な問連の一つてあるが ︑伊能図の投影法や描き方にも︑オランダから伝来し︐も のが参考にされているとは考えられない ︒すなわち忠敬の村学 的美積のほとんど全部は ︑海老沢教授の
︲ ′ ︑ われる高蛮キ統つも つに負っているのであ ︵記︒だから忠敬が戒した蔵書 ︑ことにL
戸
学統代表的蘭字以前の南蛮のなつの︿ ︑かのはも出てらも一の︑ 半術書集であり︑伊能図は﹂れを技術的に■京した成果の中一不
の 一つン﹂いえる一のである.
車 女1一 ︶坂時腎は中国の元代の暦法によるもので ︑これt︐国 固有の暦一法のなかでよすぐれてい汁 ︒明の★統低も ︑こ
れを基かして作られたものである ︒
日ホでは慎観四年︵八六二︶以来 ︑八〇●一年間以上も 宣明暦が用いられていたが ︑あまりにも実砕と含あないことが項らかになったので ︑虫字元年︵一末八四︶に ︑
明の大統唇にしたがって改暦を行うことか汁一定した ︒し かしその実行以前に安井春海︵一六三
上七一工︶ナ ⁚の︲十 暦法の方が ︑日太には合致することがわかり︑同年末に 春海による貞享暦一に改められた ︶この文で ︑授時 ︑虫芋 と二つ2措■を並べたのは ︑それぞれ中国と日本の一代表 けはヽ・こして︑であ一ろあ毛
︵2︶当時ほ宝暦四毎︵一七五四︶に攻められた宝唐︵一甲成︶ 店が用いられていたが ︑すでに三0年以卜も経過し ︑歴 水と天歩との差が三刻にも及んていた ︒その上に漠一Fを
︶翠して西ヤ ト0な学の知識も入っモきていたので ︑党政四 年︵一七九︾ごろに改暦の議かすこった ︒そこで大阪 一牛︻ Lの民間人ではあらたが ︑当時の一流の四学者ホ田剛 立︵名は妥彰 ︑通称は正庵 ︑ 下!一四︱十七九九︶を招 いて改暦を実一付させようとしたカ ミ︑剛立はこれを辞とし︑ そ?代りに有弟の高一騎至時︵字ほ子下 ︑号は東問 ︑通称 は作左竹向 ︑ 一七六四十一八〇西︶と問章宮︵字は大文 ︑ 号と長■ ポカ杯は十一昼五郎兵侑 ︑丁
︶十 し五一→一八一六i を推せんした ︒背政七年︵一七九︶に株府は高桶至時 を天文力として改店を命じ︑間三年をしてこれを功けさ せた . ︶一 何人は当時の進歩したは書であったは象考茂後編 を基とし︑これに新しい考案︵浅用市長法︶を加味させ て ︑寛
︶店完灰た一 7﹂年首政︵丁L九に巳し︑︒
︵3︶ヤ↓﹁時に ︑大体観測並びにこれに伴︐天体の位ドの計算
を
″ 一工 歩ル︸い
一 ″ た ︒
■︵
︶ こ れ ら の 現 物 は 現 在 は 失 わ れ て い る が
︑ は 侠 の 蔵 書 日
録 に よ れ ば
︑ こ れ ら を 所 持 し て い た こ と
は確
実 で あ る
︒
︵5
︶ 忠 軟
著の
書
︑ 仏 国 暦 象 編 斥 妄 の な か に
余﹁
自 寛 敵
円反
年
︑ 初 見 甲 官 高 橋 氏
︑ 而 学 推 歩 暦 理 測 量
﹂
あと
る と こ ろ か
ら み る と
︑ 忠 枚 が 高 橋 至 時 の 門 に 入
たっ
の は
︑
了≡
た
いわ
れ て き た よ
≡ う に 寛 政 七 年 で は な く
︑ 八 年 C
ti
︶ハ
で
︑ 忠 枚 カ ー 二 十 二 十 の と き
であ
たっ
L 解 釈 さ れ る
︒ 一 の と き 至 時 は 三 十 三
才︑
一6
︶
心中
敬
生の
蔵 書 目 録 に つ い て は
︑ 袖
稿︐ ︑
伊一能
図
の牛
ど
一 と
意 義
︱ 伊 能 忠 牧
一五
〇 年 祭 記 念 説 演
︱
︑
姉卓
紅 誌
︑ 七 七 巻
︑ 四 号
︑
一九
六 人
︑ の な か の 二
三 ︱
二 六 べ ヽ ジ を 参 照 さ れ た
い ︒
︵1
︶ 海 老 沢 有 道
︑ 開 学 時 代 に お け
る南
蛮 学 統
︑ 左 れ
︑
一六
巻
︑ 二 号
︑
一九
二 工
︒
︱
︱
︑ 南
を至
ネ
中の
研 究
︑ 創
4
■
︑
一九
二 八
.
一 十
忠 敬 の 業 績 の 初 歩 的 分 析 これまでに書かれた伊能忠敬伝やその菜績に関する調査報告 はいくつもある ︒しかしその大部分のものは失敗に終って■る ︒ それは前述のような忠敬の性格の特色を考慮十手た ︑たriオ凡 な人とか ︑偉人とかの概念だけて片づけようとしたり︑反対に 学者としての業績評価た重点をおいていたからである︒古!者は
征来の伝記類の大多教一 にあてはまることであるし︑後者L ︑忠
敬の生涯に関する唯一の科学的調査書として有名な大谷売吉編
著﹁伊能忠敬﹂︵帝国学生院蔵版 ︑岩波書店発行 ︑大正大手︾ にも︑ある程度あモはまる欠点であ・る︒
ところで ︑﹂いまさら改めて忠敬の科学的業績を分析し︑調奇 する必要 卜かどこにあるのか ︒実は工れは日本の地図学史の上か らばかりでな<︑明治以後が新日太の発展の研一究に重大な意味 をもつものなのである︒早い話が伊能凶は ︑実に大二十年ごろ まで日本の話計図 ︑国上の統計資料子の他の基礎として生きイ﹂ いたのである︒皮肉中によ撫新ムの業績は ︑汗戸時代にはほとんど 役に立たすに ︑明治になってから急に日の日を見るようになっ たものである ︒これは忠敬も全く子則しなかったことでぁった に相とない ︒そういう大きな役割を演じた忠敬の科学的業績が ︑ これまで正しで評価さ・れていなか﹁たことは ︑日木の学・界の子
落ちであったといえる ︒
この調本嵩 ・ためには何が最も必要千・あろうか ︒第一に ︑忠敬 の仕事が非常な根気強さて行われたものであることから一七想像 できるように ︑子の業績の分析も根気強く行うことである ︒付 来の多くの場合は ︑これに欠けていた ︒だからその業寂の第一 歩の車メ実すら十携いにム︐かっていなかっ
ヤ ︑六y忠称?る育は中育にェビ︒
根気強い人であっただけに ︑勉学や仕事のために多くの資料を 手写したばかりではなく︑自分が実たした仕事に関する多くの 資料を残している ︒たとえば山島方位記︵六七冊︶ ︑測貴日千一
︵二六冊︶のような大部のものをは︐︶め︑自分一日身の測員や計 算の結呆をまとめたものがいくつもぁる︒これらは現在は重要 文化財に指定され ︑佐原の伊能忠敬記念館に保存されているが ︑ のちに京都市大教授になられた大谷克吉氏︵一八七五 十一九
(210) ( 2 1 1 )
も i合 カモ ト と J 41 か ィ )と ,日 1単 │ ̲ ̲
? 距 f l 手 イ ヽ拾 含 壬 ■ 手 質 々 ァ I 車 雪 呂 : 暑 : 告 腎 二
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々 l b F `ど l h 昼暑 i 守ミ 挙 ボ f 、十キ と: と を島そ雰: を 誓吾岳1 岳 十 :
安賃た居テイ女卒蝶往↑ ! 官垢 │
落 あ ` 天 じ 行 一 数 の 大 く な る とこ1
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官 こ 上 貨 岬 沼 準 可 │ ! 安ご ☆ 柿 こ
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携 ぶ 所 と 実 く に 元 ずし r く岳 塔 生
や ほ │ が に 文 奥 来 │ ま こ 心 け 車
市 , ト イ │ 一 イレ ツH i ` J ' 1 ' の さ
★ t 手 `ち 年 = i 置 扱 こ も て と P
四︶以外には ︑これらのものをよく調べたあとがない ︒大各氏すらも︑当時の帯目学士院の威光で重要なものを与大にLイ ︑
おもにこれで調べた形一跡がぁる ︒忠数の努力の結・品であろ伊能日も幸に焼失を免れたものが少数残っているだけてあるが ︑その科学的真価も明らかにされずに ︑歴史的骨童品被いをされているにすぎないことは ︑科学技術家であつた忠祐だ対してと︑
気の毒な極みてある︒
忠硬の科学的束績の最大なものは ︑いうまでよなく伊能面の作製であり︑またその基礎となった日本全国測量てある ︒■かしその測量ルートほどういう分布状態であったか ︑測モ距車がどれだけに達したかなどという︑最も初歩段階のことも︑一れまで正確にはわかつていなかつたのである︒前者た関する資料つ第一は伊龍中図︵く︼PGII大図︵ギ ︑樹ちる︶は現在では断片的にしかをっていたいし︑小図合ヽ路ち暑︶では ︑ 十ヤートに不明な価所が所々に出てくる︱︱である︒これについすは幸にも東京日立青物館に ︑故大河内政敏需士が寄嬉されたLの八楽か揃つている︒これは現存する文政四年上早因のなか一 ︑
最も信頼ができるものである︒これを基にして ︑■︑の測社をて いないに抜出し︑これを簡略化したものをすでに発表
4し ︵≡
一油面の関係からこれを再録することは通けるが ︑これをLもただけでもいろいろな疑間か一湯いてくる ︒点敬の死後一五●年にして︑はじめてこんな図か作られたこと自体が不思議であるし
以前にもルート︵ ウ概略図はあつたが ︑こ″告こ作ったものに■べるこ余り子も柱投なものであつた ︒ルートロですうこんと■つ さまであるから︑W線距離に関することに ︑いア一■ツ信頼で・き
ないものであつた ︒そこで以下 ︑工れについて計算Lた結一呆をまず報告する ︒ ︑ この基末資料は人日本沿海共測録︵一四巻︶と測量日討一を一 六冊︶である ︒前者は全同︐測量の結果を表としてまとめた止式の報告書であるが ︑原本は失われている︿しかし幸にも明治年に大学酌校から大版刷で刊行されたものがある︒ただこの欠
点は誤写や誤植がいくつもあることで ︑一一と年匁字六里数︶の誤りは致命・的になるのでこの修正に手数がかかL毛実測録は大別して ︑沿わ地帯︵巷一 ︑上 ︑六 ︑A ︑十三︶ ︑街道すじ︵巻二 ︑ 工 ︑四 ︑七︶ ︑占喚 ︑湖沼︵巻九 ︑十 ︑十一 ︑十二︶の測章結果を表にし★よあ・であるが ︑以上の詰拳虐語
一 し てある地名総一数は七 ︑八二一に拝する︒このうちから︑通調にオ一る地名だけのも のを除くと残り汁一下 ︑五四一二となって ︑これら一については降接した地名・︵町村
︺ ・間 の距離が〇・工問の単位千︑記入し
イ ︑あるこ︒
のうちで約一 ︑一iOについてはそれぞれの緯度も記してある︒ これはかたり正確で ︑現在の測定に比べて ︑その誤差はてる暑 程度にすぎない ︒当時の不備な測器で ︑よでヽ私これまで測一定ができたものとイほかりである︒Lかしこの緯度測定は︑当時 の幕府の要請によつて行われたものではなく︑当時の日本の店 字の必安から手
一 に たものであるこンは想侯一がっくし︑この証明↓も容易なことであ一る︒
右のことはここでは一一躍
﹁ と して ︑要するに大日本沿海冥測録に記されてい′つ各﹁抑甘小間の距離︵北海道では ︑志敬か測iした 雌離一た︐とする︶を結計する︐
衣得次のを一る一 ︑︒
一才 玉≡ ︐﹃Cヽ三︐Pa葛﹂ i ︺工i﹁≡卜︼一0﹁ 一卜汗ヨ
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再五 ≡ C 一︐ 時 ド﹁ ︐ o岸0﹂岸∝苺 0いギ一卜串 〇ョ﹂﹁ ︶→ ・﹈︶ ∝働∽ ヽCキヨ
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この操″件の上で ︑さらにやつかいなことは ︑忠敬か文化一年 ︲ 以後に幕克とにて 一刑畳するように芹ぢてからは ︑測量隊の人一員も多くなつただけに ︑し中はしば大手分︵二班︐今力れて測景を実施するこ′▼4 一行ない ︑い一反後に近い九州測量︵第一次 ︑第一耳映︶で
はこれが一計四0回以上によ一及んで
布だかル一雑︲ ・ ︑ ︵も一らとート.
なって ︑ために章︵測録の作一解および納合わせよ︶複雑となり︑ややもすると誤りを起す ︒また問題を ︑忠敬自身が測量に花革L たルートや距部に限ると︑大手分のにかに ︑忠敬が病気で参加てきなかつ■まネカrにとえは隠岐測量︶あるいは老怜のため不 参加であつた伊豆七吊などを除いイ﹂計算しなければならない ︒ このよ がか計算事連続なな根気仕のるつないとfユた一iまらム ノ︑ の根弧凝自分の原簿にとどめさせてもらつて ︑結炭だけを示す
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( デi [ a } 江F i , f t t l l i 」止 は、' 帥│ ヽ │ │ │ ごに 1 , i H l l i t t t t i 離ヴホ ! 排をケt い r t ヽるの C 、 R : 朽在なu F r i F C H にはイてサ│ ておi b ) t l d i l l l 朽! P 巨離 の f が f 十さ9 ′`■―ブ̀ ′) ど1 ' 桂よ り│ ッ少 [ 長 くな ナごい るの は当イよの こ とで
てⅢぎ合r ' ヽ: R J ヤⅢに科! ■4 た ヤイ1 , ! f l ) r ) i t r ) 十■に! t んt t W れヽす) ヽ1 「十たの イ1 市! i / 、ぃ
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ヮ n l 氏L l ! R R 田子4 8 0 1 1 1 2 1 2 1 2 1 ' 1 3 5 1 1 1 1 1 2 4 4 サ1 1 1 ‖J l U J l l , 7 υl l l とO Ⅲl 」乙乙 0 1
1+ 一 ,i924う51志 欧 339 53km 1 9)627 73Hn 1 7 040 98kぃ
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̀ 3 3 8 3 8 7 1 ク│ │ ( 3 8 7 4 5 6 8 ク│ │ ( 4 3 , 6 6 5 7 5 ク) │ 1 3 5 , 2 3 6 9 5 ク, │
● あ 毛
ナ,るハ '合'7LT'前仁たこid Ⅲlし ごナ,る お ││,ギイrri埜げ)済々!・とは こ とて 、 i‖いたl i亡に とた わド ,て '⌒
丁縄能をと上おiさをtiナR!まt fi そ十l iftん: ヽ1( サ `1'│lf―( 毛んヽi fナ 毛 工 ず)i十白tt i llド;!子' 1作'│
l i 人に な る 姓 込 ( F 【ご ,
このまを一まかに険一討して行くと ︑いろいろなことがわ一る
と同時に ︑極々な疑問も一湖いてくる︒これらに関しては ︑ ︐
一 ︐
︵ ・奇︶
i
別な
歳 会
論に
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いと
思 う が
︑ 最
も 驚 嘆
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球 一月ナセだかに持Tえ■いスど▼とで去″る︒ また中住収由■ガのは小行千竹帥 だ け て
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五・
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敬
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節 し
た測
量
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も ︑
こ
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長に
大 た 距 部
測の
こ旅
行
実を
施 し た 例 は
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界世
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一ユ を 通
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全 ︑
く 煩 を
みな
いも
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離
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か ら み
ても
同 様
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のこ
さ
︐ヱ 十 一伊 忙 図
完の
成
との
本 に
は ︑
志 敬
つ底
知
れな
い実
行上
根の
気 と
︑
れこ
と 並 ん
そで
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几
隊な
R 航 辛 カ
カ モも
のを
い
てつ
いた
こ
とも
見 逃 し て
はな
なら
いも
の
■ ろ
︶つ︒
キ︻︲
加伊図は衣持也伊は十一工n十 保手来能の能︶ ナと︶年︲︲ヽ
記念一一
一 ︱
︑地学雑詰 ︑七七巻 ︑四号 ︑ 十六八 ︑ツ
図︵七ベーン︶ ︒
→2≡ 日本の尺度は時代や使用した社会によってもとう声
忠秋が用いた尺度は ︑ 一説によるた︑■保尺とス再耶尺
︵又四郎は製作者の名て ︑広く木Fがこれ十使用してい
た︶と予新束して作った伊能折衰尺という工ので ︑ 一れ
が明治二四年に制定されたわが国の度量筒の一尺であっ ︑
ということにな
挫商務有編水庁一最高志市にている口﹁ ︐︒
も︑これを要書きするような記述がある︒そうす舟十こ
の一尺上︐一・●百三mに相革するこナ︲︐ F
十なる ︒ L小
ry14
L g 1H 句ュ も も l T C i l 心と │ り ∪ す中 γ工 こ ヒ カ… ′
回 同 `
を ロ オし た 分 り の 七 谷 , ■て 八 も r i し門 で 情 【 切〔
円 羊 国 り に は と 童 こ と へ 者 `̲ t と 二r 、 こ ね ろ 町 アコ こ 側
半 ⅥI Ⅵと き き わ か シ 伊 に シ 肘 n z で と 問 つ 市叫 手
⌒ 卜 W ` ナc ! ) 、 コア t ヽか ▼ キ , i ▼ L ⌒ 仔 あ 考 市 て に 業
Ⅶ V て
尾 ヽど 出 ヒ 翠 点〔 な に │ │ こ i た 馨 網 1 1 ゆ 対 ,
と
一S F 昏 : 言 : 告 轡 ! ] 皆 ヨ う 合 : 母 : 資 督 縁 ど 骨
れ ″" ↑ 料 `
男 1 , 記述 車 = ィ 岸 1 尺 盲 本 空 = 客 野 ,
只 埋空 1 学 六 撃 好 丘↑ ヂ = ン ' t 説 嬰! ! 衣 津 筈 督 分 券 i
合 二 次 二 本 】H 島 て れ あ し 目 す 圭, コ `
思 能 氏 [ フい を 【
才捺軍草路控理店! ご ユ号 1 詰 よ率羅8 禁客= まそ空: f
ヨ 需 i ョ 告 1 1 f t : i f 景 号 : ! : 母 言 : 吾 : 二 轡
恕 よ ヤ V ′ ‐ 出 f可 ど ,出 ^ t` → 一 !t ri メ ト J ヤ ■ ゃ イ ブ・」
え で ― 大 メ朽 己 五 こ 量 四 る ヤげ ヽ 村 尺 皮 か す と な (
る て 四 で 千 「1 可l r l てれ ル 六 た 別 力1 当 は を に ぎ も ヽヽ 採
︵3︶ 4
( 2 1 5 )
︵5
︶
たと
え
≡
一国
の 平 均 測 量 随
︵H
天 千 荒 天
場の
合 チ・除 く︶ヤ ■して■ス測量地石 々︵II︲N︶r によって︑同一
十 ︑■な い ︒第一≠高の日数には ︑地万都市での消在日数十帝ザ︼ の交渉キ資料の整理 ︑あろいは十話芋杵一のたあ十1も含一れ て い る か ら
︑ 測 量 距 れ を 日 数 で 割
てっ
も 無 意 味
であ
る ッ こ れ を 知 る た め に は
︑ ヤ 測 丑 日 記 を と と し て
︑ 少 な く L も 抽 出 法 で 計 算 し
けな
れ は な ら な い
︒ こ の 仕 事 に は ま た 取 り か か
てっ
い な い が
︑ こ れ が 明 ら か に
まこ
れ た だ け で ヽ ︑︑ こ れ
に関
連 し て さ ら に 所 先 を 要 す る 事 填 が 対 て
くる
こL
︐品■われ︼●︒ また測!地同一記には ︑ 必ずク人候ゐ≡とがぎ一い て あ る
︒ こ れ を 茂 計 学 的 に 分 析 す る こ と も 一 つ
?
■ 趨 を 提 供 す る 資 料 に な る 一 と で あ ろ う
︒
一 シ ー ボ ル ト の 本 日 国 地 図 と 伊 能 一 図
次に問題を飛躍的に拡大させて ︑シーキルトの日本国地門に 関する見解を述べる︒シーボルトが高橋︐保から ︑ひそかに入手した伊能特殊小四その他の写しを一覧して ︑これが非常にすぐれたものであることは ︑かれ自身の日本L関する知論に︐し一十わかつた ︐ゥしかしヤての帰円ののち ︑年机的にこのフ優秀性か一共つけられないものかと思って ︐Pン
水路学者の一 /ン争ET三︺
万Eる一︺4?にその
大容送た返事については氏呉十二付かれがて↓月できっ日︑︑ 一三年十れ対八四主 0︐見をたにて一徴こしし︒
︵一 ィ 一︶
秀一 一一博士の名訳がある︒しかしこれらは抄訳であつたり︑むすかしい候文モあるのて ︑ここでは政めてアーボルトの一日本﹂ 介第二版 ︑ 一八几七 ︑第巷 ︑二七一十二七︶から︑その金
文訳︵注うも含む︶を汚げる︒
﹁貴下か私L仰規切庄もお見せ下さった日本の地図をお返し 中します ︒私はこれらを非一常な興味をもつて准見しました しそしてこれらの地一凶を出版した場合に ︑地理学に対
一 L
てどういう
点で ︑どんな十与になるであろうかとの御一質問に対して ︑私の 意見を申し上げます ︒私はこれらをまだ厳密には分析していま せんが ︑ これをヨ︲ ロッパで︑作製された諸批図 ︑すなわちヨー トッパの有名な航わ家たちの精密な調査によって作られた詰地日と比強しても︑これは非一常にすぐれたtのであ・るとの判定を 下さないわけには行!きません ︒海十離の状況が ︑ ヨーロッポ投のものとは比性にならないほどすぐれ■いるこナ晨もちろん ︑ その経維度においても推
や く
ほど正確であり︑このこン一は日本人
か ︑天文学にヽいて急辻な進歩をなしとげた証拠と考えられま・丁︶ことに日否刻島の高十および北岸について ︑あるいは一人 n︶五年にナジエダ︷一∠崇一一n︵章︶号が天一峡のよい昨 ︼に姓寧生したエ一フの 市申つヽい■的芹によ
ブまtらPブ一に︲︲ト︶ ︑
︵ ∞﹂ic﹂
一ぷ ︼≡
o︼︺︶︑か﹁円︵たエデ いす十一だグナのはえシ一 只あについてのとま︻序こリよ︺上︒ 任度が■十ブオン︼ヨローニア
と︶押相︵ Qのい測とヨまし︵一?
イ ︑ いるだけです bス都を通る洋縦を木初子午縦>i子 .各地の経度 かよく測一一定されモいるこの地図上では ︑長除あ・解!度が西経五一度 四八分たなりますが ︑これはグリニジから荷枠≡二九度工三分 に相当します ︒こ?孜使止ネルネルQ丁このじ=十一や私
カ ミ 一千回以上にもわたつて観測し︑月距雄法によって計中算したものと