日本に於ける寄生虫学発達史
森 下 7 [ (
I ま え が き
殺が固に於ける寄生虫学が近代的粉飾を帯びて発足したのは,他のもろもろの科学と同様明 治以後であるが1 それ以前に於ても,人の掴虫や条虫の曲き自につき品い寄生虫はa聞にその 存在が知られていたのみでなく,その症状についてもー応の知酷がもたれていた.しかしかか
る古い頃の知識は,多くは中国渡来のものをそのまま翻訳したか,多少布街したに過ぎない.
その後lJt固での鋭療が漸次加えられ,鮪植彰常 (1801),/,'J;玄竜 (1809)補谷敏夫 (1809)喜 多村直 (1820)などが,自己の経験を基として,明虫に!刻する噂織を蒋わしていることは控目 に価する.徳川
l
の末期に於て,函欧医学の輸入に伴いj 掴虫その他普通の寄生虫についても,かの地の知見がもたらされたと思われるのに,それに基づく我留の所見についての文献は重無 に等しい.只緒方洪Ti¥j;(1810‑1863)は, 圃虫に因る脊置な篠状に通じ。当時既に輸入せられ ていたセメソγーナ Semencinaを好んで処方したことがその也簡などからうかがえる.
我国の寄生虫学が,近代的な形に於ける女献的価値を残すことになったのは明治10年(1877) 前後からであるが,西欧に於ける近代寄生虫学の繁明朗が,現に 181!t紀の中葉に発している のに比ベて,甚だ立ち遇れていることは,我慣の主化発達の過程に関連して巴むを得ない所で あるがj その後凡そ 30年聞に長足の進歩を来たし,欧米の学界と歩調を合わせるに至。たこ とは,特依していいであろう.
我圃に於ける寄生虫学研究の特色は,歴史的に見てもa 文現状に間らしても,曙虫額を主体 として居り,近来原虫類についても多くの研究がなされているが,量的にみて前者の比でない.
2
た箇の寄生虫相から云って当然のことと云えよう.従って袋園の寄生虫学発途の跡を辿るに当 って,それが曙虫学史としての色彩が濃厚であっても巳むを得ない.叉初期に松ては専ら人体 寄生虫を対象として屈 ry.~反省その他の動物のものについては,後に至って取り上げられていることは,それぞれの学術分野の発速の年次的関係に基づいていると云える.即ち初期に於て は医学者が主としてこれに聞与したが,1885年飯ぬ魁が独過 LEUCKARTのもとから帰国し て以後は動物学者が研究に加わり, 1890年 JANSON来日以後は獣医学者による研究が聞始せ られ,巨費来今日に至る迄 3領域の研究者がそれぞれ,或は協同して研究が続けられているこ kは鰭閣に除けると同様である.
2 (磁下〉
D F I 本に於ける寄生虫学発述。年次的区分
日本に於ける近代将学教育並びに研究は,初め専ら外国人敏師に依って行われ,日本人の学 業が成ると共に漸次研究に従うようになった.従って初期に鈴ては,外国人の寄与が主体であ
。たことは当然で,帯主虫学に於ても例外ではなL、.後日本人に依る多〈の独創的研究が行わ れるに軍。た.今これらの過理を区分すると大体次の如くになる.
第1期 敏明j聞でlJIら外国人に依って研究が行われ,日本人に依るものには殆んど見るべき ものがない.この期聞は明治 10年前後からの散年で,1876年乃至 1882年の聞とする.
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2期 それに紐<10年間' D
ち明治1 6
年乃,.25年 (1酷3‑1892)をこれに当てる.日本 学者に依る研究叉は観翼民が追々現われるようになり,重要な寄生虫でその存在の知られるにE 勺たものが繍当ある.この符期になって,医学者の他,動物学者,献医学者の多加が見られる ようにな。た.即ち日本学者が研究のスタートラインにつき,そして凶僚を開始した時期であ る.しかし研究の多くはまだ記怠的なもので,僅かに実験的なものが見られるに過ぎない.! l !
3期 前 期 の 鈴 り か ら 明 治40年に至る前15年間 (1893‑1冊7)で,1 t l r
期中に存在の知られたものについて,買めて漂い研究が行われ,殊に荊理.臨床方商の知且が大いに加わり,主 新たに存在の認められた種顕も少なくない.
!I!'期 明治 41年(1908)以後勝戦に至る期間で,生物学的方面の研究が惑やかに展開さ れ,蘇に置聖書な寄生虫の発育史が殆んど悉く明らかにされ,日本脊生虫学の賞金時代を形づく
。た.叉岡本等生虫学会が駿立され, 2‑3の大学に噂門1IIl!!が般けられるなど, 体系的にも
大いに艶附された.
現代 終戦後今日に至る時期をこれに当てたい.この期聞には米曾有の寄生虫の直延に伴いj
予防治療などの突陣的な研究が盛んに行われた一方,生愚生理府際機構などの研究へと大 いなる飛醐が見られる.
以下これらの区分に世い,各期に於ける主要な出来ごとについて配述する.
m t ( l l W I
明治10年前後がこの期の発婚で,その明韮に寄生虫学に聞する知見の殆んどなかった日本に,
近代匝学を身につけた外国人医学者が渡来し,教育.診療に従事したのであるから,日常遭遇 する寄生虫が彼らの目にうつるのは当然であり,型臨にもこの垣かい期間中に日本に於ける最 初の発見として多〈の種閣の存在が知られるに至。た.これについては,当時教師として招斡 せられた ERWINBAELZ並びに HEINRICHBOTHO SCHEUBE両氏の功績は極めて大であ
。て,民らに依り日本寄生虫学の署管明朗がつくられたと云っていい.両氏は共に独.!I:Leipzig
〈海下)J 大学の UNDERLICH教慣門下である.
BAELZ (n本滞在 1876‑1田 町 は 1876年東京大学の教師として来四し, 28年の長い間在 住したが その前半期に於て1 日本の寄
1 '
虫争に少なからね坑械をなした.主として記載的な 研究であるが 恐ら〈日本医学に寄生虫の観企を住入した続初の人と去ってし、いであろう.先 ず 1876年来円勿々 1血♂の胤液!尿"&び淋巴腺にパンクロフト糸状'"の microfilariaを旺 切lし,*虫のn
本に於ける最初の給見を担保した.舵いて 1878停には人のIfn夜中に1簡の虫9
を見出し 始めこれを原虫の1稲と考えて G阿 garitlaplIlmmmmと命名源告したが,後 腕吸血の卵であることを切らかにした:又 18田匂岡山での且貯の剖検に快て肝吸虫を且出し.
‑}j
、 l o a f
で結妓且必の剖検で偶然同様のものを は1 1 1
したことから 本虫には有引のものと無刊 のものとがあるとし。n i i t
'iをDistomflhetatis emlemicum sρ
erJUC'OSlIm 後奮を D.Ilepotis n mocllu!ttと命名した.この 2鍾授は後年韮高 織の耐となり,長ら〈決しなかった.叉日本で 人の糞使中に始めて線虫卵及び鈎虫卵をJ E
砂lし たのも BAELZ(1877)であり 叉有鈎条虫 無働象虫!広貨野裂盟条虫 鏡虫の存在をも臨めている.
SCIIlWHE (n 本静柁 1877-1881) はJ~
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立e&H);: ..t-の前身である ~;rtill縦病院に略せられ て診縦のかたわら教育及び研究に世っていたが。「 ー ー ーー
制 ‑ : t I O '̲.・1.‑ ..t:
ERWIN sAE[,Z (l849‑1913)
1878 ::,剖検により 日本で飴めて鈎阜の成虫を)1111し.これを AII'.:ylOjtomadl
ω
:lenaleと している.1881年に至って.民はl直行 (28才!11)が尿と共に排出した1WI条虫を記徹した,今回のマンソン孤虫で,ヨド'"の世界最初の楚且である.糸状'"については慨に sAELZの日本 に舵ける置初の所見があったが.1田1年 SCIIEUBEもまた1熊本県人にこれを見出し.位い 1 ) 人体に肺駿虫を始めて見出したのは RINCER(1879)であるが 虫卵の健見合lR事喜悦すれば人体に倹
ける本!I(関係の発見は BAELZを以勺て級初とすべBであるう.
2) これらの命名は命名波約2名式に依っていないので学名としてのauthorityをもたない.
3) 従来日本に鈴て般初に鈎虫を兄附したのは BAELZとされていたが BAEUが見たのは虫卵だけで.
l具体を初めて見たのはScHEU包Eである.
..) MANSON IJ・中薗置門で窓!I(を発見したのはその翌年 (1882)であるが COBBOLD IJ・Lil!,da1110
'1$0附として MANSONの虫体について舵厳したのは""年であり.SCIIRUBEのものをL.EUCKART が8otllrioClρ"(1111$ligllloidesとしてIi!<<したのは 1884年であるので 般に MANSONの発見が 早いと貯えられている.しかし発見の先取柄院は SCIlIW B Eにある.
. (畿下)
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H. B. SCIIEUBE (1853‑192叫
て他の師を追加しj これらについて
m l c r o
日一ana
の定期出現性を観察し,叉K a l i p i c r o n i ‑ t r i cum
のそれへの彬縛について実験を行って いる.この観療は MANSQNの直門に於ける定 期/l1JJ!性発見後2年であり,t t
固鍛初のもので ある.その他州l吸虫に問る堵j位,マラリアなと について記載した他,鹿毛虫症の1例を報告し ている.この. i l l
討は外国人で,技団での感染例 ではないが,恐らく日本に於ける最初の経験で あろう.本症は爾来今日に重る韮,日本に於て は板めて総イTなものに属する.BAELZ及び SCHEUBEが,日本の寄生虫学 史の最初の百を飾った前後に於て,日本人に依 ってなされた業前は殆んどないが,明治 10年 (1877) ,石坂堅荘が岡山県で剖検によりj 日本
"
で初めて肝吸虫を見出していることは特揮してよかろうー この発見は MCCONNELL(1874) の印世に於ける世界最初の発見に遅れること3年であった.その頃佐藤進 (1877)及び八杉利 雄 (1879)もまたそれぞれ大阪及び東京の睦単蹄院でパンクロフト糸状虫の
m i c r o f i l a r i a
をはている.
I V t(:~ 2 ~田
出1聞に引き就く叩年1::1(1883‑1892)であるが,この慌になると,日本的学
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の研究又 は観務が泊々現われるようになった.その置要な対象となったものに糸状虫症がある.約殊な絞状が注目され品かったためと思われるが,乳障院については古城背堂 (1885),場内梢ー (1885),村闘機太郎 (1887)などが,文象皮蹄については萩原百平 (1879),'iX永桶1新(1883), 児 王 三 介 (1884) 。日厳正i~受 (1884) ,橋本綱常(1885) ,桐村義尭 (1885) などがそれぞれ記 織し,その一部の人連は治躍虫験を行っている。腕田虫については,先に BAELZ(1878)が
ι¥Il者101談中に虫卵を臨めているが,後民(年代不詳〉は,岡山での剖倹で虫体を見出し,それと 前後して約野'Jj中浜東一郎官之芳及び山形仲芸(1881)も同様岡山での剖検でこれを見出し ている.消野等は生
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時淡中に虫卵を盟めた1患者の肺臓に且附したのであって, 1883年 (15) 石製堅必Jはこれを肝吸虫とは気づかず 十二指勝虫と去われるものかとした.この標本は岡山医学校 に保存され!後肝吸虫であることが穫かめられている.
6) 報告は1880年
(司降下)5
ll)とれに
Disloma ρt t l t m m i s
と命名して報告している・BAELZはその得た虫体をbastomaj n l l m o l l o 1 e
の名で1曲3年 (4月}に報告したが,当時既に COBBOLO(1田 町 が, 民間GER (1879)により台湾淡水で最初に人体から且幽された虫体をDi s tomar i n g e
円 と命名しても、 ることを知。ていたのに教えて上の名を用いている. BAELZは本虫がn
本に広〈存在し,か つ決して繍れなものでなく,既に100例以上が経験されて日るが, 1.1に山田に官んだ岡山と備 本の岡県に多いと述べている.これらに引き拙き栗本東明(1883),安中黙(1回4),中浜東一郎(1883,85),三間守治(1回7,
~9) ,
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上手路次郎 (1890)。山阪勝三郎 (18曲〉 大谷間地 (1890)等の本虫症の臨床 柑現に 聞する繍併が111されている.叉中浜 (1田3)はその卵の犯行について観貌し,水中では約4週 間で仔虫の化成することを報じた.n干吸虫に I~ する知見も i この時期になって多〈が加えられた. 分布については, 既亜石底堅 務 (1877)の岡山に舵ける円本最初の発見以後 稲次各地で存在が毘められ,その分布の桐当 広いことが判明した.即ち擦問衡平(1878),BAELZ (1闘の 前 野 中 浜・守 山 形 (1酪3)
1) .)
$は岡山県で熊谷'(;三
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(1町9)は滋賀県で.4ie千尋 (1曲 町 は 石 川 県 で 句 集 田 勝 央 高 匝 安 定は符城県で,それぞれ剖検に依。て本虫を且1 1 1
したが。夜来それらの地はいずれも本虫の量死地として知られている.豆本虫症の臨床方面については中浜班一郎 (1883),奇勝険醍(1884), 大 谷 問 唯 (I闘7田 89) 保 利 勝 (18叩}等に依りJ 叉嗣殿力調については山修牌三郎 )1上 得次郎 桂間協士郎 (18叩 91,92)等の嗣3理学削こ依り 枠制な研究が行われた.
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吸!uの tax:onomyについては.BAEI.Zが先に2利 盟 を 削 え た こ と は 既 述 し た が 動 物 00'中 将 飯 島 魁 (1887)は人体並びに描に見出された虫体を昨細に
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鮫研究の紡却(,これらを2科i
とすべき線網がないのみでな<,いずれも MCCONNELLの続初に仰たものと同一組である として1 繍綬を宅聾した. 只その利{~れとしては Distoma
e t l d e l
削c um
BAELZ を JII~ 、ているの は如何なる'与えに依ったものであろうか.この問題については LEUCKART(1866), BLANCH ARD (1895)も1純院を左り.Looss (1田7)は蒋ぴ2積般を明え.久しく紛糾していたが,後 小体晴治郎 (1912)が その発育史を明らかにしたことに間連してl繍とすべきであると断じ,その学名は
Clon o r c h i ss i n
師s i s
(COBBOLD, 1875】Looss.1田7が正しいとした.今回一 般に示毘せられる岡崎である.飯島は肝吸虫卵の内有は続下時既に miracidiumを厳している7) 飯島 (1田町に依ると BAELZの配敏にJllいた併科は.白骨野等から得たものであると云う.しかし鈴 本T;(930)のE迩には BAEI.Z自身が剖換で得たものとしてある.BAELZの際女にはζれらのなを '~Ièしていない.
8) S!J1.U是(I目的に依る.
9 ) 鈴木C(1935)に依る.
10) 飯島は銅山にも凶r.'J~ 、て山形 伝尾より際本を買い受けた.
11) BAELZも後1柵般に駆した.
6 (否定下〉
ことに着限し,その人工的解化を賦みたが成功せず,外界での餅化は起らないものとしたが, その後部1中間宿主に録取せられて始めて卿化
t
ることが明らかにされ,その臨の正しかった ことが裏がきされた.条虫については前期間中に既に数種のものの存在が知られているが,武前一中
( 1 8 8 1 )
,志 村玄洋( 1 8 8 2 )
,大沢岳太郎( 1 8 8 7 )
が,包虫症について報告している.本虫症は近米に至る起 日本では珍らしいものに属していた.,之条!l:tYiの発育史や感染経路については,それ基金く研 究がなかったが,飯ぬ魁 (1臨めは, ~本に於ける広節型商条虫は闘 0 ,宮corltYllclms mOSQU から米ることをn
体感挫:.I!験に依って証明した.なお金l
には幼虫がJ;!られなかったがあり得る'
"
であろうと云っている.
この頃に至ってマンソン孤虫
S ρ
arga1ltmtmfl11S01liの症例が各氏に依って経験せられて いる.飯島 村I U( 1 8 8 9 )
は匝道より排出の3
例を記寂し,叉その他の人により限隊,結合組 織等より見出された世例の報告がある.この期間の後期に於て,獄医学者のは献を且逃がすことは出米ない.特に
J OHANLUDW
lGJAN S O N
(日本滞在1 890‑ 1 9 0 2 )
は"本に鈴ける家事野の主要な寄生虫について報告しているが,牛の牌車 E1trytrematallcrea#ctl1lt
J ANSON
は氏( 1 8 8 9 )
が始めて肥鍛したものである.文臼本の学者としては時
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初熊のJ 1
献がある.この頃A . R A I L L I
正T ( 1 8 9 1 )
は仏国に於て,日本 産家裕寄生虫について報告している.原虫についてはなお殆んど註意すべきものはないが,数年
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のL AVERAN
(1岨0 )
によるマ ラリア原虫の発見や,それに献く伊太利学者の間研究に刺載され,我困に於てもこの問題が漸 く取りあげられるようになり,内地,沖縄に於て臨床的,似虫学的の研究が始められている. 三浦守治(18 8 7
,8 9 )
,村凶8
豊太郎( 1 8 8
7),栗本車ゆI ( 1 8 8 9 )
,大谷間雌( 1 8 8 9 )
等である.特
S
もな出米ごととして,京京大学教師として在日中のJ . SCRIBA
(臼本滞在1 8 8 1 ‑1 9 0 1 )
は三宅迷 (18 9 3 . 9 5 )
と共に1
.i!J.t i
の血血中にl
舗のグニを且凶し,N噌,hroρ
,'hag師 501lI1t"‑"a門出 〈今日の TarsonemaSa1'IJ1tiuarius)と命名した.その後日本では喰膏血量と呼ば
'
"
れ散多の報告がある.
この期間中の出米ごととして特1Jlすべきは飯島魁 (1
8 6 1 ‑ 1 9 2 1 )
に依る日本寄生盛時の体系 づけである.氏は1 8 8 1 1 1
点京大学動物学科を卒ぇ,翌年数地に祉き,L e i p z i g
大学のLEUC ‑ KART
に師航したが,LE U CKART
は当時世界に絞ける衛生虫学の大詰であり,幾多の勝れた 揖i債を公にしてし たので,飯山もまた寄生虫学に大きな問心をもち,当時の知見を充分身につ1 2 )
明治1 9
~I':( 1 8 8 6 )
5 月 間 臼,似品は訓告をJl I産胸からI~ られた 2 幼虫 いは制御あり〉を,助手茄地位太郎は向じく
3
幼虫を柄下L
,メミ々6
月1 0
日及び6
刀27all~虫したが, !医必のみ成虫1
,*の緋1 1 ¥
をJ
l.街地には認められなか9た.13) 本舗では節足動物を原俊わなt、組旨であるが,例外として述べる.
けて
1 8 8 '
年帰国し,これを袋圃の研究及び敏 脊に場入したのて・ある.当時寄生虫についての 知且のなお極めて芝しか。た綾田の学界は,氏 の新知Z
般に侠つ所が多<.爾来医学,動物学両 域に鈴て,氏の掃蕩又はs u g g e s t l o n
に依ヮ て行われた研究は緩めて多い.文民の門下とし て寄生虫学を専攻し.その後日本の斯学界の中 絞的存在となった人が少なくない.文氏自らの 研究にも見るべきものが多<,外邸宅寄生吸虫舶 に於ける生孤島管の意畿(1回4),広節型車t
条!It の悪染経路の決定(18酷),肝吸,.1種雄日時的,大圏殖門条虫 Di
ρ
logo1.ω)torm grolldis の 最初の配寂 (18剖),芽殖孤虫 StargmlUm prolif,町11mの鍛初の記獄 (1冊白などはその 代礎的なものと云える.(1降下)7
..烏 包 (1861̲1921) 買らにt¥国寄生虫学発亜史上に特配さるべき飯島の功依は東京大学の庖科学生丑ぴ理科学生
,
,)
に対し,貌闘で始めて寄生虫学の灘畿を行い,叉袋固最初の寄生虫学部省 「人体寄生動相編」
T h e a
山malp a r a s i t e s o f m an ( 1
曲8
年1 0
Jl)を馨わしたことである.本省には当時の欧 米に於ける知見と共に,日本に於ける研究をも含めて系統的に肥適されてあり,これに依って岡本に於ける寄生虫学が始めて一応体系づけられたと云うことが幽来る.
飯島の他符国人で LEUCKARTに飾帯し寄生虫学を専攻した者が多量あるが,それぞれ傍固 に於て斯学の訓拍者又は中興者となっている者が少なくない.米国の H.B. WARD, CH. W STILES.仏国の
R .
BLANCHARD.英国の G.H. F. NUTTAL僚がそれであって,閉じ く LEUCKARTの門から,各国に移し構えられた寄生虫学の花が,それぞれの聞で見事に世き伝 えられたことは簡に盛鰻である.飯島の後を継いだのは五島情太郎 (1師7 ‑1935)で,夙に飯島の薫陶を受けて吸虫顕殊に外 郎寄生吸虫聞についての研究に始まり,その後二世駁虫割に闘して数多の研究ある他,飯島な き後は,動物学教授として医学,理学各領域に於ける寄生虫学研究の指事者として寄与する所 は摘に大なるものがあった.又その門下から多〈の寄生虫学専攻者が凶ている.
14) 1田5年東京帝園大学教授
15) 五1>刊骨太朗・宮島~之助宮岡氏纏 小銭丹小林晴治郎等の Z自民.
16) 本文490J'{,索引16:n:.図直1J',i.東京九普禽庖刊行.
17) 玄
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,.・東京帝国大学教授となったのは1拘9年である.8 (蕊下)
五 島 清 太 郎 (1861‑1935)
V ~.31~J
明治26年 (1893)乃至同40年 (1907)の15 年聞をその期とする.本問に於ては。前期間中 に取り上げられた鮪藤田につレて。燃にその病 理,臨床方耐に聞し 漸次掘り下げた深い研究 が行われた他j 新らしい線囲への進展や,住胃 すべき発見などが見られる.叉明治28年(1895) 以後台育毛を領有することになり,その熱帯的な 環境に附巡して,寄生虫学に於ても多彩な研究
が始められたことも見逃がし得ない.
前期以来置要な研究腺固となっていた肝吸虫 及び断吸虫については,依然多くの研'先が行わ れたが, 肝噛虫に聞してはその新らしい分布地 が漸次明らかにされ,佐賀県,官山県,新潟県, 品回県 岩手娘と宇治、飢えられた他i その臨床及び病理学~)な研究が更に進展をみせた.3<斎藤
冊一郎 (1898)は卵の内容¥及び仔虫形躍につLて観察してもる.肺吸虫についても多〈の報告 をみるが,そのうち本虫の恥与野生に附するものが注目される(井上,径回 1892. 93; ~ll村,
角凶 l叩7等).糸状血症については臨床的に依然多〈の開むをもたれていたが,攻閣に鈴け る伝機問題について実験的な研究が開始されたのはこのj聞の終り慣であるo MANSONが腹門 で本虫の幼虫が般の体内で発育することを明らかにしたのは 1877年であり,爾来梅外の各地 ではそれぞれの他に鈴ける般の積額の伝婦世について研究が行われ,日本で研究の開始される 噛には.なお髭んに位けられていたのて'ある.本間固に附する校闘般初の研究者は谷口長縦で ある.民 (1905)は楠本でアカイzカ他3純の蚊を以って実験的感染を行い,その体内に幼虫 町発育を1mめた.続いて志加樹太郎 両月三郎 (1叩7)は九州大村でl!:も普通の蚊(アカイエ
カと盟、われる)について同様の成銑を得た.この研究はその後多〈の人に依ヲて継泳せられ 近年に至っている.糸状虫について特配すべき 1つの出来ごとは!中浜東一郎 (1896)の八丈 小島に於ける調査で,向島では下肢にのみ見られる象皮病があり,これを 「パタ病」と呼んで
居るが,その原因として
m i c r o f i l a r
闘 を探求したが見出し得なかったと報じている.本症は 近年佐々学,林滋生節 (1950)に依りマレー糸状虫W u c l t e r e r i am a l a y i
に因ることが明ら かにされた.この期間中に新らし〈存在の知られたものが少なくない.石井貞元 (1897)は臨児島で羽鳥
〈底下)9
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(1898)は東京でそれぞれ翼線虫Slrm : g y l o i d e ss t e r c o r a l i s
を且出して鰻告してL・る が 車ら〈岡本に鈴ける最初のものであろう.叉条虫についての新らしい知且が加えられた.その1は大複殖門条虫 Dゅ
l o g o
no,.知ru s
gramJis の発見である.~初中村俊一郎 (1892) が炭崎で見出し。飯島 栗本 (1894)はこれを
B o t h
円o c
ゆ' I m l u $
に属する新人体寄生虫として;il!搬し, Krabbe が海,~{(j (earless seals)に且出したものに傾似することを指繍した. sLANCHARD (1田4)はこれを
K r a b b e agr 0 1 J d i s
と命名し目LOHE(1899)はD i t l o g (
!1l ゆl t n r u sg r a l l d i s
が正しL、とし,今日はこの名が1 1 1
いられている.栗本( 1 9 0 0 )
は買らに長崎"
で見出されたものについて報告し,爾来今日?こ重る孟少な〈とも 25例が知られ,かつ悶本以】 外で人体から報告されたことはない.条虫について特肥すべき他の
1
つの凶来ごとは, 穿殖孤虫 SPargatlllm ρroliferum の発見である. ~初のものは山村正峨 (1904) に依 q て東京で
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られ,飯島 (1田 町 は こ れ をP l e r o c e r c o i d e s
ρ' r o
Iif e r
と命名配厳した.型頭条虫聞の幼 虫{媛支障虫 pler田 町coid)であると考えられているが,分畦峨漉する性置を有する珍奇な 寄生虫である.本績はその後日本で4岡,北米で1倒が報告されているに過ぎないが,その成 虫についてはなお金〈不明で,寄生虫学界の謹として著書されている. 1895年三浦誼之助 山 崎寝泊は東京の1小児に始めて媛小条愈 Fかm e
,w[e t I sn a l l Q
の存在を恒例した.この期間に於ける他の特配すべき顕著な幽来ごとは日本佳血吸虫
S c h i s l o s omaj a j x m i c l l m
句兜見であるう.本虫に困るを笑也については,既に古〈広島県汁山に除けるE
藤井直配 (1847)"】
咽;a!述がある,当時原岡は元より切らかでなかったが,その臨床所且に聞する肥述は,今日か らみて傾めて
3
妥当なものとして知られている.繭米本虫症は「片山病」として注円されて来た.その似同の傑求は 早くも明治 15年 (1882)以降に,中浜,菅,問,BAELZ等に依って手 伝ぎためられていたが久しく不明のまま経過した.1902年に至って河西健次は且者の策使内に始 めて終布の虫卵を見出し,本症が寄生虫病であることに強い附示を与えた.これより先,馬島 永 徳 (1回7)は肝硬変.¥Ii白の肝陣内に 1般の虫卵を臨めたが。後同様のものを東本車明(1893) は佐賀県人に。金海辰次郎 (1898)は山製県人に飽め 謝祭同織の所且が数例報告されたこと により 山製際,佐賀県に存在する所開肝牌肥大置はこの卵の介在に固るものであり,かっそ れらは広尚の所開
J l
山荊と同一物であるとされるに宣ったのである.か〈本症の原固として或 事情符生虫が予且され,その殖定に多くの努力が払われたに拘らず,成虫は容易に且幽されなか 勺た.経団術士郎もまたこの研究に腐心する所であったが,1904年,山盟県下で息者の糞便 内に河西のものと同ーの卵を認め.~らく或後の雌雄異体扱'"のものと甜像し,保存した剖検 材料を検しその肝陵中に且られる卵もこれと同一であることを確かめた.そして同年4月9日 18) 鰻初の敏例では限節を欠いた虫体のみであったが脊凶 高野 (1923)は始めて頗節について配慮した.四) )1山配〈也、化4年, 1&41),邸機鑑に依9世に紹介された.
10 (縁下〉
健 闘 富 士 郎 (1867‑1946)
‑汲.
(1870‑1934)に岡県下で解剖した
1
踊の描の肝臓門脈技中に供に1
条の111虫を姥且し,主その肝臓中に,患 者の.使叉は肝障に見られたと同ーの卵を臨め,この卵は~ら〈上配の虫体と聞係あるものと 述べた.これが般初に見出された本症の嗣原虫であヮた.氏は同年7月 25日置に山製際でー 肺院を酎険し,雌雄3 2
条を此これらを制査し世米肥貨のないものとして日本伎血尿虫Sclli‑2
・
3SUmOll1l1m ja
ρ
O1ltcut1/. と命名報告した.それと目1)後して,つとに広島県片山地方で本症の研 究を行うていた脱出量は,同年(1叩4) 5月30日同地で剖検した1人胞の肝臓門脈桂に虫体を 且i却し。かっその子宮内に存在する卵は,従来肝臓内に且られた卵と同一であることから本虫 体こそ以卵の偲虫であるとした.これが駐初に人に見られた本虫の線虫であると共に,人体に 曲めて且られた虫体である.誼いて土匝柑保 (1田町 は 山 型 燥 で1女胞の剖検で人体最初の雄 虫を得た. 脇浜(1 906) は吏らに片山で人阻から 9 条の雌111虫を 1~. 叉岡地方の牛,犬, l,市に もこれを見凶L .
本虫が広〈動物聞にも存在することが知られるに至。た.この頃斎藤酎一郎 (1906)は先年 (1900)岡山で牛の肝腺に肝ftFasciola h
, e
か宮/iCQを見 出したことを様じている.この期聞に除ける原虫方面の研究としてはアメーバが多〈の人の聞心を呼んで居り,文マラ
"アの研究にも若しい進展をみせている.
ll¥嗣アメーパについては1 古 <BAEL7.がそれらしいものを点点でi赤痢且
n
の使内に見てョ
。、現在
ScI/lsIO$omfljoμ ' "
印 刷《続下)11
いるが,その病原性を否定したと云われる.その後若干の人(主土谷鍵量, 1893;辻谷 鎗厳正
i
, 1893)の報告があるが,同定土曜型なものか否か廃わ しい.日本で最初に確買なものを報告L たのは商制随一郎 (1田2)で,飯路近在でこれを4例の赤嗣血者に且ている.次いで菅井竹吉 (1同5)は大置で13同について報告したが,少なくともその1慨は英正のアメーパ赤仰と考え られている.台潤に於ては,日本管l 1 J
後早くからアメ【パ赤酬の軍要性に注目され,台湾赤刷 などの名で知lられていたが, その荊即アメーバの確臨について闘中給古(l904),中川空宇雌 (1907)等の報告がある.マラり
7
は班に前期より研究されて米たがj 台間の領有と共に,lJtが医人のこれに対する聞 心が一段と高められたことは杏めない.これに閲する研究は三補守治三向摘に依勺て先年来 世けられて居札民らは先に仲縄八田山群ぬに凶聾して.同地の風土荊について研究を行って いるが,l
存度 (1895)の研究旅行に依り,始めて原虫を匪明し,その風土闘はマラリアに他な ら血ことを知った.かっ);(虫は理に Li¥VERAN(1脇町以来知られているものと同じであると しているが,その梱別については明らかに述べていない.しかし塁手}l体も毘めたと云っている ので, "冬物~~);(虫をも且たもののようである. 明治 30 年 (1897) RONALD Rossが印度に於'
"
て,人のマラリァJiji!1!がハマダラヵ A1Iotlteles体内で一定の発
r r
を営むことを臨めたのに発 し.A"ω,pltel由民の般がその伝信者であることが切らかになるに及んで, lJtr.l学者の本間画研 究への意欲をかりたてた.調L策甚之助及び大町宜興 (1回りは北梅週札幌,組川に於て概査のH>
結処,lJt閣で始めて砲:J;に A,wthelcshyrcamωsi1l0tlsisのイ
f
複を報告した.文也者の血液 を検し,岡本のマラリアは三日割阪!b.Pla幻/Iodittmvivaxに因ることを拍めて切らかにして いる.次いで宮山幹之助 (1902,03)もまた京協府民で1ii(虫の軒!別を上述のものであることを 磁隠すると共に,赤血球に於けるその発宵痴を迫2
えした.又日本m A叩IpllclesのマラPア伝 矯世については,都築大町 (1901)が北海遺産の A.simmsisを以って感染:J!験を行い,sporozoitesの発育することを毘め,叉人体感染にも成功している.宮山 (1回3) もまた去、郷
府下で $UU'ZSJ$を以って同織の実験を更に出制に行い,又それに臼然感象を抽めて箆切し,
同績が日本に於ける
i l l
要な<:起障には唯一の〉伝捕t
であることを明らかにした.これと凡そ時を同じくして台樗に治てもこの方蘭の研究が聞舶せられ,木下喜七郎 (1901)
幻3
は同地で鍛も普通な AnoPhelesとして A. s
, ; w
出 Sを報告し,同年羽島置却も3績即ち 2・
3A. $;'叩ttsis,A. ",itl;mus "&ぴ A.tesselIaltuの存在を報じた.その後術祭 (1902),宮
21) Rossの突破に周いた A岬 帥I!lesの積額は明らかでないが,怒ら<A.51e帥C/UIであろうとされ る.
22) 氏らは始めこれを A'IO帥clcScsocllsisと呼んだ.
23) 氏は始めこれを A.llllltsflfS(1)とした.
") 氏は始めこれらをそれぞれA山 Igare,A.
f '
同 州 T州 日 制 。 A./ormosal!とした.120!民c)
官均約之助(1 872~1944)
t~ (1904)もまた台間に赴いて同織の研究に世 い,台拘に鈴ても亜らに木下 (1田正04),英睡 也 (1903)などの研究があってそれらの結*当 時韮に7輔の
A
1to ρ h e l e s
の存在が明らかにな。た.即ち既述績の他, A,
1 l
Ulc l t l a t u s
, A,a
η 1Ilda
円 s,A.k o c h i
及び A.i n d c J i l l i t u s
が迫 加されている.x
これらの主なものと各桶マラリア原虫との粗利
I
対係についての研究が行われ たが,そのうち特に古島はH本内地及び台習得を 通じて品も静過の将U!i
は同 l稲で,それ孟何々 なるイ'{,:f l
を与えられたが,A.s i l l l m s i s
をi E
.>Ii とするとし又それの熱帯州原虫の伝情性を否定した.なお官品はその後円本に於ける低動物学 の研究及び指導
; r
として多〈の目献をなした.その 1~ の附めに,三浦臨之助 (1893) は 1 rt 本人男下の匝内に見られた厳トりコモナスを報告した~ DONNE (1837)がこれを女干腕内に
発見記載して以来 女下には各地で且られて間たものと皿、われるが,何本での硲r
J !
な報告はそ れ迄に見巧らない.只 BAEL.Z(1883)がかつて。 1女子の尿内放ぴに鞘内に多致臨め l新 アメーバとして A削o e b a u r o g e n i t a l i s
と命名したものは木虫である疑が酷い. 三浦の報 告はそれ以来のもので,しかも卯干に見出したことは興味があるがm p 同年 (1894)J
回せずして MARCHANDが独過で。 DOCKが米間で問機男子から報告しており.実際には3人のうちの融"
,
が最も早〈男子に見UJしたかは詐かでない.
この他符品幹之助 (1905),柴山五郎作及び宮島 (1905),入合栄瞭(1906)などに依る動物の Tγ
y p
附osoma
,Pi r o t l a s
1na
,Ha
ωn噌r o t
師S 問中始古,鈴木徳二郎(1田町に依る家兎肝障ヨタチヂュームC o c c i d i U
1n(今日の E帥1Crtas t i e d a e )
に聞する研究があり 叉緒方K:鋭 (1893) は簡虫の純粋~~を黙みたなど,原虫に聞する研究飢域が漸次広められた.
Vl ~.4 WJ
明治 41年 (1908)以後になると,日本に於ける平等生虫学は也被な発展を遭げ,人体のみな らず符動物の寄生虫に聞し,極めて多彩な研究が繰り広げられることとなった.又医学教育に 251 三浦は上舵患者の棄を検して腺内にこれを包めた.日本に鈴て女子に見られた最寄の確実な例ではな
いかと思われる.
26) 三測の発見は報告の前年(1891)である.
{傘下)IJ 27) 211)
拍めて寄生虫学醐I'I!の般世を見るに韮り!専門の学会が組織ぜられるなど,日本の平野生虫学界 は大いに体系を控えることとなうた.叉それらのことが民語学研究の発齢を買らに促進したこと は当然である.
理に述べた如く前期末高に日本に於ける多〈の人体符生虫の存在が知られて屈り,それには 既に主要なものの殆んど悉くが含まれていた.此の期に至って偶然それらの発育史に聞する研 究が勃興し,続々成果があげられ.最初Iの 20年聞には置要なものについて殆んど悉く解決せ
られ,lJ1国寄生虫学の黄金時代を現出した感がある.
最も多くの努力を払われたのは吸良野lに附する研究で,これには極めて置要な人体平等生虫が 多 <,その感11>経路の解明は鉱色を要するものであったが,世初の凱歎をあげたのは小林附恰 郎 (1910)の肝吸虫についての
D f ' :
先であった,本虫は既にn
本のれ地に存了Eが知られ,病理,臨床方聞では多〈の知見が得られていたが肝心の発育史が不
1 m
のため 略染予防の方法も同 中限脅さの有線であったが,小林は有名な流行地岡山県で研究の結県,鯉科 Cyprinidae魚影I の数紛がその拙2中間的主であるととを宛見し
き例
た.抑1巾UH1fi:lーについては,その後武藤日知 (1917)が滋賀県でマメグニシ ?(li
α
:[0ぉ'1'Vulus man::lrmιn
四 Sであることを稲田し,これに依。て本吸虫の発育史がンピ11>(された.
1911年険川定は台間に於て鮎を出2中!日1
1 i I
主とする拠形吸虫HHelerophyidaeに属する l新吸虫を発見,続111'1;(上郎にも代り 町'etagoll
3・》
"附/syokogawaiと命名された.今11横川股 虫と呼ばれるもので け本に広〈分布し 編め て普通の人体寄生虫であることが知られるに伝 った.怯武雌日知 (1916)に 依り カ ワ ニ ナ
Semisulcostira Iibe吋11m がその酷1中間官l 小 休 附 治 郎 ( 18制 )
Z7) Jj1いのは京械情悶大学日919),II!応務総大学(1920) 尚独立総隊ではなLφ1大阪高等医学校〈後。
阪大医学認)(1914)
28) 日本都生虫学会 JapaneseSociety of Para剖tology(創立昭和4年 1929)
29) 小体の研究は 1910年の移から始められ 同年 10月!j!<も予報として公表している.研究地は周はb 県伺11l!郡妹尾及び上道f恵三絡で 始めモロコのlIí2間 P$~lIdOI"(lsbor,7 仰rω 及び P. clOllgota Iこ metacerC8na を包め。後(1 912) の徹併では 12 積の ~Mtl をあげた. 般初の発見地 11三幡である. 30) 舵図は始め (1911)これを Helc,.otllycs属のものとし,周年1新属ll1elogonimusを制扱してこ札
を配した.叉機JIIlJ、本種の metace陀 anaを見出した鮎はp台北市の東l伺を流れるl!i脳民監のもので.
侵初に先見した人体例は悶渓に前。た川端町の1料容の主人であ勺た.
.. (旗下〉
綱 川 定 。 飽3‑1!*:6) 主であることが決定された.
武 必 ハ
" ' J
II総6 ‑ )国本住血吸血 Schisto$omajo向 削, CU1nの11且以来その拠抑止l並びに感染D.路については.
多〈の学<1の間心を寄せる所であったが,1909勾位IIlM士郎及び長谷川恒治は剛山保下で隣 組縫"&ぴ中村八太郎は広島保下で,動物を'f
r
荊地の水tこ世ia'l
することにもk
り,叉同年松浦l T
志 太郎は広砧県下で自体に岡崎の方法で,それぞれ本虫の感染することを:J.!m E
し,本虫が水中で E虫館形体として但入することを切らかにした.中間副主の発見は 1913年の凶米ごとで,宮入'
"
隆之助及び鈴木位は,佐賀県下の有耕地で研究の結保
0
1/COmelallIa勿osothoraが中間宿主 であることを決定した.本発見は世界各地にある佐胤吸虫発育史解明の先駆をなしたものであ る.その且は発見者の名誉のため宮入只と呼ばれるが,般も古〈から本耐の:u在地として知ら れる広島県片山に因んで片山貝とも呼ばれている.その後償川定 (1915)は台湾に於ける本虫 の中間7il主はタイヮ γミ ゾ マメ ダ エシ0
1lcomela削 aformosattaであることを見出した.肺吸血は, KERBERT (1町町, BEALZ (1878), RINGER (1879)の1M史的傾告以来,東洋 各地で住
I I
せられ,日本でも積めて軍要観される所であ。たので,その発刊史の解明には,多〈の努jJが払われたが,遭に中川事俺 (1914)に依り明らかにされた.民は台湾新竹州下に鈴
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て研究の結果ラスパンザワガニ Potom01lralhbuni,サワガュ
C
田tlle/tJwsadeh同 m 及31) 賀県三菱,.郡伺)f村 32) 術竹州下帯地カラパイ
(tf.下)15
中 川 司 令 降 (187‑1959) 宮入慶之Ij!J(18陥品‑1946)
"''"'タプカエ
E r i o c h e i r j a
向t m c u s
が揖2中間宿主であることを決定した.これにヲ1
位 き 横川定は台内でジナサワガニP a r a t h e l t J
lIω t a S J n
帥'"を追加し,日本内地でも多〈の 人に依りG e o t h e l t h u s adehaani
:&‑ぴE
門 出h e i r j a t o n i c l
ωが迫旺された.叉宮入庫之 助 (1918)は朝鮮ではチB ウセンザリガユ C田n b a r o i d e s s i m i l i s
も叉中間宿主たり得るこ とを報じた.本虫の部l中間宿主については,今日カワユナの努1.特にS e m j s u l c o s P
げal i b e r t
叩a
が置E
きであることは伺ら疑いないが,その決定には数民の研究が聞係して居る.中 川傘庵 (1915)は部2中間宿主の発且に引続いてカワニナが第1中間宿主であるこ之を疑い, これに附吸虫卵を橋義僻化せしめた miracidiumを接触せしめると好んで侵入する事:.l!を臨 めたが,具体内の発脊について追及し時なかった.一方本症流行地のカヲユナに寄生する eercanaの検弥が数民に依り行われ(吉岡点雄, 1917;中川傘俺, 1918; 安・~. 1918;小 林晴治郎 19日,制川定, 1920),そのうちの1種が本舗のものとの意見の一致を見た.文小林 (1919) ]).ぴ宮入鹿之助(1918,19)仕いずれも朝鮮に鈴て同地艦のカワニナ2,3績を周ぃ,miracidiumの感染実験を行い, sporocyst 或は幼若 redia.i:年発育せしめることに成功し た.カヲユナに白然寄生する本虫の cercanaと思われたものを却2中間宿主に感染せしめる 献験は安蜂 (1921)に依って種々の方訟で行われたが充分納得し得る結果が得られなかった.
要するに当該 cercanaが如向にしてカユに位入するかの点が全然不明のまま久しく残されて 厨たが,最近に至って倹川宗雄 (1951)は,カニがカワユナを晴食することに量販し,その方
16(森下〉
訟に依り, cercanaが取り込まれ,被車幼虫 metacercarlaとなることを:M粧した.これら ー速の研究でカワユナが却l中間宿主であることが事実上決定したとして良い.
宮 崎 郎 (1939)はベンケイガι Sesormai叫ermedia"&ぴタロベγケイガニ Sesarma deha01tiに敏磁する幼虫から得られた肺吸虫を新種とし Parag01I附 削ohiri大平廊吸虫と 命名,その後同氏 (1945)はクロベンケイガ=にそれと典なる被麓幼虫を見出し,それより発 背する虫体を小型大平廊吸虫と呼んだが,このものはその後腕心陶 (1940)が中国で記献した Paragonimtts iloktsue問 問is CHEN と同‑:ID
l
であるとされた.これらについては今回に歪 る韮多〈の人連に依って研究が行われ,最近それぞれの拙1中間宿主も明らかにせられ,肺 吸 虫群に関するう臨}見の進般に大きな立献をなした.但Lとの両種については今日蓮その確実な人 体例はまだ且出されてはいない.中川幸~ (1920)は台湾に於て肥大吸虫の発育史を切らかにし,その中間宿主として2額。
ヒラマキガイ Plonorbiscoellusus 7Aび Segmentinalargilliertiを決定した.
以上に依り
a
本に見られる盟要な人体寄生吸虫類の大部分の控育史が切らかにされたが,こ れらの研究は,その他の吸虫顕の発育史に閉する研究を促がし,移しい報告を見るに至った。思地興作及び西尾恒敬 (1915) はポヲを却2中間宿主 とする有害!~形吸虫 Heteroþhyes
'
"
nocensか発見配被
L
,地援に依っては人体に稀れでないこと本報告した.浅回廊I‑(1928)は その1 1 1 1
中間宿主は汽水産のへナタリTY1n,かll1otonusmicrotte1"aであることを明らかにし た.ボラを中間宿主とするものとしてこの他多散の Heterophyidae科吸虫が配被され,そ の多くのものが人体に野生するζとがう日l
られている. :;( 鍛淡水;f.~t ,甲殻lIî, 阿倍額を部2中 山i宿主とする種聞が多数勿1られ,それらには Heterophyidaeのものの他Echinostomatidae に属する多〈のものなどが合まれ,かっ人体に寄生可能なものも少なくない.これらの鮪研究 は終戦前迄極めて盛んに行われた.駿虫剤の発育史に│制連して,その附i匹期の発育に閲する研究が多〈の人に依って行われ,前 細を極めたものが少なくない。中山平治即 (1912),小林哨治郎(1915),氏家直記(1936)等の 肝吸虫,中山平治郎(1912)の肺吸虫,三木行治(1937)の治形吸虫亙び牌蛭,村上栄 (1937) の肝蛭,肺吸虫,横川吸虫j 市機製!u並ひ'に肝吸虫についての研究がそれである.尚吸虫類。
cercaria, miracidiumの微細鱗迭に附する研究が数民に依って行われ, 多くのう
1 '
見が得られている.
条虫割の発
1 1
史文は感染経路については,古〈飯島 (1886)が日本に絞ける広節裂面条虫の 出2中間宿主は闘であることを旺明したが,その後江口隼雄 (1922‑29)は却2中間借主とし 33) 本種を Heterotliげeshetcl'Othycs と同一物とする人があるが (LEIPER等L波図 (1934)はこれを別種とし,森下 (1951)はこれを変極左し H.he!ero帥')'CSvar. I/OCCIISとした.
《議下)17
て織太陣 O,u;
o r h y n c l t u sg O T b
凶c h a
,鮭O . k e l a
,l I ! O O . n e
r.加を追加し,主それ孟不明 であ。たm l
中間宿主はCy
c1o,白s l r e
剛 山 であることを決定し,ここに本虫の日本に決ける 発育史が完成された.Sc
HEUBE (1881)に依り始めて見られたマンソン!lI1虫の人体寄生例 は,その後内外を通じ多散が知られるに至。たに拘らず,その成虫及び発育史は久しく不明 であったが,山図司郎 (1916)は人体より得られた孤虫S targamwl
を犬に依食せしめて拍 めてその成虫を得た.今日犬に普通なものとして知られているマンソン盟国条虫 D砂h y
Ilo bothrium mansoni
である.次いで奥村多忠 (1919)に依ってその却1中間宿主はC y c l o p s l C l l c k a r t i
であることが切らかにされた.その後小林英一 (1930)は台精に於ける研究に依り,t l l l
中間宿主として同鍾の他C . v i
円d i s
,C . diath
仰u s
,C . f r e r o t e d t u n
等9
種を追加して いる.その他多くの人の研究により,自然界の酷動物に見られる孤良からも岡ーの成虫が得ら れている.然るにそのJ>lt,gの鍾名については内外に拠働があ。て,我闘でも小林晴治郎,奥村 多忠はDi ρ " " y l l o b o t h r i u md e c i p i e n s
とし,岩国正俊 (1930‑3')はD .e r i n a c e i
としたが,倹川宜(1932)は各魯の鯵交の結果生じたものであるべ<.幼虫が
SPargamtmm
削$om
と呼 ばれている聞係上,錫名をD i t h y l l o b o t h r iumma
1ls o n i
とすることが適当であると云った.人体に且られる
S ρaTga num
の他の1
鍾芽熔JJl虫St a r ga num t r o l i ! e
円nn
については, 奇妙なものとして注目されて来たが,その母虫は今目に至る塩企〈不籾である.岩図正控〈ο19田32,
,3 4
叫)はマγソンE
孤嵐虫の特殊形腫て予期の結朱を得られなカか つた.
z
必z !
15ω
縮小魚血
H y m e n o Z e p i sdiminuta
の発育史は,先に本郷玄ー (1925)がタワシノ γマメイ ガ 乃 叩I i s f
arittalis など 8 唖の昆虫が中間宿主になり 1~ ることを駈明したが,人体への感 築の山間的方法として, 洩図版ー (1957)は干柿につ〈カキノヘタムシガK a k i v o r i a / l a v ‑ o l a s c i a t a
,務手E生につくヨタRストモドキT r i b o l
i1un n a v a l e
が中間術主となりj それら を燦取することに依る感染があり得るとした.短 小 条 虫 的men o l e t i s nana
の発育史につい ても多〈の研究がある.包!kl!:hydatid di田a田は元来日本では置要な問掴でなし従。て一般に聞心はもたれて いなか勺たが.1937年北海道礼文島で人体感染が且られて以来脚光を浴び,安保持,山下次郎 等がその研究に当り興味ある知見を加えた.向島のものは参房性包!k
Ech
叫O C a C .
叩smu
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O四
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円S に属し,アラスカ方面から千島を経て移入せられたものであると云う.一方山下次 郎等 (1956,51)は北海道の学から単房性包虫〈珊粒条虫)Echjn
田町四,g
印 刷! O $ I I S
を見 凶し,これら両者について各般の研究を行い,興味ある成績を得ている.岡本に於ける本虫早34) その後大倉と敬姓した.
18 (旗下)
官 隠 点 腕 { l878‑‑
系統的な研究として最初のものである.
条虫閣のllij匪発育買は僻イとについても世氏の 併兜があるo I!~t:>小林英一 (1931) のマソソ γ
型頭条虫,成仮則雄 (1937)の縮小条虫,吉野 苅千年(1933)の有向条虫に聞するものなどがそ れである.
e;o虫Jt!の発1'fについては,提来日本で行われ た研究は殆んどなかったが,この期に至って前 然続んとなり,多くの匁l見が得られるに歪った.
その晶も著名なものに古回以雄 (1917)の掴虫 の幼虫の問主体内移行に闘する研究がある.氏 の研究は STEWART(1916)のものとは全くfllJ 簡に行われたもので,これらに依って世来単純 なものと考えられていた嗣虫の宿主体内に於け る発育は彼維なものであり,かっ幼虫のかかる 躍世の病原的意義が舶めて田誠ぜられた. STEWART,吉岡の研究は,この間固について固の
内外に多〈の研究を促がし,日本に於ても洩図版ー(1921~25). 栃原Z刃 向本省三 (1922), 倹川定 (1923),
日
(U良樹 (1925)その他の研究があり, それらに依って移行にl
刻する学脱が 大いに整備された.この研究に刺戟され, 鞭虫についても多くの研究がなされ,西柴求 (1918),官入鹿之助 (1918)は本虫の幼虫もまた発育上宿主体内移行を営むとしたが,小林明治郎(1922),栃原再,
(1922),畏谷川徳三 (1924)らはこれを否定し,今日後者の臨が用いられている.規虫の発1'f に闘しては赤木勝雄 (1924,25),平石良市(1922)。西尾恒敏 (1924‑26),d!問販ー (1925) などが人のもの(E剖erobi描 出門 出cularis),ネズ、のもの (Sythaciaobvelata)馬のもの (Oxyuris 6QUi)などについてその発育史を追及し,体内移行の行われないことを明らかにした.
特筆すべきは拘虫の感染並びに発育に闘する研究とそれを逝勺て起された撃やかな論争である.
人のヅピニ胸虫 Atlcylostomaduodenaleの感染については古く LEICHTENSTERN(1886)。 GRASSI (1田7)らが実験的に幼虫が経口的に彼られて起ることを証明し, この院を疑う者は なかったが Looss (1898‑1901)が後皮的感染践を唱えるに及んで大いに世の注目を惹いた.
しかしその桂と肢も 空際には多くの論争が続附られていたのである.それには Loossの盟 に会商的に費成するものが少な〈なか。た直簡 1部には経皮感染が常に成功するとは限らな いことから,この鋭に釈然たらざる者もあり白主肺臓から勝に到達する方法についても追補せ
〈綜下)19
られる所があったが.一般的には経皮肉"感染鋭が問いられ,殆んどそれが唯一の感染力法であ るかの如き感を抱かしめた.この間切に於て煎悦されたなは!幼虫は走米
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底抗が~~~、が,一且肺臓を通過したものは偲抗力を !l'/-r と r る考え方である.これに山越して古川米 次 (1912‑16)は種々なる実験に部づいて肺厳通過の意義を強調し,経口的に僚られた場合で
も幼虫は i~ 化管陛に匝入し肺臓に至るのが疋過とした.これに対し横川定 大級友明 (1925, 26)は ,Allcylostρma属の幼虫は,一般に日ぜられているほど, I~I 液又は盗般に討して11\杭
の明いもりでな<,叉経口的に侵入した幼虫の体内移行については,非同布市主ではかること があるが悶有宿毛ではそれが起らないのが瓜則であるとし,幼虫の品臓通過は生物学的には何
らの意義はないと主躍した.氏らの/J(
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ま犬鈎虫 A11cylostomac ω
UlIUtnを囲1
‑T宿主たる犬に ~g, u~せしめて向られたものであるが,更にブラジル鈎愈 AllcyIostmna brazilitmseをその 間有布jたるえ及び杭,技ぴに非間引
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t:.たるそルモットに感染ぜしめて上のT
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且を迫田した と 述 べ て い る ( 繍 川 綿 織ー'1、体, 1928).この間囲については内外で多くの働滋が行われたが,宮川 岡回 中島ら(1930,31)は, A. duodmale, A. C刷 l1Jumの成熟幼虫を問布市主の蹴球エキスで処置するか 又は固有了耐主 の般日枠内から取り山したものは!一程度韮'((j主特拠性を失うから,肺臓通過は
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物学上決して 然草義ではないことを市ねて主朝した.一方j 三総不二雄 (1927), 山 口 正 道 (1928).山口 機(1930)らは納川{酌こ到した.拘虫の
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染について 久しく影をひそめて研た経口的1 i t i
、が,このような形で再度脚光を栴 びることとな。たが その結栄経皮経口問方法の存執することが再餓臨された択である.それ では何れの経路が感染し易L、かと云う問圏について 腕川 (1927)は cammlmについて 大 宙実 (1930)は brazilienseについて,それぞれ聞有
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たる犬及び人を用いて感染型験を行 い,何れも経口的方法に依る方が感染置の多い結*"を得た.その後検川 油池田 (1944,45)怯アメリ力絢:ltNecator ame円camtsについてその主要鹿染経路は緩皮的であるとの曳馳結
果を 1!~ これらに
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ずき繍川 (1952)は Ancylostoma届 の も の は主 と し て 経口的に,N田0101'屈のものは主として経皮的に感染するものであると云った.近来に韮り, 永吉康給 0951‑54)は畦学的にこの学践の国づけを試み,3<吉岡幸雄 中 西 錆 郎 三 谷 和 合 (1958), 柳沢利害錐 鈴木恒宮 中村卓郎等 (1958)は人体実験に依り ,A. duodellaleは経口!桂皮 両方法に依って感染するが,経口附の場合が量かに多く。N.ameriCa11附は,
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ロ的には金著者略染せず,専ら経皮的方法に依って感染すると云う結果を報じている.
拘虫の感染に聞速して東洋毛揖線虫 Trichostrongylus0円 entalisについても同様の実験
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が行われた.本虫は緒方正盟 (1889)が拍めて1日本人の間内に罷めたもので,桂神保孝太郎
35) 飯鳥魁(1帥川6)は始めこれを Looss(1895)が換及で舵厳した Strongy/rlSsubtifis (今日のTric 1
I0sl,.0昭 )'/115cofubr柿 ,m,りとしt:.
初〈舗最下)
(1913)が筋縄として上の卸〈命名したものである.その感後)j訟については,援野霊 (1927) は成熟幼虫が無傷の皮虜から侵入する力の弱いことを述べたが,長谷川亀之助 (1930)も同線 の所見を叫その感染は専ら経口的方法に依ることを切
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らかにした.パンクロフト糸状虫
Wuchereriab a n c r o f l i
の日本産敏体内に於ける発育について既に前 期に若干の研究がなされているが』山悶日一郎(1927)は24租i
の鮫を111いて9i験し.幼虫の全〈拍脊しないもの
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種,幼虫は或担度先行するが成熟を完成せぬもの8
槌,幼虫の成熟が完成 されるもの7唖をあげ,段後のものとしてA
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をあげた.同徳田一 (1935‑38)は台湾に於てC
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体内の発育に ついて昨嗣な研究を行った.最近大高爾三郎 (1957‑58)は岡本に除ける僚も布力な伝矯者と 且倣されるアカイエカCulext i p i e n s p a l l c n s
に於ける本幼!l<の発有と由度との聞係につい て系統的な研究を行い,興味ある知且を提供している.本虫の日本に鈴ける疫学的調査は古〈松下街ニ (1911‑13)その他のものがあったが,験後
掲》
多〈の人にfI<り企由的に胃査が行われ,その分布の相当に広いことが知られるに車。た.佐々 学 林滋生等 (1950)は,世来バンタロプト糸状虫とユ与えられていた八丈小品のものは,日本 で今誌報告されたことのないマレー糸状虫
W t l c l l e r e r i amolayi
であることを隠め,その伝 摘必はトウゴウヤプjJA e d e s t o g o i
であることを葡かめた.これに依り宵くから同地でバタ 耐として知られていた特殊な症状は本虫に困ることが切らかになった.閉口虫に
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対する研究は験後特に著しい宛燥を且せた.人体に寄生する有輔顎口虫C
1Ia t h o s t ‑ oma s t i n i g c r t
t1lιについては,古くからtIt国巨人に依り中閣に於ける臨染例が注意されてい た が {土肥.1912;凶村,1923;雌悶,1919;池上,1919軒下, 1923),日本国内での感染に ついては太平洋峨争以後に注目されるようになった.これより先宮間以織 (1926‑37)はイタ チの食道に可なり普通に開口虫の且られることを報告したが, 山口 左 仲 (1940)はこれを日本 割ロ'"G
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Il1n と命名した.肱のW
に且られるものは古〈から剛練割ロ 虫G
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とされていたが,宮崎ー郎(1950)はドロレス碩口虫 G.dor o l e s i
であることを明らかにした.本種は近来日本の猪に極めて普通であることが知られるに至った.a
下議 (1924)は1日本人に creepingdiseaseを草起した1幼線虫をG n a t l l o s l o m a
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として報告したが,後 (1951)その同定の不碕突なることを述べた.今日の知且からす れば G.s t
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である可能性が大であるが議臨はない.本例は日本で人体から取りw
さ れた般初のものである.戦後上述の3縄開口虫の発行史,分布a附属{性などについて多〈の研36) 北村精一等に依る 「糸状虫研究車J(195:2̲59).