'trew love'と'vertuouse loue' : 'Trewe love is lykened to sommer'の解釈について
著者 長沢 宏江
雑誌名 主流
号 31
ページ 64‑77
発行年 1969‑10‑30
権利 同志社大学英文学会
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000016734
trew love'
と
vertuouse loue'一‑'
Trewe love is lykened to sommer'の解釈について一一
長 沢 宏 江
And thus hit passed on frome Candylmas untyl! after Ester, that the moneth of May was com, whan every lusty harte begynnyth to blossom and to burgyne. For, lyke as trees and erbys burgenyth and florysshyth in May, in lyke wyse every lusty harte that ys ony maner of lover spryngith, bur司 genyth
,
buddyth,
and florysshyth in lusty dedis. For hit gyvyth unte al! lov巴rscorrayge,
that lusty moneth of May,
in somthynge to constrayne hym to som maner of thyng巴morethan in ony other monethe, for dyverce causys: for than al! erbys and treys renewyth a man and woman, and in lyke wyse lovers cal!yth to their mynde olde jantylnes and olde servyse, and many kynde dedes that was forgotyu by neclygence.For, lyke as wynt巴rrasure dothe allway arace and deface grene summer,
80 faryth hit by unstable love in man and woman, for in many persones there ys no stabilite, for we may se al! day, for a lytyll blaste of wyntres rasure, anone we shall deface and lay ap訂tetrew love, for lytyll or nowght, that coste muche thynge. Thys ys no wysedome nother no stabilite, but hit ys fyebl巴nesof nature and grete disworshyp
,
whosomever usyth thys.Therefore, lyke as May mon巴thflowryth and floryshyth in every mannes gardyne
,
so in lyk巴wyselat every man of worshyp florysh hys herte in thys worlde:五rsteunto God, and nexte unto the joy of them that he promysed hys feythe unto; for there was never worshypfull man nor worshypful! wom‑an but they loved one bettir than another; and worshyp in armys never
trew 10ve'と vertuouse10ue' 65 be foy1ed. But五rstereserve the honoure to God,丘ndsecundely thy quare11 muste com of thy lady. And such 10ve 1 ca11e vertuouse 10ve.
But nowadayes men cannat 10vesevennyght but they muste have all their desyres. That love may nat巴ndur巴 byreson, for where they bethe sone accorded and hasty, heete son巴keelyth. And ryght so faryth th巴10venowa.
dayes, sone hote sone co1de. Thys ys no stabilite. But the olde love was nat so. For men and women coude 10ve togidirs s巴venyerys, and no 1ycoures 1ustis was betwyxte them, and than was 10ve, trouthe and faythefu1nes
And so in 1yke wyse was used such 10ve in kynge Arthurs dayes.
もiVherefore1 1ykken love nowadayes unto sommer and wynter: for, lyke as th巴toneys co1de and the othir hote, so faryth 10v巴 nowaday巴s. And
therefore a11 y巴thatbe 10vers, ca11e unto youre remembraunce the moneth of May, 1yke as ded quene Gwenyver for whom 1 make here a 1yty11 mencion, that whyle she 1yved she was a trew 10ver, and therefor she had a good ende.
ここに掲げたのは SirThomas Ma10ryのLeJ.V1orte Darthurの中の一節で3 Caxton版では 'trewe10ve is lykened to sommer 'として有名な箇所である.春 の訪れと万物の復活,ことにそれを愛の季節ともみなすこの発想は,文学において 最もしばしばみられるものの一つであるから Maloryのこの箇所もよく思い起さ れるのであろう. しかしそれだけではあるまい. この一節は, なる程 Bradbrook
患
の言うようにフランスの歌の影響を受けているかもしれないし,何ら目新しいもの ではないが, 資料にない Ma10ry自身の加筆である. しかもその加筆で彼自身が 直接恋愛観を述べているとなると見落せないのである.ただし,ここに表われてい る恋愛観が, 彼の作品全体を支配していると考えることは出来ない. なぜなら,
Arthur物語は,幾つかの別個のエピソードが寄り集まった一大集成であるから.
TristramとIsoudのような情熱の愛もあれば" LancelotとGuinevereの宮廷愛 もある.また Asto1atの E1aineにみられるような思いつめた乙女の愛もあれば,
GarethとLionessの愛のようにめでたしで終るものもある Ma10ry自身も決し て一つの見方に固執していない.ただ,長く続いてきた物語の後でこの趣きの変わ
66 trew love'と vertuouseloue'
った一節に出会うと,読者はほっとして妙に嬉しい気がしてくるのである.
さて,この 'trewelove is lykened to sommer 'は有名だが,難解な箇所である.
しかしその難解さは,思想ではなくむしろ, Loomisの言う ac巴rtainproduct of Bo地
J'
のせいかとも思われるその論述の仕方にあるようである. 内容の点で 一番問題となるのは trewlove'と vertuouselove'の解釈であろう. Char1es MoormanとR.T. Daviesもそれぞれの著書でかなりの頁をこの一節にあてている. しかし両者の解釈には疑問があるので(少なくとも私にはそう思える入 この 小論でもう一度,この一節を精読し,両者の解釈と比べてみたいと思う.二人の解 釈をみる前に,まず本文を検討することにしよう.
この章は五つのパラグラフから成り立っている.第一パラグラフでは9 五月が訪 れ草木が芽生え出すと,人々の心もまたそれに刺激されて新鮮になり,愛の心を取 り戻し活動を始めるということが述べられていて,いわば序にあたる部分である.
愛の復活が自然のよみがえりに比せられて叙情的な趣きをもった箇所となっている.
しかしMaloryが強調しているのは愛の復活よりも愛の不変性である.なぜなら復 活ということは必ず死ということが前提になっているからである.しかし愛は死ん だり衰えたりしてはならなL
、
と彼は考えている.それが次の第二パラグラフで述 べられているのである.第二パラグラフではtrueloveとは何かということが問題にされている.Malory はそれを特徴づけるものとして stabi1itる'をあげている.true loveであるために は,少しのことでぐfora lytyll blaste of wyn紅 白 rasureう動揺したり冷めてし まうようなことがあってはならない.ここまでくると第一パラグラフの愛の復活で は不十分だということがはっきりする.愛をなおざりにしている人々にはまず愛の 復活を. なぜならこれは loverあるいは loverたらんとする人々に捧げられた一 節であるから( Andth巴reforeall ye that be lovers小 しかしーたび愛が復活し たなら,今度はそれが再び衰えることのないようにしなければならない.第一パラ グラフでは愛を美しい季節の訪れになぞらえたが,第二パラグラフでは愛における 季節的な要素を否定したことになる.第一パラグラフにおける愛は生物的でありp 一 決じて人間だけにみられる現象ではない. 自然のように気まぐれに移ろいゆく
('fyeblen邑sof nature うことのない愛こそ, 人間にふさわしい trueloveなので
trew love'と vertuouseloue' 67 ある.そのために loverはaman for all seasonsであり wysedome'を持つ
ことを要求されてくる.自然発生的な愛が人間的レベルにまで高められるべきだと Maloryは考えているのである.
しかし stabl巴な trueloveだけでもト分とはいえない. そのことが第三パラグ、
ラフで明らかになる.前半は第一パラグラフの繰り返しであるが3 このパラグラフ で重要なことは,婦人に対する trueloveといえども,神に対する愛に勝るもので あってはならないということである.まず第一に神を, しかる後に自分の婦人を,
というのが理想とされている.このことは読者に, あの theQuest of the Holy Grailでの Lancelotの失敗を思L、出iさせるのである.
Sir,' seyde the good man,hyde none olde synne frome me.' Truly,' seyde sir Launc巴lot,thatwere me full lothe to discover, for thys fourtene yere J never discoverd巴onethynge that 1 have used, and that may 1 now wyghte my shame and my disadventures.'
And than he tοlde there the good man all hys lyff, and how he had loved a quene unmesurabely and oute of mesure long巴.
, And all my grete dedis of armys that 1 have done for the moste party was for the quenys sake, and for hir sake wolde 1 do batayle were hit ryght other wronge. And never dud 1 batayle all only for Goddis sake
,
but for th巴wynneworship and to cause me the b巴ttir to be loved, and 1itill or nought 1 thanked never God of hit.'争
しかしそのためにMaloryは世俗の愛を否定しているのではない.前パラグラフ でtrueloveのあり方を述べているということは, true love (男女聞の〉そのもの を認めていることに他ならないし,またこのパラグラフでも,'for there was never worshypfull man nor worshypfull woman but they loved one bettir thah an圃
other'と断わっている. おそらしこのパラグラフを書いていた時, Maloryの頭 には LancelotとGuinevereの愛があったに違いない.二人の名はどこにも出て はいないが, for there was never
…
than another'という文で Lancelotが Guinevereを(また彼女が彼を〉愛した,ということに対して当然起るであろう非 難を予想して, あらかじめ予防線を張っているようである. しかし But五rste68 trew love'と vertuouseloue'
reserve the honoure to God,…thy lady'という箇所で彼は少し批判的になり,
二人の愛のどこに欠陥があったかをほのめかしている.しかし欠陥はあくまでほの めかされたにすぎない.なぜならこの点を強調し過ぎると,第四ならびに最後のパ ラグラフに述べることの意味がなくなってしまうからである.果して神への愛と婦 人への愛が両立するものであるかどうか,ということはしかし,ここでは別の問題 である.ただMaloryはそうするようにと言っているのである.まず第一に神を,
次に婦人を, 'And' such love 1 calle vertuouse love.'従ってこのパラグラフでは,
第二パラグラフの trueloveよりもさらに高次のvirtuousloveとはどんなものか が定義されている.しかし,この二種の愛は対立するものと解釈されてはいない.
virtuous loveは当然 trueloveをも含んだものである. 何よりもまず神を愛し,
そのとで婦人を愛すこと (virtuouslove), そしてその婦人に対する愛はもちろん stableでなければならない (truelove)というのである.
第四パラグラフは第三よりもむしろ第二パラグラフから続いているものである.
第二パラグラフで trueloveを述べたのであるが,現代の愛にはそれがないと彼は 嘆いている.そしてζこで現代(1470年頃)の愛と昔の愛との比較がなされている.
現代の愛は利那的('sone hote sone coldeうで何ら stabilite'がないという彼の 苦情は,いつの時代にも聞かれるもので,我々はironraceであるというあのベシ ミスティックで懐古的な歴史観と同じものである.たまたま中世の没落期に生き,
その後に来るべき新しい社会にも期待することが出来なかったMaloryが,こうい った意見を持ったのも当然かもしれない. いきおい彼は理想的な時代として,
Arthur王治世の時代を設定する.しかし 'inkynge Arthurs day巴'とは一体いつ のことであろうか? Geoffrey of MonmouthのHistoriaRegum Bη・'tanniaeに みえるあの Arthurの時代を指すのではあるまい. Arthurとおぼしき勇士が実際 にいたにせよ, Arthur物語の大部分はフィクションである. だから 'suchlove in kynge Arthurs dayeぶというのは,具体的には,今私 (Malory)が書いている この Arthur物語の中に出てくるような愛, ということなのである. そしてこの 箇所からも我々は, LancelotとGuinevereの愛が否定されてはいないことを知る のである. なぜなら, TristramとIsoudと並んで彼らは, Arthur王宮廷の模範 的な恋人たちとして, しばしば本文でも言及されている. この二人の愛を除いた
trew love'と vertuouseloue' 69 Arthur王時代の愛というものは考えられないのである.
第五パラグラフの前半は第四に続いて当時の愛の欠点を再び指摘している.しか し厳密に言えば,第四パラグラフと全く同じ欠点ではないように思える.というの は,第四では sonehote sone colde' (i. e. 'no stabilitるうが非難されているが,
これは愛の持続性の問題である.それに対して第五では愛の程度が問題になってい るはずだからである. はず,と言ったのは, Moloryはこの両者を混同しその混同 に彼自身気づいていないからである.Maloryは第五パラグラフの初めに, 現代の 愛はあたかも夏や冬のようだ,一方は熱く他方は冷たい,と言っている.この 'the tone ys colde and th巴otherhotピというのは第四パラグラフの sonehote sone colde'とは違った状態である.すなわち, Maloryは夏のように熱烈な愛も冬のよ
うにつれない愛もいけないと考えている.当然ここで五月の気候のように中庸を得 た愛が思い起されたはず、である. Caxtonの trewelove is lykened to sommer'
もここのことを指していると忠、われる.ただDaviesも指摘しているように som‑
mer'はMayとすべきところである. なぜなら,嘆かわしい現代 (1470年頃)の 愛が sommer'にたとえられていながらその sominer'が同時に trueloveにも 似ているというのはおかしいからである.しかしここで,おだやかな時期としての 五月であるべき所に,第一パラグラブの復活のイメージが重なってきている.重な ったばかりでなく Maloryの心の中ではむしろ後者のイメージの方が強くなり,
再び第一パラグラフの主題が繰り返されることになる.'And therefore all ye that be lovers, calle unto youre r巴membrauncethe monethe of May…・'五月のどう いうことを思い出すべきなのかF そのおだやかさを,そしてその再生力をである,
了度 Guinevereがそうしたようにぐlykeas ded quene Gwenyverう.Guinevere の名が出てきた時は,五月は完全に復活のイメージになってしまっている.すぐこ の後の章で彼女は五月祭の花つみに出かけているからである.彼女は五月の混和さ を思い起したので、はなく,その新鮮さに刺激されたのである.このように連想が連 想を呼んで論理が飛躍しているが,その飛躍によってかえってこのパラグラフは,
序の部分と呼応してしめくくりの効果をあげている.そしてこのパラグラフの最後 の部分は TheKnight of the Cartの話の導入部となっている.
更にここで問題となるのは, 'whyle she lyved she was a trew lover, and there‑
70 'trew 10ve'と vertuouse10ue'
for she had a good ende'である.果して彼女は stab1eな true10verであっ たろうかi' L如 氏10tは確かに true10verであった. がGuinevereに関しては その人物描写に必ずしも一貫性がないため, 我々は彼女を trueloverと呼ぶこと に跨踏する. しかし Vinaverの言うように,この Lel¥1orte Darthurに unity がないなら, あるいは umげがあっても比較的あいまいなものであるなら, この 疑問はずっと少なくなる.なぜ、なら,この trew10ver'という語は 'forwhom 1 make here a 1yty11 mencion 'の 'here'によって制限を受けている,すなわち,
この true10verは彼がこれから話そうとしている TheKnながofthe
α
rtの場 合を,特に指しているとみることが出来るからである .Le Morte Darthztrでは,Guinevereは最初は優しい婦人として登場してくる. ことに Isoudの愛に同情を 寄せ姉のように彼女の力になっている.それが次第に気ままな婦人となり, Lance. 10tはそのために気がふれもする .The Boo是ofSir Launcelot and Queen Guin. evereの中でも ,The Poisoned Apple, The Fair Maid of Astolat, The Great
,Tourフzament共に彼女は決して理想的な 10verとしては描かれてはいない.
'Thys ys nat the五rstetyme,' seyd巴sirLaunce10t,that ye have ben dis‑ p1ese with me cause1es. But, madam, ever 1 muste suffir you, but what sorow that 1 endure, ye take no forse
o
.'それにもかかわらず,この trewe10ve is 1ykened to sommer'の一節を冒頭にも つ TheK刃包htof the Cart'では Guinevereは前三つのエピソードとは違っ た面をみせている. Chr針iende Troyesの話では, 彼女は Lance10tの屈辱を忍 んでの救出を理解しようとしない.しかしMa10ryでは,荷馬車に乗ってかけつけ るLance10tをみて,
A1as!' seyd巴thequene,now 1 may preve and se that we11 ys that crea・
ture that hath a trusty frynd巴.A ha!, seyde quene Gwenyver,1 se well that ye were harde bestad whan y巴ryde in a charyote.' And than she rebuked that 1ady that 1ykened sir Launce10t to ryde in a charyote to hangynge: Forsothe hit was fow1巴‑mowthed,'seyde the quene,and evy11 1ykened, so for to lyken th巴mostenoble knyght of the worlde unto such a shame full dethe. A! Jesu de妊endehym and kepe hym,' sayde the quene,
tr右w love'と vertuouseloue' 71 'frome all myschevous ende!' 8
と彼のことを思いやる.このような優しさは久しくなかったことである.このエピ ソードでは Guinevereはtrueloverの名に背かない.それに3 たとえ彼女の愛に 多少の欠点があったにじても,それが問題にならない程当時 (1470年頃〉の愛は乱 れていたため2 彼らを教化するため多少の誇張をしても良い手本を示す必要がある,
とMaloryは感じたのではなかろうか. だから andtherefor she had a good end巴'という文まで付け加えたとも考えられる.Guinevereの死はずっと後,第八 書の最後まで待たねばならない.そんな先のことを今ここで述べなくてもよかった のである.それに彼女は仕ueloverであったから 'goodende'だったのでも決し てない.
And yet 1 truste, thorow Goddis grace and thorow Hys Passion of Hys woundis wyde, that aftir my deth 1 may have a syght of the blyssed face of Cryste Jesu, and on Doomesday to sytt巴 on Hys ryght syde; for as
事
s:ynfull as ever 1 was
,
now ar sのmtesin hevyn. (下線筆者〕それにもかかわらず彼女の goodende'に触れているのは, 人々に反省を促すた めで, 生きている間位uelov引であれば, どんなに良い死を迎えることが出来る かと,ここでその報いを示したと考えられるのである.
以上,この一節の内容についてみてきた.しかし初めに述べたように,論述の仕 方にも不明瞭なところがあるから,その点も少しみておきたい.脇道にそれるよう
にみえるかもしれないが,この節のシンタヅクスをしっかり把握しておくこともこ の箇所の誤釈を避けると思うからである.
第一パラグラフでは 'everylusty harte,' in lyke wyse,' 'moneth of May.'
, tr伐s,' ,巴rbys,''burg巴nyth'といった語の繰り返しが多いことにすぐ気がつく.
以下のパラグラブにも言えることだが Maloryの論述にはある癖があり ab a' b' という形式をふむことが多い. thatthe moneth of May was com'をaとする と, whan evぽY lusty harte
…
to burgyne'が bにあたる. そしてすぐ次の 'lyke as trees…
in May'が再びa'となり, 'in lyke wyse every lusty harte…
in lusty dedis'がb'となる.更に次の forhit gyvyth
…
corrayg巴'はその後の for than all erbys…
woman'と同じことで, 共に上の ab a' b'と同工異曲の72 'trew love'と vertuouseloue'
ものである.この形式は第三ノミラグラフにもみられる.'80 in 匂Kewyse lat
…
in thys worlde'をaとすると, 五rst疋 untoGod…
hys feythe unto'は bの部分 になる.そして次の forthere was never worshypfull man…
than another'はaの変形a'とみることができ, Butfirste reserve
…
thy lady'はb'となる.しかしこの ab a' b'というレトリックは説得力に欠けるきらいがある.一つ一つ の内容に肉づけがなされる前に次へ進み,再び、元に帰るという思考過程を辿ってい て,そのために言葉は浅く表面的に流れやすい.Bradbrookがこの一節はフランス の歌に負うているかもしれないと言っているのは,あるいは,この思考のリズムに 注目したためではなかろうか.確かにこれは歌やパラッドに相応しい形式である.
言わんとすることは少なく単純でありながら,言い方を変えて何度も繰り返される のである.
接続詞の使用(特に for)が多いこともまたこの一節を読んで気のつくことであ る.中にはほとんど意味のないものもある.がこれもまたab a' b'形式と関係が あるのではなかろうか.aba'b'では前半abで言わんとすることはすでに述べ られていて, a' b'はいわば装飾である.結論が先に出てしまうわけだから, forと いう接続詞が多くなるのも当然である.a b a' b'形式は知的な論文よりも歌に相応 しいということは先に述べた. a bをースタンザとすれば, a' b'は第二スタンザ として abから独立させることも出来る.例えば第一パラグラフを
The moneth of May was com,
Whan巴verylusty harte begynnyth to blossom and burgyn巴.
Lyke as trees and erbys burgenyth and florysshyth in May,
In lyke wyse every lusty harte that ys ony maner of 10γer spryngith, burgenyth, buddyth, and丑orysshythin lusty dedis.
と区切れば接続詞はなくてす
t r .
しかしここの箇所は歌ではない.当然前半から後 半への移行をなめらかにしなければならない.体裁を整えるためにも,なくていい あるいは不正確な接続詞が置かれたりするのである.こういった文法的不正確さも,この一節を quaint'にしている原因である.
以上 Trewelove is lykened to sommer'を私は内容と形式の面から検討して
trew love'と vertuouseloue' 73 きたが,これを前記二人の批評家の解釈と比較してみたL、と思う.
Charles Moormanは
Vertuouse" love is the way things might have b巴en:its virtues are sta. bility and chastity
…
Courtly love is the way things have gone: its vices are instability (a term continually applied to Lancelot)and adulter31 と述べている.しかし, stabilityはむしろ trueloveの特質である.stabiliげ が な いと true10veをなおざりにすることにもなる.ゴ
orin many persones there ys no stabilite,…anon we shall deface and lay aparte trew love …'それに And such love 1 calle vertuouse love'の一文は第三パラグラフ以後に及ぶものではな い.第三の中でも,第一に神その次に自分の婦人ということを特に指しているので ある 'But五rsteres巴rv巴thehonoure to God…
and such 10ve 1 calle vertuouselove.'この such'はすぐ前の状態を指すと解釈するのが一番自然である virtuous loveと対立するものとして宮廷愛があげられているのもどうであろうか.Malory は宮廷愛が悪いとは言っていない.彼の言う true10veは宮廷愛をも含みうるもの である. なぜなら宮廷愛でも stab1eでありうるからだ virtuo旧s10veの長所を stabilityとしたため, それと対立させた宮廷愛の短所は当然 instabilityとMoor‑
manは考えたのかもしれないが, これは正確ではない. 非難されているのは s路町
bi1ityを欠いた当時 (1470年頃〕の愛なのである.'a term continually applied to Lance10t'という語句がここに入れられているのにも私は疑問をもっ. これでは宮 廷愛の欠点は instabilityで,その欠点を具現化したものがLancelotだということ になってしまう.しかし LelWorte Darthurのどごを読んでも,彼ほどstableな 10verはめったにないのである.それにstabilityの内容についても考えてみなけれ ばならない.これは五rmnessとか p目'manen同 steadinessの意味をもつが,何に 対して stableかによって意味する事柄は変わってくるからである.確かに Lance‑ 10tは unstab1eだと非難されているが,果して彼はすべてにおいてそのような傾 向があるのだろうか? そうではない.彼が unstab1eなのは神に対してである.
(私はここで円卓崩壊後の Lancelotの変化を度外視している. そこでは神に対す る彼の態度は異なっているからである.)
…
for he hath takyn upon hym to forsake synne. And ner官 werethat he74 trew love'と vertuous巴loue'
ys nat stable, but by hys thoughte he ys lyckly to turne agayne, he sholde be n巴xt疋 toench巴vehit sau鉦sir Galahad, hys sonne: but God knowith
l申
hys thought and hys unstablenesse. (下線筆者〉
ここではっきりと Lancelotのinstabili tyの内容がわかる hys thought(e)'と は彼の Guinevereに対する愛である.幾度も誓いをたてながら, 彼女への愛ゆえ に彼の信仰はぐらつきやすい.第八書に LancelotとGuinevereが尼僧院で最後 の別れをする場面がある. そこで LancelotはGuinevereの固い決心を知り, 自 分も彼女と同じ信仰生活を送ることを誓う.それに対して彼女は,
A, sir Launcelot, if you woll do so, hold thy promyse! But I may never
lU
belev巴you... but that ye woll turne to the worlde agayne.'
と答えているが,これも Lancelotの信仰における insぬbilityを述べたものである.
Lancelotの場合は,一方における stabilityが必然的に他方におけるinstabilityと なっているのである. だから, この trewelove is lykenedωsommer'で愛の instabilityが非難されているにしても, それは Moormanが言及しているように Lancelotのinstabilityと同じである, と考えることは出来ない.先に引用した Moormanの解おRはその後こう続いている.
And it is connected througho岨tMalory's book with a debased chivalry. To Malory's mind
,
the olde love was nat so" (1120). The whole story of Lancelot and Guinevere is thus seen by Malory as a gradual debas巴ment of what might have been vertuouse" love into the adult芯rousrelationship he obse官vedin his sources1$ .MoormanはLancelotとGuinevereの愛が次第に低下していったとみて,それを old loveと対立させている.しかし彼のようにここに oldlove was nat so 'の一 文を引き合いに出すと本文を誤解する恐れがある.第四パラグラフをもう一度みて みよう.Maloryは当時の愛を非難した後, 'But the olde love was nat so'と言 い,その oldloveの良さを語って Andso in lyke wyse was used such love in kynge Arthurs days'と付け加えている.当然ここでは, old love = love in king Arthur's daysと考えてもよい. そしてその Arthur王時代の愛の中に Lancelot とGuinevereの愛も入るのだから, old love
=
their loveにもなる.彼らの愛がtrew lov巴'と V巴rtuouseloue' 75 円卓崩壊のー原因であったにしても, この一節では oldlove (including their love) vs. nowaday's (c 1470司lov巴の方が強調されているのである.次に Lance‑ lotは Guinevereと不義を犯すまでは theperfect embodim巴ntof young ver・
l事
tuouse" love'であった,という彼の解釈も,神をまず愛し次に婦人をというのが virtuous loveなのだから,そして Lancelot、にはそれが出来なかったのだから9
young virtuous love'ではなくて youngtrue love'とすべきである.Lanω10t と比較して 'Gar拙 isa "vertu叩巴"ra伽 thana川 u均 "love:,というの も,私は MoormanがMaloryのいう virtuousの意味を正しく解釈していないか らだと思う.確かに GarethとLionessの愛は宮廷風ではない.一般に宮廷愛に は初めがあっても終わりがない.その愛の行きつく先は一一いつまでも続く忠誠で ある.結婚という報いも期待できない.しかしながら Garethの愛は立派に報いを えている.彼はまれにみる忍耐の人であった (forhe is curtyese and mylde, and
1!i)
the most 閲 覧eryngeman that ever 1 mette withall).そのために彼は最後には愛 する婦人と結婚している.だから決して宮廷風ではない. しかし彼を virtuousと
いうことも出来ない.彼もまた 五rsteunto God'の人ではないからである.
次に, R. T. Daviesの解釈はどうであろうかF 彼もまたvirtuousloveとtrue loveを混同しているようである.彼は the old‑fashioned love he (Malory) call
1申
vertuouse " ,と言っているが, Maloryは決してそうは言っていない.しかしなぜ Daviesがそう解釈したかは推察することが出来る.というのは,第三パラグラフの 最後 Andsuch love 1 calle vertuouse love'の後に, Butnowadayes men cannat love
…
desyres'以下第四パラグラフの文が続いているからである.おそらくDavies は But'という接続詞にとらわれたのだろう. しかしこの But'はすぐ前の 文('and such love... vertuouse love うをうけているのではなく,本文解釈の所で 述べたように,第二パラグラフから続いているものである.そうでなければおかし い. But'という語にもかかわらず,以下第四パラグラフでは virtuousloveに背 くようなことは何も書かれていないからである. Andryght so faryth the love nowadays, sone hote sone coJde. Thys ys no stabilite'というのは virtuous loveではなく trueloveに背くものである. しかし Thys ys no stabilitる. But the olde love was nat 80'の But'は充分生きている. だから oldloveには76 trew love'と vertuouselou巴 '
stabilityがあったことになる.このような理由で, Daviesの theold fashioned love … vertuouse " ,も e vertuouse " ,を true'に直さなければいけない.彼 が virtuousloveは本来stableだと言っているのもこの virtuousはtrueとすべ き所である.そして stabilityということに関しては彼も Moormanと同じように,
The important word is stabylite. Malory presents the lack of it as an es.
1'lI sential in Lancelot's own situation.
と述べている.DaviesはLancelotのinstabilityをどうみているのだろうか. し かしこれだけではよくわからない. その他, 彼は howeverand to what extent Malory may have seen the long love of Gw巴nyverand Lancelot as vertuouse
1$
love," Gwenyver in the end renounces it'と言っているが,ここの v巴rtuouse", も true'と変えたい.virtuous loveは彼らがあきらめたものではなく,むしろ得 たものなのである.いかに彼らお互いの愛が trueなものであろうと, その愛にと らわれて他を顧みることがなかったために,最後に彼与は深く反省し神につかえる 生活をするのである.彼らが virtuousloverで, 五月の気候のように行き過ぎる ことがなかったなら,決して r巴nouncesit'ということにはならなかったろう.
この様に Moorman,Daviesと私の解釈の相違は主に trueloveとvirtuous loveの解釈の相違から起っている. そして Maloryのいうこの二種の愛について の私自身の解釈はすでに述べてきたので,ここでは改めて繰り返さないことにする.
この両者以外の批評家はどうみているかを知りたいと思うけれど,有名な箇所でほ とんどの批評家がふれているにもかかわらず,ここで問題にしてきた点の解釈まで はなされていない. そんな中で, MoormanとDaviesはこの箇所にかなり言及し ている.そしてたまたま両者の解釈は似ている(全く同じではないが)のである.
多数決でいけば私の解釈の方が間違っているかもしれない.まして研究歴の点でも 比べものにはならない.しかし私は,自分の解釈と異なった解釈が一人ではなく二 人の批評家によってなされているために,むしろこの小論を試みてみたのである.
注
1) Thomas Malory, The協Torksof Thomas Malory, ed. Eugene Vinaver (London: Oxford University Press, 1964), p. 790‑1.以下 Maloryからの引用
trew love'と vertuouseloue' 77 はこの版による.そして脚注では耳匂おと略することにする.
2) M. C. Bradbrook, Si・'rThomas Malory, (London: Longm且ns,Green and Co., 1958), p. 16.
3) R. S. Loomis The Developmentザ ArthurianRomance, (London: Hutch咽
inson University Library
,
1963),
p. 175. 4) Works, p. 655‑7.5) Cf. R. T. Davies,Th巴WorshipfulWay in Malory," Patterns of Love and 白urtesy,ed. John Lawlor, (London: Edward Arnold Ltd., 1966), p. 163. 6) Works, p. 782.
7) lbid., p. 797. 8) lbid., p. 876.
9) Charles Moorman
,
The Book of Kyng Arthur,
(n. p.: University of Kentucky Pre田"1965), p. 17.10) Works, p. 685. 11) lbid.
,
p. 876‑7.12) Charl巴sMoorman
,
The Book of Kyng Arthur,
p. 17. 13) lbid.,
p. 18.14) lbid., p. 21. 15) Worお, p. 244.
16) R. T. Davi同 TheWorshipful Way in Malory
, "
p. 162. この論文は最 初 S.P. LIII (1956)に Malory's vertuouselove 川として収録されていたものとほとんど同じものである.
17) lbid.