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大正期における友子の労働組合化について

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大正期における友子の労働組合化について

著者 村串 仁三郎

出版者 法政大学経済学部学会

雑誌名 経済志林

巻 62

号 2

ページ 1‑48

発行年 1994‑09‑30

URL http://doi.org/10.15002/00008581

(2)

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一全国坑夫組合と友子1全国坑夫組合の形成と友子の労働組合への成長転化11全国坑夫組合(本部)の方針にみる友子の労働組合化I2各鉱山・炭鉱における友子の全国坑夫組合支部への成長転化a足尾銅山における友子の労働組合化b夕張炭鉱における友子の労働組合化c千代田炭坑における友子の労働組合化こその他1神岡鉱山における友子の一時的な労働組合化2阿仁鉱山における友子の一時的な労働組合化 (よ目 がし き次

大正期における友子の労働組合化について

村串仁三郎

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大逆事件以降、激しい弾圧によって消滅させられた労働組合運動は、暗い谷間をぬけて大正期に入って、再び芽ぶきはじめた。大正元年に友愛会が組織され、三年後には、各地の鉱山・炭鉱に友愛会の分会や支部がつくられた。特に常磐地方の炭鉱では、友愛会の活動が活発に行われた。大正三年には入山採炭の内郷で数十名だった友愛(1) 会会員は、大正五年一○月には、常磐地方全体で一一六一一一名にまで拡大した。こうした労働組合の発展の中で、友

子がどのような役割を果たしたか、わたくしには大変興味深いのだが、わたくしのこれまでの研究では、今のところ友愛会の組織化や活動のために、友子が何らかの積極的な役割を果たしたことを示す資料を発見することはでき

なかった。しかしこの点に関する調査・研究は、今後も続けていきたいと考えている。しかし大正八年に入ると、労働組合の形成や活動に関連して、友子はきわめて注目すべき役割を果たしたことが明らかになる。例えば、三井鉱山の『砂川鉱業所沿革史』は、友子「組合は、労務管理上特二注目サレタルハ、大(2) 正八、九年労働組合運動熾烈ナリシ頃鈴木文治一派ノ友愛会ノ|支柱トナリ、或ハ全国坑夫組ムロヲ形成セシ」と指摘し、友子が、労働組合運動に大きく係わり、それが企業の労務管理上、大いに注目されたことを示している。(3) わたくしは、すでに明治時代における友子の労働組合化という問題を提起してある。小聿輌の課題は、大正期の友子の実態と構造を解明するという一般的な課題を果たすための一作業として、大正期の友子が、この労働組合の形成にどのように係わったか、直接的にいえば、友子が労働組合にどのように、あるいはどの程度転化していったか、ということを明らかにすることである。幸いにも、大正八年頃の若干の資料は、僅かではあるが、わたくしの はしがき

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仮説を証明してくれる。

(1) 全国坑夫組合は、大正八年九月に結成された。この特異な鉱夫の労働組合は、友子の労働組合化のテーマに1こつ 注(1)渡部徹「友愛会の組織の実態」、『人文学報』一七号、二四頁の表から集計した。(2)三井鉱山稿本『砂川鉱業所沿革史」、’五頁。(3)かつてわたくしは、「友子は、一定の状況の下で、目から鉱夫の待遇改善を目的意識的に目指すことによって、労働組合に成長転化しようとすることもあった」と述べ、「このような友子の動き」を「友子の労働組合化」という概念をもちいて理解することを提起した。なお友子の労働組合化の現象は、第一の形態としては、「鉱夫が、友子組織を基盤にしたり背景にしたりして、一時的に賃金や労働条件などの待遇改善のための闘争を行う場合である」。第二の形態としては、|時的にだが「鉱夫の待遇改善闘争に、友子組織が争議主体として直接現われてくる場合である」。わたくしは、前者を消極的な友子の一時的な労働組合化、後者を友子の積極的な一時的な労働組合化と呼んだ。第三の形態としては、「友子内の有力メンバーが、|定の状況の下で、友子を母体として労働組合を組織しようとする場合である」。この傾向を「部分的な友子の労働組合化」と呼んだ。第四の形態としては、「友子が、一定の状況の下で全体として労働組合としての活動を目指すようになる場合である」。第三、第四の形態の友子の労働組合化をわたくしは、「友子の労働組合への成長転化」と呼んだ。拙著『日本の伝統的労資関係l友子制度史の研究」、三五一一一’五頁。1全国坑夫組合の形成と友子の労働組合への成長転化

11全国坑夫組合(本部)の方針にみる友子の労働組合化I 全国坑夫組合と友子

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(4) 361

二村一夫氏は、こうして組織された全国坑夫組合は、「鉱山労働者の間に古くから存在した自主的共済組織であ

る「友子同盟』を手がかりにして組織化を企て」られた、あるいは「友子同盟を基盤に組織化をすすめようとし(3) た」と指摘する。そして全国坑夫組合を、友子を「手がかりにして組織」しようとした理由として、組合組織化の(4) 中心的指導者であった佐野学が、「穏健な同職労働組〈ロ」を目指したことをあげている。では、全国坑夫組合の直接の構想者は、どのように坑夫組合を組織しようとしたのであろうか。全国坑夫組合の有力な指導者であった坂口義治は、後に回顧して次のように述べている。

「全国坑夫組合は、鉱山労働者特有の歴史精神たる『坑夫山中友子交際』の友交精神より宣伝の端緒を得んとし

たのであった。もち論此『坑夫山中友子交際』なるものは徳川三百年伝来の坑夫間の歴史的遺風にして、他の労働者間に見ることの出来ざる相互扶助及び自治の大精神である。然れども今日の新社会に於て全く旧くして、全々新組織に更ふべきを感じたのである。さればこそ組合は当時左の如き五大事業の完成を旗下に先づ、此『友子交際』(5) を結びつけ旧組織より新組織へ:…・移動団結の目的を達するの方法に及んだのである。」 て最適の材料をわれわれに提供してくれる。ここでは、この組合についての二村一夫氏の研究を手がかりに、全国坑夫組合と友子の関係を見ていきたい。(2) 一一村氏の研究によれば、全国坑夫組ムロは、次のような事情で組織された。すなわち、足尾銅山の坑夫高島信次は、大正八年初めに友愛会の知識人運動家(麻生久、佐野学ら)と相談して、鉱夫の組織化を企図したが、全国坑夫組合は、最終的に北海道夕張の坂口義治、足尾銅山の田山正、中村英作らの鉱夫たちと、当時の社会運動家の佐野学を中心に、当時東大出身の弁護士河合栄蔵や新人会創設者の一人であった石渡春雄などのインテリたちによっ野学を中心に、て組織された。

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ということである。(6) では、全国坑夫組合の「宣一一一一口書」、「趣意書」、「会則」を詳しく分析してみよう。坑夫組合の「盲一一一一一口書」では、ま

ず坑夫の同職組合の設立を企図し、「労働者の団結は先ず同職労働者の団結を以て第一条件とす」、「我が全国坑夫組合が堅く会員を坑夫に限る所以也」と主張している。

すでにわたくしがこれまで強調してきたように、友子は、単なる相互扶助や共済組合ではなく、労働組合に至ら

ないクラフト・ギルド的な鉱夫の同職組合であった。全国坑夫組合の創設者たちは、明治時代の坑夫の労働組合創

設者と同様に、この友子に目をつけて、友子を統合して労働組合に再編しようとしたのである。こうした意図は、「宣言書」の次の指摘でも明白である。「全国坑夫組合は全日本の鉱山及炭山に労働する坑夫の総同盟也」、「全国坑夫組合は諸君の中央機関として生れたり」と。これは、鉱夫を単に全国組織に統合することを呼びかけただけのようにもとれるが、必ずしもそうでは このような組織構想は、わたくしにいわせれば、単に友子を「手がかり」に組合を組織するという、二村氏のような表現では不十分である。また「友子同盟を基盤に組織化」をすすめたという表現も、友子の役割を十分に評価していないように感じられる。わたくしは、この方針は、基本的に各地の鉱山の友子を統合して労働組合に改編していこうとする構想であったと理解したい。わたくしの言い方では、友子を労働組合に成長転化させようとした、 二村氏のいう友子を「手がかり」にした組織化の企ての概要が、ここでは実に簡潔に表現されている。要点を改めて指摘すれば、|、伝統的な友子の精神を宣伝の端緒にする、二、しかし友子は、古いので変更すべきである、三、友子の事業をある程度引き継ぐ(これは五大事業の完成のこと)、四、友子を統合して新組織に再編する、ということである。

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うか。 「趣意書」は、て成立した」とめられている。

「趣意書」は、この点について次のように指摘している。「同職労働者の団体を作」るため「全国坑夫組合は此点に鑑み、会員を坑夫に限り、而も日本の坑夫全部を会員とする組織をたてたのである」。ここで坑夫とは、二村氏の指摘しているように、友子たちが主に加入する「採鉱夫」だけを指しているのではな ここでは、全国坑夫組合が目いっぱい友子の伝統を賞賛し、友子の坑夫に訴え、友子の労働組合化を呼びかけている。では創設者たちが、同職組合を組織すると言うとき、組合員の加入資格をどのように見ていたのである する。」 「趣意書」は続けて言う。

「坑夫は他の労働者と異りて、三百年来の長い歴史を有しているのである。さうして互に助け合うところの相互扶助の大精神が他の何れの労働者よりも発達している。また自治の精神が非常に坑夫間に発達している。奉願帳制度、浪人、山中箱元、大当番の制度の如きは此坑夫間の美しき精神の発露である。……前に述べたように労働者は自己の地位を高めるために団結を作らねばならぬが、其団結も相互扶助及び自治の

二大精神ありてこそ最も完全に為し遂げらる&のである。……坑夫諸君は今後、益々此二大精神を発揮して、堅き団結を作り、他の労働者階級を鼓舞する尊き氏名を有 觜「わが全国坑夫組合は此新時代の潮流に従ひ、全国友子諸君の為めに、また他の労働者の先駆としと明一一一一口している。これは、明らかに全国各地の友子を中央機関に統合したいという組織者の期待が込

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が、坂口義治の指摘‐をよく示してくれる。

「趣意書」は、「全国坑夫組合は……全国友子譜君の為めに……成立した」と友子に呼びかけた後、全国坑夫組合の活動として次のような「五大事業」を掲げている。第一は、「共済」事業である。「趣意書」は、鉱山の危険な作業が「古くより奉願帳」を生んだが、しかしこれに

は、「重病の人が一々山を尋ねたりしていては却って病気を重く」したり、「小さい山では此奉願帳のため中々の人 (7) く、鉱夫一般を指していることは明らかである。と一一一一口うのは、実際の組合員の構成を見ると、友子には絶対加入できなかった女性が組合員になっているし、友子に加入しなかった不熟練鉱夫も組合に加入していたからである。「会則」第一一一章「会員権利義務」は、「正会員」として「本組合ノ主義理想並一一会則二賛同シタル全国各地ノ自坑夫、渡り坑夫、村方坑夫及ピ坑上労働者」としている。自坑夫、渡り坑夫とは友子の二種の坑夫であり、要するに友子鉱夫のことである。他方村方坑夫とは、規約が指摘しているように「自坑夫渡り坑夫以外ノ坑内労働者ヲ調う」。このように全国坑夫組合は、友子以外の坑内夫、坑外夫を組織しようとしていたことは明らかである。

その限りで、全国坑夫組合の組織構想には矛盾がある。一方では、友子を重視して、友子を基礎に、または友子を統合して労働組合とすることを構想しながら、他方では、女性や不熟練の鉱夫をも含めた鉱夫組合を構想してい(8) る。前者を純化したものが、熟練坑夫の同職坑夫労働組〈口であるとすれば、鉱山に働く鉱夫全体を組織することを目指せば、産業別の鉱夫組合ということになる。従って全国坑夫組合は、組織論的にはその中間に位置した矛盾し(9) た存在であったが、現実的には友子を中、心として組織化をはかっていたといえよう。

さて全国坑夫組合は、組合活動としてどのような活動を構想したのであろうか。この点の解明は、全国坑夫組合が、坂口義治の指摘したように、如何に友子の活動・事業を引継ぎ、それを看板にして友子を再編しようとしたか

(9)

(8) 357 障する。 「会則」の「第二章本組合の事業」の「共済部」のところでは、九条にわたって共済活動を詳しく規定し、前記のことを詳しく証明している。その要点を記せば、第一に、本部は、支部の作成した証明書を所持した者(これ(、)は奉願帳に準じたもの)に医療収容等完全な保護をこうずる・この点は「趣意聿曰」に記された通りである。第二に、本組合に加入しない鉱山の友子が、作成した奉願帳を所持せる鉱夫にたいしては、本部の保護は与えない。ただし「平浪人」として交際はする。前者は、友子が友子から脱して労働組合に変化しようとしていることを示し、また後者は、労働組合に成長した友子が、古い友子の慣習を維持しようとしていることを示して興味深い。第三に、被収容者が死亡した時は、本人の郷里、または支部に通知し、遺骨受取人に送付するか、受取人のない場合は本部が埋葬する。第四に、本組合員が死亡し妻子の生活が困難になった場合は、本部に収容して適当な職を保 費がかかる」と指摘している。そして次のように言う。「そこで我が全国坑夫組合では本組合に加盟した山で作った証明書を持参する重病人は本部で引受け完全な収容と保護とに任じる」と。「其証明書は旧慣上、奉願帳や寄付帳の形式であってもよい。しかし軽微の病人まで一々引受ける事は不可能であるから、旧慣に従ひ発病地にて治療を加ふるも全治せざる者に限る」と。ここでは、友子の奉願帳制度の欠陥を指摘し、奉願帳制度に基づき、重病人を本部で世話するとしている。これは、労働組合が、友子の共済制度の一部を労働組合の共済制度に組入れ、しかもその欠点を克服しようとする画期的な提案であった。これは、労働組合が、活動の面でも友子を労働組合化しようとする意図を如実に示すものである。

以上のように、全国坑夫組合の共済活動の構想は、非常に興味深い。しかし一一村氏が分析しているように、この

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(、)構想は、全体として実行された気配はない。しかし、わたくしは、この構想を高く評価したい。‐というのは、全国

、j

Ⅲ坑夫組合が、もし一一万名とか一一一万名とかの多数の鉱夫を組織出来たとすれば、本部による重病人の保護(恐らく病

院の経営にまでいくと思われる)や遺族のための職業紹介なども可能になったに違いないと考えるからである。残念ながら全国坑夫組合は、思ったほど発展しなかった。ただここで確認したいことは、全国坑夫組合は、友子を組

て織化するために、友子の伝統的な共済活動に注目し、それを引継ぎ、発展させようとしたことである。 ゴ第二の事業は、法律部の活動である。これは、会員の法的権利を守り、災害などに法的な処置をはかろうとする

}」

伯ものである。これは、友子‐とは特に関係のないことである。 鵬第三の事業は、「職業紹介」事業である・これは、第一に「各鉱山卜連絡ヲトリ平素労働調査ヲ行上失業シタル 胸会員二対シ無料ニテ新雇用者ヲ紹介」することである。第一一に、「失業シタル会員二」対し新しい就職先への「旅

好費ヲ支給」することを「期ス」、また第一一一に、「失業シタル会員二対シ失業手当金ヲ支出」することを「期ス」とあ

るる。後の一一項は、将来の希望を表している。片U

ぉこれらの職業紹介の活動は、従来の友子がやってきたこ‐とであって、全国坑夫組合が行うとしても、驚くにあた

刷らない。既にわたくしが詳しく分析したように、友子の鉱夫浪人、一宿一飯、浪人への附く口料の給付、賎別などの 大制度・慣行は、鉱夫の移動を保障し、職業紹介機能を果たしてきた・友子は、直接に失業手当制度を持ってはいな

かったが、失業中の移動期間、各鉱山の友子を頼って何とか生活出来たことに注目しなければならない。失業手当

の創設は、そうした友子の共済制度を一層近代的なレベルに高めようとしたものと評することができる。6第四の事業は、労働争議の調停である。これは、当時の労働組合が、争議主体であるより、仲介者として争議に

3 5

係わろうとした性格を示している。これは、直接友子とは関係がない}」とである。

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第五の事業は、「教育」である。「宣一一一一口」は、「全坑夫階級の地位と知識と技術との向上のために……五大事業」を行うと指摘している。鉱夫の労働組合が、そうした鉱夫教育に関心を示したことにまず注目しておきたい。しかし「趣意書」でも「会則」でも「教育」事業としては、一般に会員の自覚とか坑夫の子弟の普通教育や高等教育の

助成をうたっているだけで、特に坑夫の技能教育を強調していない。全国坑夫組合が、友子の労働組合化をはかり、同職労働組合を目指したにもかかわらず、坑夫の技能教育、熟練教育に関心を示さなかったのは、わたくしには、少々理解し難い。それは、組合の構想者たちが、大正八年にはもはや友子が鉱夫の技能養成機能を全く待たなくてよい、あるいは全く失ってしまった、と考えていたからなのだろうか。当時鉱夫の技能教育が不要だったわけではない。現に鉱業所は、友子とは別に、鉱夫の機能教育に取り組んでいる。全国坑夫組合が、少なくとも友子の熟練鉱夫を中心にした同職労働組合を目指すのであれば、組合による鉱夫の特別な技能教育に正面から取り組むべき方針を示すべきであったろう。ともあれ、全国坑夫組合が、こうした友子の一般的な教育機能を引き継ごうとしていることは、この組合が友子の労働組合化をはかろうとしていた事を示すものと理解したい。以上のように、全国坑夫組合の活動は、友子的な活動を継承しようとしており、その限りでこの労働組合が、友子を組合化しようとしたものであることをよく示していると言えよう。更に、この組合の支部組織と友子の関係を見てみよう。支部規定は、「旧称山中箱元ハ支部長二大当番ハ幹事長二当番頭ハ幹事二変更ス」とし、さらに「但シ便宜上強ヒテ是一一依ルヲ要セズ」と規定している。これなどは、組

合の構想者が、如何に率直に友子を労働組合に転化しようとしたかを実によく示している。また友子の最も重要な活動の一つである取立制度についてみよう。「会則」の支部に関する規約は、「坑夫取立ノ

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大正期における友子の労働組合化について (〃)

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しかし問題は、こうした方針が実際にどのように実践され、その際に労働組合と友子がどのような関係をもった

かである。次にわれわれは、きわめて限られた、そして少ない資料をもとにではあるが、全国坑夫組合支部と友子

の関係を具体的にみることにしたい。 した。 以上、簡単に全国坑夫組合の方針をみてきたが、この鉱夫労働組合が、他の友愛会鉱山部、大日本鉱山労働同盟と違って、組織基盤を友子に置き、かつ友子を統合することによって組織化をはかろうとした特異な存在だったことがわかった。これは、友子の側からみれば、友子が一定の状況のもとで、労働組合に成長転化することを意味 際ハ一カ月以前一一本部へ通知シ取立ノ後ハ免状一部ヲ本部二送付スヘシ」(第六十三条)と規定している。これは、組合が、友子の取立制度を継承し、維持しようとしたことを示している。また支部は、「土地ノ状況別交際ノ事情一一依り本部へ送付スヘキ会費額以外ノ会費ヲ徴収」することを認めている。これは、労働組合支部が、支部に関連している友子の活動費を独自に認めたものと理解できる。全国坑夫組合は、友子を統合しながら、従来の友子を維持しようとする配慮を示している。支部に関する規定は鶏あたかも全国坑夫組合の支部が、実に友子そのものであることを想定しているとの理解をわれわれに与えている。

注(1)全国坑夫組合の形成と活動については、すでに一一村一夫氏の優れた研究「全国坑夫組合の組織と活動(一)I(三)」(法政大学大原社会問題研究所『資料室報』z・」①P田P屋⑰)がある。拙論は、この研究に多くを負っている。しかし全国坑夫組合と友子の関係についての考え方は、わたくしと二村氏とはかなり違っている。両者の相違点については、行論

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のなかで指摘したい。(2)前掲二村論文(二を参照。(3)前掲二村論文(一)、二頁、一一頁。なお二村氏が、友子を「自主的共済組合」と捉えていることの誤りについては、すでに拙著で指摘してあるので、ここでは立ち入らない。(4)前掲二村論文(|)、一四頁。(5)坂口義治「北海道礦山労働運動の過去及現在」、「労働同盟』大正二年四月号。ここでは『総同盟五十年史』所収、一一一九三’四頁による。(6)これらの資料は、大原社研に所蔵されている。内容については、前掲二村論文(二)を参照されたい。(7)前掲二村論文二)、九頁。(8)イギリスの一九世紀前半期の炭鉱夫の労働組合は、友子のようなブラザーリングスという同職組合を統合して組織されたのであるが、かれらは、熟練鉱夫の労働組合として不熟練鉱夫の加盟を強く制限した。その後の炭鉱夫の組合は、産業別労働組合として不熟練鉱夫の加盟を認めるようになる。拙稿「スコットランドにおける炭坑夫の初期友愛協会」、および「イングランド北部における炭坑夫の初期友愛協会」、『経済志林」五六の三、四の両号におけるブラザーリングスの労働組合への転化の節を参照。(9)鉱山経営者連盟編「鉱山労働運動史」は、この点について全国坑夫組合は「元足尾鉱山鉱夫田山正等の奔走により成立した組合で鉱山労働者中の『交際坑夫」のみを以て組織せられた会である」と指摘している。六二頁。(、)なお、全国坑夫組合は、独自の奉願帳を発行したことは事実であり、総連合の機関誌『鉱山労働者』には、「旧全国坑夫組合員桜田虎市氏奉願帳持参来訪當本部は直接救済する規定なく本部は之を地方聯合会及支部の自治に任ぜりの故を以て野村個人として金五十銭寄付せり)(第二巻第一号、一三頁)とあり、大正九年に全国坑夫組合時代に発行された奉願帳をもった鉱夫が、鉱夫総連合本部事務所に尋ねてきたと記している。(u)全国坑夫組合が取立を行ったことは、千代田炭坑で確認されている。これについては後に論ずる。

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大正期における友子の労働組合化について

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a足尾銅山における友子の労働組合化

足尾銅山は、全国坑夫組合の発祥の地であり、かつ拠点の一つであった。全国坑夫組合の創設者たちは、足尾銅(1) 山の坑夫の高島信次、田山正、中村英作たちと一一一一口われている。すでにみた全国坑夫組合の構想に基づいて、足尾銅山でどのように坑夫組合の支部が組織されたか、あるいは友子がどのように坑夫組合に成長転化していったか、を

明らかにすることは大変興味深い。しかし残念ながら、それを明らかにする十分な資料がない。その理由は、足尾銅山の全国坑夫組合支部が、必ず

しも十分な成功をおさめることが出来ず、むしろ大日本鉱山労働同盟会の成功の蔭にかくれた少数派となり、殆んど注目されるに至らなかったからである。ここでは、限られた資料をもとに、若干の分析を行いたい。

足尾銅山で全国坑夫組合の支部が設立されたのは、大正八年一○月七日であった。それに先立ち大正八年六月一曰に友愛会足尾支部が組織されていた。友愛会支部は、鉱業所も弾圧することなく「靜カニ不断監視」をする穏健な鉱夫からなり、設立当初は本山坑の鉱夫を中心に会員数一五○名くらいだったと言われている。更に九月一日には、大日本鉱山労働同盟会が組織されていた。各労働組合は、それぞれ活動を展開し、組織の拡大をはかったが、(2) 運動の大勢は、大日本鉱山労働同盟〈云によって占められた。大正九年三月の資料によれば、従業員約九○○○名中組合員の数は、友愛会足尾支部一一○○名、労働同盟会約五(3) ○○○名、全国坑夫組合足尾支部七五○名であった。全国坑夫組ムロは、明らかに少数派にとどまった。結論からいえば、足尾銅山では、友子を全体として全国坑夫組合の支部に獲得することが、できなかったということである。 2各鉱山・炭鉱における友子の全国坑夫組合支部への成長転化

(15)

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松葉は、はじめは「足尾労働組合」の名称で組織活動を開始し、八○人ほどの鉱夫を組織し、八月一六日の演説会を皮切りに、大胆にかつ公然と運動を展開した。そして九月一日に「大日本鉱山労働同盟会」を設立した。会の顧問には、娘婿の弁護士綱島正興をおき、活発に活動を行った。飯場頭時代を悔いて、鉱夫の自覚を説き、「労働者の地位の向上と生活条件の改善」のために労働組合に「団結」せよ、と田中正蔵をきどって呼びかける松葉鰹寿(5) を、足尾銅山の鉱夫たちは熱狂的に支持し始めた。明治四○年以来沈黙を守ってきた足尾銅山の鉱夫たちは、一斉に立ちあがった。松葉を先頭に、鉱山労働同盟会は、公然と演説会を開き、賃金の五割増し、八時間労働、同盟役員の承認など三○カ条の要求をつくり、鉱業所に提出した。鉱業所は、当所部分的に組合の要求に妥協しつつも、次第に強硬な態度にで、八年二月二○日に合理化のために四○○名弱の従業員の解雇を発表し、あわせてそこに組合活動家の解一厘を含めた。 当時友子の会員数は約一一一○○○名ほどだったから、全国坑夫組合は、友子だけを組織していたとすれば、友子の二五パーセントしか組織しえなかったことになる。ここで二つの問題が提起される。一つは、この時期に足尾銅山の友子は、どうしていたのかという問題であり、もう一つは、そもそも大日本労働同盟会は何故かくも多数の鉱夫を組織しえたのか、という問題である。後者の問題から始めよう。この点についてのわたくしの考えは、以下の通りである。鉱山労働同盟会の最高指導者は、松葉鰹寿であった。彼は、中学をでて東京で巡査をやったことがあり、明治四○年の争議の時には、稲荷組という雑夫飯場の飯場頭であり、会社側に立って争議を抑える立場を取っていた。その彼は、大正六年一二月に飯場頭をやめて一時足尾銅山を離れ、八年七月中旬に再び足尾銅山に戻ってからは、過去を悔い鉱夫に同情する労働(4) 運動家になっていた。

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大正期における友子の労働組合化について (15)

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これに激昂した鉱夫たちは、解雇手当の増額を要求し、就業を中止して部分ストを行い、同盟会をつきあげていった。同盟会は、当初積極的な方針を出しそびれていたが、「飯場制度の撤廃」と「最低賃金一日八十銭支給」

の二要求を改めて提起した。日頃飯場制度に不満を持っていた鉱夫たちは、鉱業所に押し寄せて、会社の回答を迫った。しかし会社側は回答を拒んだため、同盟会は、鉱夫たちが当時飯場坑夫組合の組合長となっていた飯場頭

のもとに行って、役員の辞職を要求する運動を支持した。こうして一一月の末には、鉱夫たちは、事実上ストライキ状態に入り、就業者はわずかに一一一○○名にすぎなかったと言われるほどになった。会社側は、幹部レベルで飯場制度の撤廃を認めたので、一部要求の実現に気をよくした鉱夫大衆は、気勢をあげ、反抗的な姿勢を強めた。しかし二月二八曰に松葉、綱島らの同盟会幹部数名が逮捕されたことを聞きつけた鉱夫たちは、激怒し、同盟会への加入者が激増した。こうして同盟会を中心とする労働組合に押されて、鉱業所

は、飯場制度の撤廃をはじめ同盟会の要求を入れ、争議は終息し、同盟会は足尾銅山に限らず全国的に名をはせる(6) ことになった。こうして争議は、鉱山労働同盟会を多数派にした。他方友愛会支部も全国坑夫組合も少数派にとどまった。労働同盟会が、足尾銅山で多数派になったのは、松葉のカリスマ的な存在がプラスしたことに加えて、友子の中心勢力である採鉱夫だけに依拠することなく、鉱山の近代

化に対応して生まれてきた精錬夫や運搬夫、機械職工、さらに雑夫などを広範に組織し、待遇改善の要求を大胆に提起し、争議を積極的に行う戦術が功をそうしたからであった。これにたいして、特に全国坑夫組合が少数派にと(7) どまった原因は、全体的に穏健を標貌し、組合費のチェックオフを飯場会計に頼っていたり、友子の中心である採鉱夫に大きく依存し、積極的に待遇改善に取り組まず、むしろ労働同盟会の争議にたいしては傍観的だったこと(8) が、高揚している争議の中では、鉱夫の人気を獲得することができなかったのである。

(17)

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もう一つの問題を見てみよう。すでに論じてあるように、足尾銅山の友子は、明治四○年の争議において、自立化し労働組合に同調して自ら要求を会社側に提出した。こうした友子の労働組合化にたいして、鉱業所は、大いに危険を感じ、友子を改編して飯場制度の中に押し込めた。いわば友子の民主的な側面である山中委員制度を解体し、友子の最高責任者を鉱業所の任命する飯場頭の管理のもとにおいたのである。大正八年に労働組合が組織され始めた時期には、足尾銅山の友子は企業内化されて、著しく自立性と民主的側面

を失っていたのである。従って全国坑夫組合のように、友子を組織化しようとする試みは、足尾銅山においては箸(9) しく不利であったと一一一一口わなければならない。

しかしだからと言って、友子が全く無力化し、友子に加盟する鉱夫が無気力化してしまっていたということを意味しない。すでに明らかにしたように、この大争議の過程で、友子は、再び活性化し友子の自立化・民主化をもと

める動きをしている。例えば、大正八年九月の争議下に飯場鉱夫組合の評議員(以前の山中委員)の選挙に際して、友子鉱夫たちは、選挙をボイコットしたり、投票しても白票を投じたりして、労働同盟会に支持を間接的に示(皿)している。大正八年争議の下では、明治四○年争議の時のように、友子は、飯場鉱夫組〈口に包摂されてしまったために、組織的に組合に同調したり、独自に要求を提出したりして、労働組合化の傾向を示すことはできなかっ

た。しかし友子に属する鉱夫たちは、労働同盟会をはじめ他の労働組合に大量に加盟したことは事実である。だから足尾の友子は、労働組合化の可能性をある程度保持していたと評価できる。そして大正九年に鉱業所に山中委員(u) の制度の復活を認めさせて、友子のバイタリティを一不した。また大日本鉱山労働同盟会についてみれば、足尾銅山の全鉱夫九○○○名の半数以上五○○○名を組織すること

によって、友子鉱夫の多数(少なくとも二○○○名近く)を組織したであろう。大量の友子鉱夫が、労働同盟会側

(18)

大正期における友子の労働組合化について (17)

348

以上のように全国坑夫組合の足尾支部は、大曰本鉱山労働同盟会の蔭に隠れて大きな活動と組織化に成功しなかった。なお最後に全国坑夫組合の足尾銅山支部は、大正九年に鉱夫組合三派が合同して鉱夫組合総連合を組織した際にこれに反対して、三派連合に参加せず、全国坑夫組合足尾支部を維持した。この事実は、足尾銅山の全国坑

夫組合支部の一部の鉱夫たちが、伝統的な友子の立場を主張して、友子の一部ひいては鉱夫の一部が戦闘的で左翼的な労働組合運動に反対したことを意味する。

今ここに全国坑夫組合足尾支部が、全国の友子に向けて発送した大正九年一○月付の回章があるが、それは前記の点を明確に証明している。長文をかえりみず全文を引用しておこう。 についたのである。

白雲の空、雁は南に帰り、紅葉の下、鹿は友を恋ふ晩秋の候となりました。御地友子諸君愈々御清栄の由珍重

至極に存じます。当山中一同無事はばかりながら御安心下されたし。借全国坑夫組合の儀御承知の通り先般来友愛会砿山部と合同致しまして全日本坑夫総連合と相成り其上にて友愛会の加盟して了ふたのは残念至極の成行きであります。然るに私共は創立の当初から、其の性質に於ても、

其々相違の点もあり今更ら合同して行動し難き事情がありまして、矢張り成立当初の心意気を其促祖先伝統の坑夫精神による堅固なる全国坑夫組合の名の舌に一貫団結して行きたいのであります。其れで当足尾に於ては本山はもち論、小滝通洞もことごとく其協定が出来まして発会式も既に済み今後の運動に取りかかりました。全国各地の坑夫諸君に於ても私共と同感の人達も多く其意を通じて来た人もありますので、私共も組織的に起 「謹啓

(19)

(18)

347

つ事になりました。本部は、東京市麹町区内幸町一丁目五番地に置き、全国的に団結を形成する気運になりまし

事を葱に御報告申上げます。

親愛なる御地友子諸君、現在の労働界の情勢に考へ其の実相を見れば、私共は従来多くの野心家に売られた

り、学者の足場にされたりして、苦い経験を嘗めました。私共は今少しく健実にそして自主的にならなければな

るまいと恩ふのであります。

私共の意思に共鳴されよ、友子同志自主的に互に手を握り合ふて進みたいのであります。幸に私共の意のある処を諒とせられ、進んで入会されるのを御勧誘申し上げます。この際相成る可く団体にて御申込を願います。

本部は諸君の為めに趣意書及規則を用意してあります。

御紹介次第何時にても御送り致します。終りに臨んで諸賢の健康を祈ります。

大正九年十月多々不宣

栃木県上都賀郡足尾町赤倉

全国坑夫組合足尾支部

友子各位

御中

〆-,

12

、-〆

L_

(20)

大正期における友子の労働組合化について (19)

346

従って全国坑夫組合は、友子の労働組合化であり、友子を労働組合に転化させるものであっても、それ自体労働

組合として十分な成功をえるには、組織論的に欠陥があったことは確かである。わたくしに言わしむるならば、友子の労働組合化の可能性は、明治後期に最大だったのである。 なお最後に全国坑夫組合と大日本鉱山労働同盟の組織論の相違について指摘しておきたい。労働同盟会は、足尾銅山を中心にした組織であり、事実上本部組織をもつにいたらなかったが、その中心的な指導者は、全国坑夫組合と違って、友子とは関係のない元雑夫飯場の飯場頭であり、かつ元警察官という特異な人物であり、同会の組織方針でも明快に「本会ハ各種鉱山労働二従事スル全テノ男女エヲ以テ組織ス」と規定し、友子の精神とか伝統とかに(M) 全く一一一己及していない。「団体ノ結束」を重視しているが、友子の好んで使う「自治」という一一一一口葉さえ使っていない。明らかに労働同盟会は、採鉱夫に限らず、各種の職種、精錬工、機械職工、坑内外運搬夫、女性や不熟練労働者を積極的に含む産業別の鉱山労働組合であった。

実際に労働同盟会は、足尾銅山の全鉱夫九○○○名のうちの半数以上を組織していたし、坑内採鉱夫三○○○名

を遥かに超えて各種の鉱夫を組織した。従って勢力も急増したし、それ故威力、迫力もあったわけで、一層鉱夫全体の人気を集めることに成功したのである。これに反して全国坑夫組合は、友子の勢力に依存し職能別組合の方向

をとったために、組織化の発端は有利だが、友子の組織率が三割近かった足尾銅山では、所詮多数派にはなりにくをとったために、組織皿

い存在だったのである。 (田)で、消滅してしまった。 以上の回章は、全国坑夫組合足尾支部が、全国坑夫組合の方針に沿って活動し、また友子の組織に依存していたことを端的に物語るものである。しかしこのグループは、その後成功することなく、鉱夫組合総連合の発展の中

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ついでに指摘しておけば、大日本鉱山労働同盟会は、釜石鉱山にオルグに入り、多数の鉱夫を組織し、|時的ながら成功をおさめた。しかしこの争議は、実際には、釜石鉱山争議と呼ばれているが、実は釜石鉱山内部の製鉄部門の争議だったのである。鉱夫組合が、製鉄労働者の争議を指導するなどとは、いかにも鉱山労働同盟会らしい。釜石鉱山鉱夫は四○○○名と一一一一口われていたが、組合員二○○○名中、大橋採鉱部(大橋鉱山)は二○○から一五○

名ほどであった。しかし採鉱部は組合に厳しく対処したため、採鉱夫たちは十分に争議に参加できなかったようで(厄)ある。

(1)一一村一夫「全国坑夫組合の組織と活動(一)」、「法政大学大原社会問題研究所資料室報」zp]$、六頁。(2)例えば、足尾銅山労働組合編「足尾銅山労働運動史」、鉱山経営者連盟『鉱山労働運動史」(一九四七年刊)をみよ。(3)『栃木県史」史料編・近現代三、一四九頁、一四四頁。(4)『栃木県史』史料編・近現代九、三一一一六頁。(5)村上安正『足尾に生きたひとびと」、四一’五○頁。(6)詳しくは、前掲『足尾銅山労働運動史』および前掲『鉱山労働運動史』を参照。(7)前掲二村論文(三)、八頁。なお二村氏は、こうしたチェックオフがどうして可能だったか疑問を呈しているが、それは、おそらく賃金支払いを、飯場の会計係が握っていたからであり、全国坑夫組合が、友子の関係で飯場頭に話をつけて、組合費のチェックオフを実現したからであろう。この点については、拙稿「足尾銅山における友子制度の変遷」(上下)、『経済志林」六○の一・一一、三・四の両号を参照。坑夫飯場組合下の飯場割について参照されたい。(8)例えば、前掲『鉱山労働運動史」は、全国坑夫組合は「足尾の大争議の際には、中立の態度を保持していたので、友愛会からは非常に非難された」とも指摘がある。六四頁。また『足尾銅山労働運動史」は、大正八年一二月の争議の際に、全国坑夫組合の足尾支部の総会で「幹部が今度の争議に対して積極的でないという声が高まり、会員八○○名が同盟会に

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大正期における友子の労働組合化について (21)

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b夕張炭鉱における友子の労働組合化

全国坑夫組合は、本部役員坂口義治という夕張出身の有能な指導者により、足尾銅山の支部と並んで北海道の夕張炭鉱支部を拠点に組織され、一定の発展をみた。夕張炭鉱の全国坑夫組合支部は、足尾銅山と違って他の組合と

競合することなく、当地の唯一の労働組合として組織された。そして当初は、主要鉱夫を大量に組織し、恐らく友子の多数を組織したように思われる。その限りで、夕張炭鉱の全国坑夫組合は、方針通りに成功をおさめたと言

えるかも知れない。もっとも労働組合は、その後急速に発展せず、十分な成功をおさめることなく、大正一○年二

月’三月の争議後会社の激しい弾圧によって衰退してしまった。(1) ここで夕張支部の組織状況を間単に見ておきたい。夕張炭鉱で全国坑夫組ムロの組織化をはかったのは、坂口義治

であったが、彼は、夕張出身で、家族は夕張炭鉱の炭鉱夫であった。父角蔵は、高松坑の支柱夫であり、兄鶴次の (u)前掲『鉱山労働運動史」、五九頁以下の規約を参照。(旧)詳しくは荒木田忠太郎『狼火挙るI釜石鉱山労働騒動実記』を参照。 加わり、活発に運動していくことを決議した」と言われている。一一八頁。(9)前掲「足尾銅山における友子制度の変遷」上下、を参照。(岨)前掲『足尾銅山労働運動史」、’○六-七頁。(、)前掲「足尾銅山における友子制度の変遷」下、六頁以下参照。(Ⅲ)前掲「砂川鉱業所沿革史』一七頁。(旧)分裂の事情の一端については、全日本鉱夫総連合会の機関誌『鉱山労働者』大正一○年四月号、一二頁に足尾銅山の組合幹部の報告から窺える。残留組の指導者は、全国坑夫組合の設立者の一人、高島信次で、七○名近くが残留した模様である。

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確かに二○○○名は誇大かも知れない。しかし九○○名という短期間の急激な会員の拡大は事実であろうし、そ

れは、友子の存在と無関係ではなかった。しかるに二村氏は、逆に「夕張の事例から、全国坑夫組合が全体として友子同盟と無関係であったと結論することができない」とは言え、「友子同盟が直接全国坑夫組合の組織基盤となったとはいえないようである」と主張している。そして直接の根拠に、坑夫組合の構成員が、友子の中心である(5) 熟練鉱夫だけでなく、「日雇労働者、朝鮮人、婦人など」も組織しているところにみている。事実、労働組合員の急激な拡大、多数の支部の設立などは、友子の組織的な伝統を踏まえないと容易には実現し

えない。二村氏は、そうした友子の存在を軽視している。わたくしの仮説に有力な根拠となる研究も生まれている。例えば、北海道の友子についてよく研究している市原博氏は、「夕張炭鉱で全国坑夫組合の組織化が短期間の これに対し二村一夫氏は、坂口の証言に重大な疑問を提起している。すなわち一一○○○名の会員と一○支部の設立は誇大ではないか、というのである。その根拠として二村氏は、会費の納入状況に注目する。会費の納入から推測すると会員は六○○名程度であり、会員の三分の一は会費未納であるのでこれを考慮しても九○○名程度でな(4) かつたか1と一一一一口う。 (3) 成した。 義父渋谷杢次郎も炭鉱夫であった。

義治自身は、幼少時を夕張炭鉱地区で育ったものの、出奔し、様々な職業を経て、大正八年には友愛会の書記と(2) なり、労働組合運動に関与している。坂口は、夕張に帰り、大正八年九月一日か一b家族や親戚、友人の人脈に加え、友子関係を頼りに全国坑夫組合夕張支部の組織化につとめた。そして「たちまち三百名を組織し」、’一月には高松支部を設立し、大正九年四月には各地区に八支部を設立して組合員二○○○名を組織して、支部連合会を結

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大正期における友子の労働組合化について

342 (〃)

労働組合の「会員応募ハ目下友子ヲ主トシ各地ノ渡自坑夫ノ大当番、箱元等二別紙ノ会則ヲ配布支部ノ設立スル(8) ャ本部員ノ出張共二勧誘二従事スル」と。すでに指摘したように、夕張炭鉱で全国坑夫組〈口の会費のチェックオフが行われたのも、友子である飯場頭らの協力によっていたことは、容易に想像がつく。そして全国坑夫組合の方針は、そうした彼らの協力をえやすくしていたことも間違いない。

以上のように、全国坑夫組合の夕張支部は、まさに友子を基幣として組織されたことがわかる。もっとも夕張炭

鉱の友子組織自体は、足尾銅山のように確固としたものではなかった。当時の資料は、夕張炭鉱の従業員数三九○(9) 七名にたいしてわずかに一一一一一八名で全体の八・一一。ハーセントにしかすぎず、友子の勢力からすると、決して大勢力ではない。北海道の炭鉱における友子は、各地域・企業の炭鉱によって勢力・組織率にかなりの強弱があった。夕

張炭鉱での友子は、明治時代の労働組合化との関わりで、鉱業所からかなり警戒され、勢力の増大を抑えられてき (6) う十つに急速に進んだのは、夕張炭鉱の友子同盟の親分など鉱夫中の有力者の支持が得られたからであった」と指摘し、友子の役割を高く評価している。

さらに市原氏は、北炭の鉱業所資料からわたくしの仮説を証明する記述を紹介している。すなわち「坂口義治ノ父角蔵ハ有名ナル支柱夫ニシテ夕張消防隊ノ部長ヲ永年勤続セル関係上相当一一坑夫社会ニハ顔ヲ完レ居ルモノナリ、明治四十年夕張肱暴動ノ際ハ八人組ノー人トシテ大々的一一活躍シタルモ今回夕張坑二於テ組合員ヲ募集シタル(7) モ多クハ彼ノカナリ」1と。

社会的に目覚めた息子に説得されて、労働組合の組織化に協力した坂口の父親は、友子の有力者であり、友子の関係をたどって労働組合の組織化をはかったことが、こうした記述からよく窺える。資料は、さらに短刀直入に次

のように指摘している。

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たのである。全国坑夫組合夕張支部の不十分さは、友子勢力の弱さに一因があったと言えるかも知れない。また夕張炭鉱にしても友子の勢力は、三○○名強にしかすぎず、全国坑夫組合は、そうした勢力をはるかに超えて組合員を組織しえたが、友子の基盤はそれほど強力ではなかった。鉱業所は、全国坑夫組合に当所傍観的だった(皿)が、正体があらわれるにしたがって、強圧的になった。北炭は、大正八年一二月に「一心会」という企業内従業員

団体を全道的に組織して、労働組合に対抗し、かつ友子の危険性に備えたのである。こうした鉱業所の反組合対策と友子にたいする抑圧策は、友子の労働組合化を弱体化してしまったと言わなければならない。

(1)夕張炭鉱の全国坑夫組合の組織化の過程は、これまで十分に明らかにされていないが、さしあたり渡部惣蔵『北海道社会運動史』、特に前掲二村論文(三)に比較的詳しい。小論ももっぱらそれらによっている。(2)前掲二村論文(三)、一一○頁。(3)渡辺前掲書、七一一’三頁(4)前掲二村論文(三)、一一一’四頁。(5)同右書、六頁。ここでの二村氏の立論の一部には、無理がある。|、朝鮮人の友子会員はいなかったといわれるが、昭和期には朝鮮人の加入を確認できる。例えば夕張・働くものの歴史を記録する階編「わが夕張』三一一一一一頁、一一一一一一四頁、一一一三九頁をみると、昭和初期に親分や兄弟分の仏参を行っていることがわかる。友子は、朝鮮人を排除しなかったことがわかる。また友子は、村方を半交際と称して友子に半ば参加させたことは、友子研究家にとっては、よく知られていることである。例えば、大山彦一「友子同盟の研究」は「取立を受けざる雑夫其他鉱夫も一定の範囲の交際l半交際lを許される」弓社会学雑誌」大正一五年九月号、六七頁)と指摘しており、友子は、不熟練坑夫と全く断絶していたわけではない。だから少数の友子以外の鉱夫が組織されたとしても、友子組織を基盤として労働組合を組織しようとする発想が無意味になったわけではないであろう。

(26)

大正期における友子の労働組合化について (25)

340

c千代田炭坑における友子の労働組合化

友子が全国坑夫組合の支部に転化する端的な例は、茨城県の千代田炭坑における友子の場合であった。日立鉱山の支山であった諏訪鉱山の友子資料である『永代記録簿』の中に、千代田炭坑の友子が集団的に全国坑夫組合の支(1) 部になったことを一示す資料がある。すなわちこの資料には、「大正九年五月中」と記し、茨城縣多賀郡松岡村の「千代田炭坑山中友子一同」の署名のある「坑夫交際政治的除名回章」が記録されている。この回章の要旨は、千代田炭坑の友子が、一部の鉱夫に扇動されて、全国坑夫組合に加入し、新友子と自称し、隣山友子の立会や異議申し立てを無視して、勝手に取立を行い、友子の道に違反したので、友子本来の立場に立つ旧友子鉱夫たちが、新友子派を除名したので、その旨回章を各山に送ると言うものである。要するに、千代田炭坑の友子は、全国坑夫組合の支部に集団的に転化したのだが、しかし旧派の友子グループが、それに反対したため、友子は分裂し、旧派の友子が新派の友子を除名処分した、ということである。資料を具体的に見てみよう。回章の内容は、二つの部分から成っている。一つは、友子の組合化について、一つは、それをめぐる旧派の友子、隣山友子の対応についてである。まず千代田炭坑の友子の労働組合化についての指摘を見てみよう。 (6)市原博「戦間期日本財閥系炭鉱の労使関係」、萩野喜弘編著「戦前期筑豊炭鉱業の経営と労働』所収、一一三五’六頁。(7)同右書、一一三六頁。(8)同右書、一一三六頁。(9)北炭『五十年史第一次稿本』従業員編中巻、二四五頁。(、)|心会については、さしあたり市原博「第一次大戦後の北炭の労働運動対策」、『経営史学」一○六号を参照。

(27)

(26) 339

長々と引用したのは、友子資料の全体としての雰囲気を伝えたいためである。内容ははっきりしている。すなわ(2) ち、大正八年九月末日に千代田炭坑で、同年九月に設立された全国坑夫組ムロの支部が設立された。この支部には、当初友子全体が労働組合に加盟した。しかし日立鉱山、諏訪鉱山両鉱山の立会なしに独自に「取立」を行い、また

掲一不

茨城縣多賀郡松岡村千代田炭坑山中箱元ヨリ左記之回章逓送二相成候一一付各位友子一一御通報致候也謹啓陳者各位益々御清栄奉賀候却而今回乍略儀回章ヲ以テ申上候左記連名ノ者従来坑夫友子トシテ交際一一加盟致シ居り候処蓮一一大正八年九月末日ヨリ当山へ全国坑夫組合支部創立サル&ヤ是レニ加名シ坑夫トシテ本分ヲ捨テ其後ノ行為全ク一変シ友子ヲ侮辱スル事甚ダシク不法ニモ両隣山及ビ当山ノ承諾モ無ク取立ヲ執行スル等諸事活動一一一一口語一一絶エズ然ルー遇々両者ノ妥協問題ヲ論ゼシモ到底従来ノ坑夫ノ立場トシテ是レヲ入ル凶事能ワザルー一依り断然却下(セ)シ一一無謀ニモ彼等ハ自分ノ理ヲ飽迄通過セザレバ断シテ坑夫友子トシテ交際ヲ断ベキ旨ヲ声名シ交際金及ビ集米ノ件ハ彼等一体一一拒絶シタル者也依而山中友子一同連日是レガ前後策ヲ溝シタルモ到底力不及即チ大正九年三月一一十一一日両隣山二御足労ヲ炊シ右処置ヲ御依頼二及上其ノ裁断ヲ得タルニ衆目一致除名卜決定シタルニ依り両隣山ノ承認証ヲ相添エ回章ヲ以テ此段御通牒一一及ビ候也

大正九年三月日茨城縣多賀郡松岡村千代田炭坑山中友子一同

大日本帝国諸工事鉱山同盟友子御中除名者連名三十人(氏名省略)

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大正期における友子の労働組合化について (27)

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旧来の友子たちが認め難い独自の活動を展開した。そのため旧派は、友子を分裂させて、独自の別組織を創り、大正九年三月に隣山友子と相談のうえ、労働組合派の一一一○名を友子から除名処分した。明らかに千代田炭坑の友子は、全体として労働組合に成長転化して、労働組合として約半年間活動していたこと(3) がわかる。後半の資料により、この事情をもう少し詳しく見てみよう。

千代田炭坑の旧派の友子による労働組合派友子の除名にたいし、日立鉱山の友子は、「除名者ノ原籍及ビ親分並一一子分ノ国籍」についての記帳が不備であったため、不承認のまま回章を返送し、別途質問状を出した。これに答

えた千代田炭坑の回章は、友子の労働組合化の事情について次のように指摘している。「大正八年九月末日当山へ全国坑夫組合支部創立スルャ先大当番安藤常吉大友長次郎外六十二名是レーー加盟シ取

立ヲ執行スルーー付テモ隣山立会当箱元ノ許可モ無ク全国坑夫組合ヲ新組合卜称ス」。

これによれば、大当番を含む友子会員六二名が、坑夫組合支部に加盟し、「新友子」と自称し、隣山立会を無視して取立を行った。当山の箱元は、新友子に反対の立場をとった。資料は続けて言う。「取立ヲ執行スル事実言語一一絶エジ依而千代田坑山中箱元ヨリ右全国坑夫組合支部へ交照致候何分除名者ハ全国坑夫組合ヲ新友子卜称ス従来ノ友子ノ交際二絶対二反シ且シ新友子ノ意ヲ飽迄デモ通過セザレバ従来ノ友子ノ交

際ヲ断シ卜自カラ声明シ……」。新友子は、労働組合になったので「従来ノ友子ノ交際二絶対二反シ」ていたことは明らかである。従って、新友

子が取立を行っても、従来の友子のルールに従わなければ違法であることは自明である。そこで旧派の箱元は、この違法を指摘し、旧来の友子に戻るべく、交渉を行おうとしたが、彼らは全く応じず、「従来ノ友子ノ交際ヲ断」

ち、労働組合に純化していった。

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旧派の友子は、次のように対応した。「両隣山ノ御裁断ヲ仰ギ全部除名卜決定シ然し共当山中トシテモ成ル可クハ改心致サセ度除名者宅へ訪問ナセシ所彼等ハ旧友子ニシテ我等新友子ノ会員ヲ募集スルト云ツテ我等友子ヲ侮辱且シ罵薑雑言ヲ吐キ候依而我等友子等ハ不止得所々一一掲示ヲ以テ改心スル様注意ノ結果三十四名丈ケ証人ヲ附シ改心卜同事二再ビ交際ヲ申込候残り一一一十名ハ飽迄全国坑夫組合ヲ新友子ト称ス該組合ヲ発展致シ可卜主張候」すなわち旧友子派は、種々説得して、三四名を新友子派から奪回した。他方新友子派は、飽くまで新組織の発展を主張したため、大正九年五月に隣山友子の承認のもとに、最終的に友子を除名された。最終的な除名にいたる経過は、友子の除名手続きに従っており、大変興味深い。まず有力な隣山友子であった日立鉱山の友子は、千代田炭

坑友子旧派の友子の除名回章の不備(被除名者の出身地、本籍、親分名などが判明していないケースがあった)を指摘し、回章を返送している。これに対し旧派の友子は、二名の「山中委員」を日立鉱山に派遣して、反対派から事情聴取出来ない事情を説明した。他方新友子派も、五月一曰に日立鉱山の友子を訪れ、自らの正当性を主張し、隣山友子の判断を仰いだ。これに対し日立鉱山の友子は、「全国坑夫組合二於テ取立ヲ執行」したことを「言語同断」と判定し、かつ「交際人死亡

ノ節右死亡ヲ竪二全国坑夫組合ノ会員ヲ募ルャリ方一一」対しても、「除名ノ価値」ありと認めた。更に新友子派が、除名不当の「嘆願」をすべきところ、これを行わなかったことも問題であるとした。そして日立鉱山の友子は、あくまで両者の妥協を期待し、回章の回送を五日間猶予するとした。しかしその後新友子派からは「何ノ返答之無故」、五月七日付で回章は、全国に回送され、除名が発効した。以上のように、千代田炭坑の友子は、集団的に労働組合に成長転化した。友子は、全国坑夫組合の支部に転化し

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大正期における友子の労働組合化について (29)

336

もちろんこれらの新友子派の活動は、十分成功することなく、全国坑夫組合の会費納入では大正九年三月でこと切れており、その後消滅してしまったようである。しかし千代田炭鉱の友子の事例は、全国坑夫組合が友子を組織化して労働組合に変えていこうとする方針が、決して荒唐無稽のものではなかったことを証明している。さて最後に、友子の全国坑夫組合への転化という面からこれまでの分析を総括しておけば、次のように言うこと

ができる。全国坑夫組合は、方針として確かに友子を基盤とし、友子を再編して労働組合を組織しようとした。そうした傾向を千代田炭鉱の友子の労働組合化は、端的に証明した。しかし他の炭鉱では、そうした方針がそのまま貫徹したとは言えなかった。特に足尾銅山のように、明治四○年の暴動以後、友子は坑夫飯場組合の中に抑えこまれ、友子の本来の活力を大幅に失っていたため、また友愛会鉱山部、大日本鉱山労働同盟会のようなライバル組織があらわれたので、友子を労働組合に再編することが非常に困難となってしまった。最後にあえて指摘しておけば、日本のように労働組合が非合法であり、労働組合が弾圧に反発して容易に過激になりやすく、穏健な労働組合主義の発展の余地が少ない状況では、友子の労働組合化の条件が著しく弱かったとい

うことである。 合員にとどまった。こ(を端的に証明している。 たのである。ただし、当初は六一一名だったが、切り崩しをうけて、最終的に三○名が、友子を除名されて、労働組合員にとどまった。この事実は、友子の有力者によって組織された全国坑夫組合の下部組織が友子組織だったこと

(1)この資料は、諏訪鉱山「永代記録簿』(大正八年一月l昭和八年四月。日立市立博物館所蔵)である。この資料については、相沢一正「常磐南部・上手綱地区炭砿の変遷と昭和初年の鉱毒水事件」、『茨城県立歴史館報」z・・岳、の論稿が論

(31)

(30) 335

大正期における友子の労働組合化の傾向は、全国坑夫組合に限らない。ここでは、比較的資料的にわかっている

二つの鉱山の例を検討してみたい。他の事例については、今後の研究を待ちたい。大正八年一○月の神岡鉱山における友子による争議過程は、友子の一時的な労働組合化とその組合化の限界を示すものとして興味深い。大正八年における労働運動の高揚は、飛騨の山奥にまで波及してきた。まず一○月に鹿間方面で労働組合が組織された。これに刺激され全山的に鉱夫の待遇改善要求運動が盛り上がった。そして各部門、各坑で労働組合が組織されていった。こうした過程で、友子も賃上げと労働時間短縮の要求を提出し、一時的な労 (3)千代田炭鉱支部は、争議をはじめ様々な活動を行うが、これについては前掲相沢一正論文が詳しい。なお全国坑夫組合の資料では、千代田炭鉱支部という名称はなく、茨城県下の松岡支部となっている。ただし松岡支部の会費の納入状況は、大正八年一一月、’二月、大正九年一月、三月の四ヶ月分である。前掲二村論文(||)、’六頁参照。会費は月一一○銭であり、全額納められたとすると、松岡支部の会員数は約一○○名前後である。それは、千代田炭鉱の新友子数より大きいので、おそらく松岡支部は、千代田炭鉱以外の会員を含んでいたのかも知れない。千代田炭鉱は、大正八年に茨城採炭と合併したばかりで、松岡支部は、茨城採炭の鉱夫を含んでいたに違いない。 じている。(2)全国坑夫組合の設立は、二説あって、坂口によれば九月、麻生によれば一○月七日であるが、後者は正式な発会式日である。明らかに九月末に千代田支部が結成されたことは、全国坑夫組合の運動はすでに九月から始まっていることがわl神岡鉱山における友子の一時的な労働組合化

力、あ

るる

一一その他 ○○

(32)

大正期における友子の労働組合化について (31)

334

働組合化の傾向を示した。(1) 「五十年史編纂資料神岡鉱山労務史」は、大正八年一○月一一曰から一一六曰にかけて起きた神岡鉱山の争議経過の概要を記録している。これによれば、栃洞坑の組頭一同が鉱山当局に「鉱夫一同時間短縮賃銀値上等二関シ動揺シシ凸アリ、会社側ノ之レニ対スル意見次第ニテハ彼等ヲ鎮静セシムルコトヲ得ルト信スルヲ以テ此際至急会社ノ意見ヲ間キ」たいと、伝えたということである。そして更に、「鹿間方面二於テ建築、機械所属鉱夫ヲ以テ労愛会ナル組合ヲ組織シ会則ヲ建築主任二提出」したこと、また栃洞坑における友子の「大当番約二十名光円寺二集会ヲ開」いたこと、「大留、栃洞箱元ヨリ諸方二左ノ激ヲ發」したことを明らかにしている。ちなみに、この「激」は、以下の通りである。

この資料から、神岡鉱山の鹿間坑で労働組合が組織され、賃上げと労働時間短縮を要求し、連判状に署名して、

急告

一、本番賃金七割増ノコト|、受負賃金ハ一円以下ナルトキハ一円以上一一訂正スルコト|、坑内夫ハ六時間トシ坑外夫ハ八時間制トスルコト今般労働組合ヲ組織シ右条件ヲ事務所へ要求致候間一寸急告仕候也其件ハ皆連印致シ条件用済迄ハ出役致ストモ仕事一一従事セザル様致シ居り候也

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要求は、驚くべきことに、労働組合のものと基本的に同じである。これは、どのような意味をもつのであろうか。栃洞坑の友子の大当番たちは、明治四○年の足尾銅山の友子のように、労働組合の影響をうけて労働組合と同

じような要求を作って、彼らに同調したのであろうか。あるいは友子鉱夫の下からの要求に突き上げられて起こし (2) サボタージュしていることがわかる。そしてこれに対して組頭すなわち飯場頭らは、会社の態度を正し、ことによっては自分たちが調停に乗りだしてもいいといわんばかりである。飯場頭の役割の一つは、まさにこうした時に調停役を果たすことであった。しかし今は、飯場頭の問題は横に置いておこう。

他方、友子は、労働組合の動き、鉱夫の動向をみて、独自の対応を示した。一○月一一日に栃洞坑の友子の大当番二○名が光円寺で会合をもち何やら相談した。翌日再び「大当番集会ヲ開」き、「会社二対スル要求五カ条ヲ決議シ各飯場二配布シテ意見ヲ徴シ記名捺印ヲ求ム」ことを決めた。

五カ条の要求は以下の通り。

「|、労働時間坑内六時間坑外八時間二、労銀受負ハ一人当り金一円以下トナリタル場合ハー円三十銭ニ直シ支給セラレタシ標準ハ金一円五十

三、配給米特価渡分品質劣悪ナルヲ以テ品質ヲ改メラレタシ

四、受負店ノ数量ノ実数量ヲ欠クコト多シ厳重二実数量ヲ渡サレムコト五、本番賃金ハ現給ヲ七割二昇給セシメ之二七割ノ臨時手当ヲ支給セラレタシ 銭ノコト

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参照

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