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2.庶民大学三島教室の成立 3.庶民大学三島教室の展開

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(1)

53一

戦後社会教育実践史研究(その2)

  一第二次大戦後の社会教育実践史における     庶民大学三島教室の意義一

笹 川 孝 一

L課題の設定

2.庶民大学三島教室の成立 3.庶民大学三島教室の展開

4.庶民大学三島教室の終焉と歴史的意義

1.課題の設定

 本稿の課題は,第二次大戦直後の数年間に静岡県三島市を中心とする地域で 実践された「庶民大学三島教室」の成立・展開・終焉の過程をあとづけ,かつ その歴史的意義を考察すること,およびそれを通じて,第二次大戦後の日本に おける社会教育実践の展開過程をあきらかにする作業に寄与すること,にある。

 1960年代半ばまで,敗戦直後数年間の社会教育実践は,知識人主導型の啓蒙 主義や政治活動との直結を性急に求める政治主義に陥っていたとして,否定的 に評価されることが多かった。そして,この評価は,1950年代のサークル活動 に対する積極的評価と不可分のものであった1)。

 しかし,こうした評価には,重大な難点が内在していた。それは,①戦前・

戦中の社会教育実践の積極的遺産が,戦後どのように継承され発展させられた のか,されなかったのか②高く評価されている50年代の実践それ自体が,それ 以前の時期にどのように準備されて成立したのか,という,社会教育実践の歴 史的研究にとっての基本的な問題を解明できなかったことである。

 1970年前後から,部分的ながら戦前・戦中の遺産の継承にも眼をむけつつ,

この時期の実践に固有の価値を認めるとともに,それが47〜48年の時期にひと

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つの璽壁 にぶつかったことを示す研究が発表されはじめている2)。これは大 きな前進である。しかし,その多くは,戦前・戦中の継承を論ずる点で不十分 である3)とともに,47〜48年のt壁 の内実とその克服による50年代の実践の 準備過程をあきらかにしていない4)点で,なお問題点をのこしている。

 私はすでに,農村文化協会長野県支部の活動にそくして,①戦前・戦中の遺 産の継承,②戦後の実践のなかでの発展③1960年代の実践の準備の三点につ いて論述を試みた。5)本稿では,上記の動向において常に典型的実践としてと

りあげられてきた庶民大学三島教室6)にそくして,さきの三点についての論述 を試みる。

 その内容は次のとおりである。

 ①庶民大学三島教室は,三島での自生的な学習・文化活動を基盤とし,それ に対する木部達二や丸山真男らの働きかけによって, tt日本における民主主義 のあり方 を主題とする,労働者・農民・商工自営業者など地域の様々な階級

・階層の人々の学習活動として,1945年末〜46年初に成立した。そのさいに木 部は,戦前・戦中の労働者教育・市民むけの学術普及活動の遺産が (イ)学習と 実践との統一を志向した内容編成 (ロ)同一地域における様々な階級・階層の人

々を含む学習活動の組織化 ㊨学習活動の全国的組織化の三点にあるとして,

それを積極的に継承することに努めた。そして丸山らは,日本の民主化を志向 しつつ戦時中に蓄積した学問成果を民衆に提供しようとした(「2.庶民大学 三島教室の成立」)。

 ②1946年2〜6月の時期に,庶民大学は労働運動・農民運動との結びつけを 強めるが,これに対して商店主たちからt{左傾化した との批判がおこる。そ れに対して木部らは,学習と実践との結びつきを当然と考え,さまざまな階級

・階層を意識しつつも,労働者農民の学習活動に当面の重点をおき,新たな学 習内容・方法の模索をはじめた。同時に県内各地の労働組合との結びつきをテ

コに,学習活動の全県的組織化を推進した。木部の参院選への立候補をひきが

ねとして47年3月に庶民大学は分裂し,講座は中断した。しかし,その活動は

読書会や県下各地での労働講座での木部の活動として継承され,同年秋には三

島での講座も再開された。そして48年1月のrプレブス文庫』発刊によって学

(3)

55 習活動の全国的組織化構想の具体化もはじめられた。さらにこの過程で,(イ)学 問の成果を手がかりとしながら自分たちの生活現実の具体的分析を学習の中心

にすえること,(ロ)様々な階級・階層に固有な学習課題を位置づけつつ,地域に おける学習活動を組織すること,の二点を中心として,「地方文化運動」の新

しい方向が,木部によって模索された(「3.庶民大学三島教室の展開」)。

 ③1948年2月の木部の急死によって,彼の模索は十分に実践に移されず,そ れが基本的要因となって48年6月に庶民大学三島教室は終焉をむかえた。しか

し,彼の努力は,それが当時の全国的な討論と実践的試みの一環を形成してい たことによって,次の経路でひきつがれた。(イ)全県的・全国的組織化とテキス

トづくりは,神奈川県勤労者教育協会結成(49年)一→労働者教育協会創立(52 年)および同協会による『社会科学基礎講座』 (全6巻)の刊行(53〜55年)

と雑誌r学習の友』の創刊(53年)において。(ロ)学習者自身による生活現実の 分析を学習の軸とするという新たな方法の探求は,主体性論争その他の討論を 媒介として,長野農文協の新たな活動(48年),石母田正による「村の歴史・

工場の歴史」の提唱(同年)とその組織的展開(52年),日教組の教育研究集 会活動(51年),日青協の青年問題研究集会活動(55年)などにおいて。そし ての三島における諸階級・諸階層を含む学習・文化活動組織化の探求は,その 後の三島における労働運動・農民運動・商工自営業者運動・演劇・映画運動な どを含む統一一wa線運動に生かされ,50年代の平和運動と60年代における社会教 育実践の典型のひとつとされる三島・沼津コンビナート進出反対運動と結びつ いた学習活動の基盤をつちかった(「4.庶民大学三島教室の終焉と歴史的意

義」)。

<註>

1)戦後社会教育実践史の総括としては最も早い時期のものであり,影響力も大きか  った宮原誠一編『青年の学習』 (1960年国土社)にこの傾向が強く見られる。

2)この動きの先鞭をつけたのは,朝日ジャーナル編集部「『反大学』の源流」(『朝  日ジャーナル,1969年10月19日号)であり,学術論文として最も早く論じたのは.

 確井正久「戦後社会教育観の形成」 (確井正久編『戦後日本の教育改革社会教育』

 序章1971年,東京大学出版会)であり,罵壁 の問題を積極的に論じたのは大田尭

 「教育文化運動の芽ぽえ」 (大田発編『戦後日本教育史』第一章節の三 1978年岩

(4)

 波書店)である。

3)たとえぽ註2)の大田論文は,庶民大学三島教室についての論述で,木部達二に  全く論及していないぽかりでなく,丸山らの学問的蓄積についてものべていない。

4)註2)大田論文は長野農文協が,48年以後「地域の知識人の協力により,地域の  現実問題を素材として……単なる上からの啓蒙を一歩ふみこえ下からの……農村文  化運動」(65頁)を展開しはじめたとしつつ,それを「1950年代後半に開花する青年  たちの学習運動の先けともみられよう」(74頁)とのべて,1950年代の社会教育実  践の準備過程を示唆した点で積極的である。しかしこの過程を実証していないこと  と,「政党との関係」による分裂を運動衰退の原因にしようとするあまり,農文協  の活動がその後50年代を通じて発展し,59年まで続いた事実を見落している点で問  題を残している。この傾向は,庶民大学三島教室についての評価にも見られる。大  田は「この講座もまた46年から47年にかけて……労働組合,農民組合と関係をもつ  ようになり,……労働者たちの学習と結びつくことになるのだが,政党組織とのつ  ながりをもつこととなって,インテリや組織をもたない人びととの間にみぞが出て  くる」(63頁)とのべて学習運動と政党組織との関係に衰退の原因を求め,教育実  践に内在する衰退の要因を分析していない。

5) 「農村文化協会長野県支部r農村青年通信講座』の成立過程」東京都立大学人文  学部『人文学報』第144号,1980年参照。

6)これまで庶民大学三島教室について論及している論文・書籍などは,おおむね次  のとおりである。

 ① 朝日ジャーナル編集部「r反大学』の源流」 (前掲註2)

 ② 西岡昭夫「学校と地域社会一住民運動の中から一」(『ジュリスト』第459   号,1970年)

 ③ 確井正久「戦後社会教育観の形成」(前掲註2)

 ④ 田中勲「ttみんなで歴史を書こう 三島庶民大学のこと」(『三島市民新聞』1974   年4月7日号〜11月8日号)のちにパンフレット『三島庶民大学のこと』(1979   年)として刊行。さらに田中『軌跡60』 (1981年自費出版)に収録。

 ⑤ 静岡県教職員組合編r静教組30年史』1978年.静岡県教職員組合  ⑥大田尭「教育文化運動の芽ばえ」(前掲註2)

 ⑦ 田中征男『大学拡張の歴史的研究』1978年 野間教育研究所

 ⑧三島民報社r三島・沼津のコンビナート進出阻止の住民運動』1979年三島民   報社

 ⑨ 藤田秀雄『社会教育の歴史と課題』学苑社,1979年

 ⑩久田邦明「庶民大学三島教室の軌跡」(久田rもう一つの大学』1980年自費   出版)所収

 以上のうち資料的系譜から言えぽ,④⑤⑧が当事者の筆になるもの(⑤⑧の筆者は

酒井郁造)であり,②は田中からの聞きとりにより,①⑩は独自の取材にもとつくも

(5)

57 のである。そして,③⑥⑦⑨は①②にによっている。また,最もたち入った評価をし ているのは⑥であるが,そこには註3)4)でのべた問題がある。なお,藤田秀雄・大串 隆吉編『日本社会教育史』 (1984年エイデル研究所)第8章「自己教育運動の復興と 展開」で,筆者は,庶民大学三島教室を含む当時の社会教育実践の状況について,や やたち入った論述をおこなった。

2.庶民大学三島教室の成立

 1.庶民大学三島教室成立の基盤

 (1)敗戦直後の三島周辺の人々の生活・人格の危機と学習必要

 15年にわたる戦争と8月15日の突然の敗戦発表とは,三島周辺の人々の生活 と人格にも深刻な打撃を与えた。

 第1に生命に対する直接の被害・危険では,出征による戦死・負傷のほか空 襲によるものがあった。東海道線・御殿場線に対する機銃掃射はすでに1944年

にはじまっていた1)が,45年7月には海軍工廠のある沼津が大空襲をうけ,同 市内が灰儘に帰し多くの死傷者が出たほか,被害は三島・沼津間の清水村など

にも及んだ2)。三島では空襲はなかったが,陸軍の兵営や多くの軍需工場があ ったため,8月には空襲にそなえて市中心部の家屋強制とりこわしもおこなわ れるなど,三島市民は空襲におびえながら生活していた3)。

 第2に労働と経済の面でも深刻な影響をうけた。

 1938年ごろから三島には沼津兵器・中島飛行機・電業社などの軍需工場が多 く進出したが,「戦争の激化に伴いあらゆる工業は軍需工業と化し」4)た。そ こでは,田方郡・駿東郡など郡部出身の10代の青年たちが養成工・徴用工とし て大量に働くことになった。彼らは成長途上にありながら,軍から派遣された 監督官のきびしい監視のもとに粗末な食事で長時間,低賃金の労働を強いられ た。そして少年工のなかには,きびしい工場での生活からのがれたいとの気も ちもあって,軍隊に志願する者も多かった5)。

 また,市内の商工自営業者の多くも軍需工場で働くようになった。1938年の

国家総動員法の制定による商工業者の転廃業促進政策の推進6)によって,三島

周辺でも商工業者の転廃業が相次いだ。家具建具や下駄製造業のぼあい,40年

(6)

ごろからは,軍の注文を得られたわずかな人々をのぞけぽ,軍需工場で働く以 外には生活のすべがなくなり7),商店のばあい,43年ごろから統制でほとんど 品物が入らず,配給品を扱う一部の商店をのぞいて三島の商店はほとんど閉店

の状態になった,という8)。

 農民のぼあい,食糧確保の必要から戦時下で耕作権強化・小作料引下げなど が実現し,地主の土地取上げに対しても農民運動の伝統を生かした「調停申立」

によって小作権は守られた9)。しかし,労働力不足・肥料不足によって,作付面 積,収穫高,反収はともに,1939年をピークとして減少の一途をたどった10)。

 旧支配層主導の敗戦処理は,右の状態をかえって悪化させた。 軍需生産の停 止と,会社幹部による原材料および非軍需部門への転用可能な製品在庫の私的 処分と生産サボタージュは,臨時工を中心とする大量の人員整理をもたらし た11)。残った本工や社員は,非軍需部門の生産の維持拡大によって自分たちの 賃金の確保に努めたが,そこに激しいインフレが襲った。

 軍事費調達のための大量の国債発行によってインフレの基盤は戦時中から成 熟し,1944年に全国平均でヤミ米価は公定米価の23倍となっていたが,敗戦処 理のための臨時軍事支出などによって,45年10月には,132倍となった12)。三 島でも,42年を100とした物価指数は,43年107,44年111であったが,45年 末には46年439,47年には実に1869となった13)。このため官吏・教員を含めて 頼るべき農家をもたない労働者の家計は破局的状況となった。

 商工業者のぼあい,売るべき商品の入ってくる商店では「品物が飛ぶように 売れたので食うには困らなかった」。しかし品物を入手できなかった商人や材 料を入手できなかった製造業者は,工場での働き口がないうえになかなか営業

を再開できず,さらにインフレに襲われて厳しい経済生活を強いられた14)。

 農民のぼあい,労働者のような飢餓状況はなく,また流入人口によって労働 力不足は解消したが,肥料不足等によって農業生産はただちには回復しなかっ た15)。しかも農業生産の発展を妨げてきた地主・小作制度は依然残っており,

45年11月段階での全農地面積に占める小作地の割合は,静岡県の平均43%にた いして三島 市62%駿東郡長泉村56%,同清水村68%,田方郡函南村58%とかな

りの高率であった16)。

(7)

59

 戦争は第3に,人々の人格にも大きな被害を与えた。圧倒的多数の人々が,

「聖戦」であることを疑わずに戦争に協力をし,突然発表された敗戦を知っ て,生きる目的を見失い,敗戦後の自分の人生と社会について見通しをもてな い状態となった。とくに,それまでの自らの人生のほとんどすべてを戦争とと

もにすごしてきた20才前後の青年にとって,敗戦はそれまでの人生の全面否定 に等しかったため,「村芝居や手踊りをしてその年いっぱい遊びほうけた」者

も少なくなかった17)。

 こうした状態にあった人々にとっての第1の実践的課題は,生活の再建とく に経済生活の再建であった。失業中の者は職をみつけ,就職している労働者は 生産を維持・拡大しつつ,激しいインフレのなかで生活できる賃金を確保する こと。商工自営業者は原材料・商品を手に入れ,生産と販売を再開すること。

農民は,荒れた土地を耕し生産を維持・発展させること。

 第2の実践的課題として,物質的にも精神的にも人々を苦しめた戦争の原因 を,社会的基盤を含めて徹底的に克服することがあった。農業生産力の発展を おしとどめ,国内市場を狭いものとして対外侵略を促進し,あらゆる封建的な ものの基盤となった地主・小作制度。地主・小作制に依存しつつ成長し,対外 侵略による経済的利益を直接に得た財閥中心の経済運営。これらを支えてきた 企業・官公庁での差別的職階制度と家族制度,司法・警察制度。これらを解体 し,民主主義的制度や生活習慣を社会のすみずみにまでうちたてる必要があっ た。そしてそれらを包括する課題として,天皇を主権者とする明治憲法を廃棄

し,国民主権と基本的人権の保障を明記した新しい憲法をうちたてる必要があ

った。

 第3に,右のふたつを結ぶものとして民主主i義的な大衆運動組織が階級・階 層別に,またそれらを含む統一的戦線として組織される必要があった。労働者 組織・農民組織・商工業者組織・婦人組織・青年組織などの諸組織とその運動 に媒介されてはじめて,日常生活上の課題と制度上の課題とが実践的に統一さ れるうからである。

 そして,いまのべた3つの実践的課題を統一してすすめうる主体となるため

に,これらの課題を解決するための具体的実践と統一して,その実践の意味を人

(8)

類史や自らの生活史とのかかわりにおいて一般的かつ具体的に把握することが 必要であった。生きる目的の喪失や将来の生活についての見とおしのなさから

くる不安の克服は,このことによってのみ克服されうるものだからである。そ して,日本中の他の地域と同様に,三島周辺においても,右の必要を学習要求 に転化させ,学習活動を組織化することに,社会教育実践の課題があった18)。

 (2)自主的な学習文化化活勤の芽ぽえ一伊豆文芸会一

 右にのべた学習必要を何らかのていどで充たそうとする人々の動き18)は,三 島では,青年層においていち早く顕在化した。1945年の「九月ごろになると,

敗戦によって召集が解除された若者や徹用工場から帰郷した三島商業学校の卒 業生を中心としたグループが更伊豆文芸会 をつく」る準備をはじめ,10月に

「約十名で正式発足」させたのである19)。この伊豆文芸会(以下「文芸会」と する)は,11月には約60名の会員を擁するに至るが,その活動においては,ハ イキング,レコード,コンサートとともに研究会に力が入れられた。すなわ ち,「真理を語ろうではないか」との呼びかけのもとに,「文芸一般」「音楽」

「短歌」 「詩」 「社会科学」の研究会が設けられ,文芸においては「リアリズ ム」の主張がなされていた20)。

 9月段階から組織化がすすめられ,遅くとも45年11月段階で「社会科学」の 研究会が組織され, 「リアリズム」の主張がなされていたことは,注目に値す る。そしてそれが可能であったのは,酒井郁造のように戦時中社会科学の一端 にふれ,戦後の文化運動について一定の考えをもつのが,リーダーのなかにい たからであった。

 酒井郁造は,1944年に東京商科大学の商業学校教員養成課程を卒業した後,

三島で国民学校教師となった。そして戦争に疑いをもちつつも自らを説得し て,年末に応召21)。45年9月7日に復員。その後間もなく母校の三島商業学校

(中学校併設)の教師となった。

 東京商大で,担任であった上原専禄を通じて,社会科学の一端にふれた経験

をもつ彼は,復員後間もない9月14日と25日付の日記において,敗戦と日本文

化との関係について,検討を試みていた。その中で彼は,まず①自分たちの生

活を客観的・批判的にとらえる努力の弱さと,②社会と個人の関係把握におけ

(9)

       61 る国家主義的・家族主義的傾向の強さと個人の権利・義務観念の弱さとの二点 を,従来の日本文化の問題点としてあげていた。ついで,その問題点を生みだ

した要因の一つとして,文化の都市集中と民衆からの切りはなしを指摘。その うえで,今後は,民衆の文化水準の向上のために「教育特に社会教育,及び文 化の民衆化が考へられる」とのべていた。そして彼は,これと同趣旨の文章を 文芸会の『会報』ag−一号「序文」として掲げた。

 このことから近代的契約を軸とした社会を意識的に実現しうる個人を育てる ための「文化の民衆化」の場として,酒井は伊豆文芸会を位置づけていたと言 いうる。そして,文芸会における「社会科学研究会」の設置や文芸におけるリ アリズムの主張には,少なくとも,この酒井の考えが強く反映していたといえ

る。

 右の酒井の考えは,11月段階で,文芸会中心メンバーにおいては一定の共通 認織になっていた22)。しかし,会員の多くは「真理を語らう」との言葉には共 感しつつも,その内容の方向性をつかんではいなかった。そして,酒井を含め て中心メソバーもまた,自らの「真理」 「社会科学」 「文化」の内実把握の不 十分さを自覚していた。それゆえ青年たちは, 「真理」 「社会科学」 「文化」

の内容を的確iに提示してくれる人々を強くともとめていた。文芸会の中心のひ とり笠井章弘はr会報』で次のようにのべていた。

 「大学の学問は最早講壇から降りる時代が来たのだ。一日も早く民衆と共に  語り,啓蒙して欲しい23)。」

 (3)三島市民に対する旧勢力からの働きかけ一三島文化協会の結成と活

  動一

 三島における文化活動の動きとして,もうひとつ注目すべきものに,オール ド・リベラリストを含む旧支配層の人々による三島文化協会(以下「文化協会」

とする)の設立(1945年10〜12月)がある。その組織化の中心人物は,戦時中 に静岡県視学官,大政翼賛会静岡県錬成部長を歴任し,戦後に三島商業学校長 となった伊藤三千代であった。

 伊藤は,戦時中も市民むけに毎週一回三島大社で,本居宣長を中心とする国

学の講義を「国粋主義的ではあったが好戦的ではない」内容でおこなってい

(10)

た。その彼が文化協会組織化にとりくんだのは,「戦後,政府が t文化国家 と言いだしたので早くそういう訓練を国民に与えなけれぽと思って」のことで

あったという24)。

 1945年10月29日,彼は三島商業の職員会議で,今後の教育のあり方について 報告。r根本方針」は「終戦の大詔に準拠」し「平和的文化国家の建設」のた

めに「日本的民主思想を長養」することにあるとしつつ,とくに「社会教育」

に言及。三島商業において「毎日曜午前九時ヨリニ時間」,「公民的」なもの

「英会話」などを含む「文化講座」をひらく考えを示した25)。

 その直後の11月2日と6日に,文部省から,次のような内容の通達が出され た。すなわち, 「思想善導委員会ヲ廃止シ新二社会教育協会ヲ設置」し, 「文 化講座」「公民講座」などによって「立憲治下二於ケル公民トシテノ識見ノ長 養二努ムルコト」。社会教育協会の「役職員ノ選任二付テハ出来得ル限リ民間 人ヲ以テ之二充テ」,講座などの実施のさいは学校施設の使用や講義の公開を 含めて「学校教職員ヲシテ積極的二其ノ指導二動員スルコト26)。」

 これらの通達が出されると伊藤は,三島文化協会設立講想をうちだし,三島 商業の教師たちに実務的準備をさせる一方,旧翼賛壮年団役員など市内有力者

の組織化に着手した。11月11日,15日の二回の準備会を経て,18日から,渡辺 知雄(三島市長) 「欧米社会事情とその国民性」,伊藤三千代「新日本の行く

   かわなべ

道」,河辺恒次(旧翼賛壮年団静岡県団長) 「民主主義の本質」,を内容とす る「文化講座」がひらかれた。そして12月2日,河辺を会長として文化協会の 発会式がひらかれ,蝋山政道が「民主主義と日本の将来」と題する記念講演を おこなった27)。一連の講演内容は,最もリベラルであったとされる蝋山におい ても, 「天皇大権ノ監用」や国家が国民に対して国体を宗教的信仰のように盲 信させてきたことを批判しつつも,「国体二対スル確信ハ理性ニヨッテ裏付ケ

ラレネバナラヌ」28)と天皇制そのものの存続を前提とするなど,日本の民主化 の方向を示す点で不徹底なものであった。

 以上の経過から,文化協会は,人的にも理念的にも,また活動内容において

も,三島における旧支配層の人々が三島市民に対してせいぜい天皇制を前提と

して自由主義を主張する「目本的民主主義」を普及するものであり,いわば文

(11)

       63 部省主導の社会教育協会の三島版であったといえる29)。

 ところで文化協会が組織化され11〜12月には,すでに占領軍による民主化の 指令が次々と出され,社会主義政党や労働運動も再建され,新聞ラジオは右の うごきや侵略戦争の内幕をさかんに伝えていた。そうした状況下で「過去の生 活に対して抜本的な考察と批判を加え30)」る必要を自覚していた文芸会中心メ ンバーにとっては,文化協会でおこなわれる講演内容は,十分な満足をもたら すものとは受けとめられなかったようである。文芸会の中心であり,文化協会

の事務も担当していた酒井の,文芸会「第二回総会〔挨拶〕」というメモに は,「三島文化協会トノ関聯,本会ノ独自性昂揚」と記されていた31)。

 2.木部達二の働きかけの背景

 右にのべた三島での動き,とりわけ伊豆文芸会と文化協会との矛盾に対し

       かんなみ  かしや

て,当時,三島近郊の田方郡函南村柏谷に疎開していた木部達二が積極的な働 きかけをおこない,12月4日から約一週間,文化協会主催で「庶民大学講座」

がひらかれた。このことが,庶民大学三島教室が成立する直接のきっかけであ

った。

 木部がそのような働きかけを敏速におこないえたのは,何よりもまず,彼が 戦時中から労働者教育や国民全体への啓蒙活動などについての研究・実践の経 験をもち,労働者教育を含む働く国民にたいする教育活動を自らの一生の仕事

と定めていたことによる。

 (1)木部達二の経歴と彼がひきついだ自己教育運動の遺産  ①自由主義教育と足尾争議の影響

      あにあい

 木部達二は,1915年,秋田県北秋田郡阿仁合町の阿仁鉱山で,当時同鉱業所

       かずえ

長であった木部一枝の次男として生まれた。達二が2才の1917年,一枝が合名 会社古河鉱業会社の理事・足尾鉱業所々長に就任。達二も足尾に転居した32)。

 達二の兄の木部修一や親友の拝司静夫の証言によれば,幼少年期の達二の思 想形成に大きな影響を与えたもののひとつは,東京高等師範学校附属小学校で

うけた自由主義教育であった。 「東京高師の附属……の先生であった千葉氏の

合理主義的な教育は,その後の彼の性格を決定した大きな要素であった,とは

木部君がしばしぼ語ったところであった」と拝司は言う33)。もうひとつは,父

(12)

一枝の労働者問題とのかかわりであった。

 1919年,ロシア革命の影響をうけた民衆運動の全国的高まりのなかで,足尾 鉱業所でも労働組合が結成され,飯場制度の改善・労働時間の短縮などの要求 が,木部一枝所長に提出された。選鉱・治金の技術者出身で合理主義者であっ た一枝は,労働者の要求をほぼ全面的に受け入れる回答を示した。しかし,古 河本社は一枝の労働者寄りの対応を不満として,労務担当者を足尾に派遣。第 二組合づくり,警官隊・憲兵隊四百余名導入による労働者の逮捕・解雇など強 圧的対応をするとともに,一枝を引責辞任させた34)。当時達二は4〜5才であ

ったが,庶民大学の専従者であった田中勲の証言によれば,達二はこの一連の 事態を目撃し,それが彼の労働者問題への関心の基底にあったという。

 「『着剣した憲兵隊が労働者をジリッジリッと追いつめていくのを見て,と  てもこわいと思った』と言っていました。そして『そのことがぼくの労働者  問題への関心のいちばん底にあるんだ』と。そういうことは何回か聞きまし

 たね35)。」

 また,修一の証言によれば,古河退職後,一枝は自らの体験をふまえて,設 立間もない大日本協調会のしごとにも携わるようになった。そして,少年期か

ら青年期にかけての達二は,足尾争議や協調会のことをも含めて,父一枝とし ばしぽ労働問題について語りあっていたという36)。

 ②同盟休校への参加・r資本論』読書会・末弘厳太郎との出会い

 自らの自主的行動を通じて,達二が社会問題に眼をむけることになった出来 事は,彼が通う東京高等学校での同盟休校への参加であった。

 1931年2月,東京高校当局は社会科学研究会の活動をしていた学生を放校処 分とした。これに対して,10月に処分学生の復校を要求して108名の学生が

「復校達成委員会」を組織,同盟休校を決議して「山梨県下祝村二籠城」した。

しかし学校側は譲らず,108名の学生を処分37)。「個人の自由の圧迫に反発」

してtれに参加した達二もまた,処分された。これ以後,彼は急速に社会問題 への関心を強め,33年には刊行後間もないr日本資本主義発達史講座』を読 み,翌34年には『資本論』の学習にもとりくむようになった。38)そして,この       いずたろう

社会的関心の高まりに,より具体的な方向づけをしたのが,末弘厳太郎との出

(13)

       65

会いであったと思われる39)。

 1934年に東京帝国大学法学部に入学した達二は,末弘厳太郎担当の民法第2 部に所属し,末弘の講義に出席するだけでなく,彼の個人指導をも受ける立場

となった40)。

 末弘は,足尾大争議のあった1919年から労働者・農民問題を軸に法社会学の 研究をはじめ,1920年代半ぽに『農村法律問題』『労働法研究』を上梓してい た。今日,その法学の歴史的性格は,大正期の社会問題の激化を背景に「労働 者・農民の生存権的諸権利の確立を法学の課題の基底にすえ,これを基軸とし てわがくに政治・社会の民主化の問題に全面的にとりくんだ」ものであり,

「とくに民衆の自主的団結に民主化の推進力を認める」ものであったと評価さ

れている41)。

 末弘はまた,1922年の創立以来の東京帝国大学セツルメントの指導者であっ た。彼はその創立にあたって,「現代社会の最も悲しむべき欠点」である「知識

と労働とが全く別れくになって了ったこと」を克服する一機関として,セツ ルメントを位置づけた。彼は知識が少数の者に独占され「多数の無産者は天性 の才能を抱きつXも……その一生を報ひられざる勤労と憐むべき無智との間に 過して仕舞ふ」ことが,無産老にとっての不幸のみならず,現実の研究を怠り 欧米文献の翻訳・紹介に追われている日本の社会科学の弱点をも生みだしてい

ると批判。この欠陥を克服するために,「社会教育と人事相談と医療」を含む 無産者への「智識の分与」と「社会事情の実地調査」の二つとを,セツルメン

トの「最少限度の任務」とすべきだと主張42)。そして自ら「とくに労働者教育 講座の講師として,また法律相談部の顧問として,その指導性を発揮した43)。」

 このような末弘との出会いを通じて,達二は,日本の社会の民主化,労働者

・農民の自主的団結と生存権確立,民衆に対する教育活動,それらと結びつい た日本の学問の発展などに関心を強めたものと思われる。そして,このなか で,彼自身も目撃した足尾での労働老のたちあがりやそれへの古河本社の対応 なども,達二の主体的な関心の対象になっていったのではなかろうか。

 ③東京電機での体験一労働者の現実・労働者解放運動との出会い一

 しかし1938年の東大法学部卒業の段階では,達二は,まだ「確i固たる目標を

(14)

つかむところにまではいっていなかった。」「のり気ではなかったが」父の縁 故で東京電機株式会社(39年の合併で東京芝浦電気となる)に入社。川崎の堀 川工場で労務担当係となった44)。そして,この東京電気での体験が,達二がそ

の後,労働者解放・労働者教育のための人生を歩む直接のきっかけとなった。

 達二が在職した1938〜40年には,すでに総力戦体制へむけての労働力政策が 展開されはじめていた。国民徴用令の適用によって若年労働力が急増している なかで,生産費上昇をおさえるための賃金統制令や若年工の転職防止のための 従業者移動防止令などが出されるなど,戦争による労働条件の悪化がはじまっ ていた45)。古河鉱業の重役の家に生まれた大学卒の達二は,ここではじめて

「生きた労働者にふれ,その生活のみじめさ不合理さを痛感した」といわれて

いる46)。

 達二は同時に,東京電機におけ労働者解放運働からも影響をうけたと推定さ

れる。

 全国的規模での階級的労働運動が消滅したのちも,川崎の東京電気では,

1938年はじめから,中西功の実弟である中西三洋を中心とする「京浜グループ」

の観劇・雑誌の回覧などがおこなわれていた。同年9月,治安当局はこれを共 産党の再建活動であるとして中西らを検挙した47)。しかし,そののちも,同じ 月に経済学者戸田慎太郎によって創刊されたr機械工の友』や翌39年5月に戒 谷春松らによって創刊されたr機械工の知織』の配布綱がつくられたり48),

「京浜短歌会」の活動が組織される49)など,東京電気では,労働者の解放運 動,学習・文化運動が続けられていた。そして,労務係であった達二は,これ

ら一一連のできごとを当然知る立場にあった50)。

 右のような状況のなかで次第に彼は, 「労務係としての自己の地位の矛盾に 直面」し,「労働者の生活と精神の合理化のために働く決心」をして,1940年

1月に東芝を退社した51)。

 ④労働法・労働者教育・市民教育の研究と実践

 東芝退社3ヵ月後の1940年4月,達二は東大大学院に,「社会法専攻」とし

て入学52)。「末弘教授のもとで当時はほとんどかえりみられなかった労働法の

研究に身を投じた53)」。43年4月,法学部法律資料整備室の発足に伴い,彼は

(15)

67 大学院を依願退学し,同整備室嘱託となる54)が,この嘱託時代も含めて,達二 は労働法とともに労働者教育などについての勉強をした。その内容は,当時の

日本での,労働者教育研究の到達点をふまえ,かつ関係者の話を総合すると次 のようなものであったと考えられる55)。

 第1は,1920年代以後本格化した日本での労働者教育の歴史的経験と,諸外 国とりわけイギリスのプレブス・リーグ(the Plebs League)の経験について の研究である。

 まずその基本的立場は,前老では,労働者が自主的団結によって自らの生存 権実現の主体となることを促進するものという末弘の立場をうけつぐものであ った。それは,「主人の利益のために体制の保護と影のなかでたたかいのまね ごとをするのでなく,我々の直面する問題についての明析な知識をもって光の なかでほんとうのたたかいをするためにプレブスに入ろう」との呼びかけのも とに「労働者階級の解放の理念を共有する」人々によって,1908年に結成され たプレブス・リーグの立場56)と共通するものであった。さらにとくに末弘の系 譜では,学問普及の活動が学問の鍛えなおしの機会であるとの考えが強かっ

た。

 また,彼が学んだ教育内容・方法の基本は次のようなものであった。④労働 学校あるいは労働大学(Labour College)をつくり,その専任講師あるいは既 存大学の教師や学生による講義を中心とする。講義内容は自然科学を含む全て

の学問領域にわたるが,労働運動にとって重要な経済学・史的唯物論・労働組

合論などを中心に位置づける。講義のほかにテキストの輪読・討論などの電研

究会 なども重視し,プレブス・リーグのように独自のテキストの編集発行も

考える57)。@現実の労働者教育の実践のなかで問題となった講義内容と労働者

の生活・意識の現実との乖離をうめるべくなされたいくつかの提案。③労働者

の生活上の重要問題を学習テーマとして設定し,それを多面的に解明すること

を意図して講i義をくみたてる「ケース・メソッド方式」⑤学習者が自らの生活

体験をふまえ講義内容批判をおこなう 研究会  ◎学習者が解決しようとし

ている問題についてすでに実践的解決を試みている人の経験を聞くこと ⑥生

活の具体的問題点討議から出発し,労働条件・社会制度などの討議を経て,経

(16)

済学などの学習へとすすむコース ◎基礎知識を実際生活に活用する方法の研 究,など。◎さらに,全国的組織化の経験について。プレブス・リーグは1909 年にオクスフォードに中央労働大学(the Central Labour College)を設立

したが58),21年には各地にできた労働大学と協力して全国労働大学評議会

(the National Council of Labour College)を結成59)。日本でも実質的活動は ほとんどなされなかったが,24年と26年にそれぞれ関西労働学校連盟および関 東労働学校連盟が設立され,これらをうけて,26年には「全国労働者教育連 盟」設立構想が検討された。

 第2に,達二は,1940年夏より約2年間,雑誌r機械工の友』を使って,大        うちおかじ        き 森蒲田地区で,自ら労働者教育の実践をおこなった。『機械工の友』は木内誉治

(経済学者戸田慎太郎の本名)によって38年に創刊された。1930年に,社会 科学研究会と反帝同盟との活動のゆえに一高を放校処分されたのち,全協(の 非合法活動に入った木内は,労働者の生活に深く根ざした労働運動を構築する 必要を痛感した。そこで彼は,自ら機械工として歩みはじめたが,その過程 で,戦争の進展とともに急膨脹する速成的機械工・現場技術員の,現場ですぐ 役立つ技術・知識を得たいという要求の強さに注目。それにこたえつつ,合理 的にものを考えられる労働者を大量に育てることを意図して,『機械工の友』

を創刊した60)。雑誌の内容は(イ)技術学の基礎(ロ)現場での工夫の経験紹介(A)作業 に必要な三角法その他の基礎的計算方法を,主な柱としていたが,彼は誌上で

くりかえし「近代的熟練工は,不断に勉強,研究せねぽならぬ」「大切な『腕』

と共に『頭』を常に磨くことが必要です」と「科学的理論と知識」「現場での 工夫」 「研究的態度」の重要性を訴えていた61)。また彼は『機械工日記』を発 売し,そこに機械や工具,製図法などの説明を収録するとともに,『日記』の 本欄に「仕事の種類・出来高…働いた時間や残業請負時間を書き込む」欄をつ くり,自らの労働の社会的側面への自覚を促す努力をした62)。そして同誌は40 年5月には5万部を発行するに至り,少なくない大企業の中に配布綱がつくら

れていた。

 東芝を退社した年の夏,達二は,この雑誌を「どこかでみつけたものという

より,自分たちの雑誌だという風に」いとこの岩崎恭平に紹介し,岩崎の経営

(17)

       69 する蒲田の工場をはじめ,大森,蒲田地域で,とくに連載「現場でどうしても 知らなけれぽならない算術」を使って,1942年まで労働者の学習活動を組織し た63)。その詳細は不明であるが「彼の飛躍がもたらした最初の実践」と拝司が 言う64)この経験は,達二にとって次の意味をもっていたといえよう。それは,

すでにファシズムが日本を席捲していた40〜42年という時点で,ひとりの人間 としての自覚をもち科学的に事にあたる労働者を育てようとする,志ある人々 と何らかのつながりをもちながら,労働者教育実践の体験をしたこと,であ

る65)Q

 第3に,達二は,戦争体制のすすむなかで国民一・般への「学術の普及」を試 みた「国民学術協会」の実践からも学んだと推定される。プレブス・リーグを 高く評価したポール夫妻の『プロレット・カルト』の翻訳者でもあり,かつ自

由主義的出版活動をおこなっていた中央公論社の社長であった島中雄作を出資       vv 

者として,1939年に国民学術協会は創立された。「アカデミズムとヂャーナリ ズムとの真の接触・交流・統一を求める……国民的アカデミー」をめざしてい た同協会は,長谷川如是閑・小倉金之助・三木清・末弘厳太郎ら26人の会員の 研究交流の促進,会員への研究援助などとともに, 「会員を講師とする公開講 座の開設」を重要な事業のひとつとしていた。そして,40年8月に,小倉金之 助,柳田国男らを講師として,第1回公開講座「現代文化の問題」をひらい た。この公開講座は,労働学校とちがい,受講者を階級・階層別に限定せず,

国民一般としている点にひとつの特徴があった。また内容編成にさいしては,

既成の学問の概論の羅列をさけ,「幾分実際問題に蝕れることに力を尽して一

…現代文化の問題を中心と1てそれに関連するやうに講演の方向を定めやう」

としていた66)。

 この時期に,26人の会員のひとりであった末弘のもとにいた達二は,この協 会や公開講座を身近かなものとして知りうる立場にいた,といえる。そして,

次の諸事実から,達二はこの協会や公開講座から小さくない影響をうけたと推

定される。まず,この公開講座の講演のひとつ小倉金之助「数年学教育の革

新」67)が論及している第一次大戦後ドイツのインフレーションについて,その

後達二が,戦後の三島での講義においてきわめて重要な位置づけを与えて論及

(18)

していること68)。また,後に達二は,三島での庶民大学の講義の組立てについ て,「漠然たる一般理論の羅列」を排し「現在の国民生活にとって最も切実な 問題を選び,その問題を根本的に究明する様な」「必要なあらゆる論点を総合 的に取扱う」とのべたが69),この方法とさきにのべた,公開講座の方法とが一 致していること。さらに,46年末に達二は「民衆学術協会」という組織をつく

る70)が,この名称が「国民学術協会」と,酷似していること,である。

 以上のべた研究と実践経験にもとついて,達二はすでに戦時中から親友の辻 清明に民衆教育とりわけ「労働者教育が自分の生涯の使命であると語ってい

た」のだった71)。

 ⑤戦争推進体制の内部崩壊の予測と疎開

 この時期の達二の思想形成で,もうひとつ重要なことは,経済統制法の研究 をつうじて,戦時国家独占資本主義の基本的矛盾とくに戦費調達のためのイソ

フレーションによって,戦争推進体制が経済的に内部崩壊するとの視点を獲得 し,「大日本帝国」の敗戦を見通していたことである。

 1941年以後,達二は末弘らの指導のもとに経済統制法違反事件の判例研究を おこなう?2)とともに, 「中央物価統制協力会議にはいり,『経済統制法年鑑』

の編集に従事73)」。また,44年からは陸軍経理学校で,「国家総動員法」と「経 済法」の講義をおこなった。そして彼は前者の作業などを通じて戦争の経済的 内部崩壊を確信するとともに,それを後者の講義において次のように明言して

いた。

 すなわち,戦費調達のために大量に発行された不換紙幣はイソフレーション をひきおこし,国民経済に重大な影響を及ぼしつつある。そして「モシモコノ 状態ヲソノママ放置セソカ,遂ニハ急速ナ足ドリヲ以テ,信用体制ノ崩壊ヲ通

ジテ物価ノ奔騰・流通ノ擾i乱・生産ノ停止等国民経済ハ名状シ難イ混乱二陥 ル。大東亜戦争遂行ノ途上二於テカカル結果ヲマネクコトハ絶対二避ケネパナ ラナイ。シカシ乍ラ,不換通貨ノ増発ヲ停止シテイソフレーショソノ根本要因 ヲ完全二取リノゾクコトハ,直接軍需資材ノ調達ヲ停止スルコトヲ意味スルガ 故二差シ当リ不可能デアル74)」。

 裏返せば,経済崩壊による敗戦が不可避であるという認識である。達二は,

(19)

       71 この認識にたって「1944年はじめ静岡県田方郡函南村に疎開し,戦争の終結を まった75)」のである。

 (2)丸山真男らの学問的蓄積と民衆啓蒙への意欲

 木部が文芸会と文化協会の矛盾にたいして敏速な働きかけをなしえたのは,

上にのべた木部個人の主体的条件とともに,次の条件があったからでもある。

それは,木部が東大法学部において職場を同じくする川島武宜や丸山真男が,

戦時中に,いわゆる講座派の影響をうけ,ファシズムに強い抵抗感をもちなが ら,日本ファシズムの敗北を歴史的必然と確信しつつ,日本における民主主義 の実現を志向して学問的蓄積をおこなっていたこと。そして,民衆と知識人の 遊離が民衆をファシズムになびかせた大きな原因であったとの自己批判から,

敗戦直後に,民衆啓蒙に対する強い意欲をもっていたことである。

 ①学問的蓄積

 木部とともに庶民大学講座を推進した丸山真男は,1914年の生まれで,1933 年に東大法学部に入学した。彼は一高の学生であったときに唯物論研究会の活 動に参加,検挙され, 「その後兵隊にとられるまで,長い間,特高警察と特高 憲兵に定期的に訊問されたり,召喚されたりした」状況下にあった76)が,ファ シズムの動きが急速化し,左翼学生・文化人の転向が続出するなかで,1936年 に「政治学に於ける国家の概念」を書いた。このなかで彼はファシズムの国家 観が個人主義的国家観を止揚するものではないことを指摘しつつ次のようにの

べていた。

 「今や全体主義国家の観念は世界を風靡してゐる。……我々の求めるものは  個人か国家かのEntweder−Oderの上に立つ個人主義的国家観でもなけれ  ぽ,個人が等族のなかに埋没してしまう中世的団体主義でもなく,況や両者  の奇怪な折喪たるファシズム国家観ではありえない。個人は国家を媒介とし  て具体的定立をえつつ,しかも絶えず国家に対して否定的独立を保持するご  とき関係に立たねぽならぬ。しかもさうした関係は市民社会の制約を受けて  いる国家構…造からは到底生じえないのである。そこに弁証法的な全体を今日  の全体主義から区別する必要が生じてくる77)」。

 ここには,「今や……世界を風靡してゐる」ファシズムへの抵抗感が強く示

(20)

されている。また,きわめて抽象的な表現ながら,市民社会の止揚としての社 会主義への志向が語られている。

 彼はその後,ファシズムがますます日本を席捲し「近代の『超克』や『否 定』が声高く叫ばれたなかで,」「魂の救い」の「必死の拠点」として「明治維 新の近代的側面,ひいては徳川社会における近代的要素の成熟に着目78》」。と りわけ「日本に於ける近代的思想の成熟過程の究明」を「私の学問的関心の最 も切実な対象」として研究をすすめた79)。その仕事のひとつが,戦後,日本思 想史研究に決定的影響を与えた『日本政治思想史研究』に収録された諸論文で あった。1940〜44年に発表されたこれらの論文は,儒教を典型とする「封建社 会における正統的な世界像がどのように内面的に崩壊して行ったか」を実証す ることを通じて,「近代的イデオロギーの成熟」過程をあきらかにしようとす るものであった80)。また,彼はこの作業と並行して,明治維新期の啓蒙家であ る福沢諭吉にそくして,封建的イデオロギーの克服と近代的思想の成熟過程を より積極的に展開するための研究をすすめ,「福沢諭吉の儒教批判」の執筆・

発表(42年)81)や「福沢における『実学』の転回」(46年1月発表)の準備作業 をおこなった。そして43年には「福沢に於ける秩序と人間」82)を書き,福沢に ついての叙述を通して許される限りでのギリギリのファシズム批判をおこなっ た。すなわち,福沢の日本思想史上における意味は「国家を個人の内面的自由 に媒介せしめたこと」にあるとして,次のようにのべたのである。

 「国家的な自主性が彼の最終目標であった事は疑ふべくもない。しかし,

 『一身独立して一国独立す』で個人的自主性なき国家的自立は彼には考へる  ことすら出来なかった。……『独立自尊』……そこには容易ならぬ峻厳さが  含まれている。……全体的秩序への責任なき依存の方がはるかに安易なので  ある。福沢は我国民は『独立自尊』の伝統には乏しいとはいへ,その倫理的  なきびしさに堪へる力を充分持っていると考へた。……彼逝いて半世紀,こ  の楽観がどこまで正当であったかは,今日国民が各自冷静に自己を内省して  測定すべき事柄に属する。」

 末弘門下で木部の6年先輩であった川島武宜のぼあいも,個々の事情は異な

るとはいえ,ファシズムへの抵抗を強く感じつつ,日本の民主化を志向した学

(21)

73 問的蓄積を戦時中おこなっていた点では,丸山と同様であった。丸山と同様,

講座派の影響のもとで育った彼は,農村調査などをおこないつつ,「現実にわ れわれがおかれているところの日本の社会における非近代的諸関係一特に農 村における一の止揚という現実的課題の解決83)」という実践的課題を意識し て,「私有財産制度というものが法律のなかでどのようにあるのか,なかんつく それと経済との関係を追及84)」することを自らの研究課題としていた。そして 彼はその課題の一つの柱として,戦後1947年に『所有権法の理論』として刊行

された「日本の非近代的諸関係・非近代的社会規範と対礁的な近代的所有権の 典型を描きだし分析する」仕事を,42〜45年におこなった85)。また,もうひと つの柱である「日本の非近代的諸関係・非近代的社会規範」を理解するための 仕事として,農漁村調査などをおこないつつ,戦後に『日本社会の家族的構成』

『イデオロギーとしての家族制度』などとして公刊された仕事の基礎作業をお こなっていた。そしてまた86)42年,戦争体制の推進のために施行された一連 の統制経済法の実効であがらないことに対して行政当局が刑罰の強化や倫理を

もって対処したことについて,逮捕の危険をおかして8?)「統制経済における法 と倫理」を書いてファシズム批判をおこなった。すなわち,経済の国家統制 は,すでに歴史的事実として,自由経済と統制の「化合状態」として存在して いる。したがって,我々の期待しうるのはこの「化合状態からの新たな発展の み」であるが,そのためには自由経済に内在する「主体的人間」という倫理性 が忘れられてはならない。「国家とともに又主体的人間の上に基礎づけられる

ところの法と倫理とが統制経済の秩序の支柱たる点に,現代が中世への復帰乃 至復活ではない所以が存する88)。」

 ②民衆啓蒙への意欲

 1944年,丸山は召集され「一兵卒として」広島で通信兵としての任務につき,

被爆した。9月の復員後しぼらくは食糧難電車の混雑その他から研究室に行く

ことそれ自体が困難で,研究室に行っても長野県に疎開していた研究室の図書

の運び入れに追われ,「研究どころではなかった89)」時期が続いた。川島は44

年,すでに大塚久雄・飯塚浩二らが疎開していた神奈川県の与瀬(現津久井郡

相模湖町)に疎開。空襲下,食糧難・交通難のなかを大学に通い続けて敗戦を

(22)

むかえたが,敗戦後強い研究意欲をもちながらも栄養失調などの困難に陥っ

たgo)。

 そうした状況のなかで1945年10月に桜井恒次・瓜生忠夫,中村哲らによっ て,30代の若手研究者の結集をねらいとした青年文化会議の結成の動きがはじ

まり,丸山も川島もこれに参加した9D。

 そのなかで,丸山が最も痛切に思ったことのひとつは,知識人が各個撃破さ れたのは知識人の結集が弱かったためであり,したがって,戦争責任のない知 識人が結集して再びそうした事態になることを避けねぽならない,ということ であった。そして,もうひとつは「知識人と民衆との遊離に対する強い反省」

であった。

 「ぼくらは30そこそこで,自分も一兵卒でとられているわけだから,普通の  意味での戦争責任があるとは思わないけれども,もっと広い意味で,知識人  のあり方をめぐっては反省が強かったわけです。r象牙の塔』的に大学の自  由を守るということだけでいいのか,それじゃいけないんじゃないかという  気もちが非常に強かった。それは,今までの学問に対する自己批判ですね。

 民衆にたいする啓蒙運動というよりは。具体的には啓蒙運動になるわけです  けれども。インテリの自己批判というかたちで,のちの日本のファシズム分  析の考えがその時に出ていたわけです。擬似インテリが大衆とくっついてい  て,あれだけ大きな動向となり,それにたいして,岩波文化人あるいは旧制  高校的なインテリは浮きあがってしまって,大衆から遊離していたため,反  ファシズムに結集できなかったという批判がありました。ぼく個人について  いえば,福沢のr学問のすすめ』の精神一人民の智力が向上しなければ,

 学者ばかりでいくら研究が進歩してもだめだというのが,大きかったです  ね。そして,それは,青年文化会議に集まった人たちの多くに共通していた

 んじゃないでしょうか92)。」

 青年文化会議は,12月から具体的な研究座談会を開始93),翌1946年2月に創 立総会をひらき川島を議長,中村を副議長,丸山を運営委員の一人とした。そ

して当日採択された「宣言」(川島の起草によるといわれる)は,「我国の自由

主義者は,明治維新以来の自由民権運動を継承育成することなく,封建的なも

(23)

75

のを克服しえず,剰へ軍国主義に服従さへするに至った」とファシズムに屈服 したオ・一ルド・リベラリストを批判するとともに,「かかる一切の自由主義者 との挟別を宣し」ていた。そして,「社会的経済的民主主義の実現」と「社会 に残存する封建性と非合理性」との「闘争」のために「我等相集り,社会文化 一般の現実問題を討議して,自らを豊かにし,且その成果を以て若き民衆に呼 びかけ,啓蒙活動に遭進することを誓約」していた94)。

 3. 「庶民大学講座」の実施と庶民大学三島教室の成立  (1)庶民大学講座の実施

 ① 実施に至る経過

 1945年12月4日から木部・丸山らは現地三島の人々とも協力して庶民大学講 座を実施した。そこに至る経過は,関係者の証言を総合すると大よそ次のとお

りであった。

 木部は11月の「文化講座」に自ら出席し,そこで講演内容を聴くとともに,

復員した青年たちが講演の内容に不満をもち,より根本的な問題提起を求めて いることを知り95),三島で啓蒙活動をおこないうる可能性が大きいと判断し た。彼はこの動きと自らの判断とを丸山真男らに伝え,相談して三島での具体 的計画をたてた96)。そして三島商業に伊藤を訪ね「民主主義ということについ て根本からしっかり学ぶ必要がある」とのべ,自ら計画を提示した。伊藤は青 年たちからの批判を前に「具体的にどうすすめるか迷っていたところだったの で,これはいいことを言ってくれると喜んで」木部の提案をうけ入れた97)。そ

して,その講座を「労働大学講座」とせずに「庶民大学講座」としたのは次の 理由によると思われる。まず母体が三島文化協会であったこと。また丸山に

「ファシズムは翼壮の指導者などをつかんだから強かったんだ・これからはそ ういう人に働きかけなけれぽならない」という考えがあり,木部もまた「労働 者階級が中核だという考えが強かつたにしても,勤労大衆全体に働きかける必 要があるという点では一致していた」こと98)。さらに,木部の内面において

「庶民」とはt Plebs の訳語であったこと。

 ② 庶民大学講座の実施

 1945年12月「四日から一週間にわたり……三島市役所議事堂に開催」された

(24)

庶民大学講座のテーマと講師は次のとおりであった99)。

 日本の社会と婦人      川島武宜  明治の精神       丸山真男  憲法改正の諸問題      佐藤 功

 インフレーシ。ンの本質と対策       木部達二100)    1  今日残されている記録によれぽ,これらの講義の内容は,大よそ次のような

ものであった。

 《川島》 日本の女性の社会的地位の低さ,社会的無関心は,日本社会の後 進性のひとつである。だから,日本女性の地位向上は,日本社会の民主的変革

とくに封建制の一掃と不可分である。そして,それをするためには,女性が自 らたちあがることが大切である101)。

 《丸山》 戦後の日本のように,戦争責任追及のあいまいな国は珍らしい。

それは,福沢諭吉に代表される維新初期の封建制批判が天皇制国家のもとで抑 圧されてきたために,一部の知識人をのぞけぽ,「雷同,面従腹背,依頼心空 威張……被治者根性」などの封建的精神にたいする批判意識が国民の間に定着 しなかったことと深く結びついている。それゆえ,今こそ封建的精神との自覚 的たたかいをおこなった明治の精神の継承が大切である102)。

 《佐藤》 封建制一掃の法的保障は憲法改正のあり方にかかっているが,そ の核心は共和制の検討をも含めた天皇制問題および主権在民原則の検討のあり

方にある103)。

 《木部》 国民の経済生活を「破局化ノー歩手前」にまで追いつめているイ ンフレーシ。ンの原因は戦費調達のための不換紙幣の増発にある。それは「資 本主義経済機構の矛盾一その表面化現象」であるから,インフレーシ.ンの 克服は資本主義の克服と不可分である104)。

 これらの講義は,いずれも戦時下において敗戦を予測し,戦後における日本 民主化を展望しつつなされた研究成果にもとつくものであった。それは,敗戦 後の日本で国民が直面している諸課題一婦人解放・戦争責任の追及・インフ

レーションの克服・自主的批判的精神の確立を,日本社会の民主化と結びつけ

てリアルに提起さしており,それゆえ「大盛況裏に終った」のだった。戦時中,

(25)

       77 あるいは戦地であるいは国内で,一兵卒や徴用工として苦しみをなめ,突然の 敗戦発表によって人生の展望を失い,再びそれをつかもうと真剣に考えていた 青年たちや,多少とも戦争を冷静に見ようとしていた人々にとって,これらの 講義は文化協会主流の人々の講演に比べて説得力のある魅力的なものとして映 った105)。しかしその反面,天皇制の問題や資本主義の是非について,講師の 見解と文化協会主流の人々との見解ちがいもまた,この講座を通じてのもあき

らかとなった106)。

 (2)庶民大学三島教室の発足時における木部の構想  ① 庶民大学三島教室発足に至る経過

 「庶民大学講座」に参加した青年たちに,木部は同講座の継続を提案し,青 年たちもそれを希望した。しかし,形のうえで「庶民大学講座」を主催した三 島文化協会の主流の人々は,文化協会主催での継続に賛成しなかった。そこで 青年たちと木部とは協議のうえ,文化−協会をはなれて「庶民大学講座」を継続 することとした107)。すなわち,木部は,一方では東京で,丸山らとともに三

島にできた学習活動組織化の芽を全国的に発展させるために「庶民大学協会」

をつくって108),「積極的な戦争協力をしなかった人を最低の基準として109)」講 師えらびをすすめた。他方彼は,三島において,青年たちとともに「庶民大学 三島教室設立準備会」を結成したのである。そして,1946年はじめに「庶民大 国三島教室に設立準備会代表木部達二」名で,参加の呼びかけの「手紙」が出

された。

 ② 呼びかけの「手紙」に見る木部の構想

 呼びかけの「手紙」における木部らの構想で注目されるのは④「目標」とし ての「学問の一般化」とその実現のための「教室」での内容・方法,㊥Q庶 民 を対象とする意図◎全国的組織化の意図である。このうち@についてはす でにのべたので,ここでは④と⑳についてのべる。

 まず④について木部は,「庶民大学協会が目標としている『学問の一般化』

とは『学問の民主々義化』と言っても良い」としたうえで,それは@「学問を 一般国民のものとすること」=学問の普及と⑤「一般国民によって学問がため

されること」との「二つの意味」がある,とのべた。

参照

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