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4. 庶民大学三島教室の終焉と歴的意義
1. 庶民大学三島教室の終焉 (1)木部達二の死と模索の断絶
1948年2月22日,木部達二が死去した。33才であった。このことを直接のか きっかけとして,庶民大学三島教室は,その終焉をむかえることとなった。
木部は,すでに46年8月,多忙による「無理が重なって……腰部神経痛が急 発」し,その年の9月に,一時入院生活を送ったことがあった。入院生活は彼 に健康を回復させたが,諸活動に復帰するとまた,「頻発する神経痛」に悩ま
されるようになった1)。休養の必要は自覚されていたものの,講演・労組の相
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談・選挙・地方労働委員のしごとなどは,彼に十分な休養を与えなかった。ま た,当時の食糧難は彼に十分な栄養を与えず,それも彼の健康に悪い作用をし た。そして,47年11月ごろから健康は急速に悪化,「ついに起てない病身を友 人の肩に托しながら……,労働委員会の席上に姿を現わすほどまで至った2)。」
12月になるとその労働委員会への出席も不可能となり3),48年初頭には,「今 (vv)
年をまず闘病の年とすることに決心」し,再び入院生活に入った4)。しかし,
病院でも原因をはっきりつかめず適切な治療がなされなかったこともあり,ま た,さきにのべた「意識革命と文化運動」を含めて座談会の出席など,諸活動 から全面的な手をひくことができなかったこともあり,2月22日,ついにこの 世を去った。直接の死因は,「急性化膿性脳膜炎」とされた5)が,脳膜炎その
ものの原因はあきらかにされなかった。木部の腰痛は結核性のものであり,そ の結核菌が脳に入ったためではないかという医師もいたという6)。
庶民大学にとって,木部の死は,その創設者であり指導者であった人物を失 ったことを意味した。もちろんそれは大きな痛手であった。しかし一般的にそ
うであるという以上に,庶民大学が質的に飛躍しようとするこの時期に,飛躍 をもとめて真剣な模索をしていた木部を失ったということが,庶民大学にとっ ては,決定的な痛手であった。
すでにのべたように,木部の模索は,それが実践に移されてゆくならぽ,庶 民大学の活動を質的に飛躍させる可能性を秘めていた。そして,それを可能に する客観的条件も,全面的にではないまでも,ある程度成熟しつつあった。学 習活動の基盤となる,人々の民主主義を求める実践的努力についていえば,労 働者の他に,北上地区や函南村などの農村部で,農事研究の活発化7),農業会 役員の隠匿物資摘発・再分配要求,恋愛・結婚・嫁姑問題へのとりくみなど8)
がなされていた。また1947年後半になると増税による商工自営業者の経営危機 が深刻化し,営業を守るための組織的運動が,47年4月の静岡を皮切りに48年
3月には沼津ではじまり,49年4月には,「三島生活を守る会」が結成されるに 至った。さらに,48年には消費生活協同組合の運動もはじまった。また地元在 住の専門家の組織化の可能性についていえば,農業では蓄産学の専門家であり 農民運動と関係の深かった松丸志摩三が函南村に,植物生理学の専門家でイネ
おおいのうえ
の大井上式農法や E峰 @(ぶどう)の開発者でもあり戦前からの農民運動の
おおいのOえやすし
支援者であった大井上康が下大見村に住んでいた9)。教育問題では小笠郡掛川 村在住の戸塚廉とは早くから連絡がとれていた。また,三島には日本大学があ
り民主主義運動に共感を示す,経済学その他の専門家もいた。木部と日本歴史 講座のときの講師であった清水の高田要や静岡の内藤晃に加えて,これらの人
々を講師として組織化することは十分可能であった。
だが肝腎の木部の模索それ自体が,彼自身の内面で十分煮つまっていなかっ たこともあってか,三島教室の中心的活動家たちとの共有財産となっていなか った。当時の三島教室の専従活動家であった田中勲は,こんにち次のようにの べている。
「そういうことを断片的に聞いたことはあったような気もしますが,木部さ んからまとまって聞いたり,話しあったりということはありませんでした。
おそらく,木部さんのなかでもまだ,具体的プラソにまではなっていなかっ たのではないでしょうか10。」
木部の親友であり『プレブス文庫』の出版に携わっていた拝司もまた同様であ
った。
「木部君はrプレブス・リーグのようなものをつくりたい』とよく言ってい ました。そして,プレブスの教科書にあたるものとしてrプレブス文庫』を 出そうということで私は東京に来てその仕事をやっていたわけですが,木部 君のそういう自己批判については,東京にいたせいでしょうか,とくに記憶
はありません11)。」
したがって,この時点での木部の死は,彼の模索が三島在住の組織者や拝司と の共有財産となることをきわめて困難にし,それが全体として実践に移される
ことをほとんど不可能にしたのである12)。
(2)庶民大学の終焉とその基本要因
木部の模索が共有されなかったために,彼の病状悪化以後の,現地三島での 実践的努力は,従来からの,東京から知識人・文化人を呼んでおこなう講座の 再開を目標としてなされた。だが,それも,仲介の労をとってきた木部の病気 と死とによって人選や交渉がむずかしくなったことや,講師に支払う交通費・
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謝礼などの費用の捻出のむずかしさから,なかなか具体化されなかった。そし て,ようやく再開されたのが1948年6月の講座であった。案内のr庶民大学通 信臨時号13)』は次のように言う。
vv)
「庶民大学わ昨年の歴史講座を最後に今日迄休講の止むなきに至っておりま (マv)
した。その間何等皆様の要望にお答え出来なかったところわ維持委員会とし て深くお佗び申しあげねぽなりません。而しこのたび講師のあっせんや会場 の準備などに各方面より積極的な御援助を載きまして,再び開講する事にな (ママ)
りました。……庶民大学が今日迄の過程に於てこく服出来なかった欠陥も,
……資金・人手不足等の困難も総て皆様の真実を求め学問を愛する情熱によ れば容易に打開出来るものと確信して居ります。」
ここには木部が病にたおれたのちの運営の困難が示されている。同時に,その 困難克服の手だてを抽象的な「皆様の……情熱」にもとめ,具体的手だてを見 出しえていない苦悩がにじみ出ている。
講義のテーマと講師は次のとおりであった14)。
恋愛と結婚 川島 武宜 労働組合と労働法 磯田 進 現代の文学について 岩上 順一 新しき映画 山本 薩夫 文化と文学 宮本百合子
r通信』臨時号は「映画,文学など今日迄になされてなかった分野をも含めつ
(マV) (マV)
判「『今日を我々わ如何に生きたならよいか』とゆう……問題に重点をおいて 企画」したとのべていた。たしかに恋愛・結婚・映画などを扱うことは,意味あ ることであり,「日常の生活……それを新しいものにきりかえてゆく」べきと の木部の模索をひきついでいるともいえる。しかし,ここには,木部の模索の 中心的視点が欠けおちている。くりかえして言えば,それは,専門家の協力を 得ながら民衆自身が自らの生活現実を研究し学問創造を担うこと,および地域 に生活するさまざまな階級・階層の人々の固有な生活課題をとりあげつつ,多 くの人々に共通な課題についての学習をも組織し,両者を統一すること,であ る。反対に,「そういうことが地方文化運動じゃない」と木部が否定した「地
方文化というと中央から知識をとり入れることだという考え方」が,ここには 依然として根づよく存在していた。
この講座それ自体は,もちろん不評ではなかったが,右の弱点のゆえに,生 活を守り,民主主義を確立するために日々努力している人々の学習必要を十分 充たすものとはならなかった。また,この方式での継続には,東京の知識人・
文化人との仲介者の欠如と財政難とが決定的障害となった。そして,結局,庶 民大学三島教室は,この講座を最後に,その機能を停止した15)。
庶民大学三島教室の終焉の原因として,政党や労働組合との関係をあげる説 がある16)。しかし,これまで検討してきた事実からすれぽ,この見解は適切で はない。たしかに1947年3月の木部の立候補が三島教室分裂の直接のひきがね となったのは事実である。そしてもし,木部が立候補せず,しかも静岡や浜松 では実際になされたように17),47年4月15日の納税日を前に商工自営業者の増 加所得税反対運動をすばやく,組織しつつ,税金問題・商工自営業者問題を庶 民大学でとりあげたとすれば,分裂を避け,庶民大学としての商工業者の積極 的組織化が可能になったであろう。その限りでは,木部の立候補は必ずしも適 切であったとはいえない。しかし,47年4月段階に商工業者の税金問題を位置 づけることは,46年から庶民大学が労働者問題・農民問題を積極的にとりあげ てきたことの延長上に位置するものである。それは,庶民大学が労働者問題・
農民問題をとりあげてきたことの重要性を証明することにはなっても,労働者 や農民の問題をとりあげてきたことを否定する根拠とはならない。だから,木 部の立候補が適切でなかったとしても,それはあくまでも木部の立候補に限っ てのことであって,労働組合や政党と庶民大学との一一・{9X的関係に問題があった ことにはならない。木部の立候補以後の事実は,庶民大学と労働・農民運動な どのつながりが,庶民大学を再建する力となったことを示している。そして,
再建を経た段階で,民主主義をもとめる民衆の諸実践と庶民大学とのかかわり についてのより発展的な方向が,すでにのべた諸点において,木部の内面で模 索されはじめたのである。
これらのことを考えるならぽ,1948年6月に庶民大学三島教室がその終焉を むかえたことの基本的要因は,次の点にあったといえる。それは,48年2月の