アーモスト大学留学記
著者 川西 進
雑誌名 キリスト教社会問題研究
号 59
ページ 299‑317
発行年 2010‑12‑20
権利 同志社大学人文科学研究所
キリスト教社会問題研究会
キリストキョウ シャカイ モンダイ ケンキュウカ イ
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000012370
アーモスト大学留学記
川 西 進
私がアーモスト大学に、内村鑑三奨学生として留学したのは、一九五四年九月のことだった。大学三年に編入し、
翌々年の一九五六年六月に卒業した。内村はその六十九年前、アーモスト大学に留学し、その時の模様を、主著の一
つHow I Became a Christian : Out of My Diary, 1895に克明に記した。私には内村のように自由闊達、鮮やかに描
く力はないが、内村の筆法に倣い、以下、在学中に記した日記、それに家族宛の手紙を主な資料として、二年間のカ
レッジ・ライフについて書こうと思う。
一 留学までのいきさつ
初めてアーモスト大学のことを知ったのは、内村鑑三のHow I Became a Christianによってであった。それがい
つのことか確かな記憶はなかったが、先日家にある昭和一三年一二月初版発行の鈴木俊郎訳『余は如何にして基督信
徒となりし乎』(岩波文庫版)の末尾に、兄や姉の書き込みと並んで、「昭和二三年四月二二日夜、一高入寮当日 進」
とあるのを見つけた。読み終わった日にそう記したに違いない。
その本を読む気になったのは、私の、いや、私だけでなく両親、兄姉の信仰の師であった矢内原忠雄先生の影響に
よる。旧制中学四年生のころから、私は先生の毎日曜の聖書講義の集会に出席するようになり、先生の師である内村
鑑三についても先生から学んだ。旧制一高入学時に読んだ『余は・・・』で、もっとも興味を惹いたのは内村の札幌
農学校時代と渡米後のアーモスト大学での日々を描いた部分だった。内村が新渡戸稲造、宮部金吾らと共にした農学
校の生活記録は、旧制高校の最後の一年を送る私を刺激し、アーモストでの熱い師友の情を伝える文章は、夢見るこ
ともなかった外国留学生活が、昔の遠い異国のものではなく、いまの状況とつながることを語ってくれた。私をアー
モストへと導いた見えない手は、もうその時から差し延べられていたのかもしれない。一年後私は、矢内原先生が初
代の学部長になられた新制東京大学の教養学部に入学、その二年後に、教養学部の後期課程として創設された教養学
科に進学した。先生は、教養学科の理念は札幌農学校から来ていると明言されていた。農学校の教育理念は、主にそ
の初代学長であるW.S.クラークによってもたらされたものであろう。クラークはアーモスト大学を卒業し、そこの
教授を勤めていた人である。だとすれば教養学科にはアーモスト大学のリベラル・アーツの精神が目に見えぬ形で働
いていたのかもしれない。六〇人の教養学科第一期卒業生の内の三人、本間長世、高木誠両兄と私が、卒業の一年半
後、それぞれ全く別の経緯でアーモストに来て一緒になったのは、偶然の出来事ではなかったのかもしれない。
私がアーモスト大学の内村鑑三奨学生募集の話を知ったのは、駒場の旧制一高跡の敷地に建てられた教養学科を卒
業して、大学院人文科学研究科英語英文学専攻修士課程に進学した一九五三年の暮れに近かった。その頃の私は、初
めての本郷キャンパスでの大学院の授業についていくのに精一杯で、外国留学のことは考えていなかった。それにも
拘らずすぐに募集に応じたのは矢内原先生の影響によるものだった。東京大学総長になっておられた先生と、初めて
会うオーティス・ケーリ先生との面接試験のことは、三年前に出版された『追悼オーティス・ケーリ』に載った拙文
に記した。そのとき英語の質問にまともに答えられず、これではだめだろうと思った。更に恥ずかしいことに、その
後、アーモスト大学から正式に入学許可の通知を受けたとき、喜んで書いた先生への便りに「鑑三」を「艦三」と記
した。先生からすぐに「これはひどい」とのお叱りの手紙を受けた。私は内村奨学生に選ばれるに価しない、と取り
消しを願ったが、それは許されなかった。このような恥辱自体が神の御旨によるもの、それを神の導きと信じて進む
ようにと教えて下さった。
アメリカに渡る船に乗る一週間前、ケーリ先生に招かれて、同志社大学アーモスト館を初めて訪れた。ケーリ先生
追悼録に記したように、初代新島襄奨学生の榊原胖夫兄、本稿執筆を依頼された北垣宗治兄に初めてお会いしたのも
その時で、ケーリ先生を中心に在寮生、卒業生等と活発に話し合っている中で、両兄が“patriotism ”について論じて
いるのが特に興味を惹いた。その時には強く感じていなかった日本人としての自意識が、アメリカに行くと、自分に
はどのような形で表に出て来るだろうかと、内村のアーモスト大学留学記を思い出しながら想像し、近づいたアーモ
ストのカレッジ・ライフに、不安と期待が交錯した。
二 アーモストへの旅
一九五四年八月、飛行機よりは格段に安い、貨客船に乗ってアメリカに向かった。内村奨学金はアーモスト大学の授業料と寮の宿泊費、食費を全額免除するもので、現金の授与はない。一方当時アメリカへの旅行者手持ちの金は
三〇ドル以下とされていたから、マサチューセッツ州にあるアーモストに行くため列車でアメリカ大陸を横断するの
では、その間の旅費、食費などが払えない。従って日本から直接東海岸のアーモストに近い大西洋側の港に、新学期
の寮が開く直前に到着する船に乗る必要があった。幸いそのような日本の貨客船の便を見つけて、八月七日夕、名古
屋を出港した。
初めての異国への船旅は見るもの、聞くもの、食べるもの、新しいことばかりで楽しかったが、母と兄、二人の友
人に見送られ、船が岸壁を離れるときは、淋しさを抑えられなかった。夕食後甲板に出ると、海には銀色の波に揺れ
る月、空には降るように散りばめられた星が声援を送ってくれていた。翌日未明、相模湾の彼方に姿を現した故郷の
三浦半島に別れを告げたあとも、しばらくは飛び魚と海豚の群れが道連れになっていたが、千島列島からアリューシャ
ン列島沖にさしかかる頃になると、海全体に冷たい白いガスが立ち込め、何も見えなくなった。再び視界が晴れたと
きに現われたのは、緑の森を背景に真っ白な家が立ち並びその前を車がひっきりなしに右往、左往している光景だっ
た。それが始めてみるアメリカの活気ある姿だった。
やがてロスアンゼルス郊外のロングビーチに到着、二日停泊した後さらに南下、パナマ運河を渡ってから大西洋を
北上、途中ノースカロライナ州のウィルミントンに二日寄港した後、ニューヨークのマンハッタンに九月七日朝着港
した。その日は家の知人の手配で港に迎えに来て下さった見知らぬ方の家で一泊したが、午後、一人でニューヨーク
の街の見物に出かけ、メトロポリタン美術館に入ると、同じように展示を観ていた大学生風の青年が近寄ってきて、
「実は財布を失くしたので金を貸してくれ」と言われた。その余裕はないので即座に断ったが、七十年前内村がアメ
リカに着いたばかりのときも同じような経験をしていることを思い出した。
翌日、ニュージャージー州に住むミセス・プファルツが、私同様大学三年生になる息子さんのジョニーと共に来て、
アーモストに行くまで家に滞在するよう招いて下さった。彼女の妹さんは私の親戚とアーモストの姉妹校マウント・
ホリヨーク在学時代からの親友だった。以後プファルツ家の人たちは、私にとってアメリカでの家族であり、クリス
マス、復活祭などの休暇のときにはいつも温かく迎えて下さった。彼らを通して私は、アメリカの家庭生活の明るさ
と自由、夫婦、親子間の深い愛情、異なる人種、階層の人々に対する博愛など、アメリカのもっともよい面を知った。
アーモストへ行くまでの一週間はアメリカ人の日常生活の一端を体験した日々だった。ジョニーのデート仲間と一
緒に、生まれて初めて馬にも乗れば、公道で初めて車の運転の仕方も教わった。芝刈りをした後その庭で、プファル
ツ姉妹と近くのご婦人たちとお茶を共にし、日曜日には家族一同で教会に行き、祈祷、説教だけでなくヴァイオリン
独奏もある礼拝に出、終われば大勢の人に握手を求められた。その日はサンデー・ディナーの後、ミセス・プファル
ツの弟さんと、隣町に映画Gone with the Windを見に行った。英語がよく聞き取れなかったが、やがてスクリーン
の世界に吸い込まれた。翌日は近くに住むアーモストの二年生になる青年が来て、大学の様子を語ってくれた。
九月一五日(水)朝、ジョニー運転の車で、ミセス・プファルツとニュージャージーの家を出発、五時間余りのド
ライヴで午後三時過ぎアーモストの時計台下に到着した。ジョニーは早速私の入寮手続きを助け、すでに大学に到着
していた私の荷物を宛がわれた部屋に運ぶのを手伝ってくれた。親切この上ないプファルツ家母子と別れたのは四時
半、一人になると、アーモストの生活が順調に始まった喜びをかみしめた。夜ヴァレンタイン・ホールの三階の屋根
裏部屋で、荷物を片付けながら、アーモストでの内村も、ジョンソン・チャペルの横の北寮の最上階だったことを思
い返した。
三 大学入学
翌九月一六日(木)午前九時一〇分、初めてCharles Cole学長に面会した。その第一印象は、“The door opened, and Behold the Meekness!”と、内村の七十年前のSeeley学長との初対面のときの言葉を引用して家に報告した。続 く内村の表現、“the warm grasp of hands unusually tight, orderly words of welcome and sympathy”も、Cole学長 に相応しいと思った。学長は「アメリカの食事はどうか、何でも問題があればいつでも来るように、必要なものが あったら申し出るように」と言われると共に、「ここには日本人が大勢来るが、あまり一緒に固まらない方がよい」と、陥りやすい誘惑に注意して下さった。そのあと学長事務室に掛けられている石河光哉画伯の内村鑑三の肖像画と、
ジョンソン・チャペルの正面右側に掲げられている新島襄の肖像画の前に案内して下さった。英文学の教授に会う
ように手配して下さり、図書館でGeorge Armour Craig教授とお会いし、授業科目の選択について助言を頂いた他、
書架に入って図書館の利用方法を教えて下さった。
午後、先に到着していた新島奨学生の榊原兄の他、外交官研修生のM兄、韓国からの留学生、K.U.兄らに初めて会い、
隣のマサチューセッツ州立大学とのフットボールの練習試合を見に行った。私には始めてのスポーツで、ルールを教
わりながら見たのは、これからのアメリカの大学生活を楽しむのに役立った。Cole学長の注意を覚えながらも、こ
の日初めて会う東洋の友人たちとノーサンプトンの中華料理屋で夕食を共にし、ここですでに一年を過ごした人たち
の話を遅くまで聞いた。
九月一七日(金)は朝九時、教務部長のDean Porterに面会し、受講科目の選択について説明を受けた。こちらか
ら手持ちの現金を補うためのアルバイトが必要なことを訴えると、寮食堂で一時間七五セントで働くことが出来るよ
う手配して下さり、その日の夕食から働き始めることができた。日本で大学時代一緒だった本間長世、高木誠両兄が
アーモストの大学院に入って一緒になるという、嬉しい驚きもあった。
九月一八日(土)朝Craig教授に選択希望の科目を報告。昼は食堂で働く。午後四時より、学長宅で新入生のため
の茶会があった。いろいろな学生、先生と話をしたが、先に日本人留学生を世話したという歌劇の衣裳係をする老婦
人の話が特に楽しかった。夜同室となる学生G.K.君が到着した。ドイツに一年留学していた学究的な青年だった。
家への手紙から︱︱「かくて順調にカレッジ・ライフが始まりつつあります。英語が専攻と言うと、それは一番難
しいコースだ、といわれるので憂鬱ですが、案じていてもしょうがない・・・経済状態に付いて一言。いままでの支
出はSさんから送ってもらった木箱、スーツケース等の運賃一五ドルほどの他に散髪、郵便等々一〇ドルくらい、こ
れから買うべきものはスタンドとアイロン、ノート、教科書類など。しかし三日でもう五ドル稼ぎましたし、十分やっ
ていけると思いますから御心配無用」
九月一九日(日)は日記から︱︱「一〇時、フレッシュマンに交じってフランス語のテスト、予期していたより難
しかった。午後は手紙書き、夜また然り。安息日ならぬ過ごし方なり」
九月二〇日(月)「一〇時からまたフランス語のテスト。幸い両方合格。会計係から私のスカラーシップは全額で はない、room, tuition, boardのみで、あと一学期七二ドル余を払う要ありと言われる。〈それはできない。ポケット
マネーだけ稼げばよいと思っていた〉と言うと、〈では今払わなくてもよい、あらためて考える〉との返事だった」
午前中にCraig教授、午後Dean Porterと会い、受講科目がほぼ最終的に決まる。私はすでに日本の大学を卒業して
いるから、一般学生が一学期に取得すべき最低単位以下でもよいというので、四コース、週一三時間とした。
九月二一日(火)午前中、一学生が私に会いにきた。彼の兄が東京のフルブライト奨学生のガーデン・パーティー
で私と会ったというのだった。榊原、本間氏も交えて、好青年の彼と二時間ほど話しているうちに、明るいアーモス
トの雰囲気が一段と身近に感じられるようになった。午後明日の開講を前にして、必要な教科書と電気スタンドを買
う。アイロンは日本人四人の共有で一台買うことにした。
四 一九五四年度受講科目
かくて九月二二日(水)アーモストの新学年が始まった。午前中に受講登録、身分証明書交付のための手続きを終え、午後二時からオープニング・チャペルがあった。「コール学長の自由論、馬具にたとえての話はなかなか面白く、
あれだけ言うのは相当な決心が必要であろう」などと偉そうなコメントを日記に書いているが、内容がどういうもの
だったのかは、残念ながら思い出せない。夜同室のK君と音楽、美術愛好者の集いに参加した。
九月二三日(木)が最初の授業の日で、ギリシア語入門と英語専攻の一年生の必須科目“English 1”の二科目、翌
日は週五回のギリシア語に加えて、初めての「イギリスの一九世紀の詩」と「アメリカ文学」があった。これで最初
の学期に受講する全四科目が出そろった。“English 1”は英語の作文、週三回で毎回二ページの作文を提出しなけれ
ばならない。ギリシア語は週五回、毎回テキストの一章ずつ進む。「アメリカ文学」は週三回、毎週約一〇〇ページ
のアサインメント、英詩は毎回一五ページほどの読書と週一回のテスト。これまで小学校以来日本では経験したこと
のないたくさんの宿題で「息つく暇もありません」と手紙に書いた。食堂でのアルバイトは一日二回働く日を週四日
とし、朝食のアルバイトはしないことにした。
ギリシア語の先生はJohn Moore教授、白髪、童顔のお顔に、温かい心とユーモアのセンスが同居していることが、
教室での学生とのやり取りからも感じられた。先生は戦争中日本軍の暗号解読の役を果たされたということを聞いた
が、教室ではそんな話を一言も漏らされなかった。忘れられないのは、テキストにあったクセノポーンの名句「海よ、
海よ!」という言葉と、心から絞り出すようにそれを講じられたときの先生の姿である。
アメリカ文学はスミス・カレッジのDaniel Aaron教授が担当された。日本の大学で受けた大教室の授業に近く、
大勢の学生が先生の講義を聴くクラスだった。最初の授業があった日の日記には「面白そうな先生」と書いているが、
いまの記憶に残っているのは、学生の質問や答案にいつも厳しい批判を浴びせる先生で、学生を褒めたことは一度も
なかったと思う。威厳を持ってF.O. Mathiessenの名著American Renaissanceを讃える言葉に励まされ、ThoreauのWaldenや、EmersonのRepresentative Menを読んだ他、Mark TwainのHuckleberry Finnを楽しむこともできた。
五 English 1-2 最も強烈な印象を受けた授業は“English 1-2”だった。英米文学専攻の一年生の必修科目だが、社会科学、自然科
学専攻を志す学生も何人か受講していた。リベラル・アーツ・カレッジであるアーモストの特色を示すものとして知
られ、論議の的にもなっていた。
私の属したセクションを担当したのは若いJohn Butler講師で、学生数は二〇名位だったろうか。最初の授業で
は、書き方の指示はなく、時間内で各自自由に自伝を書かされた。終わると翌々日の次回には「芸術の鑑賞における
自分の経験」について二ページ以上の作文を提出せよ、との宿題が出た。これも書き方は自由だった。提出した「自
伝」は“Interesting and sensible”というコメントがあっただけで評点がなかったのは、まだどういう観点から評価す
るかを受講生に伝えていないからだろうか。最初の宿題についても同じように評点はなかったと記憶する。評価を下
す前に、これまで学生がどのように自分のしたこと、感じたことを受け取ってきたのかを観なければならない、と考
えたのであろうか。提出した作文を資料としてそのことを討論する授業があったあと、私たちの経験の受け止め方、
認識の仕方と、それを人に伝える方法を問題とした以下の宿題が出された。“Make a line drawing of three or four simple objects. 1. What did you do to make this drawing? 2. What did you have to see to draw what you did?
3. Define ‘drawing’ in this context.” それ以後の授業のことは、手紙、日記に具体例が記されておらず、記憶も薄れてしまった。しかし前期最後のアサ インメントの長文の作文には、“You write very sensibly: this is a very good paper.... I think your command of English is remarkably good and what you say is always interesting. And I think you have learned something in this course. ”と評
された。一人一人の答案に、こんな長いコメントが付せられることは日本の大学ではなかったことなのでいっそう感
激した。十数年前、Butler先生が日本に来られたときにお会いしてその思い出を新たにし、教える側にも、教えら
れる側にも、苦労と楽しみの多い授業だったことを語り合った。
六 英詩の授業
「GibsonWalker William 聞生は詩人といた。ていたが、日本で抱先授っの九世紀の英詩」授だ業の担当は教一いていた詩人のイメージとは違って、気さくで明るい方だった。最初の授業のときのことを日記に「初めて質問す。心
晴れ晴れとす」と記したのは、アメリカのdiscussion形式の授業に慣れなければいけないという強い意識があったか
らである。しかし次の授業の日の日記には「Keatsの詩の授業、無言で済ます」その次も「九月三〇日依然無言」と あり、次も「一〇月一日、強制によりKeatsの詩の時質問を一つ」と、苦しんでいる。Keatsが終わるころには、彼
のスタイルをまねた詩を提出せよ、との宿題が出た。夜遅くまでかかって一編をものしたが、その評は“Not bad, in
spite of some lapses”だった。どの部分がどういう点で“lapse”なのかを聞きもせず、“Not bad”と受け取る方も満足 した。次に取り上げられたByronに関しても、幾つかの詩を読んだ後、Byron風の詩を書けといわれた。どんな詩 が書けたかは覚えていないが、選びぬかれた言葉で築き上げたKeatsの抒情詩よりもByronの風刺詩の方が、真似 しやすく論じ易かった。次のMatthew Arnoldの詩になるといっそう近づきやすかった。授業で教えられた読み方が 少しは身に付いてきたからでもあるが、Arnoldの詩に顕著な思想詩的な側面は、英語を母語としない者にも分かり やすく思われた。Arnold の詩に見られるキリスト教とヘレニズムについて書いた拙文が教室で取り上げられたこと
がきっかけとなって、卒業論文でも宗教詩、思想詩を取り上げたいと思うようになった。
そのことを念頭において、三年生後期にCraig教授の「一七世紀の英詩」を選択した。“Metaphysical Poets”と Miltonを扱うコースで、テキストはH.J.C. Grierson, ed., Metaphysical Lyrics and Poems of the Seventeenth Century とMilton詩集に加えて、散文の大著Sir Thomas BrowneのReligio MediciとThomas Hobbsの Leviathanだった。
教授はこれからの授業の“introduction”として、Religio Mediciの最初の一〇数ページを取り上げ、そこでBrowneがいう“metaphysical contemplation”が一七世紀のMetaphysical poetsの世界だと言われた。人が独り瞑想するとき、
孤独ではない、常に神と共にあり、神の知恵と永遠性を斥けることはできない、神の知恵を想って自分の理性に活力
を与え、永遠性を想って昏迷させる︱︱それがいわゆる「形而上詩」の世界なのだ。教授はその好例として、John
Donneの“Goodfriday, 1613”を取り上げ、この詩が、Donneの生まれ育ったカトリック教会の黙想“Meditation”の形
式を踏まえたもので、先ず、過去のある状況を思い出して描く“memory”の部分を置き、次にその情景の意味を求め ての“understanding”、最後にそれに基づく新たな決意を述べる“will”の三部分からなっていることを、公刊された ばかりの名著、Louis L. Martz, The Poetry of Meditation, 1954に言及して示された。一編の詩が、大きな文化、伝 統の結晶として生み出される現場を見る思いがし、卒論ではProf. Craigの指導を受け、Metaphysical poetsの一人 George Herbertを論じたいと思った。
七 一九五五年度受講科目
最終学年度では、卒業論文の他に三科目を受講した。ギリシア語のクラスでは、若き俊秀、Thomas Gould 助教授
の指導で、前期は週五時間『イーリアス』、後期は週三時間、ギリシア悲劇三編を読んだ。古典劇についての活発な
討論が特に楽しかったが、卒業間近の一九五六年四月末の土曜日の夜、ハーバード大学の学生がギリシア語で演ずる
というソフォクレスの『オイディプス王』を、クラス全員がマイクロバスに乗ってハーバードのFogg Art Museumまで見に行ったときは、ほとんど何もわからず、映画や舞台で味わう原語のShakespeare劇の難しさと比べること
さえできなかった。
アメリカ文学に代わって、指導教授の勧めに従って、一九世紀のロマン派詩人Lamartine, Mussetなどを読むコー スを取り、英文学関係では前期にShakespeare、後期にChaucerの二つを受講した。
これら古今の西欧文学に取り巻かれた中で、もっとも強い印象を受けたのはTheodore Baird教授担当の週三回の
“Shakespeare”だった。
八 Shakespeare
Baird教授は、先に述べた革新的なEnglish 1-2の創始者だったから、Shakespeareの授業も尋常なものではあるま いと予想された。テキストはG.L. Kittredge編の戯曲全集、教室では前期、Romeo and JulietとHamletが取り上げ
られたが、その他に全集から三週間に一作程度がアサインメントで課せられた。毎回一〇分程度の小テストがあり、
HamletかRomeo and Julietの一部の暗唱と、短いセリフの出所を聞く問題、それにアサインメントで指定された作 品についての設問があった。そこにも授業の特色が現われているので、手元にあるNovember 14, 1955に行われたテ ストを紹介する。初めに“Do not try to tell all you know. See if you can come out somewhere.”との注意があり、第一 問は教室で読んでいるHamlet の“And therefore as a stranger give it welcome. ”という句(1.3.165 にあるが、テスト
ではその場所を示さない)に関し、「次の空所を埋めなさい」とある。
…… said this to ……… when ……… and it means ………
第二問以下はアサインメントで読んでいるKing Johnについて、テキストを見ながら答える。“Look at King John III, iii, 25 (“Give me thy hand.”) through 69 (“Remember.”) Kittredge, 488.”とあり、以下に二〜六の五問が並ぶ。
二.State in a single sentence what is going on here—on the stage, real or imagined.三.Now look within yourself as reader or member of the audience. How does this scene affect you?四.Of course this scene is not altogether like Titus Andronicus. Where do you locate a positive difference?五.Point to another scene in King John where Shakespeare does whatever you say he does.六.In general, what is this?
翌年一月末に行われた二時間の期末テストでも、Romeo and JulietとHamletから一行ないし二行の句、例えば
“Perpend.”(Ham. 2.2.105)、“It stinted and said ‘Ay’.”(R. & J. 1.3.48)、が約二十選ばれ、小テスト同様、誰が、誰に、
何時言った言葉で、どういう意味かを書かせる暗記中心の問題が全体の七五%が占めた。残りのエッセイ・クエスチョ
ンは「ハムレットを高貴、活発、誠実、正直な青年と思うか」など(ロメオとジュリエットについても質問があった
が内容を忘れた)のまっとうな質問だった。
これらのテストが示すように、一つ一つの言葉の意味、機能、役割を的確に捉えたあとで、それらの言葉からなる 全体像を実人生の枠組みの中で総合的に検証する︱︱それがEnglish 1-2の、またAmherstでの英文学の読み方の規
範とされていたのではないだろうか。
九 卒業論文
最終学年は卒業論文を書く資格のある“honors students”に課せられる英文学の三時間の“General Examination”で始まった。三部に分かれ、第二部は五問ある中から三問を選択だが、他は回答を求められた。第一問(一時間)は
「夜」をテーマにした三つの詩が並んでいて、それを年代順に並べ、どの時代に書かれたかを出来るだけ的確に判断 し、その根拠を簡潔に記せ、というのである。三つのうちの一つは、前期に読んだVaughanの“The Night”と判った
が、あとは初めて読む詩だった。第二部(一時間半)は紹介さえ出来ないほど私の知らぬ作家、作品の一節が並んで
いる問題だった。第三部(三十分)は“Write a brief account of your plans for a thesis. What do you want to do? Why
do you want to do it? How do you know you can do it? であった。それぞれ容易に答えられぬ難問だったが、何と
かパスして卒論に取り掛かることが出来た。
卒業論文の授業は週一度の指導教授との“Conference Course”で、Craig教授の示唆、助言を受けてテーマ、構成
をほぼ決めた後、一一月に英文科の先生全員の前で、一人一五分ずつの「中間報告」をした。それ以後は少しずつ原
稿を提出しては、修正すべき点、補うべき点を指摘して頂いて書き直し、それをまたCraig教授に見て頂くという作
業を繰り返して、五月の第一週に完成原稿を提出することができた。中旬に行われた卒論の口述試験によって合格が
決定し、今後は宗教詩だけでなく、題材を広く取って論じるのがよい、といわれ、卒業後も大学院で勉強を続ける決
心を固めた。
十 大学生活
1 Robert Frost アーモストでは、授業以外にも幾つかの貴重な経験を味わった。専門の英詩に関わることでアーモスト滞在中最も 印象に残ったのは、詩人Robert Frostを囲んでのひとときだった。ゆかりの深いアーモストに毎年来てしばらく滞 在するFrostは、一九五五年四月二二日の夜、私の属していたLord Jeff Clubの招きに応じ、Clubのホールで十数名の学生と三時間の座談の時を過ごした。
はじめて彼の老いた横顔を観たとき、私が強く感じたのは、小さな、澄んだ眼をしばたたかせるときの、子供の ような感性と不屈の意志のきらめきだった。その頃読んでいたHenry Jamesの短編、「巨匠の教訓」と「絨毯の模 様」に出てくる、先生と対面する弟子のような思いで座談に耳を傾けた。それは民主党左派に近い政治意見から
Shakespeareのブランク・ヴァースの考察にまで及んだ。Shakespeareの美しさは弱強の韻律の関係よりも、シラブ ルの数が常に一〇であるところから来るという、日本の詩歌との親近性が指摘された。話にはFrostと同世代、ある
いは一世代前の詩人たちが頻繁に登場した。イギリスの詩で、二つの長音の間に三つ以上の短音の来ることはほとん
どないが、例外はHopkins, Meredith, De la Mareにみられる、と言い、Ezra Poundについては、「彼の病院生活は陰
惨、友だち付き合いは偏狭」で、「私が嫌いな連中が好き」な男だ、と断じた。Marianne Moore, Richard Aldingtonらが、お互いに書いた詩を交換、修正し合う会を作り、入れと誘われたが、「私の詩の作り方はそうではない」と断っ
た、第一次世界大戦中に、同じ仲間の詩人Lascelles Abercrombieとイギリスの海岸で遊んでいたとき、ドイツのス パイと間違えられた、との話もすれば、Faulknerの悲劇的感覚は南北戦争に負けた南部作家に共通するとも言った。
学生たちはそのようなFrost と同時代の詩人たちの交わりを、目を輝かして聴いていた。
私が忘れられないのは“I am not faded out in Unitarianism.”という言葉だった。それに続けて、「私の内にはピュー
リタニズムの伝統が活きているのを自覚する」とも言った。日本にいては聴くことも読むこともできそうもないこと
を、生の声でふんだんに聞けた三時間だった。その夜は自室に帰ってから「八一歳のみごとな白髪の老顔を眺めてい
るだけでも嬉しく、文学史で学んでいる人たちが友人として会話の中に登場するのを聞いて、西欧文化の中心に近く
ある喜びを味わいました」との手紙を家に送ったあと、宿題のMarvellの詩‘The Garden’についてのペイパーを、
夜中の二時過ぎまで書く元気があった。
2 友人 Cole学長が最初に言われた、日本人で固まらないように、という大事な戒めを忘れることはなかったが、アーモ
ストで最も親しくなった友人は日本人であり韓国人であり、今日までその友情が続き、敬愛の情を深めているのも、
アーモストで一緒だったからこそ、と有難く思っている。同国人で固まってはいけないが、人種と生まれ育った自然
と文化の環境が近い者の間に友情が育ち、確かなものになっていくのは、親子、兄弟の情のように自然なことで、故
意に抑える必要はないであろう。そのために他を排除することはなく、むしろその基盤のうえに友情は広がっていく。
留学中私は勉強とアルバイトに忙しく、余暇を楽しむ暇はほとんどなかった。大学内、あるいは近くの劇場で、と
きどき映画、コンサート、演劇などを見る他は、スポーツもダンスもデートも奉仕活動もしなかった。そんな者で
も、二年目にLord Jeff Clubに移って寮生活の楽しみを味わえるようになった。先に述べたFrostを囲む会のような
催しの他、夜遅く、勉強の合間に寮友と飲みながら語り合える時があるのも嬉しかった。同室の友人は感謝祭の折に
メイン州の家に招いてくれた。四年前の六月、アーモストでの卒業五〇年の集まりの際、これらの友人たちの多くと
再会し、交わりが続く喜びを確認し合うことが出来た。
3 キリスト教 週二度以上出席すべきとされた大学のチャペル礼拝によって啓発され、力づけられることはしばしばだったが、内
村がアーモスト留学時代に受けたような啓示を受けることはなかった。それは私自身の問題であると共に、時代の変
化に関わることであろう。内村が、Seeley学長から受けたニューイングランドのピューリタン的福音主義信仰はアー
モストでも力を失っていたように思われた。
五五年の一一月にLord Jeff Clubで講演したユダヤ人神学者は広く当時のアメリカのキリスト教の状況を批判 し、いま九五%のアメリカ人が新旧キリスト教、ユダヤ教の信者であり、七五%がactive memberと言っているが、
三五%の人は四福音書の名を一つも言えないという、統計的事実を示し、これはアメリカに移住してきた人々はアメ リカ国民に同化する必要条件として教会のグループに入っているからだと説明した。真の「信仰」ではなく、「信仰 の態度」に信仰している人が大部分で絶望的な状況にあるが、私としてはただ神に祈るほかはないというのが結びの
言葉だった。
しかし生きた信仰の集まりに参加する機会も与えられた。一九五五年の二月半ば、金曜の夜から日曜朝の礼拝まで、
一〇数名の学生と共に、アーモストの北二〇マイルの雪深い村アッシュフィールドを訪ね、祈祷と聖書の勉強と黙想
の時を過ごした。日常会話を慎みつつ、自由に散歩、読書ができたのも嬉しかった。
一九五五年の四月七日の夜には、アーモストの一教室で、ハーバード大学に滞在中の関西学院大学教授蛭沼寿雄 氏が、“Amherst and Uchimura ”と題する話をされた。氏は内村の孫弟子であり、内村の召天二五年を記念してアー モストで話をしたいと申し出られたのに、Cole学長が快く応じられたのであった。内村スカラにとっても記念すべ
き催しだった。
4 卒業とその後 こうして一九五六年六月一〇日(日)午後六時からの卒業式を迎えた。式には当時ハーバードに招かれておられた
今堀和友東京大学教授が来て下さった。先生も内村の孫弟子と言えよう、矢内原忠雄先生の聖書講義集会で御一緒で、
家族のように親しくして下さっていた方である。卒業式の前夜、今堀先生と共にCraig先生のお宅に夕食に招かれた
とき、お二人の先生を前にして、感謝の思いが胸に溢れた。
アーモストの二年間に与えられたものは何か。それは種類も量も、あまりに豊富で、卒業証書を渡されたあとも、
すぐにまとめることはできなかった。六〇余年たった今、それを一言で言うとすれば、リベラル・アーツの精神であ
ろう。拙文の初めに私をアーモスト大学に導いたものはリベラル・アーツの精神かもしれないと書いた。アーモスト
で待ち受けていたもの、迎え、もてなしてくれたものもそれだった。与えられたものを生かすべき場は、その後の私
に備えられていた。リベラル・アーツの大学教育をするのが私に与えられた仕事だった。しかしそれを果たしてきた
とは到底言えない。遺された日々、少しでもその償いが出来ることを祈る。