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アーモスト大学留学回想記

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アーモスト大学留学回想記

著者 物部 ひろみ

雑誌名 キリスト教社会問題研究

号 60

ページ 113‑126

発行年 2011‑12‑20

権利 同志社大学人文科学研究所

キリスト教社会問題研究会

キリストキョウ シャカイ モンダイ ケンキュウカ イ

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000012567

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エッセイ

   アーモスト大学留学回想記

物   部   ひろみ   

  私は一九八九年秋から一九九一年春まで新島奨学生としてアーモスト大学で学んだ。アーモストは、マサチューセ

ッツ州の州都ボストン市から車で約三時間離れた場所にある静かな大学町である。アーモスト大学は、この町の小高

い丘の上に位置し、キャンパスの一角からはバード・サンクチュアリとなっている森を眺望できる。初めてここを訪

れたのは、アーモスト・サマープログラムに参加した大学三回生の時で、ひと月余りの短い滞在にもかかわらず、こ

れまでの人生の何年分にも匹敵すると感じられたほどの多くの新鮮な経験をすることができた。三〇名ほどの同志社

の学生と団体生活を送るプログラムではあったが、映画に出てきそうな美しいキャンパスでの毎日の英語の授業、さ

まざまなレクリエーション、週末のホームステイ、ボストンや、ニューヨークなどの近郊の都市への訪問は、初の海

外体験だったのと相まって私に強い印象を残した。帰国後も、もう一度アメリカに行ってみたい、そして一学生とし

てアーモストで学んでみたいという思いは強くなるばかりだったが、幸運にも二年後に憧れの地を踏むことができた。

  もしもアーモスト大学に転入できれば、ぜひとも勉強したいと考えていたのが、アジア系アメリカ人の歴史や、文

学であった。一九八〇年代末頃からアメリカではアジア系アメリカ人の文学が台頭し始め、マキシン・ホン・キン

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グストン((Maxine Hong Kingston)や、ジョン・オカダ(John Okada)の作品が脚光を浴び、ブロードウェイで はデービッド・ヘンリー・ホアン(David Henry Hwang)の『M.バタフライ』(M. Butterfly)が上演されていた。

私は文学部英文科の学生であったが、当時同志社大学にはアジア系アメリカ文学の授業や、関連書籍がなく、まだイ

ンターネットも普及していない時代であったので、丸善や、アメリカン・センターで少しずつ情報を仕入れるしかな

かった。アジア系アメリカ文学の作品を幾つか手に入れ、辞書を引き引き読んでみると、英語で書かれているにもか

かわらず、一種の親近感や、懐かしさを覚え、日本人である自分の感性に実にしっくりくるように感じた。また単に

文章のスタイルや、雰囲気だけではなく、私が共感したのは、アジア系ゆえに「人種差別」の対象となった体験が描

かれていることだった。社会のなかで日本人が圧倒的大多数を占める日本という国で生まれ育った私であったが、実

は一九八七年のアーモスト・サマープログラム参加中に、ある出来事に遭遇して以来、自分もそのような差別の対象

になりうることを意識するようになったのである。アメリカの大学では、夏休みの間にキャンパスの見学(いわゆる

campus visit)に出かける親子が多い。秋になってから志望校に入学願書を送るのだが、その前に大学の様子を知る

ために複数のキャンパスを下見に行くのである。私を含む同志社の学生数人が、アーモストの現役学生でプログラム

のアシスタントだったキャシーと連れ立ってキャンパスを歩いていると、ちょうど車に乗って見学にやって来た白人

の一家に呼び止められた。父親はキャシーに幾つか大学に関する質問をした後、脇に立っていた我々日本人学生を見

やり、眉をひそめるようにして“Are they also Amherst students?”(彼らもアーモストの学生ですか?)と尋ねた。

私は反射的に車内の後部座席に母親と座っていた入学希望者の年若い女性の方を見たが、苛立たしそうに睨み返され

た。そしてキャシーが夏の間だけキャンパスに滞在している学生だと答えると、一家は満足そうな表情を見せて去っ

ていったのだった。私を含む同志社の学生は彼らの前では一言も発しなかったので、外国人なのか、アジア系アメリ

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カ人なのか、彼らには判断がつかなかったはずなのだが、なぜ見下すような態度を取られたのだろうか。アジア系と

いう外見を持っているだけで、我々は美しいアーモストのキャンパスにはそぐわない不快な存在なのだろうか。また

キャシーが一緒にいたアジア系の学生が一人だけであれば気に留めなかったのだろうが、はっきりと目につく数人の

グループであったことに彼らは違和感や、反発を抱いたのかもしれない。とにかく、この強烈な経験は私に日本国外

では自分が「黄色人種」として他人から認識されること、またアメリカ社会でアジア系であるのはハンディキャップ

になりうることを実感させてくれた。そして、これを契機に、このような状況のなかで日々暮らしているアジア系ア

メリカ人の人々に対して強い関心を抱くようになった。

  アーモストに到着してから新学期の始まる直前に、キャンパスに遊びに来られていた新島奨学生の先輩にあたる榊

原理智さん(現早稲田大学准教授)と運良く御会いすることができた。同志社大学経済学部の榊原胖夫先生のお嬢様

で、その頃はミシガン大学の院生であったが、ご親切にも専攻や、登録科目のことなどでいろいろと相談にのってく

ださった。そして理智さんご自身がアーモスト在学時に専攻されたアメリカ研究(American Studies)では、文学や

歴史を学際的に勉強できると聞き、大変興味を引かれて私もそれを選ぶことにした。後になって知ったことだが、ア

ーモスト大学はアメリカ研究の草分け的存在で、かなり難易度の高い学科であったのである。必修科目数も多く、専

攻者には全員卒業論文執筆が課せられていた。私は同志社大学でも卒論を書いておらず、英語力も知識も充分でなか

ったのにそのような選択をするとは、なんて無鉄砲で身の程知らずだったのだろうかと今思い出しても冷や汗がでる。

  学期が始まると、授業中に何が起こっているかを理解するのに精一杯という感じであったが、クラスの内外におけ

る手厚いサポート体制に助けられた。まず、登録したクラスの大半が小規模編成だったのが幸いし、教授が私にも話

す機会を与えてくれたり、オフィスアワーに面談の時間を取ってくださったりした。またアフリカ系アメリカ人の歴

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史のクラスでは、授業についていくことが出来ず困っていたところ、先生が毎回ご自分の膨大な量の授業用のノート

をコピーしてくださるようになった。大学院を卒業されたばかりの若い白人の先生だったが、とても親切な方で、ま

た情熱的な授業のスタイルもあいまって学生のファンも多かった。このデービッド・ブライト(David Blight)先生

は、アーモスト大学で一三年間教えられた後にイエール大学に移られたそうである。ブライト先生のクラスもそうで

あったが、私が受けた授業は講義形式のものはほとんどなく、常に学生に対し、先生がいろいろと質問をされ、それ

に対し学生が答えるというスタイルであった。それゆえしっかり準備をしていかないと授業に参加できないため、学

生は皆遅くまで図書館で勉強していた。とにかく読んだり、書いたりする分量が多く、毎回の授業のために一〇〇ペ

ージ近く読み(一つのクラスで、である)、ペーパーも頻繁に提出させられた。夕方には翌日授業で扱う映画が上映

されるのでキャンパス内の劇場まで見に行った。アーモスト大学の先生方はいつも入念に授業の準備をしておられた

が、自分が教員という立場になって初めて大変な努力をされていたことがわかり、今更のように頭が下がる。そして

各々の学生の意見に耳を傾け、それを尊重し、学生というよりも一人の人間として扱ってくださっているのを感じた

が、これもなかなか出来ることではない。

  また卒論執筆のアドバイザーには、アメリカ研究の重鎮であるアレン・グットマン(Allen Guttmann)先生にな

っていただいた。奥様が日本文学の教授というご縁で日本から来た私の指導をお引き受けくださったのである。日系

アメリカ人の文学で卒論を書きたいと希望を述べると、リーディングリストを用意するように指示されたが、グット

マン先生は、なんとそこに挙げられた全ての本をお読みになられたのだった。私が恐縮すると、「あなたを指導する

のですから、あなたが卒論に使う本を私が読むのは当然のことです」と微笑みながらおっしゃったのが、今でも忘れ

られない。大変高名な方であるのに、一留学生のためにそこまでしてくださったことに深く感謝するとともに、研究

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者としての好奇心と教師としての良心を類い稀なほどお持ちだからこそ大学教授としてこんなにも成功されたのだろ うと思った。また日本文学を教えておられたジョン・ソルト(John Solt)先生は、ヒッピーで、ビートニック詩人

でもあったが、この先生の授業は実に刺激的で想像力に富んでいた。この先生からは、常に自由でユニークな視点か

ら世界を見ること、そして絶対的な価値観は存在せず、すべて相対的に考えること、自分の価値観を決して他人に押

し付けてはいけないことを学んだ。残念ながら、ソルト先生はアーモストでテニュア(終身雇用資格)をお取りにな

れなかったが、あのように型破りで感性豊かな先生の下で学べたのは、私にとって実に幸運なことだった。

  アーモストでは充実した教授陣に加え、授業外のサポートにも素晴らしいものがあった。スーザン・スナイヴリー

(Suzan Snively)というライティング・カウンセラーがおられ、学生はペーパー提出前にあらかじめ彼女に見せたが、

単に文法の訂正だけでなく、より良い内容にするための書き直しのアドバイスをいただくことができた。また私の場

合は、留学生だったからか、クリスという大変優秀な学生が家庭教師についてくれたので、テキストの理解できない

箇所を簡単に言い換えてもらったり、ノートを見せて授業中わからなかったところを解説してもらったりした。さら

にはパメラというTESOL(英語教授法)専門の先生が、英会話の練習のために週一回アーモストまで来てくれた。

こういった費用は、すべて大学側がまかなってくれるのである。とにかく至れり尽くせりで、日本の大学の大規模ク

ラスの授業に慣れていた私には、信じられないほど贅沢に感じられた教育環境だった。今思い返してみても、アーモ

スト大学は「リベラルアーツ・カレッジの真価ここに極まれり」と素直に賞賛できる学びの場であり、真剣に学問に

取り組んでみたい若い人たちに留学を強くお薦めしたいアメリカの大学である。

  日本の大学でもこのような教育体制を取ることができれば良いのだろうが、アーモストとは、教員数と学生数の比

率が異なりすぎるため、実現は難しいだろう。なんと言っても当時アーモストは学生数が一六〇〇人でクラスの大き

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さが平均一二人程度であった(現在は一七五〇人に平均一五人)。同志社大学でもゼミによっては少人数で教員と学

生が対話をしながら授業を進めることができるのであろうが、講義科目であれば五〇〇人規模のクラスも珍しくなく、

また語学のクラスでさえ、人数が多い場合一〇〇人を超える学生が一室にひしめき合って座っているような現実があ

る。また一クラスの履修人数が多いのに加え、教員の担当コマ数も多く、それゆえ学生一人一人になかなか行き届い

たケアが出来ない。また日本の大学では、授業の登録や、入試の業務(問題の作成や、採点、試験監督)をはじめと

する様々な校務に教員は多くの時間を取られる。一方、アメリカでは大学入試は行われず、そのかわり学部レベルで

は各大学の入学課(Admission Office)のスタッフが願書に目を通し、入学希望者にインタビューをおこない、膨大

な志願者の中から合格者を選抜する作業を行ってくれるのである(大学院への入学の場合は、スタッフがある程度絞

った志願者のなかから教員が合格者を選ぶ)。このように校務の負担が少ないため、その分アメリカの教員はティー

チングと研究に時間を注ぐことができる。一方、手厚い教育体制を整えたり、専門のスタッフを雇ったりするため、

アメリカの大学の授業料は驚くほど高額で、私立であれば年間数百万円もかかる。もちろん優秀だが経済的に恵まれ

ない学生のために奨学金も多く出しているが、これは学生の絶対数が少なく、また大学が積極的に寄付を募り、株式

投機などで財源を増やすことにより可能にしている。そして一般的に学生ローンも日本に比べ、充実している。

  アーモストの学生は、圧倒的大多数が白人でアッパーミドルクラス出身者だったが、なかには、異なる社会階層の

者がいた。大富豪の子弟(ちなみに在学中は皆質素にしていたので、そのような家庭の出身者だとは気がつかないほ

どであった)もいる一方で、奨学金を得て入学した労働者階級の学生もいた。ニューヨークのチャイナタウンで両親

が小さな食料品店を開いており、休暇中は家の商売を手伝う男子学生もいたし、私と特に親しくしてくれた敬虔なク

リスチャンの女子学生は、ポーランド系の貧しい家庭に育ち、さらにシングルマザーの母親から幼少時に暴力を受け、

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片耳が聞こえなかった。しかし、そのような生い立ちにも関わらず、これらの学生は、自らの努力と才覚とで人生を

切り開いてアーモスト大学にやって来たのだった。また、私のルームメートはエレインという中国系マレーシア人の

留学生だったが、ある日送られてきたばかりのクレジットカードを封筒から取り出してみせ、「私は自分名義のクレ

ジットカードを持つのが長い間夢だったの」と教えてくれたことがあった。彼女もワーキングクラス出身で奨学金を

受けながら、パートタイムでキャンパス・センターの受付の仕事をしていた。アメリカ社会では、自分名義のクレジ

ットカードを持って初めて一人前と見なされ、その後クレジット・ヒストリーを作ることによって社会的・経済的な

信用を築いていく。エレインの場合、大学の名前を信用されて学生であるにもかかわらずクレジットカードを発行さ

れたのだが、カードを取得しただけで彼女には社会的成功への階段を一段上ったように感じられたのだろう。その時

の彼女が大変嬉しそうで、誇らしげだったことを良く覚えている。エレインは後にスタンフォード大学のロースクー

ルを卒業し、今は弁護士として香港の法律事務所で働いているそうだ。私は渡米前、アーモスト大学はエリートのた

めの学校という印象を持っていたのだが、実際は恵まれた家庭の出身でなくても才能とやる気がある者には、チャン

スを与えてくれる開かれた学校でもあった。同志社の学部生だったときに私は米文学の授業でアメリカン・ドリーム

について学んだことがあるが、それは夢物語ではなく現実の話なんだとアーモストに行って実感した。

  アーモストでは課外活動としてAsian Student Association(アジア系学生協会)に参加した。アジア系アメリカ人、

アジアの国々からの留学生、そして非アジア系だがアジアの文化に興味を持っている学生から成り立っているクラブ

だった。このクラブは毎年アジア文化の紹介を目的とした一週間にわたる大きな催しを行ったが、私も巻き寿司を何

百本も作ってキャンパスの学生に振る舞ったり、ニューヨークから招待した獅子舞のグループと一緒に踊ったりした。

二十年前の当時は、アジアの文化がアメリカ社会に今ほど浸透しておらず、とにかく「エキゾチックで異質な文化」

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として受けとめられたように記憶している。和食はもちろん中華料理さえも食べたことがないという白人の学生もい

たくらいなので、アメリカの人気ドラマやハリウッドの大作映画に、箸を上手に使って寿司や春巻きを食べる登場人

物が当たり前のように出て来る現在とは隔世の感がある。

  アーモストで出来た私の友達の多くは、このAsian Student Associationのメンバーだった。当時アジア系の学生 はキャンパスでごく少数で、留学生でもアメリカ人の学生でも区別なしに仲が良かった。Moore Hallという寮の最 上階がAsian Culture Houseと呼ばれる一角になっており、アジアの文化に関心のある学生が固まって住んでいたが、

私の部屋もそこにあった。毎晩遅くなると皆でラウンジに集まって炊飯器で米を炊き、「やっぱりこれが一番おいし

いよね」と言いながら、フリカケをかけて食べたのは良い思い出である。(ダイニングホールで出された食事は、脂

肪と炭水化物の多い典型的なアメリカンフードだった。当時メニューに出てきた唯一の「アジア料理」は芯のある粉

っぽい米飯だったが、おそらくダイニングホールのシェフは、正しい白米の炊き方を知らなかったのであろう。)友

人のなかでも中国からの留学生だったハイリン・サン(Hai-ling Sun)とウォン・チー(Wang Qi)とは特に親しく

させてもらったが、彼女たちに出会うまで私にとって単なる外国の一つにすぎなかった中国が、隣国として急に身近

な存在に感じられるようになった。二人は謙虚で親切であるばかりでなく、驚くほど優秀な人たちで、彼女たちにと

って少なくともアカデミックな面で不可能という言葉は存在しないのではと感じさせるほどであった。また香港、台

湾、韓国、マレーシア、シンガポールからの留学生とも仲が良かった。当時アーモスト大学では、アジアからの留学

生はごくわずかだったが、そのなかでも日本人留学生は、片手で数えられる程度の人数であった。私と同じ学年に慶

応大学から来られた藤倉達郎さんが在籍されていたが、本学の藤倉皓一郎名誉教授のご子息で、シカゴ大学人類学部

を卒業され、今は京都大学で教鞭を取っておられる。藤倉さんは、初級のDrawingのクラス、World Musicのクラ

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スでご一緒したが、勉学の方は言うまでもなく、絵を書いても歌を歌っても飛び抜けておられるマルチ天才型で羨ま

しい限りだった。また日本外務省から派遣されていた柴田さんという方が一学年上におられた。一度アメリカ人ばか

りが同席しているテーブルについておられる柴田さんをダイニングホールでお見かけし、日本語で話しかけたら、普

段はおだやかな方であったにもかかわらず、他の人に失礼だと厳しく注意されたことがある。自分の至らなさを反省

すると共に、さすが外交官は社交のマナーをわきまえておられると感心した。アーモスト大学で出会った学生のなか

には、この他にも優秀で個性的で人間的にも尊敬できる人が大勢いたので、常に刺激を受け、授業では教わらない多

くのことを学ぶことが出来たように思う。

  しかし、数々の素晴らしい経験をさせてもらったアーモスト大学だが、二年間もいると徐々に負の部分も見えてく

るのである。その最たる物が、実に緩やかな形ではあったが人種間の緊張であった。当時のアーモスト大学は(おそ

らく現在もそうであろう)、一般社会からある意味隔絶され、大切に守られた一種の理想的共同体だったが、やはり

多人種・多民族国家アメリカの一部でもあり、その複雑な現実を反映していた。例えば、ダイニングホールにおいて、

人種や民族によって食事を取る場所が自然と分かれていた。私が在学した当時は、ダイニングホールはガーデン、ア

ネックス、イースト、ウエストの四つのカフェテリアに分かれていた。ベジタリアンの食事が出されるガーデンと呼

ばれるカフェテリアにはアート系の学生、フライドチキンなどのカロリーの高い食事を出すアネックスには新入生や、

体育会系の学生が集まったが、一様に白人ばかりであった。一方、イーストにいる学生は、アジア系、アジアの文化

に関心のある非アジア系、クリスチャン・フェローシップ(極めて信仰心の強いキリスト教徒のグループ)のメンバ

ー、もしくはゲイだった。ヒスパニックや、ユダヤ系の人を見かけることもあった。つまり、イーストに集まる学生

の大部分は、アーモストの学生全体から見れば人種や宗教思想、性的志向ゆえにマイノリティであり、(身もふたも

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ない言い方をすれば)大多数から「浮いている」人たちであった。ウエストには、白人とアフリカ系(いわゆる黒人)

の学生が集まった。私は常にイーストで食事をしたが、メニュー次第では隣のウエストに食べ物を取りにいくことも

あった。しかし、そこで目についたのは、アフリカ系の学生が固まって食事をしていること、そして白人の学生が体

操着のような気楽な恰好をしているのに対し、アフリカ系の学生は常に良い身なりしていることであった。アジア系

やヒスパニック系に比べれば受け入れられているように見えるアフリカ系の学生も、やはりマジョリティである白人

から疎外感を感じ、同じ人種の仲間と食事をする方が心地良かったのだろうか。また身なりに関して言えば、バラク・

オバマがアメリカ合衆国の大統領を務める現在とは異なり、一九八〇年代末頃の黒人に対する一般的なイメージは、

必ずしもポジティブなものばかりではなかった。それゆえ、アフリカ系の学生は、自分たちが一般的な黒人のステレ

オタイプとは異なることを、服装を含む、あらゆる手段で示さなければいけなかったのかもしれない。私がアーモス

トを卒業した翌年、学生課や入学課などが入り、大学のアドミニストレーションの中枢であったコンバース・ホール

をアフリカ系の学生グループが占拠し、篭城したという話を人づてに聞いた。そのような実行手段を通して、アフリ

カ系アメリカ人の学生の福利向上、特にアフリカ系の入学者や大学スタッフや、関連の授業の増加を求めたというこ

とである。それが正しい手段だったかどうかはさておき、常に礼儀正しく慎み深く振る舞い、ある意味自らを殺して

いるように見えたアフリカ系の学生たちも、ついに自分たちの権利を求めて立ち上がったのだと感慨深く思った。

  またアーモストでは、アメリカ社会のなかで異なる人種・民族のグループが一見は平和裏に共存していたとして

も、実はその関係は微妙なバランスの上に成り立っていることも学んだ。それゆえ、自分のグループの権利を主張す

る際に他との友好関係を損ねないように細心の注意が必要なのである。以下はそのような体験のなかで最も印象的で

あったエピソードである。アーモスト大学の卒業生にジョン・J・マックロイ(John J. McCloy)という政治家で、

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政府の重要なポストに就いた人物がいるが、彼が私の在学中に亡くなった。マックロイは、第二次世界大戦中は陸軍 次官補(Assistant Secretary of War)、戦後は世界銀行の総裁を務め、アメリカ政府内で大変影響力のある人物だっ

たそうである。私にとっては初めて聞く名前であったがアメリカ人の学生は、マックロイについて多少なりとも知っ

ており、あるクラスで彼の話題が出た際には、一人の白人の学生がマックロイのことを“one of the most celebrated

alumni”(最も著名な卒業生の一人)と誇らしげに評したほどであった。このマックロイを記念する展示が大学図書 館内で開催されたが、これに猛烈に反発したのが、私もメンバーであった前述のAsian Student Associationだった。

実はマックロイは戦時中アメリカ政府の日系人強制収容の決定に深く関わっており、また戦後日系人が政府に対して

強制収容の補償を求めた際に反論し、日本政府に支払ってもらうのが筋であるとの意見を唱えた人物でもあった。そ

れゆえAsian Student Association は、彼を偉人として讃えることに抗議したのだが、大学との話し合いの結果、今度は Associationが中心になって日系アメリカ人の強制収容についての展示を大学図書館で行うことになった。やがて強制 収容の大統領令が発令された二月一九日に“Japs Go Home”と大きく印刷されたポスターが大学構内のあちこちに一斉 に張り出された。Associationの一部の会員が、他の学生の強制収容に対する関心をかきたてるために、このような過 激なポスターを作成したのだった。“Jap”は言うまでもなく日本人・日系人に対する蔑称であり、「汚い日本野郎、国

へ帰れ!」のようなニュアンスがある。戦前や戦中、日系アメリカ人に対して罵倒するときに人種差別主義者が使っ

た言い回しだが、ポスターをセンセーショナルな内容にするために、あえてこれを用いたのである。よく見れば強制

収容の展示の宣伝だとわかるが、“Japs Go Home”の大きな活字がやたらに目をひくポスターであった。ポスターが 張り出された翌日、さっそく問題が起こった。夜の間に誰かがポスターの一つに“Prejudice Is Everywhere!”(差別は

どこにでもある)と落書きをしたのである。さらにポスターには英文雑誌の論説のコピーが貼付けられていたが、そ

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の内容は当時日本で『ユダヤがわかれば世界がわかる』といったユダヤ人脅威説、陰謀説を唱える書物が相次いで出 版されている状況を憂慮するものであった。なぜ“Jap”と反ユダヤ主義が結びつくのか理解できなかった私に、アメ リカ人の学生が“Jap”にはもう一つ意味があり、“Jewish American princess”(「ユダヤ系アメリカ人のお姫様」、す

なわち恵まれた家庭出身のユダヤ系の若い女性を揶揄する言葉)を指すことを説明してくれた。つまり、このポスタ

ーは作成者の本来の意図とは外れたところで、ユダヤ系の学生たちの怒りを買ってしまったわけである。この問題は、

Asian Student Associationのメンバーがあわてて残りのポスターを剥がすことで決着を見たが、この事件から私は、

アメリカの人種・民族間には不和の火種が常に潜んでおり、いつでも一触即発する危険性があると教えられたように

思う。そして日本ではあまり意識することのなかった多人種・多民族社会における現実や共存の難しさについて考え

を巡らせるようにもなった。しかしながら、なんと言っても私が目撃した事件がすべて基本的に上品でインテリの学

生ばかりいる大学構内のことであり、実社会のなかに存在する軋轢とはほど遠いものだったかもしれない。

  友人、先生、スタッフは言うにおよばず、購買部のお姉さんからダイニングホールのおじさんまで誰からも親切に

していただいたアーモスト大学であったが、私は在学中に一度だけ人種差別らしきものに遭遇した。それはかなり重

い病気であったにもかかわらず、ヘルスセンターで門前払いを受けたという体験である。四年生になった年の真冬に、

高熱や嘔吐、激烈な関節痛などの兆候が出たので、一晩苦しんだあげく翌朝大学のヘルスセンターに行った。しかし、

入り口の受付にいた冷淡な白人の女性にいくら症状を訴えても中に入れてもらうことができなかった。翌日、症状が

ますます悪化したので再びヘルスセンターに行くと、また同じ受付の女性ににべもなく断られた。その後ベッドから

動けなくなってしまい、結局友人に町のドラッグストアで風邪薬を買ってきてもらったが、薬は効かず、数日間水だ

け飲んでひたすら耐え続けた。げっそりやつれたものの体力があったせいか、とりあえず回復したが、私はその後長

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らくこの不愉快で不可解な経験について考え続けることになった。アーモスト大学の学生のために存在するヘルスセ

ンターなのに、なぜ私は診療を拒否されたのだろう。できるだけ症状を具体的に説明してお願いしたのに、彼女の答

えが“No”だったのはなぜだろう。だいたい彼女は不機嫌そうにして私と目もあまり合わせてくれなかった。そして

高熱で真っ赤な顔をして、かろうじて体を支えて立っている私が受付で必死に訴えている横を、よほど元気そうな白

人の学生が何人も通り過ぎて中に入っていったのはどういうわけだろう。私がなまりのある英語で話したからか、そ

れとも私の外見が大多数の学生とは異なっていたからなのか。受付の女性の私への対応が嫌がらせだったのかどうか

定かではないが、あれから二十年以上経ち、おそらくアメリカの大学構内で学生がこのような不条理な扱いを受ける

ことは最早ないだろう。しかし当時のアメリカ社会はまだまだ閉鎖的で、アーモストのような開かれた教育の場にお

いてさえ現在では想像もつかないようなことが起こりえたのだ。

  卒業後は同志社大学大学院のアメリカ研究科に進んだが、またアメリカに戻ってアジア系アメリカ人の文学や、歴

史についてさらに詳しく学びたいと思うようになった。特に自分なりに色々と読んだ結果、戦前のハワイで日系人は

総人口の約四〇パーセントを占め、経済的にも政治的にもかなりの勢力を持っていたことを知り、ハワイの日系人史

に強く関心を持つようになった。その後、幸運にも奨学金を得て一九九四年からハワイ大学大学院でアメリカ研究を

学んだ。初めて行ったハワイはアメリカ本土よりもさらに多人種化・多民族化が進んだ場所であり、私の知っていた「ア

メリカの常識」は全く通用しなかった。最も驚いたのが、東海岸では日系人は抑圧される側だったが、ここでは日系

人がマジョリティであり、社会的成功者であり、しばしばフィリピン系など同じアジア系の人々を抑圧する立場に立

っていることであった。最初からハワイだけに留学していたとしたら、このような日系人やアメリカ社会に対する認

識を唯一のものとして受け入れていただろうが、幸いアーモストに行った経験があったおかげで、常に東海岸とハワ

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イの両者を比較する複眼的な視点を持ち得ることができた。

  アーモスト大学に留学してからずいぶん時が経ってしまったが、このようにそこで得た経験や知識は、今なお私に

様々なことを教え、気づかせてくれる。なかには辛い出来事もあったが、現実のアメリカ社会の片鱗を知る機会とな

り、実に貴重な体験をさせていただいたと感じている。そしてアーモストでの素晴らしい先生方や友人との出会いは、

私の学問や研究に対する憧れをかき立て、後に大学院に進学し、アカデミックな道を歩むように導いてくれた。現在

私は母校の同志社大学で教鞭を取り、日系アメリカ人史を一生の研究分野にしている。アーモストで二年間学び、暮

らした経験は、私のキャリアの根幹にあるばかりでなく、物の見方や、考え方に多大な影響を与え、私という人間を

緩やかに形成してくれたのだと思う。またとない留学のチャンスを頂けたことを同志社大学、アーモスト大学の両校

に心から感謝している。

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