2018年度 国際文化情報学会 各部門最優秀賞・奨励 賞
著者 法政大学 国際文化学部
出版者 法政大学国際文化学部
雑誌名 異文化. 論文編
巻 20
ページ 1‑110
発行年 2019‑04‑01
URL http://hdl.handle.net/10114/00021672
論文部門(院生)
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中国における「未識別民族」の アイデンティティの中核は何か
― 貴州省穿青人(チュアン チン レン)を例に ―
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国際文化研究科 修士一年 曽ゼミ
江 軍 哲
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はじめに
周知のとおり、中国は漢民族と 55 の少数民族からなる多民族国家である。しかし、それらの 民族以外にもエスニック・グループが存在している。1950 年代から、地域統治などの必要から、
全国規模の民族識別工作が行われた。しかし、調査者側の結論と当事者の自己認識の間にズレ が生じ、その結果、政府から識別を得られない「未識別民族」が生まれた。彼らは、単一の民 族として認定されないが、独自のアイデンティティを持っているため、自らは単一の民族であ ると主張している。貴州省に居住している 穿チュアン青チン人レンは、未識別民族の中の代表的な 1 つである。
この論文は、今まで穿青人について行ってきた研究内容のまとめであり、主に穿青人の基 本状況や、彼らのアイデンティティの中核についての私の仮説を報告する。
1、穿青人の基本状況 1.1 居住地域や人口
青チン
(黒緑)色の服を着ているため、周囲の民族に「穿青人」と呼ばれた彼らは、現在自称 として「穿青人」を使っている。彼らは、貴州省畢ヒッセツ節、安アンジュン順地域を中心に住んでいる。特に、
織ショク
金キン
、納ナ庸ヨウに多い(30 万人弱)。第 5 回人口調査(2000 年)の結果によると、貴州省省内 において、「穿青人」は約 67 万人で、貴州省総人口の 1.7%を占めている。
1.2 経済活動及び文化習俗、言語
従来、穿青人は農耕をメインとし、鍋作りや布染めなどの手工業活動をサブにしてきた。
現在は一部の人が商業に従事しているが、主流は依然として農業である。
また、彼らにとって、最も代表的な文化活動は、儺だ げ き戯 1 や五ウシェンシェン顕神 2 である。そのほか、冠婚葬祭、
祝日の祝い方なども、独自の特徴を持っている3。彼らは「老ロウ輩べ子ズ話ワ」という方言を持ってい るが、今話せる人はほぼいない(インタビューの結果、8 人のうち、1 人だけが少し話せる)。
1 穿青人の祭典、五顕神にお祈りや感謝などを目的する仮面劇。
2 神様の 1 つ。
3 例:老人が亡くなると、葬式の際に必ず遺体に草靴を履かせ、雀の巣を燃やす。結婚は、族外婚はしないなど。
奨励賞
では、このような穿青人は、一体どこから来た人たちであろうか、彼らはどんなルーツを持っ ているのか。
図 1 五顕神の位牌(左上:五顕壇) 図2 儺劇の際に使うお面
1.3 ルーツ及び貴州省での移住 1.3.1 ルーツ
穿青人のルーツに関しては諸説がある。
(1)費孝通によれば、穿青人は明代に江西から移住してきた屯軍の末裔である。明代洪武 年間、中央政府はミャオ族などの非漢族を「遠く竄かくれ」させるため、兵士を徴発し、屯・
堡という軍事システムを設置した。屯田はさらに、軍人からなる「軍屯」と庶民主体の「民 屯」に分かれている。穿青人は、民屯の末裔であると指摘されている(費 1980 年)。
(2)しかし、1982 年第 2 回の民族識別工作では、費と全く違う結論を出した。調査結果 によれば、穿青人は貴州省の先住民であり、発展の途中で漢族と接触したため、漢族に 影響を受けた。貴州省の地方史を見ると、清朝道光以前の記録に、“ 土人 ” が外来の移民 であるとするような記録は全くない。また、穿青人の系図及び言語分析4から見ると、元 代の頃穿青人の先祖はすでに貴陽の近くに住んでいたことがわかる。
(3)これらの観点を踏まえ、2006 年になると、楊然の論文「穿青人問題」では、次のよ うな観点を出した:「現在の穿青人集団は、様々な集団が流動すると同時に、穿青人に加 入し、新たに構築された集団である」。楊によると、穿青人の内部は、明代からの移民も いれば、当地の「土人」も一部含まれている。このように、流動と再流動の過程で、穿 青人は他のエスニックグループを吸収し、今の穿青人になったとしている。
4 穿青人の老辈子話と系図に記録されている旧居住地の住民が使っている言語との比較。
1.3.2 貴州省での移住
穿青人の先祖である “ 土人 ” は、貴州省中部の貴キ陽ヨウ地域に住んでいたが、中央政府の軍事行 為のため、一部 “ 土人 ” が西の安順に移住した。清末民国初の時、兵役や賦役から逃避するため、
畢節などの人が少ない地域に移住した。このような、外部からの軍事、生活などの圧迫があっ たため、穿青人は貴州省中部から、西北に移住した(周 2011)。このように、貴陽から安順、
そして安順から畢節、穿青人は少なくとも 2 度の移住をしたことがわかる。移住と再移住の 過程において、他の民族と接触した結果、他の民族の文化に影響され、他のエスニック・グルー プと融合する可能性も、否定できない。
このような流動によって生じた穿青人という集団の「民族成分」は、果たして一貫してき たものなのだろうか。
1.4 歴史における穿青人の「民族成分」
歴史的には、穿青人は漢族の中央政府と地域の少数民族との力関係により、ある時は漢族 だと自認し、また、ある時は自らを少数民族であると主張した。その過程を経て、穿青人は「漢 族にも、少数民族にもなれない」ことになった。
ここで参考になるのは、「屯トンパオレン堡人」の例である。「屯堡人」は、明代江南地域から移住して きた「屯軍」の末裔たちである。彼らは穿青人と同じく、「民族成分が定着しない」という特 徴を持っている。塚田(1998 年)の論文によれば、屯堡人は、清末にはミャオとみられて おり、自己意識の上でも「ミャオ」に近づいていた。民国期になり、「漢」と「ミャオ」の中 間にありながらも次第に「漢」側に近づいてきた。なお、一部再移住した屯堡人は、里民に なり、最後は少数民族であるイ族になった。その移住と再移住の過程で、新たなエスニック グループが形成されたことに対し、塚田は「人々が歴史的過程において、他者との民族間関 係や国家の政策、そしてそれらに直面した時の人々のアイデンティティの方向性によっては、
漢族の下位集団を形成したり、別の非漢民族となったりする」と指摘している。穿青人の例も、
他者との民族間関係や国家の政策により、民族成分が変わっていったことは、否定できない。
このように、穿青人の「民族成分」には極めて曖昧な点がある。民族識別工作が展開して以来、
穿青人の「民族成分」をめぐる議論は、何度も行われてきた。
1.5 穿青人民族成分問題の経緯
1950 年代に行われた一回目の民族識別事業で、費孝通(1955)は、「少数民族ではない、
江西省からの漢族移民だ」と断定し、穿青人は漢族に分類された。だが穿青人知識人はこの 結果を認めず、彼らは、調査対象の選択及び資料不足、民族定義について疑問を持ち、政府 に再審査請求を出した。1982 年に出された再識別結果は、穿青人の風俗や方言などについて、
江西省のそれとは全く違うことが指摘された。また、系図からは穿青人の先祖は江西省の住
民ではないことがわかった。しかし、政府はその結果を棄却し、「穿青人と漢族の違う点より、
同じ方が多い」と認定し、穿青人が漢族である認定が維持された。
2003 年 5 月になると、中国公安部は、「身分証の民族成分において、穿青人は漢族と書 いてください」という「意見」を出した。この指示は、多くの穿青人から反対されたため、
2003 年 8 月、「穿青人は今まで通り穿青人でよい」とされた。
ここで、私は「穿青人の民族成分は一体何であろうか」より、「彼らはどうやって自分のアイデ ンティティを維持してきたのか」に着目したい。1950 年代から現在(2018 年)まで、少なくと も 60 年程が経ったが、国から単一の民族として認められていない穿青人は、どのようにして自 分のアイデンティティを維持できたのか。特に、そのアイデンティティの中核は、何であろうか。
2、穿青人のアイデンティティについての疑問や仮説 2.1 疑問
これまで全ての研究は穿青人のアイデンティティの中核は「青色」の服装であると主張し ているが、周の論文では、「穿青人の服装は、清末と民国の頃政府により強制的に廃止された ため、今一部地域しか残っていない」と指摘した。
このような「一部地域しか残っていない」服装は、本当にアイデンティティの中核と言っ て良いのか。もしかすると、今までの研究者たちは、「青」という文字に拘り過ぎたのではな いか。彼らのアイデンティティの中核が、服装ではなく、他のことである可能性は、否定で きないのではないだろうか。
2.2 仮説
私は、「服装」より、信仰である「五顕神」(第 4 節で説明)が穿青人アイデンティティの 中核であると考える。一方、楊然(2006)によると、穿青人は、五顕神は尊い存在として、
基本的にはすべての穿青人の家に祀られている。穿青人にとっては、家の「五顕壇」の有無 で穿青人かどうかを判断することができる。よって、五顕神は穿青人の日常生活に深く溶け 込み、彼らの精神的な支柱となっている。
他の民族にはないこの風俗は、「穿青人」アイデンティティの形成にとって、重大な役割を 果たしたといえるだろう5。私は、一部地域にしか残ってない服装ではなく、このような多く の人が持っている信仰に注目して研究していきたいと思う。
3、仮説の証明
3.1 調査地域及び調査対象
9 月 11 日から 18 日までの一週間を使い、貴州省織ショク金キン以イ那ナ鎮、納ナ庸ヨウ勺シャ窩ウオ郷を中心にフィー
5 屯堡人にも五顕神があるが、穿青人のそれとは違う。
ルドワークを実施した。
現地住民及び儺劇をする道士先生が調査対象になる。ホテルのオーナー、受付の方、村に 住んでいる方々(合計 6 人)や知識人 2 人、道士 1 人にインタビューした。特に、知識人 2 人と道士 1 人とは長い聞き取りを行った(1 人あたり 2 時間ほど)、他の人は短い会話を通じ、
ある程度の状況を了解した。
知識人 2 人のうち、李発春は第二回民族識別工作の当事者であり、李隆彦は、退職した後 からずっと「李氏家族」の族譜を研究している方である。道士である張志超は、父親からこ の仕事を受け継いた人であり、平時は農業をやっているが、祭典の時期6にると、儺劇をする。
図 4 調査対象である張志超(道士)
3.2 調査結果
今回調査した結果、「服装が中核である」と認識している方はおらず、穿青人のことを全く 知らない人以外、すべての方は、「五顕神への信仰で、アイデンティティの維持ができた」と 述べた。特に、インタビュー対象の李発春に楊然らの服装が中核であるという意見を伝えたら、
「その認識は完全に間違っている、我らは、五顕神があるからこそ維持できる」と言った。ま た、調査の際「服と五顕神と、どちらの方が大切だと思うか」を聞くと、「服」と答える方は、
1 人もいなかった。このように、研究者の観点と当事者の自己認識の間に、またズレが生じた。
民族を研究する際、「研究者視点」と「当事者視点」の間にある溝をどう超えられるのか、当 事者の意見はどのくらい採用すれば良いのだろうか。
6 農暦の 9 月 23 日から正月までの間。
「中核は何か」を聞き取った他にも、いくつか気づいたことがある。
今回調査した 2 つの地域とも、穿青人の服装を着ている人が見当たらなかった。「服装」が 中核であれば、穿青人のアイデンティティの維持は説明できないと考えられる。
また、文化的な断層があり、若者は、穿青人の歴史や文化についてあまり知らない。穿青 人の歴史を知っている方が亡くなったら、穿青人の存続はどうなるのかは、1 つの疑問である。
なお、道士の伝承も、1 つの問題となっている。道士は世襲でやっているのではなく、個 人の希望があれば、師匠に教えてもらえる。しかし、現在道士の収入が少ないので、道士に 従事しようと思う人も少ない。言語、服装、儺劇をすべて失ったら、五顕神の信仰は維持で きるのかは、1 つの問題となると考えられる。
3.3 歴史における穿青人アイデンティティの中核の変遷の推測
これからの先行研究及び調査結果に基づき、私は、このようなことを推測した。
穿青人が形成された頃に、「青色」の服装が重大な役割を果たしたかもしれないが7、その後、
「五顕神」の「家神化」(4.2 で説明する)による、五顕神もアイデンティティの中の重要な 1 つとなったことが推測できる。時間が経ち、中華民国になると、政府の政策により服装が廃 止され、服装を持っている家庭が少なくなった。その結果、アイデンティティにおいては服 装より、五顕神が重視されるようになった。時間の推移とともに、アイデンティティの中核は、
服装から、五顕神へ変化したことが推測できる。
服装から、服装と五顕神が同時に存在し、そして服装が衰え、五顕神だけが中核になる。
このように、穿青人のアイデンティティの中核の変遷について、私は 3 段階があると推測した。
さて、五顕神は、一体どのような神であるのか。穿青人はどんな理由で五顕神への信仰を はじめたのか。
4、五顕神の紹介 4.1 五顕神の神話
穿青人の先祖が兵士に追われた時に、河についたが、船がないため河を渡れない。その際、
棹をさして船を漕いでいる 5 人が現れ、彼らを河の対岸まで送った。対岸には、人の影は全 然見えなく、食品も水も何も持ってない彼らは、何をすればよいのか、どうやって食事でき るのかを考えていた。その際、草を食っている豚が彼らの目に入った。そして豚を捕まえよ うとしたとき、山の上にあるお寺を発見した。彼らは、泊まる場所がないため、豚を持って お寺に入った。中に入ると、お寺に祀っている神像は、先の 5 人だった。命の恩人を感謝す るため、彼らは五顕神を祀りはじめた。
7 青色の服装で他のエスニックグループと区別でき、自民族のアイデンティティの形成に役立ったこと。
図 5 五顕神の 1 人 4.2 五顕神への祭祀
李発春によれば、元々貴陽市には「五顕廟」があり、毎年 9 月 28 日(五顕神の誕生日)になっ たら、各地の穿青人は貴陽に集まり、盛大な祭典をやる。しかし、穿青人の流動により、彼 らは貴陽市から遠く離れ、村落もバラバラになった。貴陽に祭祀に行くことが難しくなった 結果、穿青人の先祖は「廟で祀るより、家で祀る方がより便利だ」と提案した。彼らは「五 顕廟」の祭壇の灰を小さい容器に入れ、その容器を各家まで持って帰り、祭祀しはじめた。
その容器は、「五顕壇」と呼ばれる。その際、穿青人の先祖たちは、「この壇は我らのシンボ ルである、必ず代々伝承させる」と約束した。
それから、五顕神への祭祀は、「廟神」(廟で祀る神)から「家神」(家に祀る神)へ転換した。
図 6 儺劇のやり方を記録した本
4.3 周囲の他民族の「五顕神」との違い
穿青人は、自分たちが祭祀するのは「上五顕神」(吉神)であり、他の民族(特に屯堡人)
が祭祀するのは、「下五顕神」(凶神)であると主張している。また、五顕神への祭祀も、穿 青人がやる儺劇は、他の民族の形式と全く異なり、更に「野蛮的」「原始的」である。被調査 者の話によれば、儺劇をする際、道士は、お面を冠って、踊ったり、時に互いに罵倒したり、
嫌らしい言葉を言ったりする。
4.4 五顕壇の伝承
子供と分居したら、必ず「跳菩薩」(儺劇)の儀式をやり、五顕壇を数個(成年男性の人数分)
に分ける。五顕壇を家に置いたら、そのままずっと動かさない。
4.5 現在穿青人の五顕神祭祀状況
穿青人の家には、必ず五顕壇を置いてある。ただし、若者の中には五顕神を知っている人 が少ないので、これからどうなるのかが疑問である。
4.6 儺劇をやる人――道士の紹介
道士は、現地では「先生」と呼ばれる、道教先生以外に、儒教や仏教の先生もいるが、「儺戯」
ができるのは、道教先生のみである。今の道士先生は、ほぼ低学歴者で、「小学校卒業の者が 多い、中学校卒業の者は珍しい」と李隆彦が言った。
学歴が低いなどの原因を含め、今の道士先生の能力は以前よりだいぶ落ちている8。また、
道士の伝承については、勉強したい人が道士の弟子になり、師匠からの許可をもらうと法事 を執り行うことができる、師の一門に入ってないと誰にも雇われないらしい。
張志超(道士)の話によると、現在道士をやっている人は、普段は農業や外地へ出稼ぎに行っ ているらしい9。道士の間の集まりは偶にあるが、その際はほぼ日常会話しか話さない。なお、
道士は違う師門によって、法事する地域も異なってくる。
5 これからの課題
織金県の「桂グイコウ果鎮」には、「穿青人服装ミュージアム」があるらしい。しかし、今回は時間 的制約があり行けなかった。今後は、織金県の桂果鎮にある「穿青人服装ミュージアム」な どを調査し、違う地域における穿青人のアイデンティティの中核に対する認識も同じである のかを確認したい。
また、穿青人のルーツについての再確認が必要である。今までは 3 つの言説があったが、
8 かつての道士先生は、吉日を占う際には指だけで計算できるが、今は本で探さないと行けない。
9 織金県の場合とは違い、勺窩郷の道士は、普段も占いや人の手伝いなどをしている。
今回の調査対象である李発春は異なる意見を出した。結論から言えば、彼も「穿青人は流動 すると同時に、様々な集団を吸収して形成された集団である」という楊然と同じ意見を持っ ている。しかし、最初の「穿青人」はどこから来たのかについては、今までと異なる意見を 出した。彼の話によれば、穿青人の先祖は移民であるが、費孝通の主張のような「明代の屯 軍の末裔」とは違う。「洪武七年の時、明代の軍隊はまだ入植してなかった」と主張した彼は、
穿青人の先祖は「元末の戦争で負けた陳友諒の敗軍が、湖南省を経由した後、貴州省に入っ た人々」であると推測した。彼は、「敗残兵たちは、当時人が少なく、政府の統治力が弱い西 の方に逃げようと思って、西に移動し始めた。途中で、追っ手が来なかったら、一時定居し、
また追われたら西に移動し続けた」ことこそが当時の真実であると述べた。
これらの言説がある中、どれが事実に一番近いのかを確認しないと行けない。ルーツを明 らかにしないと、彼らの集団形成及び集団発展の経緯は確認出来ない。このことは、今後の 1 つの課題として深く研究したい。
また、調査によって、織金と納庸の穿青人道士では、儺劇の踊り方が違うことに気づいた。
しかし、今回の調査の時、納庸で取材を受けてくれる方がいなかったため、詳しい差異はま だ確認していない。儺劇のやり方を確認し、地域により五顕神が果たす機能は同じなのかを 確認する必要がある。
なお、名字について、織金県の場合、「張、王、李、陳」の四姓が多いことに対し、納庸県
(勺窩郷)には、盧ロ姓の方がメインである。名字が違うことは、先祖が違うことと同義である。
居住地域も先祖も違っているこの 2 つの穿青人集団は、どう形成されたのか。この点から見 れば、穿青人の移住経緯を確認できるだろう。
参 考 文 献
<日本語>
1 哈斯額尔敦(2008)「社会主義中国における「民族」概念の政治性と国家政策―四川 雲南ルグフ 地域の納日人集団を例―」『多元文化』 第 8 号、名古屋大学国際言語文化研究科国際多元文化専攻、
p183-195
2 塚田誠之(1998)「民族集団はどのように作られるのか―『屯堡人』は漢族か?」可児弘明・国分良成・
鈴木正崇・関根政美編『民族で読む中国』朝日新聞社、p45-74
<中国語>
1 费孝通(1980)「关于我国民族的识别问题」『中国社会科学』1 期、p147-162
2 李思睿(2016)「中间群体:去边缘化抑或自我边缘化——以贵州屯堡人、穿青人为例」 『贵州社会科学』
12 期、p98-101
3 莫非(2008)「即将消失的僜人(西藏少数派报告——僜人)」『华夏地理』3 期、p152-171 4 杨然(2006)「穿青人研究」(中央民族大学、博士論文)
5 周成勲(2013)「穿青人民族认同问题研究」(貴州民族大学、修士論文)