研究ノート
明 治 初 期 日 本 刑 法 学 の 研 究 ( 一 五 )
石
山崎
二
β 貞
目次
一はしがき(問題の概観)
二仮刑律
e仮刑律の成立
ω仮刑律の法解釈学的検討
ω型態
②名例
(1)答刑
(2)徒飛
(3)流刑
(4)死刑
e御定書百箇条
⇔仮刑律
ω刎首
明治初期日本珊法学の研究(一五)
ノヘ ノヘ ノへ
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・5(6)(5}(4}(3)(2)
斬首
礫
焚刑
桑首
割腹
八虐
六議
応義者犯罪
藩臣処分
僧尼犯罪
老小癩疾犯罪
犯罪時不老疾
婦女犯罪
再犯同罪
六五
神奈川法学
(14)犯罪累減
(15)流罪家属
(16)常赦特赦
(17)徒流人又犯
(18)貯物を給没
(19)罪人自首
(20)二罪倶に発
(21)連累罪を得
(22)犯罪首従
(23)罪人逃走獲ふ類
(24)親属相互に容隠
(25)本条有罪名
(26)加減罪例
(27)旧悪犯事
㈲賊盗
(28)謀反大逆
(29)謀叛
(30)妖書妖言を造る
(31)大祀神御の物を盗
(32)制書を盗
(33)内府及び公塵財物を盗
(34)山陵の樹木を盗
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55
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(4} ノへ ノへ
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殴
ノ ヘ ノヘ ノヘ ノヘ ノへ ノ へn ノへ
輩…444342414039i… §3736ミ 筆
監守自盗
常人官物を盗
強盗
劫囚
槍奪
窃盗
倉庫を破る
親属相盗
牛馬を盗
田野の穀麦を盗
人を詐欺して財を取る
人商
墳墓を発掘
夜中無故して人家に入る
強窃盗の宿
倶に謀て盗を為す盗条科断の通例
闘殴
倶に謀て人を殴檀に人を制縛す
盗を殴 六六
ノヘ ノへ 76757473727170
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ノヘ ノヘ ノへ
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(5) 人 命
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明治初期日本刑法学の研究 帯刀人を殴
役人を殴
良践互に相殴
主人を殴
受業師を殴
宮殿内忽争
親属相殴
祖父母父母を殴
夫妻相殴
父祖被殴
謀殺
祖父母父母を謀殺す
親属を殺
主を殺並主奉公人を殺
殺姦
一家三人及惨毒人を殺妖術毒薬を用人を殺
盗賊を殺闘殴及故らに人を殺
他物毒錨を以故に人を傷る
車馬馳牒人を傷る
(一五)
ノヘ ノ ノへ
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(8) ノヘ ノへ .≪..・.・ ・ )))
(7)ノへ ノヘ ノへ
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(6)
訴 訟 ・
ノへ
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戯誤過失殺傷
人を威逼して死を致す
人命内済
越訴
掛り役人犯事を隠す
匿名書を作て人を殿
謳告
干名犯義
父祖之奉養を欠
捕亡
罪人捕を拒
獄囚逃走
罪人を蔵匿す
犯姦
和姦
強姦婦女を従し及覇て姦を犯さしむ
親属相姦主家之婦に姦す
喪に居て姦を犯す良睦相姦
六七
神奈川法学
(96)管下の妻女に姦す
(97)姦事によって死を致す
(98)姦罪取扱
⑨受賠
(99)柾法不柾法の賠
(001)有事人賄賂を為す
(101)坐賠罪を致す
⑳詐偽
(201)謀判
(301)偽書
(401)金銀並銭を偽鋳す
(501)私に触斗秤尺を造る
(601)詐て官員と称す
(701)詐て死と称す
(801)人を教え欺き法を犯しむ
断獄
(901)罪囚を陵虐す
(011)官吏故に人を罪に出入いたす
(m)獄囚に金刃を与う
(211)獄囚を教て罪状を変乱す
(311)老幼拷問を許さず
(411)屍傷見分 六八
吻婚姻
(511)婚姻を定む
(611)妻有るに重ねて妻を婁る
(711)婦女を強奪す
(811)改嫁
(911)婚姻取扱
⑯雑犯
(021)博変
(121)家長に有らずして檀に家財を費
用す
(ら/"21)放火
(321)制旨及令違
(421)不応為
⇔仮刑律の法解釈学的推判
ω体系的批判
ノへ ノへ
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非欧米的刑法
東洋的︑王朝復古的刑法
混合一体的,非休系的刑法
非逐条式︑羅列的書流式刑法
階級的︑身分的刑法
非確定的︑準則的刑法
不公布︑秘密法典的刑法
働 実 体 法 的 批 判
ノ へ 8765432
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責任主義
罪刑法定主義
違法性
構成要件
未遂
共犯
犯罪の競合(以上前号)
恩赦(以下本号) (9)自首
(10)時効
(11)刑罰
㈹手続的批判
(1)訴訟
(2)捕亡
(3)断獄
三.むすび(完)
(8)恩
赦
恩赦は主権者が時に人民とその慶弔禍福を共にし︑時にその人民の支配或は懐柔策としてこれを用いたのであり又
他面科刑の免れ難い失当を是正し更に又刑の執行の画一性と厳格性とを緩和するという作用をも併せ有するものであ
るが︑それが時の権力者により乱用されると刑政の弛緩という救い難い弊害も生ずることを免れ難いのである︒わが
国においても亦同様である︒即ち︑わが国においては旧憲法時代には恩赦は天皇の大権に属するものとされていた
が︑現行新憲法の下ではこれを内閣の権限とし(憲・七三)︑内閣の助言と承認により天皇の認証を経てこれを行うも
のとされている︒その種類は次の五であるが︑その一般的な規定は恩赦法に定められている︒
O大赦
政令で罪の種類を定めてこれを行うが(恩赦法・二)︑有罪の言渡を受けたものについてはその言渡は効力を失い
明治初期日本刑法学の研究(一五)六九
神奈川法学七〇
又未だ有罪の言渡を受けない者については公訴権を消滅せしめる(同.三)︒
⇔特赦
有罪の言渡を受けた特定の者に対して行われるが(同.四)︑これは有罪言渡の効力を失わしめる(同・五)︒
⇔減刑
一般減刑と特別減刑の二があるが︑前者は刑の言渡を受けた者に対して政令で罪若しくは刑の種類を定めて行わ
れ︑後者は刑の言渡を受けた特定の者に対して行われる(同.六)︒
㈱刑の執行の免除
刑の言渡を受けた特定の者に対してこれを行う︒但し︑刑の執行猶予の言渡を受けて未だ猶予の期間を経過しな
い者に対してはこれを行わない(同.八)︒
㈲復権
有罪の言渡を受けたため法令の定めるところにより資格を喪失し又は停止された者に対して︑政令で要件を定め
てこれを行い又ぱ特定の者に対してこれを行う︒但し︑刑の執行を終らない者又は執行の免除を得ない者に対して
はこれを行わない(同.九)︒復権は将来に向って資格を回復せしめる(同・+)︒
さて︑ところで﹁仮刑律﹂では一体どうであったであろうか︒既に︑②・名例・(16)・﹁常赦・特赦(七)﹂の項で
前述したところであるが︑﹁仮刑律﹂でも当然のことながら夙にこれを認めて﹁常赦﹂と﹁特赦﹂というこの制度を
設けている︒
前述のように律令時代に行われた恩赦には常赦︑大赦︑非常赦︑曲赦︑臨時赦の五種があった︒常赦とは律の各条
に常赦に免ぜずとされている罪及び八虐︑故殺︑謀殺︑私鋳銭︑強盗︑窃盗の各罪を除き他の一切の罪を赦免するも
のをいう︒大赦とは律の各条に常赦に免ぜずとされている罪のみを赦免しないとするものをいう︒非常赦とは凡て広
く一切の罪を赦免するものをいう︒曲赦とは⁝地方に限って罪囚を赦免するものをいう︒尚︑臨時赦とは未断の囚徒
のみを赦免する場合をいう︒
ところで﹁仮刑律﹂には右のように﹁常赦﹂と﹁特赦﹂という二種の見出しがつけられているのであり又突如とし
て﹁非常大赦﹂という用語もみられるのであるが︑これら三者の区別や内容は必しも明らかではない︒
元来︑赦は前述の通り主権者が時にその人民と慶弔禍福を共にし或は人民の懐柔策としてこれを用いたのである
が︑明治新政府においてもその必要性や機会はしばしばあったのではないかと思われる︒何故かというと維新の直後
には善政による人心の安定ということが最も必要なことだからである︒ちなみに明治元年十月晦日の﹁行政官布達﹂
では﹁就中刑律は兆民生死之所係﹂であるとして︑﹁礫刑ハ君父ヲ殺スル大逆二限リ其他重罪及焚刑ハ彙首二換へ追
放所払ハ徒刑二換へ流刑ハ蝦夷地二限リ且窃盗百両以下罪不至死様略御決定︑尤死刑ハ勅裁ヲ経候条府藩県共刑法官
へ可伺出且総テ粗忽之刑罰有之敷事﹂といって各種刑罰を大々的に緩和︑自粛する等︑処罰法の根幹であるところの
刑法自体を位一等低下︑緩和せしめているのである︒
更に又明治二年九月二日の集議院に対する御下問でも︑﹁神武以降二千年寛恕ノ政以テ下ヲ率ヒ⁝⁝⁝︑其律ヲ施
スニ至テハ常二定律ヨリ寛ニス⁝⁝⁝︑抑刑ハ無刑二期スルニ在リ﹂といって従来の幕府の厳刑主義に基づく専断的
一方的な武家刑法を一日も早く寛恕に基づく緩刑主義に切り換えて︑文字通り﹁刑は刑無きを期する﹂という刑政最
高の理念に徹すべきこと姦調しているので嶽)・
明治初期日本刑法学の研究(一五)七一
神奈川法学七二
新政府刑政の最高方針が右の如くであったのであるから︑恩赦も亦その具体的施策の一環として大いに又しばしば
(2)用いられたことと思うのであるが︑幸に﹁仮刑律的例﹂にその事例があるから︑以下にこれを掲記してみよう︒
O明治元年辰九月度会府より伺来
﹁宮後西河原町︑源四郎枠︑無宿︑入墨熊蔵省略︑前書申立候外︑盗悪事致候儀無之段︑申立候︑
右吟味候処︑相違無之候に付︑可為死罪之処︑今般︑大赦被仰出候に付︑死罪一等を減︑流罪七年可申付候︑
依て此段相伺候︒
同十月十五日返答(此蓼奪甘)
伺之通﹂︒
前述の通り当時は重罪でなくても︑兎も角も犯罪といえば即(そく)死罪という時代であったが︑本例は大赦
により罪一等を減じて流罪七年とされたのであった︒
⇔明治元年辰十一月松平左京大夫より伺来
﹁入牢︑元中西村︑弥之吉︑右之者︑致夜盗候段︑委細︑誤一札に御座候通︑重々不届至極に付︑死刑可申付
筈之処︑当春︑大赦被︑仰出候付︑出牢申付候処︑無間立帰︑致夜盗︑品にも多分にて︑重々不届至極之処︑
旧幕府刑律並領政にては死刑之筈に御座候間︑死刑可申付哉省略﹂︒
返答(此文字朱書)
盗賊︑弥之吉外二人︑其所業︑強盗に非ず︑立帰之犯事有りと難︑不到死者且当九月御大礼前犯事に付︑至
当之罪一等を減し︑可致所置事﹂
㊨
明治元年辰十二月五日本多乙次郎より伺来﹁本多乙次郎家来四人此者共義︑昨卯年︑郷村之謀叛を以︑外一人と連印にて︑金六百五十両借請候処︑
返金相滞候に付︑主人より︑金主之元利及返済候︑右之始末︑不坪至極に付︑死罪申付義と奉存候得共︑先般
被仰出候︑御趣意も有之︑且前書之引負等は無之候に付︑死罪一等を減し︑永牢にも可仕哉︑右奉伺候様︑在
所表より申付越候間︑此段奉伺候︒
辰十二月二七日返答(此項朱番)
書面五人共︑当春大赦並に去る九月減一等之御赦仰出候に付︑罪科︑差免可申事︑但し︑如此所業之者に付︑
其藩之迷惑にも可相成見込︑有之候はば︑取締置申事﹂︒(年月日その他不詳)
﹁入牢︑とみ︑右之者︑継子殺し候段︑委細︑誤一札に御座候通︑不届至極に付︑入牢申付御座候︑大罪に
付︑当春︑大赦被仰出候得共︑出牢難申付義に御座候処︑旧幕府刑律にては︑死刑に可処筈に御座候間︑死
刑可申付哉︒
右之通︑夫夫︑誤一札写相添︑刑之義︑奉伺候間︑宜御差図被︑仰聞︑可被下候
返艇舎(此文字朱書)
継子殺しとみ︑短気之所業にも有之に付︑死一等を減し︑可致処置事﹂︒
巳二月十五日県知事之渡す返答
﹁軍事非常御処置之義は︑平常罪科之比較には不相成候付︑本法を尽し可致処断候︑尤︑当正月己前ならは
明治初期日本刑法学の研究({五)七三
㈹ ㈹
神奈川法学七四大赦︑九月八日己前ならは減一等之義も候得は︑年月取調之上︑処置可有之事L︒
明治二年辰十月十八日︑内藤若狭守ヨリ伺来
﹁去る八月中︑脱籍者之義に付︑御布告有之候間︑為念︑心得方︑左之通奉伺候⁝⁝⁝省略:⁝⁝・︒
脱走住所相知れ居候者は呼戻し可然︑大赦に遭ひ候者は︑既往之罪は決て不可問鰍﹂︒
明治二年巳二月十三日細川中将より伺来
﹁刑律は国家の大典にて︑先達御布令之通︑弥︑粗忽之義無之様︑就中︑死刑は可奉仰︑勅裁旨奉敬承候
⁝⁝⁝中略⁝⁝︒
肥後国益城郡河高村︑慶太郎︑右者︑窃盗初犯︑死罪相宥︑入墨︑百答︑徒三年之刑に申付置候処︑猶追々
盗致し︑狼に入墨をも抜取り︑枯終之者に御座候処︑去春︑大赦被︑仰出候以前之犯事を以︑去四月︑罪状︑
全差免︑心得方篤と教示致し置候得共⁝⁝⁝中略:⁝:・・︒
同月十一日之夜︑侍屋敷え忍入︑大小一腰盗取︑狼に帯之︑直に弥作宅へ仕懸参︑やそ寝息を伺ひ︑数刀切
付候処︑其夜同所え止宿之者両人を誤て疵を負せ⁝⁝中略⁝⁝︒
同二月十四日︑押紙を以返答(朱書)
死刑は必相伺可申候事
但し︑無余義子細有之︑必︑即決不致て︑難成者は︑願之通取計︑追て︑事情︑具に可申出候事︑猶差当候
て三罪人︑所置之義は︑重罪に付︑可処斬罪旨︑聞届候事﹂︒
明治元年巳十月︑真田信濃守より伺来
﹁
﹁甲州無宿仙次郎︑追剥仕候始末申口︑一同酒給︑酒狂之余り︑喧嘩仕掛︑金子奪取可申⁝⁝中略⁝:︑
右之者別紙口書之罪状に御座候処︑今般︑
御即位被為済︑改元被仰出候に付ては天下の罪人︑当九月八日迄の犯事︑逆罪︑故殺並犯状難差免者を除之外︑
総て減一等︑被差免︑犯罪難差免者は︑府藩県より口書を以︑当御役所え可伺出旨︑被仰出候処︑右仙次郎義
は︑犯状難差免者に御座候間︑相当之罪科︑可申付方に可有御座哉︒
口書相添︑奉伺候様︑在所役人共より申越候に付︑此段奉伺候︑
返答(此文字朱書)
書面追剥に候得は︑難差免候得共︑口書之趣を以は︑其惰実︑追剥に相当候付︑死一等を宥︑流刑に可処候
事﹂︒
右の諸例において︑﹁今般大赦被仰出候に付︑死罪一等を減し﹂︑﹁当春︑大赦被仰出候付﹂︑﹁当春大赦並に去
る九月減一等之御赦被仰出候に付﹂︑﹁九月八日己前ならは減一等之儀﹂︑﹁去春︑大赦被仰出候﹂等々︑といって
いるところよりして︑明治元年春三月乃至四月に︑更に又九月に大赦が行われたのであったであろうことは殆んど疑
の余地もないのではないか︒陽春三︑四月といえぽ︑字宙の森羅万物生成のときであるとして︑死刑のような兇事は
その執行を忌むというのは東洋古来の伝統であるが︑逆に大赦というような吉事は好んでこの好季に行われたのであ
ろう︒
ところで私の手許に﹁太政官口誌﹂と銘打たれた甚だ古色そう然たる 連の古書がある︒これは若しそれが真物で
あるならば今日の官報に該当すべきものであると思われるから甚だ貴重なものであるが︑﹁当春大赦云云﹂というこ
明治初期日本刑法学の研究(一五)七五
神奈川法学七六
とであるから︑慶応四年(九月八日から改元されて明治元年となるのである)戊辰二月から四月迄の日誌の内容を詳細に
検討してみたが大赦が行われたという記載は全く見当らない︒大赦のような重要な国家的行事は当然に﹁太政官日
誌﹂に銘記される筈のものであるが一体どういう訳であろうか︒他日の研究にまちたいと考える︒
ところが﹁九月減一等之御赦﹂︑﹁九月八口己前ならは減一等の義﹂ということであるから︑この辺りの日誌を検討
してみると︑九月八日の﹁御即位御大礼﹂とこれに伴う﹁御一代一号﹂制に基づく﹁明治改元﹂︑更にひきつづいて
の﹁減一等﹂の﹁赦﹂が明らかに記載されている︒まさに明治維新を象徴する世紀の国家的行事であったと思われる
から︑以下にその全文を掲記してみよう︒
﹁太政官日誌第八十一﹂
九月八日御布告写
﹁今般御即位御大礼被為済先例之通被為改年号候就而ハ是迄吉凶之象兆二随屡改号有之候得共自今
御一代一号二被定候依之改慶応四年可為明治元年旨被仰出候事﹂︒
これによると九月八日に御即位の御大礼が滞りなくすまされ又先例の通りに年号を改めたということ︑尚︑
従来は吉凶の象兆に従って度々改号されていたけれども︑今後は﹁御一代一号﹂制に改めたのであり︑そこで
慶応四年を改めて新に明治元年とすること︑等が仰出されたのであった︒
つづいて﹁改元詔﹂が出されているが次の如くである︒
﹁詔体太乙而登位膚景命以改元元洵聖代之典型而万世之標準也朕錐否徳幸頼祖宗之霊祇承鴻緒躬親万機之
政乃改元欲与海内億兆更始一新其改慶応四年為明治元年自今以後革易旧制一世一元以為永式主者施行せよ
明治元年九月八日﹂︒
極めて格調の高い一世の名文といってもよいであろうが︑己れを否徳として謙虚な心情を表明しつつも尚万
機の政をみずから総らんすべき決意を示し︑以後は旧制を革易して二世一元﹂をもって永式とする︑という
ことを宣言しているのである︒尚︑この当日現在で維新政府の要職に在った諸官の名簿があるから以下にこれ
を掲記してみよう︒
議政官
輔相.
岩倉右兵衛具視
議 定
中 山 儀 同 忠 能
正 親 町 三 条 前 大 納 言 実 愛
徳 大 寺 大 納 言 実 則
中 御 門 大 納 言 経 之
松 平 中 納 言 慶 永
山 内 中 納 言 豊 信
伊 達 宰 相 宗 城
参 与
明治初期口本刑法学の研究( 五) 七七
神奈川法学
阿 野 中 納 言 公 誠
鍋 島 少 将 直 大
三 岡 四 位 公 正
福 岡 四 位 孝 弟
小 松 玄 藩 清 廉
後 藤 象 次 郎 元 樺
大 久 保 一 蔵 利 通
木 戸 準 一 郎 孝 允
広 沢 兵 助 真 臣
副 島 二 郎 竜 種
横 井 平 四 郎 時 存
岩 下 佐 次 右 衛 門 方 平
大 木 民 平 喬 任
行 政 官
弁 官 事
坊 城 右 大 弁 宰 相 俊 政
勘 解 由 小 路 左 中 弁 資 生
七八五 辻 弾 正 大 弼 安 仲
秋 月 右 京 亮 種 樹
西 田 辻 少 将 公 業
神 山 五 位 君 風
田 中 五 位 輔
神 祇 官
知 官 事
鷹 司 前 右 大 臣 輔 熈
判 官 事
植 松 少 将 雅 言
福 羽 五 位 美 静
会 計 官
知 官 事
万 里 小 路 中 納 言 博 房
判 官 事
池 辺 五 位 永 盛
軍 務 官
朋 治 初 期 日 本 刑 法 学 の 研 究 ( } 五 )
七九神奈川法学
副 知 官 事 同 様
有 馬 中 将 頼 威
三 等 陸 軍 将
坊 城 侍 従 俊 章
判 官 事
海 江 田 五 位 信 義
外 国 官
知 官 事
伊 達 宰 相 宗 城
副 知 官 事
小 松 玄 藩 清 廉
刑 法 官
知 官 事
大 原 中 納 言 重 徳
副 知 官 事
備 前 侍 従 章 政
判 官 事
八〇中 島 五 位 錫 胤
土 肥 謙 蔵
京 都 府
知 府 事
長 谷 宰 相 信 篤
判 府 事
松 田 五 位 道 之
青 山 小 三 郎 貞
等 謹 奉
詔以施行
右はいずれも維新前後に大に活躍をした人達であるが後年政府の重職についた有名人も甚だ多い︒
明治維新の刑政は明治元年一月十七日太政官内に設置された三職七科制に基づく﹁刑法事務科﹂に始まるこ
とは前述したところであるが︑更に翌二月三日には﹁刑法事務科﹂は卒然として廃止せられて新に三職八局制
に基づく﹁刑法事務局﹂となったのである︒そして又又四月二十一日には官制が改正されたのであるが︑新に
﹁刑法官﹂が設置されて︑前述大原重徳が﹁刑法官知官事﹂に任命されたのである︒議政官︑議定︑参与を頂
点として︑その下に行政官︑神祇官︑会計官︑軍務官︑外国官とつづき︑最後に﹁刑法官﹂が掲げられている
のは︑いささか司法軽視のきらいがないではない︒前述のように新政府は﹁刑律は兆民生死之所係﹂というこ
明治初期日本刑法学の研究(一五)八一
神奈川法学八二
とで刑政には格別に意を用いたと思うのであるが︑やはり当時においては立法権は未だはっきりしなかったで
あろうが︑行政権は非常に強力な積極的なものが要請されたのではないか︒これに反して司法権は元来が消極
的なものであるから︑いきおい末席につらなるということになるのであろうか︒尚︑京都府のみに独立に知府
事が置かれたのは︑何といっても京都が天皇親政の中心的首都であったからであろう︒
次に即位︑大礼に基づく﹁赦﹂について次のような布告がなされている︒
﹁明治元年九月十二日
今般御即位御大礼被為済改元被仰出候二付而者天下之罪人当九月八日迄之犯事逆罪放殺並犯状難差免
者ヲ除之外総而減一等被赦候事
但犯状難差免者ハ府藩県ヨリロ書ヲ以テ刑法官へ可伺出事
九月
同日御沙汰書写四通﹂︒
これによるとこの度御即位︑御大礼が行われ又明治えの改元が仰出されたので︑天下の罪人は九月八日迄の
犯罪で︑逆罪や放殺その他犯状が差し免じ難いものを除くの外は︑すべて減一等の赦とされること︑但し︑犯
状差し免じ難いものは府藩県より口書をもって刑法官に伺い出るべきこと︑というのでその御沙汰書四通と記
(3)載されている︒
かようにして当時﹁大赦﹂が行われたことは明らかであるが︑﹁仮刑律﹂には﹁常赦﹂と﹁特赦﹂の二種が法定さ
れているのである︒従って右の諸例にいわゆる﹁大赦﹂或は﹁減一等之御赦﹂と︑﹁仮刑律﹂に法定されている﹁常
赦﹂及び﹁特赦﹂との関係や区別等については︑文献資料が皆無であるから今やこれを明らかならしめるに由がな
い︒尚︑﹁復権﹂といった観念は未だ全く無かったようでありこれに該当する規定は見当らない︒
(9)自
首
自首とは罪を犯した者が未だ官に発覚しない前に自発的に捜査機関にその犯罪事実を申告して処分を求めることを
いう︒自首は一般的には刑の任意的減軽事由とされるにすぎないが(四二)︑特殊の場合には刑の必要的免除事由とさ
れている(八〇.九三.但書)︒尚︑親告罪につき告訴権者に首服した者も亦同様とされている(四二・‑)︒このように
自首とは犯人がみずから進んで自己の犯罪を捜査機関に申告してその処分を求めることであるが︑首服とは同じく自
発的に自己の犯罪を告訴権者に告知してその告訴に一任することをいう︒従って官の取調を受けて自己の犯罪を自白
するのは︑文字通り自白であって自首ではない︒
自首者が犯罪事実を申告するのは未だ捜査機関に発覚していない前でなければならない︒犯罪事実が未だ全く発覚
していない場合は勿論であるが︑既に犯罪事実が発覚していても︑未だ犯人が誰であるかが発覚していない場合にも
尚且つ自首は認められる︒
犯罪の申告は犯罪捜査の権限ある機関︑即ち検察官又は司法警察職員に対してなされることが必要である︒自首は
あくまでも自発的なものでなければならないが︑申告の方法については格別の制限はない︒従って必しもみずから出
頭しなくても︑書面或は他人を介してこれを行うこともあり得るのである︒
自首を認める理由は﹁悔悟せる者は宥恕する﹂という思想と共に︑自首者に刑の減免という利益を与えることによ
明治初期臼本刑法学の研究(一五)八三
神奈川法学八四
って︑犯罪の発覚或はその検挙を可及的速か且つ容易ならしめ︑以て実害の発生を未然に防止しようとする刑事政策
的考慮に基くものである︒
ところでここに特に注目すべぎことは︑自首をもって刑の減軽事由とすることは︑東洋独特の刑法的伝統であっ
て・西洋の刑法には殆んどその例がみられないということであるが︑小野博士によれば西洋の学者でこのような東洋
に特有の法制を賞讃しているもの(コーレル)を見うけるということである︒又︑かような東洋刑法に独特の自首と
いう制度は︑みずから犯罪を申告してその処罰を求めるものであるという意味において︑いわゆる﹁罪人自罪之法﹂︑
即ち︑﹁自罪﹂であり或は﹁自決﹂であり︑これを根源的に遡ると東洋法制独特の伝統としての﹁自裁法﹂或は﹁自
決法﹂の原理に到達するのであるが︑これは又他日の機会に論ずることとしよう︒
さて︑そこで﹁仮刑律﹂では一体どうであったのであろうか︒既に②・(19)・(七).﹁罪人自首﹂のところで
詳述したところであるから再びこれをくり返すことはしないが︑殆んど律の伝統と同一の形式で甚だ長文且つ詳細な ら 規定が設けられている︒そして形式的にも又内容的にも殆んど﹁明律﹂のそれと同様である︒即ち︑﹁仮刑律﹂では
﹁罪人自首﹂といっているが︑﹁明律﹂では﹁犯罪自首﹂と全く同様である︒但し︑両者は各項目の順序においてい
ささか異るものがあり又﹁明律﹂は各項目毎に甚だ詳細な設例を附してその内容をより具体的ならしめている︒これを
要するに︑﹁明律﹂のそれは煩雑なまでに長文且つ詳細を極めているが︑﹁仮刑律﹂ではそれが相当に圧縮されていると
いう点で立法的には優れている︒そしてこれを更に近代法的に抽象化︑共通化︑普遍化︑そして特に純粋に総則化す
ると︑今日現在のわが現行刑法典第四二条にみられるような極めて簡潔且つ清明な自首減軽規定となるのであろう︒
(10)時
効
時効という制度は民事にも刑事にもあるが︑刑事の時効には更に二種がある︒即ち︑一は刑の時効であり他は公訴
の時効であるが︑前者は言い渡された刑の執行権を消滅させるものであり︑後者は公訴権を消滅せしめるものであ
る︒刑の時効については実体法である刑法に規定があり︑公訴のそれについては手続法である刑事訴訟法にその規定
がある︒
O刑の時効
刑の時効とは裁判によって既に確定した刑に関する場合をいう︒即ち︑宣告された刑の執行を受けることなく
一定の期間を経過すると︑その執行が免除されるのである(==)︒刑の執行権を消滅させるものであるが︑時効
期間は次の如くに定められている(三二)︒
ω死刑にあたる罪三十年
②無期懲役又は禁鋼にあたる罪二十年
㈲有期懲役又は禁鋼にあたる罪
e十年以上十五年
⇔三年以上十年
⇔三年未満五年
ω罰金にあたる罰三年
明治初期日本刑法学の研究(一五)八五
神奈川法学八六
㈲拘留︑科料及び没収にあたる罪一年
右はいずれも裁判の言渡が確定した日からそれぞれの期聞が経過することによって定まるものとされている︒時効
期間は暦に従って計算するが(二二)︑期間の初日は時間を論ぜず全一日としてこれを計算する︒
時効は法令により刑の執行を猶予し又はこれを停止した期間内は進行しないが(三三)︑これを時効の停止という︒
停止の場合はその事由が止んだ後残余期間の進行が始まるのである︒又︑時効は刑の執行のために犯人を逮捕したこ
とによって中断される(三四・1)︒罰金︑科料及び没収については︑その執行行為をなしたことにより中断の効力が
生ずる(三四・H)︒時効の中断は文字通り中断であるから︑一度中断があると︑その事由が止んだ後更に全時効期間
の経過がないと時効は完成しない︒
⇔公訴の時効
公訴の時効とは判決確定前に発生した刑罰権を消滅させる時の経過をいう︒即ち︑犯罪は発生したが︑未だ公
訴が提起されないで一定の期聞が経過すると︑これにより公訴権は消滅するに至るのであるが︑その期間は犯罪
の軽重によって次のように定められている(刑訴.二五〇)︒
D
〈5)(4)(3)(2)(
死刑にあたる罪
無期の懲役又は禁鋼にあたる罪
長期十年以上の懲役又は禁鋼にあたる罪
長期十年未満の懲役又は禁鋼にあたる罪
長期五年未満の懲役又は禁鋼又は罰金にあたる罪
十 五 年 十 年 七 年 五 年
三 年
⑥拘留又は科料にあたる罪一年
尚︑二つ以上の主刑を併科し又は二つの主刑中その一つを科すべき罪については︑その重い刑に従って時効期
間を定める(同・二五一)︒又︑刑法により刑を加重し又は減軽すべき場合には︑加重し又は減軽しない刑に従っ
てこれを定める(同・二五二)︒即ち︑法定刑によるのであって︑刑の加重︑減軽は時効期間の算定には影響がな
いのである︒
公訴の時効は犯罪行為が終った時から進行する(同・二五三・1)︒ここに犯罪行為というのは犯罪を構成する
事実の全体を指称するから︑結果の発生を必要とする犯罪についてはその結果の発生した時から公訴の時効は進
行する︒
公訴の時効は︑当該事件についてした公訴の提起によって停止される︒停止と中断とは異るが︑停止は停止事
由の消滅により再び進行を始めた残余期間を経過することにより時効は完成するのである︒
かような時効制度が認められる理由としては︑時の経過による犯人の改善が推定されるとか︑時の経過と共に
立証の困難さが増大するとか︑犯人は長年にわたる逃避のため刑罰に代るべき苛責を充分に受けているとか︑時
の経過により刑の言渡又は刑の執行の意義や必要性が減少するとか︑等々と種々の理由があげられるが︑これを
要するに永く社会的に埋れて不問に附されて来た事実は︑寧ろそのままその現状で尊軍し︑今更故らにこれを敢
てあばき出すことなく︑容疑者や被告人等をして生活の安定を維持せしめることの方が却って祉会の公益に合致
する所以であり又同時に国家の怠慢にも亦一面責むべきものがある︑というような政策的見地に立つものであ
る︑ということができよう︒かようにして多くの立法例は刑の時効と公訴の時効との二を認めているのである︒
明治初期日本刑法学の研究(一五)八七
神奈川法学八八
さて︑それならば︑﹁仮刑律﹂では一体どうであったのであろうか︒これ亦既に②・(27)・﹁旧悪犯事﹂・(七)
で述べたところであるから︑更にここにくり返さないが︑旧悪犯事とは当時の註記によれば︑﹁モトノ悪事ガ年ヲ過ギ
テ露顕スルトキハ之ヲ旧悪ト号シ現在ノ悪事ヨリモ軽ク看倣シ或ハ罪科ノ幾等ヲ減シ或ハ全ク其ノ罪ヲ差シユルスヲ
(6)云フ︒但シ犯罪ノ当時既二発覚シ年ヲ経テ後二縛二就ク者ノ如キハ減免ヲ与フル限リニアラザル趣﹂とされている︒
当時はこれを一般的には﹁旧悪﹂と称したが︑﹁旧悪﹂は既に過去に長く埋っていた古い犯罪であるところよりし
て︑現発の犯罪よりは軽くみられるのであり︑従って刑罰を減軽し或は全くこれを免ずるものとされたのである︒今
日の時効制度が即ちそれなのである︒
次に﹁仮刑律﹂の前法であるところの﹁御定書百箇条﹂ではこれを﹁旧悪御仕置之事﹂として︑逆罪︑邪曲の殺
人︑火附その他の悪性の高い重罪を除ぎ︑犯罪を行ってもその後改俊している場合には︑犯行後十二個月を経過して
いればこれを罰しないこととしている︒高柳教授はこれを公訴の時効に関する規定であるとせられ︑これに基き刑罰
(7)請求権が消滅するものとされている︒
次に﹁仮刑律﹂の後法であるところの﹁新律綱領﹂及び﹁改定律例﹂には罪名としての﹁旧悪﹂という独立の条項
は見当らないが︑﹁改定律例﹂にはその﹁首巻﹂中に﹁旧悪減免例図﹂というのが設けられている︒即ち︑次の如く
である︒
﹁旧悪減免例図﹂
﹁凡犯罪︑年ヲ経テ︑発覚スル者ハ︑並二︑旧悪ヲ以テ論シ︑例図二照シテ︑減等免罪スル事ヲ聴ス
﹁例﹂
O斬絞
犯罪・斬絞二該ル者︑十年ヲ歴テ発覚スレハ︑量減シテ懲役十年二科ス︑其謀故殺ヲ犯ス者ハ︑此例ヲ用
ヒズ
⇔懲役終身
犯罪懲役終身二該ル者︑十年ヲ歴テ発覚スレハ︑量減ジテ懲役三年二科ス
⇔ソノ他
犯罪︑懲役十年以下二該ル者︑各数ノ年ヲ歴テ発覚スレハ︑其罪ヲ全免ス︒﹂︒
さて・そこで右両者の中間にはさまれて存在した﹁仮刑律﹂ではどうであったであろうか︒具体的な実例を示す資
料が無いので未だ論断はできないが︑その前法である﹁御定書百箇条﹂や後法である﹁改定律例﹂と概ね同様の運営
がなされていたと思われる︒尚︑﹁仮刑律﹂の原文によると︑前述のように︑﹁およそ十年以上を経た旧悪は︑発覚
しても概ね寛宥するもの﹂とされているが︑但し︑﹁死罪︑犯腔︑詐欺︑闘殴︑出奔等の重い実質犯及び軽罪であっ
ても前非を悔いこれを改めないものは︑尚且つそれぞれの該当する罪をもってこれを論判すべきもの﹂とせられ︑更
に又﹁但し・闘殴の場合は︑和睦︑即ち︑示談が成立して万事円満におさまった場合はこれを論判しないのであり又
傷害があったときは金銭をもってこれを賠償芒めてこれを許すもの﹂とされたのである︒勝本博士は︑航を﹁旧悪
免法即ち含の時効法を設けたること是麗﹂とされているが︑前述のように効時制度に猜の時効と公訴の時効の
二種があるのであり︑﹁仮刑律﹂のそれはまさに公訴の時効に関するものなのである︒これを要するに﹁御定書百個
条﹂の十二個月といい︑﹁改定律例﹂の十年といい︑又︑﹁仮刑律﹂の十年といい︑それらはいずれも公訴の時効に
明治初期日本刑法学の研究(一五)八九
神奈川法学九〇
関するものであり︑当時においては未だ刑の時効という観念や区別は無かったものの如くである︒当時においては公
訴を担当する検察制度と裁判を担当する裁判制度が今日の如くに厳然と俊別されていない︑いわば純粋な訴訟構造を
持たない時代であったからであろうと思われる︒又︑公訴の時効である場合はそれは当然に手続法であるところの刑
事訴訟法に規定せられて然るべきであるが︑これ亦実体法︑手続法の区別を未だ知らなかった当時においては・それ
も殆んど自覚されなかったのであろう︒
(11)刑
罰
刑罰とば一体何か︒殊にその本質はそもそも何か︑ということは一見極めて明らかであるかに思えるが︑しかし容
易には解明できそうもない︑いわばそれは刑法学における最初にして且っ最後の問題なのである︒それ故に世界各国
の思想家︑哲学者︑文学者︑評論家︑そして特にその専門家であるところの刑法学者がそれぞれの立場からこれを大に
論じているが︑今日現在においても﹁これだ﹂という決定的な結論や断定は未だ容易には出そうにもないのである・
ところで諸々の刑罰論を大きく集約してみると概ね二つのそれに絞られる︒いわゆる応報刑論と国的刑論(教育刑論
を含めて)の対立が即ちそれであるが︑刑罰の本質は応報であるか︑それとも目的であるか︑ということが論争の中
心とされているのである︒
応報刑論(絶対主義)によれば︑刑罰とは犯罪に対する法律効果として国家が行為者に対して科するところの法益
の剥奪だとするのである︒即ち︑国家は犯罪という悪行を行った犯人に対する非難としてこれに刑罰という害悪を報
いるのである︒その意味で刑罰の本質は疑いもなく応報であるとするのである︒尚︑かような応報刑論の中にも︑原
始的な私的復讐に基く﹁汝に出たものは汝に帰る﹂という本能的な応報思想︑﹁目には目を︑歯には粛を﹂という素
朴的な同害報復の思想(タリオ)︑﹁善因善果︑悪因悪果﹂というような宗教的な応報思想︑﹁刑罰は犯罪という非行
に対する責任を腰うための苦痛又は害悪である﹂というような道徳的応報思想に基く︑等々と種々多様であるが︑い
ずれにしても犯罪という非行に対して応報という刑罰が科せられるということそれ自体に意義と価値を認めようとす
るのであって︑刑罰は他のなんらかの目的のための手段であるといったようなものではないとするのである︒刑罪は
それ自体が応報であると直言するのであるから︑これは又絶対主義とも称せられる︒そしてかような応報刑論を理論
的に形成したのは︑﹁カソト﹂︑﹁ヘーゲル﹂等のドイツ観念論哲学を背景とする第十九世紀の古典学派(旧派)の刑
法学であったのである︒
ところで刑罰はそれ自体が苦痛であり又害悪であるところの応報であるということは確かに一面において真理では
あるが︑しかし応報としての刑罰も亦決して全く目的のない空虚なものではないであろう︒刑罰はなんらかの目的が
あるということを離れてはその存在を考えることは無意義なのであるが︑刑罰の究極の目的は国民全体及び犯人の道
義的意識を覚せいせしめることによって犯罪を予防し︑ひいては社会秩序の維持をはかろうとするところにあるので
ある︒目的刑論(相対主義)が即ちこれであるが︑刑罰をこのように目的あるものとして考えると︑そこから刑罰は
次のような機能を営んでいるものであることが洞察されるのである︒
〇一般予防的機能
刑罰は社会一般人に対しては犯罪に走らないようにとこれを抑制する機能︑即ち心理的抑制作用がある︒
◎特別予防的機能
明治初期日本刑法学の研究(一五)九一
神奈川法学九二
犯人個人に対する機能であるが︑先づ第一は犯人を改善教化してこれを再び健全な社会人として社会に復帰せ
しめるという作用であり︑第二は犯人を長期的又は永久的に社会から隔離することにより再犯の機会を根元的に
絶滅せしめることである︒死刑及び長期の自由刑ではかような犯人の社会陶汰的機能が営まれるのである︒そし
てかような目的刑論を理論的に形成したのは︑﹁ロソブローゾ﹂︑﹁フエリー﹂の犯罪学や﹁ベソタム﹂︑﹁イエ
ーリソグ﹂の社会功利主義的︑目的主義的な法理論を受けついだ﹁リスト﹂であったのであるが︑かような目的
刑論に立脚する立場が即ち近代学派(新派)の刑法学なのである︒
応報と目的とは互に両立し難い二律背反であると単純に割切ることは果してどういうものであろうか︒刑罰は犯罪
という悪行を理由として科せられる害悪なのであるから︑その限りにおいてそれはまさに応報であるといってよいで
あろう︒そういう意味では刑罰は決して社会防衛のための手毅であるというような卑近且つ低次の功利主義的なもの
ではないのである︒しかし︑刑罰は又応報それ自体のみを目的とするというような単純且つ素朴的なものではないの
である︒前述のように応報としての刑罰を科することにより︑国民の道義意識に訴えそして社会秩序を維持しようと
するものなのである︒そこで刑罰を単純且つ素朴的に応報だ︑目的だ︑と一面的に割切るのではなく︑これを更に多面
的且つ又重畳的に考えつめてゆくと︑刑罰はその本質において応報︑その内容において苦痛︑その目的において社会
秩序の維持にある︑というような多角的な把握も亦可能なのではないか︒又︑更に︑これを角度を変えて考察すれ
ば︑﹁エム・エ・マイエル﹂のいうように︑刑罰は抽象的法の定立︑即ち立法の段階においてはまさに﹁応報﹂なの
であり︑具体的法の定立︑即ち司法の段階においてはまさに﹁法の確認﹂なのであり︑更に又具体的法の現実化︑即
ち行刑の段階においてはまさに﹁目的刑﹂がそれぞれの指導理念とされるのである︒そしていわゆる教育刑論と称す
るものは目的刑論を更に一層淳化︑昇華せしめた理論なのであるが︑これは行刑の段階において最も多くその効用を
発揮することができるのではないか︒
さて︑それならば刑罰の本質とは何か︑と更に再び問題を元に戻して考察しなければならなくなるのであるが︑こ
こで私は一つの歴史的な事実を想起せざるを得ないのである︒それは終戦後新憲法の制定に伴い昭和二二年.法律.
第一二四号をもって﹁刑法の一部を改正する法律﹂が制定されたが︑この法案の審議に際して一つの極めて重要な
﹁附帯決議﹂がなされたのである︒﹁刑法の全面的改正に対する参考資料送致の件﹂(臨時法制調査会会長より内閣総理
大臣宛)が即ちこれであるが︑それは次のような内容のものであった︒
﹁刑は共同生活の規律を正し︑社会秩序を保全するを目的とするものにして︑其性質上報復的害悪を加ふるを
精神とするものに非ず︑而して︑刑は犯罪事実に対し影響を及ぼし得るものに非ずして犯罪人に対し機能を営
むべきものなるが故に︑刑の適用においては特に犯罪人の道徳的再生を趣旨とし︑希望が恐怖よりも効果的な
るものなることを十分に・考慮すべき旨を明らかにするの規定を設くること﹂︒
これはまさに刑罰の本質についての定義といってもよいであろうが︑刑罰の本質を実に余すところなくいい尽して
妙であると思うのである︒但し︑提案者が牧野博士であったから︑当然に梢主観主義的色彩の強いものとなっている
が︑﹁在るべき刑罰の本質﹂はまさにこうでなければならないであろう︒殊に刑罰がその性質上報復的な害悪を加・え
ることを精神とするものであってはならないこと︑刑罰は犯罪事実に対しては最早影響を及ぼし得るものでなく︑犯
罪人に対して機能を営むべきものであること︑刑罰の適用︑殊に行刑の場では犯罪人の道徳的再生を趣旨とすべぎで
あること︑即ち本人の改善教化と社会復帰が刑罰の目的であること︑等々︑これを要するに刑罰は希望を与・兄るもの
明治初期日本刑法学の研究(一五)九三
神奈川法学九四
であって︑恐怖を与えるものであってはならないのである︒そこで主観主義刑法学者﹁リスト﹂の有名な﹁罰せられ
るべきは行為ではなく行為者である﹂(乙︒算島㊦↓碧℃ωoコα段,昌島巽↓鐸興奪N=げΦ韓茜{魯)という印象的な言葉
を想起せざるを得ないのである︒尚︑この附帯決議は留保とはなったが︑しかし将来刑法の全面的改正がある場合に
は参考とされるべきものとしてこれを内閣総理大臣に送致するとされているが︑今回の﹁改正刑法準備草案﹂では余
り考慮されていないのではないか︒恐らくはそれは﹁この草案には原則規定や目的規定はできるだけ掲げない﹂とい
う基本方針によるものであると思われるが︑確かに刑罰の本質といった重大且っ基本的な問題はこれを定義して固定
化︑硬直化させない方が賢明であるという一面もあるのであろう︒
﹁オラソダ﹂は近代的行刑発祥の地として有名であるが︑今から三七〇余年前の一五九五年に﹁アムステルダム﹂
に始めて小さな監獄が創設された︒ところでその入口には次のような門標が掲げられていたという︒
﹁汝恐れるなかれ︒われは汝の悪に対して復讐するものではなく︑汝を善へ強制せんとするものである︒わが手は
厳しいが︑わが心は愛に満ちている﹂と︒
これ亦刑罰の本質を︑そして殊に行刑の場でのいわゆる教育刑の理想を情緒的に余すところなくいいつくしている
と︑私には誠に感慨深く味・えるのである︒
確かに刑罰は本質的には応報であるとしても又反面種々の目的を持っているのである︒そしてそれが行刑の場とな
ると︑﹁アムステルダム監獄﹂におけるように︑まさに教育でなければならないのであろう︒しかし︑又︑そうだか
らといって教育刑という美名に流れて軽卒且つ安易に走ってはならないのであって︑それは依然として厳しい刑罰で
あるということも忘れてはならないのである︒かようにして刑罰は応報であり︑目的であり︑教育であり又隔離であ
る︑というように多面的︑多角的且つ重畳的な構造をもった綜合的な一大総和であると考えたいのである︒
さて︑それならば﹁仮刑律﹂では一体どうであったのであろうか︒勿論当時においては明治維新勿々の大混乱の時
期であり又未だ社会そのものが甚だ狭小且つ幼稚であったから︑人権思想等は殆んど全く自覚されなかった時代であ
ろう︒従って犯罪理論の争︑例えば客観主義と主観主義︑刑罰理論の争︑例えば応報主義と目的主義等といった︑い
わゆる刑法理論の争等ということは未だ全くみられない時代なのである︒そして国家権力が次第に強固となって行く
のであるが︑明治新政府は刑政については非常に意を用いたのであり︑従来の専断主義的な徳川幕府時代の﹁御定書
百個条﹂等もこれを大に緩和せしめ以て人心の収拾と善政の実施にこれ努めたのである︒
旧幕府時代の﹁御定書百個条﹂によれば︑当時は刑罰の事を﹁御仕置﹂又は﹁成敗﹂といったのであり︑通常﹁御
仕置﹂︑﹁成敗﹂といえばそれは概ね死刑を意味する程当時の刑罰の中では死刑︑殊に残虐な死刑が多かったのであ
る︒例︑兄ば︑死罪としては︑鋸挽︑礫︑獄門︑火罪(火焙り)︑斬︑等があったのであるが︑死罪が法定されている場
合が非常に多いのであり又今日の刑罰観からすると到底死罪等には該当しないであろうと思われるような比較的軽い
犯罪でも尚且つすべて死罪とされたのである︒例えば︑﹁火を附候もの火罪﹂は当然の事としても︑﹁人に被頼︑
火を附候もの︑死罪︑但︑頼候もの火罪﹂︑﹁盗人え手引いたし候もの死罪﹂︑等と刑罰は俊厳苛烈を極めるもの
であった︒これを要するに総じて当時の刑罰は極刑とその反対の軽微刑のみが多くて中間刑が比較的少いということ
が一つの特徴であったということができるが︑梢誇張的に表現すれば︑犯罪︑刑罰といえばそれは即ち死罪であると
いうような甚だ専断的︑威嚇的︑一方的な武家刑法であったのである︒
ところが前述のように明治元年十月晦日には一の画期的な行政官布達が出されたのである︒これによると刑律は兆
明治初期日本刑法学の研究(一五)九五
神奈川法学九六
民生死の係るところであるから︑一日も早く新法が制定されるべきであるが︑兵焉塊倥︑国事多端で今は到底そのい
とまがない︒そこで新法の布令までは旧幕府に委任の刑律によることとするが︑すべて粗忽の刑事はあるまじきこと
としてこれを堅く戒めている︒そして︑従来礫刑は君父を瓶する大逆罪に.限り︑その他重罪及び焚刑は桑首に換・兄︑
追放︑所払は徒刑に換え︑流刑は蝦夷地に限り︑又窃盗百両以下の罪は死罪としないことと略決定した︒又︑死刑は
勅裁を経ることとなったから︑各府藩県においては刑法官に伺い出るよう︑尚その他決し難い廉がある場合も亦刑法
官に伺出るようにとの指令を発して︑酷刑の乱用を厳に戒めている︒従って旧幕府時代の甚だ厳格︑威嚇的且つ残虐
な専断的死罪は一八〇度の転回をして一応ここに終末を告げ︑明治新政府による温和︑緩刑主義に基く新しい処罰法
が展開されることとなったのである︒そして︑更にその後明治二年九月二日の集議院への御下問中の﹁常二定律ヨリ
寛ニス﹂︑﹁寛恕ノ政二従テ忠孝ノ俗二復シ﹂︑﹁凡八虐故殺強盗放火等ノ外異常法ヲ犯二非サルヨリハ大抵寛恕以流以
下ノ刑二処セシメソトス﹂︑﹁抑刑ハ無刑ヲ期スルニ在リ﹂︑といった一連の文言にも伺︑兄るように﹁寛刑宥恕﹂の大精
神は維新新政府の終竺貫して堅持した大方針であったと田心うのである︒但し︑当時においては犯罪とい・譲﹁即﹂
(そく)悪行︑悪行といえば﹁即﹂(そく)応報としての刑罰といった極めて素朴的な犯罪観乃至は刑罰観が一般的
であったと思われるので︑刑罰は殆んど無自覚的に単なる﹁見懲らし﹂であるところの応報と観念されたと思われる
のである︒当時の刑罰は答十等︑徒五等︑流三等︑死二等︑計四刑二十等という制度であったが︑答刑は文字通り害
悪的な苦痛刑であり︑徒刑は懲罰的な応報刑であり︑流刑は隔離的な排外刑であり︑死刑はまさに極刑としての生命
刑であったのである︒
ところでここに特記すべきことは︑前述の﹁抑刑ハ無刑ヲ期スルニ在リ﹂という一語であるが︑これは古くは明朝
の刑部尚書︑周期雍がその役所を﹁期無軒﹂と号してみずからを倣め︑﹁期干無刑﹂の一句をもウて刑官至極の心得
となす︑ということに始まるといわれている︒八君︑宰相︑司政︑典獄皆この本意をよく心得て﹁無刑を期する﹂よ
うにせよというのである︒確かに﹁仮刑律﹂の当時においては︑旧派と新派︑客観主義と主観主義︑応報刑主義と目
的刑主義︑ひいては教育刑論︑といったいわゆる刑法の基礎理論等というような高度で且つ深いものは皆無であった
が︑未だ全く欧米の刑法になじまなかった当時としては︑それは寧ろ当然の事であったというべきであろう︒しかし
ながら︑それにも拘らず︑﹁刑ハ刑無キヲ期スル﹂といった理念が当時において夙に早く自覚せられそれが刑政の最
高理念として高く掲げられていたということは誠に驚嘆に価するすばらしい事であったと思うのである︒何故かとい
うと︑それは刑罰論としての応報主義や目的主義といった基礎的な根本問題をはるかに超克したところの刑法最高の
基本理念というべきだからである︒かようにして﹁緩刑主義﹂ひいては﹁無刑主義﹂は明治新政府刑政の基本的最高
方針であったと思うのである︒
㈲ 手 続 法 的 批 判
前述のように︑私は﹁仮刑律﹂をもって﹁混合一体的な法典﹂であるという体系的な批判をしたのであるが︑そこ
でも述べたように法令を実体法と手続法に分けるということ︑つまり事柄自体とそれを運営する手続とを論理的に整
然と区別するということは今日の法律学では殆んど当然の常識とされているといってよいであろう︒即ち実体法であ
る刑法は文字通り絵に画かれた餅なのであるから刑法だけでは現実に実動するに由がないのである︒そこでこれを現
実に実動せしめるためにはその手練手管としての手続法が必要であるがそれが即ち刑事訴訟手続法なのである︒かよ
明治初期日本刑法学の研究(一五)九七
神奈川法学九八
うにして実体法と手続法とは文字通り唇歯補車︑車の両輪といった相依相成的な相関関係において効率よく機能して
ゆくものなのであろう︒
ところが﹁仮刑律﹂ではこのような区別が配慮された形跡は殆んど無いのみならず︑恐らくは当時においては実体
法と手続法の区別という着想さえもが未だ全く無かったのではないかと思われるのである︒
﹁仮刑律﹂で刑事訴訟規定と思われるものに三編︑十五条がある︒即ち︑⑥訴訟︑ω捕亡︑⑪断獄の各規定
がそれであるが以下にこれを検討してみよう︒
(1)訴訟
㈲︑訴訟という見出がつけられているが︑内容を検討してみるといささか羊頭狗肉の感があるのであって純粋に訴
訟手続規定といってよいのは僅かに一ヶ条のみである︒
(80)越訴
越訴律とは﹁訴訟ノ順序ヲオハズ己レガ勝手二願ヒ出ルコトニツイテノ律ナリ﹂或いは﹁我ガ支配ノ役所ニ
モ掛ラズ︑自儘二手続ヲ歴ズ︑申シ出ルナリ﹂と註記されているように︑およそ訴訟を起す場合に︑自分を支
配する役所を差置いて︑簡単に直接に上級の役所に訴え出るときは︑それは越訴として答三十とされるのであ
る︒但し行幸中の天子に対する直訴は民意を充分に天聴に達せしめるという趣旨よりしてこれを越訴とはしな
い︒
本条は今日の刑事訴訟法に規定される管轄及び上訴に該当する規定であり︑その意味よりしては純粋な刑事
訴訟手続法規といってよいであろうが︑しかしその違反に対して答三十としているのは果してどんなものであ
ろうか︒手続法の違反に対しては本来制裁罰或は秩序罰を科すべきものなのであって︑そもそも刑罰を科すべ
きではないのではないか︒刑罰は本来犯罪に対してのみ科せらるべきものなのである︒
(81)掛り役人犯事を隠す
本条は訴え受けた掛り役人が正当の理由なくその裁判を遂げないこと︑或は賄賂をとって敢て裁判を遂げな
い場合にはそれぞれの情状に応じて答刑に処するという規定であるが︑これ亦本来公務執行怠慢罪或は収賄罪
といった実体法関係なのであって︑純粋な意味での刑事訴訟手続法規ではないのである︒
(82)匿名書を作て人を毅
本条は匿名又は偽名をもって人を殿つ(名誉を殿損する)ことに関するものであり︑名誉殿損罪に類するもの
である︒一面において刑事訴訟手続を含んではいるが︑全体としては寧ろ名誉殿損罪の構成要件そのものを規
定しているのみならず︑これに対する刑罰をさえ規定しているのであるから︑これ亦実体法規であって︑純粋
な意味での手続法規とはいえないのではないかと思われる︒
(83)誕告
﹁人ノ罪ヲ云ヒ出ルニ︑云カケヲスルコトヲ云フ﹂と註記されているが︑誕告とは﹁無実の事を強いていつ
わり告げる﹂︑即ち﹁罪なき人を罪におとし入れる﹂という意味である︒これ亦謳告自体が実体的な犯罪に関
するものである点よりして純粋な手続法規とはいい難いのである︒
(84)干名犯義
﹁干名犯義﹂とは﹁名ヲオカシ︑義ヲオカス﹂事であるが︑﹁名ハ君臣父子兄弟夫婦ノ類︑父ト名付ケ︑夫ト
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