著者 藤井 甚太郎
出版者 法政大学史学会
雑誌名 法政史学
巻 6
ページ 48‑63
発行年 1953‑12
URL http://hdl.handle.net/10114/9837
明治初期の日米文他交渉
明 治 初 期
の 日 米 文 化
3 ζ
渉
藤
四 入
井 甚 太 夏 目
。
講演の本筋に入るに先立ちまして一言︑御挨拶を申し上げます︒今日は私古稀耐賀記念の文字を冠して︑法政史学 会主催のこの会をお開催下さいましたととを︑誠に先栄に存ヒ厚く主催者に御礼を申し上げます︒叉講師として本学
総長大内兵衛先生︑木村毅先生︑隈一冗謙次郎先生方が︑御多忙にも係はらや曲げて御暇繰下さいまして︑御講演下さ
ることを︑先生方に対して厚く御礼申し上げますo叉多数の聴衆各位が早kに御出下さったとと此れ亦厚く御礼申し
上げます︒誠に感激の至
b
でt c b
ます︒
一︑序説さて私の演題は︑﹁明治初期の日米文化交渉﹂と致して置きました︒併し諾君に於かせられましては︑
文字を読まるるに差支友い方ばかりでありまずから︑既に書物
K書いてあ
る
ととを︑此処で更めて市上げる必要はあ
りませぬ︒で私が先輩方・ーから聞いた話と︑書物に書いてるるとととを︑続b
合わせて﹁日米文化交渉開書﹂とでも 申す一講演を致し︑明治初期時代の日米関係の本質を述べたいと存じ宇す︒ユユ
1・イングランド辺を根拠地と致し
ています漁船は︑主として太西洋に鯨を逐っていたのでるりますが十八︑九世紀にえると
︑捕鯨が盛んに太平洋上
に行はれて参りましたoそれから叉米国の対支貿易が一七八四年(天明四年)に広東にて初めて開かれまして以来︑年と
共に盛んと友台︑太平洋を航行する米船が多くなって参
b
ました︒別けて加州に金鉱が発見せられまして東部の人
k
が一握千金を夢みて西部へと赴く︑かの映画西部劇でた馴染のあれであります︒処が加州は国細亜大陸の謂はピ対岸 という訳でありますし︑米国の対支貿易船が︑中国沿岸に沿ふて北上するにつれて︑太平洋上の船路が北上する︒す ると太平洋上に於ける日本列島存在の意味が︑益
k重くなって参ります︒とれは海上の話︒(フォスター著﹁米国の対策
外交 ﹂
ハb本文朗協会訳)参照)
此の頃陸の方を見ますると︑スラプ民族が西比利直の毛皮獣を東へ東へと追って︑沿海洲からカムチャツカの方 まで参り︑更に千鳥
LJ島・伝へに南下して参b
ました︒そしてその眼の前に日本の蝦夷地を見加した︒斯くして日本の 島kが︑世界の上に価値附けられて参りました︒とれが陸からの問題︒(ロストフスキ1著﹁ロシア烹方経協史﹂(東亜近
代史
研究
会訳
参照
﹀ 左様な趨勢の上からして︑米国の輿論として日本の開国を呼ぶ戸が高くなって参りました︒斯くしそペリ
l来航の
趨勢を馴致したのであ
bますり(高橋作衛著﹁日米の新関係﹂参照︒)乍併米国の極東政策にもモンローの大宣言が多分に
拘束力を持ってい︑守して︑当時は亜細豆諸国に対しては極めて友好的であったと断言出来るのであります︒一例を 申しますると︑一八回二年︿天保十三年)に英清両国間に結ばれた南京僚約の係文と︑一八四四年(弘化元年)に米清 間に結ばたれ望医依約の俊文とを比較しますと︑米国は英国に較べ余程清闘に対して和らか昧が出ているのでありま す︒抑々との係約の結ばれまする原因は阿片戦争であ
b
ますが︑当の問題の阿片に就いて南京保約の方では何等の規
定が無いに係はらやJ︑望度僚約の方では阿片そ貿易する米人は所罰する回日米国側より規定しているのであ
b
ます
︒
(維新史料編纂会縞﹁維新史﹂参照)との南京僚約等は清国人をして興国運動に奔走するに至らしめた原因をなしているの
でありますが︑(東琵経済調査局編支那の興国選動参照)米国は余程手和らかに仲固に対処しているのであb
ま す
︒ 実 際 清国領土内で米兵が軍事行動に出でた初めは︑一九
O
O
年(明治三十三年)の北清事変の際連合軍と一一緒にやったのが初めであると思うのであ
b
ます︒(矢野仁
一著支那近代外交史参照)セオドl
ル・
ル
Iズグェルト大統領の如きもその
ハ1ヴアl
ト時代の同窓生でる
b
まLて日舞戦争当時駐米の金子堅太郎男に対して︑オイスタ
l・ベIの別荘で︑盛
んに民知直モンロー主義を説きまして︑新宇一婦投以東は日本に任せると主張しているのであb
ます
C
(金子堅太郎述亜細亜
モジ
ロ
l主義)尤も日露戦争の際に︑ルーズヴェルトが講和わ斡旋に乗り出ましたことに就いては︑欧羅巴方面では米
国の亜拘置に対する野心を疑っていた人
K
もありまして︑英国のエデンパラ評論の如きは︑日露講和の斡旋は琵細亜 の歴史に於いてのみならや米国の歴史にも重大たる意義を有すると迄論じていたのであ
bます0
︿エ
ヂシ
メラ
・レ
ビュ
ー)
その当時は今日に於ける米国の亜細亜に対する関心とは大分角度が遣っている土ろに思うのでるります︒斯くの如く
明治初期の日米文化交渉四九
明治初期の日米文化交渉
支
O
米国の東洋に対する関心は年代によって違うのであ
hy
ますが︑然らば今誌に私が述べんとナる明治初年に於いては︑
米国の日本に対する大体の角度は那辺にあったかと申しますと︑俗語で申しますると︑マア日本を赤チャン位に思っ
ていた︒いや是れは無理もないのでありましてマァカアサI元帥すら︑今日の日本人を十二才位に評価いたしている
始末でありまずから︑まして九十年も前の日本人は赤坊と評しても致し方はあbまずまい︒ですから明治初年の遣米
留学生友
E
を︑下宿させても︑目白か︑頬日を飼っている位に思って愛撫して畏れたと思われます︒九十年後にその目白か頬白が︑真珠海を攻撃しようなどとは︑夢にも思っていなかったと思うのでるります︒一八七五年(明治八年U
前後ボストシ・テックに留学していられた後の三井合名会社の理事長国琢磨男なども︑後年その時に世話に友った人
などに︑日本に観光に来なさいと云つでも︑日本にはライオンでもいる処位に思って来友かったと云っていられまし
たのであ
b
まナ︒(男霞団琢磨伝参照)推して明治初年の対日理解の程が察せられるのであります︒そして仲k k日
本を知ろうとナる米国人はいなかったのでるります︒十五六年前コロンピヤ大学のピlク氏が日本に来た︒此の人は
大清会典の研究者でありますが︑日本に立寄った時私が日本に於ける大清会典の研究について各方面に案内いたしま
したが︑その時の話に︑中国の研究なれば一生の仕事に値するが︑日本研賞では左様に参ら友いとき口はれましたが︑
尤と思います︒今日とそ大変に日本研究が米国で進んでいますが︑大戦前までは左様ではなかった︒占んも戦前華盛頓
の米国議会図書館で日本の書籍を購入する時の資金の管理者を私致していたが︑随分多額の書物を購入しました︒併
し金額の点は日本と米国との聞には比例上︑大分聞きがあ
b
ます
︒
=︑米国文化接受の遁筋米国文化が日本に接受される道筋に就まし
ては︑付は漂流民の将来ナるもの︒同は外国
使節等の将来するもの︒同日本よ
b
の遣米使節の将来
するもの︒同門叶本留学生の将来するもの︒国米国地理歴史文物
の記事を図書によりて日本に伝へたもの︑とれは主として漢籍を通して参っている︒犬体右様位のものであります︒
先づ漂流民について申すと︑実は江戸時代は鎖国時代でありまして︑日本人が海外の智識を持たないようにと幕府
は務めていますので︑除措百中や廻漕中に太洋に漂流して後南洋諸島に漂着し︑それが幾年かの後ちに外国船によって
日本に送還せられる︒処が国一冗に帰
D
まLても︑落庁などが厳重友監視を致していまして︑世間並の交際は出来友
ぃ︒所謂軟禁状態で一生を終らせるのでありますが︑(福岡藩記録参照﹀幕末外国問題の起りまして以来は︑漂流帰還者 は時勢上必要友人物となって︑登庸せられるに
至bましたo
その幸運な人は
例をとって見ますと︑土佐幡多郡中ノ浜 ノ漁夫漂民中浜万次郎の如きがその一人で
b
ります︒彼は天保十二年(一八四二)十五才の時︑漁業に出て悶船の人
kと共に漂流し続けまして︑米
国の捕鯨船に救はれ︑船長の好意によ
bまして︑船長の郷里へヤ・ヘプンに参b︑小 学校程度の私塾に入
b
英︑数︑普通学を修めました︒此処で一寸注意すべきととは︑教会の出入のととであります が︑同地のオーソドックス振の教会では入るのを許しませぬでしたが︑ユニテリヤン教会は之を許可しました︒とれ
は後年米国基替教の日本布教上注意すべきととであります︒そして万次郎は嘉永田年(一八五一)に琉球に帰︒て参り
ました︒その時鹿児島の蒋主は島津窓口彬でありまして進歩的な人︑海外の人文社会自然諾科学を︑藩地に取入れたい
と望んでいる時ですから︑万次郎を招致設しました︒万次郎は米国の政治状態と造船術を︑との藩に伝へている︒そ れから長崎に参
h ν
︑奉行所の取
調を受けま
したが踏締を行って耶蘇教徒でないととを証しました︒此の時万次郎の所 持品を奉行所が取調べましたが︑その内に次のそうな書結があ
b
ます︒原文の偉申しますと︑デイクシヨネリ
I但シ英士口利語一八四五年版
ヒ ス ト リ 但 シ 風 土 記 一 八 四 三 年 板 ファールムス︑アルメ=ツク但シ農家暦一八五
O
年板 ゼ︑ライフ︑オプ︑ヂヨルヂ︑ワシントン︑但シアメリカ州共和政治関脇デヨルヂ・ワシントン一代記
と記されています︒形式的に入獄して後赦免せられ︑本語の土佐一滋に引渡されまして︑土佐落の政治家吉田東洋に
米国の事情を話しています︒それから時勢が時勢でありますので︑幕府に召し出され登庸せられた︒外藩の陪臣︑い や漁夫の身で以て︑幕府直参に上ったのでありまナ︒恰もとの頃は米国のペリI提替が来航いたした時でありますの で︑心ある者は彼
を登庸するととの必要を説
いています︒大槻磐渓の上
書に
土佐漂民万次郎儀は頗る天才=有之者一一テ︑米利幹国滞留中殊之外彼国之者二鴇愛被致︑学校ニ入天文測量︑砲 術等造皆伝相受能リ帰リ侯由
閉治初期の日米文化交渉
五
明治初期の日米文化交渉
:守 ‑a.
それまではよいとして︑次の文句に
殊一
二本
利幹
λ
ニハ十ヶ年モ相交リ候儀︑定テ当節渡米ノ千余人中一一ハ万次郎懇意之者モ可有之とありますο
米国の広さと
人口とは︑一寸見当が付かなかったかと思うのでるります︒以来万次郎は徒士格に迄登 用せられ︑外国掛として重要な地位に上ったのであ
D
ます︒(中浜東一郎著中浜万次郎伝︑一 一 長
崎奉行所記録等参照)
中浜万次郎の外に︑ヨセア・ヒコがあります
0
・嘉
永三
年(
一八
O
五)
江戸より兵庫に向う栄力丸で遭難して漂流生活に入り︑米国に参り皿洗いを設し・た
b
︑税関長の秘書となった
b
していまナOAF‑
が日本に参D
ました時には︑十七才で米国紐育辺を歩いているο
領事館員となったり︑横浜に商
耐を聞いたり設
し︑長崎でも商売を致しました︒慶
応三年(一入六七)六月に長州藩の木戸孝允が長崎でヒコを訪いました僚を︑ヒコの白叙記に次のように記している︒
外国事情ア余ニ問イ︑殊ニ英・米ノ歴史・制度・政治ヲ質問セシ故︑余ハ余ノ能フ限リ︑ま(ノ間二件ロヘグルヘ
木戸氏ハ合衆国ノ憲法極メテ珍貴ナリトシ︑斯ル制度夢一一モ見グル事ナシト言ヘリ
とあり‑ます︒(高市慶雄訳ヨセフ彦蔵自叙伝参照﹀
三︑政治思想の影響日本の維新政治の組立の上に西洋政治思想が如何に影叩離間したかと云うととについては︑此れ
は大問題でありまして︑五分や十分で話の出来る訳ではないのでありますが︑例へばア
Iネスト・サトウそ通じて土
佐の後藤象二郎や藩州の西郷隆盛に伝わった英国の政治思想口(維新史料編纂会訳維新外交秘録)ミルの自由論︑とれ
は明治初年に中村敬字先生によって訳出せられた﹁自由之理﹂でありまして︑仏国の政治思想と関聯があ
D
︑板垣退助の自由誌の指導原理の一ツをたしている
︑ 口ハ板垣退助編自由党史﹀独逸墳太利の政治思想
︑とれはスクインやグナイ
ストを通して伊藤博文等に伝わって来ている︒(須多国民講義︑伊藤博文伝)その外に日本の維新政治を近代国家式に組
み建てるに至らしめた米国の影響を看過してはなら友いのであ
b
ます︒伺と申しましでも︑日本を開国致したのが米
国であ
b
まずから︑近代日本人には米国と言うものについての関心か非常に濃い︒ペリ
I来航前後に於いて米国事情
の日本への紹介書が頗る多いのでるります︒尤もその紹介と申しましでも︑中国板の漢籍から重訳抄訳接受したる智
識を纏めたのであります︒書名等を畢げますると︒
嘉 永 六 年 潮 北 亜 墨 利 竪 会 図 同 豊 晴 海 全 書
.
同 七 年 中 摘 利 竪 新 図 同 広 亜 米 利 加 総 記 同 同 統 亜 米 利 加 総 記
同
E
芸人理可国総記和解同 同 墨 利 加 沿 革 総 記 和 解 同 中 山 伝 左 衛 門 海 国 図 諒 亜 米 利 加 洲 部 安 政 二 年 小 関 高 彦 合 衆 国 小 誌 同 鶴 峯 成 申 米 利 幹 新 誌 宵後の話に関聯のありまずから︑一冊追加しますと
一冗治一冗年神治文
原 著 箕 作 尻 市 訳 聯 邦 志 略
直米利加紹介と申すととは︑一一回共和政治の紹介であります︒(鮎沢信太郎等著鎖届時代日本人の海外知識参照)
一体当時の政治思想を見ると︑一門旧幕時代そのままの幕府政治是認J
同王朝時代に憧を持つ所の王政復古の思想︒同
西洋伝来の議会政治の思想等があります︒占んもとの議会政治は文政十年(一八二七)に青地林宗の訳述した奥地誌略の
中に英国のパl
ラメントとかコンモシスなどについて述べてる
b
ます︒兎に角米国が日本と通商僚約を一初めて結んだというととは︑大きな影響を文化交渉上にも及ぼしているのであります︒
明治元年(一八六八﹀の閏四月に﹁政体﹂が発表になります︒とれは司法・行政・立法の三権分立の上に樹てられた
明治維新の政休でありますが︑その起案者は土佐出身の福岡孝弟であ
D
まして︑其の種本が︑聯邦志略であ
b
ます
︒
(国
家学
会
編明治憲政財政史論参照Uとれによっても知られる如く︑維新当初の政治思想の根本の一ツに米国の政治思想
のあったととは争はれない︒後⑨話になりますが︑明治六・七年
頃から民権論が盛んとなって︑政府が米国政治︑と
田 戸
ヨ
瀬 山 士 木
明治初期の日米文化交渉
達 美 亮 邦
hZ4号4Fれ
王
明治初期の日米文化交渉
五回 云ろよりは共和政治を警戒して参りましたロ明治十一年に︑後の元老院権大書記官︑司法・農商務大臣︑延いて枢密 顧問官となられた金子竪太郎伯がハIヴアIト大学の
政治学科を卒業して帰国さ
れ
ましたが︑当時は落閥全盛
の時 で 閥外の者は仲々任官が出来友い︑尤も伯は藩閥外の福岡藩出身ですからでもるりますが︑時の政府は米国帰
hvを
'指し て ︑ 共和政治国の本場で修業して来た者を政府の役人に採用するなど
とは
︑以の外と云う訳で
︑金子伯
もあの時は困
ったと述懐されていました︒(金子堅太郎伯の談話)
回
︑ 留 学 生 徳
川時代の末にな‑Pますと文化交渉は
︑和蘭
より英国
・米
国 と移り行きますにつれて︑米国留学とい うととが︑維新直前よりして行われ初めました︒とれには脱泰然として渡航する私的留学もありますし︑叉藩庁の命 を以て留学する者もあります︒例へば安中藩の出身である新島裏先生が函館から脱出せられたのが元治元年(一八六
四﹀
で・
あり
ます
G後の京都同志社の創立者で余りにも有名であ・ります︒(デピス著新島襲先生参照U
後 の 総 理 大 臣 高 橋 是清が横浜から米国に渡航せられたのが慶応三年二八六七)で米国で奴隷に売ら
れた話がありますが(高橋是清自叙
伝)
此の高糧翁と同船して渡米した者に︑福岡藩の留学生平賀義質︑(磯三郎)此れは後に司法省の中判事で日本陪審法の
最初の主張者︒本間英
一郎︑とれは碓氷峠アプト式の創設者︑井上良
一︑とれは日本人最初の大学教授︒との人選が未だ東も西も判らないで留学の途についている
C (
金子堅太郎著英文井上良一伝︒筑紫史談大関浅次郎論文参照﹀高橋翁の
記述に従いますと︑上等の日本人客には筑前一潜の書生が五六人いた︒とれを
引卒して行ったのが平
賀磯三郎︑そして下
等船客は伊東四
郎即ち後の軍令部長伊東枯亨
大将 等がいたとあ
b
ます︑其
他勝小鹿
︑富田鉄
之助
︑高木三郎なH
とが
同船している︒大体維新前に於きましては西洋の新智識を得んとするには︑長崎が唯一の留学地でるって︑九州諸蒋
を初めとして江戸・京坂人其他地方の西洋学に志し﹃まする者が皆長崎に集まっている︒福沢識吉先生の自殺伝な戸﹂を
読まれますと長崎内地官学の事な
Hとは︑よく判るのでありまナ︒(福沢議吉自殺伝)叉幕府の海軍操練所が此処にある︒
とるで新智識を受け入れたのでるりますが︑(勝海舟繍海軍廃史参照﹀段不時勢が移hν行くと
長崎では物足らた
く・ なっ て ︑ 直接各国に留学するようになった︒そとで前に述ペたような次第とたった︒長崎に来
て見ますと
外国に行きたく
たる
と見えて
︑ 岡 山溶の花房虎太郎(子爵花一房義質﹀が長崎がら突躍世界一周の詮についたのが︑失張わJ慶応三年(一八
六七)であり斗ヱ
J o
ハ子
鰐花
房義
質伝
︑震
卿外
遊記
参照
﹀
殊に明治四年歳押し詰って.
岩倉大使木戸・大久保・伊藤・山口の四副使一行が僚約改正の内意た含み︑兎に角米 欧回覧の途につきました時には︑公卿
・大名の子弟の人
kが多く官学の途についたので②ります︒此の時留学者は二
理類あります︒一つは当時の言葉で申すと︑華族は臭室の藩扉として国に尽さねばならぬからと云うので︑外国事情 を見聞して参るだけを目的としている者︑他は学聞を深く研究して来ると云うのであわ
Jます︑併し大体武士階級であbますので︑政治・
経済の方に志望が向っている口私との関係筋を申しますると︑福岡落の惚学生金子堅太郎氏は
λ
1ヴアIト大学で政治学︑同落留学生団琢磨氏はボストン・一アクッで鉱山学を勉強されたのであります︒此人達は福
岡落第二回の留学生
0
4んも今日とは丸反対でありまして︑日本の一両が墨銀二弗に換算されていた︒とれは一八七一
年頃のととであります︒との金子︑団両氏を福岡前蒋主黒団長博公が期間学せしめちれる時︑一投一能に達する迄何ヶ
年留学しても宜敷い︑学資は出す︒併し必守一技一能に達して参れと沙汰していられまナ︒との両人はボストンのラ イス・グランマ!
・スクールから修業したc何れも十余才の人達︑岩国の吉川重吉男が一呑若い幼年者でありました︒
(英文吉川重吉男自殺伝︑金子堅太郎伯談話︑男健闘琢磨伝参照﹀
との岩倉大使一行の船には︑使節随員の外に五六十名の留学生が乗っています︒特筆すべきととは︑北海道開拓使 から五人の女学生が官学している?北海道文化と米国文化との関係については︑後に申しますが︑との女性は津田梅 子︑後ちの津田英学塾の創設者︑外に永井しげ子︑山川捨松︑上回悌子︑吉益りよ子︑との五人でありまナ︒(吉川
利土
口著
津田
梅子
参照
﹀ 当時米国にでも留学する人で︑自然科学に志すというのは︑余程の人であって︑そとに何か動機があったのであり ます︒と申すのは前にも申した通
b
︑多くは侍の子弟でありまして︑自然科学を職人の学問位に考えている︒建築学 は大工の学問︑土木工業は土方の学問︑鉱山学校は穴堀
p
の学問︑そん友ととに学校は不必要位に考えている︒第一学問として認
識
していない︒団さんの話ですが︑初めて汽車に乗った︒ゴーと云って︑煮駄突に軍が走る︒﹁へ
1妙
な事だ﹂と考えた位︑それ以上何故などと考える頭の余裕は︑なかったξ申されていますが︑マア禿様であったと思い
明治初期の日米文化交渉
五五
明治初期の日米文化交渉
五六
ます︒米国の小学校に入って︑理屈が少し判って来る︑又免るもの嗣くものが器械づくめ︑頭が科学的になって来て︑
科学に志すという次第
Lト
思い
ま一
50
併し周回学すると︑一生懸命に勉強しました︒井上良一氏が当時書いた英文む論文の六七篇あ
b
ます
が︑
(英文米国
に於けるれ日本人参照)英文学者に聞くと︑仲K
達者な英文であると評していられます口余談ですが︑今の東京大学を
設けられる時に︑千葉県市川の国府台にと云う論があった時︑井上民が本概搬生山間を主張した︒(村田峰次郎翁談話)何
でもないようでありますが︑学問と実社会を連結しなければならないと云う井上氏の主張と思われます︒コロンピヤ 大学や︑ハIグアIトが市中にあり︑米国の哲学などが斯様な環境から出て来ると思います︒
何と申しまして日本の生活と米国の生活様式と違ふのであります︒団さんの船中の話ですか︑パン在見るとカステイ ラよりは少し淡白だ︑とれは沿茶菓子だといふ︒瑚誹は汗粉かと思い︒ライスカレーはとれは日本食だと申してゐ
る︒ハ団琢磨男談話︒)との大使一行が渡米した頃︑即ち一八七二・三年の頃米国に留学してゐる者が二百人位bったと申
されてゐます︒日本の留学生は勉強するといって米国すも評判は仲々宜しいのであります︒イリノイ州のパトラルと
いふ牧師が︑日本学生二十九名を引卒して︑研究旅行に出た︒︑そのととを記述しましてバ
コノ旅行ノ折エモ書籍ヲ携ヘタリ︑書籍トイフモ道中記・旅行案内等ノ類ノミ=アラズ︑文典ヲ携フルモアリ︑
数学書ラ手ユセルアリ︒長途鉄路ノ旅行ニ至りテハ一ノ飲料モ︑一ツノカードモ︑一ツノグ
Iムモアルナク︑読書ノ疲レヲ僅カエ日本流〆喫煙一一慰メテ︑彼等ハ最モ愉快=旅行ヲ続ケグリ
とある由であります︒叉宴会などに招待されましでも︑﹁予ハ尚少年ナリ︑思フ一
一宴会ニ臨
ンデ飲酒・喫煙・舞踏 ノ技ヲ学ブ如キハ︑我ガ日本政府ノ予ヲ此ノ米国ニ留学セシメグル本旨ェ非ルベシ﹂とて︑断状を出してゐます︒一 面には非常陀勉強する学生もありますが︑他面情けてゐる者もあ
b
まして︑明治七年に政府は九鬼隆一を波遣して勤 怠をば取調べさせまして︑多くの学生花帰国命令を出してゐます︒とれは臼本政府の財政が余税苦しくなったからで もあります︒山川健次郎先生の如きは当時エ
I
ル大学で非常に勉強されてゐますが︑帰国の命に接し︑学問中途であ
りましたので帰られませぬでした︒との辺のととは山川先生の伝記に詳しく記してあります︒(男富山川健二郎先生伝)
当時此等の留学生の一番困
p
ましたのは何と申しても語学で
b
ります︒山
川
先生の如きは当時
︑
語学上達
の方法とし
て日本人のゐない片田舎で勉強してゐられます︒福沢諭吉先生は長崎以来英語を学ばれましたし︑旧幕時代遣外使節 随員として︑外国にも両度治出に
たってゐましたけれども︑それでも先生の英語演説は︑外国人からみますると︑英語
とい思は友かったといふ話でるります︒岩倉大使一行中の安場保和が華措頃から俄かに帰国の途に就き
﹃ますが︑とれ
もその理由は︑一行中に英語が判らないで︑食堂で何度ボIイに註文しても︑アイスクリ
ーム計り持って来る︑それ 等を安場が傍観し
て憤慨し︑欧洲をとの調子で廻るとすると思いやられる︑無駄な国賓の消費だと憤慨し
て︑帰国す
るの
であbます︒(
安場
防(
菜父
母の
想い
出
﹀
五︑岩倉大使一行の渡米との岩倉大使一行の欧米事情調査は余程徹底
して
ゐまして
︑その努力の跡は高
く評価さ
るべきでありまずo
それは﹁岩倉特命全権大使米欧回覧実記﹂を網覧になりますと︑感心させられます
︒
政治
・経
済・
商業・教育・工場百般
K一且りまして︑細に入り微を穿ち調査し︑批判を加えてゐまして︑識見なども︑余程偉く高い
ものがありまナ
︒
観察の徹底実に敬服に値するのであります︑流石に若い理事官連中偉い調査をいたしたと思ってゐ
まナ︒(岩倉特命全権大使米欧回覧実記﹀教育方面に於きましては田中不二股のつ理事行程﹂に詳述してありまナが︑との
調査が明治初期の文化を進むるに与って力あ
b
ましたとととム円かれるのであります︒六︑ 森 有 誼 設 に 注 意 す べ き こ と は 森 金 之 丞 即 森 有 礼 の 存 在 で あ
b
ます口彼れは十九才の時慶応元年薩
州
藩留学生
として
英国に官学してゐまして四年間波地に在習︑明治元年七月徴士外国官権判事と為
b
︑明治二年には制度察撰修
を勤めましたが︑日本最初の国会であります同年(一八六九)の公議所に於いて廃刀の建議を致し︑全議員即
全公議
人
の総反対を受け満場一一致で否決せられた伊であります︒今日申ナとキザナ奴と人K
から思はれと思います︒木戸孝允 日記を見ますると︑森は有礼でなくして校れは無礼であると評し
一てゐます︒後明治二十二年二月に文相であ
bました
が︑西野交太郎に暗殺せられたのであります︒此の人が明治三年十二月から六年七月
まで米国に少弁務使︑後陸して・
中弁務使として︑駐在してゐまして︑米国の教育英他を研究し︑とれを日本教育界に参考にしたいと考へたのであ
b
まして︑明治十年前後からして
訴
の考へは日本文教政策の上に大きな影響を与へてゐるのであ
b
ます︒伎の米国仕込
明治初期の白米文化交渉
五七
明治初期の日米文化交渉
主入 の意見中には羅馬字採用︑英語を国語とするとと︒信教は自由で友くてはならない︒女子教育は必要で急務でるると と等を主張いたしまして︑帰朝後は当時の最高知識者を以て組織してゐる一団体即明六社の同人として明六雑誌に種
k意見を述べてゐるのであります︒民撰議院設立建白書の評︑独立国権議︑妻妾論なP
﹂が
あbますが︑明治八年ハ一八
七五)一一且に東京府知事大久保一翁立会︑福沢論士口先生を証人と設しまして︑広瀬阿常と申す婦人と結婚致し︑証書
を読み上げた︒その第一僚には﹁為約ノ隻方存命=シテ此ノ約係ヲ廃棄セザル間ハ共=余念ナク相敬シ夫婦ノ道ヲ守
ルコトc﹂第三僚に﹁有礼阿常夫妻ノ共有シ叉共有スベキ品一一就テハ︑鶴見方同意ノ上エ非サレパ他人ト貸借或ハ売買ノ
約ヲ為サザル事﹂とありまナ︒世間聞いて暗然たるものがあったのであります︒日常生活に於いても書生等と共に同 一の食事を設しました︒その書生の一人に高橋是清氏があったのであります︒有礼は米国駐在中に︑エール大学前総
長︑ハI
ヴア
1
ト大学総長等十三名の米固有名な教育者に︑即ち前エ
Iル大学総長テI
二 ア
1・ゥlルセイ(叶・0
・者
︒︒
z o U 1 )
アムハlスト大学総長グプリユI・ェ1・スグI
ン ス
っそ
・﹀
・ω
HO
mR
H岡
田)
ピl
・ク
I
パl
(H
M・
n g
HV
O叶
)オ
I・ベリンチI
フ(
︒・
句
2
z n z o
ごエム・ホプキンス(冨・国OUHaロ由)ジl・エチ・セ
ZIP‑(
の・
回‑
F
巳苦)一一ユlジャlシl大学総長ジl・マクコツシ(の・Z R n o
げ)ジエl・ヘン
n
PIG‑
図︒
ロ吋
包一
フト
ガ
Iス
大学教授デI・モルレl(0・冨号
g u U
コンネクチカット教育局ピl・ジI
・ノ
Iスロップ(切・︒
‑ Z 2 5 5 U
ハ
)
ーヴアIト大学総長シl・グブpzl・エリオツト(わ・4
司・
回目
︒︒
ジ
I・
エス
・ブ
lト
ウエ
ル(
の・
ω・
切m
wH
M件
当己
C
ジェl・ヱI・ガルフィールド
Q ‑ P
の
m
ユ 円 ︒
E )
の諸氏に対して︑教育は次の諸点に就いて如何に影響するかとの
質問書を発して︑答を求めてゐます︒ハ門一国の物質的繁栄に対してU同商業K ︐
対して︒同農業工業上の利益につい
て︒阿国民の社会的・
道徳的・身体的状態に就いて︒国法律統治上
κ
於ける効果︒以上五ケ僚を質してゐる︒此れに対ナる返慰問を纏めまして︑英文で日本教育策を書いたが︑未成稿本で一部分英文丈で今残ってゐるとのととでるわJま
して
ω
︑ハlヴアlト大学のジョン・ヱl・ガルフヒ1ルド氏の書翰︑的英語を日本に適用せしむるの論︑間合衆国
教育概略の三篇丈が纏められた丈とのととであります︒尤との答申者の内に一フトガ1
大学教育のグピット・モルレl ( 巴
mH
4E
宮口
E U 叶 1 ) のあるととは注意し置かねば左ら友いのであります
O (
明治
女化
合集
教育
籍︑
高橋
是諸
問翁
自伝
︑森
先
生伝参照) 七︑教育制度上に及ぼせる影響明治維新直後
に於いて米国文化の日本教育制度に及ぼした影響は最も大なるもの
がるったのでるりまナ︒従って米国人の我国教育界に貢献したととも頗る多いのであbます︒特に学校教育の本棋を
なす処の師範教育には多分の関聯を持ってゐるのであり
ます
︒
一体明治初年社会の趨勢は︑四民平等教育機会均等であります︑越前落の違などには四民混請の御時節と申してゐ
ますが︑とれには米国の教育が一番よい手本であったと存じます︒明治初年教育行政及び教育学の参考になるとし
て︑文部省等から出版されてゐますのは︑米国人ヰツケルシヤム原著﹁学校通論﹂(明治七年刊v︑米人ハIト原著
﹁学室要論﹂(明治八年刊)︒米人︒へ1ジ原著﹁波日氏教授論﹂(明治九年刊)︒米人ノルセント原著﹁那然氏小学教
育論﹂(明治十一年刊)︒同氏原著﹁教師必読﹂(明治十一年刊)等でるりますが︑直接日本教育界に貢献した人の
第一に奉げられるは米人スコット(冨・冨・
ω 8
) 3
でるります︒明治四年大学南校英語及び普通学教師と し て 腸 せ
られ︑明治五年東京師範学校の創設せられます時転傭せられて教育指導の任に当った︒我国師範教育の基礎を据へた
人と申して宣しい︑在邦十二年の久しきに亙ってゐます︒当時日本の学生は殆ど骨漢学仕込であります︒近代教育に
関する素養と理解とがなかったのでるる口一例を申すと︑漢詩の場合に平灰は判るが︑独乙語学に男・女・中性の②
るととはどうしても理解出来︑なかった方kである︒御承知の通りに明治五年には教育史上劃期的とも申すべき学制頒
布がありまして︑入大学区制が発布せられましたοとれは中央集権確立︑封建思想打破上必要であbました︒併しま(
後も絶へ守改変が行はれてゐまナ︑明治十二年に教育令が発布せられます口その聞の日本人で指導に当ったのが異に
米国教育の調査に従事してゐました田中不二倍でありまして︑其の相談役が学震と云ふ肩書を持ってゐますグウツイ
ト・モルレ
l (ロ 号 広 冨
E
員 己 で るbまして︑彼れは明治六年より十一年まで五ヶ年間日本にゐた︒そして彼れの
日本教育に関ナる意見は︑﹁学監考案日本教育法﹂と︑その説明書に詳らかでるります︒一休前の学制はその僚交の
示す如くに劃一主義であbますが︑明治六七年頃から盛と︑なりました自由民権思想の勃興時代になりますと︑との劃
一主義は︑自由を阻害するものとして︑明治十二年の教育令が発布せられ︑拾に米国教育界と密接の関係が生して来
明冶初期の日米文化交渉
五九
明治初期の日米文化交渉
C たのであります︒勿論とれば国民が米国一辺倒に傾いたからではなく︑先きに福沢論士口先生の﹁学聞のす
tAめ﹂など
にも教育の自由が説かれたものであった︒そして明治七年八月に小学読本が文部省から刊行せられたが︑此れがウィ ルソンのリーグIの翻訳でる
b
ました︒そこで下級の学校で読んだ日本語の読本が︑上級で英語を学ぶ時になると︑
先年読んだものと同じ文句の英文であったと云う有様になったのでありま一
J︒︑ 此の大勢の推移は吋終戦後の学制改革
と比較すると誠に
面白いととであります︒叉明治九年
(一八七六むに
米国費府
で万
国博覧会が開かれた時に
︑文部省で
英文日本教育史が編纂せられていますが︑とれもモ凡レ!の立案であったのであります︒尚教育事業に米国人の貢献 は非常に多い︒例
へばイング
( H C E H E
∞刊とれは明治初年同弘前に参り東奥義塾の英語教師で︑佐藤愛倍︑珍田捨身
︑
本多庸一諾先生の先生であります
oグルコツト女児(巴守山
‑ H ︐
m ‑ g
件
︒
︑ グ ツトレI女
史 己
・ 円 ロ ロ 色
︒ 己
︑ と れ は明治六年来朝して
︑明治八年神戸英和女
学校の創立者︑此校神戸女学院大学の
前身であ
bます︒イ1
トン
(間
早
Oロ )
︑ ベ ニ l
品
g
(の
︒匂
g E
Q
明
治六年来朝大阪英語学校教師︒ボ
!ドウイン(めげ戸ユ
g
切m E
三 旦
︑ 明 治四年来朝︑京 都英語学校の教師︒プ
ライン
女 史
(冨
m w
ミ 司
EM AH
)︑ピヤソン
女史
(﹁出・
E O H g
ロ)︑グロスピI
女 史 己
・ 戸
σ ω g
︒ 己︑ 明 治四年来朝
︑
横浜共立女学校の建設者︒未だる
りますo斯くの如く各方面に一旦って︑
米人教育家の活動を見 たのであ
bt
す︒(日本文明協会編明治文化発祥誌︑明治文他論文集時野谷氏論文等参照﹀
八︑基督訟
E描片
道 と任命商事業教育と密接な関係を有する
ものに
宗教万面があ
ります︒勿
論基必教の伝道であ
りますが︑
延いて社会事業の発達に︑非常な貢献を賀したのであ
D
ます︒土日天文十八年(一五四九)にフランシスコjザピエール
が鹿児島に上陸いたして布教に従事いたしまするが︑その後非常︑な勢で我国中世に発展設しますっその理
由としては宣教師の人格の高︾ったとと︑
宮山
術に
堪能
であったとと︑科
学的智識を有し
ていた
為めに信徒には奇蹟
と見えた
とと
等が翠げ得られるのであ
b交すが
︑明 治初年
の布教に
於いても伺同様な観察が行われるのであります︒日
本と最初に結ばれた外国保約が米国であhvました関係上︑
米国の教師が最初に日本布教に従事致したのであります︒開港係 均の結ぼれた安政五年の翌年四月
(一
八
五九
)に
はエヒスコバ
ール
教会のジョン・リ
ツギンス
(FF ぽ
E
スピ一アリアン教会のゼlKプ
E )
それからyシ
l・ヘボシ(﹂・︒・出品同CHHM)
夫妻
︒とのヘボン
さん段非常に有名友方
で
︑ 当 時
の日本人よb非常な愈散を受け止なした︒来朝は安政六年十月神奈川に参り︑文久二年八一八六二﹀に横浜に移b
ます
︒
そして聖書の翻訳もあ
D
まナし︑有名なヘボン辞書即ち和英英和辞典もある︒此れは英学者にとっては至宝の書籍でありました口文牛乳搾取業とか製氷事業とか種Kな事業に助言を与えまして︑それから有名た限薬︑岸田の精締水は
ヘボンさんの処方であると云うととです︒施療もいたしまして横浜山下町に医院を建
てて
主として庶民に施療を
いた
しています︒ゥヰリヤムス
( P E ‑
司自
E g m )
︑との人は先きに述べたりツギンスと共に日本来朝最初の宣教師で
ありまして︑安政六年に参っています︒監督に任ぜられた人であります︒シモンス(ロロ
ω
ロO
回 ・
ω ‑ B B
ロ
O
回)
例の
最下
しセメンエンの製調剤者で︑横浜に病院を作ったo後の横浜十全病院であります︒とれもい一政六年十月来朝者であり
ます︒それからパラ己・国・切己
‑ p m
ご夫妻︑とれは文久元年二八六一﹀に神奈川に来朝︑後検誤に移りました︒
との人について明治元年(一八六八)に洗礼を受けた日本人もあります︒
菅は長崎が西洋女化の淵叢でありましたが︑明治一冗年前後になbますと横浜神奈川がその淵叢となりましたo但し各地方に於いても西洋文化は接受されたのであ
D
ます︒例へば熊本にはデェIン ス (
?
? 守
g )
口がい
ます
︒ と
の
人は明治四年二八七ごに熊本学校に将せられた人ですが︑海老名弾豆︑浮田和氏︑徳富蘇峰︑金森通倫諾先生の先 生で非常に感化を及ぼした人口それからデフオレスト己・同・ロ
σ吋
O B a
︑此れは明治七年に来朝して後仙台地方
特に東華学校を中心として布教している︒申し後れ︑ましたが更に学校教師方面を見ると︑それは叉偉大友るものであ
る︒文部本省を初めとして︑大学南校︑神戸英和文学絞︑大阪英語学校︑京都英語学校︑更に北海道札幌農学校を中
心として︑多くの優秀たる米国教師が諸学科に豆り主(︐E刷所奉ぜられたのであります︒中には婦人教育家もあるのであ
りますo科学方面に於いてもグリIフイス(巧巴
E
日 間
一円︒けのユはぽ¥此れは﹁自主国の著者︑明治三年に来朝され
越前一蒋に招科された︒もと化学者であります︒昭和七八
年頃
でしたか来朝された時は︑私面会いたしましたロメンデンホl
凡 ( 叶
‑
・
n
冨の
E o E g
‑
ごと
れは地球物理学者︒大森貝塚発堀で有名な動物学者モ
ールス(問
ω
・富島
田
O﹀C
日本鉱山田介石油業界に偉勅を樹てましたライマン(∞
‑ m
‑ F
同吉川吉)此れは地質学者で北海道の開拓に至勃
b b
︑ 旦日本の諸鉱山の開撃に力を尽して呉れました︒仲k功積は大であbます︒(工部省治草志︑明治文化発棒誌︑ジlシ1へ
明治初期の日米文化交渉
〆ム
、
明治初期の日米文化交渉
/
中、
ポシ伝等参照︒)
要するに︑明治維新直後の日本の組直しには︑その文
化的方面に於いて米国文化の
影響を受け
ている処が非常に大なるものがあったと申
して
宣しい︒情前に奉げました米人の外にも多くの米人が文化に貢献せられた︒事げ洩した人
‑ 一月︑叉は師事げて軽重を失している人も沢山あると存じます︒
丸 ︑
北
海道文化
と米
文 化 米 国 文 化 は 斯
くの如く各方面に接受されたのでありますが︑とれを地理的に見まナと特
に北海道が浮び上つぺ来るのであります︒何分にも当時に於いて内地の方は旧藩の勢力がありますので︑明治政府と
難浮と地上に手が付けられないo
そとで何等旧勢力の存しない旧蝦夷地即ち北海道を中心に︑明治政府は猫設を設し ました口これには後に屯田兵の制度か出来ましたように北地警備の意味も寓されてゐると思ふのであ
bます︒今の札
幌市の街区が余程大規摸に出来
てゐるのも︑との気運の現はれと思ふのであ
b
ます︒そしてその指導に当りましたのは米人ク一フ1ク(若宮紅白ω ‑ n E
之内岳︑ライマン(切︒旦
m B Z ω d
弔問同FFM
ミ民
間口
一)
︑ケ
エプ
ロン
(の
Oロ
・図
︒吋
m h o n g u
吋︒ロ)等がゐます︒その文
化の
象徴は札幌農学校でる
りました︒北
海道開拓使
が 女 子 霊 茎 五 名 を 明 治 四 年 末 に 米 国 に 送った友どは︑その盛
んな意気が察せられるのであ
b
ます︒かつて実業家
の会合で聞いた話でナが︑北海道で或る事
業を創めようとすると︑そとから水銀が出る︑此処に水銀があるのかと不思議に思っていると︑それは明治初年に試
検調査用に︑
そとに投入れた水
銀
であった︑随分多量使用したものだと驚いたとの話でした口三井の団琢磨さんなど も︑北海道に行くと︑かつてボストン・テックに学んだ時のととが匙って︑亜米利加に帰ったような気持になると申
されていたのであります︒(北海道大学五十年史︑北海道志︑北海道史参照﹀一
O
︑ 美 術 界 に 就 い て 日 本 美 術 と米国文化との関係に就きましては︑後刻に隈元謙次郎先生が御
講演
下さいまずと存じますので御聞を願いますが︑私が金子伯より承bました処を︑一二=回申して置きます︒了度明治十一年(一八七八﹀に金子さんと団さんがボスト
ンの
学業を終
って日本に婦られます時に︑市俄古辺の一駅で︑
偶然一米
人に会われた04
スルトその米人が︑君達は日本人が︑自分も近
k日本に行くと云って話した︒それがフエノロサ(肘吋ロゆえ円相︐o
口 ︒ HO
白州乙であったと︑話されました︒伯も後年日本美術協会長
となられました︒何かの因
縁と存
じます︒予定の時間も
参りましたので︑止めますが︑実は万延元年(一八六
O )
に村垣淡路守範正︑新見豊前
・守王路︑の一行が米凶に参
hy︑ 随員として殆んど日本各地方の人が身分を秘し
て参りまして︑米国文化を接受したとととか︑遡つては天保八年(一八三七)六用モリソン
ロ す
が浦賀に参b
まして︑殊に注意深くも聖書は一冊も持って参らなかっという事などについて
も︑申し述べたいのでありまナが︑それは略しました︒
︹附記︺講演筆記修正に当って︑主なる参考書を︑文中に附記して置きました︒学徒の研究に資せんが為めであり
ます
口
明治初期の日米文化交渉
...L.