マルクスの未来社会
一社会科学の方法序論
二一
︵霜 田 美 樹 雄
ま え が き
マルクスの未来社会
マルクス﹃経済学批判・序言﹄︵一八五九︶の末尾のところに次のようなことばがある︒﹁⁝⁝大づかみにいって︑
アジア的︑古代的︑封建的︑近代ブルジョア的生産様式を経済的社会構成の前進する諸時代と称しうる︒ブルジョア
的生産諸関係は社会的生産過程の最後の敵対的形態である︒ここに敵対的というのは個人的敵対の意味ではなくて︑
諸個人の社会的生産諸条件から生じる敵対の意味であるが︑しかしブルジョア社会の胎内に発展しつつある生産馬力
は︑同時にこの解決のための物質的諸条件をつくり出す︒だから人間社会の前史はこの社会構成とともにおわりをつ ︵1︶げるのである︒﹂
これはマルクスが未来社会を規定した部分である︒彼は自分が生きているブルジョア社会をもって人間社会の前史
のさいこの社会構成とし︑その前史のあとには人間のほんらいの社会の歴史が展開するものとする︒前史から本史へ
の転換の契機となるものは︑物質的にはブルジョア社会の胎内に発生しつつある生産財力であり︑またその生産諸藩
の発展により拡大される社会的諸矛盾である︑とする︒
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したがってマルクスにとって未来社会は当然のことながら右のようなブルジョア社会の諸矛盾の払拭の上に構築さ
れなけれぽならない︒
そこで︑これに関するマルクス理論の検討には︑人間生活の社会的物質的諸条件に対応し︑それを保持する︑上部
構造としての国家の歴史的検討と︑その上に立って未来の理想社会への検証がなされねばならない︒
本論攻ではマルクス︵エンゲルスを含む︶の国家論︑つまりブルジョア社会における上部構造としての国家の本質究
明と共産主義社会提示の概略を説明し︑共産主義社会という未来社会の歴史的性格とその位置付けをのべたい︒
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一、
纒剥¥造としての国家
1 国家の本質
まずかれらが生きていた社会︵国家︶をどのようなものとして把えようとしていたのだろうか︒ エンゲルスは﹃家
族︑私有財産および国家の起源﹄︵一入八四︶のなかで﹁国家は永遠の昔からあるものではない︒国家がなくてもすん
でいた社会︑国家と国家権力を予想だにしなかった社会がかつて存在した︒社会の階級分裂と必然的に結びついた経 ︵2︶済発展の一定の段階において︑この分裂によって国家が一つの必然事となったのである︒﹂
人類の社会生活が遠い祖先の過去の世界から現在を経て未来永却に至るべき長い歴史的時聞系列のなかで︑彼は国
家といわるべき政治社会とそれ以外のものとに区分しようとしている︒その社会に権力の発生をもって国家と規定
し︑かつそれは経済発展の一定の段階における階級分裂を契機とする︑となす︒
また︑マルクス﹃ドイツ・イデオロギー﹄︵一八四六︶で社会的生産力の発展に伴い︑自然発生的に分業が出現し︑そ
れにより共同社会の共同利害に矛盾し対立する特殊利害が発生するとなし︑そこで﹁人間が自然発生的な社会のうち
マルクスの未来社会
にある限り︑したがって特殊利害と共同利害とのあいだの分裂が存在するかぎり︑したがってまた活動が自由意志的
でなくて自然発生的に分業化されているかぎり︑人間自身の行為は彼にとって外的に対立する力となるということ︑ ︵3︶すなわち彼が支配するのでなく︑かえって彼が抑圧されるような力となるということの最初の実例であるしとし︑さ
らにほかならぬ特殊利害と共同利害との︑このような矛盾をもとにして︑共同利害は国家として︑現実の各個の︑ま ︵4︶た総体の利害から握り離されて︑一個独立な姿をとる︒と同時に︑それは幻想的な共同性として出現するのであるし
という︒ つまり︑社会的生産の拡大にともなう自然発生的分業の増加が︑共同利害に対する特殊利害の発生とそれへの対立
を惹起し︑共同利害を体現すべき共同社会は︑現実にはその幻想性のうえに立つところに国家を発生せしめるとす
る︒ たしかに︑﹁それは決して外から押しつけられたものではなく︑むしろ特定の発展段階における社会の一産物であ
る︒それはその社会が自分自身との解決しがたい矛盾にまぎこまれ︑和解しがたい︑みずから駆逐しえない諸対立に
分裂したことの告白である︒しかしこれらの諸対立がすなわち相対抗する経済的利害をもつ諸階級が︑自己および社
会を無益な闘争のうちに消耗させないために︑この衝突に水をかけ︑これを秩序の枠のなかに保とうとする外見上社
会のうえに立つ︑一つの権力が必要となった︒社会から出て︑しかもその上も立ち︑それからますます遠ざかって行 ︵5︶くこの権力が国家である︒﹂
ここでは歴史発展上の一区分として存在する国家の本質を説明している︒つまり国家とは社会の内部的諸子礫を支
配的に秩序化し︑整序する権力であるということになる︒
さらに﹁国家は諸階級の対立を制御する必要から生じたものであるから︑しかしてそれは同時にこれらの階級の衝
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突のただなかに生じたものであるから︑それはもっとも勢力のある︑経済的に支配する階級の国家であるのがふつう
である︒この階級は国家をつかって政治的にも支配する階級となり︑こうして被圧迫階級を抑圧し搾取するための新
らしい手段を手におさめる︒こうして古代国家はなによりもまず奴隷を抑圧するための奴隷所有者の国家であり︑封
建社会は農奴および隷属農民を抑圧するための貴族の機関であり近代の代議制国家は資本によって賃労働を搾取する ︵6︶ための道具である︒L
これらをまとめると︑国家発生の契機はまず一般には︑内部的要因にもとつくものであることと︑次に国家という
政治社会はつねに共同利害の実現︑維持を目途とするものであるが︑現実には発生の経過々程からして︑それは一部 ︵7︶の特殊利害を体現するものであり︑これを逆にいえば共同利害を幻想上のものにする権力的社会であるということに
なる︒エンゲルスは次のようにいう︒﹁人間を支配するさいしょのイデオロギー的権力が国家というかたちでわれわ
れの前に現われる︒社会は内外からの攻撃に対してその共同の利益を守るために一つの機関つくり出す︒この機関が
国家権力で麓﹂ことになる・﹁だが・の機関はつくり出されるや否や︑・の社会に対してみずから独立するように
なる︒しかもこれが一定の階級の機関となり︑この階級の支配権を直接行使するようになればなるほどいよいよます
ますこの独立の傾向はつよくなる︒ここに支配階級に対する被抑圧階級の闘争は必然的に一つの政治的闘争となり︑ ︵9︶まず第唄にこの階級の政治的支配に対する闘争となる﹂のである︒
つまり︑社会はその共同の利害を処理するために︑さいしょは簡単な分業により社会自身の機関を作り出したが国
家権力を頂点とするこの機関は時がたつにつれ︑その機関自身の特殊利害に奉仕するようになり︑ついには﹁社会に ︵10︶つかえる下男から社会を支配する主人にかわって﹂きてしまうのである︒
右の叙述は国家の本質と機能をよくいい現わしている︒だが︑さらにまた誤解をふせぐため老母心乍ら次の叙述も
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加えておこう︒
マルクスの未来社会
2 国家の二つの機能
エンゲルス﹃反デューリング﹄︵一八七七︶のなかで原始の共同体は﹁そもそものはじめからたとい社会全体の監視
をうけているにしてもその保護をば個々人にまかせなければならないような一定の共同的利害が存在する︒それはつ
まり紛争の解決︑個々人による他人の権利への侵害の阻止︑水利の管理⁝⁝﹂のようなものであり︑﹁このような職 ︵11︶ ︵12︶務を帯びた個々人は⁝⁝ある一定の絶対権を与えられているもので国家権力の端初をなしている︒﹂とした︒生産民
力が増大し︑人口が稠密になり個々の利害が複雑になるにつれ︑このような共同社会の利害を調整する社会的職務機
能の遂行には機関が創設され︑それが共同利害の代表者として機能を行使する︒そしてその機関はますます必要欠く
べからざるものとなることによってなお一そう独立的なものとなり︑⁝⁝社会に対する社会的職能のこのような独立
化が時とともに社会に対する支配まで高まる⁝⁝﹂のであるが︑﹁ここで問題なのはただどこでも社会的な職務執行
が政治的支配の基礎となったということ︑そして政治的支配はまたそれが社会的職務執行を遂行した場合にかぎって へ13︶ひきつづき存続したということを確証することである﹂という︒
彼のいいたいことは原始の共同社会でも国家段階の政治社会にも社会的職務執行ないし︑共同社会の共同事務︑共
同利害の調整というかたちの社会的統合の機能があるということ︑そしてそれは同時に国家における政治的支配ない ︵14︶し権力的支配の必須条件︑前提条件をなしていることである︒これを図示すれば第1表の如くならう︒したがってマ
ルクス主義は国家の本質をば階級の権力的支配と搾取の道具であるとし︑社会的統合の機能を見失っていると主張す
る者がいるとすればそれは悲しい誤解であらう︒ただ注意すべきは国家におけるこの二つの機能行使はまことに雪形
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政治社会の機能
原始共同社会→国家(古代,中世,近代,現代)→未来社会
共同利益の実現 な し 幻想上の共同利益
特殊利益の実現 共同利益の実現
なし
(第1表)
社会的統合 権力的支配
的︑肢行的である︒
たとえば現代我が国の代議民主政に例をとろう︒産業構造の変化は農村から都市への恒
常的ないし季節的社会流動を過大にし︑国会議席数と地域別人口比を益々弓形的にしてゆ
くし︑また選挙とその地盤培養に巨額な資金を必要とするにもかかわらず︑それに対して
意識的にか無意識にか︵国事を憂うる国会議員はこれに無意識だとは思わないが?︶何ら
目星しい対策が講ぜられていない現在︑果して正当な民意が国会に反映できるであろう
か︒つまりこのような政治的条件のもとにおいては多数議席なるものが︑すこしオーバー
な表現をすれば過疎の農村地帯における事実上の腐敗選挙区ともいわるべきところに立脚
していたり︑あるいは金権地盤の後楯により︑正当な民意の表現を阻害しているとした
ら︑そのような地盤からの選出議員がただ多数決ということだけでゴリ押しすることがど
んなことになるか自明の理であろう︒それでも形式的︑名目的には民主的手続をふんで議
も へ も へ ぬ も も も会政治が行われているという意味で国家としての社会的統合の機能は果している︒だが︑
これを実質的に見るとき︑代議民主政機構は故意に歪曲され一握りの階級の特殊利益に奉
仕し︑そのための権力的支配の道具となっている︒政府高官層と財界つまり国家独占金融
資本掌握者層との病理的癒着によって操作される昨今の経済現象たとえば公害︑石油危
機︑物価値上げなどで勤労者大衆がはなはだしく苦しめられている諸状況はこの明証でな
くてなんであらう︒
マルクスはこのような現代に生を享けているわけではないが︑その代り資本主義のこの
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帝国主義的段階に活躍した・−・ンはその理論を承け継ぎ﹃国家と革命﹄︵一九;︶に開花総・そこでいわゆる末
期的様相としての国家の本質的危機が強調され︑この晴形的危機的状況の打開の道の一つを指摘した点は妥当であろ
う︒ 国家は現実において所有者階級の自衛組織に堕し︑かつ社会的統合の機能が名目化し︑いわゆる黒道主義が空曹侮
することによって︑人間はあるべき姿を失い︑支配する側も︑支配される側も政治的疎外状況を持つ︒このように疎
外された人間性を回復する方途は︑語形的︑人為的に組織された強力としての国家をうちこわして︑真実に共同利益
が実現できる社会をうちたてる以外にない︑という結論がでてくるのである︒
二︑プロレタリアート独裁
マルクスの未来社会
1 階級闘争の結果として
資本主義国家において支配する側つまりブルジョアジーと支配される発つまりプロレタリアートの社会的断絶︑軋
礫は極大化しているので疎外の克服は必然的に革命的手段とならざるを得ないだろうし︑また前者よりも後者の方が
より多く政治的疎外状況を持つので︑革命のイニシアチブをとるもの︑つまり担い手は後者となる︑とする︒すなわ
ち﹁⁝⁝資本主義生産様式は大多数の人口をますますプロレタリアに転化させるとともに︑自分が破滅しないために ︵16︶はいやおうなしにこの変革を遂行しなければならない勢力をつくり出す﹂︒そして﹁権力を維持しようとする基礎の ︵17︶定つた古い階級と︑権力を獲得しようとする新興の隷属階級の闘い﹂の結果として﹁プロレタリアートとしての自分 ︵18︶目身を揚棄しそれとともにいっさいの階級差別と階級対立とを揚棄し︑それとともに国家を揚棄する﹂︒つまりプロ
レタリアートが革命の担い手であることと︑その後の理想社会への進行に主導権をとるべきことが示されている︒こ
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のプロレタリアート独裁がさいしょに出てきたのはもちろん﹃共産党宣言﹄︵一八四八︶で﹁⁝⁝プロレタリアートの ︵19︶階級への結成︑ブルジョアジーの支配の転覆︑プロレタリアートによる政治権力の獲得である﹂となっている︒
そしてマルクスはこの独裁そのものは社会的生産の特定の段階における階級闘争の結果として発生したものであ
り︑またそれは社会階級の揚棄と無階級社会に至る過渡にすぎないことを﹃一八五二年三月五日付ワイデマイヤー宛
手紙﹄においてのべた︒
すなわち︑﹁⁝⁝近代社会における諸階級の存在を発見したことも︑それらの階級相互間の闘争を発見したことも
僕自身のてがらではない︒市民的歴史家たちは僕よりもずっと前にこの階級闘争の歴史的発展を︑そして市民的経済
学者は諸階級の経済上の解剖をのべた︒僕があらたにやったことといえばつぎのことを証明したことである︒諸階級
の存在はひとえに生産の特定の歴史的発展段階とむすびついているということ︒階級闘争は必ずプロレタリアートの
独裁を招くということ︒この独裁そのものはいつさいの階級の揚棄と無階級社会へいたる過渡をなすにすぎないとい
︵20︶うこと⁝⁝﹂としたためている︒
たしかにレーニンもいう如くへーザルの観念哲学︑イギリス功利主義経済学︑フランス社会主義思想の諸遺産がマ ︵21︶ルクスにうけ入れられ︑消化されて︑次に独自な彼の理論が形成されたものである︒たとえばブルードンは﹃財産と
はなにか﹄︵一八四〇︶において︑私有財産制度とは︑強者による弱者の搾取の結果であり︑したがって財産とは盗奪
︵22︶であると喝破していたし︑サン・シモンをはじめとするフランス社会主義老たちは階級闘争の歴史的必然性を説いて
いた︒そしてまた﹃共産党宣言﹄︵一八四八︶の出版されるより五年も前に︑フーリュ主義者の一人であるコソシゲラ ︵23︶ンが﹃民主主義宣言﹄︵一八四三︶において︑階級闘争と資本主義社会におけるその破局を示唆していることのうちに
︵24︶一つの証左がある︒すべての知的生産は先行者の知的遺産の上に築かれるものだということをマルクス理論ほどはっ
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ぎり示したものはないだろう︒先行者の知的遺産を良く吸収すればするほど実り多い新たな成果が期待できよう︒
彼の功績は︑前述の手紙の如く︑ばらばらなそれらの知識を社会的生産における発展という基軸の歴史的時間系列
のうちに体系的に整序したことであり︑したがってその歴史的発展の路線のうえにマルクスの生きた時代における階
級闘争と︑その結果としてのプロレタリアート独裁が引き出されてきたのである︒
そして︑その独裁は無階級社会に至る過渡として存在し︑したがって独裁そのものはそこへ至るべき使命と任務を
もったものであるということである︒これはのちの﹃ゴータ綱領批判﹄︵一八七五︶において﹁資本主義社会と共産主
義社会との間には︑前者の後者への革命的転化の時期がよこたわっている︒それに照応するものはまた政治上の過渡 ︵25︶期であって︑その国家はプロレタリアートの革命的独裁にほかならない﹂として︑彼の確信が示されている︒
マルクスの未来社会
2 コンミュンと出来合いの⁝磯構
ではプロレタリアート独裁の具体的あり方は如何︒マルクスは﹁できあいの国家機構をにぎってそれを自分自身の ︵26︶目的のために使うことはできない﹂とし︑パリ・コンミュンの経験から︑それがついに発見された労働者のための唯
一の統治形態であると強調した︒労働者のための統治機構を希求したについては封建社会←封建領主支配︑ブルジョ
ア社会←ブルジョア議会政治に対置したものとしての発想がまったくなかったとは思われない︒それではそのコンミ
ュンとは如何なるものか︒パリ・コンミュンの叙述は次の如し︒﹁コンミュンは市内各区での普通選挙によって選出
された市議員からなり立っていた︒彼らは選挙民に対して責任を負い︑短期に解体されうるものであった︒いきおい︑
その議員の大部分は労働者または労働者階級の承認した代表者であった︒コンミュンは議会のような団体ではなく
て︑同時に行政府であり︑立法府である一つの行動体たるべきものであった︒警察はこれまでのように中央政府の道
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具であることをやめ︑ただちにその政治的性質を奪われ︑責任ある︑いつでも解体できるコン︑︑︑ユンの道具に代っ
た︒行政府その他のあらゆる部門の官吏も同様であった︒コンミュンの議員以下公務をとるものは労働者の賃金だけ
をうけとらなければならなかった︒国家の高位高官者たちの既得権や交際費は︑高位高官者そのものとともにすがた
を消した︒公職は中央政府の手先の私有財産たることをやめた︒たんに市政ばかりでなく︑これまで国家が行使して
いた発議権もすべてコンミ・ンの手中におか恕μのである・・れで・そはじめて薗家と国家欝が社会に仕える
下男から社会を支配する主人にか矯しことをやめ・ので麓・・の統治形態の茱原程・シア革命後︑・ビ干 ︵30︶政権のそれとして開花したが︑もちろん実際政治の過程で具体的ないろいろの変更はやむを得ないことであった︒
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3ブルジョア議会闘争
とはいえマルクスはプロレタリアート独裁の統治形態が必ずこのコンミュン方式でなければならないというのでも
なかった︒いな︑むしろマルクスもエンゲルスも晩年になると︑いままで好意を示さなかった﹁出来合いの国家機構﹂ ︵31︶を労働者階級が握って︑それを新しい社会への開拓に使うことの可能性を示したのである︒
たとえばマルクス﹃アムステルダム公開集会における演説﹄︵一八七二︶で﹁⁝⁝あたらしい労働組織をうちたてる
ために︑いっか労働者は政治権力を獲得しなければならぬ︒彼らは旧制度の支えとなっている旧政治体制を転覆しな
けれぽならぬ︒⁝⁝もちろんこういつたからといって︑この目標に達する手段がどこでも同じだというふうにほのめ
かすものととられてはならぬ︒それぞれの国の制度や伝統に対して特別な考慮が払われねばならないことをわれわれ
は知っている︒合衆国やイギリスのように︑労働者が平和的手段によってその目的を達するのぞみのある国が存在す
ることをわれわれは否定し亀・﹂とし・またラゲルスも彼の死の半年前にマル・ス﹃フ・ソ乏おける階級闘争﹄
マルクスの未来社会
革命とプロレタリアート独裁の一般図式
プロレタリアート独裁形態 政治革命形態
暴力革命 コンミユン/ソビエト制度
ブルジョア議会での多数派達成 ブルジョア議会の展開
(第2表)
\. 革命と以後
〜\\
革命時点 \
後進地域:開発途上国 先進地域:資本主義国
の﹃序文﹄︵一八九五︶において一八四八年二月革命ののちにきた実際の歴史的進行とかれ
らのそれに対する予測との疎隔を卒直に自己批判して﹁⁝⁝歴史は︑われわれもまた誤っ
ていたことを教えてくれ︑当時のわれわれの考えを一つの幻想として曝露してくれた︒⁝
歴史は当時のわれわれの誤謬をぶちこわしたばかりでなく⁝一八四八年間闘争方法は今日 ︵33︶ではどの関係からも時代おくれとなっているのである﹂とし︑それに代るに﹁普通選挙権
の効果的な利用によってプロレタリアートのまったく新しい闘争方法がもちいられはじ ︵34︶めそれも速かな発達をとげたのである﹂とプロレタリアートのブルジョア議会内における
議会的手段による政権奪取の可能性を強調した︒つまり全体として︑先進国においてはい
わゆる平和的革命とその後の平和的独裁すなわちブルジョア議会を利用しての議会政治指
向の可能性を示していた︒さらにエンゲルスの﹃エルフェルト綱領草案批判﹄︵一八九一︶
﹁民主的共和国の形態のもとでのみ支配権を握る論﹂もこのような意睦おける民主共
和国と理解されてよかろう︒そこで革命とプロレタリアート独裁の一般図式は第2表のよ
うになろう︒そこで革命とかプロレタァート独裁について︑どうしてこのような事実上の
転換ともいわるべき主張の変更があったのだろうか︒前述のようにヨーロッパの資本主義
発展と経済恐慌の多岐複雑性が︑かれらの資本主義崩壊と革命の具体的予測をつぎつぎと
うち破り︑革命に対する度重なる挫折感が資本主義崩壊と︑革命の具体的意義づけを変更
させたのだろう︒前者についてはカタストロフィとは自由主義的資本主義経済の運営が困
難になってきた時点すなわち︑社会保障が整備され︑計画経済がプロレタリア的に立案さ
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れる時点とし︑後者についてはブルジョアジー独裁が困難になってくる時点すなわちブルジョア議会でプロレタリア
代表が多数を占めたときという理解が可能である︒もちろん︑その場合でも生産手段の社会的所有の程度の問題を具
体的にどのように定義づけるかをはじめ幾多の論争点を持つとはいえ︑彼らは先進国の資本主義経済の発展とその進
路にさいごまで重大な関心を持っていたことがうかがわれる︒
マルクスもエンゲルスも自由主義的資本主義国以外の地域の人々の人間解放についても考慮したが︑大局的には矢
張り先進諸国のプロレタリアートについて考えていたことは否定できない︒その意味で資本主義の帝国主義的段階に
おいて活躍したレーニンの帝国主義段階における先進国の革命および︑それにより侵略された後進国の革命ないし民
族独立に果した政治的および学問的位置づけは高い︒彼は資本主義経済が正にグローヴァルな諸影響を与える状況の
もとで先進および後進地域における革命と強力の具体的関連を明示した点に説得力をもつ︒
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4 労働者の強力
なお︑ここで付言しておきたいことは︑マルクスの前記﹃アムステルダム公開集会における演説﹄においても﹁⁝⁝
たいていの先進諸国では強力が革命の亡子とならなければならないだろうということを認識しなければならぬ︑もし ︵36︶究極において︑労働の支配がうち立てられるはずだとすれば︑労働者がやがて訴えるべきものはまさに強力である﹂
ということである︒
つまりいわゆる平和革命においてもいわゆる暴力革命においても︑その起動力となるのは必ず労働者の強力でなけ
ればならない︑ということは彼らの一貫した主張であったということを銘記すべきであろう︒﹁労働者の強力﹂とは
なにか︒それはその発現形態が平和的手段によるにせよ︑暴力的手段によるにせよ︑いずれにしても労働者のやむに
マルクスの未来社会
止まれぬ主張と行動である︒
たとえば︑これを現代の我が国に例証しよう︒一部独占金融資本の巨大な利益において︑公害︑石油危機︑物価値
上げなどで苦しめられている勤労者大衆は経済生活の危機を突破するため団結してその阻止と生活防衛のため議会闘
争︑大衆運動を通じて立ち上らざるを得ない︒これが我が国のような先進国における労働者の強力の一般的ケースで
ある︒資本主義の帝国主義的経済侵略が一般に言偏政権を媒介として行なわれている後進地域においては労働者の政
治的関心は未熟であるに反し︑支配権力のしめつけは強力であるので労働者のために︑一部の対抗エリートが彼等を
組織化して暴力的に政権転覆を行う確率が多い︒これが後進地域における労働者の一般的な強力である︒
これに関連して︑革命の平和手段につきエンゲルスが﹃ラファルグ宛一八九五年四月二日付手紙﹄において︑前述 ︵37︶エンゲルス﹃序文﹄を﹁なんでもかんでも平和的︑反暴力的な戦術の擁護﹂にとってもらってはこまるし︑﹁この戦術 ︵38︶を私がといているのは︑ただこんにちのドイツにおいてだけ﹂という留保条件をつけていることである︒
これは要するに労働者の強力という革命の必須条件を事実上無視されるような解釈をはなはだしく警戒しているわ
けで︑革命1それがいわゆる平和革命にせよ︑暴力革命にせよi−は期が熟すれば︑ちょうど︑棚からぼた餅が落
ちてくるように︑自然に歴史が進行するものでなく︑あくまで歴史転換の担い手であるプロレタリアートの歴史を動
かす強力がなければ成果が得られないものであるし︑したがってその強力とはあの清教徒革命︑名誉革命︑一八三二
年選挙法改正をなしとげたイギリス・ブルジョアジーの︑そしてフランス革命とその後のブルジョア政権確立をなし
とげたフランス・ブルジョアジーの封建勢力に対する血みどろのかつ不屈の闘いでなければならないのである︒
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三︑未来社会への道
1 初期の考え
さて︑市民社会に破局が到来し︑﹁前史﹂が終り︑人間ほんらいの歴史の地歩をふみ出すまでの過程は︑革命︑プ
ロレタリアート独裁であったことはいままで見てぎた通りである︒プロレタリアートこそは革命とそれにつづいく共
産主義社会という理想社会への過渡期の唯一の担い手であるとする︒では︑その過渡期をマルクスはどのように考え
ていたか︒まず﹃経済学︑哲学手稿﹄︵一八四四︶において︑﹁共産主義は揚棄された私有財産の積極的表現であり︑ ︵39︶まずさしあたりは普遍的な私有財産である︒﹂⁝⁝つまり﹁私有財産のさいしょの積極的揚棄︑すなわち原生的共産主 ︹40︶義はしたがって積極的共同存在として自己を定立しょうとする私有財産がもつ悪意の一現象形態にすぎない﹂とし︑
その完成されたものとしては﹁人間の自己疎外態としての私有財産が積極的に揚棄されたものとしての︑またそれゆ
えに人間によるそして人間のための人間の本質の理実的獲得としての︑それゆえに社会的な︑すなわち人間的な人間
としての人間の意識的に生じたそして従来の発展の全成果の内部で生じた︑自己に向っての完全な還帰としての共産
主義︑この共産主義は完成された自然主義11人間主義としてあり︑完成された人間主義11自然主義としてある︒それ
は人間と自然との︑また人間と人間との抗争の真実の解決であり︑生存と本質との︑対象化と自己確認との︑自由と ︵41︶必然との︑個体と類との闘争の真の解決である︒﹂
つまり︑共産主義をもって原生的共産主義と完成された共産主義に区分し︑前者は人間の社会的生産にさいし︑労
働の生産関係における社会的位置づけから発する私有財産のさいしょの揚棄形態とする︒私有財産が労働の自己疎外
態の悪しき産物であるとしても︑それを一挙に清算して社会を変革することは実際上困難であるのでさし当り経過措
48
置として現代的条件に適合した表現で示せば﹁普遍的私有財産﹂つまり私有財産の公共化︑私有財産的権利の公共的 ︵42︶諸制限︑公共の福祉に沿った私有財産権行使を措定し︑次第に完成された共産主義つまり完成された人間主義に近づ
けて行こうという雄大な構想である︒このように﹃手稿﹄執筆時点での共産主義規定は雄大ではあるが未成熟な表現
を持つとはいえ︑﹃ドイツ・イデオロギー﹄︵一八四六︶以後から次第に整備され︑晩年の﹃ゴータ綱領批判﹄︵一八七五︶
に洗練されるのである︒
マルクスの未来社会
2 成熟した考え ︵43︶ ︵44︶ そこでは﹁いまやっと資本主義社会から生れ出たばかりの共産主義社会﹂と﹁共産主義のより高い段階﹂という二 ︵45︶つに区分される︒前者はその後レーニンによって﹁社会主義社会﹂と名付けられたものである︒ところで︑いまやっ
と資本主義社会から生れ出たばかりの共産主義の第一段階では︑﹁あらゆる点で経済的にも︑道徳的にも︑精神的に ︵46︶も︑それが生れ出てきた母胎たる旧社会の母班をまだくっつけている﹂︒したがって個々の生産者は彼が社会に与え
ただけのものを正確にとりもどす︒その意味において平等の権利は︑ここでは依然として原則的にブルジョア的であ
る︒つまり生産者の権利は彼の労働給付に比例する︒﹁そこではある者は肉体的にまた精神的に他の者にまさってい
るので同じ時間内により多くの労働を給付し︑あるいは長い時間労働することができる︒そして労働が尺度となるに ︵47︶はそれは大きさと強度によって規定される﹂︒それゆえ第3表のごとくこの第一段階の社会においては右のような個
々人の労働能力のちがいに応じて︑それに等しい対価が給付される︒いわゆる︑能力に応じて働き︑働きに応じて受
取るという︑平等でない個人の天分と︑したがってまた不平等な給付能力を自然的特権として暗黙のうちに承認して
いるのである︒
49
共産主義社会への道
資本主義社会 社会主義社会 働かなくても巨大に (消滅ないし消滅過
うけとる 程)
共産主義社会 (消 滅)
能力と意欲あっても 能力に応じて働き働 能力に応じて働き必 働くチャンスなし きに応じてうけとる 要に応じてうけとる
(第3表)
ζ\.一一.@社会1
生産関係 −\
ブルジョアジー 社会区分 1
プロレタリアート
次に共産主義のより高い段階では﹁個人が分業のもとに奴隷的に隷属している状態がな
くなり︑したがってまた精神労働と肉体労働との対立がなくなったとき︑また労働がたん
に生活のための手段ではなく︑労働そのものが生活の欲求となったのち︑個人の全面的な
発展とともに生産力も増大して︑協同組合的富のあらゆる噴泉があふれ出るようになった
のち︑狭いブルジ・ア的権利の地平線は完全にふみこえられ︑社会はその旗のもとにこう ︵48︶書くことができる︒各人は能力に応じて︑各人はその必要に応じて﹂︒
つまり︑社会主義社会の段階では矛盾にみちた市民社会の諸秩序︑制度から理想的諸秩
序へ向って整序されて行く段階であり︑これを社会的生産労働に卸していえぽ﹁能力差に
応じて働き︑その働きに応じて受取る﹂ことが望ましい︒それは﹁能力と働く意欲があっ
ても働くチャンスがなく︑逆に働かなくても巨大にうけとる﹂市民社会秩序の矛盾を払拭
しただけでも進歩であるという︒
次に共産主義の最高の段階に至ると社会的生産に当って人間性が疎外されることがない
ので︑労働そのものが生活の第一の欲求となり︑したがって労働に対する自発性は極度に
喚起され︑生産性は飛躍的にたかまる︑となす︒そのような社会状態においては︑﹁各人は
能力に応じて働き︑必要に応じてうけとる﹂ことが矛盾なき生活図式である︒しかし︑こ
こで﹁能力に応じて働く﹂ことと﹁必要に応じて受取る﹂こととの間に相当因果関係を求
めたいのが現代的感覚である︒
だが︑この二つのシンテックスの結合に矛盾を感ずるとすればブルジョア的地平で共産
50
主義の未来社会像を律せんとするの愚を行うものであるというのである︒
マルクスの未来社会
3 疎外なき社会
ここにはしかしながらいわゆる現代的感覚で矛盾を感ずる価値体系が存在する︒ではこの価値体系の基底にはなに
があるか︒人類の耳擦存在一般に対する普遍的愛であり︑弱き者︑恵まれざる者にも等しく施こす社会的恩恵︑つま
り経済的不平等を博愛によって是正する分配的正義であり︑報酬の平等主義であるとの考えもある︒事実︑﹁各人は能
力に応じて︑また各人は必要に応じて﹂という言葉そのもののオリジナルはフーリエ主義者ルイ・プランに属し︑そ ︵49︶して彼自身の考えも︑基本的にはそこにある︒だが︑マルクスは分配的正義には反対している︒これについては別の ︵50︶ところでのべたので︑ここであまりふれたくないが︑要約すれば︑それは疎外からの解放がその基底であると考える
以外にないであろう︒労働することによって自己疎外されることなき社会においては︑疎外されているいまの社会と
はことなった生産と消費の諸形態が展開するし︑それゆえ前者とことなった秩序と尺度があり︑価値体系があるので
ある︒新しい価値体系とその存在根拠の妥当性はまた別のところで︑論点を変えて説き及ぶことになろう︒かくて︑
プロレタリアート独裁のもとに共産主義の理想社会ができることによって︑プロレタリアートとしての自分自身を揚 ︵51︶棄し︑それとともにいっさいの階級差別と階級対立とを揚棄し︑それとともにまた国家も揚棄する﹂のである︒
これを国家の終末過程について見るに﹁抑圧しておかなければならない社会階級が全くなくなるやいなや︑階級支
配もろとも︑またこれまでの生産の無政府状態に根ざした個人的生存のための闘争もろとも︑これらのものから起る
衝突や撹乱もまた除去されるや否や︑特殊な抑圧権力たる国家をもちいておさえつけるべきものはなに一つ存在しな
くなる︒国家が実際に全社会の代表者として登場するさいしょの行為−社会の名において生産手段を掌握すること
51
それは同時に国家が国家としておこなう最後の自主的行為である︒社会的諸関係に対する国家権力の干渉は一領
域ごとにしだいに不用なものとなり︑ついで︑ひとりでにねむり込んしまう︒人に対する統治に代って︑事物の管理 ︵52︶と生産過程の指導とがあらわれる︒国家は廃止されるのではない︒それは死滅するのであるしと︒つまり︑国家が実
質的に階級支配の道具として発生したものである限り︑社会階級の消滅によって国家もその役割がなくなって死滅す
るという論理である︒そして︑いままでの人に対する支配に代って共同社会の運営に必要な事物の管理と生産過程の
指導という社会的統合の機能がその本来の姿をあらわすのである︒
ここで︑プロレタリアートの独裁の任務は終り︑したがってプロレタリアート自身も消滅して︑人間ほんらいの歴 ︵53︶史が展開するのであるという︒
52
4 自 由 の 国
マルクスはまた﹃資本論﹄第三巻第二部第七高丘四八章でこの理想社会について次のような表現をしている︒﹁社会
の現実の富と︑社会の再生産過程の不断の拡張の可能性とは︑剰余労働の長さにではなく︑その生産性と︑それが行
われるさいの生産諸条件の内容豊富さの大小とにかかわる﹂ものであり︑したがって未開人も文明人もかれらの欲望
拡大を締すため︑﹁窮迫と外的合目的性によって規定された労働﹂によって生産尽力が拡大される︒このような﹁必
然性の国﹂の彼方に﹁自己目的として行為しうる人間の力の発展が︑真の自由の国が︑といってもかの必然性の国を ︵54︶その基礎として︑そのうえにのみ開花しうる自由の国がはじまる﹂とし︑すべての欲望を充足する生産諸行の拡大が
疎外されることなき生産労働の結果として得られるとした︒
エンゲルスはまた﹃反デューリング論﹄で同じような未来社会の展望をのべて尽く﹁⁝⁝社会の総労働が全員の乏
しい生存必要量をわずか・える程度の収獲しか供給しないあいだは⁝その社△酉は必ず諸階級に分裂潅しとし・逆
に﹁:⁝・このように階級分裂がある一定の歴史的事由をもっているとしても︑それはただある一定期間︑一定の歴史
的諸条件に対してだけである︒それは生産の不充分さにもとづいたものである︒それは近代的生産諸力の充分な展開 ︵56︶によって一掃されるであろう﹂と︒彼によれば社会階級の分裂︑抗争の根源は人間社会生活における生存に必要な資
料iそれは精神的および物質的 の需給のアンバランスにあるとする︒したがって需要に見合った充分なる生活
資料の生産をすることによってももろもろの紛争は解決されるとなす︒
たしかにいままでの人類史は紛争の歴史であり︑戦争の歴史であったし︑その原因は大なり︑小なりその時代に処
分可能な資料の争奪戦の一面もあった︒ではその具体的解決策とはなにか︒つまり充分なる生産を果す条件はなに
か︒
マルクスの未来社会
5 充分なる生産
それにつき︑彼はさらにつづけていう︒﹁⁝⁝生産手段の社会的領有は単に現存する生産の人為的抑制を除去する
ばかりでなく︑また現在は生産のさけがたい従者で︑恐慌のさいにその頂点に達する︑生産嘗胆と生産との積極的な
浪費や荒廃をも除去する︒さらにそれはこんにちの支配階級やその政治的代表者どものばかげた奢移的濫費を除去す
ることによって大量の生産手段と生産物とを社会全体のために解放する︒社会的生産によって社会の全員のために︑
たんに物質的に完全にみちたりて日ましに豊かになって行く生活ばかりでなく︑また彼らの肉体的・精神的素質の完
全自由な発育や活動をも保証するような生活を確保してやる可能性︑その可能性はいまはじめてここにある︒そうだ ︵57︶ここにあるのだ﹂と︒
53
ここで示した充分なる生産の条件とは︑いままでの歴史上存在した生産手段の私有を排除することによって︑つま
りそれを社会的公有化することによって目的は果されるという︒そしてまた﹁⁝⁝生産が自然発生的に発展するあら ︵58︶ゆる社会では生産者が生産手段を支配するのではなくて︑生産手段が生産者を支配する﹂崎形的社会形態を打破して
﹁社会は全生産手段の主人公となり︑これを社会的に計画的に利用することによって︑これまでのように人間が自分 ︵59︶自身の生産手段の奴隷となることを根絶する﹂のでなければならないとする︒﹁もちろん社会は各個人が解放される
のでなければ︑自分自身を解放することはできない︒だから旧来の生産様式は根底から変革されなければならない
し︑またとりわけ旧来の分業は消滅しなければならない︒そのかわりに︑ 一つの生産組織があらわれなければならな
い︒そこではどんな個人も人間生存の自然的条件である生産的労働のうちの自分のわりあて分を他人に転嫁すること
ができず︑他方では生産的労働が各個人に対してその肉体的ならびに精神的な全能力をあらゆる方向に発達させ活動
させる機会を提供することによってそれが人間を奴隷化する手段となるかわりに人間を解放する手段となり︑こうし ︵60︶て生産的労動が重荷から快楽にかわるのである︒﹂
ここでいままでのことを整理すると︑まずなによりも充分なる生産は社会的紛争︑軋礫をなくす原因であること︑
しかして︑これを達成するためにぱ生産手段の私有を排除して︑これを社会的公有化すること︑それによってこそ︑
いままで生産者が生産手段によって支配され︑生産手段に隷属していた晴形的状態から解放され︑真の人間的生活が ︵61︶ ︵62︶保証されるがゆえに︑そこではじめて人間の﹁生産的労働が重荷から快楽にかわる﹂というのである︒
一九世紀市民社会の矛盾に沈潜したマルクスとエンゲルスにとってたしかに充分なる生産が人間的解放に深いつな
がりを持つと思わせたし︑そしてそれは現在でも肯定的諸要素であることを失わない︒
しかしここで注意すべきことは次のことである︒すなわち︑マルクスもエンゲルスも人間のほんらいあるべき姿と
54
して自由な意識にもとつく生産者であることを前提としている︒だが人類の生産活動の歴史をふり返って見るとき︑
その生産は自発性を持たせない︑労働の疎外状況をもつ歴史でもあった︒そこで現代における労働者は︑自由のなか
で生産するために︑既成の生産諸白を革命的に奪取してこれを社会的公有化することにより︑労働者︑人間の自己疎
外を揚棄せねばならぬとする︒そのときこそ生産にあたり諸個人は自由な創造性を高め︑人類がはじめて自己を充分
に実現でき︑疎外された世界の終末を諒湿するであろう︒すべての人間がなんらかの形で持つユートピア的構想をマ
ルクスは疎外からの解放︑人間性の復権に求めた︒したがって﹁充分なる生産﹂はこの終極の目的が達成された場合 ︵63︶の一つの結果であると考えてよいであろう︒
いうまでもなく︑疎外からの解放︑人間性の復権のメルクマールとしての﹁充分なる生産﹂は簡単に解決できる問 ︵64︶題ではない︒
四︑社会認識の歴史的存在被制約性
マルクスの未来社会
1 歴史の相対主義
エンゲルスは﹃ルードウヒ・フォイエルバッハとドイツ古典哲学の終結﹄︵一八八八︶で︑彼らがフォイエルバッハ
を媒介としながら︑どのような過程でヘーゲル観念哲学を揚棄し︑独自の唯物論哲学を構築して行ったかを明快に叙
述している︒ここにヘーゲル哲学の揚棄とは﹁この哲学の形式は批判的にうちすてられるが︑これによって獲得され ︵65︶た新しい内容はすくいあげられる﹂という意味である︒
ヘーゲル哲学には革命的側面と保守的側面とがある︑とする︒前者は歴史を一つの発展過程としてとらえることで︑
これがいうところの獲得されたあらたな内容を構成する︒
55
ヘーゲル哲学のこの称揚すべき側面につき︑エンゲルスの叙述にしたがえば次の通り︒
﹁⁝⁝歴史もまた人類のある完全な理想状態のうちにある完結点を見出したりするものではない︒ある完全な社会
とか︑ある完全な国家とかいうものは︑ただ空想の中だけで存在しうるものである︒その後に継起する歴史的状況は
すべて︑逆に低いものから高いものえと発展する人間社会の限りない発展の途上における一時的な階段にすぎない︒
そのいずれの階段も必然的である︒だからその階段を生み出した時代と条件とにたいしては当然の権利がある︒けれ
どもいずれの階段も腐朽してくる︒そしてその階段自体の胎内にしだいに発達してくる︑あたらしい︑より高い条件
に対しては当然権利がなくなる︒それは一つのより高い階段に席を譲らねばならないが︑このもの自身はふたたび衰
微婆の列につくので幾﹂と・そしてまた・その前段で︑→ゲル哲学で認識さるべき真選ついて
﹁⁝⁝真理はいまや認識そのものの過程のなかに︑学問︵学的認識︶のながい歴史的発展のなかに横たわっていた︒
そしてその学的認識たるや認識のより低い段階からより高い段階へのぼってゆくのであるが︑それはいわゆる絶対的
真理を見出すことによって︑もうそれからさき︑登ろうにも登れないような点に︑その得られた真理に手をこまねい
ておどろき眺めているよりほか学問にはなにもすることが残っていないというような点に︑いっかは到達するという
ようなこともない︒そしてそのことは哲学的認識の分野においてと同じように︑他のどんな認識の分野でも︑実際的
行為の分野でもそうなので翁﹂としているf﹂のように→ゲルの弁証法哲学は究極的︑絶対的真理とか︑それに
対応する人類の絶対的理想社会とかを否定し︑いっさいのものは生成流転︑無限の変転過程としてとら︑兄たのであ
る︒もちろんエンゲルスがヘーゲル哲学の説明として展開した前述の文のようにヘーゲル自身がそれほど明確なかた
ちで示して馳わけではなく・むしろ・→ゲルの革命的側面を説明するくだりの中にラゲルスの思考がたくまず
して表現されていると考えたい︒いずれにしてもヘーゲルのこのような革命的・改革的内容にもかかわらず︑彼自身
56
の哲学体系の終末完成をば人類がまさに前述のような形容の認識を完成したという意味で絶対理念の形成に到達した
ところに翁・とするところは彼の保守的矛盾的側面であり︑恵興する人間の頭脳のすべてからも独立にお・なわ
れているところの概念の皇運動の模騒しにすぎないのである・・のような観念論的転倒は取り除かれね婆らず ︵71︶﹁さかだちさせられた︒あるいはむしろ︑頭で立っていたのがふたたび足で立つよう﹂にするため現実的世界の唯物
論的弁証法が必要とされる︑というのである︒
そこで︑マルクス︑エンゲルスにとっては人間の社会的生産の無限的な歴史的発展を基本軸として︑社会生活諸法
則が展開されるべきだということになる︒つまり︑無限の歴史的発展を現代を中心として﹁前史﹂と﹁本史﹂にわか
り︑その﹁前史﹂においては社会的生産における生産手段の階級的所有は物質的生産を拡大する契機であるとともに
その生産関係が直接生産者を疎外する社会的矛盾因でもあった︒革命以後の﹁本史﹂においては生産手段の社会的公
有が疎外なき社会と充分なる生産を保証する﹁自由の国﹂を実現せしむるという︑科学的結論ないし科学的真理を究
明したのである︒だが︑観念的転倒にせよ︑唯物的推論にせよいずれにしても未来社会の構図は理論的思惟である限
り︑それは次のようなものであろう︒
㌣ルクスの未来社会
2 相対的価値体系
エンゲルスの﹃反デューリング論の旧序文﹄︵一八七七︶のなかで思惟の歴史的被制的性について次のような叙述が
あてはまるだろう︒﹁あらゆる時代の理論的思惟は︑したがってわれわれの時代のそれも︑一つの歴史的産物であっ
て︑時代がことなるとともにきわめてことなる形式をとり︑したがってまたきわめてことなった内容をとるものなの
である︒思惟の科学はそれゆえにあらゆる他の科学と同様に一つの歴史的科学であり︑人間の思惟の歴史的発展の科
57
学である︒そしてこのことは思惟を経験的領域に実際に適用するに当っても重要なことである︒というのは⁝⁝思惟
法則の理論は俗物の悟性が論理という言葉で考えるような︑すっかりうこかないようにきめられてしまっている﹃永 ︵72︶久真理﹄では決してないからである︒L
マルクスが﹃経済学批判・序説﹄︵一八五九︶でしめした﹁人間の意識が彼等の存在を規定するのではなくて︑逆に ︵73︶彼らの社会的存在が彼らの意識を規定する﹂に示される如く︑人間の思惟はその社会的環境によって影響されるとい
う意味で社会的かつ歴史的存在被制的性をもつものであるが︑その歴史的環鏡のなかで﹁実証的諸科学の道によりま ︵74︶たこれら諸科学の成果を弁証法的思惟により総括する道によって人の到達しうる相対的な真理を独り求めら﹂れるの
である︒ つまり︑人間の価値判断︑未来設計はどのように恒久的真理︑絶対的価値体系を主張しようとも︑それが形成され
た社会的存在が歴史的存在被制約性をもっている限り︑それは歴史的には相対的真理︑相対的価値体系たる歴史上の
位置付けを持つことを免れない︒
もっともエンゲルスは﹃反デューリング論﹄で絶対的真理の存在? を指摘している︒すなわち﹁⁝⁝二の二倍は
四であり︑三角形の内角の和は二直角にひとしく︑パリはフランスにあり︑食物のない人間は餓死する︑などというこ ︵75︶とがそれではないだろうか? だから︑なんといっても永遠の真理︑究極の決定的真理が存在するのではないか﹂と
疑問形ながらその存在を肯定しているようだ︒しかし︑私をして言わしめれば︑たとえば二のこ倍は四であるとか︑
三角形の内角の和は二直角であるなどということは︑一定の公準︑公理のもとにおいてのみ真理なのであって︑その
前提︑仮設がなければ成立しないし︑またそれがことなっている場合は当然ことなった結論がでなければならないと
いう意味で絶対的真理ではあり得ないのである︒事実︑一と一の和は必ずしも二にならないことはアインシュタイン
58
マルクスの未来社会
≧げΦ誘団ぎ︒・け︒言︵一QQ刈㊤lHゆ㎝㎝︶の相対性原理が証明するところである︒その論理によってこそニュートン﹃ωoo
Z①≦梓8︵一①らNI一口N刈︶ はアインシュタインによって打ち破られたのであり︑そして︑そのアインシュタインもま
た︑その壮大にして稠密な知的体系にもかかわらず︑いまやその体系が構築された前提︑仮説自体が問い直されんと
しつつある現状から考えるとき︑この世の中に存在し︑またこれから存在するであろう︑いわゆる自然科学的︑また
は社会科学的な知的体系はすべて永遠の真理︑絶対的価値体系を主張することはできないのではないだろうか︒した
がってエンゲルスの前述の提起は私の論理からすれば相対的真理︑相対的価値体系と読み替えることができよう︒
その場合︑マルクスのいう﹁人間はつねに自分か解決しうる課題だけを自分に提起する︒なぜなら︑いっそう正確
にこれを考察するならば︑問題そのものは︑その解決の物質的諸条件がすでに現存しているか︑あるいはすくなくと ︵76︶もその生成の過程にあるかの場合にだけはじめて発生することがつねにわかる﹂ことが真実として感ぜられるのであ
る︒ すなわち︑ある前提︑仮設ないし社会的条件はそれが設定される必要性があって︑はじめて設定されるものであ
り︑その前提︑仮設ないし社会的条件のもとに展開した知的体系はより発展のため新たな前提︑仮設ないし社会的条
件にとって代えられなければならないし︑そしてそれがそのときどきの課題の解決に奉仕するという意味で︑人間社
会の歴史認識をつなぐ思想は︑多くの相対的真理︑相対的価値体系の﹁発展的連鎖﹂と考えてよいであろう︒
3マルクス理論の展開
.このような見地から︑マルクスの未来社愚論を振り返って見ると︑それは一九世紀資本主義社会という社会的条件
を足場として形成された科学的真理の一つと考えることができるであろう︒それゆえ︑いま︑前述の社会の歴史的発
59
︵醤恥鼎︶
針知洋恥鼎i翼蒐
両断嶺 繭繭繭
嵜知俸恥眞黙㊦洋冷艶鳥㊦漸冷盗癖
灘賞餅隠 譲
蹄卦掛藤許煕 爵琳臨計難辟煕 謡
× 町 鰍
尾 爵 煕 ︿嶺臨盗俘︾> i汁湘芹恥− 労ワC一俘晦計灘洋三一
爆 南嶺繭
潟 即 嶺 離 .井煕㈹蜘膳塵
︵講講購驕︶
︿瞳麟濫洋恥﹀闇劉劃恥丁購
60
慧舞i譲 蝋i田子
函嶺薗
繭繭1識燭 灘 嶺 繭
舞 知 嵐 繭
謡蔦i藁 顯i翼蒐
嶺薗巌 繭齢繭
展と︑それを理解する相対的真理︑相対的価値体系の連鎖との関連から︑マルクス理論を展開して︑社会構成の歴史
的交代ないし変革のモデルをマルクスの生きた市民社会ではなく︑われわれの生きている市民社会の末期段階に視点
を置いて考えて見よう︒その場合︑それぞれの歴史的社会の支配的生産様式が︑歴史的年代のなかで崩芽過程←成長
過程←成熟過程←衰退過程←消滅過程という発展衰退のコースを一般的に辿るものとすれば第4表の如くなるであろ
う︒前述の如く︑現代を市民社会の末期段階として把握するということは︑この末期段階には生産手段の所有︑革命
などで定義に争点を持つ場合があるとしても︑一応過渡期社会としての大衆社会ないし社会主義社会を含むものとす
る︒それはちょうど歴史の絶対主義時代が封建社会と近代市民社会の過渡期であり︑それは広い意味で封建社会の末
期段階と考えられるようにである︒そこで︑このような市民社会の末期段階という一定の歴史的時点を考察の前提な
いし仮設条件として考えられる最終の目標ないし意図された絶対的価値体系の一つとしてまず共産主義社会の完成が
マルクスの未来社会
ある︒それは資本主義社会において極大化されつつある労働の人間疎外を解放し︑真の人間性回復を目指しうる最良
の方向の一つである︒事実︑肉体労働より機械・技術労働へ︑したがって老若男女別労働より同一能力労働へ︑また
衣食注のステレオタイプ化という大衆社会状況は﹁能力に応じて働き﹂が同一労働力︑﹁必要に応じてうけとる﹂が平
均的生活欲求と読み替えも可能な方向へ行くかもしれぬ︑次なる社会への過渡的様相を呈しはじめているし︑それゆ
えある意味で未来へのバラ色の期待を抱かせるに足る︒
だが︑それへの発展段階において︑社会的生産の内部に艀化した諸矛盾 その諸矛盾は現在では考えることので
きないもの一が発展して次なる社会革命の起動因となる︒そして現在︑﹁意図された絶対的価値体系﹂としての共
産主義社会が完成されたとき︑1共産主義という重なる未来社会までの過渡期は︑既往の歴史の経験︑つまり封建
社会から市民社会の過渡期としての絶対主義の時代が二︑三世紀かかっているので︑その程度の期間が必要かもしれ ︵77︶ぬ一いままでの生産関係ではヨリ以上発展を期待し得ず︑ヨリ効率的なX生産関係にとって代られるのではないか︒
そして︑それもいずれはY生産関係に代置せざるを得なくなると思われる︒そして︑もし歴史的進行がいままでと同
じくらいとすれば︑前述の如く︑いまから二︑三世紀後? に完成されるであろう共産主義社会に至ったとき︑到達
したその社会で︑ヨリ以上の発展にとってなにが阻害要因となるのであろうか︒もし現在わかるものであるならば短 ︵78︶回したいのだが︑残念ながら二〇世紀市民社会末期段階ではほとんどわからない︒なんとなれば﹁社会的存在が意識 ︵79︶を規定する﹂からである︒またそれゆえ︑現段階でわかっていることは共産主義社会へのマルクスの道が考えられる
科学的合理的価値体系の一つであるということだけである︒逆に︑共産主義社会に到達したとき︑人ははじめて新た
なる別の意図された絶対価値体系を見出すはずである︒つまりもろもろの意図された絶対的価値体系はやは
り歴史的なそれぞれの時代に支配的な相対的価値体系︑相対的真理にすぎないのではないか︒つまり︑われわれはそ
61
れそれの歴史的時点におけるそのときどきの理想像︑未来社会を設定し︑したがって︑そのときどきの社会構造の矛
盾の解決に専念しようとしているのではないか︒それは人間がつねに歴史的存在被制約性をもつものであるからであ
る︒なお︑これに関連してこの項のさいごにマルクスの﹃手稿﹄のなかの次の言葉を示しておこう︒
﹁⁝⁝共産主義は否定の否定としての肯定であり︑それゆえ人間の解放および回復の現実的な︑次の歴史的発展の
ための必然的契機である︒共産主義はもっとも近い未来の必然的な形態であり︑精力的な原理である︒しかし共産主 ︵80︶義はそのようなものとしてはけっして人間発展の目標︑人間的社会形態ではない﹂としている︒この文言の解釈には
論議のあるところであり︑一方において︑これはマルクスが未だ初期のドイツ社会主義思想家のヘスやスティルネル
などの影響から脱しき鉱号したが・て共産主義という用語の解釈が後期マル・スのそれと甚だしく・となる未成熟
な思考で艶から・この文言の意図するところを﹃ゴ去綱領批判﹄の枠内で解すべし︑とするものと︑他方におい
て︑これは文言通り︑共産主義は当面の目標であるが︑人類の歴史的な無限の発展はいずれこれを超克するものと︑
解釈する二大別がなされよう︒ただし︑後者の解釈の場合︑なぜ﹃ゴータ綱領批判﹄にそれを明記しなかったかの疑
問が残るが︑これは﹃手稿﹄以後のマルクスのたび重る革命への期待と挫折感が﹃綱領﹄時点において︑自己の論旨
の説得力のタクティックスとして︑この問題を処理したとすれば︑つまり共産主義以後までのべるよりも︑当面︑共
産主義までの道をのべる方が︑強い説得力を持つから︑と考えれば一応の筋は通ることになろう︒どちらをとるかは
読者の判断に委ねるとして︑問題は一九世紀資本主義という社会的条件を前提とした﹁意図された絶対的価値体系﹂
としての共産主義像はそれが歴史的に一つの相対的価値体系にすぎないものである限り︑前者であっても良いし︑ま
た後者であれば︑それはマルクスが超歴史的な感覚︑歴史的存在被制約性をはねのける超能力を持っていたことにな
ろう︒私としては前述の︑少い資料の検討からだがマルクスは後者ではなかったかと推量したい︒
62
マルクスの未来社会
む す び
至福千年ζ自①コ巳ニヨないし千年王国Oげま四ωヨという言葉がある︒新約聖書ヨハネの黙示録第二〇章の一〜六
に示された内容に由来するものである︒すなわち︑
﹁⁝⁝ひとりの御使いが底知れぬところの鍵と大きな鎖とを持って天から降りてきた︒彼は悪魔であり︑サタンで
ある竜︑すなわち︑かの年を経た蛇を捕えて千年の間つなぎおき︑そして底知れぬ所に投げ込み︑入口を閉じてその
上に封印し︑千年の期間が終るまで諸国民を惑わすことがないようにしておいた︒⁝⁝また見ていると多くの御座が
あり︑その上に人々が坐っていた︒そして彼らにさばきの権が与えられていた︒またイエスのあかしとし神のことば
を伝えたために首を切られた人々の霊がそこにおり︑また獣をもその像をも拝まず︑その刻印を額や手にうけること
をしなかった人々がいた︒彼らは生きかえってキリストと共に千年の間︑支配した︒それ以外の死人は千年の期間が
終るまで生き返らなかった︒これが第一の復活である︒この第一の復活にあずかる者はさいわいな者であり︑また聖
なる者である︒この人たちに対しては第二の死はなんの力もない︒彼らは神とキリストとの祭司となり︑キリストと ︵83︶共に千年の間支配する﹂と︒
世紀末的混乱の社会はキリストの再臨によって救われ︑王道楽土︑ゆたかで幸福な社会が実現するのであり︑その
幸いにあずかれる者はただ人の原罪を知りそれをつぐない︑神に救いを求めた者だけである︒つまり︑末世的混乱は
人間のあるべき社会たる﹁本史﹂に至る﹁前史﹂であり︑後者から前者への転換の契機は信仰である︑との図式はマ
ルクスの未来社会図式に投影されていると説く人は多い︒キリスト教倫理観がヨーロッパ人の魂をなんらかの形で支
配すること既に二千年︒したがって︑この倫理観がヨーロッパ人共通の精神的構造の土台の一部となっていると考え
63