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第二節     頭二〇章の注釈と日本語訳  

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第二節     頭二〇章の注釈と日本語訳  

  

凡例:  以下の注釈において︑しばしば引用する文献を次のように省略している︒ 

引用にあたって︑記述がない場合︑私訳の日本語訳となっている︒ 

CPE, ﹃百扇帖﹄︑初版のファクシミリ︑注釈︑解釈Michel Truffet, Cent phrases pour éventails, Édition

critique et commentée avec la reproduction en fac similé de l’édition japonaise, Annales littéraires de l’Université de Besancon, 310, Les belles lettres, Paris, 1985︵下書き①︑②︑③︑④の内容をここから引い ている︶

J.I ︵上︑一九〇四年〜一九三二年︶J.II︵下︑一九三三〜一九五五年︶︑クローデルの日記︑Journal,

éd par J.Petit et F. Varillon, Paris, Gallimard, coll. Bibliothèque de la Pléiade, 1968, 1969.

Po, クローデル詩作全集︑Œuvre poétique, éd S. Fumet et J.Petit, Paris, Gallimard, coll. Bibiothèque de la

Pléiade, 1967. 

Le poëte,﹃詩人と三味線の対話﹄︑その他の対話︑Le poëte et le Shamisen et autres dialogues, édition

critique et commentée, par Michel Malicet, Les Belles-Lettres, Paris, 1970.

 

一     

薔薇が言う 

   

君はわたしを薔薇と呼んでいる 

   

しかし君がわたしのほんとうの名を知るなら 

   

わたしはたちまち崩れるだろう    書︑﹁牡丹﹂ 

  下書き②︑③︑④とも原文と同じ(CEP, p. 69)︒ 

クローデルによる﹁牡丹﹂︵la pivoine)

  と﹁薔薇﹂︵la Rose︶の使い分けに関しては︑第一説の﹁﹃百

扇帖﹄の構造  ︱  詩集の付合的な連関性を中心に﹂注︵10︶を参照︒

  一方︑一九二六年一一月の作品﹃ジュール  ー  二本のネクタイを絞めた男﹄(

Le poëte, p.170)に︑

次のような会話がある︒

    詩人が言う︑

    ばらの花を理解するために︑ある人は幾何学を使い︑ある人は蝶々を観察する︒

    ジュールが言う︑

    しかし︑ばらの木は︑ばらの花を知るために︑単にばらを作っていく︒

  クローデルの場合は︑多くの作品にばらの花が現れ︑その意味は女性の愛というイメージを越え

(2)

て︑聖マリアの存在を表す場合が多い︵J. de Lambriolle, “Le thème de la rose dans l’œuvre de Paul Claudel”,

Revue des lettres modernes, Paul Claudel, 3, 1966, p.65-103を参照︶︒

二      白牡丹の芯にあるもの   

    それは色ではなく      色の思い出      それは匂ではなく      匂の思い出    書︑﹁色匂﹂ 

  付け方︑Rose↓pivoine  ︵薔薇↓牡丹︶ 

  下書き②︑③︑﹁白牡丹の芯にあるもの  それは色ではなく  色の約束  それは匂ではなく  匂

の思い出﹂

  下書き④は原文と同じ︒(CEP, p.69)

  ﹁色の約束﹂という表現には︑旅人クローデルの期待が込められていただろう︒しかし︑一八番

の短章に︑

    わたしは世界の涯から来た

    長谷寺の白牡丹の奥底に隠れている     淡紅のなにかを見るために

という表現があり︑同じように牡丹の﹁色の約束﹂いうテーマを描いている︒両方の作品が似たよ うな意味にならないように︑クローデルはここで修正し︑色も匂も同じ﹁思い出﹂として描くこと にしたのであろうか︒また︑詩の内容が単純になったお陰で︑日本語の俳諧に近い短章になったと いえよう︒

    藤よ 

    おまえがどんなにたくさんの花をつけたとしても      わたしたちはその固い蛇の絡み合いを 

    認めざるを得ない    書︑﹁藤蛇﹂ 

  付け方︑pivoine↓Glycines  ︵牡丹↓藤︶ 

  下書き②︑﹁詩人が言う﹂で短章が始まる︒後はほぼ同じ︒ 

  下書き③︑﹁酔うもの  絡み合うもの﹂で始まる︒後はほぼ同じ︒ 

  下書き④は原文と同じ︒   

(3)

  ②︑③は消除箇所が多い︒(CEP, p. 70)

 

  消除前の下書き②には︑﹁ああ︑美しい詩の花の房で夏を止めることができたら!﹂という表現

がみられる︒キリスト教徒のクローデルにとって︑蛇は原罪の象徴で︑花は芸術の象徴であろう︒

この短章は︑芸術の創造と人間の原罪との矛盾を表しているのだろうか︒ 

  植物を蛇にたとえるのは︑クローデルにとって決して珍しい発想ではない︒一九二六年八年の作

品﹃詩人と香炉﹄︵Le Poëte, p.139)にアンコール寺院を脅かすジャングルを次のように描いている︒

森は砂岩を突き刺し︑階段を動かし︑卵を落とす刀のようなもので塔を

登る︒︵中略︶森の蛇は粘り強く︑石の怪獣の絡み合いを滅ぼす︒

    藤と杉     

    千の手で死の巨人に結ばれた命のヒドラは      よじ登り死に感謝する 

  書︑﹁藤柏﹂

  付け方︑Glycines↓Glycines  ︵藤↓藤︶

  下書き②︑③とも原文とほぼ同じ︒

  下書き④は原文と同じ︒(CEP, p. 70)

 

  一九二四年五月三日付のクローデルの日記 

(J.I.p.360)に︑ 

    京都へ出発︵展示会へ︶︒奈良の森は紫色の花房︵藤︶に満たされている︒   

    その花房は日本杉(cryptoméria)の塔によじ登る︒ 

  とあるが︑この短章の発想源なのであろう︒この短章の横に書かれた漢字﹁柏﹂は山内義雄氏が

選んだものであろうが︑ここでは﹁柏﹂ではなく︑日本杉にのぼる藤が描かれているものとみるべ きだろう︒また︑あとに出る三番目や一三番目や一〇五番目の短章と同様に︑花は命の象徴として︑

幹は死の象徴として詠まれている︒ヒドラ(Hydre)とは︑ギリシア神話にみる多頭の大蛇で︑ヘラク レスと戦ったものがとくに有名である︵短章の一〇五番はヘラクレスにも言及する︶︒﹁死の巨人﹂

(colosse funèbre)とは︑ヘラクレスに黄金のりんごを奪われたというアトラス巨人神であろうか︒こ

の作品でクローデルは︑日本の自然崇拝的発想と古代ギリシアの天地創造説との共通点を見届け︑

のちの比較神話学の研究結果を予言するかのような感性を披露している︒比較神話学の研究による と︑日本の神話は古代ギリシアの神話と同様に︑天・空・地に分けられた世界観に基づき︑空中に おける生と死との戦いが目立っているのである︒︵吉田敦彦﹃ギリシア神話と日本神話:比較神話 学の試み﹄みすず書房︑一九七四︑を参照︶ 

五      石の台座の地蔵尊 

(4)

    真昼の激しすぎた光に目を閉じた男のように      目を閉じていらっしゃる 

  書︑﹁地蔵﹂ 

  付け方︑匂付風

  下書き②︑③︑④とも原文と同じ︒(CEP, p. 71)

  この短章は一九二二年五月三ー五日付の日記とほぼ同じ(J. I, p.547)︒

      日光や中禅寺湖へ散歩︒森︑雪に覆われた山々︒強すぎた光のなかに目

      を閉じた男のように︑地蔵たちは目を閉じている

  クローデルにとって︑慈悲深い地蔵菩薩と日本における大衆的な地蔵信仰は︑大変印象的だった

ようである︵他の短章の題材にもなっている︒六番︑九番︑四四番を参照︶︒原文には︑ローマ字 でJizôと書かれており︑当然ながらフランス人の一般の読者には理解ができない日本仏教の専門用 語である︒この詩集の初版が東京で出されたことを考えると︑やはりクローデルは﹃百扇帖﹄をま ずフランス語の読める日本人に読んで貰おうと願っていたような気がする︒﹃百扇帖﹄がまず日本 人を対象にした詩集であったとすれば︑この研究はさらに意義があるということになるのであろう︒

   

貧しい折り 

   

地蔵の頭の上に釣合をとってのせられた石のように 

   

おぼつかなく   書︑﹁石祈﹂

  付け方︑Jizô ↓ Jizô ︵地蔵↓地蔵︶

  下書き②︑﹁地蔵の頭の上にのせられた小石のような︑おぼつかない祈り﹂︒

  下書き③︑﹁地蔵の頭の上にのせられた小石のような︑おぼつかない祈り︑わたしの願いはわた

しにも知らない﹂︒

  下書き④は言文と同じ︒(CEP, p. 71)

  同じ一九二六年六月の作品﹃詩人と三味線の対話﹄(Le poëte, p.127)に︑クローデルは︑詩人の作品

の空しさを同じようになぞらえている︒

    三味線が言う︑

    ご存じだろう︒あなた︵詩人︶が作り上げたものは︑地蔵の頭の上に通行人がのせた小石のようなもので

    ある︒

クローデルにとって︑詩も祈りも同種類のものであろう︒どちらも︑人間の弱さを悟る体験だとい えるのだろう︒また︑﹃百扇帖﹄の執筆後︑クローデルはほとんどいちずに聖書釈義に専念したの である︒

 

(5)

七      織物師のように 

    わたしは魔法の杖をもって 

    太陽の光線と雨の糸とを結びつける    書︑﹁雨織﹂ 

  付け方︑匂付風 

  下書き②︑﹁何と美しい錦  その縦糸は空に輝く雨であり  横糸は夕日の光線である  織物師の

ように  わたしは魔法の杼をもって  太陽の光線と雨の線を結びつける﹂ 

  下書き③︑﹁織物師のように  わたしは魔法の杼をもって  太陽の光線と雨の糸を結びつける﹂ 

  下書き④は原文とほぼ同じ︒(CEP, p. 72) 

  ミシェル・トリュフェ氏によると︑自然物を錦の布にたとえるという換喩は︑日本文学に度々使

われているので︑クローデルはここで日本の俳諧の影響を受けたのではないかということになる︒

和歌や俳諧においては︑紅葉した植物を錦になぞらえて表現するものが多い︒一方︑十五世紀のフ ランスの大詩人シャルル・ドルレアンの名作﹁ロンドー﹂の冒頭に 

    季節

︵とき︶がマントを脱ぎ捨てた      風と寒さと雨とのマント︑ 

    そして縫い取りを身につけた 

    澄んで輝く日ざしの縫い取り︒︵安藤元雄訳︑フランス名詩選︑岩波文庫︶ 

があり︑こちらの方がむしろクローデルの詩に近いと思うのである︒ 

  下書きをみると︑クローデルは次第に無駄なことばを省いていったということがわかる︒それは

たしかに俳諧の省略性の影響による詩作課程であろう︒つまり︑この短章は︑フランスルネッサン ス文学の素朴な比喩表現と︑日本の俳諧の簡潔さを合わせたような作品といえるかもしれない︒ま た︑﹁魔法の杖﹂とは︑詩人の筆︵ペン︶の意味をもった隠喩であろうか︒ 

 

八      お月様よ 

    一匹の蛙が池に飛びこむ 

    すると     

    高い空で 

    月は笑い 

    笑いすぎて 

    眼がしらを絹のハンカチでふいている    書︑﹁月蛙﹂ 

  付け方︑soleil ↓ 

lune ︵太陽↓月︶   

(6)

 

soleil / pluie↓ciel ︵太陽・雨↓空︶ 

  下書き②は﹁絹のハンカチ﹂ではなく︑﹁小さな白いスカーフ﹂となっている︒その他は原文と

同じ︒ 

  下書き③は﹁絹のハンカチ﹂ではなく︑﹁絹のスカーフ﹂となっている︒その他は原文と同じ︒ 

  下書き④は原文と同じ︒(CEP, p. 72) 

  ここではもちろん︑﹁絹のハンカチ﹂という換喩をもって︑雲をなぞらえて表現するのである︒

また︑芭蕉の﹁古池や﹂の発句の引用が明らかである︒しかし︑芭蕉の句の模倣に限る作品である といえまい︒むしろ︑一九二六年五月の日記に(

J.I, p.718)      お月さんは小さな絹のスカーフで眼がしらをふいている 

があることからみると︑つまり︑この短章の発想の原点は︑﹁蛙飛びこむ﹂の引用ではなく︑月の 擬人化という表現であろう︒この短章は︑一種の俳諧的滑稽を詠んだ作品であるが︑日本の発句に 比べて非常に長いものである︵フランス語では四八音節︶︒また︑﹁お月様﹂の部分は︑原文にお いてもそのまま O tzuki samaとローマ字で書いてあるので︑日本語のわからない読者にとって︑詩 の主語は意味不明ということになる︒クローデルは日本語や芭蕉の句を引用して︑隠れる月のよう に︑自分の詩意を隠すという作意を込めて神秘的な短章を作ったのであろうか︒それとも︑主に日 本人に読んで貰うと思って二次元の言語表現を選んだのか︒ともかく︑意外性のある光景を意外な 表現で描いた短章として︑この作品の発想は芭蕉の句の影響に止まるものではないといえよう︒

 

九     

地蔵尊の頭の上に山積みされた石 

   

そこに最後の小石をのせるものは 

   

盲人ではないように    書︑﹁石盲﹂ 

  付け方︑匂付風 

  下書き②︑③︑④とも︑原文と同じ︒(CEP, p. 72)

 

  この短章は﹃雉橋集﹄︵日仏芸術社・一九二六年一二月一日︶にも所収︒ 

  祈りの証として︑石地蔵の頭の上に小石を重ねる日本人の信者を見て︑クローデルは大変興味深

い習慣だと思ったのであろう︵注釈六を参照︶︒キリスト教では︑蝋燭を捧げることが一般的であ る︒一方︑日本の仏教では︑小石さえ人間の願いを代表することができる︒長年の中国駐在を経た クローデルは中国仏教の儀式を厳しく軽蔑するような文章を沢山残している︒たとえば︑次のよう な批判がある︒ 

    小乗教は︑人間を次第に消滅させる宗礼である︒つまり人間をただ愚かにするものである︒︵中略︶大      乗教は︑菩薩と呼ばれる仲介役をみとめたことによって︑極楽や悟りへの道を歩みやすくした信仰である      が︑それによって︑どんな宗教よりも多くの神々が存在し︑結局無神論のような状況に及んだ︒︵Sous le

(7)

   

signe du dragon, La religion,Œuvres complètes de Paul Claudel, Tome IV, nrf, Gallimard, 1952, p.73︑マブソン訳︶ 

 しかし︑日本仏教における大衆的な信仰の様子を見て︑クローデルは意外な側面を発見したのであ

ろう︒素朴で︑アニミズム的な信仰に︑すべての人間や生物・無生物を無差別に扱う優しさを感じ たのであろうか︒盲人による意外な事件を想像しながら︑その滑稽性の奥に︑宗教的な発見を仄め かす短章であるといえよう︒ 

 

十      夜 

    石の仏に頬寄せて      昼のうちの炎熱を      感じてごらん 

十一 

    今 

    昼のうちの炎熱を      暑い神に身を近づけて 

   

感じてごらん  十二 

   

耳を寄せて感じてごらん 

   

神の胸の熱愛が消えるまで 

   

どんなに時間がかかるか 

︵十︶書︑﹁夏夜﹂ 

  付け方︑Jizô ↓ 

bouddha

  ︵地蔵↓仏︶

       

petit caillou ↓  pierre

  ︵小石↓石︶ 

  下書き②︑③︑④とも︑原文と同じ︒(CEP, p. 73)

 

  この短章は﹃雉橋集﹄︵日仏芸術社︑一九二六年一二月一日︶にも所収︒ 

︵十一︶書︑﹁熱佛﹂ 

  付け方︑前句の下の句を繰り返す︒ 

       

La journée a été brûlante︵昼のうちの炎熱を︶ 

  下書き②︑③︑④とも︑原文と同じ︒(CEP, p. 73) 

︵十二︶書︑﹁聞感﹂ 

  付け方︑前句のapproche (近づける︑寄せる︶を繰り返す︒ 

  下書き②︑③︑④︑とも︑原文とほぼ同じ︒(CEP, p. 73) 

  以上の三つの作品は︑夏の夜に石の仏像に残る余熱を題材にしている︒初版のレイアウトでは︑

ちょうど一ページに三つの作品が並んでいる︒どれも︑フランス語の命令形を使い︑読者に呼びか

(8)

けるような文体になっている︒最初は︑余熱が﹁昼のうちの炎熱﹂の結果であり︑その後︑余熱が

﹁暑い神﹂にたとえられ︑最後は﹁神の胸の熱愛﹂と詠んで︑同じテーマが次第に叙情的になって いく︒したがって︑この三つの短章を一編の詩として読んだ方がよいかと思うのである︒一方︑ク ローデルは︑九番目の短章と同様に︑石にも魂を認めるようなアニミズム的な姿勢をとっており︑

なによりも︑﹁仏﹂から﹁神﹂への推移が目だっている︒ここでクローデルは︑三段階にわたり︑

次第に洋の東西にわたる諸教混合への自覚を描いているといえるかもしれない︒過去に軽蔑してい た仏教を見直したかと思うほど︑クローデルは︑石仏の慈悲深い姿に魅せられて︑キリスト教と仏 教を混同するような詩作を残したのである︒ 

 

十三 

    神様が言う 

    藤はおのれをいましめることができない      それができるのは葡萄と葡萄の実だけ    書︑﹁葡萄﹂ 

  付け方︑dieu ↓ 

Dieu︵神↓神様︶

  大文字で始まるDieuは︑一般に一神教  ー 

おそらくここではキリスト教  ー 

の神に限る書き 方である︒

  下書き②︑③︑④とも︑原文と同じ︒(CEP, p. 73)

  ここでは︑四番目の短章と違って︑日本の藤を古代ギリシアのヒドラにたとえるのではなく︑キ

リスト教の創世記にみる﹁原罪の蛇﹂にたとえているのであろう︒三番目の短章にも︑クローデル は﹁藤﹂を﹁蛇の絡み合い﹂と呼んでいる︒つまり︑日本の藤はキリスト教以外の宗教の力を象徴 している︒一方︑葡萄酒はキリストの血とされていることから︑葡萄の木は主イエズスからいただ く罪の償いを象徴しているのであろう︒ミシェル・トリュフェ氏の注釈においても︑この短章は︑

異教の誘惑に抵抗するクローデルの心情が現れているとされている(CPE, p.74)︒

 

十四 

    牡丹花 

    わたしたちの心のうちで      思考に先だつ 

    真紅のいろ    書︑﹁真紅﹂

  付け方︑匂付風

  下書き②は︑﹁牡丹は紅くなって物事を考えている﹂で始まる︒後は原文と同じ︒ 

  下書き③︑④は原文と同じ︒(CEP, p. 74) 

(9)

  下書き②の文はやや平凡な擬人法で始まるといえよう︒それに対して推敲文は︑簡潔になり︑牡

丹の芯にある真紅の色を︑人間の思考の起源と取り合わせているのである︒同じ一九二六年六月の 作品﹃詩人と三味線の対話﹄(Le poëte, p.131)に次のような文章がみられる︒ 

    三味線の歌が言う︑ 

    われは白牡丹の花びらの奥にある紅の色を︑その香を嗅いだ︒魂はその奥にある︒ 

﹃百扇帖﹄では︑俳諧的な省略が効いて︑クローデルは簡潔に花の色と人間の思考力を感覚的に配 合しているのである︒フランス近代哲学の父デカルトの﹁われ思う︑ゆえにわれあり﹂(cogito, ergo sum) の言説からすれば︑視覚で認識する物体よりも︑人間の思考の方が確実に存在しているのである︒

この短章でも︑花の色は︑花のものではなく︑まず人間の思考の一部分になっているといえる︒﹃百 扇帖﹄には︑このような肉体と精神との配合を詠んだ作品が非常に多くみられる︵たとえば一九番 目の短章を参照︶︒つまり︑クローデルはこの詩集で︑日本の自然の描写を通じて︑自分の哲学的・

宗教的疑問に新しい照明を当てようとしたのであろう︒

 

十五 

    夕べ葡萄酒が降ってきた 

   

仕方がない 

   

薔薇たちはそのことを語りつづける    書︑﹁酒雨﹂

  付け方︑rougeur ↓  vin

  ︵真紅↓葡萄酒︶

pivoine ↓  rose

  ︵牡丹花↓薔薇︶

  下書き②︑③︑④とも︑原文と同じ︒(CEP, p. 74)   一九二六年五月三日付の日記に(

J I, p.715)︑次のような記載がある︒ 

    三日︑神戸トイ︵?︶ホテル︒川崎の牡丹庭園︒ 

  この短章は神戸市兵庫区川崎町にある庭園の牡丹を詠んでいるだろう︒ 

  同じ一九二六年六月の作品﹃詩人と三味線の対話﹄(Le poëte, p.119)に似たような文章がある︒

    三味線が言う︑

    あなた︵詩人︶はきっと川崎の庭園にある牡丹の素晴らしい血の色︑その艶を覚えているだろう︒わたし     が思うには︑春の真夜中︑血が降ってくることがあるはずだ︒または︑葡萄酒が降ることもあろう︒そう        すると︑降ったきたものはすぐに土に飲まれて消えてしまうが︑薔薇たちは︑仕方なく︑それを語りつづ

    ける︒

  日記の文章に︑薔薇の花に象徴されるものの両義性が現れている︒薔薇の香や色は︑葡萄酒また

は血にたとえられて︑愛の陶酔を招く葡萄酒であるとともに︑罪を購うキリストの血を連想させる ものでもある︒この短章は︑一番目の短章と同様に︑薔薇の花になぞらえて︑男性にはわからない 女性の一側面を描こうとする︒また︑一番目の短章と同様に︑ことばと花との関係をテーマにして︑

(10)

人間と自然との相互の無理解を書きとめて︑言語学的・哲学的な次元に達しているといえよう︒ 

 

十六 

    今夜 

    床について 

    見ると 

    わたしの手は壁にものの影をえがいている 

    月が出た 

十七 

    月に頂いた 

    あの影 

    無体物となる      墨のように 

  書︑︵十六︶﹁影月﹂︑︵十七︶﹁陰墨﹂ 

  付け方︑前句︵一五番︶の頭の表現Cette nuit︵夕べ︑または︑今夜︶を繰り返す︒一六番目と一

七番目は︑話が自然とつながる︵両方とも月影が題材︶︒

  下書き②には︑一六番目と一七番目の短章がひとつの作品として続いて書かれている︒下書き③︑

④では︑原文と同様に︑別の短章として扱っている︒内容は︑下書き②︑③︑④とも︑原文と同じ︒

(CEP, p. 75)︒一六番の短章は﹃四風帖﹄︵山濤書院・一九二六年一〇月二五日︶や﹃雉橋集﹄︵日

仏芸術社・一九二六年一二月一日︶にも所収︒ 

  たしかに︑この二つの短章をつなげた方が︑詩の意味が分かり易くて︑おもむきがあるのであろ

う︒眠れない詩人は︑床についたまま︑筆を執ろうとして︑手を伸ばすその瞬間︑自分の手の影が 見えて︑月の出に気付く︒墨を摺り出す必要もなく︑自分の月影を墨に使おうと︑詩人が思うので ある︒ 

  別々に読むと︑それぞれの作品は︑内容的にみても︑長さからみても︑日本の俳諧に近いものが

あるかもしれない︒一方︑つなげて読むと︑物語性の豊かな詩になってくる︒もともと両作品がつ ながっていたという事実を考えた場合︑おそらく長詩を専門にしていたクローデルは︑日本の発句 のような最短の短詩形に親しみづらいところがあっただろうとみられる︒したがって︑下書きの検 討に基づいてみても︑﹃百扇帖﹄の 連詩的 な読み方の重要性を裏付けることができるというこ とになる︒ 

  また︑両作品は︑月明かりではなくて︑月がつくる陰影を詠んでいるのである︒古代ギリシアの

神話において︑月明かりの女神アルテミスに対して︑暗い月影の女神ヘカテは︑地獄の女神である︒

そこで︑詩作を黒魔術にたとえる側面もみられる︒﹃百扇帖﹄を創る何年も前から︑クローデルは 詩作や外交官の仕事を辞めて修道院に入りたいと︑考えていたことは︑当時の日記で明らかになっ

(11)

ている︒ 

 

十八 

    わたしは世界の涯から来た 

    長谷寺寺の白牡丹の奥底に隠れている      淡紅のなにかを見るために 

  書︑﹁長谷﹂

  下書き②︑③︑④とも︑原文と同じ︒(CEP, p. 75)   付け方︑匂付風

  一九二六年五月六日と推定される日記に(J I, p.716)︑次の記載がある︒

    午後は︑長谷寺︑牡丹︒

  また︑五月二三日の日記に︑

    ああ︑深い秘密よ︒無の中に限って︑キリストはわれわれに近づいてくる︒

  つまり︑一四番目の短章に書かれているように︑クローデルにとって︑牡丹の芯にみる色は︑人

間の精神の奥底にある︑神秘的な﹁なにか﹂である︒﹁世界の涯から来た﹂クローデルは︑日本を 離れる前年︑奈良の長谷寺の牡丹を見て︑旅愁を感じたのであろう︒そして︑仏教の無常観とキリ スト教の世界観を比べて考えたのであろう︒この短章には︑たとえば次のような聖書の伝道者の書 の影響がみられるといえよう︒

    私が手がけたあらゆる事業と︑そのために骨折った労苦とを振り返ってみると︑なんとすべてがむなし     いことよ︒風を追うようなものだ︒︵伝道者の書2・11︶

 

十九 

   

紅 

   

肉にしみ入る血のいろ 

   

霊にしみ入る思念のいろ    書︑﹁血魂﹂

  付け方︑rose

  ↓ 

rougeur

  ︵淡紅↓紅︶

  下書き②には︑﹁乙女は頬が紅くなる  しかし︑ばらの花の場合は︑ばらの魂が紅くなる︒﹂が

あり︑その下に原文と同じ短章が抹消されている︒下書き③︑④とも︑原文と同じ︒(CPE, p.76)   下書き②によると︑この短章のコンテクストは︑女性の肉体と花の霊的存在の対象を詠むような

背景によって成り立っている︒その具体的な対象を無くすように︑クローデルは︑コンテクストを 消して宗教的な抽象性に変えた︒初期クローデルの長詩﹃五大賛歌﹄﹁マニフィカト﹂( Magnificat, Po,

p.269)に︑次の詩句がある︒

    血は血と結び合い︑聖心は聖心と結び合う︒

(12)

  ここでも︑クローデルは︑俳諧的な具体性を離れ︑肉体と霊との統一をすすめる短章を詠んだ︒

もちろん︑一四番目の短章の

    牡丹花 

    わたしたちの心のうちで      思考に先だつ 

    真紅のいろ 

と響き合うように考えられた短章であろう︒一四番目の短章以降の花のテーマが月のテーマにうつ り︑再び一八番目の短章から花のテーマに戻る︒そして以下の二六番目の短章まで︑花の短章がつ づく︒ 

  したがって︑連句的な読み方をすれば︑この抽象的な短章は︑﹁花の座﹂と﹁月の座﹂の間に位

置する中心的な﹁雑の句﹂であるというような作品であろう︒ 

 

二十 

    ばらの花だけは      永遠を表すほどに 

   

脆いものである    書︑﹁花脆﹂ 

  付け方︑â

m

e ↓ 

éternité

  ︵霊↓永遠︶

rougeur ↓  rose

  ︵淡紅↓ばらの花︶

  下書き②︑③︑④とも︑原文と同じ︒(CEP, p. 76)

  この短章は﹃雉橋集﹄︵日仏芸術社︑一九二六年一二月一日︶にも所収︒ 

  初期クローデルの長詩﹃三声のカンタータ﹄﹁ばらの賛美歌﹂(Cantique de la rose, Po, p. 334-335) に

次の詩句がある︒

    ああ︑まことにそうである!ばらの花よりも︑ばらの香を語ろう︒

    永遠につづく一瞬の息吹!︵中略︶

    ああ︑それは一年の中の一瞬である︒宙に浮いた︑極端に脆い一瞬である!

  小さな空間に偉大なものが現れる︑または︑短い時間の中に永遠を感じることができる︑という

俳諧的発想を︑クローデルが初期の作品の時から持っていたかもしれない︒こうした発想は︑以前 から象徴派の詩人︑たとえば次のランボーの作品﹁永遠﹂にもみることができた︒

    あれが見つかった︒

    何が?    永遠さ︒

    太陽と連れ立って

    行っちまった海さ︒︵ランボー全集Ⅰ︑花輪莞爾訳︶ 

参照

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