察
時期決定の 方法
1遺
跡6ABO区
の遺跡については,す
でに『平城官報告 Ⅱ』でその西半部を報告 してお り,今
回の 東半部 と6ABB区
の一部の報告をあわせ ると,こ
の地域の調査報告 は終了す る。『 平戎宮報 告 Ⅱ』に,6ABO区
は東半西半の別な く全体 として一つのまとまつた官行の敷地であることを 述べた。今回,東
半部の遺構について考察す るに当つて,東
半部のみでは説明できない点 もあるため
,前
回報告の西半部の遺構を も合 めて,6ABO区
全般 について改めて考察す る。A造
営 期 の 決 定6ABO区
では,ほ
とんどの遺構が重複 して検 出されてお り,各
遺構の造営 された時期が問題 になる。造営期の決定は, 3回
にわたつてお こなわれた盛土整地を基準 とし,そ
れぞれの整地 層上で検 出 した遺構を第I期か ら第 Ⅲ期 までに分類 した。6ABO区
の整地層の検 出できた範囲はFig.2の
よ うであつて,こ
の整地層上で検 出 した遺 構が,そ
の層の期に属することは自明であるが,第
Ⅱ・ Ⅲ期の整地層は後世の耕作 のため,一
部すでに削平 されて存在 しなかつたところもあ り
,そ
こで検出 した遺構の造営期は,層
位の切 確な遺構 との関連か ら,以
下に述べ るよ うな補助的手段によつて時期決定をお こなつた。第I〜Ⅲ期のおのおののなかでの時期区分 には
,ま
ず整地層 ごとに検 出 した遺構の柱穴の重 複によつて,前
後関係を判定 した。柱穴が重複 しない遺構の時期決定には1.建
物の柱通 り の一致2.建
物の平面規模の類似3.柱
穴の包合遺物の比較などの補助的手段を用いた。* したがつて,SB323・ 324の
ように重複 もせず,柱
通 りも他 と一致 しない遺構の造営期 は,未
1
第 Ⅲ期 第I期1
第 Ⅱ期! (1) (2) (2′
) (3)
:::〕:三
二 二
i=:::;÷::漑 こ璽 i;::̲sB191
許聟猛赳
82一赳 66 中
SB167‑―一
││ │
SBl12‑――一――――一一→
SBl16→
SA126‑――:一
SA121乱 5‑― 一→
S」sBlど1
sBl妬
SB││
146 135
Tab. 7 西半部遺構の前後 関係 (―→注穴の重複 =柱通 り 一致
⁚⁝
⁝⁝ ︐ の
*
異なつた整地層で検出した遺構が,結果的には柱通 りが偶然揃 う例があつて,柱通 りの一致は,時期決定 の絶対的基準にならない。SA233と SB206・ 209が こ98
の例に属する。平面規模の類似についても同様の場 合がある。これら補助的手段は,絶対的なものでな
く,可台割生のある推定であるといつてよい。
V
考決定のまま残 さざるをえなかつた。
前回報告 した
6ABO区
西半部の遺構の前後関係を『平城宮報告 江』によつて時期別 に整理 するとTab.7の
よ うになる。 この表では,建
物が第 Ⅱ期 に集中 して造営 されてお り,第
I期を 1.2.2′.3の
小期 にわけている。 この第 Ⅱ期の区分 に問題がある。同一整地層上で多数の遺構 が検 出された場合,柱
穴の重複 している遺構については前後関係が明 らかであつて も,前
述の ような補助的手段か ら時期決定 したものには,違
つた解釈 も生 じて くる。『平城官報 告I』 で 第 Ⅱ‑2期
と決定 した遺構 について,そ
の考察過程をふたたび ここでとりあげてみよう。SBl12・ 131・ 145の
3棟
の建物は,柱
間が復原尺で10尺等間であ り,
側柱列が同一線上 に揃 つている。 また隣棟間隔は,柱
間の整数倍の30尺である。 この2点
に注 目すれば, これ ら3棟
の建物は同時期の造営 になるものと容易に考え られ る。 またSB143の
西妻は,SB145の
西妻 とほぼ揃い,SB186・ 194の東西妻がSBl12の
それ とよ く柱通 りが合致する。 このように柱通 りが互 いに揃 うSBl12・ 131・ 143・ 145。 186・ 194の6棟
は,す
べて同一計画で造営されたも のとみな し,第
Ⅱ期 内の重複順序か ら第 Ⅱ‑2期
と考えたのである。このよ うに
,狭
い範囲内で隣接 した少数の建物 について,柱
通 りの合致か ら造営期を共定す るには,さ
ほどの矛盾 がなかつたが,東
半部 と西半部の迫構 を互 いに関連 して6ABO区
全域 にわたる広い範囲で考え ると,各
遺構の時期決定を修正す る必要 が認め られる。例えば
,SBl12は
SB186・ 194と妻の柱通 りが揃 うため, これ らと同時期の造営 と判定 した が,後
者の建物 はSB186A→ SB186Bと
改造 されているので,SB■2が
改造前のAと
同時期 か改造後のBと
同時期か問題であつた。『平城宮報告 Ⅱ』ではSB■2は
SB186・194が A→
Bと
改造 されて も,改
造 に関係な く共存するものと考え,A→ Bは
同 じ一小期 内での変化 とみ な して,そ
れぞれ第 Ⅲ‑2期
。第 Ⅲ‑2/期
とした。今回の調査で検 出 した遺構の前後関係を整理すると
Tab.8の
ようになる。西半部の表 と比 較す ると,東
半部の第 Ⅲ期にはSB177・ 186・194の
よ うに,同
一小期 内でA→ Bと
各柱を平行移動 して改造 したとみ られる建物の存在が明瞭にみ とめ られない。
ところで,SB212・
213や
SB200。201の
関係は,北
側柱列 が北にO.5mほ
ど移動 して建て られていて,西
半区の改造前 と改造後のA→ B建
物関係に類似す る。さらに東半部 と西半部の第 I期 第I期
:
第 皿期 SB205‑―一:―一―――→SK219‑一―――→SB209‑―十一 SB211SB205‑―一│ S」 206‑―
― ― ― ― ―
>SB327 i SB236瓢∠ =盪 ̲̲銚 3 1饂 孵
6時期決定の 問題
『 報告Ⅱ』
の遺構編年
SB317‑│一
――→ SB200‑一―― →SSB317‑――│
SB317‑│―
一―̲̲→sB299 1 11 1 SB370│
SB926‑一―│―――――→SD130 ‑― →SB268
Tab,3
東半部遺構 の前後 関係 (一→注穴の重複SB」64 1‑―
―
>sB386│l i
30‑― 一→
SB293‑→
SB285 i ll ! SB273 1‖
i SA233
SB347‑一一→
SB341 ‑SB348 i
SB341‑一―――――テ饂340‑―――
―
│→
SB349=柱通 りの一致)
遺構編年の 修正
暫定的な建 物の存在
平城宮発掘調査報告
Ⅳ
これ らの建4//tの相互 の柱通 りを検討す ると
,SB194A・
177A・212は
束西方 向の柱 通 りが よ く 合致 し,ま
た SB143。 194B・ 177B。 209。 213も互 い に柱通 りが揃つてい る。 この点 か らすれ ば,こ
れ ら柱通 りの揃 う建物 は,そ
れぞ れ 同時期 の造 営 とみな さざるをえない。このよ うに考 え ると
,前
回報 告 した建 物 で問題 にな るものがい くつ か でて くる。『 平城 宮報 告I』 で は,SB194Aは
第 Ⅱ‑2期
,SB2121ま第I‑1期
と考えたが,前
述 の よ うに これ は同 時期 と した方 が よい。 また,SB194Bは
第1‑2期
の改造 である第1‑2′ 期,SB213は
第 I‑2期
で あ り,これ も矛盾 す る。す なわ ち,前 回報告 した建・T2で A・ B・ C・KoM地
区 に存在 した もの については,第 1‑2期
を第I‑1期
,第1‑2/期
を第 Ⅱ‑2期
と一 時期 古 く考 えた 方 が よ り妥 当 とな る。第 Ⅱ期 内で時期 を上 げて くると
,前
回報 告 の第 正‑1期
が問題 にな る。 この期 に属 す ると し たSB170は ,新
し く第I‑1期
と したSB177Aと
柱 穴 が重複 し,両
建 物が 同時 に存在す るこ とはあ りえない。SB170は
整地層 や柱穴 の重複状況 か らは,
第I期よ り新 し く,SB177A(第
正
‑1期 )よ
り古 い ことは明 らかで あ る。 また,SB170の
柱穴 を他 の第1‑1期
。第 正‑2期
の もの と比較 す ると
,や
や小 さい掘 りかたであつて,こ
の点 か らして も,他
の建物 と時期 が異 な る ことが推測 され る。 したがつて,SB170は
第1期
の整地 がお こなわれて,第 1‑1期
の建物 が造 営 され るまで に
,一
時 的 に存在 した もの とも解釈で きる。つ ぎに前 回第I‑2′期 と した SBl13・166の
建 物 も問題 にな る。この建物 は棟方 向が ともに東 にすすむ に したがつて南 に偏 り
,他
の建物 と異 な る。柱穴 の重複状 況 か らは,第 I‑2期
よ り新 し く第I‑3期
よ り古い。棟方 向の偏 りを重視 すれ ば
,他
の建物 と共存 した と考え難 い。SB170や
SB l13・166は
第 Ⅱ期 の各小期 の前後 に短期間存在 した暫定 的な建物 と考 え ることがで きよ う。第
皿
期 SB236 SB246 SB386 SB349 SA121 SE168B SE31lB SE272B
SB170,SE168Aは I〜Ⅱ,SBl13・166はI一‑2〜 Ⅱ‑3, SA120は正
‑3〜
Ⅲの間のものSD194A SB186A SB177A SB212 SB20Cl SB299 SB370 SB347 SA350 SD126B SD130 SD106 SG180 SE168A SE31lA SE272A
Ⅲ 2 SB143 SB194B SB186B SB145 SB131 SBl12 SB177B SB209 SB206 SB213 SB201 SB320 SB364 SB293 SB341 SA350 SA109 SE168A SE31lA SE272A
SB146 SB135 SBl16 SB191 SB182 SB211 SB327 SB321 SB413 SB314 SB308 SB307 SB285 SB348 SB340 SB273 SB268 SA350 SA109 SE168A SE31lA SE272A
イ0
Tab. 9 遺 構 編 年 表
V
考 察 第I期で も第I期
に似た問題 があ る。SB176・167の
建 物 の棟方 向の偏 りや,SD126Aと
の重複 か らは
,第
I期を さ らにわ け るべ きか検討 を要す るが,こ
の点 について は次節 でふれ る。6ABO区
で検 出 した遺構 を,柱
穴 の重複 や柱通 りの一致,平
面規模 の類似 な どか ら改 めて各時 期 に分類 す るとTab.9の
よ うな編 年 が可能 にな る。 なお,第 1‑1期
と第I‑2期
の間 に暫 定 的 な建物 の存在 が認 め られず,こ
の移行 は他 の小期 と異 な ることが注 目され る。B
造 営 期 別 の建 物 配 置前 爺 で造 営期別 に遺構 を分類 したが
,
ここでは主 と して建物 の配 置について述 べてみたい。最 も古 い遺構 は地 山に直接 掘 られ た
SD141の
溝 で あ る。 この溝 には流 砂 の堆積 や遺 物 の 出土 もな く,ご
く短 期 間 しか存続 しなかつ た よ うで あ る。第I期の盛土 は この溝 を うめてい る。i tt I期
の配 置この時期 に属す る建物 は
5棟
で後 の時期 に比べて少 ない。建物 はすべて第I期の整地層上 で 発見 されてい るが,す
べ てが同時 に造 営 され共存 したか明 らかでない。 と くに,SB167・ 1761ま 他 の3棟
と方位 が異 な り,造
営時期 も異 な るか も しれな い。 また,SB176は
第 Ⅱ‑1期
まで存 続 す るSD126の
溝 と重複 す る ことか ら考 え ると, SB205。317よ
り古 い可能性 が あ る。第I期 の建 物 は
,他
の期 の もの と比較す ると,概
して,柱
間 が等 間でな く広狭 が あ る こと,建
物 の 造 営単位尺 が他 の期 に比べて短 かい ことに特徴 があ る91表 1)。 また各建物 間の隣棟 間隔が大 き く,他
の期 のよ うに密 に配 置 されて いない。第I期には,6ABO区
の西部 はSG149の
低湿 地 が その まま残 つてお り,第
I期整 地 層 の範 囲は6ABO区
の中央部 が主 であつて,敷
地 は必 然 的 に6ABO区
の中央部 に限 られ た と思 われ る。SB269を
門 のよ うな施設 と考 え れ ば,第
I期 の東 限 は この付近 に求 め られ るが
,こ
の門 と併設 されたよ うな,南
北 に通 る築地状 の遺構 は 発見 され なかつ た。第1期
の造 営 の際 に削平撤去 されたのであろ うか。東限 を この辺 りと考 え ると,第
1期の建物 は広 い敷地 内に分散 して建 て られた ことにな る。配 置上 か らは,第
I期の 各建 物 を SB176・167,SB205,SB317と
3区に分割 してみ ることもで き,
それぞれ機能 的に独 立 した もの とも考 え られ る。五
第
1‑1期
の配 置第I期の建物 の撤去後
,6ABO区
全 域 が盛土整地 され,敷
地 が拡張 され る。す なわ ち,東
はSA350の
築地 で限 られ,ま
た南 はSD130の
溝 の北 に築地 が築 かれた よ うで あつ て,こ
の位 置 が南限 と考 え られ る。建物 の棟数 も9棟
にふえ,各
建物 はたがいに柱通 りを揃 えて配 置 され る。この期 の建物 のなかで
,SB170は
最 も古 い時期 の もので あつて,第 I期
の整地 がお こなわれた 後 に直 ちに造 営 され る。 この建 物 が存 在 した時期 には,他
に共存す る建物 がな く,第 1‑1期
と整 備 され る以前 に
,暫
定 的 に存在 した建物 とみな され る。SB170が
撤去 されて第I‑1期
の建 物 が造営整備 され る。この期 に属す る建物 の棟数 は8棟
で あつて
,建
物配 置か ら東西2群
に分 け ることがで きる。東西両群 の間で建物 の柱通 りがよ く 揃 つてい る し,ま
た各建物 の造 営単位尺 も共通 してい る。*
東 の群 で は,SB200が 4面
廂 の建物 で あ り
,西
の群 ではSB186Aが 2面
廂 の建 物 で あつて,両
群 の主要 な建 物 にな るが,む
し*
造営単位尺は29.7cm(別表 1)で,柱間寸法も10。9,5,9の 3種に大別できる。なお, SB347は柱通 り が他の建物 と揃わず,柱間も8尺であ り,また,SB212
の造営単位尺がやや異なつているが,これ ら2棟の建 物は柱穴の重複状況から第I― I期とみなさざるをえ ない。
第 Ⅱ
‑1期
の敷地
造営単位尺 のちがい
SB 170の意 味
Zヱ
東へ偏つた 中軸線
井戸の時期
第正
‑1期
の拡張発展
同一規格に よる造営
平城宮発掘調査報告
Ⅳ
ろ全体 と して
SB200を
正庁 とす るま とまつた官行 とみな され る。SB200と SB212,SB186A
と
SB194Aの
よ うに前後 に並 ぶ建 物 は,正
・ 副 の関係 にある建物 とみ られ る。6ABO区
の中央 付近 で は,SD130が
南 に突 出 してSD244に
な り, この突 出部分が この敷地 の開日部 のよ うな様相 を示 して い る。『 平戎 宮報告I』 で もふれたよ うに,
こ こを この敷地 の 開 口部 と して,こ
の位 置に第I‑1期
の官行 の中軸線 を設定で きるが,こ
の 中軸線 は宮域 の中 軸線 よ りやや東 に よつ て いて問題 で あ る。SD130の
南 に平行 してSD106の
濠 状 の遺構 が西 半 で検 出されてい る。 この濠 は この中軸線 に対称 に東 にも掘 られてい る可能性 もあ り,南
に何 ら か の建築群 が存在 して,そ
の敷地 の北限 と して の濠 とも考 え られ る。第I期に は,こ
の南 に第 一 次 内裏 があつた と考 えてい るが,
この期 になつて もなお建物 が存続 したか,あ
るいは 内裏 が 廃 され他 の建 物群 がつ くられ た のか,今
後 の調査 を またねばな らない。井戸 が この期 につ くられ た とす る積極 的 な根拠 はないが
,官
行 が整 備 され た この期 か ら設 け られた とみて もよいだ ろ う。SB170。200の
真 正面 に丼戸 が あ る ことか ら,井
戸 が建物 と対 に な るよ うに計画的 に配 された と考 え られ る。 とすれば,SB170と SB200は
時 期 が異 な るので,SE168Aが SE31lAよ
りも古 い時 期 につ くられた井戸 とい う ことにな る。2個
所 の井戸 の手法 の差 が枠材 の組手 に認 め られ るのは
,こ
の よ うな時期 的な違 いによるので あ ろ うか。第 Ⅲ
‑2期
の配 置SD130が
廃 されて敷地 が よ り南 にひ ろが る。東 限 の築地 は前期 か ら引 きつ づ いて使 用 され る。南 限 は明 らかでないが
,SA109は
この期 の建物 と位 置的 には共存 しうるので, この期 か ら 存 在 す る可能性 は あ る。*
第1‑1期
の SB177・ 186・ 194,200・212の
建 物 はほぼ同位 置で 改築 され るとともに,周
辺 が よ り整備 された配 置 とな り,棟
数 も16棟 と増 加 す る。主要 な建 物 が 同位 置で改築 されてい る点 を重視 すれば,第 I‑1期
と第 Ⅱ‑2期
の建 物群 は,似
た よ うな 性 格 を もつ た とみ な され る。前 期 と比較 す ると,東
西両 区 とも主 な建 物 が ほぼ 同位 置を踏 妻 し,さ らに
,東
端西端 が発展 した形 とな る。建 物 の うち
,SB201は 2面
廂 の南 に さ らに孫 廂 が付 け られ た平 面 で あつ て,こ
の期 の建 物 の な かで は最大の規模 を もち,
この官行群 での正庁 とみ られ る。西 区ではSB186Aに
代 わ る主 要 な建物 はな く,す
べ て廂 のない建 物 が連立 してい るので,前
期 と比べ ると西 群 は よ り従属 的 な ものに変化 した と認 め られ よ う。建物 は敷地 内に密 に配 置 されて い るが
,井
戸 付近 で は,井
戸 を利 用 で き る建 物 配 置になつ て お り, この期 にも既存 の井戸 がそのまま使用 されていた とみ られ よ う。各建 物 の規模・ 配 置を検 討 す る と
,各
柱 間 はほ とん ど10尺 等 間で,掘
立 柱穴 の形状・寸法 と も同 じ規格で掘 られてい る し,柱
通 りが各建物 ともよ く揃つて い る。 この期 の造営が同一計 画 で お こなわれた ことは明 らかであ る。柱 間が各建物 とも等 しい ことは造営 時 に同一規格 の部材 を大量生産す ることが可能 であつて,こ
れ らの建物群 は短期 間 に造営 され た と考 え られ る。第
1‑1期
と比較す ると,建
物配 置は基本 的 に変 化 して いな いので,同
じ性格 の官行 があつ て,よ
り整備発展 した もの とみ られ る。一方,全
体 的なTrlE置をみ ると,東
半部 と西半部 に2分
され
,そ
の中央 にあた るIoJ地
区 には建 物 がな く,
この地 区が敷地 の中央 部 で あ ることを示* SB320をこの時期に比定 したが,柱間が広いとい う以外に積極的理由はない.SA109が東西対称にこの を2
期からあつたとすると,SB320をこの時に期比定する のは問題になる。
▼ 考 察 す。 この地区は平城宮 の中軸線上 にあ り
,そ
れ に対 してSB176B。 194B。186Bは
SB209・ 213・
201と
はば対称 に配 置 されてい る。官行 の中軸線 が第1‑1期
よ り西 によつて宮域 の中軸線 と一 致す る点 は注 目され る。第 Ⅱ
‑3期
の配置この期の敷地 は第 二
‑2期
と異な らず,建
物 もこの敷地全域に配置されている。建物は柱間 が狭 くな り,桁
行間数 も概 して少な くなる。片廂付の建物の増加 と梁間2間
のみの建物の減少 がめだつ(Tab.10)。 また建物の柱穴には柱抜取痕跡がな く,柱
根が残つているものも多い。建物の配置は
,6ABO区
全域を東西に2分
している点で,こ
れまでのものを踏襲 していると みなせ るが,全
域を通 じて柱通 りをそろえることは していない。む しろ,建
物群は小区に分け て配置されている。 この小区には,SB■
6・327・ 211のように,そ
の区の核 とな り数棟を付属 して配 されるものや, SBl12・191の
ように1小区に独立 して建て られるものがある。井戸 は3小
区に1個所ずつ配 されている。小区内では各建物の柱通 りがよ く揃 うことが認め られる。各小区には
,そ
の区の主要な建物 として両面廂もしくは片面廂の建物が必ず配置されている が,第 1‑2期
のように,主
要建物 と付属建物が南北に併置 して配 される形式 は認め られず,2〜 3棟
の建物が求心的構成をもつて配置されている。 このことか ら,各
小区は同一官行内の 分割 された部局を構成 したように考え られる。井戸は建物 と位置的に重複 しない し,出
土遺物 か らも井戸がこの期 に使用 されていたとおもわれ る。第 Ⅱ
‑2期
が第 Ⅱ‑1期
の発展 として容易に理解 され るのに反 して,第
Ⅱ‑3期
は,そ
の配 置か ら第 Ⅱ‑2期
の直接の発展形態 として把握す ることは困難である。建物が大き く東西両区 に分けて配置される点 は第 Ⅱ‑2期
と同 じであるが,各
小区への分化がは じまることは全 く違 う性格の官行がつ くられたと考え られない こともない。 しか し,後
述す るように,出
土遺物か らこの地区では第1期
を通 じて同一官行が存在 したとおもわれ るので,こ
のような配置の変化 はむ しろ同一官行内の機構の変化によつて生 じたものであろう。v
第 Ⅲ期 の配置第
1‑3期
の建物が撤去 され,敷
地全域 にわたつて整地がお こなわれる。発見 した建物の棟 数 はわずか4棟
であるが,
この期 の上壊は6ABO区
全域にわたつて検 出されているので,こ
の地域はこの期 にも広 く使われたであろう。敷地は柵によつて東西5小
区にわけ られている。各小区には建物が配置された と考え られ るが
,そ
れ らは掘立柱建物でな く,そ
の後の耕作によ造営期 I
I‑1
I‑2 正‑3
Ⅲ 討・1間 2間 3間 2間 2間 2間 2間
切妻 切妻 切妻 切妻・片廂 切妻・両廂 切妻・両廂・孫廂
4面廂
1 1 0 0 1 0 1
1
4 0 1 1(1) 0 1
0
10(2) 2 0 1 1
0
1
6 0 7 2 0 0
0 4 0 0 0 0 0
3 25(2)
2 8 5(1) 1 2
計 14(2) 4
つて その痕跡 が失 われ る程 度 の小礎石
,も
し くは土居 の上 に柱 を建 てた建物 であ つ たのではなか ろ うか。井 戸 は以前 の ものを改造 して 使用 して い る。 この ことか らも,井
戸 を使用 した生 活 空間 の存在 を推測 させ,
この地 区に何棟 かの建物 が当 然存在 した もの と思 われ る。
片廂付建物 の増加
官衛機構の 変化
平城上皇期 の建物
Tab.10 造営期別主要建物の規模分類表 ( )は暫定建物
Z∂
平城宮発掘調査報告
V
第
I期
/tヤイヤイオ
第
H‑1期
第
H‑2期
第■
‑3期
造 営 期 別 建 物 復 原 図
V 考
建物 の配置と官行の変遷
各期の造営年代 については
,す
でに『 平城宮報告 Ⅲ』で第I期を和銅創設の造営,第
Ⅱ‑1
期を恭仁京か ら還都後お こなつた改修工事 として天平末年 ごろ
,第 1‑2期
をSK219出
上の木簡か ら天平宝字
7年
頃,第
Ⅱ‑3期
を掘立柱 の耐用年限か ら宝亀年間に,第
Ⅲ期を平城上皇 の造営 に関連 して大同4年
頃 と比定 した。 したがつて,第
I・ Ⅱ期は平城宮に関連する官衛,第 Ⅲ期 は平城上皇の上皇御所 に関連す るものとなる。 ここで は奈良時代の1官行の建物配置と 変遷を問題 にす る上で
,第
1・1期
の配置をとりあげてみたい。第I期を和銅創設か ら天平末年 ごろまでとす ると
,約
40年 間 とな るが,掘
立柱 の研用年限か らすればやや長すぎるきらいがある。和銅創設 の際,直
ちにすべての宮内諸官行が完成 された かは明 らかでない。む しろ,長
期間を通 じて完成 されたとみ るべ きであろ う。事実,和
銅4年
には宮垣す らも未 だ完成 していない状態であり,和
銅7年
にあ らたに造宮省 に史生を6人
加え ていることな どか らすれば,和
銅以降宮内の造営は連続 してお こなわれていた ことが知 られ る。また『藤原武智麻 呂家伝』に
,養
老5年
に武智麻 呂が造宮卿 の時,工
匠を率いて官内を改作 し たとの記事があ り,こ
の ころに改作がお こなわれた ことがわか る。『家伝』によれば,彼
は神 亀元年 2月 には既 に知造宮事であ り,『公卿補任』には神亀3年
にも知造宮司事 に任 じられてい ることが記 され るので,少
な くとも神亀元年以降は知造宮 (司)事
とい う官職があつた ことが 知 られる。一方『 続紀』には神亀元年4月 に造宮,宮,県犬養筑紫 の死亡の記事がみ られるので, 造宮卿 と知造宮司事の両者の存在が認め られ,宮
内造営の機構強化が うかがわれる。さ らに神 亀元年3月 に設 け られた催造司は,こ
れ らの監督・推進 に当つたであろうし,宮
内整備のため まだまだ造営がつづけ られていたのであろう。 これ らの記事 か ら,第
I期の造営は長期間であ つた こと,ま
た,神
亀を境 に して造営の態勢 に変化があつた ことを考えさせ られ る。第I期では この神亀頃を境 にして
,造
営期を2小
期 にわけて考えるべきでなかろうか。第 Ⅱ 期 も造替年限 としてほぼ15年ほどの小期 に分け られ るか ら,第
I期にも神亀頃に改作があつたとす るのが妥 当である。そ うす ると掘立柱の耐用年限が長す ぎる問題 とも矛盾 しない。
*
第1期の建物の うち SB167・
176は ,他
の2棟
と方位が異 な り,造
営が2回あつたとすれば, SD 126Aと
の重複か ら第I期でも古い時期にあて られ る。第I期の建物 の配置をみると
,第 1期
と比べて単 に棟数 に変化があるばか りでな く,配
置方 法が全 く異 なつている。 しいて共通点をあげるな らば,敷
地 の東部 に正庁 とみ られる4面
廂の 建物が1棟
存在す ることだけであつて,こ
れか らは,第 I期
と第 Ⅱ期 は同一官行であるとす る には資料が不十分である。第I期末に相送す る天平末年 の ころの宮内事情を考慮すると,第
一 次朝堂院 。内裏が東の第二次朝堂院・ 内裏 と占地が移動 した とみ られ るし,そ
れに伴つて宮内 の官行 も一部 占地 の移動があつたろう。6ABO区
でも,占
地 の移動を考え,第
I期と第 Ⅱ期の 建物を異なつた性格の官行 とみな した方がよさそ うである。例えば,第
10次以降の発掘調査で,第二次内裏 に北接す る
6AAO区
で発見 した遺構群の うち,時
期的に第I期
に相当するものは, 第二次内裏 に関連す る建築群であり,こ
れ らは平安 内裏北辺 の蘭林坊・桂芳坊・華芳坊のよう*
宮内官衡建築は今迄の調査から殆んど掘立柱の建物 であることが確認され,恭仁京遷都について新 しい問 題を提起できる。恭仁遷都の理由として,従来から藤 原広嗣の乱・橘諸兄の献策など,政治的方面から考慮されているが,掘立柱建築の耐用年限を考えると,天 平12年頃には,宮内定t/7Jの改築時期がきていたことも 無視できない。このような建物の構造的な面も恭仁京 遷都の一素因としてつけ加えられるのではなかろ うか。
察
造営期の年 代比定
神亀ころの 改作
第I期の小 区分
第I期の官 衛の性格
̀」
第I期の官 衡の性格
宮内省大膳 職
第Ⅲ
‑3期
の特色
暫定的建物 の意味
平城宮発掘調査報告
Ⅳ
な
,内
裏 に付 属す る建物 の前 身 的 な もの と理解 され た。6ABO区
は第一次 内裏 に北接 す る地域 で あつて,第
I期の遺構群 は位 置的 に,第
一 次 内裏 に付属す る建物 とみ られない こともない。遺構群 が散在す ることもその可能性 を考 え させ る。
第
I期
の配 置は各小期 ごとに変化 してい る。各小期 は天平末年・天平宝字7年
・ 宝亀 の ころ には じま り,長
岡遷都 を考 え ると期FHOは15年 前後 にな る。 これ は掘立柱建物 の改築 と して は適 当な時 間経過 であ る。井戸 が使用 されたのは第I期
は じめか らの可能 性 がつ よ く,井
戸 を必要 とす る官行 が この地 区に設 け られ た と考 えて もよいだ ろ う。 この点 で も前期 と官行 の性格 の異 な る ことが知 られ るので あ る。 第 Ⅱ‑1期
と第 Ⅱ‑2期
の配 置を比較 す ると,東
西 部 にわけ る 中軸線 の変 更 が著 しい差異 で あ るが,敷
地 が南 に拡張 され るにもかかわ らず,基
幹 にな る建物 の配 置に変化がない。 またほぼ似 た位 置で改造 されてい ることは,第 I‑1。 2期
とも同 じ官 行 が存続 した もの と理解 され, この官行 の付属施設 が拡大発展 していつた と認 め られ るのであ る。 と ころで,第
Ⅱ‑2期
の造 営 をみ ると,各
建 物 が統一 的規格 で建 設 され る点 や,建
築群 が 宮域 中軸線 と関連 して造 営 され る点 か らは,こ
の期 の造営 が官城 内の全官行 の整備工事 の一環と して お こなわ れた ことを推定 させ る。
第 Ⅱ
‑1期
に この地域 に存在 した官行 は,SK219出
上 の本衛 の記載 内容 か ら,宮
内省 大膳職 の可能性 が大 きい。今 までの発掘調査結果 では, 1地
域 に多数 の大井戸 が発見 され たのは この 地域 の他 にな く,大
膳 職 の 占地 と井戸 の存在 は密接 な関係 にあつた とみ られ よ う。第
1‑2期
の拡大発展 は付属屋 ともい うべ き梁間2間
の切妻 の建物 の棟数 の増加 で あ り,と
くに西 半部 の建物 はすべ て この平面 形 式 の建物 が並 んで いて
,似
た性格 の建 物 を集 中 して,こ
の地域 に特別な 機能 を もたせ た とみ られ よ う。後述 す るよ うに
,こ
れ らの付属屋 を倉 代屋 とみ な して,西
半部 が貯蔵 空 間 を構 成 した とも考 え られ る。第 Ⅱ
‑3期
は,配
置か らみれば,第
Ⅱ‑2期
の改造 とい うよりむ しろ建物配置を根本的に改 めた時期 として理解 され る。第 Ⅱ‑3期
の配置の基本は,敷
地を分割 して小区を設 けたことで ある。 この期では明 らかに この地域 の官行の正庁 と目され るような大規模の建物を指摘す るこ とは不可能である。 しか し,各
小 区には必ず両廂 もしくは片廟をもつ建物が配 されて,そ
の小 区の主要殿舎 とみ られ,各
小区がそれぞれ独立 した機能をもつていたように考え られ る。 した がつて,建
物配置か ら官行機構を類推すれば, この時期のこの官行においては機能分化がおこ なわれて,分
掌が確立 したのではなかつただろうか。井戸SE31lAで
はこの井戸 の最継期を示 す とみ られる井戸内の堆積のなかに,「羮所」 の墨書のある土器が出土 してお り,醤
院 や菓餅 所のような大膳職内の一部局 としての羹所を考慮 しうることなどか ら,こ
の井戸 をつかつてい る第 Ⅱ‑3期
の官行 もやは り大膳職 とみ られ る。建物の配置にみ られ る小区の分化 は大膳職内 の機構の分化 として理解 されよう。なお
,第 1期
では小期の前後に暫定的に存在 した建物がある。 ここで改めてその意味を考え てみよ う。第 Ⅱ期のうちもつ とも古い建物はSB170で
ある。 この建物は第I期の建物が撤去 されて,敷
地が盛土整地 されてか ら建 て られている。 この建物の真正面 にSE168の
井戸が設け られて井戸 と対に造 られたとみ られ, この関係は第
1‑1期
のSB200と SE311の
関係に 似 る。そのことか らSB170は SB200が
つ くられ る官行が完成す る前に暫定的に この官行の 主要な機能を果 していたとみ ることもできる。第 Ⅱ‑1期
は東半部か ら造営 され,SB200が
竣Zσ
V 考 察 功 した の ち
,SB170を
撤去 して西半部 の造 営 に と りか かつ た と推測 で きよ う。第 Ⅱ
‑1期
と第I‑2期
の間には このよ うな暫定 的な建 物 は存在 しない。第 Ⅱ‑1期
か ら第1‑2期
と整備 され る際,す
べ ての建物 が撤去 され るとす れ ば,大
膳職 の機能 は一 時停止 され ね ばな らな い。 したがつて,当
然暫定 的に所掌事務 を と り扱 う建物 が必要 にな る筈である。 し か し,
この よ うな建 物 がみ あた らない ことは,第
Ⅱ‑1期
か ら第 Ⅱ‑2期
へ の移行 は,全
建 物 を一 時 に撤去す る ことな く,配
置計 画 をたてて部材 を用意 し,一
部 か ら撤 去 しな が ら造 営 して いつ た とみ られ る し,ま
た これ が可能 で あつたの も同一宮行 で あつたため と思え るのであ る。第
1‑2期
か ら第 Ⅱ‑3期
へ の移行 の際 も当然所掌事務 を停止す ることは困難 であ り,造
営 は一 部 か ら開始 せ ざ るを得 なかつた ろ うと考 え られ る。各小 区での配 置は柱通 りを揃え るが, 全体 と して,統
一 的な配 置計 画 を もたない点 はその ことを裏 付 け る。第 Ⅱ‑2期
の計画性 に比 べ てお とるのは,ど
の よ うな理 由によるのであろ うか。 この期 には SBl13・ 166の暫定 的 に存 在 した建 物 が あ る。 これ らは ともに切妻 の梁行2間
の建物 で あつて,西
半 部 を貯蔵空間 とみれ ば,造
営 中 に一 時 的 に収納 を移動す るた めの施設 と して解 釈 で きよ う。以上 の よ うに
,6ABO区
における奈良時代官行 の変遷 を通 観すれば,第
I期か ら第 Ⅱ期 の変 化 は異 な る官行 によ るもので あ り,第
I期内の変 化 は,同
一 官行 内におけ る整備発展 と機能分 化 と して説 明で きる。なお,第
Ⅲ期 につ いて は平城上皇 に関連 す る遺構 で あつて,発
見建 物 の棟数 が少 な く
,単
に区画割 が認 め られ るだけで,そ
の実態 は不 甥であ る。前 に もふれたよ うに 小 礎石 或 は土 居 を お くよ うな建 物 が存在 した可能 性 は大 き く,遺
構 が発見 され なかつた とはい え,平
城上 皇 の遺構 は,単
に区画割 のみで あつた とは断言 で きない。C
官 衡 建 物 の 配 置官行建49/」の配 置 について は
,朝
堂 院 。大宰府・諸 国の国郡行 にみ られ るよ うな正殿 と冨も殿 を 前後 に並べ,ま
た正殿前面 に東西対称 に殿舎 を配 置す る方 法 が 当然考 え られ る。『 大 内裏 区考 証 』 をみ る と,例
え ば太政官や宮 内省 の正庁 。東庁・西庁 。後庁 は このよ うな原則で配 置 され て い る。一方,神
祗 官 の配 贄は これ と異 り,南
北 の建物 はそれぞれ無 関係 に配 置 されてい るよ うで あつて,各
官 行 を通 じて 同 じよ うな配 置 がお こなわれ た とはいい難 い。『 大 内裏 図考証 』 に記 され る平安 宮 の大膳職 の建 物 は
,正
庁 。東舎・西舎 ・北屋・ 菓餅所 。 雑舎・ 倉 な どで あ り,他
に着院 が独立 してい る。 しか し, これ らの建物が どの様 に配置 された醜 聾 聾 錢 繭 聾 蝉 拠
園盛 驚 日 醜 盤 盗 日
EE] □殻EE]
米 院 主基 内院
悠 紀 内院 大多米院
造営方法の 推定
6ABO区の 官衡の変遷
官衛建物配 置の原則
鋼 期 咽
納 難 物 屋 盗富 形キ 茶足 櫛抜 猟価 川
囲 田 圏
□
圏 絣国
摩
櫂
騒
主基外 院
Fig。 12 大 嘗 会 外 院
Z7
悠紀・ 主基 外院の建物
建物の用途
倉代屋の可 能性
床張 り建物
平城宮発掘調査報告
V
か は不 明で あつて
,配
置 と機能 の問題 は全 く知 りえな い。広 い意味 で食糧 に関係す る殿舎 の配 置がわか る ものは,大
嘗会 の際 に,北
野 に 卜定 して設 け られ る悠紀・ 主基 の在京秀場 の内外院 の建物配 置で あ る。外院 はFig。12に
示 す よ うに殿 舎 が配 置 され,殿
舎 は庁・ 酒 屋 ・ 人給屋・料 理屋 。倉 代屋・ 宿屋 。大炊屋・ 納 雑 物屋・ 麹 室等 か らな る。
*
建 物 を平 面 規模 で分類す れ ば, 両 廂付建 物 は庁 。大炊屋・ 官 人宿 舎・ 倉 代屋 で あ り,片
廂付建 物 は酒屋 。人給屋 で あ り,廂
のあ る方 が正面 を向 く配 置になつてい る。平 面規模 か らみれば
,庁
は両 面廂 の建物 で あるが,建
物 の用途 と して両面 脳 は必 ず しも庁 ばか りで ない。 した がつ て
,庁
と して の条件 は,核
にな る位 置 にあ る
4面
廂 も し くは両 面 廂 の建 物 で あつ て,庁
と同規模 の平面 で も,配
置上 核 にな らな い建物 は,大
嘗会 の外院 にみ られ る大炊 屋・倉 代屋 の よ うに,付
属建 物 とみな さね ばな らない ことにな る。大嘗会 の主基外院 の庁 付近 の配 置を と りあげ ると,第
Ⅱ‑2期
の配 置 によ く似 た 形 にな る。 それ故,核
にな るSB201を
庁 とみ る ことは妥 当で あ り,SB206・ 209・293等
の南 北 棟 の建物 は納雑物屋・倉 代屋 のよ うな貯蔵所 や,料
理屋・ 造笛形漬菜屋 のよ うな作業所 と考 え られ よ う。 この外院 の内には大多米院 があ り,一
部局 として ま とまつて い る。 このよ うな配 置 は,第
Ⅱ‑3期
にみ られ る建物 の配 置に似てお り,第
Ⅱ‑3期
で は各部局 がま とまつて配 置 された と考 え る根拠 を与 え る。 もち ろん,大
嘗会 の外 院 の殿舎配 置 と大膳 職 の官 行 の配 置 とは, 何 ら密接 な相 関FEl係が あるわ けでな いが,建
物配 置か ら建 物 の性格 を考 え る一指 針 と して と り あげたので あつて,
これ との比較 で,6ABO区
の建物 について正庁 と付属屋,あ
るいは官行 内 の一 部局 を類推す ることはで きよ う。各 建 物 の用途 を推 定 す るため
,西
大寺資財 帳の食堂院の建物 の うち,食
糧 に関係 す るものを 選 び だす と,東
西 の檜皮 葺厨 は■ 間 ×4間
(■0尺X40尺)倉
代5間
×2間
(50尺×20尺)で
あ り,政所 院 で は檜皮 葺厨5間×
2間
(45尺×16.5尺,45.5尺X19尺,50尺×20尺)檜
皮 葺 政 庁5間
× 2 間 e6.5尺X20尺)で
あ り,平
面 か らは5間
×2間
の規模 を もつ ものに政庁・厨・倉 代 の種類 が あ る。諸寺 の資財帳や和泉監 の正税 帳 にある倉 代屋 も梁行2間
の ものであ り,平
面 か ら建 物 の 用途 は限定 で きない。 この地 区が大膳 職 とす れ ば,当
然貯蔵空間 と しての建物 が必要 で あ り, 梁 行2間
の建 物 の一部 を倉 代屋 にあて ることがで きる。 ともあれ,位
置・規 模 か ら正庁 を推定 す るの は可能 で あ るが,付
属屋 の性 格 を限定 す る ことは困難 で あ る。D
建 物 の 平 面 と構 造第I期 。第
I期
の建物 を分類す るとTab,■
の よ うになつて,身
舎2間
の切妻 の建物 が も つ とも多 く,片
廂・両 廂・4面
廂 と平 面 規模 が大 にな るに したがつ て,棟
数 は少 な くな る。 こ れ らの建物 の うち数少 ない形式 の もの は,
身舎3間 SB293・341と
孫廂 を もつ両 面 廂 の建 物SB201で
あつ て,僅
か1〜2例
のみで あ る。発 見 され た建 物 の うち
,身
舎 あ るい は廂 内に床 束 の痕 跡 とみ とめ られ る小 穴 が棟 方 向に1列
あつ た もの は,SBl16・ 170。 186・
200で
あ り,床
張 りの建物 で あつ た と考 え られ る。**ま
たSB285は ,
廂 に1列,身
合 に2列
の小穴 が棟方 向に並んでお り,
同様床 張 りの建 物 と考 え ら れ よ う。 と ころで,こ
のよ うな床東 の穴 の他 に,建
物 内に小柱穴 の並 ぶ ものが あ る。 それ らは, SB191・ 192, SB170・ 171, SB364・ 366・ 375, SB299。 300・ 389, SB370・ 371, SB293 ・ 297キ
『 儀式』巻2による。『 延喜式』では多米酒屋・倉 代屋・供御料理屋 。多米料理屋・麹室の名がみえる。
ど8
**SB201も床張 りかもしれないが,床束の位置がSB 200の注穴 と重複 して確認できなかつた。
き\
3間 5間 6間 7間 9間 13間 計計
1 2 0 2 0 0 0
1 6 0 5 3 0 0
0 1 0 0 1
0 0
1 14
1 1 1 1
2 0 0 0 0 2 0 0
0
1
0 0 0 0 0
3 24 1
8 7 1 2
5 2 1
Tab.11
建 物 構 造 類 別 表棚 の よ うな施 設 を考 え うるな らば
,建
物 内の広 い部 分 を この施 設 が しめ るSB299,370は
倉 代屋 と考 え て よい。 この よ うな東穴 の検 出 されなかつ た建 物 は土 間で あつ た とみ るほか はない。
SB205で
導 が検 出 され た ほか は,土
間床 の設備 はわ か らな い。 また,各
建物 の柱 間装 置につい て は全 く不 明で あ る。 内部 に間仕切 りを設 けた建物 にはSB327が
あ り,桁
行 を3間 2間にわ けて い る。 この平 面形 式 は建 物 内を室 。堂 にわ け る大 嘗会正 殿 の平面 に似てお り,ま
た前掲 の 大 嘗会外院 の諸宿所 とも同 じ形式 で あ る。廂 を設 けてい る点 は人給屋 に近似す る。SB327は
間仕 切 りを設 けて東 西 を別 な用途 にあて た ことを示 して い る。特異 な平面 のもの に
SB285が
あ り,背
面 の側柱 が2個
所欠 けて い る。 この部分 のみ に土 居 を お き,そ
の上 に柱 をたてたので あ ろ うか。 ともあれ,こ
の よ うな平面 は,こ
の建物 の用途 によ るもの と推測 され るが,肝
心 の建物 の性格 は判 然 と しな い。
平面寸尺 と各期 の建物の関係をみ ると
,第
1期は造営単位尺が他 の期 に比べ短か く,柱
間も 不同である。第 Ⅱ‑1期
になると造営単位尺が統一 され,柱
間 も10尺のものが多 くな り,第
1‑2期
では造営単位尺 も柱間寸法 も統一 され る。また,第 I‑3期
は造営単位尺は不同で柱 は 10尺よ り小 さ くな る。第I‑2期
の柱間が10尺間で統一 されてい ることは,桁
・梁 は無論,種
などまで同一規格のものが使用できる利点があり
,こ
の期 の造営は大量生産 による建設だつた と思われ る。 また,中
軸線が宮域 のそれ と一致す ることもあつて,宝
字7年
頃の宮内改作は, 宮内の全建物を統一的計画の下で改築 したと考えてはどうだろ う。 この時期は第1‑1期
の建物 が ほぼ改築 を必 要 とす る頃 に あた り
,こ
の ような計画 で改築 され る可能性 が十分 あ りうる。
第
1‑3期
の建 物 では廂付 の建物 が多 くな る 点 が注 目され る。 と ころで,明
らか に柱 を抜取 つ た痕跡 が認 め られた建物 は SB131・ 143。 177到
生 を雪 をと要 与抵
E:昼
子上 写彗百を 移 を§ と 抜 いた痕 跡 の な い ものが多 い。 したがつて,第 1‑2期
の建 物 の多 くは撤去 にあたつて柱 を抜 かず に切 り倒 した とみて よい。15年 ほ どの経年 で は掘立柱 は根 部 が腐朽 して も地上部分の再用V
考察 にみ られ
,建
物 の柱 と重複せ ず廂或は身 舎 内によ くお さま る 位 置 にあ る。 これ ら の小柱穴 は建物 と共 存 し,建
物 内につ くられ た棚のよ うな格 納 施設 か
,あ
るいは この部分 のみ床 を張 つ た もの とみ られ る。格納設備
内部聞仕切
造営単位尺
繭 T I I 中 子
︱
︱
!
上 醒
Fig.13 大 嘗 会 内 院
をθ
掘立柱の再 使用
掘立柱建物 の構造
掘立柱建物 採用の理由
平城宮発掘調査報告
Ⅳ
は可能 で あつて
,そ
れ を第I‑3期
に再 用 した疑 いが濃 い。柱高 を もとの ままに保 つ には,掘
立柱 にす ることをや めて
,礎
石 あ るい は土 居 の上 に柱 を立 てねばな らないが,第
Ⅱ‑3期
の建 物 は掘立柱建 物 と して造 営 され て い る。掘 立柱 と して再 用す るために は,根
部 を切 り取つ た場 合,身
舎 の柱 を廂 の柱 に転 用せ ね ばな らな い。掘 立柱 の地 中に埋 め る部 分 は柱 穴 の平 均値 による と
3尺
にみ たない。*
記 録上掘 立柱建 物 と して知 られ る信楽 にあつ た藤原 豊成 の板 殿 は,長
50尺 広26尺 柱高16尺 の建物 で あ るが
,天
平宝字5年
12月の勘注 には柱 の長 さ20尺と記 されて い るので,掘
立 て た部分 は4尺
と して勘注 してい る。 しか し,天
平 宝字6年
正 月 の造 石 山院所返 抄 に よれ ば,こ
の柱 の実 長 は19尺 となつてお り,現
実 には3尺
よ り掘立てた部分 が なかつた ことが知 られ る。建物 を壊 わす以前 の勘注 の とき
,柱
の長 さを20尺 とみてい るのは掘 立柱 を4尺
ほ ど埋 め るとい う常識 が あつたためで はなか ろ うか。
**掘
立柱建物 を再用す る場 合,柱
を抜 かず に切 りとつて再用す る とす れ ば
, 4尺
ほ ど長 さが短 か くな るわ けで ある。身舎 の柱高 が15尺 前 後 で あつた とすれば,こ
の柱 を廂 に用 い ると,柱
高 と して■尺前後 で再 用 で き る。第 Ⅱ‑3
期 の建 物 には
,廂
部 分 のみ礎石 を用 いたSB211,413の
よ うな建物 もあ る。 これ は廂 の柱 が短 かい ため に掘立柱 にす ることを避 けたので あろ う。SB413の
よ うに,廂
の妻 の柱 のみ掘立柱 に して い るのは構造上考 えた ことで あ ろ う。第 Ⅲ‑3期
の建物 に廂 のあ るものが多 い のは,第
I‑3期
の造営 に当つて,第
Ⅱ‑2期
の部材 を転用 したため,柱
高 が低 くな り,廂
の あ る建物 が 多数 建 て られ たのでなか ろ うか。 第 Ⅱ‑3期
の建物 の柱 間が8尺
前 後 な の は,第
Ⅱ‑2期
の建物 を解体 す る際 の部材 の継手仕 日の損傷 部分 をす てて転用 したため とも考 え られ
,第 I‑3期
の建物 は第 Ⅱ
‑2期
の部材 を再用 した可能性 がつ よい。このよ うな掘立柱 の建物 の構造 が ど うで あつ たか は推測す るほかない。構架 と して は二重虹 梁墓 股・ 叉首 組・束立 の
3種
が考 え られ る。前 にあげた大嘗会 の正殿 は『 儀 式』 か ら簡単 な構 造 で あ る ことが判 る。***
この平面 はSB327の
身舎 と全 く同 じで あ り,構
造 は柱 高10尺,種
長13尺
,椀
(ウタチ)高4尺
とあ り,束
立 となつ てい る。 また信楽 にあつ た藤原豊成殿板殿 も前 掲 の記 録 に宇太 知,宇立,宗立 とそれぞ れ記 され,束
によつ て棟 木 を うけ る構造 で あ る。6ABO
区 の瓦 出土状況 か ら
,こ
の区の建 物 は瓦葺が少 な く,SK217・ 219や
井戸 な どか ら檜皮 の断片 が多量 に出土 してい るので,多
くは檜皮 葺 あ るい は板 葺 のよ うな軽 い屋根 で あつ た と思 われ る。第
I‑2期
の造営のよ うに大量生産 的な造営 を考慮 す ると,建
物 の構造 も簡単 で あつ た ろ う。梁 に束 を立て棟 を支 え
,桁
も柱 に直接 の る斗棋 のない構造 で あつたろ うと推 測 され る。料**官 衡建物 が掘立柱建物 で あ る理 由 は何 で あろ うか。掘立柱 で も礎石 を用 いて も平 面 で は異 な る ことがない。礎石 が大陸風
,掘
立柱 が和風 とす る従来の考え方 も,官
行建 物 が和 風 で なけれ ばな らない必然性 はない。*****
む しろ,掘
立柱使用 による建物 の造営 は,そ
の建 物 の使用 目的 に関係 す るので な く
,技
術 や構造 に関係す るもの と考 え たい。礎石 の建 物 と掘 立柱建 物 の得 失 を検討 してみ よ う。平 城 宮 内の諸建 物 をすべ て瓦葺 にす るには,瓦
の所要量 は莫大 にな り,一般 の官行建物 まで葺 くほ ど生産 は不可能 で あつ た ろ う。 そのため
,官
行建 物 は檜 皮 葺 も し く*
現状では1日地表が削平されているので,実際の柱穴 は3尺くらいと考えられる。** 勘注北殿板葺屋一宇(天平宝字5。12.23)『大 日古』4。
造石山院所返抄(天平宝字 6.正.15)『大 日古』15。
造石山院所解案(天平宝字 6.聞12.29)『大 日古』16。
群*五間正殿一宇
長四丈
広一丈六尺
柱高一丈
稼
σ0
長一丈三尺
以葛野席覆共上
擁高四尺
以北三聞為
室
南戸
蔀席
以南二聞為堂。
**** 隅のみは柱上に肘木をのせるかもしれない。
*****法 隆寺束院の夢殿・伝法堂をのぞ く堂舎は当初掘 立柱建物であつた。
V
考 察は板 葺 にせ ざ るをえなかつた と思われ る。 ところで
,寺
院建 築 にみ られ る古代 の建造物 は,柱
上 に斗 棋 を設 け
,桁
。梁 を架 けて屋根を支 え る方式で あつて,軸
部 は頭貫 のほか に柱 をつ な ぐ 貫 材 が な く,勿
論筋違 い も使 わ れて いない。壁 間渡材 を のぞ くと横 の連結材 は外 か らうちつ け た長押 のみ といつて も過言でない。 したがつて,礎
石 上 に建 て られ る建 物 は,柱
上 部 のみが連 結 され るだ けで,壁
体 が なけれ ば水平方 向 の力 に対 して甚 だ脆 弱 で あ り,屋
根上 の瓦 の荷 重 に よつ て水平 方 向の力 にたえなければな らない。 ところが掘立柱 の場合 は,柱
が一本ずつ固定 さ れ て い るた め堅 固な壁 をつ くらず にすむ し,ま
た屋根 に よる荷重 も大 で あ る必要 もな く,檜
皮・ 板 の よ うに軽 い材料 を葺材 に使用で きる。 これは また柱 の径 が小 さ くてすむ利点が ある。* さ らに身舎 のみの梁 間
2間
の建物 にみ られ がちなね じれ も防止 で きる。造営 の際の立柱 も礎石 にたつ建 物 よ り容易 で あ る。以上 の点 を考 えれ ば,官
行建物 が掘立柱 の建物で あつた とい うこ とは,屋
根 葺材料 が容易 に入 手 で き,ま
た施工 も簡単 で ある ことに求 め られ よ う。部材 を統一 して,大
量生 産 によつて建設 す る事情 を考慮 すれ ば,掘
立柱建物 は,多
数 の建 物 の造 営 に あた つ て,章
時 必 然 的 に要求 され た構造 方法 の所産 で あつ た とみ られ るので あ る。2遺
物A SE311・ 272出
上 の 遺 物 とそ の 年 代Sa311と SE272の
井戸 か らは,多
様 な遺T/oを発見 した。 その大部分 は,上
器や木製 品 の多 くの よ うに 日用雑器 の類 だが,な
か には特殊 な用途 が考 え られて,井
戸 か ら出土す る ことに意 味 が あ るの でな いか と推定 され るものが あ る。 その各 々につ いて は,今
後 の研究 にまつべ き点 が多 く,多
方面 の研究者 の協力 をえて解 決せ ねばな らな い重 要 な問題 を合 んで い る。 ここで は, そ の よ うな特殊 な遺物 を列記 してお こう。SE311は ,上
下2層になつ て遺構 があ り,そ
の各 々か ら遺物 を検 出 した。 下層 のSE31lA
の遺物 で は
,人
形 と斎 串 と仮称 した木製 品 を特殊 な もの と して あげ る ことがで きる。人形 は男 性 の五 体 を刻 み,顔
をえが き,腹
背 に文字 を書 き,日
と胸 に木釘 を打 つてお り,明
らか に呪証 を 目的 と した ものであ る。賊盗律 の厭魅条 にみえ る厭魅 をつ くる所業 には,こ
の種 の呪証 の人 形 をつ くる こともはい るので あ ろ う。売 串 は,こ
れ まで各地 の井戸遺構 か ら出土 した例 も多 い が,井
戸 以外 の遺構 か らも出土す る。 この形 態 は中臣 の寿詞 にみえ る「 玉 櫛を束1立て」 る行為 にふ さわ し く,祭
祀行為 に密接 に関連す る遺物 で あろ う。上 層 の
SE31lBで
は,陽
物 をかた どつた木製 品 と斎 串のほかに,
土 馬が2点 ,人
面 をえが いた皿形 の上 師器 が2点
あ る。土馬が祭祀 に関係 し,井
戸 出上 の ものが降雨 湧水 の祈願 と関連 す る ことは多 くの人 々の指摘 す るところで あ る。 陽物 をか た どつ た木製 品 も この種 の祭祀 に関 係 があ るのだ ろ うか。人面 を墨書 した土器 は,多
賀 城 付 近 出土 例 を最 北端 に南 は佐賀市 出土 例 まで あ る。 その多 くは奈良時代 あ るいは平安 時代初期 の もので あつて,壺
また は鎌 の器形 の体 部側面 に複 数 の人面 を画 くのを通則 と して い る。本 例 の よ うに皿 に画 いた もの は例外 的な よ う で あ る。多数 出上 した他 の墨書土器 では,判
読 の可能 な ものが少 な いが,「奉 載 …」 と読 め る高井戸 出上の 特殊遣物
井戸 と祭祀
* 6ABO区
で出土 した掘立柱柱根は最大のものでも33cmほどで,寺院の柱に比べると細い。井戸出土遺 物の重要性
遺物埋没の 過程 と年代
平城宮発掘調査報告
Ⅳ
杯 の よ うに単 に習書 落書 とお もえぬ ものが あ る。
SE272Bで
は,斎
串を あ げ うる程度 で あ るが,以
上3個所 の井戸 を通 じて,櫛
が多数 あつた ことと銅銭 の出土 もやや特殊 な現象 と して指摘 で きよ う。 しか し,そ
の意義 を解 明す るまでに はいたつて いな い。SE311と SE272の
井戸 は,こ
こに述べ た よ うな特殊な遺物 の存在 のみで な く,土
器 や木器。金属器のよ うな 日常雑器が多量に出土 し
,出
土 状況 か らその年代推定 が可能 であつて,こ
れ ら遺物 の編年・研究 の規準 にな る点 も重要 な ことで あ る。遺構 の考察 で述べた よ うに
,こ
の両井戸 はSE168と
ともに,こ
の地域 が官行 の一地域 と し て整備 された第I‑1期
す な わ ち天平 末年 頃 に創設 された と推定 で き る。 井戸 はその後 に も存 続 したのであ り,遺
物 の埋 没年 代 は創設年 代 とは別 で あ る。 これ まで平 城 官 の調査 で発 見 した 大形 の井戸 は6個
所 あ るが,
この2個
所 以外 は遺物 を ほとん ど とどめな い ほ ど丁寧 に清掃 がゆ き とどいて い る。 この2個
所 の井戸 も,使
用 中は清浄 に して いた ものが,使
用 が 中絶す るか,終 了 した時点 で遺物 が混入埋 没 した もの と考 え られ る。遺物 の 出土状況 か ら
,そ
の埋 没 の過程 を復原 し,年
代 を推定 して み よ う。SE31lAの
遺物 は底 の礫敷上 か らひ とま とま りになつて 出上 し,遺
物 直 上 か ら泥上 が堆積 し,同
Bと
の間 の泥土 には遺物 の混入 も,層
位 的な所見 も,
攪乱 も認 め られな い。泥上 の堆積 は 井戸 の使 用断絶 によ るもの と推 定 され
,そ
れ はおそ ら く平城 京か ら長岡京へ の遷都 によ る使用 既絶 であろ う。遺物 は,使
用 中最後 の井戸 の清掃か ら遷都すなわ ち延暦3年
ごろまでの間 にお ち こんだ もの と推定 で き る。SE31lAの
遺物 は奈良時代最末期 の もの といえ る。SE31lBは
おそ ら くくち はろびていたSE31lAの
井戸枠 の上部 を撤 去 し,泥
上 の堆積 をあ る程度 さ らえ,そ
の 内に一 まわ り小 さ く井戸枠 を組 みかえた ものであ る。遺物 は,底
部 に一層 になつて,落
葉 の よ うな 自然 遺物 とともに厚 さ15cmほ
どに堆積 してお り,あ
たか も一時 に投 入 した よ うな状況 で あつ て,遺
物 の間 には泥土 も少 な く,層
位 的な所見 も認 め られなかつた。この
B井
戸 の改造 は,平
城 上 皇 の平城還都 に結 びつ く。 井戸 を放棄 し,
異 物 を多量 に投 入 し た よ うな事態 の発生 は,平
城 上 皇 の崩御(天長 2年)に
よつて生 じた平城 宮 の完全 な放棄 によ る ので あろ う。 したがつて,SE31lBの
遠物 は,天
長2年
後 の短期 間 に投 入 され た もの と推定 で き る。 この上下 の井戸 の遺物埋 没年代 は,伴
出銭貨 と木簡 の推定年代 とも矛盾 しない。SE272Bで
は,遺
物 は底 面 直上 か ら始 まつ て現存 す る井戸 枠 の最 下1段
付 近 の厚 さ約50cm
ほどの泥土 中に散在 して いた。底面近 くで承和 昌宝 が発見 されてお り
,泥
上 の堆積 は,お
そ らく平城上皇崩御後 に始 まつた ものであろ う。遺物 は
,SE31lBと
違 つて,天
長2年
以後 の泥土 堆積 中のあ る幅 を もつ た期 間 中 にお ち こん だ もので あ ろ う。 この推定 は,次
節 で述 べ るよ うに 遺物 と くに土器 の観察 か らす る結論 とも一致 してい る。SE272Bの
遺物埋 没 の下 限を決定 す るには現在 では何 らの拠 り所 もな い。
B
平 安 時 代 初 期 の 上 器平安初期の
報 告 した土 瀑 群 で は
,質
量 と もに SE31lB o SE272B o SK234等出上 の3土
器 群 が最 も顕 署 土器な もので あ る。 前 節 で述 べ た よ うに