リターン号事件と一七世紀後半の国際関係
その他のタイトル The Return case in the context of European mercantilism
著者 朝治 啓三
雑誌名 関西大学東西学術研究所紀要
巻 39
ページ 49‑65
発行年 2006‑04‑01
URL http://hdl.handle.net/10112/12588
リターン号事件と一七枇紀後半の国際関係
一六七︱︱一年夏に長崎に入港したイングランド船リターン号を饒る
諸事件については︑これまでにかなりの数の研究論文が公にされ︑
様々な角度から考察が加えられてきた︒その結果︑入港から出港ま
(2 )
での事実関係の同定︑リターン号派遣に至るイングランド側の事
情︑徳川幕府にイングランドとの貿易再開を思いとどまらせたオラ
(4 )
︵5
)
ンダ側のエ作︑長崎港の防備体制の実態︑さらにはこの事件に関す
(8 ) (6 )
る幕府や九州諸藩の史料やイングランド︑オランダ両政府の史料︑
( 9)
また両国の東インド会社の史料についての詳細な研究成果が生み出
された︒個々の事実関係については︑細部において議論の余地が残
( 10 )
るとはいえ︑大まかな事実認識についてはほぼ共通認識が形成され
ているというのが︑リターン号事件研究の現状であろう︒
これを受けて本稿では︑それらの成果を踏まえて︑これまであま
り注目されてこなかった角度から︑この事件を考察する︒それは広
リターン号事件と一七世紀後半の国際関係 はじめに
四九
く言えば国際環境から見たこの事件の歴史的意義を考察するもので
あり︑狭い意味ではイングランド政府やイングランド東インド会社
から見た対日貿易の意義を饒る考察である︒論点は国際政治や国内
( 11 )
政治︑国内経済やヨーロッパ・アジア・アメリカを視野に入れた国
( 1 2 ) ( 1 3 )
︵1 4 )
︵1 5 )
︵1 6 )
︵1 7
)
際経済︑会社経営︑国防︑戦闘︑重商主義︑植民地経営︑さらには
( 18 )
カトリックとプロテスタントとの宗教抗争など︑非常に多くの方面
に関わるものなので︑とても一論文では語り尽くせるものではな
い︒したがって本稿では︑諸論点のうち筆者がこれまでに調査し得
た論点についてのみ︑先行研究を整理する形で論を進め︑これまで
( 19 )
手を付けてこられなかった角度からのこの事件の考察を行う︒
注(
l)
木村直樹﹁一七世紀中葉幕藩制国家の異国船体策﹂﹃史学雑誌﹄一0
九ー
︱一
︑二
00
0年︒岩生成一﹁日本の歴史鎖国﹄中央公論社︑
一九六六年︒中村質編﹃鎖国と国際関係﹂吉川弘文館︑一九九七年︒
ロナルド・トビ﹃近代日本の国家形成と外交﹄創文社︑一九九一年︒
朝
治
啓
( 2 ) 木村直樹二七世紀後半の幕藩権力と対外関係ー一六七三年リター
ン号事件をめぐって﹂﹃ぎんせい﹄︱
iO
︑一九九八年︒
(3 ) バーチャー﹁イギリスの平戸商館と極東政策﹂中村編﹃鎖国と国際 関係﹄吉川弘文館︑一九九七年︒ろじゃめいちん﹁江戸時代を見た英
国人
﹄ PHP
︑一九八四年︒
( 4
) 永積洋子﹁十七世紀後半の情報と通詞﹂﹃史学﹄六
0
四︑一九九‑
一 年
︒
( 5
) 松尾晋一﹁リターン号事件に見る幕藩制国家の沿岸警備体制﹂﹃日
本史研究﹄四八一︑二
0
︱ 一 0
年 ︒ (6 ) 清水紘一﹁リターン号関係日本側史料について﹂﹁
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ミミ
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w
日英交渉史料延宝元年﹄日英文化交渉史研究会︑一九
七八
年︒
( 7
) 武藤長蔵﹃日英交通史之研究﹄内外出版︑一九四二年︒島田孝右
﹁リターン号﹃日本日記﹄一︑︱‑﹂﹃専修商学論集﹄七四︑︱
10 01
︱
年︒
七八
11 00 四年︒同﹁リターン号の記録﹃日本日記﹄の諸写本
および印刷本について一︑︱‑﹂﹁専修商学論集﹄五八︑一九九四年︒
六六︑一九九八年︒ろじゃ・めいちん池田豊子訳﹁延宝元年英国船 リターン号の日本渡航についてー鎖国との関わりを中心として﹂﹃京 都外大研究論叢﹄一六︑一九七六年︒同﹁一六七三年英国船リターン 号来日関係史料ー文献と翻訳﹂
CO SM IC A, X︑一九八
0
年 ︒ Ro ge r Ma ch in ,
﹃菱
ミミ
, of e R tu rn 日英交渉史の一場面に幕が下りる﹄日英
文化交渉史研究会︑一九七八年︒
(8 ) 永積昭﹃オランダ東インド会社﹄講談社学術文庫︑二
000
年︒永
積洋子編﹃鎖国を見直す﹄山川出版社︑一九九九年︒
( 9
)
永積洋子﹃平戸オランダ商館日記﹄講談社学術文庫︑一^
000 年 ︒ 科野孝蔵﹃オランダ東インド会社﹄同文館出版︑同﹃オランダ東イン ド会社の歴史﹄同文館出版︑浅田実﹃商業革命と東インド貿易﹄法律 文化社︑一九八四年︒西村孝夫﹃イギリス東インド会社史論﹄啓文
社︑一九六六年︒
( 1 0 )
一例を挙げておく︒永積洋子﹁十七世紀後半の情報と通詞﹂﹃史学﹄
六0
ー四︑一九九一年によれば︑リターン号事件における︑幕府のイ ギリス情報収集力ついて肯定的解釈が示されているが︑それは事実と 合致するのであろうか︒﹁大局的には日本側がイギリス人の話を正確 に理解していたことは明らかである﹂(‑八頁︶と結論されている︒
長崎奉行や徳川幕閣が通詞を通してオランダ風説書の内容や︑デルボ ー船長とのやり取りを﹁正確に﹂把握していたとしても︑そのことが 直ちに︑当時のヨーロッパ情勢やイングランド・オランダ関係を正確 に認識することにはならないであろう︒偏った情報や意図的悪意を見
抜くにはさらに別の情報が必要であったであろう︒
( 1 1 ) 沼田次郎編﹃オランダとインドネシア﹄山川出版社︑一九八六年︒
( 1 2 ) D . M a s s a r e l l a ,
A
Wo rl d El se wh er e: E ur op e' s En co un te r
互
t h Ja pa n i n t h e S箆 te en th an d S e思
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Ne w Haven, 1 9 9 0
川勝平太﹃日本文明と近代西洋﹄日本放送出版協会︑一九九一.
年︒濱下武志︑川勝平太編﹃アジア交易圏と日本工業化一五
0
0│
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九
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0﹄リブロポート︑一九九一年︒ウォーラーステイン︑川北稔訳
﹃近代槻界システム﹄名古屋大学出版会︑一九九三年︒
( 1 3 ) 科野孝蔵﹃栄光から崩壊ヘオランダ東インド会社盛衰史﹄同文館
出版︑一九九三年︒
( 1 4 ) P i e t e r G a y l T, he Ne th er la nd s i n t h e 17 th CL,nodno e,yrutn
1 9 6 4
; D o . ,
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an ge a nd S tu ar t "] 64 ]̲ 7焚
Lo nd on , 1 9 6 9
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ミ蕊
mo jo rg ge
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塁 色
sh Op po si ti on , O xf o r d, 1 9 5 3 . ( 1 5 )
小野雄一﹃リヴァイアサンの海﹄文芸社︑︱
10
0三年︒松浦章﹃中
国の海賊﹄東方書店︑一九九五年︒
J . R . J o n e s , A ng lo , D ut ch a W rs of t h e Se ve nt ee nt h C en tu
至
Lo nd on , 1 9 9 6 .
( 1 6 )
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5compミ呈
1 1
v o l s .
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]668‑70,
9 2 1 9 ; 16 71
‑7 3, 9 1 32 ) ( 1 7 ) 浅田実﹁イギリス東インド会社とインド成金﹄ミネルヴァ書房︑ニ 0 0
一 年
︒
五〇
は東インドに対する新しい動きを見せ始める︒中国と日本に向けて 船を出そうという提案である︒クロムウェルから日本将軍宛の信任 状など出航の準備も始まったが︑オランダとの戦争再開の噂が流れ
(3 )
て︑沙汰止みとなった︒王政復古後の一六六一年になって︑東イン ドでの勤務経験のある
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Br ow ne ブラウンが副理事
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チェムバレンに手紙を送り︑対日貿易再開の明るい見n
リターン号事件と一七世紀後半の国際関係
﹁独占﹂政策は維持された︒
一六五八年九月になって漸く︑首脳部
五
マサレラに拠れば︑役員等は幕府が がヽ 一六五八年以後のイングランド東インド会
社による対日貿易再開計画作成とその実施について︑事実関係を簡 略に示しておく︒
ピューリタン革命中に東インド会社取締役会
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t では﹁体制
派 ﹂ e s t a b l i s h e d
商人と新商人
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s との主導権争いが
起こり︑後者の代表とも言うべきモーリス・トムスン
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一六五七年に会社の理事
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に就任した︵クロムウェル
の改組︶︒しかしその後も体制派商人の勢力は維持され︑いわゆる
マサレラに拠りつつ︑
1
リターン号の日本派遣に至るイングランド側の事実経過
( 1 8 )
岩井淳﹁革命の時代﹂川北稔﹃世界各国史
社︑一九九八年︒(19)紙屋敦之•木村直也編『海禁と鎖国』東京堂出版、二00二年。 イギリス史﹄山川出版
(4 )
通しについて進百した︒しかしこれでも再開には至らなかった︒
(5 )
六六八年五月二二日︑日本での勤務経験のあるという船長
R o
b e
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Bo we
nバウエンからの情報を採用して︑取締役会は対日貿易再開
(6 )
委員会を設置したという︒しかしブラウンの手紙の内容から判断し 一六六三\六四年当時の取締役会の意思は︑イングランド産の 毛織物を日本に売ることを対日貿易策の主目的にしようという新商 人の思惑とは異なる︒対価として日本から金銀銅の貴金属を引き出 そうとしている点は︑同じ頃のオランダ東インド会社の方針と共通 である︒ところが同じ頃日本では幕府が︑銀の輸出禁止政策を打ち 出し︑オランダ東インド会社もこれを守らされ︑その後は銀にかわ って金含有の小判が日本から持ち出された︒さらにその後は︑小判 にかわって銅が支払い手段とされた︒オランダにとってはヨーロッ パではスウェーデン銅よりも日本銅の評価が少し高かったので︑貿
(8 )
易を続ける意味があった︒一六六八年時点でイングランド東インド 会社取締役会が︑日本の銀輸出禁止策への変更を知っていたのか否 かは興味あるところであるが︑
毛織物など贅沢品の輸入を制限する決定していたことは知らなかっ
(9 )
た︑と見なしている︒同年一0月に再びバウエン等を聴聞した結
果︑東インド経験のある
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c k
w e
l l
ハックウェルが﹁
b r
o a
d c
l o
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広幅
( 10 )
織物﹂が売れるとの情報をもたらした︒従来構想していたのは絹や 鹿皮など東洋の物産を運んで︑日本から貴金属を引き出す貿易であ
ったが︑このとき以後イングランド産毛織物輸出が対日貿易商品に て ︑
社も日本向け絹の入手地を︑ベンガル︑トンキンヘと変え︑
一六
五
なる可能性が出てきたことになる︒新商人の影響の現れと見なすべ
( 11 )
きかもしれないが︑それには慎重な学説もある︒
一六七一年六月取締役会は︑台湾および日本に向けてアドヴァン ス号を派遣する決定を下した︒積みには広幅毛織物︑ガラス︑ナイ フ︑はさみ︑蝋などであった︒しかし船はバンタムに到着出来なか った︒日本航海に好都合な季節風はすぎてしまっていたのだ︒バン タムのイングランド会社の代理人は既に前年に台湾調査を行ってお り︑代理人に拠れば︑オランダを一六六一\二年に台湾から追い出 した鄭成功︵国姓爺
C o
x i
n g
a )
の後継者
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wからの﹁誘い﹂に基
づいて︑予備交渉をしたのであるといい︑既に前年一六七
0年八月
に二隻の船を台湾向けに出航させ︑その地の﹁王﹂鄭
Ch en
氏からg
( 12 )
好意的に受け入れられたと報告した︒しかし台湾の鄭氏は︑外国船 を自己の利益のために利用しようとしていたことは明らかである︒
というのは一六六
0年代︑中国本土と台湾そして日本を結ぶ海域は
政治的対立のため無法状態になっていたので︑安全な貿易が行われ る状況ではなかったからである︒鄭氏は一六六
0年代には外国船が
運ぶマニラやアンナン経由の絹と台湾産の砂糖を日本へ運び︑長崎 港における中国本土からの船数を激減させた︒オランダ東インド会 六\七二年には会社の対日貿易用絹はベンガル産が八
0%を占めて
( 13 )
︑ ア
︶
0し
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このような状況の中でバンタムの代理人は︑バンタムのスルタン
られバタヴィアヘ連れて行かれた︒ ンタムからの航海中に︑
︱一月一九日︑オランダ船によってとらえ
︵ 安
平 ︶
ではな
‑v Po ko
oに商館を建てた︒このときヨー
一六
の言葉にも作用されて︑対日貿易再開の明るい見通しの情報を︑
六六九年九月にイングランド本国の取締役会へ送ったのである︒
六七一年八月には取締役会はバンタムの代理人に対し︑台湾貿易を
進め
︑ アドヴァンス号がおさめたはずの貿易の成果を後押しするた め︑新たに船を派遣すると伝えた︒実際にはアドヴァンス号は台湾 ではなくペルシャに到着していた︒イングランドヘは情報が正確か つ迅速には伝わっていなかったのであろうか︒いずれにせよ一六七 一年九月には東インド向けにリターン号︑エクスペリメント号︑ザ
( 15 )
ント号の三隻をロンドンから出航させた︒積み荷のうち五ニパーセ ントは広幅毛織物で︑他に水銀︑鉛︑辰砂
c i
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( 鮮紅色鉱物︶
( 16 )
であった︒携えていった書類は日本の将軍宛のイングランド国王か
らの
手紙
で︑
スペイン語とポルトガル語とで書かれていた︒
二年七月二五日付で平戸商館所蔵のもののコピーであったという が︑朱印状そのものではなく貿易請願書の写しであった︒東インド
( 17 )
会社側は貿易許可が下りることには楽観的であった︒通訳をバンタ ムで雇い︑台湾ではその王から日本向けの紹介状を手に入れるよう にも指ホした︒リターン号は一六七二年七月一六日台湾に到着し︑
タイオワン
ロッパでは第三次英蘭戦争が始まっており︑イングランドとオラン
ダとは戦闘中であったため︑
エクスペリメント号とザント号とはバ
五
リターン号だけが一六七一二年六月一
0日に台湾を出航し︑同月二
た︒日本側は既にオランダから英船接近情報を得ており︑港は警備 されていた︒上述の請願書のコピーを見せたが貿易許可状ではない といわれた︒英語を解す日本人通訳がおらず︑
( 18 )
ダ語で会話した︒その後デルボー船長は日本の幕府から︑英国王チ ャールズニ世がカトリック国の王女ポルトガルのカタリナと結婚し ていること︑および長年の通商関係の不在を理由に︑貿易再開申し 込みが拒否されたとの知らせを受け︑八月二七日︵日本暦では七月
( 19 )
二七日︶︑リターン号は長崎を離れた︒だがイングランド東インド 会社取締役会は︑この知らせを受けた後もバンタム王や台湾王の援
助を得て︑再度日本に働きかけるようバンタムの代理人に指示し
だ︒実際一六七五年にもバンタムから台湾へと船を送り出した︒役 員たちはイングランド国内の広幅毛織物業者からの庶民院への請願
︵自由貿易を要求し︑独占に反対の主張︶
に対して︑独占が必ずし
もイングランド経済にとって悪とはいえず︑かえって効率的である
( 21 )
と主張した︒その後も日本向けに毛織物貿易を進めるよう︑バンタ ムなどの商館宛てに指示を出しているが︑失敗したとの返答が来た のみであった︒ウィリアム三世時代になって漸くこの種の試みはな
( 22 )
くな
る︒
リターン号事件と一七世紀後半の国際関係 九日︵日本暦では五月二五日︶午前
スペイン語とオラン
一時頃︑小雨の長崎港に入っ
五
M as s a re l l a, De re ,k
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Ha ve n.
この書の主たる史料は東インド会社の取締役会議事録要約集
Ca l 塁
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es e t c . o f t he E as t I nd ia C om pa ny , Ox fo rd
(
以下
CC M)
であるので︑議論の詳細を知ることや︑決定が実
行されたのか否かを確かめることは出来ない︒
(2 )C (a el
ミd
ar oD C( ou rt )M
n u ( i t es ) , 1 65 5‑ 59 , pp .2 81 , 3 , 2 8 6 , 29 0, 3 00 .
( 3
)
Ma ss ar el la
ミ
c i t p . . p . 3 48 .
( 4
)
I nd i a O f f ic e Reco rd s, / 2 G 1 /4 .
( 5
) イングランドの日付はこの時点ではユリウス暦である︒以下同じ︒
( 6
)
CC M, 16 55
‑5 9, pp .2 82 , 5 ; 1 66 8‑ 70 , p . 10 5 .
( 7
)
彼はアユタヤに商館を設置し︑絹や鹿皮などを仕入れて日本へ遥ぶ
よう勧めている︒
M as s a re l l a, p .3 4 9 .
これはある程度︑オランダの東
インド貿易に似た種類の仲介取引型の貿易である︒オランダは中国や トンキンからの絹製品搬入に重点をおいていた︒
( 8
)
K , Gl am an n, u D tc h A si
a葛
Tr ad e, Co pe
己
ag en , 9 1 57 , p p. 57 '9
﹂6 3 .
と
はいえ貿易贔の点ではオランダは清に大きく差を付けられていた︒鈴
木康子﹃近世日蘭貿易史の研究﹄思文閣出版︑二
0
四年第四章参0
照 ︒
( 9
)
M as s a re l l a, p. 35 1, . 7 n 9 .
( 1 0 )
s s M a a re l l a, p. 35 1, . 8 n 2 .
取締役会の面前で別の報告者が︑一六二三
年の平戸商館閉鎖前に対日債権が未回収であるであるとの﹁情報﹂を
もたらした︒﹁事実調べ﹂をした結果︑二四
0
0ポンドの債権がある
という結論に達し︑貿易再開の意見を後押ししたという︒
o p . c i t . , p .3 5 2 . b ro ad cl ot h, o w ol le
n紡毛製品については船山栄一﹃イギリスに
おける経済構成の転換﹄未来社︑一九六七年︑一︱‑│︱五頁︑および 同﹁イギリス貿易の展開﹂︑大塚久雄絹﹃西洋経済史﹄筑摩書房︑
注(
1
九七七年︑一〇九頁参照︒
( 1 1 ) 川勝平太﹃日本文明と近代西洋﹄五︱︱
‑ I
五四頁︒
J. R. Jo ne s, Th e Aミ gl o, D ut ch Wa rs of h t e S ev en te en th Cen tu ry , Lo nd on , 1 99 6, p. 82 .
( 1 2 )
マサレラの記述は
CC M, 16 71 ,7
竺
p .v i
の記述とはかみ合わない︒一i
六七0
年八月に送り出された一一隻とはバンタム・ピンク号とパール号 である︒そのバンタム・ピンク号は翌一六七一年六月にクラウン号と 共に台湾そして日本に向けて出航した︒
CC M, 16 71
‑7 3, i i i v . Ma ss ar ella,
p. 35 2, n. 86
; I OR , E/3/30,
o n .3 34 0. この箇所は日本人研 究者によってもたびたび引用されているが︑マサレラは︑この﹁誘 い﹂は必ずしもイングランドを特定して台湾に招いたものではなく︑
またその出所も明らかではないと注記している︒
p. 35 3.
( 1 3 ) マサレラはこの数字が一六七三年には七五%へと下がったのは︑イ ングランド東インド会社が参入したせいであると見なしているが︑証
拠は
ない
︒ Ma ss ar el la ,p .354.
( 1 4 )
Ma ss ar el la , p .3 55 . この箇所もマサレラの記述は
CCM
とは食い違って いる︒マサレラは四月に決定したとしているが︑
CC M, 16 71
‑7 3, p, v i i i では︑一六七一年八月と記されている︒
( 1 5 )
CC M, 16 71
‑7 3, p. v i i i .
( 1 6 )
Ma ss ar
戸
ep. 35 6.
なお前注
( 1 0 ) 参照︒船山氏に拠れば広幅折り毛 織物 br oa dc lo th , wo ol en は厚手で値も高く︑南欧では捌けなかったた め︑一七世紀前半には杭毛織物
wo rs te
に取って代わられつつあったd
という︒またこの工業ではイングランドとオランダは競争関係にあっ
t こ °
( 1 7 )
Ma ss ar el la , p .3 57
; I OR E/3/87,
f翌 36
‑3 7, 23 5‑ 24 lv , 2 41
く‑
24 3v
( 1 8 )
Ma ss ar el la, pp .3 57
1 363.
マサレラは日本がオランダに特権を与えた 事実はないと述べているが︑判断根拠を示していない︒またオランダ 東インド会社は︑イングランドに不利な判断を下すよう長崎奉行に賄 賂 を 送 っ た と の 噂 が あ っ た と い う
︒ Pu bl ic Re co rd Of f i ce , Lo nd on , C0 /7 7/ 12, f2 60 v; O I R G/12/4,
p. 10 4.
ド会社は一度も欠損を出しておらず︑その結果大量の貴金属が日本 なかったので︑
アジア内で調達したのである︒日闇貿易では東イン
よる利益を上げた︒中国本土からバタヴィアヘのジャンクによって 絹製品を入手し︑東南アジアからの鹿皮や︑台湾産の砂糖を日本へ 運んだ︒対価として会社が日本から得たものは金銀銅などの貴金属 類であった︒この構図は会社がヨーロッパヘ送るべき香辛料の支払
したものであった︒オランダは輸入品に見合う自国製の商品を持た いに充てられるものを︑
アジア圏で調達すべく努力した結果︑実現
モルッカなどに商館をおいて︑ が禁止された結果︑
ヨーロッパ諸国の中ではオランダだけが日本の
t
こ °2
( 1 9 )
Ro ge r M ac
芦h
Re tu rn of th e Retu rn , C OS MI CA , X , 19 80 , p .1 7;
松尾
晋一﹁リターン号事件に見る幕藩制国家の沿岸警備体制﹂﹃日本史研
究﹄四八一︑二
0
0二年︑五五頁︒
( 2 0 )
Ma ss ar el la , p .3 63
; I OR E/3/7,
f f 26 0v
, 261;
E/ 3/ 88 , f 6 8.
( 2 1 )
Ma ss ar el la , p. 36 4; I OR ,
Home M
i sc . 3, 92,
pp .2 95
, 3
23
; E/ 3/ 90 , f 14 ; CC M, 16 74
‑7 6, pp.xx‑xxi.
( 2 2 )
Ma ss ar el la, . p 36 5.
オランダの対日貿易の推移 一六三五年に日本人の海外渡航が禁止されて朱印船貿易が途絶え 一六三九年七月のいわゆる鎖国令により︑ポルトガル船の来航 幕府主導による貿易の相手国となった︒東インドにおけるオランダ
の拠点はジャワ島のバタヴィアであり︑日本の他︑台湾︑シャム︑
アジアの物資を輸送して仲介貿易に
五四
このオランダの競争相手は福建省出身の鄭氏であった︒オランダ 東インド会社は一六四一年までに台湾からスペイン勢力を追放し
た︒オランダ東インド会社商館が︑
島への移動を命じられた頃から︑鄭氏の一派︵鄭子龍︶が中国から
(2 )
の絹製品の輸送を独占し始めた︒史龍の子︑鄭成功の船とオランダ
の船とが貿易競争し︑紛争を繰り返した後︑
イオワンに上陸してオランダの拠点ゼーランディア城を占領し︑
六六二年初めまでにオランダ人を追放した︒鄭成功は同年死亡する
がその一族が引き続き日本への絹製品搬入の主導権握っていた︒三
ることにより︑台湾が優勢な時代は終わり︑日本へは清朝からの船
が来航することになった︒永積洋子に拠れば一六八五年以後︑オラ
( 3)
ンダ船は貿易では従属的な地位を占めるにすぎなくなるという︒
このように一七世紀オランダ東インド会社の対日貿易は︑東イン
ド圏内での物資の輸送による仲介利益の獲得と︑日本からの金銀銅
の獲得︑オランダヘの香辛料の積み出しに特徴があった︒ところが
オランダの優位は一八世紀には様変わりする︒ヨーロッパにおける
(4 )
胡椒をはじめとする香辛料価格が下がり始めたのである︒オランダ
リターン号事件と一七世紀後半の国際関係
藩の乱鎮圧後︑展洵令が出され︑一六八三年に鄭氏が清朝に婦順す 一六六一年鄭成功はタ 一六四一年に平戸から長崎・出
f
こ ° たので
︑
一六
八
0年代までが︑上記の構図による貿易の盛期であっ から持ち出された︒その期間は一六六八年に銀輸出が禁止されるまで続き︑その後︑金・小判や銅の持ち出しも制限されるようになっ
に活路を見いだしたといえよう︒
りヽ
五五
一六
七
会社が輸入額において最高を記録した一六七
0
年を境に︑ロンドンで胡椒価格が下がり始め︑アムステルダム価格も下降した︒さらに
一六
六
0年以後︑ヨーロッパヘの非ヨーロッパ商品の大量流入は︑
本来高額の奢修品であったものの価格全体を下げ始めた︒また例え
けで
はな
く︑
ばアジアからヨーロッパヘ輸入された物品はその地で消費されるだ
(6 )
アメリカ︑西インドなどへ再輸出され始めた︒オラン
ダ東インド会社の貿易収支は一六六六年から一六七二年が最高益の
時期
であ
り︑
一六七四年から赤字の年が現れ︑
(7 )
年赤字となった︒この原因の一っは日本の出島での利益の減少であ
り︑他の一っは東インド貿易の重心のインドヘの移転であり︑そこ
(8 )
でイングランド東インド会社との競争に敗れたことである︒
四年以後インドのコロマンデル海岸でのインド綿製品輸入活動によ
を増
やし
た︒
一六九三年からは毎
一六
八
0年代にかけてイングランド東インド会杜は木綿輸入量
一六七八年のイングランドのコロマンデル海岸への資
金供
給量
は一
二六
0万
フロ
リン
で︑
いていた︒イングランドでのキャラコ輸入熱が裔まった結果であ
(9 )
る︒日本やバンタンからオランダによって閉め出されたイングラン
ド会
社は
︑
二五
0万フロリンのオランダを抜
アジアヘの自国産の毛織物輸出︑アジアからの香辛料や
貴金属の輸入という貿易の構図の転換を追られ︑結果としてインド
一三 八
注(
1 )
永積昭﹁オランダ東インド会社﹄講談社文庫︑二000
年 ︑ 頁 ︒ (2 )
この間のオランダ東インド会社の活動については︑科野孝蔵﹃オラ
ンダ東インド会社の歴史﹄同文館出版︑一九八八年︑同﹃オランダ東
インド会社﹄同文館出版︑一九八四年︑永積昭﹃オランダ東インド会
社﹄︑佐藤弘幸﹁オランダ﹂森田安一編﹃スイス・ベネルクス史﹄山
川出版社︑一九九八年などを参照した︒また台湾の鄭氏の貿易活動等については、永積洋子「一七世紀の東アジア貿易」濱下武志•川勝平
太絹﹃アジア交易圏と日本工業化﹂リブロポート︑一九九一年︑同
﹁鄭史龍父子と日本の鎖国﹂永積洋子絹﹃鎖国を見直す﹂山川出版社︑
一九九九年などを参照した︒
(3 )
永積洋子﹁一七慨紀の東アジア貿易﹂︱二七頁︒
( 4
)
浅田実﹃商業革命と東インド貿易﹂法律文化杜︑一九八四年︑八ー
九頁
︒
( 5
)
浅田前掲書︑八七ー八八︑九三頁︒胡椒の用途︑価格動向について
は︑浅田説と川勝平太説とは異なっている︒﹃日本文明と近代西洋﹄
日本放送出版会︑四一︑ニ︱︱‑̲‑︱一三頁︒科野孝蔵に拠れば︑オラ
ンダ東インド会社の輸入品目と価格を年別に見ると︑一六四八ー五〇
年段階までは金額の多いものから順に︑胡椒︑香辛料︑織物・絹糸・
綿糸︑薬品の順であったが︑一六六八ー七0年段階には織物︑胡椒︑
香辛料の順になった︒一六九八ー一七
0
年段階では織物の比率は五0
四パーセントを超え︑胡椒は︱一.︱‑三パーセントヘと落ちる︒﹃オ
ランダ東インド会社の歴史﹄同文館出版︑一九八八年︑一︱︱頁︒
( 6
)
浅田前掲書︑ニ︱頁︑注︱二︑総輸入額の三一パーセントを再輸出
した
︒
( 7
)
科野前掲書︑一三六頁︒
( 8
)
同書︑一四三頁︒
( 9
)
浅田実﹃イギリス東インド会社とインド成金﹄ミネルヴァ書房︑ニ
0 0
一年︑二九ー三二頁︒
イングランド東インド会社がリターン号を派遣して日英貿易再開 を求めたのに対し︑徳川幕府はオランダからの情報を大いに活用し て︑イングランドからの要求を拒絶したという理解がある︒とする と論点は︑何故幕府がイングランドではなくオランダを選んだのか という点に絞られよう︒オランダが情報をもたらしたことへの好意
( 2)
ある返礼と受け取るべきなのか︒
幕府が貿易再開を拒絶した理由の一っとしての︑チャールズとカ
(3 )
タリナの結婚は口実にすぎないのか︒結論から言えばキリシタン禁 令を背景に︑この結婚という理由を持ち出したとすれば︑それはロ 実であったということになろう︒幕府はイングランドがオランダと 同じく新教国であることは︑平戸に商館があったことから分かるよ うに︑知っていたのであり︑オランダをよしとする一方でイングラ ンドを拒否するのは筋が通らない︒リターン号の船員に踏み絵を実 てポルトガルの影響が及ぶことを心配するなら︑ポルトガ.ルと貿易
関係にあるオランダ船についても同じことがいえよう︒何よりもこ
れが口実にすぎないという証拠は︑リターン号の離日に際してその 施して確認したのであればなおさらである︒イングランドを経由し
3 一七憔紀後半の日本にとっての
オランダとイングランド
五六
リターン号事件と一七世紀後半の国際関係 船長が︑﹁ポルトガル人の王妃が死亡した後であれば︑貿易再閲は可能か﹂と尋ねたところ︑﹁それでも不可である﹂と回答された事
(4 )
実で
ある
︒
オランダが﹁風説書﹂を通じて幕府にヨーロッパの情報︑特に貿
易の競争相手であるイングランドの情報を逐一伝えていたことを︑
各論者とも強調している︒とするとその中に︑オランダのオラニェ
公ウィレム三世が︑イングランド国王チャールズニ世の甥であると
いう事実は伝えられなかったのであろうか︒リターン号が日本に向
かっ
航て
海中
の一
六七
一一
年は
︑
オラニェ公のライバルであったデ・
ウィット兄弟が民衆によって殺されて︑ウィレムがオランダ統治の
( 5)
実権を握り始めていた時である︒因みにオラニェ公家はイングラン
ド王家のステュアート家とは結婚によって深く結びついている︒ウ
イレム三世の父ウィレム一一憔はステュアート家のメアリ︑すなわち
チャールズニ世の妹と結婚しているし︑ウィレム三世自身はリター
ン号事件の四年後にチャールズ一一世の姪であり︑イングランド王ジ
ェイムズの娘であるメアリと結婚した︒その縁でウィレムは一六八
八年にイングランド議会派に招かれてイングランドに上陸し︑名誉
革命後︑イングランド国王ウィリアム三世となるのである︒オラン
ダとイングランドとは︑この当時それぞれの統治者の血縁関係にお
いて密接に繋がっており︑政治的にも宗教的にも区別しがたいとい
(6 )
うのが実情である︒幕府がキリシタン禁令を理由にイングランドを
拒否するなら︑オランダも同じ理由で拒否されねばならないであろ
五七
う︒いうまでもなくそれは貿易の分野である︒ では何故両国は対立していたのか︒あるいは何故日本の幕府は両
同対立の構図で︑リターン号事件に対処したのか︒これに答えるに
は︑両国がライバル関係にあったのはどの分野かを見るべきであろ
注(
1 )
永積洋子﹁一七世紀後半の日本とオランダ﹂同編﹃鎖国を見直す﹄︑
一三ニー︱︱︱︱二頁︒オランダは︑イングランド東インド会社が日本に向
けて船を派遣するという情報を︑一六七0年時点で幕府に知らせたと
いう︒またイングランド国王チャールズニ世がポルトガル王の娘カタ
リナと結婚して︑マカオとゴアがイングランド国エに与えられたが︑
日本人をだますかもしれない︑と注意を喚起したとも報告されてい
る︒リターン号船員に踏み絵をさせる際にもオランダ人が立ち会っ
た︒清水紘一﹁延宝元年英国船リターン号の日本渡航について﹂﹁京
都外国語大学論叢﹄
XVI
︑一九七五年︑一九頁︒木村直樹﹁一七世
紀後半の幕藩権力と対外関係﹂︑二四頁︒
( 2
)
永積前掲論文︑ニニ四頁︒
( 3
)
清水前掲論文︵︱‑八頁︶は中村質﹁島原の乱と鎖国﹂﹃岩波講座日
本歴史﹂第九巻所収が︑口実であるとする説を批判して︑﹁鎖国政策
を深めていた幕府の対外政策の中で示された︱つの回答であった﹂と
し︑キリシタン禁令との関係から︑ポルトガルとの関係をカトリック
の進入路と見なす見解を述べている︒最近では松尾晋一﹁リターン号
事件に見る幕藩制国家の沿岸警備体制﹂︵四六頁︶が︑木村説の要約
として︑﹁長崎奉行岡野はポルトガルとの縁組みが決定的な拒否理由
であると考えたのであろう﹂と推測している︒だが木村の論では力点
は少し違うところに置かれている︒﹁王家同士の縁戚関係そのものが︑
︒ ︑ つ
オランダ東インド会社は一六七
0年代に︑対日貿易を唯一のヨー
ロッパ国として独占し続けようとした︒そこへ割り込もうとしたイ ングランド東インド会社を妨害し︑その思惑は達成された︒この点 の認識では研究者間に異論はないと言えよう︒では何故︑政治的︑
宗教的には親和的な隣国を妨害してまで︑貿易独占をしなければな らなかったのか︒あるいは何故︑日本の幕府はそのオランダの意向 に沿う形で︑イングランドの申し出を拒否したのか︒この論点に対 して木村直樹は次のように述べている︒﹁本国同士の第三次英蘭戦
4
リターン号日本派遣と第三次英蘭戦争
拒否すべき理由となりうるかは検討の余地がある﹂︵三三頁︶︒しかし 次のようにも言う︒﹁ポルトガル人や彼らの文物がイギリスを経由し て日本に流入することを幕閣が警戒したことが︑イギリスとの通商再 開を認めなかった最大の理由であったと考えられる﹂︵三四頁︶︒つま り木村も反ポルトガル政策の背景にカトリック・キリシタンの進入遮
絶があったという認識では前二者と共通である︒
(4 )
Ro ge r Ma ch in ,
葛
pe
rミmentadざミ
ミe t
‑ n ,
Ky ot o, R ic ha rd C oc ks S oc i e ty , 1 97 8, pp.143
‑1 44 .
(5 )
Pi et er Ga y l , Th e N et he rl an ds in th e S ev en te en th Ce nt
ミy ,
Pa rt 2
,
Lo nd on , 1 96 4, pp .1 38
‑1 41
; D o ., Or an ge n a d Stuart,
16 41 '7 g) Lo nd on , pp .3 45 , 6.
佐藤弘幸︑前掲論文︑二六0
ー六
一頁
︒
( 6
) オランダとイングランドの友好あるいは合同の話はこのときが最初 ではなく︑イングランドは共和政下の一六五一年に代表団をオランダ に送って交渉したほどである︒佐藤前掲論文︑二五七ー八頁︒
グランドが戦争に荷担したのは︑
一六
七
0年六月にドーヴァーの密
一方
イン
争の開始によって物理的にイギリスの行動を妨害することが可能に
(2 )
なり﹂︑﹁リターン号も日本出港後に歯獲しようとしていた﹂︒イン グランド東インド会社による対日貿易再開の申し出をオランダが幕 府に拒否させたことと︑第一二次英蘭戦争開始とはどのように関係し 年三月末から四月はじめのいずれかの日にイングランドがオランダ
に宣戦布告をすることによって第三次英蘭戦争が開始されるが︑そ の戦争原因と目されている事件は︑両国の政治上の対立点というよ
(3 )
りも︑貿易上の競争関係に関する小事件の積み重ねである︒ウィレ ム三世はチャールズニ世の甥として戦争回避の努力をした︒オラン ダにとってイングランドは貿易競争の相手でしかないが︑隣国フラ ンスの国王ルイ一四世は同年四月にオランダに宣戦布告し︑両国の 間の地域であるフランドルヘ軍を送り込み︑また帝国領からオラン ダ西部国境へも軍を差し向けて領士を侵略する意図を示した脅威の 源であった︒オランダにとってはイングランドとの競争よりも︑フ ランスのこの侵略の方が遥かに重大であった︒対外的な危機を招い た責任を問われて︑オランダ・ホラント州法律顧間のデ・ウィット と弟は民衆に襲われ殺された︒当時既に終身の軍事指揮官に任命さ
れていたオラニェ公ウィレム一二世が戦争の指揮をとった︒
約により︑財政難に悩むチャールズが︑財政援助と引き替えにルイ
一六七一年にリターン号が日本へ向けて出帆したのち︑
ていたのであろうか︒
五八
一六
七