『成実論大義記』における開善寺智蔵の二諦説
王 征
1.問題の提出
嘉祥吉蔵は,『二諦義』の冒頭の部分において,『二諦義』が十重の分科を組織 して,二諦の理を解釈するのは,十の側面から「梁代三大法師」の一人である開 善寺智蔵の十重二諦説を一つひとつ批判している.本稿は,梁代仏教思想界の二 諦に対する議論を背景として,船山徹が収集した智蔵 『成実論大義記』の佚 文,特に第七巻「仮名実法義」および第八巻「二諦義」を手がかりに,それらの 佚文と吉蔵が智蔵を引用し批判する箇所との比較を通して,次の二つの問題を明 らかにしたい.第一に開善寺智蔵がどのように二諦を理解していたのかという問 題であり,第二に吉蔵の引用および批判は合理的であったのかという問題であ る. 2.二諦説と南朝仏教界の関心
西暦二,三世紀のインドの有部系の論師たちにおけるかなり共通した理解は, 世俗諦が言語表現に相当し,勝義諦がその言語表現によって表明される道理に相 当するという二諦解釈である(斎藤2016,347–346).しかし,本当に中国仏教思想 界に熟知され,受容された二諦学説は,まさに有部系の論師たちを批判する過程 で形成された龍樹の見方である.すなわち,『中論』第二十四章の第八∼第十偈 およびにそれに対する釈文である(大正30,32c)(葉2017,157).要点は,世俗諦 と第一義諦は根本的に対立するものであり,また衆生を教化する面において,世 間の言語施設を用いて第一義を表わさなければならないが,世俗諦と第一義諦が 同様の真理を備えることを表していないという点にある.『中論』の中でただこ の一箇所だけが明確に二諦に言及するのであるが,般若系仏典および『大智度 論』が南朝で伝播するのに伴い,二諦の問題は当時の仏教思想界において注目を 集める一つの問題となった.梁の昭明太子の蕭統は,どのように二諦を理解するのかという問題について, 当時の僧俗22人と繰り返し議論している.その中には「梁代三大法師」と呼ば れる智蔵以外の二人,光宅寺法雲と荘厳寺僧旻も含まれる.以下,『広弘明集』 「令旨解二諦義(併答問)」に基づき,二諦の問題における南朝仏教思想界の関心 と議論の方式について以下の三点で概説したい. 第一は,蕭統が二諦について述べる中で,経証として扱った仏典が般若系の仏 典でもなく,『中論』でもなく,『涅槃経』の「出世人所知名第一義諦,世人所知 名為世諦」(大正52,247c)であったという点である. 第二は,世俗心から得られる「空」を,蕭統は「相似解」と呼んでおり,ただ はっきりと「無生」を理解し,有でも無でもなく,真でも俗でもないという境界 に至ることこそが真解とされる点である. 第三は,蕭統は最後に,「真是中道,以不生為体,俗既假名,以生法為体」(大 正52,247c)と述べており,真諦と俗諦にそれぞれ別の「体」があるという見方 を主張するようであるが,その後に真諦と俗諦には同一の体があるのか,異なる 体があるのかという疑問に答える際に,「世人所知生法為体,出世人所知不生為 体,依人作論,応如是説.若論真即有是空,俗指空為有,依此義明不得別異」(大 正52,247c)と述べ,異体説はただ聖人と凡夫の異なる見方(「所知」)を描いたも のであり,根本的には両者は同一の体であることを強調している.さらに,その 同一の体もまた決して聖人(出世人)の見方,あるいは真諦だけを指さすのでは なく,「凡夫人于無構有,聖人即有辨無,有無相即此談一体」(大正52,248b)とい う「相即」の状態と対応するのである.以上のことから,真諦と俗諦に体はある のか,また両者の体は同一なのかという問題は,実際には『中論』の関心と相違 しており,ここにいう「有無相即」(あるいは「即有即無」)説は『中論』との差異 がより明確であると理解することができる. 「令旨解二諦義(併答問)」を全体的に見て,さらに以上の分析を踏まえると, 遅くとも梁代前期までの南朝仏教界の二諦に関する議論は,次の二つの問題に関 心を寄せていたと理解することができる. 第一に,「体」という枠組によって二諦を議論することは,この当時の共通の 方式であったようである.これは,梁の中後期に興起した,吉蔵と智顗の著作に しばしば見られる「体用」という枠組(島田1962,428–430)と相違している. 第二に,二諦の扱いは,人々の見方(「見」)の問題であって,外境が究極的に 真実であるのか偽りであるのかという問題ではない.むしろ蕭統において,外境
はこれまですべて最も真実な姿が現れたものであり,異なる人は智慧が相違する ので,異なる見方が出てくるにすぎないと理解されるのである(「所照之境既即無 生」,「豈得以智未真而使境非真境」[大正52,250a]). 3
.智蔵の仮実と二諦
日本の平安後期の学僧,珍海は『名教抄』の夾注において,次のように『義 集』を引用する. 開善『大義』第八巻二諦義云,「釈二諦有十重.一序意,二釈名,三出体性有無,四即離, 五摂法,六真理無階級,七会衆離,八夷神絶果,九寂照昨世俗,十遍融通」.(大正70, 693b) 吉蔵の『二諦義』に残される七重と『大乗玄論』の十重を参照すると(平井 1969,52–53),法朗の二諦は以下の構造であると理解することができる. 二諦義有十重.第一標大意,第二釈名,第三立名,第四有無,第五二諦体,第六中道,第 七相即,第八摂法,第九辨教,第十同異.(大正45,15a) 『大義記』の佚文についていえば,智蔵の二諦と仮名・実法に関する見方を上 の十重の分科と完全に対応させることは非常に困難である.しかし吉蔵などの学 僧たちの引用と比較することによって,智蔵の二諦説の独自の特徴とそれが可能 となる源流を部分的に見出すことができる. 3.1. 仮名と実法 仮とは何か,実とは何か.この問題について『大義記』巻七假名実法義に以下 のように考えている. 假義何耶.因他無自体也.実義何耶.有自体不因他也.(安澄『中観疏記』巻六末) 具体的にいえば,「假名実法者,謂三種假名七実法也.三假名者,因成・相 続・相待也.七実法者,五塵及心無作也」(大正70,494c).ただ引用文から見れ ば,この説は,『倶舎論』の影響(「依勝義理説有色等是実非虚,名勝義諦」(大正29, 116b))を受けているようである.たとえ『成実論』の「立無品」,「破声品」など であっても五蘊が真実ではないと主張するからである. ただし,注意しなければならないのは,智蔵にとって,仮名と実法の区別は,ただ世俗諦における規定にすぎないことである. 『大義記』巻七假名実法義中云,「五塵及心併無作,此之七法,名為実法.撿世諦,有唯此 七法也」.(大正65,109c.下線は筆者による) つまり,世俗諦において,この七種類の法だけが実法と呼ぶことができ,この点 において,智蔵の説は『倶舎論』の説と相違するのである.しかし,真諦におい て,どんな法が実法と呼ぶことができるのか.さらにいえば,智蔵にとって,仮 名と実法の分類ただ世俗諦において存在するだけなのか.この答えは,智蔵がど のように名相と二諦の関係を理解していたのかという点から導くことができる. 3.2. 名相に対する態度: 定名と絶名 『大義』第八巻二諦義云,「夫法無不総,義無不該者,真俗之理也.故五陰通束諸有界入, 則有無悉収,既以陰界等為俗,総何法不尽乎.是以上通涅槃,下遍生死,虚空断滅,無非 名相.故上言、俗有真無者、謂名相為有耳、名相為有故、空等俗諦」.(大正65,153b.下 線は筆者による) 世の中のすべてのもの,それを分析するのに用いる概念,いわゆる陰・界・ 入,ないし生死・涅槃などは,結局のところ名相であるし,すべて世俗諦に含む ことができる.この点については,吉蔵も『二諦義』において引用しているが, 吉蔵の引用では,智蔵は「空」が真諦であるという考えを主張している. 又彼(智蔵)明生死涅槃,皆是虚假,故是世諦.既是虚假,故可即空為真諦.(大正45, 113a) しかし,これは決して『大義記』の考えに合致していない.上記の引用文の最後 の箇所で,智蔵は,空というのは,名相の一つであり,このため結局のところ世俗 諦であると明言している.上で言及した『中論』とその釈文と関連づけるならば, 智蔵は名相,つまり言語表現に対する態度について,龍樹と非常に似た考えを持っ ている.これは二諦に世間の諸法が含まれていることを示しており,このため,二 諦を用いて真理を表現しなければならないが,二諦は決して真理そのものではない と強く主張するのである.これも智蔵の真諦に関する理解を反映している. 『大義記』第八巻二諦義云,「俗是假名,無定名而非絶名.真諦是假名而絶名者,俗法依名 而縁猶得俗用,真諦若依名而縁乖真弥遠」.(大正65,152c)
世俗諦としてのこれらの概念は,二つの関係に置かれる.第一には指すものと の関係であり,第二にはこれらの概念を創造し使用する凡夫との関係である.ま さに第二の凡夫との関係によって,凡夫が誤って認識するために,概念と指すも の間に対応しない状態,すなわち間違いの関係が常に生じるのである.それゆ え,仮名は常に変化の中にあり,定名(概念が定まり,変化しないこと)がない.一 方で,凡夫はまた完全にこれらの概念を放棄することで,世界を認識し表現する ことができないわけではない.そのため,絶名(概念を避けること)も同様に不可 能である.これに対して,真諦という名相は仮名でもあるけれども,世俗諦と異 なっている.真諦が指向するものは離言絶相(すなわち絶名)である.このため, 凡夫が概念に基づいて世界を認識するようなやり方で追求することはできない. 3.3. 真諦: 一相無相 『大義記』第八巻二諦義中云,「俗法参差,有等不等.不等,故精粗万重,等,故因假斉一. 真諦唯遣,故一相無相.一相無相,故理無浅深」.(大正65,102b) 前節の引用文において,智蔵が繰り返し述べているのが世俗諦であるとする と,上記の一段は智蔵の真諦に関する理解が示されているとみることができる. すでに明確なことは,智蔵において,真諦は同様に仮名であって,名相として の真諦自体に真理としての意味があるのではない.しかし,上記の引用文の中で 強調されていることは,真諦の「真理」としての意味が不変の「理」にあるわけ ではなく,主に凡夫を解脱へと導く働きにあるとすることであり,その唯一無二 の働きはまさしくすべての概念(世俗諦)を排除することにあるのである. 智蔵はさらに大品系の『般若経』においてしばしば見られる見解,すなわち 「一相無相」を用いて(『放光般若経』「五陰不二,亦不合亦不散,亦無有形,不可見,一 相,一相者則無相, 雲若亦如是」(大正8,36b)),すべての世俗的概念を排除した境 界を説明している.世間のすべての名相が,みな誤りであるからには,真実(一 相)を追求することによって,もう一つ別の「真実」の名相を追求すること,ひ いては造り出すことはできず,あらゆる名相という妨げを破って,離言絶相(無 相)に至らなければならないのである. ここでさらに注意しなければならないのは,智蔵は決して一相あるいは無相に 新しい名相を与えていないことである.このため二諦とは,智蔵にとって名相を 排除する道具であり,智蔵は二諦が理であると主張したとする吉蔵のような言説
は客観的なものではないといえる. 4