は じ め に
ムーアが『倫理学原理』で用いた「自然主義的誤謬( )」という言葉は、
「事実命題から価値命題を導出する推論」一般が犯している(とされる)誤謬を指すものとして解 されている。──冒頭から注意を促すことになるが、実のところ、この言葉の発案者である当のムー アは、自然主義的誤謬を「事実命題」や「価値命題」という表現を使って規定していない。彼自身 による規定は、もう少し持って回ったものである。だが、そのことはあとで見ることにして、当面 は、この「事実(命題)」と「価値(命題)」という表現を用いることにしよう。
さて、この「自然主義的誤謬」という言葉は、(ムーアを別にすれば)もっぱら ミルの名 前と結びつけられている。実際には、『倫理学原理』で「自然主義的誤謬を犯している」としてムー
( )
アから槍玉に挙げられた倫理学者や哲学者はかなりの数にのぼるのであるけれども、ムーアの「ミ ルは何人もこれ以上望み得ないほど素朴かつ無邪気なしかたで自然主義的誤謬を犯してしまった」
というフレーズが印象的かつ効果的であった。そのせいで、あたかもミルひとりが、それも致命的 なしかたでこの誤謬を犯したかのような印象が広まってしまったのである。これはミルにとって不
( )
幸なことであった。
( )
小論が目指すのは、ミルの証明を、ムーアの批判から擁護することにある。その際、次の二つの ステップを踏むことになる。第一は、ミルが、ムーアの言う「自然主義的」誤謬を犯してはいない、
ということを示すステップである。第二は、ミルの証明が、「自然主義的」誤謬のみならず、いか なる意味での誤謬も犯していない、早く言えば、妥当な証明であることを示すステップである。
.ミルの証明とムーアの批判
まずは、ミルの証明がどのようなものであり、それに対するムーアの批判がどのようなものであ るのか、それを確かめておこう。
ミルの証明の核心はあっけないほど単純なものである。彼は「幸福は望ましい( )」と いう功利主義の教説(の一部)を証明するために、次のように述べる。
自 然 主 義 的 誤 謬 に つ い て
─ 欲 求 と 価 値 ─
関 口 浩 喜
ある対象が見られ得る( )ということの唯一の証明は、人々が実際にそれを見ていると いうことである。ある音が聞かれ得る( )ということの唯一の証明は、人々がその音を 聞いているということである。同じことは、われわれの経験の他の源泉についても言うことがで きる。同様にして、何かが望ましい( )ということを示す唯一の証拠は、人々が実際
( )
にそれを望んでいるということである、と私は考える。
そして、「各人は、獲得できると信じている限り、自分自身の幸福を望んでいる」ということは「事
( )
実である」から、ゆえに、幸福は望ましい、すなわち善であるとミルは結論づけるのである。彼の 論証の過程を再構成すれば、以下のようになろう。
.[すべての見られている( )ものが、見られ得る( )のと同様に]すべての望 まれている( )ものは、望ましい( )。
.すべての望ましいものは、善である。
.幸福は望まれている。
.ゆえに、幸福は望ましい( と から)。
.ゆえに、幸福は善である( と から)。
このミルの証明に対して、ムーアは「倫理学にとって重要なステップは…『善い』が『望まれてい る』を意味することを証明すると称するステップである」と批判の焦点を絞った上で、次のように 述べた。
このステップにおける誤謬は明々白々であって、どうしてミルがこれに気づかなかったのか、
まことに奇怪である。 が「見られ得る( )」を意味するように
も「望まれ得る( )」を意味するなどということはないのであって、
なものとは、望まれるべきもの( )、もしくは望まれるだけの
( )
価値のあるもの( )を端的に意味しているのである。(強調原文)
ムーアは、ミルが、「見られている」から「見られ得る」が導出可能なのと同様に「望まれている」
から「望ましい」の導出が可能だとしたその点を捉えて、それが誤謬であることを指摘し批判した わけである。上記の論証過程の の部分においてすでに致命的で「明々白々な」誤謬が発生してい る以上、結論部の 「幸福は善である」を導出することはできないというわけである。
以上がミルの証明とそれに対するムーアの批判の要点であるが、それぞれをどのように解釈しど のように評価するか、(哲学上の)論争の例に漏れず、その解釈と評価はわかれている。ここでは、
ムーアのミル批判に肯定的な評価を下している岩崎武雄の文章を、やや長くなるが掲げておくこと にしよう。岩崎は次のように述べている。
福岡大学研究部論集 ( )
ミルの議論が誤っているということは確かにムーアの言う通りであると考えられる。すべての 人が快を欲求するからといって、そこから必ずしも快が望ましいもの、善なるものであるという 結論が導き出されないことは言うまでもないことであろう。われわれは悪いことを欲求すること もあり得るからである。…
われわれが何かを欲求しているとき、その欲求の対象が少なくともその人にとって「望ましい」
ものであることは言うまでもない。…この意味で確かにミルの言うように、あるものが望ましい とは人がそれを望んでいるということによって基礎づけることができる、と言うことができよう。
しかしこの場合「望ましい」というのは、ただそれを欲求している人にとって「望ましい」とい う意味であって、決して客観的な意味で「望ましい」ということではない。あるものをある人が 欲求しているとき、そのものはたしかにその人にとっては望ましいものではあるが、しかし客観 的に見て望ましいもの、欲求さるべきものであるかどうかは分からないのである。ところがミル はこの点を無視して、人が快を欲求しているということから、その人が快を望ましいものと考え ているということばかりでなく、快が客観的に望ましいものであるということを導き出してし まったのである。そしてこの点にこそミルの誤りがあったと言わねばならない。ある人があるも のを望ましいと考えているということは単なる事実であり、この事実を記述する判断は事実判断 である。…この事実判断から決してその人が望ましいと考えているものが客観的にも望ましいも のである、という判断はただちに導くことはできない。このような判断はもはや決して事実判断 ではなく、価値判断であるからである。すなわちミルの誤りは事実判断からただちに価値判断
( )
を引き出そうとしたところに存すると言えるのではないだろうか。
岩崎は、「われわれはこのような[事実判断から価値判断を導こうとする]誤りに陥らないように 注意しなければならない。価値判断は決してただちに事実判断から導くことはできないということ をわれわれは十分心にとめておかねばならない」と念を押した上で、「ムーアが自然主義的誤りを 指摘したことは…正しかったと言うべきであろう」と、ミルに対するムーアの批判の正当性を再確 認してこの文章を結んでいる。
興味深いのは、ミルの自然主義的誤謬を指弾しているこの文章のなかで岩崎自身が、その自然主 義的誤謬を「素朴かつ無邪気なしかたで」犯していることである。すなわち、岩崎は、「ある人が ある対象を望んでいる」という事実判断から、「その対象がその人にとって望ましいものである」
という価値判断を「ただちに」導出する推論を妥当なものとして描いてしまっている。もちろん、
岩崎が「この点にこそミルの誤りがあったと言わねばならない」誤りとして指摘しているのは「人 が快を欲求しているということから、その人が快を望ましいものと考えているということばかりで なく、快が客観的に望ましいものであるということを導き出してしまった」という点である。しか し、「ある人が、快を望んでいる」という判断から「快が客観的に望ましい」(すなわち、「快は誰 にとっても望ましい」)という判断の導出が犯している誤謬は、自然主義的誤謬であるというよりも、
「不当な一般化」と呼ばれるべき種類の誤謬であろう。ここで登場する判断(命題)は次のような
ものである。
.ある人は、快を望んでいる。
.その人にとって、快は望ましい。
.すべての人にとって、快は望ましい。
確認したように、岩崎は の命題から の命題が導出されることに関しては、それを正当なものと 認め、 から( を介するかたちで) を導出することを自然主義的誤謬だと認定している。だが、
繰り返すが、事実判断から価値判断を導出しているのは から の導出のプロセスにおいてであっ て、「ある人」についての命題から「すべての人」についての命題を導き出している から を導 出するプロセスにおいて犯されている誤謬は「不当な一般化」の誤謬である。そして、(少なくと も私にとって)不思議なことに、岩崎は私からすれば(もしあるとすれば)そこにおいてこそ「自 然主義的誤謬」が犯されていると思われる から の導出に関しては、それを不問に付しているの である。
もし、 から の導出を正当なものとして認めるならば、ミルの証明には演繹上の問題は何もな いことになる。というのも、ミルは先にも確認したように、「各人は、獲得できると信じている限り、
自分自身の幸福( 快)を望んでいる」ということが「事実である」と前提しているからである(こ の前提自体の妥当性の問題は、証明の演繹的な妥当性の問題とは別である)。すなわち、ミルは「す べての人は快を望んでいる」から「快はすべての人にとって望ましい」を導出しているのであって、
から の導出の正当性を認める岩崎は、この導出の正当性をも認めざるを得ないはずである。そ して、ミルはまさにこのような導出をかの証明において行なったのである。
もちろん、これは岩崎の叙述の混乱であって、ムーアの叙述の混乱ではない。ムーアは、批判の 焦点を「すべての望まれているものは望ましい(善である)」という前提に絞っており、そこにお いてこそ自然主義的誤謬が「素朴かつ無邪気なしかたで」犯されていると指摘していた。その際の 批判の論拠の要となっているのは、「望ましい」が、「望まれ得る」ではなく、「望まれるべきである」
あるいは「望まれるに値する」を意味している、ということであった。したがって、ムーアの立場 からすれば、「ある人が快を望んでいる」から「その人にとって快は望ましい」を導出することは もちろんのこと、「すべての人が快を望んでいる」から「すべての人にとって快は望ましい」を導 出することもまた、自然主義的誤謬を犯していることになる。なぜなら、「望んでいる」は「望ま しい」を意味しないのであるから。
しかしながら、ムーアの叙述も、そもそも彼の言う自然主義的誤謬とは何かと問いはじめると、
混乱の様相を呈してくる。岩崎は自然主義的誤謬を「事実判断から価値判断を導く誤り」だと認定
( )
し、また一般的にも自然主義的誤謬はそのように解されているが、冒頭でも注意を促したように、
( )
ムーア自身は「事実判断」や「価値判断」といった言葉を用いてこの誤謬を規定していない。次節 において、ムーア自身による「自然主義的誤謬」に規定を見てゆくことになるが、そこでの結論は、
福岡大学研究部論集 ( )
ムーア自身の規定に照らした場合、ミルは自然主義的誤謬を犯していない、というものである。
.自然主義的誤謬とは何か?
ムーアは次のように述べている。
…単純な誤りが「善い」については普通に犯されている。黄色いものはすべて光線にある一 定の種類の波動を生み出す、ということが真であるのとまったく同様に、善いものはすべてま た他の何かあるものである、ということは真であるかもしれない。そして、ひとつの事実とし て、倫理学は善いもののすべてに属するそういう他の性質が何であるかを知ることを目指して いる。しかし、あまりにも多くの哲学者たちは、そういう他の性質の名を挙げるとき、実際に
「善い」を定義しているのだと考え、こういう性質は事実まったく「他のもの」ではなく、絶 対的かつ全面的に善さと同一のものであると考えたのである。私はこの見解を「自然主義的誤
( )
謬」と呼ぼうと思う。(強調は原文)
簡単に解説を加えておこう。「善いものはすべてまた他の何かあるものである」とは、「善いものは すべてまた『快』なるものである」あるいは「善いものはすべてまた『望まれている』ものである」
といった例を念頭におけば理解しやすいであろう。要するに、倫理学者たちが「善いものとは『望 まれている』ものである」といった類の定義を提案するさい、実際には「望まれている」という性 質は「善い」ものが持っている、「善さ」とは異なる「他の性質」であるにもかかわらず、それを「絶 対的かつ全面的に『善さ』と同一のものである」と見なすという誤謬を犯しているというのがムー
( )
アの診断であり、その誤謬を彼は自然主義的誤謬と名づけたのである。
しかし、なぜこの誤謬が(誤謬であるとして)「自然主義的」誤謬と呼ばれるのか(もっとも、ムー ア自身は、これが誤謬であることが問題なのであって、それを何と呼ぶかはどうでもよいと述べて
( )
いるのだが)、その理由をムーアは次のように説明している。
あるひとが二つの自然的対象を相互に混同して、一方を他方によって定義する場合、たとえば、
彼が一つの自然的対象である自分自身を、他の自然的対象である「快い( )」や「快
( )」と混同する場合には、その誤謬を自然主義的と呼ぶなんの理由もない。しかし、彼 がそれらと同じ意味では自然的対象ではない「善い」を、およそなんらかの自然的対象と混同す
( )
るならば、それを自然主義的誤謬と呼ぶ理由がある。
要するに、「非自然的な」対象を、「自然的な」対象と同一視する(前者を後者に還元する)自然主 義が犯している誤謬であるがゆえに、この誤謬は特に「自然主義的」誤謬と呼ばれるわけである。
しかし、では「自然的対象」とは何であり、また「非自然的対象」とは何であるのか。ムーアは
「自然」及び「自然的対象」によって意味されているものを次のように定義する。
私は「自然」という言葉によって、自然科学の主題、そしてまた、心理学の主題でもあるとこ ろのものを意味している…。それはこれまでに存在したか、現に存在するか、やがて存在するよ うなすべてのものを含むと言ってよいであろう。もしわれわれが、どんな対象でもよい、それが いま存在しているとか、存在したとか、まさに存在しようとしているとか言ってよいような性質 のものであるかどうかを考察すれば、その対象が自然的対象であり、このことが当てはまらない
( )
ようないかなる対象も自然的対象ではない、ということをわれわれは知り得るであろう。
そして、ムーアはこの定義に基づけば、いろいろな対象のうち「どれが自然的であり、どれが(も しあれば)自然的ではないかを言うのはたやすい」と述べている。しかしムーア自身、何が自然的
(対象ではなく)性質なのか、ということを判定する段になると問題が難しくなってくることを認 める。
しかしながら、われわれが対象の性質について考え始めると、その問題はいっそう困難になる のではないかと私は思う。いろいろな自然的対象の諸性質のなかで、いずれが自然的性質であっ て、いずれがそうではないのか。
だが、ムーアは果敢にも次のように論じ続ける。
…このことを判定するためのテストは、ふたたび、時間におけるその存在である。われわれは「善 い」という性質が、たんにある自然的対象の性質であるだけではなく、それ自身で時間において 存在している性質であると想像できるだろうか。私自身は、「善い」という性質をそのように考 えることはできない。しかるに、いろいろな対象の比較的多くの性質 私が自然的性質と呼ぶ もの に関しては、それらの存在は、それらの対象の存在から独立している、と私には思われる。
事実、それらの性質は対象に付されるたんなる述語であるよりは、むしろその対象を作り上げて いる諸部分である。かりにそれらの性質がすべて取り去られるならば、いかなる対象も残らない であろうし、ただの実体すらも残らないであろう。なぜなら、それらの性質は本来実体的であり、
その対象が持っている実体のすべてにそれを与えるからである。しかし、このことは「善い」と
( )
いう性質に関しては当てはまらない。(強調は原文)
ある対象が自然的であるかどうか、ある性質が自然的であるかどうか、の判定基準は、要するに、
その対象なり性質が、「それ自体で、時間のうちに存在しているかどうか」という点にあるという
( )
わけである。そして、この基準に基づいて区別される(べき)二つの種類の対象なり性質を混同し てしまうことが、ムーアの言う自然主義的誤謬に他ならない。
福岡大学研究部論集 ( )
.ミルと「自然主義的」誤謬
さて、以上のムーアの論述を念頭に置いた上で、ミルの証明を振り返ってみよう。ミルは「幸福 は望ましい」という命題を証明することを試みた。そのためにミルは「幸福は望まれている」とい う事実を「唯一の証拠」として引き合いに出し、それがムーアにとって格好の批判の的となったわ けである。
ここで少し注意深く事態を検討してみよう。ムーアはミルが「自然主義的誤謬」を犯していると 指摘した。しかし、それはどのような意味で「自然主義的」誤謬を犯していると言えるのであろう か。そう問えば、愚問と思われるかもしれない。ミルは「望まれている」という事実から「望まし い」という価値を導出している、これこそまさに自然主義的誤謬の見本に他ならないではないか、
と。だが、上に確認したムーア自身の自然主義的誤謬の規定によれば、自然主義的誤謬とは「自然 的対象(性質)ではない対象(性質)を、およそなんらかの自然的対象(性質)と混同する」とい う誤謬の謂いであった。ミルは、ある対象が「望まれている」ことを以って、その対象が「望まし い」ことの証拠とみなした。だが、「望まれている」とは対象(この場合は「幸福」)が持っている
( )
「自然的性質」なのであろうか。ムーアはこう述べていた。
このことを判定するためのテストは、ふたたび、時間におけるその存在である。われわれは「善 い」という性質が、たんにある自然的対象の性質であるだけではなく、それ自身で時間において 存在している性質であると想像できるだろうか。私自身は、「善い」という性質をそのように考 えることはできない。
この文章における「善い」を、「望まれている」に置き換えてみよう。すると、こうなる。
われわれは「望まれている」という性質が、たんにある自然的対象の性質であるだけではなく、
それ自身で時間において存在している性質であると想像できるだろうか。
この問いかけに対する答えは(ムーアの口吻を真似て言えば)、「私自身は、『望まれている』とい う性質をそのように考えることはできない」とならざるを得ない。「望まれている」という性質が(幸 福という対象から離れて)それ自身で時間において存在している事態など、想像しようがないから である。ムーアはまた、自然的性質に関して「それらの性質は対象に付されるたんなる述語である よりは、むしろその対象を作り上げている諸部分である。かりにそれらの性質がすべて取り去られ るならば、いかなる対象も残らないであろう」と述べていた。しかし、「望まれている」という性 質が、その「望まれている」対象を作り上げている諸部分を構成しているとは考えられない。例え ば、すべての人間がリンゴを望んでいるとしよう。そして、ある日を境に、すべての人間がリンゴ
( )
を望まなくなったとしよう。だからと言って、リンゴという対象から、それを作り上げている部分
( )
が失われたと考えることは、かなり変であろう。
すると、「望まれている」は、ムーア自身の基準に照らした場合、自然的性質ではないというこ とになる。とすると、ミルが「望まれている」という非自然的性質から「望ましい」という非自然 的性質を導出(もしくは定義)したことは、たとえ誤謬であったとしても、「自然主義的」誤謬で はないことになる。もう一度、ムーアの言葉を確認しよう。
あるひとが二つの自然的対象を相互に混同して、一方を他方によって定義する場合、たとえば、
彼が一つの自然的対象である自分自身を、他の自然的対象である「快い( )」や「快
( )」と混同する場合には、その誤謬を自然主義的と呼ぶいかなる理由もない。(強調は 関口)
その伝で行けば、ムーアは「あるひとが二つの非自然的性質を相互に混同して、一方を他方によっ て定義する場合、たとえば、彼が一つの非自然的性質である自分自身を、他の非自然的性質である
『望まれている』と混同する場合には、その誤謬を自然主義的と呼ぶいかなる理由もない」と言わ ざるを得ないはずである。ふたたび、ミルは、ムーア自身の基準からして、「自然主義的」誤謬を 犯していなかったのである。
.価 値 と 当 為
しかし、以上の議論を仮に認めたとしても、もちろん問題は残っている。すなわち、「望まれて いる」から「望ましい」への導出が仮に(ムーアの基準に照らして)非自然的性質間での導出であ ることを認めたとしても、ムーアの用語の規定から離れて考えれば、両者はやはり性格を異にする 命題でなのではないかという疑問が残っている。というのも、「ある対象が望まれている」とは事 実命題であり、対して「ある対象が望ましい」とは価値命題である(とされている)からである。
この相違が両者の間にある限り、「ある対象が望まれている」から「その対象は望ましい」を導出 したミルの証明は、誤謬を犯していることになるのではないか。
私の見るところでは、この疑問に対する答えも否である。以下、その理由を説明してみることに したいのだが、その前に確認をしておきたいことがある。それは、ミルが問題にしていたのは、「あ る対象が望まれている」という事実から「その対象は望ましい」という価値を導出できることの証 明、すなわち、「事実から価値」の導出可能性の証明であり、「事実から当為」の導出可能性の証明 ではなかった、すなわち「である」から「べし」の導出可能性の証明ではなかったということであ る。くどさを承知で言葉を重ねれば、ミルは「ある対象が望まれている」という事実から「その対 象は望まれるべきである」という当為が導出できることの証明を試みたわけではない。
この、ある意味で当然とも思われることに念を押したのは、「事実から価値」の導出可能性(こ の可能性が誤謬であるとしたら、導出不可能性)の問題が、ただち「事実から当為」の導出可能性
福岡大学研究部論集 ( )
(不可能性)の問題へと実にしばしば簡単にスライドしてしまうからである(とりわけ、倫理学者 や哲学者たちの議論においては)。だが、「事実から価値」を導出することと、「事実から当為」を
( )
導出することとは、明らかに異なる。「価値」と「当為」は、別のものだからである。平尾透の挙
( )
げた例を使えば、私がビールが好きだ(ビールに価値を認めている)からといって、私はビールを 飲むべきだとは言えないし(もしこの導出を認めたら、ビール好きの私は一日中酔っ払っているこ とになり、しかもそうあるべきだということなる)、自己犠牲が最高の徳(道徳的価値)を持って いるからといって、誰でも他人を救うためには死ぬべきだとは言えない。
ところが、ムーアは を (望まれるだけの価値のあ
るもの) とパラフレーズしたのみならず、 (望まれるべきもの) と もパラフレーズしていた。これは明らかにおかしい。上に述べた理由からばかりではなく、純粋に 英語の問題として考えても後者のパラフレーズは成り立たない。英語に関して素人の私が英語の であるムーアの英語の語義に関する誤解を指摘するのも妙な話であるが、 には
( )
という当為の意味合いはないはずである(少なくとも、私が を始め、数種類の英語の辞書に当たった限りにおいては、そのような語義を掲げているものは皆無
( )
であった)。したがって、ミルも、彼が「幸福は である」と述べたとき、そこに「幸福は
( )
望まれるべきである」という当為の意味合いを込めていなかったと考える方が自然であろう。なぜ ムーアがあのようなパラフレーズを行ない、またそのパラフレーズの奇妙さに(私が知る限り)倫 理学者や哲学者たちが異を唱えなかったのか、それはそれで興味深い現象であるが、話が横道にそ
( )
れるので、ここではその詮索には立ち入らない。
ともかく、以上の理由により、ミルの証明を「事実から価値」を導出しているものと捉えた上で、
次にミルの証明の擁護を試みることとしたい。
.ムーアの不整合な態度
実は、ムーアの批判については、いま述べた の語義のパラフレーズ以外にも、(少 なくとも私にとっては)不審な点がある。そのことを指摘することから、ミルの擁護に取り掛かる ことにしよう。
ミルはかの証明に際して、まず「ある対象が見られている」から「その対象は見られ得る」が導 出可能なことを指摘した上で、それと同様に「ある対象が望まれている」から「その対象は望まし い」を導出することも成立すると主張していた。不審だと言うのは、ムーアがもっぱら後者の導出 だけを「自然主義的誤謬」の名のもとに批判し、前者の導出、すなわち「見られている」から「見 られ得る」の導出に関しては、それをまったく不問に付している点についてである と書くと、私 の言い分の方こそ不審に思われることであろう。ある対象が現に見られているのであれば、それは とにもかくにも見られることが可能な対象に他ならないのであるから、「見られている」から「見 られ得る」を導出することには何の問題もなく、したがってムーアがその導出を不問に付したのは
当然ではないか、と。
たしかに、「見られている」から「見られ得る」を導出することは正当な導出である。しかし、ムーア がその導出を不問に付したことは、当然とは言えない。ムーアが一貫した態度を取るのであれば、
彼は「見られている」から「見られ得る」の導出もまた、自然主義的誤謬を犯していると言わざる を得ないはずである。なぜなら、「見られ得る」は対象の持つ「自然的性質」ではない以上、「見ら れている」という(ムーアにしたがえば)自然的とされる性質と、「見られ得る」という非自然的
( )
性質とを混同することは、まさに自然主義的誤謬を犯すことに他ならないからである。
「見られ得る( )」という性質が、ムーア自身の基準に照らした場 合、非自然的性質に分類されることは明らかであるように思われる。いま「見られ得る」という性 質を「可視的」と表現してみよう。先にも引いたムーアの基準によれば、この性質が自然的性質で あるか否かは、次の問いによって判定されることになる。すなわち、「われわれは『可視的』とい う性質が、たんにある自然的対象の性質であるだけではなく、それ自身で時間において存在してい る性質であると想像できるだろうか?」という問いに、肯定的に答えられれば問題の性質は自然的 性質であり、否定的に答えるしかないとしたらそれは非自然的性質であるということになる。そし て、この場合、答えは否定的なものとならざるを得ないと思われる。例えば、ある黒猫は、「黒い」
という性質に加えて、「可視的である」という性質を有している(としよう)。その場合、「黒い」
という性質は、その黒猫を離れて「それ自身で」時間において存在し得るということは(百歩譲っ て)認めてもよい。しかし、可視的という性質が、黒猫から離れて、「それ自身で」時間において 存在している事態は想像のしようがない。黒猫無しの可視的なる性質は、猫無しのニヤニヤ笑いと 同様、端的にナンセンスである。とすれば、「見られている」から「見られ得る」の導出は、ムー ア自身の基準に照らして自然的性質と非自然的性質との混同に他ならず、ムーアが首尾一貫した態 度を取るのであるならば、批判の対象となって然るべき誤謬であったということになる。
.われわれの不整合な態度
しかし、私の見るところでは、われわれもまた、ムーアのそれに類似した不整合な態度を、かの 二つの導出に関して取っている。すなわち、われわれもまた、「見られている」から「見られ得る」
の導出を正当な演繹と見なす一方で、「望まれている」から「望ましい」の導出を不当な演繹と見 なしている。なぜ、これが不整合な態度と言えるのか、それを説明してみたい。
われわれは(あるいは、少なくとも大多数の倫理学者、哲学者、論理学者)は、事実命題から価 値命題を導出する演繹を不当なものだと考えている。しかし、この導出が不当なものだとして、な ぜ事実命題から価値命題を導出することは不当な演繹なのであろうか。 改めてそのように問え ば、馬鹿馬鹿しい問いであると思われるであろう。事実と価値とはまったく異なるものである以上、
前者について語っている命題から後者について語っている命題を導出することができないのは自明 ではないか、と。その通りであるのかもしれない。例えば、小泉仰は、ムーアが「( )自然的存
福岡大学研究部論集 ( )
在の領域、( )非自然的価値の領域、( )形而上学的実在の領域という区別を立て」ていること を指摘した上で、次のように述べている。
…もし上述の三つの存在領域を区別することを承認するならば、価値命題は、自然的存在と価 値との先天的総合命題であり、経験的事実命題とは別種であることになる。それゆえ、価値命題 は、事実命題から演繹することができないはずである。もしむりに演繹しようとするならば、そ れは推論上の誤りを犯したことになる。同様に、形而上学的命題と価値命題とは別種であるから、
前者から後者を演繹しようとすることも、命題レベルの存在領域混同の「誤り」を犯すことにな
( )
るというわけである。これが…命題レベルの「自然主義の誤り」である。
なぜ事実命題から価値命題を導出することができないのか、この説明によれば、その理由は、事実 命題と価値命題とが「別種」の命題だからということになる。そして、この「別種」という表現の
( )
背後には、二つの種類の命題がかかわる「存在領域」の相違という、存在論上の差異が控えている。
だが、別種の命題間であっても、われわれがその間での導出を認める事例は存在する。例えば、「あ る対象が見られている」から「その対象は見られ得る」の導出はまさにその一例である。というの も、「ある対象が見られている」は事実命題であるが、対して「その対象は見られ得る」は様相命 題であり、その二つの「別種」の命題間での導出が行なわれているのであるから。「望まれている」
から「望ましい」の導出が不可能であることの根拠がもっぱら両者が「別種」の命題であるという ことに求められている限り、同様の理由に基づいて、「見られている」から「見られ得る」の導出 も認めないのが、整合的な態度というものであろう。ところが、われわれは「見られている」から
「見られ得る」という、「別種」の命題間での導出を正当なものとして認めている。「不整合な態度」
と先に評した所以である。
しかし、なぜわれわれは「見られている」から「見られ得る」の導出を妥当な演繹として認めて いるのであろうか。その妥当性の根拠は、ある対象が見られているにも拘らず、それが見られ得な い、などという事態はわれわれには想定することができないということに求めるしかないと私は思 う。そして、この場合の「想定のできなさ」は、われわれ人間の想像力の貧弱さといった、経験的・
偶然的な要因に基づくものではなく、「見られている」と「見られ得る」との間に成立している、
論理的な関係(といっても、いわゆる「論理学」が係わるという意味での「論理的」よりも広い意 味での論理的な関係、ウィトゲンシュタイン流に言えば、「内的な関係」、「文法的な関係」とでも 表現すべき関係)に基づくものである。 以上の診断に大過無しとすれば、ミルを擁護するため の方針が確立されたことになる。すなわち、われわれが「ある対象が望まれている」という命題と
「その対象が望ましい」という命題との間に、「見られている」と「見られ得る」との間に成立し ているのと同様の関係を見出せるのであれば、ミルの件の証明は妥当であることが示せることにな る。
.欲 求 命 題
そこで、次に「望まれている」と「望ましい」との間に件の関係が成立していることを指摘した いのであるが、その前に、多少の地ならしが必要である。まず、いままで「ある対象が望まれてい る」という受動形で表現されていた命題を、「 はある対象を望む」という能動形に書き改めたい。
そのように書き改める理由は、この命題が、単にある事実を表す命題ではなく、ある主体の対象へ の欲求を表す命題であることを明示したいからである。(これは、命題の内容に関わる実質的な変 更ではない。「ある対象が望まれている」という命題でも、その対象を望む主体の(欲求の)存在は、
間接的にではあれ、示されている。)そして、それに連動して、この「 はある対象を望む」とい う形式をした命題を、事実命題とではなく、欲求命題と呼ぶことにしたい。「 はある対象を望む」
という命題は、とりわけ「 」に一人称の代名詞が代入された場合には、主体の抱く欲求について の事実を客観的に述べている命題と捉えるよりは、まさに がそれを欲しがっていることを訴える 命題として捉えた方が適切であると思えるからである。例えば、「私は大金を望む」という命題によっ て私は、「自分がそのような欲求を抱いています」という事実を淡々と報告しているのではなく、「大 金が欲しい」と訴えているのである。その点で、この欲求命題は、同じ「私」について述べた命題 であっても、「私はいま論文を書いている」という事実命題とはかなり異なる。
さて、以上の「地ならし」によって、「ある対象は望まれている」から「その対象は望ましい」
の導出は、事実命題から価値命題の導出としてではなく、「 はある対象を望んでいる」という欲 求命題から「その対象は望ましい」という価値命題の導出として捉えられることになる。そして、
われわれが探究すべき事柄は、事実と価値との(関係と表現される)関係ではなく、むしろ欲求と 価値との(関係と表現されるべき)関係であり、両者の間に「見られている」と「見られ得る」と の間に成立していたのと同様な関係が成立しているかどうか、ということになる。
.欲求と価値 「欲求なき価値は空虚であり、価値なき欲求は盲目である」
そこで、次のように問うてみよう。私がある対象を望んでいて、かつ、その対象に何の価値も認 めていない、という事態は考えられるであろうか、私がある対象を望んでいて、かつ、その対象が 私にとってまったく望ましくないものと捉えられている、などという事態が考えられるであろうか、
と。もし私が真顔で「私は黒猫を飼うことを望んでいるのだけれども、黒猫を飼うことは私にとっ て望ましいこととはまったく思えない」と発言したら、私の発言は端的に不可解であろう。私が黒 猫を飼うことを望んでいる以上、私は黒猫を飼うことに何らかの価値を認めている。価値から完全
( )
に切り離された欲求を仮に純粋欲求と呼ぶとすれば、純粋欲求なるものは、存在し得ないのである。
と同時に、欲求から完全に切り離された純粋価値なるものも存在し得ない。ある対象は誰からも望 まれていない(欲求の対象となっていない)にも拘らず、なおその対象には価値があるという事態
( )
を想定することはできない。
福岡大学研究部論集 ( )
以上の議論が示唆していることは、欲求と価値との間には相互依存的とでも呼べるような関係が あるということである。すなわち、価値のないところに欲求は成立しないが、同時にまた、欲求の ないところに価値も成立しない。いかなる価値にも促されることなく発動する欲求なるものが想定 し得ないのと同様に、誰からも望まれていない価値なるものも想定し得ない。両者の関係は、カン トの有名な言葉をもじって次のように言うことができよう。欲求なき価値は空虚であり、価値なき
( )
欲求は盲目である、と。あるいはウィトゲンシュタイン流に、「何かを望むこと」と「その何かに 価値を認めること」との間には内的な関係(文法的な関係)があると言うこともできよう。
.ミ ル の 証 明 、 再 び
以上の考察によって、「ある対象は望まれている( はある対象を望む)」という命題と「その 対象は望ましい( その対象は にとって望ましい)」という命題との間に、「見られている」と「見
( )
られ得る」との間に成立しているのと「同様な」関係が成立していることが示された。ということ は、「 はある対象を望む」から「その対象は にとって望ましい」の導出は正当化されたことに なる。したがって、「幸福は望まれている( 人々は幸福を望んでいる)」を唯一の証拠として「幸 福は望ましい( 幸福は人々にとって望ましい)」を導出したミルの証明は成立する。
終わりに、あるいは前途瞥見
自然主義的誤謬という非難がもたらしたひとつの帰結は、事実と価値との間の溝を架橋しがたい ものとしてしまうことであった。対して、私が小論において行なったのは、両者の間に「内的な関 係」が存在することを指摘し、以って両者の溝を些かなりとも埋めることであった(ただし、事実 命題を欲求命題と捉え直した上でであるが)。
私の拙い試みがうまく行ったかどうかの判定はもちろん第三者に委ねる他はないが、私としては、
むしろ論じ残した問題の多さ(と困難さ)に茫然としている。例えば「事実から当為」を導出する ことにまつわる問題はその一例である。私は今回の小論で、「事実から価値」の導出は取り扱ったが、
「事実から当為」の導出については、これを別問題として考察の対象から外した。しかし、楽屋裏 を明かせば、この小論を書くにあたってのそもそもの動機は、事実から当為を導出することが誤謬 であると認定され、その認定がそのまま放置されている事態は、実はかなりよろしくない事態なの ではないか、という懸念もしくは疑念にあったのである。そして、その懸念もしくは疑念は、いま なお私のうちに残っている(しかも、私自身が、価値と当為とを分けたために、私にとって問題は かえって難しくなってしまったのではないかという嫌な予感さえ覚えている)。
もうひとつだけ、残された問題を挙げておこう。改めて指摘するまでもないことであろうが、価 値と事実の二元論の背後には、主観と客観の二元論が控えている。価値と事実とを峻別することは、
主観と客観とを峻別する態度からひとつの現れにすぎないとさえ言えよう。もちろん、これらの峻
別が全面的に間違っているということではない(私自身も、例えば学生に論文作法を指導するよう な場面では、客観的な事実と主観的な価値判断との混同を戒め、両者を峻別するよう注意する、た だし、当の私が論文を書くにあたって自らの戒めと注意に忠実であるかどうかはかなり怪しいが)。
( )
しかし、両者が完全に分離することになると、「客観性」は、「主観性と関係し得ない」客観性となり、
「主観性」もまた「客観性と関係し得ない」主観性となってしまう。これは、(悪名高き)「主観─
客観図式」であり、この図式を(使うのが少々気恥ずかしい言葉なので括弧で括るが)「乗り越える」
ための様々な試みが現代の哲学者たちによって行なわれていることは、改めて指摘するまでもない。
私自身が、この問題を考察するさいの出発点であると同時に終着点として念頭に置いているのは、
ウェーバーの次の言葉である。「あらゆる経験的知識の客観的妥当性は、与えられた実在が、ある 特定の意味において主観的な、ということはつまり、われわれの認識の前提をなし、経験的知識の みがわれわれに与えることができる真理の価値と結びついた諸範疇に準拠して、秩序づけられると
( )
いうこと、また、もっぱらこのことのみを、基礎としている」。この「ある特定の意味において主 観的な」ものに基づく客観性というウェーバーの表現には、「客観性と関係し得る」主観性概念の 可能性が示唆されているように私には思えるのである(この言葉自体が、「客観性と関係し得ない」、 私の単なる主観的判断の表明となってしまっていることは何とも遺憾である)。
福岡大学研究部論集 ( )
注
順不同に挙げれば、ルソー、スピノザ、カント、アリストテレス、ストア派、スペンサーら も、自然主義的誤謬を犯した廉でムーアの告発の対象となっている。
のみならず、功利主義にとっても不幸なことであった。というのも、ミルがこの誤謬を犯し たと指弾された箇所は、彼が功利主義の根本原理を証明しようとしたまさにその場面であった からである。ミルの誤謬は、すなわち、功利主義の誤謬ということになってしまったのである。
ムーアの批判からミルの証明を擁護しようとする試みは、すでに様々な論者によって行なわ
れてきた。代表的なものは、 (
)に収められている。また、平尾透の『功利性原理』(法 律文化社、 年) 頁では、いくつかの擁護論が取りあげられ、それらが批判的に検 討されている(ちなみに平尾のこの著書はすこぶる野心的であり、刺激的である)。
注目すべきは、その後に展開されている平尾自身のミル擁護論である。彼は「絶対的単独者」
という想定を通じて、ミルの証明の擁護を試みる。その核心は以下の部分である。
…ここで絶対的単独者というものを考えてみれば、どうであろうか。働きかけるべき他人 の存在しない情況を想定してみれば、どうであろうか。言い換えれば、一つの自足的社会或 いは人類全体を一人の人間と仮定すれば、どうであろうか。そのような彼にとって望ましい ものとは何であろうか。彼は何を善と認めうるであろうか。
それは、明らかに彼の望んでいるものであり、そしてそれだけであろう。価値の享受者及 び判定者は彼以外になく、彼なくして価値は成立しえないからである。彼にとっては(少な くとも究極的・最終的に)望んでいるもの以外に、望ましいものは原理的・必然的にありえ ない。逆に言えば、彼の望んでいるものは、それが何であれ全て無条件に望ましいものであ る。そしてここにおいては、確かにミルの言うように、「何かが望ましいということが提出 しうる唯一の証拠は、人々が実際にそれを望んでいるということである」。…( 頁)
平尾はこの文章に先立って、ミルの証明しようとした「原理が…他人の存在を捨象した非社 会的な人間の立場から、捉えられている」ことを説明しているが、これがミル解釈として妥当 なものかどうか、ミル研究に関して素人の私には判定できない。しかし、ミル解釈という場面 を離れても、この平尾の提案は興味深い。そして興味深いだけに色々な疑問が湧いてくる。例 えば、「働きかけるべき他人の存在しない情況」にあるこの絶対的単独者がどのような生活形 式を有しているのか、とりわけ、彼もしくは彼女は、(ウィトゲンシュタインの言葉を使えば)
どのような言語ゲームを営んでいるのか、そもそも、言語ゲームを営めるのか(私には、言語 ゲームのないところに価値の存立を認めることはかなりむずかしいように思える)。また、「一 つの自足的社会或いは人類全体を一人の人間と仮定」せよ、と言われても、正確なところどの ような事態を想定すればよいのか、必ずしも明瞭ではない。そして、何よりも、「働きかける
べき他人の存在しない情況」にある「絶対的単独者」という(少なくとも私にとっては驚くべ き)想定をしない限り、ミルを擁護することはできないのであろうか(この「絶対的単独者」
という想定は、注の で触れる「合成の誤謬」を回避するためにこそ有効に機能するように思 える。また、私自身の立場は、後述するように、このような「絶対的単独者」という想定をし なくともミルの擁護は可能だというものである)。
( ) 邦訳「功利主義」(伊原吉之助訳、『世界の名著 ベンサム ミル』、中央公論社、 年、所収)、 頁。
実は、ここでミルは「各人は…自分自身の幸福を望んでいる」という命題から「全体の幸福
( )は望ましい」という結論をも導出しているのだが、この結論を導出す るためには「すべての人は全体の幸福を望んでいる」という命題が必要となる。しかし、「す べての人は全体の幸福を望んでいる」という命題の証拠として挙げられている命題が「すべて の人は自分自身の幸福を望んでいる」であるとしたら、後者から前者を導出することは「合成 の誤謬」を犯すことに他ならない。新田孝彦の挙げている例を使えば、「すべての親はわが子 の幸福を望んでいる」としても、そこから直ちに「すべての親はすべての子供の幸福を望んで いる」とは言えないからである(新田義彦『倫理学の視座』、世界思想社、 年、 頁)。こ の「合成の誤謬」は、「自然主義的誤謬」と並んで、ミルの証明が犯しているとされる誤謬と してよく知られているが、小論において私は、ミルの証明がこの「合成の誤謬」を犯している かどうか(そしてまた、この点に関してミルを擁護することが可能かどうか)に関しては、判 断を留保し、もっぱら「自然主義的誤謬」に考察の焦点を当てる。そのため、直後の本文に掲 げたミルの証明の再構成にあたっては、この「合成の誤謬」(とされる部分)である「全体の 幸福」を削除するという措置を施している。小論において私が試みるのは、「幸福を望んでいる」
から「幸福は望ましい」の導出の正当性を示すことに限定される。
( ) 邦訳『倫理学
原理』(深谷昭三訳、三和書房、 年) 頁。以下、 からの引用はこの邦 訳書に拠るが、一部訳文を変更した箇所がある。
岩崎武雄「現代英米の倫理学」(『岩崎武雄著作集』第六巻、新地書房、 年、所収)、 頁。
岩崎は、自然主義的誤謬に関して「善ということばの意味を他のことばの意味と混同すると いう誤りと、存在判断から価値判断を導こうとする誤りとを厳密に区別しなければならない」
とした上で、「重大なのはむしろ後者の誤りであり、ムーアが自然主義的な誤りという名の下 で本当に考えて」いるのはこの後者の意味での誤りであった、と述べている。岩崎、前掲書、
頁。
ミルもまた、かの証明に際してその種の言葉を用いていない。
邦訳 頁。
福岡大学研究部論集 ( )
このように書くと、ムーアは明白な論点先取を犯しているように見えるかもしれない。「善 いとは望まれているということだ」という定義を提案する倫理学者にとって、「望まれている」
という性質は「善い」と「絶対的かつ全面的に同一」のものであり、「他の性質」ではありえ ない。それに対し、ムーアは両者が互いに異なる「他の性質」であるという前提に立って、か の倫理学者が自然主義的誤謬を犯していると批判している。ムーアとこの倫理学者の根本的な 争点は、善と「望まれているもの」とが「同一の性質」なのか「異なる性質」なのかというこ とにあるにもかかわらず、ムーアが両者は「異なる性質」であると前提した上で、自然主義的 誤謬という言葉で相手を批判するとしたら、それは明白な論点先取であろう。しかし、実際は、
そうではない。ムーアの有名な「開かれた問い」論法がここでは効いている。
邦訳 頁。
邦訳 頁。
邦訳 頁。
邦訳 頁。
ムーアの「自然的 非自然的」対象(性質)の区別に対しては、ブロードの古典的な批判が ある。
( そこでのブロードの批判のポ
イントは、自然主義的性質とて、「それ自体で時間において存在し得る」ことはないというも のであった。このブロードの批判を受けてムーアは次のように述べて自らの誤りを認めた。「…
自然的対象が持つ、私が『自然的』と呼ぶ性質と、私がこれは自然的な性質ではないと主張し た『善い』という性質との違いは、自然的性質が、それ自体で時間において存在し得るのに対 して、…『善い』という語が意味する性質はそのようなしかたでは存在し得ない、という点に あるというのが『倫理学原理』[原書] 頁で私が言おうとしたことであった。ブロード氏は、
自然的対象が持つ、私が「自然的」と呼んだ性質が…それ自体で時間において存在し得る…と は考えられないと述べている。この点に関しては、私はブロード氏に完全に同意する。私は[現 在ではもはや]自然的性質がそれ自体で時間において存在し得るなどとは考えていない。のみ ならず、自然的性質がそのようなしかたで存在することはあり得ないということを完全に確信 して[さえ]いる。『倫理学原理』における私の提案は、現在の私の眼には、まったく馬鹿げた、
非常識なものとして映る。」( 強調は原文、[ ]内 は関口による補足。)しかしながら、この『倫理学原理』公刊から約 年後の「自己批判」を、
小論では考慮しない。あくまでも、『倫理学原理』における(若き)ムーアの論述を検討の対 象とする。
小泉仰は、「望まれている」を「主観的心理的性質」という自然的性質に分類している。小 泉仰「 世紀価値論への挑戦」(粟田賢三・上山春平編『岩波講座 哲学 価値』、岩波書 店、 年、所収)、 頁を参照せよ。しかし、その分類のテキスト上の根拠は不明である。
彼が参照を指示している『倫理学原理』原書 頁には「望まれている」という性質についての
言及はなく、したがって当然「主観的心理的性質」なる「自然的性質」も登場していない。
これは、ギーチの言う「単なるケンブリッジ変化」であろう。
( ) 「変化」の問
題はむずかしく、本来ならこの問題について本格的な検討を行なう必要があるが、小論の主題 から大幅にずれることになるので、今回は踏み込まない。
リンゴという具体的な対象と、ミルが問題にしている幸福という抽象的な対象とでは、話が 違うという反論があるかもしれない(もっとも、ミルにとって「幸福」は抽象的な対象ではな く、「快楽」という具体的な対象であろうが)。話を単純にするために、抽象的な対象は、人間 の思考の中においてのみ存在するという(乱暴にして素朴な)存在論を仮定してみよう。その 場合ですら、「考えられている」「好ましく思われている」「厭わしく思われている」等々のし かたで思考の対象となっていれば、その抽象的対象は存在するのであり、たとえ「望まれなく なった」としても、その対象から何かが失われるわけではない。ただ、「誰からも望まれない 幸福」という概念が有意味かどうかは、問題であるが。
この論点は平尾透から教えられた。平尾、前掲書、 頁、注( )を参照せよ。
平尾、同書、 頁。
また日本語の「望ましい」にも「望むべし」という当為の意味合いはないであろう。
ちなみに ( )は、 を
と定義している。
しかし、永井均は次のように述べている。「およそミルはその種の[『望ましい』が『望まれ ている』を意味する、といった]意味に関する議論とは無縁であったと言えよう。彼は『望ま しい』が『望むべき』や『望むに値する』を意味することを、当然の前提として認めていた、
と解することができる。そのような意味論的事実を自明の前提とした上で、ミルは現に人々が 望んでいることの一般的実現こそが望ましい(望むべき)ことだと主張したのである。それは 最大多数の最大幸福の実現へ向けて実践的な呼びかけの行為であった、と解することができ る。」(永井均『 私 のメタフィジックス』、勁草書房、 年、 頁。)私は、ミルの証明は あくまでも功利性原理の「証明」であると解し、「実践的な呼びかけの行為」であるとは解さ ない。したがって、ミルの 幸福は である という命題を、人々に向って「幸福を望 むべし」という当為を主張したものとは受け取らない(そもそも、現にすでに「人々が望んで いること」について改めてそれを「望むべし」と人々に「呼びかける」ことのポイントが私に はわからない)。ミルが、ムーアとは異なり、「意味に関する議論とは無縁であった」というこ とは永井の言うとおりだと思うが、その「無縁さ」から直ちに、ミルが「『望ましい』が『望 むべき』や『望むに値する』を意味することを、当然の前提として認めていた」という解釈が なぜ出てくるのか、私には理解できない。
私の推測では、ムーアの議論を、ヒュームの例の「である」から「べし」への移行不可能性 の議論(
福岡大学研究部論集 ( )
)と混同してしまう傾向が、このような現 象が生じることの一因となっているように思える。ムーアの議論をヒュームのそれと重ねるこ と が 誤 り で あ る こ と に つ い て は、 次 に 指 摘 が あ る。
( ) また、平尾、前掲書、 頁、注( )には「ムーアに言わせれば、
ヒューム[の『である』から『べきである』への移行を戒める議論]もまた『自然主義的誤謬』
を犯していることになる」という興味深い指摘が見える。
ただし、先の私の議論をここに適用すれば、「見られている」は非自然的性質ということに なり、したがって、自然主義的誤謬を犯していないことになる。
小泉、前掲論文、 頁。
だが、これよりももっと簡単な説明が存在しているように思える。例えば、「福岡大学は七 隈にある」という命題から「福岡大学には黒猫が二匹存在する」という命題は導出できない(た とえ、どちらの命題も真であるとしても、前者から後者が論理的に演繹されるわけではない)。 このとき、その導出不可能性の理由として、この二つの命題が「別種」の命題であることを挙 げることは、明らかに不適切であるし、いわんや、二つの命題がかかわる「存在領域」の相違 という、存在論上の差異を持ち出すことは、滑稽ですらある。なぜなら、この場合、「福岡大 学は七隈にある」という命題と「福岡大学には黒猫が二匹存在する」という命題とは、ともに
「同種」の事実命題だからである。「福岡大学は七隈にある」という事実命題から「福岡大学 には黒猫が二匹存在する」という事実命題を導出することが許されないのは、たんに、妥当な 論理的導出(演繹)とは、前提に含まれている事柄のみを結論として導出するものでなければ ならず、それ以外の導出は論理的に妥当なものとは見なされないからであって、両者が存在論 的に別種の命題であるからというわけではない。
同様に、「事実命題」から「価値命題」の導出が不可能であることについても、前提である「事 実命題」に含まれていること以外のことを、結論である「価値命題」が含んでいるからであり、
そしてただそれだけのことに過ぎないという説明が可能である。例えば「飲酒を望んでいる」
という事実命題から「飲酒は望ましい」という価値命題を導出できないのは、後者の命題に含 まれている「望ましい」が前者の命題に含まれていないからである。両者の間に横たわる「存 在領域」の相違という、存在論上の差異なるものを持ち出して説明するには及ばない。ただし、
以上の説明は、事実命題から価値命題は導出できない、ということを前提にする限りでの説明 であることには念を押しておきたい。
平尾、前掲書、 頁にも同様の主張が見られる。ただし「純粋価値」という言葉は使われ ていない。
ところで、黒田亘は『行為と規範』(勁草書房、 年)において、「功利説の基礎にかかわ る、もっとも細心細密を要する議論の場面で、『望まれる』と『望むに値する』とをミルが混 同していた、などということが容易に信じられるだろうか」と前置きした上で、「私にはこの 批判はむしろ批判者の側の先入見を、すなわち内在主義的正当化理論の諸前提に由来する偏見
を露呈しているように見える」とムーアに対して反批判を展開している( 頁)。黒田の主張 の要点は次の部分に求められる。
要するに、評価や行為の正当化に関して引き合いに出される願望、欲求、愛好などは、それ らが正当化の根拠として有効に機能するかぎりは、価値や規範から絶縁されたたんなる内的 事実ではありえない。もともとそれらは日常の生活を律している慣習や制度との関連におい てのみ意義をもつ体験であり、すでに公共性の地平にある事実なのである。われわれは一瞬 たりとも裸の事実のうちに、すなわち価値抜き規範抜きの事実のうちに生きることはない。
どんなに胸深く秘められた欲望でも、それは必ず「欲望の体系」という社会的現実から、生 活の全体構造から理解されなければならない。( 頁)
私の「価値から完全に切り離された、純粋欲求なるものは存在し得ない」という主張は、一見 すると、ここでの黒田の「願望、欲求、愛好などは…価値や規範から絶縁されたたんなる内的事 実ではありえない」という論点と同じことを述べているように思われるかもしれない。しかし、
私の主張は、(少なくとも)次の二点において黒田のそれと異なっている。
第一に、黒田は「それらが正当化の根拠として有効に機能するかぎりは」という限定を施し ていたが、私は、その種の「正当化の文脈」を念頭にまったくおいていない。私が考える欲求 と価値との関係は、欲求(命題)が「評価や行為の正当化に関して引き合いに出される」か否 かに係わりなく成立している、もっと言ってしまえば、そのような正当化の作業に先立って成 立している(べき)、論理的(文法的)関係である。
第二に、黒田の強調する、黒田の言う意味での、欲求の「公共性」という観点に、私は同意 できない。黒田は「欲求や願望や好みがひとの是認できるもの、少なくとも理解できるもので なければならない。公共の生活から切り離された、純粋な私的体験の事実について語っても、
選択や行為の理由を与えたことにはならないのである」( 頁)とも述べている。この文章か らもわかるように、黒田の考える「欲求の公共性」とは、「選択や行為の理由を与え」るとい う「正当化の文脈」から要請されるものであるが、上に述べたように私の考える欲求と価値と の関係は、欲求主体が「選択や行為の理由を与え」るという「正当化」に失敗したとしても、
あるいはそのような正当化にまったく無関心であったとしても、成立している関係である。す なわち、たとえその欲求が「ひとの是認できるもの、少なくとも理解できるもの」でなかった としても、その欲求の主体が、ある対象に欲求を抱いたならば、必ず成立している関係なので ある。したがって、私が「価値から完全に切り離された純粋欲求は存在し得ない」と述べると き、私は、私的な欲求の存在を否定していない。(誰からも是認されないという意味での)私 的な欲求の場合でさえ、それに対応して(誰にも是認されないという意味での)私的な価値が 欲求の対象には認められているのである。例えば、永井均がかつて挙げた印象的な例(永井、
前掲書、 頁)を使えば、私がなぜか理由もなく突然「泥の皿を食べたい」という欲求を覚 福岡大学研究部論集 ( )