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東西の「虹」に関する比較民間伝承

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(1)

東西の「虹」に関する比較民間伝承

著者 奥田 喜八郎

雑誌名 教育実践研究指導センター研究紀要

巻 2

ページ 13‑21

発行年 1993‑03‑31

その他のタイトル Rainbows in the Sky (I)

URL http://hdl.handle.net/10105/4434

(2)

奥 田 喜八郎 (英米文学教室)

Rainbowsin theSky (I)

Kihachiro OKUDA

(English American Literature, Nara University of Education)

In biblical tradition, the rainbow is God's sign in the sky, set there after the Flood as a promise that the world would never again be destroyed by water. Pagan mythologies and folklore have seen it as a spirit (in Burma and among the Zulus, as a dangerous demon), or a weapon used by the gods, or as asoul‑bridge (in China and Japan). In India, and also in

Finland, it was the bow from which the thunder一god shot his lightning‑arrows. In ancient

Scandinavia, it was Bifrost, the bridge that Odin built from Midgard, the home of men, to Asgard, where the gods dwelt. Along it passed the souls of the dead, if they were worthy to do so. If they were not, they were destroyed by a fierce fire which is visible to us here below as the red colour in the bow.

Key words: divine message, covenant

「虹」のことを、英語で、 rainbowという。これは、古英語で、 regnbogaといい、 ren rain + bogabowから派生した古英語なのである。これはまた、古代高地ドイツ語の、 reginbogoと同じ 語族である。あるいはまた、古代ノース語の、 regnbogiと同語族である。ドイツ語では、 regen‑

bogenといい、オランダ語では、 regn‑boogといい、スエーデン語では、 regen‑bagnといい、デ ンマーク語では、 regen‑bueというのだそうである。

OEDCThe Oxford English Dictionary)の説明によると、 I

A bow or arch exhibiting the prismatic colours in their order, formed in the sky opposite to the sun by the reflection, double refraction, and despersion of the sun's in falling drops of rain.

I‑‑‑上い‑1,‑,

それではまず、 『聖書』に明記されている「虹」について、以下にそれを紹介しておこう。最初 に思い出されるのは、 「創世記」の中に明示されている神の言葉である。

すなわち、わたしは雲の中に、にじを置く。これはわたくLと地との問の契約のしるしとなる。

わたしが雲を地の上に起すとき、にじは雲の中に現れる。こうして、わたしは、わたしとあなた がた、及びすべての肉なるあらゆる生き物との間に立てた契約を思いおこすゆえ、水はふたたび、

すべて内なる者を滅ぼす洪水とはならない。にじが雲の中に現れるとき、わたしはこれを見て、

神が地上にあるすべて肉なるあらゆる生き物との間に立てた永遠の契約を思いおこすであろう。

(3)

そして、神はノアに言われた、 「これがわたしと地にあるすべて内なるものとの間に、わたしが

・ 1 、

立てた契約のしるLである。」

これは第九章の第十三節から第十七節までの神の言葉である。 「虹」は、すなわち、 「もはや洪水に よって滅ぼされることはなく、また地を滅ぼす洪水は、再び起らないであ

ろ つ

」という、雲の間に あらわれた「神の契約のしるし」なのである。

さらに、 「エゼキエル書」の中にも、‑「そのまわりにある輝きのさまは、雨の日に雲に起る

(3)

にじのようであった」 ‑という神の言葉が明記されているのである。これは、第一章の第二十八 節の神の言葉である。

以上は、 「旧約聖書」の中に明示されている「虹」に関する神の言葉である。 「新約聖書」の中に も「虹」に関する神の言葉が明記されているのだo たとえば、 「ヨ‑ネの黙目録」をひもといてみ ると、‑

その座にいますかたは、碧玉や赤めのうのように見え、また、御座のまわりには、緑玉のように

(4)

見えるにじが現れていた。

‑という。これは、第四章の第三節の神の言葉である。また、同書の第十章の第一節に、 ‑ わたしは、もうひとりの強い御使が、雲に包まれて、天から降りて来るのを見た。その頭に、に

(5)

じをいただき、その顔は太陽のようで、その足は火の柱のようであった。

‑というのがこれである。

このように、 『聖書』の中に厳粛に明記されている「虹」のイメージは、あくまでも、 「神の伝言」

(divine message)であり、また、 「神の契約」 (covenant)であり、そして、 「トラブルの終わり」

(end of troubles)であり、さらに、 「幸運」 (blessing)を明示するものである。これらのイメー ジに、まず、注目しよう。

思うに、古代のイスラエル人は、あの「ノアの洪水後に、雲の間に現れた虹」を仰ぎ見て、どん なに深く感謝の念をいだいたことか!それはまさしく、 「神のお許しのしるし」 (God's pardon) であり、地上の肉なるものすべてとの「神との和解のしるし」 (God's reconciliation)なのである からである。

再び恩うに、 「黙示録」の中に厳格に明示されている「虹」は、まさしく、イエス・キリストを イメ‑ジし、また、聖母マリア様をイメージするものである。

虹といえば、すぐに思い浮かぶのは、七色である。虹の七色というのは、わが国では、紫(vio‑

let)、紺(indigo)、青(blue)、緑(green)、黄(yellow)、柑(orange)、赤(red)の彩をあらわ すのであるが、しかし、イギリスとか、アメリカでは、通例、紺(indigo)を省いた六色と考えら れている事に、注意したい。それにしても、 vibgyor 〔vibgj〇:〕ということばの用いられていると いうのは、一体、どうした訳なのか?ご存知の通り、 vibgyorという語は、虹の七色の覚え方を示 す略語であるからだ。 ⅤはvioletのVであり、 iはindigoのiであり、 bはblueのbであり、 g はgreenのgであり、 yはyellowのyであり、 Oはorengeの0であり、そして、 rはredのrで あるという、それぞれの頭文字を集めた語であるからだ。しかし、重複するが、イギリスや、アメ

リカなどでは、一般の人は通例、 indigoを数えないで、 「虹は六色」であると思っているのである。

この「虹の七色」の中の1つ、すなわち、 「緑色の虹」 (a green rainbow)は、かれらにとって、

「ェメラルド色」 (emerald)のような色をしているが故に、 「神の慈悲」を明示する色として、彼 らはこの「緑色の虹」を崇敬しているようである.これは、たとえば、 「黙示録」の中に、 ‑

And he that sat was to look upon like a jasper and a sardine stone:and there was a rainbow

(4)

round about the throne, in sight like unto an emerald.

‑と明記されている神の言葉を恩い出すからであろう。これは、すでに上記に紹介しておいた第 四章の第三節の神の言葉である。また、第十章の第一節の‑

And I saw another mighty angel come down from heaven, clothed with a cloud; and a rain‑

bow was upon his head, and his face was as it were the sun, and his feet as pillars of fire.

‑という神の言葉もまた、然りである。 「御座のまわりには、縁玉のように見える虹が現れてい た」という神の言葉に、大いに注目されたい。そして、 「もう1人の強い御使が、雲に包まれて、

天から降りて来るのを見た。その頭には、虹をいただき、 ‑・」という神の言葉にも、大いに注意さ れたい。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

にじ、というと、虻、霞、脱、ということばを思い出す。にじの「に」は、丹である。これは、

赤色を主とするものである。たとえば、 「にしき」のようなものである。

また、にじの「じ」は、あらし(暴風)の「し」であるとか、あるいは、つむじの「じ」などに 歎するものなのである。故に、にじ、というのは、恐らくは、にじみ(丹染)という意味を有する 語であろうか。にじを、古言で、ぬじ、というのをご存知であろう。

念のために、 『広辞苑』 (第三版)を播いてみると、 ‑

雨あがりなどに、太陽と反対側の空中に見える七色の円弧状の帯。大気中に浮遊している水滴に 日光があたり光の分散を生じたもの。外側に赤、内側に紫色の見える主虹のはかに、その外側に はなれて色の準を逆にする副虹が見える。

‑という説明文が添えられている。その古い版では、 ‑ 「必ずしも七色がそろってみえるもの ではない」 ‑と説明されているのであるが、しかし、上記にすでに紹介しておいたOEDの rainbowに寄せた説明文と読みくらべてみると、大差はない。全体的に見て、矢張り、 OEDの方 が辞書の編さんの、例文の規模の大きさに驚嘆させられる。

なにはともあれ、主虹のほかに、副虹のある事を知って驚くのであるが、しかし、それはそれと して、にじは、太陽の光が大気中の水分、すなわち、雨に映って、七色の彩をあらわし、太陽と反 対の天空に弧状に見える現象であって、それ故に、朝には西天に虹がかかり、また、暮れには東天 に虹がみえるのである。

虹という語は、内が古い字形である。これは、娩(げい)に作るらしい。これは、雌雄二匹の虹、

すなわち、虫が相連なっている形である、というのは面白い。そして、虫偏に作るのは、曲がって いる形が虫に似ているからである、というのも愉快である。また、工が音を表わし、相連なる意味 の語原、洞(とう)からきている、というのも心楽しい。また、姉妹(ていとう)と書き、帯(た い)の音は綴(てい) 、すなわち、連なる、というのも楽しい。東の音は洞(とう)からきていて、

姉娘も、虹のそれと同じように、虫の達なるという意味を示すことばであるのも、こっけいである。

古代人は、にじを見て、それはまるで虫の相連なる形をしていると考えて、虹という文字を創意し たものであろう、と空想してみるのも胸がわくわくするのであるが、それと同時に、古代人の知恵 にただただ感心するばかりである。また、虹が転じて、橋のことを意味する語である、というのも すばらしい。にじを橋に見たてて、虹橋といい、また、にじのように高く弓なりにかかった橋のこ とを、虹桟というのも見事である。さらに、虹脱、虹寛(こうげい)といって、にじを意味するの も、たくみである。というのは、霜は蛇(げい) 、すなわち、にじを意味する語であるからである。

せみの一種である、 「つくつくばうし」のことを、蛇という。この見(げい)が音を表わして、

(5)

虫の名であって、これが寛(げい)に借用して、にじの意味に用いるようになったらしい。虹娩 (こうげい)というのも、あざやかではないか。

雄を虹(こう)といい、また、雌を寛、娩(げい)といって、寛もまた、にじという意味を有す る語であるのも、見事である。にじのように美しい「ころも」のことを、寛衣(げいい)といい、

また、にじのように美しい「もすそ」のことを、霞裳(げいしょう)というのも、艶やかである。

(6)

そう言えば、唐の玄宗皇帝(685‑762)が作ったといわれている、あの天人を歌った舞曲のことを、

「霜裳羽衣曲(げいしょういのきょく)」というのも、哀れ深くも、また、美しい限りである.雌と 雄とが相連なる形をイメージし、にじを仰ぎ見て、虹、脱、霜、ということばを作った、古代人の 知恵は、矢張り、すばらしい。まるで神懸りの仕業のようである。たとえそれが雌と雄との虫が相 違なる形、すなわち、交尾する姿をイメージするものであろうとも、なまめかしくも、美しい限り

である。

(7)

そう言えば、中庸の詩人自居易(772‑846)は、 「良恨歌」の中で、 ‑ 「驚破寛裳羽衣曲」一

(8)

一という一行をうたい上げているのは、有名である。玄宗皇帝のそれは、勿論、楊貴妃の美しさを、

にじの美しさにたとえて賛嘆し、愛を告白したものと恩われるし、自居易のそれもまた、楊貴妃の 美しさに驚嘆し、にじのように美しい羽衣を身にまとっている天女の美しさを絶賛している一行で

あるのも、うれしい。

わが国では、にじを、古言で、ぬじ、ということを上記ですでに指摘しておいたのであるが、こ のほかにも、たとえば、出雲地方では、にじのことを、びょうじ、といい、また、若狭、越前地方 では、みょうじ、といい、さらに、駿河地方では、ぬじ、のじ、というようである。

(9)

『倭名抄』の「雲雨類」の中に、 ‑ 「虹、爾之」と明記されている。また、 『天武紀』の「下」

の「11年8月」の件に、 ‑ 「成寅、亦地震、是日平旦有虹、富干天中央、以向日」 ‑と記載さ れている。さらに、 『夫木抄』の「十九」の「虹」の件に‑「時雨レツツ、にじクツソラヤ、岩 橋ヲ、ワタシ‑テクル、カツラギノ山」‑という一首が明記されているのである。

このほかにも、たとえば、 『免園小説』の「四」の中に、 ‑

虹霞ノ立チテ西二有ル‑、明日必雨降り、東二見るユルハ、必風吹ク、切レ切レニ光り散ル‑、

風起ル、日暮二見ユル‑、天風ナリ

‑と明記されているのであるO ここに言う「虹寛の立ちて西に有るは」というのは、無論、虹は 太陽と反対の天空に弧状にみえるのであるから、この虹は「朝の虹」である。朝、太陽が昇って、

西の空に虹があららわれると、 「明[=まかならず、雨が降る」という知らせであるらしい。

また、ここに言う「東に見ゆるは」というのは、 「午後の虹寛」である。太陽が西の空にかたむ き、東の空に虹が現われると、 「かならず風が吹く」という知らせであるようだ。さらに、ここに 言う「切れ切れに光り散るは」というのは、虹が所どころ消えている場合の虹であって、このよう

な虹が空にかかると、 「かならず、風が起こる」という前触れであるようだ。風は風でも、恐らく は、荒れ狂う暴風がやって来る、というのかも知れない。また、ここに言う「日暮に見ゆるは」と いうのは、太陽が西の彼方に沈もうとしている頃に、東の空の虹が現れると、 「天風である」とい う前触れであるらしい。

それにしても、 「天風」とは、一体、いかなる風なのであろうか。たとえば、 「天雨」というのは、

「天に雨が降る」と読むようだが、しかし、 「天に雨が降る」というのは、単に「雨が降る」という

10)

意味であるらしい。たとえば、韓非(?‑前233頃)が、 「説難」の中で、 ‑ 「天雨措壊」 ‑と

明記しているのである。ここに言う「精(しょう)」というのは、蕎(しょく)の転音が昔を表わ

(6)

し、たてる、という意味の語原、すなわち、植からきている語であるらしい。また、月(しょう) というのは、さえぎるつくりもの、すなわち、障の意味を表わす語であるようだ。つまり、措とい うのは、 「区切りにたてたかきね」という意味を有する語である。そうだとすると、韓非の明記し た「天雨膿壊」というのは、つまり、 「(天に)雨が降って、水をさえぎる、かきねがこわれた」と いう意味であろうかと思われる。 「かきねが壊れる」ほどの雨量であるから、これは、大変な大雨 か、暴雨を明示する、 「天雨」であるかも知れない。

そうすると、 「大風」というのは、韓非の言う「天雨情壊」ということばを鑑みてみると、恐ら くは、 「天に風が吹く」と読むべきではあるまいか。すなわち、 「(天に)風が吹いて、かきねがこ われた」と読めないこともあるまい。もしこの推論が許されるならば、恐らくは、 「かきねが壊れ る」ほどの風圧であるから、 「天雨」のそれに習って、これは大変な強風、あるいは、暴風を明示 する、 「天風」であるかも知れない。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

英語の"ainbowという語は、 rain+bowの2つの語から成り立っ語であることを、この拙文の 初めの方で指摘しておいた。虹のことを、 rainbowといい、また、別に、 bowというのも、これ で納得されるだろう。聖書の中に明記されている虹は、 rainbowは「新約」に、 bowは「旧約」に 使用されていることに、注目しよう。

という訳は、 bowという語は、古英語では、 bog といい、また、古代高地ドイツ語では、 bogo といい、さらに、古代ノース語では、bogiといって、これらは、恐らくは、インド・ヨーロッパ 語族の、 bheug‑、すなわち、 to bendという原義を有する語から派生してきた語群であるからであ る。 「曲がる」 「曲げる」という原義を有する、つまり、 「弓」という意味の語bowであるからであ る。 「弓」 (bow)と、 「矢」 (arrow)は、北ヨーロッパの古代人、すなわち、古代ゲルマン人にとっ て、人や、物を撃っための道具なのである。道貝というよりは、武器といった方がより適切かも知 れない。広い意味での攻撃や、防御に用いられていたものである。彼らは、雨がやんだ空に弓形に かかっている虹を見て、先ず、 (rain十)bowと名付けたのも、うなずけるではないか。あるいは、

雨上がりの虹でなくても、たとえ大きな滝のあたりに現れた、弓形の虹を見て、 (rain+)bowと名

(ll

付けたとしても、納得できる。 OEDの例文によると、イギリスの学者アルフリク(Grammatikus Alfric, 7955‑1020)の、 ‑

jEteow^ nrin bo岩a On苗am wolcnum.

‑という一文を紹介している。また、イギリスの哲学者であり、神学者であり、宗教改革の先駆

(12)

者であるウィクリフ(JohnWycliffe,1320/29‑84)の、 ‑ See the bowe, and blisse hym that made it.

(13)

‑という荘厳な一文も紹介されている。さらに、イギリスの詩人ドレイトン(Michael Dray‑

ton,1563‑1631)の、 ‑

The bowe appeares to tell the flood is donne.

‑という「旧約聖書」の中の「ノアの洪水」の神の言葉を想起させてくれる一文を紹介している のだO そして、弧峰ミルトン(JohnMilton,1608‑74)の代表作『失楽園』の中の‑

A dewie Cloud, and in the Cloud a Bow.

‑という11巻の865行目の一文を紹介しているのである。スコットランドの牧師の家に生まれな がら、聖職の志を変えて、イギリスの詩人となったトマソン(JamesThomson,1700‑48)の詩集

「春」の中から‑

(7)

Bestriding earth, the grand ethereal bow.

‑という「虹の橋が天上に現われて、その雄大な、この世のものとも恩えない美しい虹」を紹介 している。そして、ヴィクトリア朝詩を代表するテニソン(Lord Alfred Tennyson, 1809‑92) の代表作『イン・メモリアム』の中から、‑

Every dew‑drop paints a bow.

‑という、 「亡友に対する追憶の情と、自己の魂の苦悩の記録とを、ないまぜにしっっ歌い続け

、.I

た哀歌」の一文を紹介しているのだ。

以上が、すべて、虹(rainbow)という意味を有する、 bowという語を用いていることに、注意 されたい。それは、あくまでも、弓形をしている虹というイメージで使用されている古い語であり、

それがいっしか詩的な用語として使われるようになった語なのである。

思うに、この、北ヨーロッパの古代人、すなわち、古代ゲルマン人は、空中に現われた、にじ、

を見て、それが弓形をしている所から、 bow、という語を用いて、 ram‑bowを意味する語となっ た、というのは大変愉快である。彼らは、騎馬型民族であることを思い併せてみると、その一語 (bow)に戦闘的な一面を覗かせているのも、楽しい限りである。

それに対して、わが国では、というよりも、中国の古代人は、空中に現われた、にじ、を見て、

それはまるで雌・雄の虫が相連なっている姿を連想し、そして、彼らは、虹、脱、寛、という語に かたどった、というのもまた非常に面白い。彼らは、農耕型民族であることを思い合わせてみると、

それらの語、すなわち、虹、脱、寛に一種のエロチシズムを垣間見ることのできるのも、心楽しい 限りである。恩うに、中国の古代人の、その一種のエロチシズムの影響を色濃く受けついだわが国 の古代人は、空中に現れた、にじ、を見て、それは太陽の光りが大気中の水気、すなわち、雨に映っ ている彩であることを恩いっき、にじの「に」は丹(に)、すなわち、赤色を主として、そして、

にじの「じ」はあらし、すなわち、暴風、あるいは、つむじに類するものであって、不安定な空模 様を予知し、そして、にじは、いわゆる、丹染(にじみ)という意味であろう、と考え付いたとい うのも、感動深い。

それでは、南ヨーロッパの古代人、すなわち、古代ローマ人や、古代ギリシア人は、一体、どう かというに、 bowという英語は、もと、インド・ヨーロッパ語族の、 bheug一、から派生した語で あることを、上記にすでに、論述しておいた通りである。それも、 tobend、という原義を有する 語であることも、すでに、ご存知のことと思う。また、別に、 toswell (「ふくらむ」 「はれる」)

という原義を有する語である、というのもまた滑稽であるのだが‑。しかし、 bowという語は、ラ テン語の、 fugere、あるいは、ギリシア語の、 pheugein、という語から音法則的に発達した語であ ることを思い出してみると、古代ローマ人や、古代ギリシア人の、にじ、に寄せる見方もまたなか なか興味深い。というのは、ラテン語の、 fugereという語は、 to flee、という原義を有する語で あるからである。 to flee、というのは、今ではやや文語的な語となっているが、しかし、イギリ スでは、現在形には、 flyを、また、現在分詞形には、 flyingを用いることをご存知だろうと患う。

これは、 「逃げる」とか、 「消える」という意味の語(flee)なのである。たとえば、‑Themists fledbeforethemorningsun.‑という風に用いられる語なのである.弓なりの虹、そして逃げ

る虹、消える虹というイメージもまた、印象深いではないか。

念のために、 『羅和辞典』 (Lexicon Latino‑Japonicum)をひもといてみると、 ‑fugere, inf.

[fugio].‑ と説明されている。 fugioという箇所を見ると、大別して、 10個の意味がある。たと

えば、 (1) 「逃げる」、 (2) 「走り去る」、 (3) 「消える、姿を消す」、等々といった意味が羅列されてい

(8)

るのである。

思うに、南ヨーロッパの古代人、すなわち、古代ロ‑マ人や、古代ギリシア人は、空中に現われ た、にじ、を見て、そして、そのにじがいっの間にか、消えていることを知って‑、彼らは、虹の 女神を想像するという風に、勝手に空想してみるのも楽しいではないか。

『ギリシア神話』には、よく、イーリス(Iris)という女神が登場する。それも、イーリスは神々 の使者であって、しかも、にじ、を司る女神なのである。 Irisという語は、ラテン語のIrisから借 入した語であり、しかも、ギリシア語の、 Iris、すなわち、 irisから音法則的に発達した語なので ある。 irisというのは、ご存知のように、 rainbowという原義を有する語なのである。

この、ギリシア語のiris、というのは、恐らくは、 wirisから発達した語であって、これは、

somethingbentorcurved,という原義を有する語である。これは、もと、インド・ヨーロッパ語 族の、 wirisから発達したものであるようだが、これは、もと、 toturn, twist,という原義を有 する語であったらしい。すなわち、 「(眼球の)虹彩」とか、また、 「く≪割れ目が玉虫色の石英の一 種≫虹色水晶、アイリス」といった意味を有する語irisであることを恩い出してみると、古代ギリ シア人の、にじ、に対する考え方もまた、より明らかとなるだろう。また、 irisという語は、 「(虹 の)七色閃転」という意味を有する語であることを患い合わせてみると、古代ギリシア人の、にじ、

に対する見方もまた、より鮮明となるだろう。

恩うに、古代ギリシア人は、空中に現れた、にじ、を見て、まず、そのにじの七色の彩の輝きに 見蕩れて、感嘆し、永遠であれよと希って、 1人の女神を空想したのではあるまいか。まさに、虹 の、七色の、輝くばかりの彩の美しい衣を身にまとった女神イーリスを創案し、しかも、女神イー リスは、ゼウス(Zeus)の正妻へ‑ラー(Hera)の侍女として、また、神々の使者として創意し、

さらに、天と地を結ぶ虹の女神イ‑リスに、古代ギリシア人は、大いなるロマンスを夢みたのでは あるまいか。 (っづく)

(1) 『聖書』 (東京、日本聖書協会、 1983年) p.10。 ‑Ido set my bow in the cloud,and it

shall be for a token of a covenant between me and the earth. And it shall come to pass, when I bring a cloud over the earth, that the bow shall be seen in the cloud: And I will remember my covenant, which is between me and you and every living creature of all

flesh; and the waters shall no more become a flood to destroy all flesh. And the bow shall be in the cloud;and I will look upon it, that I may remember the everlasting covenant between God and every living creature of all flesh that is upon the earth. And God said unto Noah, This is the token of the covenant, which I have established between me and all flesh that is upon the earth. from TheHoly Bible, containing the Old And New Testaments (London: Collins'Clear‑Type press), p. 12.

(2) Ibid., p.10. neither shall all flesh be cut off any more by the waters of a flood;

neither shall there any more be a flood to destroy the earth.‑Ibid. ,p. 12.

(3) Ibid., p. 1151. As the appearance of the bow that is in the cloud in the day of ram, so was the appearance of the brightness round about. Ibid. , p. 733.

(4) Ibid., p.390. Andhe that sat was to look upon like a jasper and a sardine stone:

and there was a rainbow round about the throne, in sight like unto an emerald. Ibid. ,

(9)

p.243.

( 5 ) Ibid. , p. 396. And I saw another mighty angel come down from heaven, clothed with a cloud; and a rainbow was upon his head, and his face was as it were the sun, and his feet as pillars of fire:‑Ibid. , p. 247.

(6)玄宗という人は、唐の第六代の皇帝である。容宗(えんそう)の第三子であって、詩は隆基 という。在位は45年である。初めは開元の治とよばれていたが、晩年、楊貴妃を寵するに及ん で、安史の乱が起り、萄に走ったと伝えられている人物である。乱後、長安に帰って没したら

しい。

(7)自居易という中庸の詩人は、字は楽天といい、号は香山居士という。彼は快西下邦の人であっ て、その詩は流麗であり、平易で、広く愛謂されている詩人である。わが国では、平安朝時代 の文学にも多大の影響を与えた詩人である。特に、 「良恨歌」 「琵琶行」などは最も人々に胎灸 され、そのほかに、 「自民文集」のほか、風刺性に富む「新楽府」 50首があると伝えられてい る詩人なのである。

(8)楊貴妃という女性は、唐の玄宗の妃である。彼女は才色すぐれて、歌舞音曲に通じていて、

玄宗の寵を専らにした女性なのである。楊氏一族も顕要の地位を占めた。安禄山の乱の時、馬 鬼坂で官兵に殺されたと伝えられている中国を代表する美人なのである。

(9) 『倭名抄』というのは、 『倭名類衆紗』 (わみようるいじゅしょう)の略称であるが、これは、

わが国最初の分類体の漢和辞書である。著者は源順。 10巻本と20巻本とがあって、 20巻本では、

漢語を32部249門に類衆・標出したものであって、音・意義を漢文で注を添えたものである。

そして、万葉仮名で、和訓を加えて、文字の出所を考証し、また、注釈したものである。承平 (931‑938)年中、醍醐天皇の皇女勤子内親王の命によって、撰進されたものである。

(10)韓非という人物は、中国の人で、戦国時代の韓の公子である。法家の大成者である。かって 萄卿に師事し、申不害・商散らの刑名の学を喜んだ人であって、しばしば書を以って韓王を諌 めた人物であったが、用いられなかったらしい。それに発憤した韓非は、のちに、 「韓非子」

を著わした。後、秦に使わして、李斬らに毒殺されたと伝えられている人物である。韓非子と いうのは、韓非の敬称であるが、また、別に、韓非の著書でもある。これは、 20巻から成り立っ ていて、法律とか、刑罰を以って政治の基礎を説いた書物である。しかし、すべてを韓非の考 えであるとは認めがたい、というのは定説のようである。

(ll)アルフリクは、イギリスのベネディクトゥス会修道士である。彼は、教職や、国民の教育に 貢献した人物で、アングロ・サクソン語で説教を書き、旧約の最初の7書の翻訳とか、ラテン 語文法などを著した学者でもある。この文法書は言語学史上、貴重な著作である。彼はまた、

化体説に強く反対している。彼の著作は、初期のイギリス教会の信仰と習慣とを知るのに重要 である。同名の、カンタベリーの大司教アルフリク(位996‑1006) 、ヨークの大司教アルフ

リク(位1023‑51)とよく間違えられる。

(12)ウィクリスは、法王政治の誤謬を攻撃して、化体説(Transubstantiation)の如きローマ教 会の基礎となっている教理に反対して、聖書の絶対権を主張した人物なのである。そのために、

一切の公職に就くことを禁じられた。 Oxfordを去り、 Lutterworthに退いて、説教と、聖書

の翻訳と、論争的著述の出版とに従事したのであるが、 Lutterworthに葬られた彼の死体はあ

ばかれて、 Swift河に投入されたという人物である。彼の聖書翻訳はラテン文からなしたもの

で、 1382年頃に完成したが、彼自ら翻訳したのは福音書と旧約聖書の一部分とであったようで

(10)

ある。

ここに言う「化体説」 (Transubstantiation)というのは、神学用語で、つまり、聖餐式に おいて、聖体のパンと、ぶどう酒とがキリストの肉と血に変えられることを意味するものであっ て、ローマ・カトリックとか、東方正教会の教義の重要な教えなのである。

(13)ドレイトンというイギリスの詩人は、伝説に詩材を採った史詩を作った人物である。当時、

一躍ヨーロッパの最強国イギリスとなった祖国の栄誉をたたえて、評判となったのが『大幸 (おさほら)の国』 (Polyolbion, 1612‑22)と、 Bαrons'Wars (1603)である。前者は、韻 文で書いた膨大なイギリス風土記といった趣きのある代表作品である。また、彼は戯曲も書き、

友人と合作しているのであるが、このほかにも、有名なのは、‑Sincethere'snohelp,come, let us kiss and part‑を含むソネット集〟ea'sMirror (1594)などの作者であるO

(14)川崎寿彦著『イギリス文学史入門』 (東京、研究者出版、 1986年)、 p.116。

☆ この拙文は、 E. &M. A. Radford, Superstitions of the Countryside, edited & revised by

ChristinaHole, (Great Britain: Arrow Books Ltd, 1978)をもとにしたものである。

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