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「宿世」の思想

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(1)

■弘前大学哲学会 (論文)

「 宿世」の思想

木 村 純

1

. 日本倫理思想史の基本的立場

本論文は、『源氏物語』にお ける 「宿世」の概念の内実 を、倫理学の 一

部門

である 日本 倫理思想史研究の立場か ら明 らかに しよ うと試み る ものである。そ こで、 まずは じめに、

倫理学研究の対象 として文芸作品を取 り Lげることの意義について論 じ、 円本倫理思

研究の基本的立場 を確認す ることとしよ う。

日本倫坤思想史研究の創始 首である和辻哲郎は、著書 『H本倫理思想 史』の 「緒言」に おいて、倫理の 「言語的表現」が 「学」 と呼べ るほ ど整 った ものでな くて も、「神話呪文、

神の命令、格 言、誠めな どの」で 「思想的表現」 となることがある として、 「倫理思想」

と 「倫理学」を区別 し、その歴史的変遷 を次の よ うに説明 している 1

1.風

・儀礼 ・制度、あるいは神の命令な どについて、理論的根拠に基づいて説明す るのではな く、歴史的起源か ら物語ろ うとす る。

2.

歴史的起源 を越 える もの として、根本の倫理に触れた賢者の教 えが与え られ る。

3.

教 えに対す る懐疑が/+こじ、理性的に根拠が追究 され るO (倫理学の成 lIA.)

そ して、和辻は、 日本においては 「厳密な意味で倫理学 と呼ばれて よい よ うな ものは、ま だ現われていない」、 しか し、 「文芸の作品や教養のための 苦作のなかにきわめて豊富な、

また讃嘆すべ き倫理思想が現わ されている」 と述べている。倫理学研究の対象 として 日本 の文芸作品を取 り上げることの意義は、 こ うした点にある と言える。更に和辻 の議論 に寄

り添いつつ、問題 を整理 してお こ う。

和辻 は、著書 『孔 了・』において、 「人類の教帥」として 「釈迦 ・孔子 ・イエ ス ・ソクラ テス」の

L J

L]人 を挙げている2。和辻が 『日倫理思想史』で 「賢者」 と呼んでいるの も、

彼 らを指す ものだ と考え られ る。和辻は、彼 らの 「教 え」が弟 √や孫弟子たちによってま とめ られ ることで、「人類の教師」 としての 「普遍件 を獲得 した」のだ と論 じている3。い わゆ る聖典 ・経典の成立である. 日本では、釈迦や子の教 え、すなわち仏教や儒教が、

紀元六世紀 ごろに伝来 され4、それぞれ に 日本の思想史の重要な位置を 占めつつ、傑 出 し た思想家によって、独 [」の展開をも遂げている親鷲 ・道元 らのいわゆ る鎌倉新仏教や、

伊藤仁斎 ・荻生1疎 らの古学は、それぞれ の代表例 と言 えよ う。 しか し、彼 らの思想は、

(2)

飽 くまで もそ うした経 典の注釈を前提 としている5。

この ことの味は、対す る西洋の ソクラテス ・イエスについて考 えてみ る と分か りやす い。 ソクラテスの言行は、弟 √のプラ トンによって対話筈 としてま とめ られたが、 更にそ の弟子であるア リス トテ レスは、対話篇 の注釈 としてではな く、独立 した一つの体 系 とし て倫理学を形成 している。 また、イエ スの行は福音書な どにまとめ られ、聖書 を提 と す る神学‑ と連なってい くが、それ とは別個に、例 えばカン トの倫理学が体系化 されてい る。つ ま り、西洋においては、特定の経典の注釈を直接的前提 としない、その意味で普遍 化 ・体系化 された倫理学 とい うものが成立 している。 これが西洋倫理学史はあ り得て も、

日本倫理学史があ り得ないゆえんである6

ただ日本倫理思想史研究を創始 した和辻においては、相良 亨が指摘 しているよ うに、

いわゆる和辻倫理学が体系化 された後に 日本倫理思想史が著 されたために、体系の枠 組 に沿 うよ うに思想史がかたちづ くられ て しまっている とい う問題点がある7。少 し具体 的に 言えば、和辻倫理学は人間を全体性 と個別性 の 二つの契機の否定的関係 において捉え るものであるが、全

休性

を否定 して個人性 を実現す ることよ りも、個人性 を否定 して全体 性 に帰 ってゆ くことの方が重ん じられ てお り、その点が問題 として しば しば指摘 されてい る。『日本倫理思想史』 とい う著作において も、同様 に、個々のテキス トや歴史的事象を、

全体性‑の帰一の表現 として読み解 こうとす る傾 向が強 くうかがえる。それゆえ、 日本倫 理思想史研究においては、和辻の学に学びつつ も、個々のテキス トの解釈を通 じて、和

とは異なる新たな 日本倫理ノrill想史の全体像を提示 し、和辻 の学を批判的に継承 してい くこ とが課題 となっているのである。

現在、和辻 とは異なる新たな 日本倫理思想史の構築を試みているのが佐藤止英である。

佐藤 は

、「

日本倫坤思想 史は、ひ とび とがなにを信 じ、なにを怖れ、なにを愛 し、なにを 願 っていたかを捉 え よ うとす る学問である」 と定義 し直 している8。 この定義は、その前 提 として倫理学 を 「自己の現存の意味はなにか」「[1己はなにを拠 りどころに して/I.きて いるのか」 を問 うもの と位置付 けることに由来 している。い うなれば、「人間 とは何であ るか」 とい う人間の 「」を問 うもの として倫理学を規定 しているのである。 ここには 恐 らく、 「倫理思想」 を r行為の什 方 として ロゴス的に 自覚せ られ た もの」 と定義す るこ とで、倫坤学を 「人閲は何をすべ きであるか」 とい う 「行為」あるいは 「当為」の問題 と して捉 えよ うとす る和辻‑のア ンチテーゼ の意味合いが込め られているのであろ う9。

本論文の立場 も、倫理学のM題 として人間の 「存在」の 端を明 らかにす ることを Eは旨 し、『源氏物語』における 「宿世」の概念 を考察す るものである。

うつせみ

2.宿世」の受 け入れ 〜空蝉の場合〜

宿世」は、 もともと仏教 においては 「世」を意味す る言葉であるが、 日本の文芸作 品においては 「前世の因縁」、仏教語でい うところの 「宿業」の意味で用 い られ るこ とが

(3)

多い0本節ではまず、今 ここで このよ うに′I:.きていることは前世の因縁 による ものである とい う確信が どのよ うに獲得 されたのか、登場人物の内面によ り沿いつつ、その道筋 を確 認する としよ う。そのために、実際に 「宿世」とい う言葉で 己れの人fLを捉 えている次の 個所か ら考察 を始めることにす る。

心の中には、い とか く品定 ま りぬる身のおぼえな らで、過ぎに し親の御 けはひ とまれ る古里なが ら、たまさかに も待ちつ けたてまつ らば、をか しうもやあ らま し。 しひて 恩ひ知 らぬ顔 に見消つ も、いかにほど知 らぬや うに恩す らむ と、心なが らも胸いた く、

さすがに恩ひ乱 る。 とて もか くて も、今は 言ふかひなき宿世な りければ、無心に心づ きな くてやみなむ と、恩ひはてた り10。

(現代語訳)心巾では、こんな風に分の定まって しまった身の lでなく、死んでしまった両親 の名残のある生家にいて、ごくたまにでも (光源氏の訪れを)お待ちするのであれば、どんな にかよかっただろうに。無理に知らぬ顔で無視するのも、どれほど身の程知らず とお恩いかと、

みずからしたこととはいえ胸が痛み、やはり心が乱れるのであったo ともかくも今は言っても 仕方のない 「宿世」なのだから、あさはかな気に食わない女のまま関係を終えて しまお うと心 に決めたのだった。

引用は、『源氏物語」]の巾で、光源氏が ごく最初の うちに関係 を持 った女性である 「空蝉」

え もんのかみ

の心境を記 した個所である。空蝉は、父衛Pl皆が彼女を什 えに拙そ うと考 えている うち に死んで しまい、今は年老いた中流貴族である伊予介の後妻に納 まっている11。 引用文 巾 の 「か く品定 ま りぬ る身のおぼえ

「言ふかひなき宿世」は、そ うした己れ の身の上を指 している。そ こに、ふ とした偶然か ら光源氏が訪れ るよ うになるのである。空蝉 において、 女 白身の身の上が 「宿 世」 として理解 され るのは、なぜであろ うか。

か く品定 ま りぬる身のおぼえ

「言ふかひなき宿 世」は、生家に とどまって光源氏の訪 れを待つ とい う願い との対比において語 られている。空蝉の願いは、年老いた伊予介の後 妻になる前の己れ として光源氏 と山会 うことである。 この願いは、現実において光源氏 と の出会いが伊 予介 との結婚後 に生 じている以上、初手か ら不可能な願い と言 うはかない。

しか し、まさにこの願いを通 じて、己れの身の上を 「宿世」 と捉 え返す空蝉 の 口覚は生 じ ている。光源氏 との恋に対す る過剰な願いによって、今 ここに存在 している己れ の現実を 総体において捉えることが可能 とな ったのである。 ここでは、原飢 →あるいは理想の 自覚 と 現実の 自覚は、表裏 をな して同時に成立 している。

それ に して も、なぜ、 己れの置かれた現実が 「宿世」でなければな らないのだ ろ うか。

空蝉 に とって、伊予介の妻 として 「今 ここで、 己れが、他の どのよ うにで もな く、 このよ うにある」 とい うことは、かつての己れ として光源氏 と山会 うとい う願 い と決定的に対立 している。その ことの 自覚によ り、空蝉 は 「なぜ、 己れは、今 ここで、他の どのよ うにで もな く、 このよ うにあるのか」 を問わずにはい られない。そ して、それ は、 己れ 白身の意 志によるもので もなければ、他の誰かの意志によるもので もない。つま りは、究極的に答

(4)

えよ うのない問いである といわ ざるを得ない。むろん、伊 予介 との結婚 に至る個々の状況 においては、空蝉「1身や他の誰かが何 らかの現実的判断 を 卜しているには違いない。 しか し、 ここでの問いは、そ ういった艮休l'1'J判断の[.[再を1うものではない。 も う少 し艮体的 に 言えば、なぜ父衛「∫里判

まI

'J分が代えす るに死んで しまったのか、なぜそ こに伊 】'J とい う里が現れたのか、なぜ伊 7,介 と結婚 したあ とになって 光源氏 と

t

r

'

.会 って しま うのか、

空蝉がうているのはそ ういった次元の問いである。それ には答 えがない120 そ うした答 えよ うのない問いが 切実に問われ る ところに、 「宿世」の観念が受 け入れ られるのである。

なぜな ら、己れ を取 り囲む現実は、た とえどれ ほ ど己れの願い とか け離れてい よ うとも、

己れ 自身が引き受けるはかないか らである。それゆえ、 己れ を取 り岡む現実を 「宿世」 と 捉え返す ことは、その現実が、た とえみずか ら望んだ ものでない として も、他の誰に も責 を帰す ることができる ものではな く、 己れFLl身で引き受 けるはかない ものである と自覚す ることにはかな らない。 己れ の現実を 「宿 世」 として捉え返す ことは、 しば しば誤解 され るよ うに現実か らの逃避なのではな く、己れ の願 い とは異なる現実をそれ として引き受 け よ うとす る日覚的営みである といえよ う1:ioそ こでは、己れ を超 えて 己れ に働 きか け、 己 れ を今 ここにおいて この よ うにあ らしめている<なに ものか >が、「宿世」として主体的 に表象されているのであ り、そ うした超越的な視点を媒 介 とす ることで、己れの現実 を捉 え返す ことがlイ能になっているのである。

では、 「宿 世J を 「宿世」 として 白化 した とき、ひ とは ど うす るのだ ろ うか

O

空蝉 のそ の後 の消息をた どってお こ う。

うき

宿【 l

lある身にて、か く/トき とま りて、はてはてはめづ らしきことどもを聞き添ふ るかな と、人知れず思ひ知 りて、人にさなむ とも知 らせで、尼 にな りにけ り14。

(現 代語訳)つらい 「宿 IHの身の 上で、このように/Lき長らえて、遂には聞いたこともな いような車態 (予介の前妻の 「、すなわち空蝉の義理の

/で ある河内守に言い寄られたこ と)に出会一)てしまった」と、人知れずつ くづ くと思い知一)て、誰にも知 らせることなく九封こ なってしまった。

己れ を取 り囲む現実が 「宿 世」によるものである と自党 した とき、ひ とは出家す るはかな いoLJ;1栗の連鎖 を断 ち切るほかに、みずか ら望んだのではない己れ の現実を越 える道はな いか らであるO特 に 古代世においては、

火の連鎖 を断 ち切 る道は来世 に極楽浄土‑往 き/I:.まれ ることとして求め られた15

0

今 ここで、己れが、他のどのよ うにで もな く、この よ うにある」 ことのIll粟が 己れの外 部 としてのl削ftにある以 L、その克服 の道筋が来 世 と い う外部 として要請 されているのである。

3.宿世」の拒絶 〜六条御息所の場合〜

(5)

前節では、己れ を取 り囲む現実を 「宿世」として捉え返 した人物 として空蝉 を取 り l たが、「宿世」を受 け入れ るこ とができない場合、 ど うなるのであろ うか。本節では、 こ の点について、六条御息所 を取 り 卜げ考察す ることとしよ う。

六条御息所は、かつて皇太 (妃であ りなが ら、その 皇太 丁・に先 立たれたため立后の夢 も かなわず、世問か ら忘れ られ よ うとしていた。そ こに今を ときめ く光源氏が通 って くるよ うにな ったのである1('。 御息所の心の葛藤が語 られ る場面 を、少 し長 くなるが引用 しよ う0

い きす だ ま

大殿 には、御物の怪いた う起 こりていみ じうわづ らひたまふ。 この御 生霊、故父人臣 の御霊な ど言ふ ものあ りと聞きたまふにつ けて、思 しつづ くれば、身ひ とつの うき嘆 きよ りほかに人をあ しかれな ど偲ぶ心 もなけれ ど、 ものJiT,ひにあ くが るなる魂は、 さ もやあ らむ と思 し知 らるることもあ り。年 ごろ、 よろづに思ひ残す ことな く過 ぐしつ れ ど、か うLも砕 けぬを、はかなき事のを りに、人の思ひ消ち、無きものにもてなす

みそき

さまな りし御蔵の後、 .ふ しに思 し浮かれ に し心鎮ま りがた う思 さるるけにや、す こ しうちまどろみたまふ夢には、かの姫君 と思 しき人のい ときよらにてある所 に行きて、/I11 とか く引きまさぐり、現にも似ず、猛 くいかきひたぶ る心川で来て、 うちかな ぐるな ど見えたまふ こと度重な りにけ り17

(現代語訳)左大臣家では、物の怪たちが数多く現れて葵の上がひどくわずらっていらっしゃ るO六条御息所は、それが「l分の

1 :

.霊であるとか

父の霊であるなどと噂する者がいるとお聞 きになったので、あれこれ考えてみると、みずからの身の 卜のつらいことを嘆く以外に人の不 幸を願 うような気持ちはないけれども、物思いをすると魂が休から離れ出て行って しまうとい うし、もしか したらそ うい うことなのかもしれないと思い当たることがあった。ここ数年、こ れ以上ないというくらい物思いに心をJさくしてきたけれども、それも今ほどの心の乱れではな かったのであって、ほんのささいな出来事の折に、英の 卜が私を無視 し、ものとも思わない態 度を取った例の御蔵の後、ひたす らに動揺 してしまった心をなかなか静められないと思ってい たせいか、少 しまどろんで見る夢には、あの姫月と思われる人が とてもきれいにしているとこ ろに行って、やたらと引き恒lして、 tl気のときとは違 う強く荒々しくひたすらな心が′トじて、

引きむしった りするのを見ることが度重な一)た。

結論 を先取 りして 言えば、御息所は己れの 「宿」が受け入れ られないために、 「物の怪」

となって しまったのである1H

or H

皇太

了 丸

iとい う己れの身の上については、「身ひ とつの う き嘆きよ りほかに人をあ しかれな ど恩ふ心 もなけれ ど」 と述べ、 もとよ り引き受ける覚悟 を示 している。御息所 を物の怪に して しまったのは、左大臣の娘であ り、かつ また光源氏 の正妻 として、今を ときめ く葵の Lの存在であった。 ここで御息所がl口l想 している二人の 衝突 とは、新 しく賀茂神社 に奉仕す る斎院に決まった皇女の 「御蔵」 とい う行事が催 され た際、行事に参列す る光源氏 を 一日見よ うと御息所が待ち構 えていた ところ、彼女の樺 を 葵の土の伴が押 しのけた とい う事件である。それ以降、光源氏の子 どもを身 ごもっている 葵の上の ところに物の怪が現れ るよ うにな り、御息所「1身 も葵の 卜に暴ノJを振 る う夢 を見

(6)

るよ うになった、 とうのが用の場面である。

前節で考察 した よ うに、「今 ここで、己れが、他の どのよにで もな、このようにあ る」 ことを引き受けるとき、己れをそのようにあらしめている 「宿」が 自覚 されるので あった。「身ひ とつのうき嘆きよ りほかに人をあ しかれな ど思ふ心 もなけれ ど」 と述懐す る御息所は、みずからの自覚においてはそのことを引き受けようとしている。それでもな お、心は 「鎮まがた」 く、「魂」が あくがれ」Ll'Jて葵の 上に襲いかかる。 ここで、「 の怪」 とは、己れの現実を詐負いきれずに、その責を他人‑転嫁しよ うとする、あるいは その鬱憤のはけ口を他人に求める、そ うした者の姿であるo

上の引用に続いて、御息所は、史に次のよに己れを省みる。

ひたす ら世に亡 くな りて後に怨み残すは世の常のことなり。それだに人の上にては、

罪深 うゆゆ しきを、現のわが身なが ら、 さる うとま しきことを言ひっけらるる、宿世 の うきこと。すべてつれなき人にいかで心 もかけきこえ じ」 と思し返せど、「思ふ ものを」な り19

(現代語訳)「死んでから後に、ひたすらに恨みを威すのはよくあることだ。それでさえ、他 人事として聞いても、罪探く不7liにJiltわれるのに、生きたままの身で、こんなうとましいこと を噂されてしまうなんて、「宿」のつらいこと。これからは、あのつれない人のことをまっ たく心にかけないようにしよう」と思い返すのだが、「恩 うまいと思っていることが思ってい る証拠」なのである

御息所は、己れの現実をみずか ら引き受けることなく、他人を 「怨」むこと 罪深」い ことであると知っている。だからこそ、葵の上をめぐる一一連の出来事をすべて 「宿世」で ある と己れに言い聞かせ よ うとする。そて、それ らすべての原因である光源氏‑の思い を断 とうとす るのである。 しか し、沸き上がる思いは、意志によって断つことができないO

これ らの場面の直前、御息所は光源氏に次のよ うな歌を送っている0

袖ぬるるこひぢとかつは知 りなが ら下 り立つ附子のみづか らぞ うき20

こひぢ

(現代語訳)袖が伴れてしまうと知 りながら「泥」に降 り立つ虎夫のよう

涙に袖をぬら

こLlf

すと知ながら、この 「恋路」にはまり込んでゆく私自身が悲しいのです。

古来、『源氏物語』の中で 第‑‑の歌」と評 されている歌である. ここで歌われているのは、

直接的な恋の情念ではない。 この恋が己れに悲 しみをもた らす もので しかない とり、己 れの恋の情念を制御 しようとする。 し、恋の情念は己れの意志では制御 し得ず、更な る深みへとはまり込んでゆくCそうした己れ 自身を 「重き」 もの として捉え、歌 として表 出しているのである。恋をめぐって、鰻重に も屈折 した心理が歌に深みを与えているのだ といえよう21

源氏物語』において、「宿世」の自覚を通 じた人間の存在‑のまなざしは、六条御息所

(7)

によって、いっそ う深め られた といえよ う。御息所に とって、光源氏‑の恋や葵の上‑の 怨み といった情念は、みずか らの意志のよって制御 し得るものではなか った。以後の物語 の展開においては、六条御息所が光源氏の もとを離れ出家することになるが、死後、葵の 上亡きあ と光源氏の正妻 となった紫の上に崇るな どして、極楽‑の往生を果た し得ていな

あきこのむちゆうくう

いことが分か り、娘の 秋好中宮 が追善供養をすることになる。

4.宿世」の思想史的位置付け

空蝉、六条御息所の二人の女性 を通 じて、『源氏物語における 「宿世」の思想を検討 してきたが、最後に 「宿世の思想」の思想史的位置付けを確認 してお くことにする。

まず確認 してお くべき点は、 「宿世」 とい う概念によって、人間の個 としての実存的な 性格が、平安 とい う時代にあって、強 く自覚 された とい う点であろ う。古代の 日本におい て、仏教は 「因果の理法」 として受容 され、その応報思想によって個 としての自覚が もた らされた と考え られるが22、その場合、「宿世の思想」を 日本における 「因果の理法」の自 覚形態であると捉えることができよう。無限の過去世か ら無限の未来世‑ と連なる存在 と して己れ を捉え返 した とき、その無限の連鎖を 挙に見て取る 「仏」の視点が意識される ことになる。 この とき、人間は、己れの存在を知 り尽 くして己れの在 りよ うを制御するこ とができない もの として、特に情念的な側面か ら捉え られ、その救済が人間を超えた 「仏」

に要請 されているのである。

近世に入る と、このよ うな人間の捉え方は大きく転換 してゆ く。人間は、他の人間 と交 換不能な実存的存在 としてではな く、他の人間 と共通 した人倫的存在 として捉え返 され る よ うになるのである。近 世初期の儒者による 「人倫」論は、いかに人間の共通部分を押 し 広げ、個別的な部分を制御するか とい う論点をめ ぐって、思索 された ものであった と言え よ う2㌔ 倫理学の問題 として 言うな らば、「情念」は 「理性」や 「意志」によって制御 され 克服 され るべ きもの と理解 され24、「存在」の側面 よりも 「当為」の側面か ら人間が捉えら れるよ うになったのである。そのよ うな儒教思想に対 して、人間の 「存在」の側面にあ ら ためて着 目したのが、国学であった とい うことができよう。例えば、本居宣長は本論文で 取 り上げた 『源氏物語

を独 白の観点か ら論 じ、またあるいは、平田篤胤は 「物の怪」に 積極的な関心を

けている。 しか し、そ うした国学思想 も、む しろ儒教思想に連なるよう な此岸的志向を持 ってお り、人間の存在の根拠 としての神話世界を実体化することで、己 れの内に向か って 「自己の現存の意味」を問 うよりは、己れの外に実体 としてある神話世 界を解明 しよ うとする傾向が見 られ るのである25。その意味では、 古代か ら中世において、

人間の 「存在」の側面を深 く捉えた 「宿世の思想」の持つ思想的可能性 を、それを解釈す る方法をも含めて掘 り下げてい くことが今後更に必要であると言えよ う。

(8)

1

辻哲郎全集 l二巻』p.9‑12(岩波書店、1962)

2

/・』 (岩波 文Jtt':)p.110

3 同 上p.15‑170

4 む ろん 、現代 においては、釈迦や「の教 え とされ る経典 のすべ てを彼 らが説いたのでない こ とは広 くられ ているが 、 さ しあた りここではllt.]題 としない。

5 u本には倫理学がなか つた と見る和辻 とIにし lrj様 に、LH 上兆民 は 『 ・年有円】において、「わが 本 古 よ り今に至 るまで哲学な し」 と断 じ、本宣長 ・平日l矧 乱らlhIl学 宵を 「考+l'家」、伊藤仁 斎 ・荻牛練 の儒学 宵を 「

」、新 しい宗派 を

l j l

r1いた仏教 宵を 「宗教家」 と、それぞれ に位 置付 けている (『 一年有 半 ・続 年有』p.31、岩波 文庫)。ただ し、その こ とは、彼 らの思想 が護教論に過 ぎない とい うことを意味す る ものではない。なお、 日本 の思想 を扱 うこ との問題 作 については、菅野矧

r J

]rJ1本思想 の根本問題」 (『理想No.648』理想社、1992)を参照の こと。

6 倫理学 史 と倫即思想 史をめ ぐるFH題 については、相良亨 日本倫楓 l且想史研 究の意義」 (『誠 実 と「1本 人』ぺ りかん社、1980)お よびlIJj論文を もとに西洋倫理学の研 究 宵小倉志祥 らと討議

した 「思 想史研究の意義」 (『講座什"rr:4 価楢 の析学』東京大学出版会、1973)を参照の こ と0 7 iII良亨 『11本の思想』p.237‑239(ぺ りかん社、1989)。 また、和辻 の日本倫理思想 ulJ]の

問題 点 につ いては

巾倉 宏祐 「flt!思 想 史の

n

件 」 (『L]本倫 理 学会論 集 歴 史』理 想社 、 1973)も参照の こ と

8 佐藤Il瑛 『11本倫理思 想 史は しが き

」 p.

i(東京人学出版会、2003)

9 直接 に和辻倫理学や ∩本倫理思想 史につ いて論 じた ものではないが 、ギ リシア哲学研究 宵の 加藤信助 は、「行為はひ との発現ではある。 しか し、行 獅 まひ との存在ではない」として、ア リ ス トテ レス以降、倫

学の指針が 「何 をなすべ きか」 とい う

行為」のtLu題に偏向 している こ とを問題視 し、ひ とが 「いか にあ るのか何 であるのか」 とい う 「」のrLlJ題 において こそ、

倫理学の思索の本来の場所が回復 され る」と張 し、「情念論には これ まで以上 に入 きなイ勘崖 が倫理学 において 与え られ るべ きである」 と結んでいる。本稿 は、加藤 の こ うした議論か ら大 きな示唆 を得ている。加藤信朗 「倫理学 とは何か

」( 『

日本倫理学会論集23 倫理学 とは付か』

慶鷹通信1988)

10 小学館 日本 古典 文学全集 『源氏物語 (1)

』p.

186。以 卜、『源氏物語』か らの引川 は、同全集 の シ リーズに拠 るが、現代語訳は独 日に施 した。

11 論者は、『源氏物「乱』にお ける 「恋」が、親の喪失 に衣象 され る 「拠 りどころな く心細 げ」 と い う状況において成立す る ものである と捉 えている。 こ うした捉 え

j j

、LF,:川英樹 の 一連 の論 考 と相通ず る ものであるが、現時点では、論 者 も

もま とまった形で 『源氏物 語』 に関す る 論 考を発表 していないため、解釈の相違点 につ いてはまだ 明 らか にな っていない。吉川の 『源 氏物語』に関す る既発表の論

は、「源氏物 語の倫理思想 〜光源氏像 に即 して」(『日本倫理 学会入会報 告集2000年 号』東京大学大学院人文会系研究科)、「源氏物 語にお ける死 と生

」 (

生学研究2003年春

号』

)な ど。 また、 吉川の 「和辻析即にお ける 「文芸」 と 「道徳」 (『道徳 と 教育 306・307

日本道徳教育学会、2000)も参照の こ と。論者の 万では、 「情念論 のゆ くえ

〜物 語か歴 史か」 (『差 異のエチ カ』ナ カニ シャ出版、2004)において、 一部 『源氏物語』

について論及 してい る。

12九 鬼周造 は、「現実の fH卯が無数の

能 な 世相の中の ・つ に過 ぎぬ」 とい うこ とこそが 「事実」

なのであ り、その よ うな 「事実 を 事実 としてあ りの ままに捉 え」 る ところに 「形 而 1二学」 とし

(9)

て の哲学が ある と論 じてい る (「偶然 化 の論理」、『ノL鬼周造 全集第 ∴ 巻』p.354、岩波書情、1980 原 文はHlIlは、な)。木 論 文は、九鬼 の.議論に唆 を受 けつつ 、空蝉 の内面をそ うした形 而上 的 な問い として 再構成 して論 じてい る。 ただ し、ノL鬼が 、そ うした 「偶然件 の析学」 に よって

現実」 を 「動的 に

I '

'1定す る」 こ とが で きる と論 じてい る点 につ いては、そ の よ うな価情 判断 において こそ 、 まさに円学 と区した際 の倫理学 の問題が あ る と考え られ 、 再考の余地が あ る よ うに思 われ る。 このあた りにl問題 につ いては、別 の機会 に論ず る こ とと したい。

13 ノL鬼周造 は、「

宿

FlI」に規 した 言葉 であ る 「運命」につ いて、ハイデ ガーの議論 を踏 まえつつ 、

運 命 とは 先駆 的決意

l1一に内在 して初 めて運 命 とな るので あ る。 ‑従 ‑)て被投性 (

Gc ‑

worfenhcit)であ る と共 に捜企 (Entwurf)でな けれ ばな らない」 と論 じてい る

(

『偶然性 の問題』、

前掲 『ノL鬼周造全集 第 二』p.234) 14 前掲 『源氏物 語 (2)』p.354

15 拙 論 『往生要 集』 と 『栄花物 語(『lqr:舘祈学第5

』Lk=俳 人学哲学会、2001)参照。

1 6

ただ し、光源氏 と六条御 息所 の出会 いにつ いて 『源氏物 語]は何 も語 っていない。 なお 、本 属 Ii'J:長は両者の出会 い を擬 古文 「手枕 」において描 いてい る (『本宣長全集第15巻』筑摩書房 、 1990)0

17 拍掲 『源氏物(2)』p.29‑30

18 己れ の 「

宿世」 を受 け入れ る こ とが で きない者が 「

物 の怪」 にな る とい う論 旨は、『栄花 物

語』を題材 にかつ て論 じた こ とが あ る。 博卜学位論文 「栄花物 語の 人肌観」第 三草第二〜 二節。

19 前掲 『源氏物語 (2)』p.30‑31 20 同p.28‑29

21 佐藤止 ・英は、謡 L

H I

井筒を題材 に、成就 され ない 「恋 の情念」が Llれ の内‑ と)Lli折す る も のであ る こ とを述べ 、「ir.'rLif:の娘 の霊魂が霊魂 に とどまる所以 は、 ・つ には このrH折す る HLl意 識 にあ る とい って いいで あ ろ う」 と論 じて い る (「『井筒』 をめ ぐって 〜夢 幻能 の構 造」、

『季T:I.IL1本思想 史No.39』ぺ りかん社、1992)。 六条御息所 を シテ と した謡曲 『野宮』にお いて も、後 の場 で シテ の語 る英の 「二との仲争 いは、それl1体が怨念 とな って執着 を残 してい るので はな く、あ くまで も己れ の内に 光源氏‑ の 「恋 の情念」 を繰 り返 し析 出 させ る旭折 点 と して、

捉 え られ てい る と考 え られ る。だ か らこそ、謡曲 『野宮』 の

尾が 「火宅 の門 をや 、山でぬ ら ん」と成仏 に疑問が付 され てい るので あろ う(小学館新編11本 古典 文学 全集『謡曲集(1)』p.310)0 そ の こ とは、葵 の r

.

の側 か ら描 かれ た謡 L

E

h『葵

r ‑ .

』 にお い て、六条 御 息 所 の情 念 が 基本 的 に

恨み 」 と して単純 化 して捉 え られ 、最後 には 「

の小聖」 の加特 に よって 「悪 鬼心 を和 ら げ」 「成 仏 矧 脱の 身 とな り行 く」 とい う結 末 を迎 え る こ と と対 照 をな して い る (

l r

l『謡 仙集

(2)』p.284)0

22 菅野 覚nJl「仏 教の人間観 をめ ぐって」(『聖学院 入学総合研 究所紀 要 No.22』2002)を参照 の こ と。

23 骨野克 「人倫 の道 と日本 の

【 l

r 〜林山をてがか りに」 (『日本思想 史叙 説4 古学 の 思 想』竹 内整‑他編 、ぺ りかん社、1994)を参照 の こ と。

24 元洋 は、日本人の感情 」](ぺ りかん社、2000)において、「問題 は、 「理性」を越 え、「 性」が制御 しえない"感情 "が存在す る とい うこ とであ る」(p.32)と指摘 してい る。 ただ し、r 書 にお いては、古代か ら近代 にや る 日本 人の感情 の捉 え方が順 に論 じられ てお り、上記の問題 そ の ものが再接 に問われ 、答 え られ てい るわ けで はない。

25 本店宣長 につ いては、そ の ・端 を、 前掲 の論 「情念論 のゆ くえ」 で論 じた。 また、国学思

(10)

想に見 られ る近世的思惟 については、佐藤Lti英 「本店宣 長 と、L

q

l1篤胤」 (『国文学 解釈 と鑑 賞

458』 (至文堂、1971)、 IF.l「背 =tは枯 LrJなす ・‑.」〜)),'i郷 世界‑の衝迫 (

二 )

」 (『理想

No.613』理想社、1984)を参照のこと。

( 弘前大学人文学部助教授)

参照

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