授業における討論の課題設定について(その4)
一大学教育実践研究(5)一
佐 藤 年 明
OnSelectingaSubjectofDiscussion intheInstructioninHigherEducation(Part4)
ToshiakiSATOロ
〔要 旨〕
本紀要第45巻および三重大学教育実践研究指導センター紀要第14号所収の拙稿(1)の続報 である。1994年度前期「教育課程論I」(2)におけるディベートの実践について、①論題設定 への受講生の参加、②ディベート運営方法の改善、③授業中の私語への対応、の3点で自己 分析を行なっている。
Ⅰ.ディベート論題設定への受講生の意見の反映 1.昨年度実践の総括
1993年度前期「教育課程論I」でディベートを行なった際、一方的に論題を与えられること に対して受講生から不満が出されていた(3)。実は、この不満に応えることはそれほど簡単では ない。この点について昨年度の実践を自己分析した際に私は次のようにコメントした。
「このような受講生の要求に応えることと、論題の論理構造に対する事前チェックを行なう こととを両立させるためには、授業実践の諸事実からどのようにして有意義な検討課題を構成 するか(しかもそれがディベートの論題たり得るためには、論理的に見てどのような条件を備 えている必要があるか)について、受講生自身が予め学習によって一定の判断能力を獲得して いることが前提条件になる。しかし、実はこのような能力(ディベート論題設定の能力はとも かくとして、教育実践の事実の課題化の能力)獲得の必要性を、試行錯誤を通じて自覚させて いくことがこの授業の主要なねらいなのである。獲得目標であるものを前提条件にするわけに はいかない。」(4)
このようなディレンマがあることは事実だが、論題を一方的に与えられるという受講生の抵 抗感を少なくするためにはやはり何らかの対策が必要となる。
2.論題原案作成のための予備作業
第2回授業(4月22日)において、今期も昨年度と同じく築地久子実践「バスの運転士さん」
のVTRを視聴させ、視聴直後にミニ・レポートNo.1を書かせた。このレポート課題の趣旨 については、以下のように説明した。
(前略)初回のミニ・レポートは、先のVTRを見て、映像以外に何の資料もない段階で の第一印象を書いていただきます。といっても、文字通り漠然とした「印象」では、今後 の集団での授業分析に役立てにくいので、「疑問点」という限定を加えます。
築地氏の授業は、おそらくこれまで皆さんが小・中・高で受けてきた授業や、4年生の 人が教育実習で経験した授業とはかなり違う、型破りの授業と言ってよいでしょう。だか
ら皆さんもVTRを見ながら、「これははんとに授業と呼べるものなのか?」とか、ある いは「ユニークでおもしろい授業だ。」とか、さまざまな感想を持たれたことでしょう。
肯定的に評価する人も、否定的に評価する人も、あるいはまだどう評価してよいかわから ない人もいるでしょう。ミニ・レポートNo.1では、築地氏の授業について、よいとか悪 いと価値判断を加えることは保留して、まずVTRを見ていてわからなかったこと・理解 できなかったことを列挙する作業に取り組んでもらいます。最初はとにかく何が起こって いるのかすらわからないかもしれませんが、しばらく見ていると、少しずっ状況がつかめ てくるでしょう。その段階で「なぜ〜〜なのだろう?」と疑問に思うことがらがいろいろ 出てくるはずです。それを思いっく限り書きとめていってはしいのです。
これはつまり、皆さんが今までの自分の経験の中で自分なりにつくりあげてきた「授業 観」と築地氏のこの授業とのギャップを浮き彫りにする作業です。「『授業観』なんて持っ てないのに…」と思われるでしょうか? 確かに授業をっくる教師の立場からの「授業観」
について言えば、特に教育実習未経験の人にとっては、これまで意識する機会は少なかっ たことでしょう。しかし皆さんの十数年にわたる児童・生徒・学生としての学習経験の中 で、はっきりと意識してはいないとしても、「授業とはこのようなもの」という考え方が、
漠然とではあれ形成されてきていると思うのです。そしてそうした漠然たる「授業観」は、
築地氏の授業のVTRを見ることで、少なからず揺さぶられたのではないでしょうか。も しそうだとしたら、ミニ・レポートNo.1を書く作業の中で、築地氏のユニークな授業へ の皆さんの関心がどこにあるかということと同時に、皆さんのこれまでの「授業観」もま た浮かび上がってくるのではないか。だから、ミニ・レポートNo.1で出された論点を手 がかりにしてこれから築地実践を検討していくことによって、皆さん一人一人の授業観が
さらに明確に意識されるようになっていくのではないか…私はそう期待しているのです。
(授業通信「めそどろじい」No.2 1994.4.22) この段階では受講生には説明していないが、今期もやはりこのミニ・レポートに基づいてディ ベートの論題を設定しようと考えていた。ミニ・レポートの課題は、昨年がVTRについての
「A.肯定的印象 B.否定的印象」であったのに対し、今期はより単純に「築地氏の授業へ の疑問点」とし、上の引用の下線部に述べたように、価値判断は保留させた。昨年は、築地授 業の中の同一の事実に対して「肯定的印象」と「否定的印象」の両方が出されて自然に論争状
態になることを期待したのだが、ミニ・レポートの意見対立をやや誇張する形で教師である私 が論題を設定したことに対して、後に不満が出されたのである。そこで今期は教師が受講生の 意見を「操作」する前に、まず受講生自身に論題の原案を考えさせるつもりであった。その作
業がしやすいようにと考えて、ミニ・レポートの課題をより単純化したのである。
3.論題原案の作成
第3回授業(5月6日)において、班ごとの討論によって論題原案を作成させるために、次 のような指示を行なった。
(前略)本日の班討論では、築地授業についてディベート形式で検討していくための準備作 業として、個人から出された築地授業への疑問点の中から、議論していけば人によって意 見が分かれて論争になりそうな事柄を選びだし、「論題」の形式にまとめてもらいます。
つまり、それをめぐって肯定側と否定側に分かれて論争することが可能なような特定の主 張を、短い文章で表現するわけです。
「なぜ〜〜なのだろう?」という疑問点をもとにして、あることがらについて断定する 形式(「〜〜である」)の文章をっくるのは簡単ではないかもしれませんが、要するに築地 授業をめぐっていろいろな意見を出し合って議論してみたい論点を定める作業です。それ を「〜〜について」というように漠然と表現するのではなく、まず肯定か否定か明確にし てから議論に入れるような、特定の主張の形で表現するのです。
この作業をしてもらうのは、昨年度の授業の反省として、築地授業をめぐるディベート を行なう際に、論題を教師である私の判断だけで設定したことに対して不満が出たからで す。だから今年度は各班から出された論題案を検討した上で、絞り込んでいきたいと思っ ているのです。
各班から出してもらう論題案は、3つ以内とします(1つに絞ってもかまいません)。
本日は、班討論で論題案をっくり、それを全部の班が発表するところまでやります。
(「めそどろじい」No.31994.5.6) 下線部からわかるように、論題作成の素材としてミニ・レポートNo.1のような形式の文章 が適切であったかどうかについては、この時点でも迷いがあった。いっそのこと最初から、
「築地授業を見て感じたことに基づいて、『〜〜である』という形式の論題をっくりなさい。」
と指示した方がよかったかもしれない。だが、最初から断定の形式の文章を作ることを要求す ると、予備知識なしにVTRを見ることから自分なりの「問いを生み出す」という導入の学習 課題が曖昧になってしまう。受講生自身による論題づくりにつなげていくために授業の導入部 分でどのような発問を行なったらよいのかは、さらに検討を要する課題である。
4.論題の決定
ともかくも、受講生はこのような強引な教師の指示に素直に従って、論題の原案を作成して くれた。これをもとにして、第5回授業(5月20日)において、次のようにディベート論題を 提示した。
第3回の授業で各班から提案された原案を検討した結果、これからこの授業で行なうディ ベートの論題として、次の3点を提案します。
A.築地授業において、教師は子どもの討論にもっと介入すべきである。
B.築地授業において、教師は授業に参加できない子どもをなくすための対策を講じるべ きである。
C.築地授業において、子どもは着席して討論を行なうべきである。
(参考)各論題の原案
A:最後に教師が結論を出すべきである。(2班)
先生がもう少し子どもに疑問を投げかけて意見の穴をうめて話を進めるように導くべ きだ。(4班)
教師は討論にもっと関与すべきだ。(6班)
教師はどこかで大きく出て正答を与えるべきだ。(7班)
教師が授業を組み立てるべきである(介入すべきである)。(10班)
† J
授業での討論は築地先生のように子どもにすべてをまかせるべきである。(1班) 築地授業のような形式の方が児童対教師の形式よりも得るものが大きい。(7班) 教師はまとめ役に徹するべきである。(9班)
B:発言する子としない子の差が出た時、教師は対処できない。(3班)
このような授業の形態では、内気な子どもを参加させることができない。(5班) 教師はすべての子どもの意見に対処できるか。(7班)
授業に参加できないおとなしい子は助けるべきである。(8班) 子どもが全員参加できるように授業の形式を改善すべきである。(9班) すべての児童に平等に発言の機会を与えるべきである。(10班)
C:全員が授業に参加するためには、座席に座って授業を行なった方がよい。(2班) 子どもは席についているべきである。(8班)
授業が始まったら児童は席についているべきである。(10班)
(「めそどろじい」No.51994.5.20)
「参考」として紹介した論題案は、各班があげたもののすべてではない。また、紹介したも のの中にも論題の形式になっていないものもある。が、とにかく受講生自身の意見との関係を 明確に示しつつ、論題を示したことは、その内容が最終的には教師の判断で設定したものであ
るにもかかわらず、予想以上に受講生の好評を得た。最終回の授業(7月22日)において、事 前に配付した昨年度の授業の実践記録を読んだ上で今期の授業について「学習者の立場からの 授業評価」を行なうという課題を与えて書かせたメイン・レポート2の中で、ある受講生は次
のように述べている。
「今回、私たちのディベートにおける論題は、自分たちが出しあったものであるし、決定権 は、こちらにあったように思えました。(論題にするための様々な制約ほありましたが)結果 として、昨年と似たような内容を含んでいたり、言葉を変えれば同じであるような論題ではあ りますが、しかし、"自分たちがっくっていったディベート''と感じる点で有効であったよう に思えます。」(1班・青山陽子)
同様の感想は他に5名の受講生から出されている。但し、そのうち1名は、「けど、できれ ば先生が論題を作るのではなく僕達だけで論題ができればもっとよかったのにと思った。」(6 班・市村一)とつけ加えている。
5.論題の選択
こうして設定した論題の中からどれを選び、また肯定側・否定側のどちらを選ぶかについて
は、各班の希望を出させたが、論題A・B・Cについて各2試合・2試合・1試合を行なうと
いう計画を予め決めていたので、希望が競合した場合はジャンケンで決めた。このことについ て、ある受講生はメイン・レポート2の中で次のような不満を述べている。
「(前略)学習者は常に受け身的であったことが残念だった。そのことを痛感したのは、ディ ベートを行うときのその班のテーマを決めた時だった。決める前に一度班で、どんなことを話 し合いたいか話し合った。その時、いろいろな意見が出て、その時点で私(私たち)は、こん なことについてディベートしたいと頑の中で想像がふくらんでいた。しかし、実際テーマを決 める時、一つのテーマに対して複数の班が希望した場合、ジャンケンで決め、自分たちの希望 どおりにはいかなかった。自分たちの希望を通すことによって生じる偏りをなくすためにあえ てジャンケンをしたのはわかるが、ディベートへの意欲が打ち消されていったように思う。希 望どおりにいかなかったからといって、他のテーマでディベートをしない大学生ではないが、
もしうまく希望とやることが一致していたらもっと活発で積極的な姿勢がみられたのではない だろうか。」(8班・西村美由紀)
この受講生の不満を第5回授業のその場で把握できていたらと悔やまれる。本学部の学生は、
たとえ教師が提示した授業運営の方針に対して不満があっても、その場で明確に異議を唱えて 教師に再考を要求することはまずないというのが実態である。どの論題のどの側で希望が競合
したかを記録していないので、8班の当初の希望は不明であるが、論題Aの肯定側という立場 を強制的に割り当てたことでこの班の受講生のディベートへの意欲を削いでしまうことになっ たのである。各試合に肯定側と否定側を立てるための調整は最低限必要であるが、1論題あた りの試合数は柔軟に考えてもよかった。希望が競合した班にはもう一度相談してもらい、納得 ずくで希望を変更してもらうという配慮が欠けていた。せっかく受講生の提案を活かした論題 を設定したのに、自分たちが提案した論題でディベートできないことへの不満に気づかなかっ た。
私の頑の中には、一方で受講生の希望を尊重する意思がありつつも、他方で「ディベートは ゲームだから、与えられた論題・立場を受け入れても十分楽しめるはずだ。」という考え方が あった。だから、希望が競合した場合に最終的にはジャンケンによって決定するということの 是非について、それほど深刻に吟味しなかった。結果が出てしまったことについて後から拘っ てみてもしかたがない。しかし、いま検討していることば、実はディベートを取り入れた授業 の運営に関わる重要な論点を含んでいるのである。
6.ディベートの必須条件と「教育課程論I」の授業の必須条件
ディベートはいわば「仕組まれた討論」であり、授業において自発的に発言しようとする姿 勢が弱い大方の受講生にとって、これまで経験したことのない学習活動である。うまくいけば、
学習者はゲームに勝とうとして自分でも予想外に熱中して参加する。しかしゲームとしてのお もしろさをつかみきれないと、「むりやりに発言・論争させられている」という否定的印象を 持っものも出てくる。
ディベート試合の運営方法やルールは、それを厳格に守ることによって初めてディベートの 醍醐味が味わえる必須条件なので、たとえ受講生がそれに不満を持ったとしても、簡単に変更
するわけにはいかない。実際に体験することを通じてこれらの方法やルールが合理的なもので あることを納得させるしかない。
ディベートの論題もふつうはディベート試合の主催者が決定するのであり、ディベートの醍 醐味を知っている人ならば、自分が提案した論題でなければ参加したくないとは思わないだろ
う。むしろ自分がこれまで考えたこと もないテーマについて論争することに関心を持ち、意欲 的に取り組むはずである。しかしディベートそのものをこれから学んでいく受講生たちにとっ ては話は別である。「興味のない話題では議論したくない」というのは一般論としてはもっと
もな考え方である。しかもこの授業でのディベート論題設定は、「授業実践の事実から問題を 発見する能力の基礎の形成」というこの授業の到達目標の1つと関係しているので、論題設定 のプロセスに学習者が関与することは、これまた必須条件なのである。
先に述べたディベートの必須条件といま述べたこの授業の必須条件、この2つは根本的に矛 盾し排斥し合う関係にあるわけではない。論題はディベートによる検証に耐えうる形式を備え ていれば、教師が提案しようと受講生が提案しようとどちらでもよいのである。教師による論 題の最終的決定は、その形式を整えるためであり、論題の内容は受講生の提案によるものと言っ てよい。実は昨年度も受講生のミニ・レポートの内容を素材にして論題を決定したっもりなの だが、受講生には決定のプロセスが見えなかったために「押しつけ」という印象を与えたので あろう。一方今期は、決定した論題と受講生から出された原案の関係を明示したので、先に紹 介した青山さんの感想にあるように、結果的に昨年度と類似した論題になったにも関わらず、
受講生自身が関与したという実感を持てたのである。
7.授業運営における学生の意向尊重と教師のイニシアチブとのディレンマ
ところが陥穿は論題決定後の役割分担の場面にあった。私は、ここまで受講生の意思を尊重 したのだから(論題の選択についても、まず最初に班の希望を聞いている)、最終調整の段階 で希望に沿えなくてもやむを得ないと判断した。ところが少なくとも8班の受講生は、ここま で自分たちの希望が反映されたからこそ、その自分たちの要求が盛り込まれている論題に取り 組みたいと強く希望していたのである。最後の詰めを誤ったことで、彼女たちのせっかくの授 業への参加意欲をっぶしてしまった。
今日の学生たちの授業への積極的参加は、教師がただ手をこまねいていては実現しない。さ まざまな「きっかけ」、「しかけ」を用意することによって、ようやく彼らの潜在的な意欲や行 動能力を少しずっ引き出すことができる。しかし一方、学生の教師に対する批判精神は弱く、
「これがこの教師のやり方だ」と悟れば、割り切ってそれに従うという行動パターンが一般的 である。だから教師が学生を動かすための「策におぼれる」と、学生は一見主体的に行動して いるように見えても、実は内面に不満を鬱積させているという事態も生じうる。徹頭徹尾教師 が運営の主導権を握っている授業ならばともかく、なまじ「受講生の意見の授業への反映」を 標模する授業であればこそ、かえって不満が鬱積するもしれない。
「意見を反映すると言っているのだから、受講生は遠慮せずに教師の授業運営にクレームを 付ければいいのだ。」と言ってしまうのは簡単である。現に学生はレポートなどの文章の中で
は、教師が批判を要求すれば相当厳しい意見を書いてくる。自分で要求しておきながら、学生 の批判の内容にショックを受けるということも珍しくない。しかし学生にとっては、授業批判 の文章を書くことと、授業の場で直接教師を批判することとの間には、大きな距離があるよう だ。その原因としては、教師と学生という立場を考えての遠慮もあるだろうが、教師批判であ れ何であれ、自ら要求して発言するという行動を他の学生の前でとる勇気・意欲を持てないと
いうことの方が大きいのではなかろうか。
このような学生の意識動向をふまえながら、授業のどのような場面で、どのようなタイミン グで受講生の意見を汲み上げることが、彼ら自身の「授業に参加した」という実感を強めるこ とにつながるのか、まだまだ試行錯誤が必要である。そして教師のそうした配慮と、教師が授 業を活性化するために明瞭な運営方針を(既定のこととして)受講生に示すこととは、(本質 的には矛盾しないであろうが)簡単には両立しがたいのである。
紹介したような学生の批判・不満を見る限り、彼らは「授業に積極的に参加したい」という 要求は持っている。学生の意思を無視した授業内容・授業方法の押しつけに対しては、かなり 強い反感を持っていると言ってよい。しかし一方、彼らはそうした意向を明確に意思表示する
ことによって、教師に再考を促し、大学の授業を変えることができるのだという実感・確信は 持っていない。多くの学生が大学の授業に対して多かれ少なかれ不満や意見を持ちながらも、
「どうせ言っても変わらない」、「そんなもんだ」とあきらめているのではなかろうか。不満や 要求はあっても、それを行動レベルにまで高める経験に乏しいので、要求を掲げて行動する際
に必然的に要求される社会的責任や節度に対する自覚も弱い。だから、批判させると言いたい 放題、言いっ放しになってしまうこともしばしばある。
授業批判が学生から教師への一方向にとどまっている限り、上述のような学生の意識状況が 揺さぶられることはなかなかない。授業運営においても、ある学生の意見を取り入れて方針を 変更したら今度は他の学生が反発する、というような事態も起こりやすい。授業運営について、
受講生同士が意見を交流し、しかもそこにおいて教師批判だけではなく学生の相互批判も展開 される状況を作り出す必要がある。この点については、Ⅳで再度言及する。
Ⅱ.ディベートの方法
1.今期のディベートのフォーマット
今期の授業におけるディベートのフォーマットは以下の通りである。全5試合のすべてをこ のフォーマットで行なった(但し、第5試合のみ、11・12を各10分とした)。
0.司会・タイムキーパー・ディベーター自己紹介(各自一言ずっ) 1.肯定側立論(3分)
2.否定側作戦タイム(1分)
3.否定側から肯定側への反対尋問(2分) 4.否定側立論(3分)
5.肯定側作戦タイム(1分)
6.肯定側から否定側への反対尋問(2分) 7.両派作戦タイム(5分)
8.否定側反駁(3分) 9.肯定側反駁(3分)
10.試合終了・ディベーター握手 11.審判担当班・班討論(5分) 12.判定発表(5分)
2.昨年度のディベート運営との比較
このフォーマットを含む今期のディベート運営方法の昨年度との違いは、次の通りである。
① 昨年度はディベーター両派を「賛成派」「反対派」と呼称したのに対し、今期は「肯定側」
「否定側」とし、一つの論題の肯定否定をめぐる論争であることを明確にしたこと。
② 昨年度は賛成派立論→反対派立論→反対派反対尋問→賛成派反対尋問の順序で行ない、反 対尋問は質問だけで終わったのに対し、今期は立論の後に相手側の反対尋問を行ない、また 反対尋問は一問一答形式の応酬としたこと。
③ 昨年度は反対尋問の後に自由討論を行なったが、今期はこれを廃止したこと。
④ 昨年度は賛成派最終弁論→反対派最終弁論という形で試合をしめくくったのに対し、今期 は呼称を反駁に変更し、否定側→肯定側の順としたこと。
⑤ 昨年度は3回の作戦タイム中に、審査員に中間評価を審査用紙に記入するよう指示したが、
今期は試合後の班討論による審査だけにしたこと。
⑥ 昨年度はディベートの概要を教師が板書し、記録係には板書を移す担当者と独自に記録す る担当者を別々に配置したが、今期はこれを廃止し、第1・第2試合では記録係による記録 のみとし、第3試合からはフローシートを配付して全員に記録を取らせたこと。
⑦ 昨年度は試合終了後にディベーターの「本音」を調査したが、今期はこれを廃止したこと。
3.ディベートの方法思想への理解の前進
フォーマットの変更は、基本的には昨年の授業でのディベート実施の段階における私自身の ディベートの方法に対する誤解の訂正と、理解不十分な点の克服を意味する。
②③は、反対尋問は一問一答形式の議論の応酬であることを昨年度は知らなかったためにわ ざわざ別に自由討論を設定していたのを、訂正したのである。自由討論を含むフォーマットも あるようだが、ディベートに慣れないうちは、両派が議論の応酬を行なう場を質問者に主導権 があるというルールが明確な反対尋問の時間だけに限定した方が、ディベーターも参加しやす
く勝敗の判定もしやすいと考える。
④は、昨年度の段階ではディベートにおける立場の対立を、賛成派対反対派という左右対称 の図形のような捉え方をしていたことと関係する。議論の順序も立論が賛成派からならば反対 尋問は反対派から、そして最終弁論は再び賛成派からと機械的に順序を入れ替えれば公平だと 誤解していた。しかし、ディベートにおける論争の構図は、「肯定側の議論を否定側が検証す
る」というものである。だから立論は肯定側から行ない、反駁は2回以上繰り返す場合でも常 に否定側が先に行ない、肯定側が後に行なうのである。肯定側の主張が最終的に否定側に崩さ れたかそれとも批判に耐えて説得力を持ち続けたかを審判が判定するためには、この順序でな
ければならないのである。
⑤について。ディベートの判定は立論→反対尋問への応答→反駁という全体の議論の流れを ふまえて行なうべきものであると考えて、今期は途中の段階で評価させることをやめた。
⑥について。昨年度はディベーターの発言技術や相手側の記録技術が未熟であるとみなして、
教師が板書の形で発言を記録しないと、かみ合った議論が展開しないと考えた。これはディベー トにおけるプレゼンテーション(相手側や聴衆=審判によくわかるように、より具体的には、
メモが取りやすいように話すこと)も重要な審査項目であることを理解していないが故の「お せっかい」であった。また実際問題として、昨年度は私自身がまだディベートの内容を要領よ
くメモする技術を身につけておらず、ディベーターも先に述べたプレゼンテーションを意識し ていなかったために、板書が発言のスピードに追いっかず、たびたび発言を中断させることに なって、議論の流れを寸断してしまった。今期も、当初は板書はしないものの記録係を置くと いう方針で臨んだ(私自身はビデオ撮影を行なった)が、ディベート1の記録を見たところ、
議論の流れを十分にフォローできておらず、結局私自身がVTRを見直して一から記録を作り なおすことになった。また、ディベート試合中の聴衆の私語が多く、ディベーターの発言が聞 きづらいという予想外の事態が起こったため、ディベート2からは聴衆を集中させるための対 策としてフローシートへの記録を指示した。私自身も聴衆の最前列に座ってフローシートへの 記録を行なったが、これによって初めて、ディベーターの発言と同時進行で内容を把握できる
ようになった。ビデオ撮影をしていると、その場では内容を把握することができなかったので ある。ただ、受講生が十分フローシートを活用したかどうかば疑問である。記録することでディ ベートに集中してくれればそれでよい、書けているかどうかのチェックまでするのはイヤラシ イと思い、回収しなかったのだが、このことについてある学生はメイン・レポート2の中で次 のように述べている。
「班審査の日に、賛成派か反対派が何対何でどちらの勝ち、と言うとき、本当は2人しか来 ていないのに、8人分を適当に2対6として発表している班を見かけたりした。授業に釆てい ても、ずっとしゃべってばかりいて、なんとなく審査している子もいる。それを防ぐには、ディ ベートをメモするフローシートを提出するようにすればいいと思った。そうしたら、きちんと きいていなければ、書けないから私語が減ると思うし、代返のようなこともできない。実際、
あの紙にメモをとっている人は非常に少ないと思う。」(7班・山本あやの)
⑦について。昨年度はディベートの「(強いられた立場からの)建て前の主張」という側面 を意識して、それと「本音の意見」との関係に興味を持ったが、今期はそのことよりもディベー
トの中での論理展開の検討自体に関心の焦点が移った。
ところで、以上で述べたような私自身のディベートに対する理解の深化について、授業での 受講生へのディベートの説明の際には、必ずしも丁寧に伝えてはいなかった。そのために、昨 年度の実践記録をふまえて今期の授業を評価させたメイン・レポート2において、昨年度の方 法(自由討論や中間段階の審査など)の方を支持する意見がいくつか出された。
ⅡL 教師によるディベート内容分析の講義
1.ディベート1の分析
第8回授業で行ったディベート分析の内容を、授業通信から再録する。
① 論題の構造について
論題A]築地授業において、教師は子どもの討論にもっと介入すべきである
「めそどろじい」No.5の18で述べたように、論題A・B・Cはすべて「政策論題」で すっまり、築地授業について、なんらかの現状変更を求める主張です。論題Aでは現状変 更とは「子どもの討論にもっと介入」することです。下線部に注意して下さい。これは、
現状変更の前提となる現状認識として、築地授業ではすでになんらかの介入が行なわれて いることを認めていることを意味します。そしてそれだけでは不十分であるから「もっと
介入せよ」と要求しているのです。後でくわしく見るように、築地氏は子どもたちの「メ インの討論」に対して全く沈黙を守っているわけではなく、発言しています。論題から
「もっと」を省くと、この事実(築地氏のメインの討論での発言)を「介入」とは認めな いことになり、肯定側の立論が苦しくなると考えました。
肯定側・否定側に共通して要求されていたのは、築地授業の現状においてすでに行なわ れている「子どもの討論への教師の介入」とは何かをまず明らかにすることでした。その
うえで肯定側は現状では介入が不十分であることを立証し、「もっと介入」の内容を具体 的に提案することを求められ、否定側はそのような現状変更が不必要であり、現状のまま でよいことを立証することを求められていたのです。
② 「教師の介入」の現状をどうとらえるか
肯定側の立論では、論題の「もっと介入」の「もっと」を意識して、「介入が少ない」
(第1試合・6班)、「介入は十分ではない」(第2試合・8班)などの表現はありましたが、
その前提として現状で既に行なわれている「介入」とは何かについては、わずかに「教師 のなすべきは、子どもの意見をまとめるということだけでなく」(8班)という表現の中 に、子どもの意見をまとめるという築地氏の行動を「介入」と認めていることが間接的に 読み取れるぐらいでした。現状に問題があると主張する前提として「介入」についての現 状認識をもっと明確にすべきでした(もっとも、肯定側としては、自分の方から「現状で
はここまで介入している」ということを積極的に述べるということに対して、それは否定 側の「それで十分ではないか」という主張の材料を提供することになるという判断が働い
たのかもしれませんが)。
では否定側は「介入」の現状をどうとらえていたのでしょうか。2班(第1試合)の立 論では、現状で行なわれている介入を「ひそひそ話」に限定し、「これ以上の介入は必要
ない」と主張しました。「メインの討論」での教師の発言についてはコメントがありませ んでした。7班(第2試合)の立論でも、まず「ひそひそ話」をあげ、それを築地授業に おける教師の「大変重要な役割」と評価しました(但し「ひそひそ話」の意義を具体的に 述べた後で、それによって、「この授業の中で、教師は最低限の役割を果たした」と、や
や消極的な表現をしてしまっていますが…)。さらに7班は、「メインの討論」での教師の 発言について、その役割を次のように指摘しました。
・様子を見て間をとる
・発言の確認をすることによって子どもの考えを明確にする
・強くいうことによって対立を鋭くし、子どもを発奮させ、授業にめりはりをっける ところが残念なことに、7班も反駁ではもっぱら「ひそひそ話」の意義を強調すること に論点を絞り込んでしまいました。
‑7班の尾西君は、ミニ・レポートNo.3(2度目のVTR視聴メモ)において「メイン の討論」での教師の次のような発言をピックアップしています。
『こういう人たちってだあれ?』(P.89)
『……言ってることわかった?』(P.93)
『これだって言ってくれたよ。児玉さん。……』(P.94)
『……あなたはね、……おかしいんじゃないかって言われてるよ』(P.99)
『58ページです』(P.105)
『ちょっと待って。……』(P.107)
『こういう人たちのを……』(P.109‑110)
『ちょっと待ってね。お金をどうして……』(P.110)
『もうちょっとじゃあね、広がってごらん。……』(P.112)
『……どういうふうにしてためたの、社長さんは。……』(P.114)
『……社長さんは……どんなことでお金もうけをしているの?』(P.115)
『……ちょっと言わせてくれる?……こういうこと言えない?……』(P.119)
『ちょっとすわっていなさい』(記録なし)
『……自分のものにできないよって』(P.126)
『……なに?おかあさんがスーパーにいくのがどうした?』(P.126)
『……もしだよ、一人でやって……』(P.128)
『ううん。言いたいことばね、そこで運転士さんが……』(P,131)
『……もし言うんだったらだよ……』(P.131)
授業記録にはこのほかにもまだ、教師の「メインの討論」の中での発言箇所があります 否定側がこうした事実を具体的にあげながら、「メインの討論」への「教師の介入」を評 価する主張を行なっていれば、肯定側もそれについてコメントせざるを得なくなり、「教
師の介入」の現状認識について、もう少しかみあった討論ができたのではないでしょうか。
③ 「ひそひそ話」についてのコメントは保留する
「ひそひそ話」については、否定側の2つの班がそれぞれ立論の中で紹介したように、
テキストP.74‑75においてその役割が6点にまとめられています。この中には今回の論 題における「子どもの討論への介入」という視点だけでは把握しきれないことがらが含ま
れており、また今後のディベート2・3において別の角度から「ひそひそ話」が取り上げ られる可能性もあります。ディベート1では前述したような否定側の対応によって、「ひ そひそ話」の評価が論争の中で大きな部分を占めることになりましたが、先に述べた理由 からここでは「ひそひそ話」について検討することは保留し、今後のディベートをふまえ て改めて検討することにします。
④ 肯定側の要求する「さらなる介入」の内容
6班(第1試合肯定側)は、築地授業が社会科の授業であることから、「バスの運転士 は乗車賃を会社に納め、そこから分配されるという社会事象(の認識)に到達することが 理想(目標?)」とし、このような認識から外れた方向に子どもたちの討論が進めば、ど
うせ後から訂正することが必要になるから、「そうするくらいなら(討論に介入して)も う少し意見誘導すべきだ。」と主張しました。
築地氏は、授業における結論は子どもにゆだねるという授業観を持っており、次のよう に述べています。
「教師が結論を与えるだけでも、『結局、結論は初めからきまっている』とか『自分た ち以外の者に頼る』などといった気持ちを子どもに持たせてしまう面があるのです。(中 略)結論は、やっぱり子どもに出させるべきです。」(『生きる力をっける授業』P.134)
肯定側の授業観と築地の授業観が違うのだと言ってしまえばそれまでですが、もう少し 検討してみましょう。
我々が見た1時間の授業だけでは、バスの乗車賃の処理をめぐる築地学級の子どもたち
の討論の最終的な結末はわかりません(これ以後の授業の記録は、私の知るかぎりでは発 表されていません)。事実に反する誤った認識を持ったままで終わった子どもがいたのか
どうかは、確認できないわけです。我々がみた1時間に限定すれば、築地氏は、子どもた ちの議論が混乱したときにすでに出された意見を確認して整理を行なうことばあっても、
教師の側から特定の見解を示すことはしていないし(そうする意思がないことば、先の引 用からも明らか)、その結果子どもたちは大人から見ればすぐに正解がわかるようなテー
マについて、延々と議論を続けています。
このことについて8班(第2試合肯定側)は、「討論の話題が発展していない」と批判 し、教師は「自分の考えを暗に組み入れた意見を述べることで、議論に発展性を持たせる ことが必要と主張します。ただ、あえて「暗に」と断っているように、教師の見解(正解) を提示する具体的なやり方については慎重です。このことは、子どもの討論の展開が教師 の発言内容によって決定的な影響を受けてしまうことへの懸念と一致しています。
築地氏はおそらく、「バスの運賃は運転士さんがもらう」と考える子どもが最後まで残っ てもかまわないとは考えていないと私は思います。もしそうだとしたら6班の言う「理想」
とは矛盾しないわけですが、問題はそこに至るプロセスでの教師の関わり方ということに なります。
…とここまで検討してきて時間切れになりました。ディベートで出された論点の中でコ メントしていないものがまだ残っています。たとえば肯定側の2班は、「メインの討論」
への子どもたちの参加の個人差が大きいことを、教師が「もっと介入」すべき根拠として あげています。ただこれについては論題Bと関連しますので、ディベート2をふまえて検 討することにしましょう。そのはかにも補足すべき点があれば、可能な範囲で口頭で述べ ます。
(「めそどろじい」No.8 1994.6.17)
2.ディベート2の分析およびディベート3の分析(ディベート全体の反省を含めて)
これについては、紙数の都合で触れることができないので、今回の授業におけるディベート 分析の講義全体の総括を含めて、他の機会に譲りたい。
Ⅳ.授業中の私語
授業中の受講生の私語への対応という課題は、いまや全国の大学教師の共通の懸案と言って も過言ではないが(5)、私個人にとっても、本学部における自らの授業改善への取り組みの契機 となったことがらである(6)。授業改善の中心を授業での討論に置き、いわば意図的に「しゃべ らせる」という対応をしたので、数年間はそれほど私語が気にならなかった。ところが今期は、
開講当初から私語が多く、先に述べたようにディベートの最中もかなりうるさい状態だった。
相手の話をよく聞いて反論すること、双方の議論をよく聞いて判定することがディベートの前 提条件である。このようなルール、マナーは当然事前に説明したのだが、まるで授業における
ディベートの成立を拒否するかのように騒がしい状態だった。
ディベート試合の翌週にディベートの内容を総括する講義を行なった時は、さらに私語が多 かった。ディベート1の総括は、Ⅲで紹介したように、私の頑の中で考えたことをそのままフ
ル・センテンスで記述した授業通信を配付し、それに基づいて行なったのだが、これが「いま 聞いていなくても後で通信を読めばよい」という安易な受講姿勢を誘発したのか、あるいは
「書いてあることをしゃべられてもつまらない」と感じさせたのか、この日の授業は騒然たる 状態だった。ディベートVTRの見直しから始めて、普段の週よりはるかに準備に時間をかけ
た授業だっただけに、何とも腹立たしかった。
これに懲りて、ディベート2の総括の際は授業通信の内容をレジュメ形式にした。この時は 授業の終わり頃を除いて、かなり静かであった。
このように毎回波はあったが、全体として受講生の授業への集中度は決して高かったとは言 えない。あまりうるさいときには全体に注意し、授業に集中するよう求めたが、明らかに騒然
たる状態でも、そのことには触れずに講義を進めたこともあった。
果たして、メイン・レポート2における授業総括の中では、25人(レポート提出者71人の約 35%)の受講生が授業中の私語の問題に言及した。その中からいくつかを紹介し、検討する。
「(前略)ディベートをする以前にみんなが聞く態度ができていないということに憤藩を覚え ずにはいられない。先に述べたように私は第二試合で司会を担当した。それ以前の第一試合で のあまりのうるささが腹立たしかったので、私はディベートの間中、私語をしはじめた人をに らんでいた(俗に言うガンつけ)。でもこれはかなり効果があったと自分では思っている(第 一試合よりは静かだったのでは?)。それでも私語をやめない集団があったが…。とにもかく
にも、大学生(しかも教職をめざす)がこれほど授業中に私語をするのはなぜであろうか。学 長が以前卒業式で、『三重大生は授業中私語が多い』とテレビカメラの前でおっしゃられたそ
うだ。私たち一人ひとりの意識の改善も必要だろうが、先生も改善する努力をされた方が、もっ とスムーズな授業ができたのではないだろうか。」(3班・中村美光、波線部分への佐藤のコメ ント:「もっと少ない受講者数で授業をしたいというのがホンネです。」)
このように義憤を感じていた受講生の存在に気づくのが、またしても最終レポートを読む段 階であったことが悔やまれる。そして彼女の批判は教師の無策に対しても向けられているので ある。私のコメントはその批判の核心をかわしてしまっている。
「残念だったのは、授業中とてもうるさかったことです。先生も声を大にして言うのは、とて も大変だったと思います。先生がやさしいからみんなが調子にのって、うるさかったのだと思 います。でも教師が注意して静かにさせるのは、小学生までだと思うし、生徒から静かにする ようにならなければいけない。そのためには、教師の力量も必要だと思います。怒るのではな く、みんなが静かになるのは、とても難しいことで、将来教師を目指す私にとっても大きな課 題であると思う。」(四班・生川恵美、佐藤のコメント:「そうですね。時間的には短かかった けど、みんな静かに私の話を聞いてくれたときもありました。さわがしかった時と静かだった ときで自分の学習指導がどうちがったのか、まだあまりつかめません。ディベート分析のとき
通信の文章をフルセンテンスからレジメ風にかえたときに少し静かだったようですが… 発言 する、ノートするetc.の参加の場を用意すること、内容的に興味あるものにすることが基本
だと思いますが、それでも集中しない人は残るような気がします。生川さんがまじめに参加し てくれたことをうれしく思っています。」)
この受講生は、ディベート総括の講義の時、次に紹介するもう一人の受講生とともに最前列 に座り、ときどき後ろを振り返って私語に顔をしかめながらも、熱心、に受講してくれた。私の 授業では(残念ながら)あまりお目にかかることのないような、まじめなタイプの学生であっ
た。彼女たちの目に私の授業がどう映ったかは授業中から気になっていた。先の文章には私へ のあからさまな批判はないが、それでも学習者を集中させることも教師の力量であるという指 摘は手厳しいものである。
「(前略)教室内が騒がしいという点であるが、これは席が自由に座れるというところから 来ていると思う。ふつうの講義ならともかくとして、ディベートの時に騒がしいのは試合進行
の妨げとなる。もっと厳しく注意してもいいと思う。だからこれは1つの提案ではあるが、座 席を決めてしまうというのはどうだろう。また後ろから5列ぐらいは座ってはいけないとする
など。多少の注意では動じないのが今時の大学生である。もっと厳しくすべきだ。
最後に総括について、いくっか点々とキーワード的な文をのせてプリントするというのはよ かったが、やはりうるさかった。またプリントだけもらって帰る者もいた。これでは意味がな
いのではないか。プリントばかりでは皆講義を受けたがらない。それについての予防策を講じ るべきであるし、一度も先生が声を荒げないのでナメられているとも思う。多少叱ったりしな いと、いまのままでは『自主性にまかせる』のではなく単なる『甘やかし』ととれるだろう。
ディベート自体は昨年の実践記録と比較すると改善されていると思うが、受講生に対する態 度を変えないと、収まりがつかなくなるだろうと思われる。」(4班・迫直美、佐藤のコメント:
「ナメられないように厳しくするということと、学習者の意見・感想・反応などを重視すると いうことば、方法としては両立させられるはずですが、教師の心理として1時間の授業の中で 両立させることばむずかしいものですよ。」)
これもまじめに受講した学生からの「うるさい学生を甘やかすな」という強い要求である。
対する私のコメントは、強い態度に出られないでいたことへの言い訳に終わっている。
「(前略)残念なこともありました。それは講義の際の態度です。私も授業態度が良かった とは口が裂けても言えません。でも私もひどいなあと思うような授業態度の悪さが1回、2回 どころじゃない程目につきました。それに対して先生は少しの注意しかされなかったので、こ のことについてどのように考えてみえるのか聞いてみたい気がしました。でも今考えなおすと、
授業というのは私たち生徒が『参加する』のであって、先生が生徒を『参加させる』のとは違 うから、先生もあまり注意なさらなかったのかもしれません。(後略)」(5班・神保洋子、佐 藤のコメント:「私の授業運営は、ディベートのように皆さんに動いてもらうための働きかけ
も含めて、まだまだ自分がどう働きかけるかの組み立てにおわれていて、授業中に私語のよう なのぞましくない事態がおこったときにあらかじめ用意した計画を変更して臨機応変に学習者 に働きかける力量が足りないのです。」)
「まず最初に思うことは、学習者の態度が悪すぎるということだった。私が今まで受講した 中でも、悪い方だ。それにつけ加え、授業形式が(班)討論なのだから、収拾がつかない。先 生が学習者を鎮めるのに四苦八苦されていた姿が、印象に残っている。このような状態のまま
で、ディベートをやって良かったのか。また、各ディベートの総括の時でも、学習者が騒いで いるのに、まるで強行突破するかのように先生は講義を進められましたが、それで良かったの か。無理をして教室内を鎮めてから、講義を進めるべきでは‥・と私は思った。真剣に聞いてい
る人にとっては、もったいない時間になってしまったのではないだろうか。
昨年のディベートの資料を読んで、昨年も今年のようなさわがしい状態の中で行われたのか、
疑問に思った。さわがしいか、さわがしくないか、の状況によっては、昨年の方が充実してい たのではないかと思われる。昨年、『論題を自分たちで決めたい』という不満があったそうだ
が、そうかといって、今年の論題を班にまかせても、今年の受講者には、その能力は期待でき なかっただろうと思う。」(6班・岩田知子、佐藤のコメント:「授業中の私語への対処、これ は三重大に来た1989年にぶつかった問題で、そこから講義一辺倒でなく学習者の参加機会をも
うける方向への授業改革にとりくんできました。しかし5年たってまたふり出しに戻ったよう な気がして、今期の授業は大変疲れました(昨年度とくらべて成果もあると思いますが)。」)
この学生は4年生であり、私語の状態が「私が今まで受講した中でも、悪い方」という評価 はショックだった。また私語には触れずに講義を続けることを「強行突破」ととらえられたこ ともショックだったが、考えてみればもっともな見方である。教師が私語を注意しないことを 自分の人間としての寛容さであるかのように自己満足することが、とんでもないお門違いであ ることを、彼女は指摘している。また彼女は、他の受講生をも痛烈に批判している。今期の受 講生には授業改善を要求する資格がないというのである。こういう批判が授業の場で学生の口 から直接語られれば、どれはど他の学生の刺激になることだろう。もっとも、教師が強い態度 に出ずに、学生にそれを期待するのは無責任だろうか。
「(前略)授業中の雑談は気になるところではありますが、これに対し、もっと身近な問題 として授業を意識させることも必要であると思われる。例えば、『授業中なぜ自分はしゃべる のか』『なぜ、先生の話をきかないか』等、自分自身をかえりみる時間を設け、それをもとに
して、授業を考えるような事を、あえて教師の側から行うことも、一方法と思うのですが。小 学生と大学生の年齢の違いはあっても、相通ずるものがあると思うのです。」(7班・高田智夫)
この学生も、教師が授業の中で私語について正面から問題にし、受講生に問題を投げかける ことを求めている。
「(前略)いくら討論が盛りあがっても(盛りあがっていたというわけでもないが)審査を 務める側の無神経な私語がすべてを台無しにしていた。これは私たち学生が反省すべきことで あるが、論文を読んでいてふと思った。先生は前回のディベートで行っていた発言の板書をな ぜ今回はしてくれなかったのだろうか。板書が直接私語をなくすとも思えないが、私はこんな 経験がある。ディベートを聞こうとしても、まわりの私語でよくきこえない。結局聴きとれな いことにいらだった私はディベートに集中できず自分も私語に走ってしまった。(後略)」(8 班・大川舞、佐藤のコメントは板書に関することなので省略)
板書に関する提案は、Ⅱの3で述べた趣旨から首肯しかねるが、この受講生が、教師の私語 への無策が授業に集中しようという意思のあった学習者まで私語に走らせてしまうことを指摘
している点は、重視する必要がある。
以上に紹介してきたような受講生の意見が、授業の場で直接発言・交流されるようになれば、
授業はより活気あるのもになるはずである。しかしそのことが、先にⅠの7で述べたように、
きわめてむずかしいのである。
私の授業における学生とのコミュニケーションは、予め計画した方法で教師の指示通りに学 習者自己表現をさせる、というレベルに未だにとどまっている。レポートによる学習者の授業 批評に対して「赤ペン」でコメントするというコミュニケーションはあるが、それは授業の事 後に間接的方法で行われるものであり、授業の「その場」での直接的なコミュニケーションは まだはとんどない。今期の授業での予期せぬ私語の発生は、いわばそうした授業の間隙を衝く かたちで、起こるべくして起こった事態かもしれない。
Ⅴ.おわりに一次稿への課題
紙数と時間の制限から、今期の授業実践の総括が部分的なものにとどまってしまった。特に、
設定した論題に基づくディベートの内容の分析を介して、「教育課程論I」における「討論の 課題」=ディベート論題について、教授内容としての妥当性を吟味する作業を、全面的に次稿 に譲らざるを得ない。
ただ本稿の成果として、受講生のレポートに表われた授業批判の事例を検討することで、学 習者の立脚点に近い視点で授業の自己分析を行なうという点で、従来より多少の前進があった
ことは確認しておきたい。
註
(1) 拙稿「授業における討論の課題設定について(その2)一大学教育実践研究(3)‑」(三重大学教 育学部研究紀要第45巻(教育科学)所収1994年 以下、「拙稿A」と略記する)
拙稿「授業における討論の課題設定について(その3)一大学教育実践研究(4)‑」(三重大学教 育実践研究指導センター紀要第14号所収1994年 以下、「拙稿B」と略記する) (2) 毎回の授業で発行した授業通信「めそどろじい」に基づいて、各回の授業の概要を紹介する。
第1回(1994.4.15)
・講師自己紹介
・「この授業の概要と到達目標」の提示
・「この授業における教師と学習者・学習者間のコミュニケーションの方法について」の説明 (自己紹介カードの提出・授業通信「めそどろじい」の発行・班編成)
・班の編成(全10班)
・メイン・レポートについての予告 第2回(1994.4.22)
・班別名簿の配付
・築地久子氏の授業VTR「バスの運転士さん」の視聴
・ミニ・レポートNo.1「築地氏の授業への疑問点」の作成・提出 第3回(1994.5.6)
・第1回班討論:築地授業をめぐるディベートの論題をつくる 第4回(1994.5.13)
・「ディベートとは何か」の講義
・大学生による教育ディベートの具体例VTR(論題:日本は陪審員制度を復活すべし)の視聴
・ミニ・レポートNo.2「ディベートのビデオについての感想/ディベートについての質問・疑 問」の作成・提出
第5回(1994.5.20)
・築地授業をめぐるディベートの3つの論題の提案
・ディベートにおける班別分担(どの論題か、肯定側か否定側か)の決定
・今後の授業スケジュール(ディベート試合およびディベートの内容総括)の提案
・次回の班別ディベート準備に向けての個人作業①ミニ・レポートNo.3「自派の主張の根拠と なる事実の収集」の作成
・次回の班別ディベート準備に向けての個人作業(診ミニ・レポートNo.4「立論原案の作成」を 次回までの宿題とする
第6回(1994.6.3)
・第2回班討論:ディベート準備
第7回(1994.6.10)
・築地授業をめぐるディベート1(論題A「築地授業において、教師は子どもの討論にもっと介 入すべきである」、2試合)
・メイン・レポート1の課題提示 第8回(1994.6.17)
・ディベート1の分析
・メイン・レポート2の課題提示 第9回(1994.6.24)
・築地授業をめぐるディベート2(論題B「築地授業において、教師は授業に参加できない子ど もをなくすための対策を講じるべきである。」、2試合、今回からフローシートによるディベート 記録の作成を指示)
第10回(1994.7.1)
・ディベート2の分析 第11回(1994.7.8)
・築地授業をめぐるディベート3(論題C「築地授業において、子どもは着席して討論を行うべ きである。」、1試合)
・1993年度前期「教育課程論I」の授業記録・分析論文■3の配付と概要説明 第12回(1994.7.15)
・ディベート3の分析(ディベート全体の反省を含めて) 第13回(1994.7.22)
・メイン・レポート2の作成・提出
・メイン・レポート1等の返却
・成績評価基準の説明 (3) 拙稿A、P.171
(4) 拙稿B、P.14
(5) 新堀通也『私語研究序説 現代教育への警鐘』 玉川大学出版部1992年、参照。
(6) 拙稿「多人数の授業における討論の試み一大学教育実践研究(1)‑」(三重大学教育学部研究紀要 第43巻(教育科学)所収1994年)P.81