明 治 地 方 政 治 思 想 に お け る 地 域 性
ii
il
欝森大間流の﹁第ニ維薪い畿・﹁東北人士﹂論をめぐって
iil
一、
問 題 の 所 在 と 本 論 の 諜 籍
研究におけるつの盲点氏︑人々lとくに被治者の鵡の
人々ーが明治維新やどう評揺していたのか︑いわば同時代人の維新 観というものが明らかにされていないという問題がある︒明治期の 維新観民ついて系統的認めとづけられている
は次のように
述べ
る︒
﹃王政援古﹄維新説とは異なる︑あるいはそれに批判判的な立場の
維新観を︑・::::維新の可能粍としてとらえたとき︑
に創出さ
河
英 商
通
れた明治天皇制崩家と明治維新とをストレートに結びつけ︑それ
ζ
そが唯一無一一のコースであったとみて構成された乙れまでの暁治維
︑大きな度省を迫られるように思われる︒明治維新史は︑ζ
性広授点をおく
ζとにより︑民衆記とっての明治維新の意義
( ←
をめらたぬて問いただされるのではないだろうか︒﹂
(携
点原
文)
そし
て︑
﹁﹃
正
hの提点﹂行口﹁王政復古﹂維新観を核とする
に批判的な﹁吋﹄の混点﹂司民衆の挺の明治維新の
…56 ‑
﹃qh}
とらえ万に立脚した明治維新研究を提起しているのだが︑本構のそ
チーフもζ
の占
⁝に
ある
︒ 同時代人の批料的維新観として出されたのがいわゆる
二維
新﹂
論であり︑それ域政治的︑経済的︑さらに社会的︑文化的民転換語︑
変動期であった明治
︒年前後民様々な中味を持って噴出レたので
める
本舗では東北地方の大国間結派の主張 ︒
1脊森大同会機関紙﹁東輿
日報
い l
k克られる
二維
新﹂
の流れをめとづけてみたい︒
いpつ
地方の大関探の主強を素材とする
一つはそ
』ま
ζに﹁叫負﹄の読点﹂の典型そ求めるζとが出来るからであ号︑一
つに地方社会での大同団結運動の論理背景を政社鱗領・境約レベル
誌とどめず︑いわば﹁本音﹂の読みとちが可能と思われる地方新聞
次元にま降して検討する乙とが必要と思われるからでめる︒
主題に入る前
K長格派の維新観H
ニ維
新﹂
の
のまとめ
と︑東北民権採・大同派の場合の論調を概離しておきたい︒問中論
なによれば︑民権一郎の論理展開は次のように整理される︒
①五カ条饗文の主旨が︑国会開設に結びつけられ︑維新の志向と民
権運動の志向とが一致した形でとらえられている︒
@被治省として民衆の立から︑維新の巾口実を問いつめる鶴屈をも
て〉
。 窃維新畿は明治政蔚践と不即不離の関係にあり︑階級的矛盾の
←人民的授産←専制的政府事
ψ明治維新観へと連なる︒
@明治政府民寸前日ノ改准
』
ょt
日ノ守問者﹂に堕レ︑ムヴや新 たなによる﹁改進主義﹂の実行が要議され︑
の
﹁ 第
A m ﹂としての民権運動が詮目されてくる︒
︒乙うした視点は︑
この維新﹂が藍史の必然であり︑社会法制
だとするζとで変革論理へい拡化し︑﹁人民改進ノ度目一連スルヲ以テ
維新トス﹂という﹁︑氷久革命議﹂的論盟を内包してくる︒
民権派の﹁第ニ維薪﹂論はζうした展開を一不レて︑明治二0年代
に第一一の維新を要するのに入っては︑﹁雑新の大業半ば荒廃し︒
時館は迫り時いとした蘇一峰ら平民主義者の維新観へ連なってゆくの
であ
る︒
次に東北民権採が述べているところをみよう︒有名なのは判野広 中 の
節であろう︒
﹁予は規氏自出民権の大義を敷き︑公議政体号建設するの必要を認
めていたが︑而かも荒れ第二維新む業を成就するに於て始めて実現 さるるのでみると信じ︑醗来熟々天下の形勢を鶴︑第ニ維新は︑東 北が其の中心力となり其の精神骨髄となって︑之を実行せねばなら
ぬと深く思い定めるに叢った︒(中略)布レて自由民権の大義を弘
め︑公議政体ぞ建設する事が畿新町一拐に発せられた五謹条の御饗文
の大出向を徹援する所以でみって︑日疋れが第ニ維新の業を完成するの
道でみる以上︑吾人は欝然厳記して︑東北人に党謹を促し︑第二維 新の先駆を為さしめねばならぬというのが予の敏顕詣患の信念であ
P
・ 小 必
た︒
一
ζ
乙に
は︑
十五
カ
の畿底←由自民権運動←公議政体建設︑と
いぷノ二維新﹂完成への一般的介抽選が示されている︑と同時に︑
﹁第 維新﹂の実行者︑先駆者として東北人士が位置づけられてい る︒択の記事にも西南人士を対置した﹁東北人士﹂論が見られる︒
フ苔信州人士ョ︑機ヲ察スルノ迂ナルヨヲ維新第
ノ
5を ヲ益スルノ功勲ヲ為サスト難︑這ノ第
一一ノ革命ニ際ンテハ立ンク奮進敢為ノ貯がヲ擢揮ン
小 必
ニ程テ諸国人士ニ後ル︑勿レ﹂ テ八︑其本文ノ力ヲ尽シ
ヲ誤
一フ
ス速
ζ
うした性絡の
二維新﹂論は︑大同団結運動期に現実的様相
を帯びてくる︒
﹁兎も角も大同団結の本拠とも泉擦とも一五ふべきものは東立の地方ι
在り
︒
久志く東北の地に讃伏レたれソレ潜勢力は時勢の必要に趨韮されて一
種の火談を噴き出し︑光世間を射りて遠︿姶襲︑の海に映せり︒去れば将来大
問題
結託
於て
牛耳
を鳥
取る
培︑
必ず
帝京
北の
有志
家な
るべ
レ︑
一間
レて
大同
盟結
が天
﹃守e}下の大勢を支配するの兆候ありです机ば︑東北将来の命運も亦頼レきj﹂
﹁奥羽の不振は
にめらず︑教育にあらず︑交通の便否には勿論 なし獅唯人民の国家と甚相縞離するに在り︒
︿中略﹀奥羽の萎撰今
日の如くなるを悲まば先ず自本の政権をレて其分配ギ簡ならレめよ︒
︿8 )
の鶴子に着け﹂
設党内関の実行と共に奥羽入も遠替を伸して つまり︑東北人士はおいては︑来るべき
二維新﹂の主体とな ることを前提としつつ︑当面の大同団結連動の成功
iv政党内閣制樹
立がイメージされている︒
以上の東北員権献の
二維新﹂論は
しく地方的利害と窟者レ ているあまり苔定的な評価がなされてきた︒
しかし︑以下で見てゆ
く論理展開北治うて言うならば︑
一般
ι
できないばかりか
ゐらたな問題提起をも含んだものでゐったと考えられるのでめる︒
一一、
青 森 大 関 派 の 論 理 大同会機関紙﹁東奥日報﹂の維薪観の論理を見る前
κ︑
中一
月議
県政界の状祝を簡単広めとづけてみると︑自由詩権運動期には代表 的政社として共同会がめ号︑本多庸
‑菊池九郎*榊喜洋芽・問中 耕
らを中心として︑東奥義塾を拠点に
していた︒しかし︑明 治
に入って︑課守派の拾頭︑東奥義塾への出議主からの嶺助 金の打ち切り︑などで活動は窮地に蒸ち入り︑
六年共同会解散後 は︑民権原の政社は弘前む東洋回天社のみとなり︑主活動も菊油・
本多らが東奥義塾の経営維持のためおこなった新開発行ぐらいのも
‑58‑
のでゐった︒また︑県会においても目立った動きはなく︑県政界は 部守派全盛時代の騒がめった︒
ζうした状況に再び民権運動の縫盛をもたらしたのが︑
の後藤象二郎来県であり︑時を同じくして記った﹁無神経事件﹂で
ゐる
このこつの事件を契機に課内民権派の閤で︑ ︒
一大政社を組織レよ
うという気運が高まり︑津軽地方そ中心に青森大開会が結成され︑
大同団結連動が展開される
ζととなった︒
﹁東網開日報﹂は︑青森大同会の機関紙として二一年一二月六自創
刊され︑それまで県下唯一の新聞でめった﹁陸奥新報﹂と対峠する
︿9 )
ζとになる︒
﹁東奥臼報﹂に
一一
維新
﹂論
﹁東北人士﹂論が流れるのは翌
一二年であり︑その主なものは次の通りである︒ A
明治ニ二
一一
月三
日︿
以下
路記
﹀
﹁東奥人宏氏
B
2・
紅説﹁弦が東北人士﹂w u
C
4・同社説﹁東北会及び東北人士い
D
4・計寄書﹁我が東北人士に
EI
7・2
社説﹁東北人士め費任
L
E2
7・8
Ea
7・4同右
E4
咋t
‑ F h M
F
7・幻社説
に比
日く
﹂
G 8・8寄書﹁東北団結論﹂
G4 Ga G2
由0・6問右
C0
・ 守
a
8・
同右m w
以下︑内容脅要約レてみると︑
内A︺
の際に﹁臼持以北の人士﹂は﹁天下の大勢ほ逆ひ
d時地誌塗れ︐i﹄ 夕︑ ︐︑
f ・
D﹁第一一の維新とも称す可き国会開設い誼前の今
日︑東北人士はの天資のなる剛勇淳撲の紫骨と忠烈義慣の
思硲とを以て搭強奮勉相ひ劫ミ相戒め時を待ち機を得以て柳か平生 の素志を達レ由民たるの義務を全ムレ天下の人士に向て一面白を立
てん﹂と撃った︒
土﹂は東奥人士に対し﹁第二の維新の先
発者たり全勝者たるの権利﹂を与えており︑広代て程る者に
東輿人士なり専制の政略を一掃して自由の制度告断行するは東輿人 士なり﹂との﹁畏箭敬慕の
SL
も起っている︒
門 召
東北人士は本金間中間直濡簾なる勇気勃々として一事に当号屈 ︺
まず大ば為すあるの究成﹂を持つが︑反対応﹁都人士﹂は{J軽
薄商発﹂し︑﹁九州人士﹂は﹁如才なき兎角開設に流れ易﹂い︒
維新の擦の東北人士の﹁失敗﹂なるものも﹁天賦の特有性﹂
清廉﹀ゆえの失敗であった︒しかし︑その﹁失敗﹂も﹁却て今日立
︿問問誼
悪政体の基礎を臨
るに輿りて大応力﹂を及ぼし︑﹁第二維新﹂をh v
前ばして﹁外に条約改正の大業あり内に昌治制の実揖国会開設の大
事ありて突に一刻千金ともいうべ
北人士が剤誼清擦なる気概ある技繍号一本すべき好時機﹂でみる︒ の社会﹂である今日乙そ﹁東
また全臨的な致治運動の
とりわけ九州地方の大問団結運動は
熱度を高めているが︑﹁何ぞ東北人士は之れに劣らざる計画寄せま
る︑余輩は彼の不親切なる軽薄知才なき人々を在右せらるL
を欲せず宜しく我が鞠車清廉なる鵠義心を以て誘導すべきなり鳴呼 我が東北人士よ今日に於て大いに注意して務めずんパ正義も邪曲の
為めに庄せられ剤一出荷擦も軽薄開設の為めに制せらるに至れば日本
将来の為め突にに堪しぎるなり﹂
︹C︺
三つや中央集権のが宇佐排斥し持に地方分権の拡張を計る持﹂で
あり﹁地方人士の一一退は政海の疲謝内調大臣の一史迭よりも政祝
に大器響を投ぼ有様である︒ζ
うした中で東北人士が﹁如剖な
る主義自的を以て前途多事頻繁なる政事運動を為さんとするや註昌
下位入の
車線に射臨し居思﹂である︒政治連動を回顧すれば︑民
議期は
じきも兎角封建割拠の有機
Lであったが︑
の発
克明
に
し自治制の実蕗は浴し将民盟会
して人民は立憲
代 議
に与ちん﹂ためはは﹁益々団結
ほし以て東北人士
の本分を全ふしなければならない︒
門D︺
﹁藩閥の弊最た脱せずして殖産の道未た立た
商ハ来た繁昌
』ζ
ない﹁天下の大勢い明︑はたとえ﹁立憲の緒﹂疋つくといっ
ても安心できない︒今後
の強弱盛衰は唯人畏の奮発担問﹂に
かかっており︑とく児﹁東北人士一一層り奮発﹂が期待される︒乙れ
まで東北人士は藩人の為めに酬明弄せられ﹂
﹁不
具︑
人の
如 く考え堂々たる国家の大教にも拳揺する
さるか如く﹂あっかわ
れてきたが︑ζ
之︑
﹁円滑なる大運動を始め一方広は頭角を
出し一方には東北人士廿余年の耽轄を雪き東北人士の真面目守立て の衰運や挽呂し尤も汚識せる空気を洗掃して青天白日の光を関
き尤も・頑然たる社会を
して輿論の社会となし公平の社会となレ 就も卑屈な
して進取の気象ぞ養ひ東北人士の
を し を
て千秋
iま
!の
日
らしめたい︒そしてそ
』ζ
藩人士第一維新に功名誉立てたるが如き手段を明いは十九世紀の道理
社会民無用なるのみならず其目的を還する能はさる﹂は
の事で
ゐ号
︑
﹁ム
マ告
の
によちて其手段を施﹂は結進的の改革なれハ
すべきである︒
r、
一寸
人 に牒を魚ハす﹂という諺は﹁負ふもの乙そ不利なれ負は す者に段ては都合よであるはずだが維新時に東北人士が︑
﹁凡ての額難憂愁﹂ぞ酉曹人士に負わせた事は逆に﹁其糠を負ふた るもの誌楽を叡ちて負はせたる者は苦を受くる﹂結果をまわいた︒
ζれは由な
ではなく﹁彼は自ら働仔ち彼は自ら糠を負ひたるな
ち我東北人は徒らに之を傍観豊福山せるのE
﹂であったからこそ﹁袈
には勲功ゐ
ゐち我には之れは反対せる汚名と恥辱﹂があるの
であ
って
︑も
と誌
と一
一一
一口
えば
本帝思む臣民にして共に
ふべきの
責任あるほと掲はらず其の負ふべきを負ハナ労を彼に
ちたるいせ
いで
あり
︑
本の忠臣義士とレて為すべきを為・3
ず行ふべきを行
一 例 一
はず一に彼等のに放一伍して大難断定の待問に加はら﹂なかった ζとによる)ものである︒しかる託︑﹁我東北人士たる毛のは其良心
より義務よりし
れ t ζ
の報
副酬
を贈
くち
﹂な
けれ
ばな
らな
い︒
そ
の報醗と詰﹁第
の維新郎ち明年より開く所の我帝国議会の より生ずる﹁大国難
L
を放任せず自ら魚ひ︑西期人士に﹁関散なる 趨楽地Lを与えるζとである︒
︒ ︐
︹EM 臼
明治維新において︑西潜入士が懇難辛苦の大業を成就した結集︑
﹁天は此報酬として彼等に明治政府を組織せしめたり日本の行政を
して復等のしめたり﹂が
{ ︐
u拐久しきを経る時ハ必ず鴎
i ζ る人間の智識も亦然り豆つ人情は新を好んで出を悪
会は新陳代
諾そ欲して一一帯一物号︑水続するを欲﹂しない︒ζ
れは
で あ
ス
M O
にわたる﹁糠﹂負担により︑語南藩閥政府間は﹁身体も老朽
せり智識も憐敗せり精神も疲労せり﹂︑さらに東北人士は﹁岸顔広 も
の
に羨いか号︑﹁被治者とレて護長藩関
の 政府の支配を被﹂ったが﹁其悪感に感泣して之に報謝﹂しなければ
ならない︒かくして︑
﹁ 第
の維新にレ自ら進んで耕を負ひ労
苦を寂り彼等
v Tレて最も公正なる手段を以て静かに逸楽
m w地を号へ
m w 労苦に代﹂るにとはに段りての最
であ
る︒
︹h
︿東北人士の特おな役割を強調したり︑の地方的利害を中心 u
とした主張に対し)﹁一一地方の利害を以て政府攻撃するは之れ私関
なり私怨な9偽飾の論な号間晒の説なり﹂とする批判があるが︑
権
力の
万に⁝慨し地を議して人を用ふるハ間家の為め
7こ 不
策﹂
であり︑権力の公平なる分与は昌家の円滑な維持に必要でゐる︒ま
た﹁現政府は実記賢明なを以て紐鑑せり現政府の施政は愁く
持勢に通レ﹁現政府の此有機を以て益々永くに合﹂レており︑
持続せられんζと望して止ま﹂ないのだが︑﹁天道は循壌を好
み﹂﹁新陳代謝ハ社会の常精﹂なのでめる︒
︹ 弘
ζの政権循環論︑新棟代諮論に対レて謹閥側は政権はを以て ︺
取りたるとのなるや訟で血に非されハ決して渡さぬいといろ鮮虫主義でいる
が ︑
ζれは時節柄﹁奇々佐々のであり︑薪陳代議論ζそ﹁天
地の公選に基き社会の正理に拠いるものである︒ζの﹁公道正理﹂ に背く現内閣
u u
コ縄開政府﹂は﹁其策略万針一定せして動もずれ
ば四分五裂﹂ずる状態であるから﹁第一一維新むに際会するに当
りては別記新内認の組織を注文せざる﹂をえない︒ζり新内題ζそ
﹁国民を代表する﹂﹁責任内閣﹂誌のでゐる︒責任内関組識はあた
り東北人士は﹁彼の四講諸藩が第一の維新に謹遇して懇難悲愁を甘 る知く仮令彼等ハ座視傍観するも自ら進んで糠を負は﹂なけれ ばならないし︑そのことによってはじめて﹁海内入士の列﹂民参加
できるむである︒
ハF︺
出会津謹諸氏が組織レた
t p
るもおの主意は﹁隈西入部ち謹 の人士か政権は知論天下の事物一として薮等め掌裡に帰せさる
もの
ハ
いので﹁出会津藩人士の忠魂義賠を援起し我れ取て以て
之に代らずんば死する応掛かすい﹁戊長の慢を報せずんは空一きたる
なレ﹂というζとであるが︑
こうした主義信的は﹁大砂に時勢
に反対せるもの﹂で品り︑
︒余年前ならいざ知らず今日では﹁致 種特別の党派脅樹立し以て其希議を達せんとする
( マ 噌
﹀
は恰も泰山そ狭んで北海を議ゆるの類﹂であり﹁誤晃も亦蓄し 党のに於て
﹁有害物いである︒今や﹁拭踏競争の自民非ずして智識競争の
であ
り︑
﹁旧模農守む天地に非ずして文明進化の世界﹂なりである
て編小φ団体号解・去︑大広東北人士と団結してから豆日日の感想
の運動を向ムレ公譲輿論を以て勝争政治社会に制ずる﹂ことに努
めねばならない07ご
議会を控えてのは政党の組織でめるが︑
の 独
立安謀り更托が首領となし協心発力益々の名士骨撰ん
出結を堅悶はし山富進勇性揮ム
せ し 東北護運
に制﹂しなければならない験レ勉めて務を
ζれは﹁小党分立万隅割拠の指策﹂ではなく︑﹁大民独立
円 の
G 2
L.J
なのでゐる︒
つ夫
れ
つれば語体狭く首韻を置けば使ならず宣し
く在来むまま比証すへし﹂との批判もあるが︑
とし
ては
︑
てL
団体を編成
を置て立れそ統治﹂したい︒とい
うの
も︑
﹁ムつ発の政党は独り政治む
ずのみならず日れ代て 之が実行を掌
め退てハ
m w 領捨 と為り之れに拠て立て東北の
し以てが多年計画せし
呂的を成就せしめまる可からぎるの必要を惑ず﹂るからでめり︑
か 東 在 留 体 の 運 動 を し て 来の盤に放任せしめば単に
の 援をなし其勢力を助けて以て之が運動の自在ならしむ﹂ばかりであ
サ の
wつ ︒
プ コ
後 藤 象
郎κせよ坂語一退勤げ仇せよ大隈重信にせ
にせ
よ︑
一‑.
E
の問胞臣民になしと難も一はの人にして
は九州肥前と中国間坊のであ号︑被等に﹁追随運動﹂
ζ
と iま
む設担
﹁団体を独立し之れに東ζとと矛窟ずる︒
人士の首領はじめて
の控
面詰
一一
一一
則札
るの
でめ
って
組人士の旗下に ζ
のうえ﹁在来の憾に放任しま漢た
り 議 記 に 附 て 活 路 運 動 し 以 て
﹁拙劣卑間﹂であち言語亙主の控論﹂にすぎない︒ む衰運を
挽倒
せん
とい
以上のも1
る
︹A︺でそれは 散漫たる
て 四 を整理してみると︑第一の論壊は︑全編に貫徹
て
一維新﹂に向けての東北人士の使命議である︒
と り わ け
﹂が与えた二の維新
り 全 たるの権制いとして認識される︒その論拠が門
B︺の東北人士
コ軽薄寝敷いの都人士︑
﹁如
才
対西南人士・都人士の園式でめる︒
なき兎角阿諜広流れ﹂る
む擦つ失致﹂したが︑
に対して︑東北人士は﹁剛鹿清諜 という﹁天賦の特有性﹂故に
なる気概める技識を一示すべき好時期﹂襲来と
62 ‑ さらは︑九州地方での民党運動の
つ政
況に
を及ほナ﹂という認識が加わ
地万人士の
る乙とで︑
第
政の打開という点と深く結合している 必
ζとである︒
の道未た立たす農工高未た に対するライバル意識と︑
を前にして﹁東北人士の
が強調される︒
OJ
は ︑
ζうした﹁東北人士﹂
の
による﹁第
でみた民権旅の窃の論点と同様に︑藷鴎政爵の
専 ハD︺にみられ
繁日自民 るように﹁藩関お弊未た脱せずし
﹁我
爵の
層の ない理状を打破するために︑の駈辱
し
しー
ずる﹁東北人士る空気
が期待されている︒
であ
ろう
︒ 政治思想の地域性︑東北地万性
が﹁日 な形で噴出したりが︹E︺
ここでは門主︺でも述べられた維新時の
m u 臣
民﹂
本む忠臣義士﹂とレてお震任放棄であったとさ れ︑震任顕治伎の必裂が論ぜられ︑へむ﹁報酬L論を導き出ヲ す︒乙れが第
な︑論理である︒
﹁報
醗
L
の
そし
の捜
糊燃
は
般的な致拾の新陳代謝論であり︑
一雑
薪﹂
二維新﹂れれ東北人士という︑設機交代論︑
であ
る︒
﹁私語なり私怨なり持能の論なり同臨む説な号﹂との批判には国家 維持のためには権力分与が
でゐ
り︑
6ま
を好
み﹂
諌代謝ハ社会の常信
L
でみ
ると
一反
寵す
る︒
そし
て︑
の論理でゐ 党を薮しく批判しているように︑
乙 ︐ つ
した立場を
とは切り離しているとと
ろう
また﹁東北人士 ︒
L d刷
は門
G
︺において大同団結運動の組織をめぐ
つでもつらぬかれ︑﹁東北団体む独立の名士を
り
し一
蛸悦
んで
之
すことが求められる︒
これが第五の論理であ と それは﹁小党分立 る ︒
の拙策Lではなく︑﹁大同独立出体不
良案﹂なのでめり︑従来の
﹁単足首額のをなし
其勢力を助
けであったζとへの批判・
でもあった︒ま
さに
︑
ずるような中央政党の下部組織か ら税却
ζ
とが
川町
ばれ
てい
る︒
ζ
のよ
︐つ
は国式化すると︑現実社会の
m w 自
覚!
中圧
制専政政府観よ明治維新態という一般的コ
l
スと︑東北人士の震か
れているむ認識i
中東北人士対西南人士←明治維新観←第
議!中東北人士論という東北地方的コースとに二別されるでゐろう.
お わ ち に 以 上
大国派のコ東北人士﹂論・ニ維新﹂論ιついて特
レ︑割拠
する地方の共同体的組織の封鎖性を維持する﹃精神
h
信統 おす い
﹁土着主辞
な点をあとずつけてみたのであるが︑その中味は
﹁地万分権的農村中心主義﹂寸地方割拠主義﹂
とかいう評錨が妥当なものではないこと と
か︑
している︐
にの論理震関の中応︑社会現状への批判的翠護をうちたてるにあ
たって︑明治維新(第一維新﹀とま憲体制︿第一一維新﹀とを見据え︑
とちわけ
二維新﹂の必然性・必要性を強調しつつ︑自己の臆史 を明らかにするとともに︑未来への使命をかかげるという被
しての苦渋K
構ちた主張をくみとる
ζとが出来るむ
またそれは︑
めるにとで厳しい
﹁維新の精神L
を五カ条誓文に
政府翻・維新観の立場で務閥政時への対決務勢を一本した民権派の場
合とは一維新﹂の必然性・槙拠を一較的な政権り︑次第に
‑新陳代謝論に求めるζ
とで皮議題政府の姿勢を軟化させて
いる乙とからも︑平民主義における楽観的な維新観・社会観への矯疲
し
の にあった︑過渡的な﹁第二維新﹂論であったと言えるので
はあるまいか︒
明治鎮の地方政治思想に立ち入ったとき︑ごく
般的な論理とと
もに
︑
でみたような・きわめて地方社会民
レた論理も並行レ
てい
にぶつかるのでめり︑ζれは︑いわば
の 地
とも品うべきものであろう︒
とも
あれ
︑
隅比おいて︑
fミく
の
の 誌しつつ︑どう
Ii'
たりうるか︑今日と
くつきあわせるζ
とで︑自らの地域としての東北を内発的
にとらえなおそうとした営為のめったζと号確認レたい︒
2王
( 1 )
田中彰﹁明治天皇制確立期の維新観
l平民主義の維新観とそ
の転
回﹂
一九七二年﹁﹁現代と思想﹄一0・二六二ページ
︿2﹀すでにーし︺¥
寸ノ J /
に︑田中氏は次のように指議している︒
の近代的統一への第歩という
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とからんで︑
の
の中
で︑
となってきた︑の側からだえまなくζ
の
中に
︑
吋人民の自由恥や吋
を 見 出 レ
人. 6
々・、
を・あ とれる き・い つ 縛 試
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も・か の・ち か・と が つ め た
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と と も 争
え
な し1
で︑明
治維新は近代日本の民衆とともにみった︒いまそれを吋一由民意識
としての明治維新﹄と名づけるならば︑ である︒その
とれまでみてきた近代 天皇制の矛盾の起点としての明捨維薪とそれとの関わり合い
を︑科学的にかつ説得的に解明するζとが必衰の課題として
われわれは迫ってくる敏つまり︑科学的な明治維新論は︑
乙 し tζ
の﹃国民意識としての明治維新﹄をも宮みζむものでなけれ
ばならないのである︒﹂(梼点引用者)
︿﹃
体系
・
E本麓史
五 明治国家﹄三一四
l五ページ一九六七年・日本評論社)
ζ
の視
点は
︑
﹃日本の麓史ニ四・明治維新﹄(一九七六年
‑小学館﹀はも引きつがれている︒
〆伊¥
む維
新観
﹂
ハ木
代修
一
の維新観
問 中
旬所
校︑
九 日
台中
ハ
( 4 )
明司
問松陰﹄自0ページ
(5﹀一河野磐州伝﹄上巻二六一
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‑一
二ペ
ージ
﹁奨
一匡
社設
立ノ
撤文
﹂
一月
一日
‑ 64‑
( 6 )
︿明治一三年ニ丹ニ八日・
﹃松本新聞﹄第六O
六号
・ム
ハO七号社説パ﹃奨匡社資料集﹄
二0ページ︺)田中︿2)
論文注よち引用
︿7)
山形新報﹂明治二二年五月四民社説﹁大同団結派の委員大 i乙
ι集
る﹂
︿8﹀
照 明 治 一
一 一 一
月一
一一
ニ自
社説
︿9﹀なものを除けば︑従来のには次のようなものがあ
る ︒
立〉
の 自
見鵠レては︑
由民権運動:弘前地方を中心に
1﹂
〆側、、
以
下︑単花器史研究とする)
¥../
、
﹁国会開設運動期の
県白動向l明治十二年代を中心にi﹂
り︑自由民権家の窃究としては揺葉克夫﹁自由民権家中甫穏
(国史研究五二﹀があ
応ついて
一六
﹀︑
﹁北奥羽の自由民権論者
都民つい
J¥
がめ
る︒
同町
下の
については︑
iζ
至る﹃民党﹄の形成し︿東京大学教養学部人文科学科紀要第
二八轄歴史学研究報告第一O集﹁蜜史と文化﹂H
所夜
︑
九
ノ ¥
が具体的事例として寂号上げているが︑筆者も誌を 改 め
ずるつもりである︒
その
地︑
げ仏
関し
ては
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があ
ち︑
の
実E
報しについては︑伊藤謹一土原奥日報と明治時弐
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f、町
九五八年︑東奥日報社)が詳結に叙述しており︑大変使科で ある︒また最近︑同社から﹁東奥日報﹂の前身である﹁北斗
も含めて一端纂された﹃新聞記事に見る背
れて
おり
︑
の
も
とR
第に明らかに自れつつ品る︒
( ω )
襲在︑青森県立図書館記創刊顛より今日までの分がマイクロ フィルムとして保管されており(欠号もかなりある﹀︑それ
を利用した︒
︿ 日
﹀
部といい︑在京の活動家(壮士﹀
であ
っ の士 忠は た ︒
』ζ
此時に当
地
iま
なるものや組織し︑立つ
運動会?計画せり︒其主患者は警森県人足立真雄斎藤新一郎 宮域県人庄司徳二郎鹿児島県人宮城甚太部千葉県人小林千太
郎等にして︑
i:
:‑﹁明治文化全集﹂﹂(指原安三﹁明治政史﹂
改訂版第九巻正‑五三九ページ﹀とあり︑明治二一一
した
の自体であった
ノ の
にも名前が見える︒
こ'
つい
からみて︑坂出一退助監務吋
島相
文庫版下)﹁八月十七日東北の有志二百二十名の
にお
いて
︑ 総代と称し︑青森の壮士斎藤進一鰐等数名︑井上外務大臣を
︿一
一七
六ペ
ージ
)︑
‑i
i各地よりせる壮士輩関
して
︑
る者そ組織し︑十月十六日︑上
2ζ
郎以下
せらる︒﹂
( 一 一 九
0ページ)とある斎藤進郎︑斎藤一部は︑
ともに薪一部のことでは品るまいか︒また︑明治二二年に
﹃壮士論﹄という本が斎藤新一患の著名で出ているが︑需一
人物であろう︒
さらは内DUの一も新一郎である可能
性が強い︒
(同)会湾独立党に関レて﹁山形新報﹂が次のように
して
いる
︒
﹁東北が不利益の地に立つ事は荷人も歎息する処ろなるが︑
福島県下会揮にて去る廿六B強立党の懇親会を開きたる第︑
山州市話氏︿高等師範学校長睦軍少将﹀が席上にて述べられた
に︑
一⁝
十
の一帯独り関西人の知る
誌 に し
は
の知ら5る処なり︑
士な号︑改進党の首領は議ぞ程前の大関なり︑自治党は長州
の井上なり︑大同団結は土州の後藤なり︑郵船会社も関西人の記録﹄上下(一九七三年・日本放送出版協会)︑真壁仁・野 掌裡にめり︑三菱会社も同じく関西人の所有なり︑誠に吾吾
添憲治編﹃民衆史としての東北﹄
(一九七六年・
NHK
ブッ
東北人は世にめれどもなきが如レ︑此分にて過ぎ行きなば遣
クス)がめる︒また鹿野政直氏は﹃近代精神の道程
1ナショ
憾の極なり︑是非会津魂を振興レて関西人の奴隷たらず︑関
ナリズムをめぐって1﹄︿一九七七年花神社)の中で︑津軽 西人の支配をうけず︑即ち独立党を立てん乙と余が諸君に熱
藩出身の陸渇南と加賀藩出身の三宅雪嶺を例にとって︑グの 望する所なり︑慶三戊辰以来︑関西人に屈服レたる駈辱を雪
りおくれたH
側︑︒きりすてられてゆく
d側にいるものとし
がん乙と余が諸君に熱望する所なり云々とありレ趣き同地よ
ての共通の思想を︑7
裏日本
HHの思想﹂と名づけている︒
りの通信に見ゆ︒﹂(明治二二年四月三日﹁東北人は天下の(立命館大学大学院)
政治に与らず︑会津独立党組織協議﹂︑﹁新聞集成明治編年
史﹂第七巻所収)
( 日 )
﹁報
復主
義﹂
ω最たるものとレて︑西南戦争で
‑ 66‑
﹁復
讐主
義﹂
の東北出身の巡査隊の行動があげられる︒﹁仙台新聞﹂によ ると﹁十四日田原坂の役︑我軍進み賊の壁に迫り殆と之を抜 かんとするに当り︑残兵十三人闘守退かす︒其時︑故会津藩 某身を挺て奮斗レ︑直に賊十三人を斬る︒其闘ふとき大声呼
ぴて日く戊辰の復儲戊辰の復讐と﹂(平重道監修﹃近代東北
庶民の記録﹄上巻一一七ページの記事引用)
( は )
︿4
)の河野広中の叙述に対する羽鳥卓也氏の評価︑(羽鳥﹁民
権運動家の﹃精神﹄﹂﹁商学論集﹂三・一九五一年︑
﹁論
集 日本歴史十﹃自由民権﹄﹂所収︑一九七三年・有精堂)
( 日 )
( 7 )
(前掲論文)
(8
)
などに対する鳥海靖氏の評価︑
( 日 )
乙うした﹁思想の地域性﹂が本稿の問題意識なのであるが︑
最近の乙うした視点のものとしては︑前掲﹃近代東北庶民の