パ フチ ンの対話論による学び●可視化
‑3年 間の森川実践の分析を通 して―
二重大学大学院 教 育学研究科 学校教育専攻 学 校教育専修 前原 裕 樹 20101年 2月 15日 提 出
バ フチンの対話論による学びの可視化 ー3 年間の森川実践の分析 を通 して‑
三重大学大学院 教育学研究科 学校教育専攻 学校教育専修 前原 裕樹 201 0 年 2 月 1 5 日提 出
バ フチンの対話論による学びの可視化 ー3 年間の森川実践の分析 を通 して‑
三重大学大学院 教育学研究科
学校教育専攻 学校教育専修
前原 裕樹
201 0 年 2 月 1 5 日提 出
目次
要 旨‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑・‑‑‑‑‑‑‑‑・・‑
2序章 ‑‑‑‑‑‑‑‑・‑‑・‑‑‑‑‑‑‑‑・‑‑‑・‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑・ 3 第
1章 バ フチンの対話論 を用いた実践分析 の概観 ‑‑‑‑‑‑‑ ‑‑‑ ‑‑‑‑‑・
5 1‑ 1問題 の所在 ・ ・ ‑・ ・ ・ ・ ・ ‑‑・ ‑・ ‑・ ・ ‑‑‑‑・ ‑・ ‑・ ‑・ ‑・ ‑‑‑‑‑・ ‑‑‑‑‑‑
‑5 1‑ 2研究 目的 ・ ‑・ ‑‑・ ・ ・ ・ ‑‑‑・ ・ ・ ・ ‑‑‑‑・ ‑‑‑・ ‑‑‑・ ‑‑・ ・ ‑‑‑・ ‑‑‑・ ‑・ ‑8
1‑ 3研究方法 ‑‑‑‑・ ‑‑‑‑‑・ ・ ‑‑‑‑‑‑‑・ ‑‑‑・ ・ ‑‑・ ・ ‑・ ‑・ ・ ・ ・ ‑・ ‑‑
‑9 1‑4サ ンプ リングの理 由 ・ ・ ‑‑‑‑‑・ ・ ・ ・ ‑・ ‑‑・ ・ ‑‑‑‑・ ‑・ ・ ‑‑‑・ ・ ‑‑‑・ ・ ・ ・ ・
・11 1‑ 5仮説生成 のプロセス ‑・ ・ ‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑・ ・ ・ ・ ‑・ ・ ‑‑‑‑・ ‑‑‑・ ‑‑‑
14第
2章 出会いの材 としての 「 クロツグ ミ」の意味 ‑ 「 対話」・「 変容」の基点‑‑‑ ‑
15 2‑ 1「 クロツグミ
」の実施時期 と本文 ・ ‑‑‑‑・ ・ ‑・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ‑‑・ ‑・ ・ ‑・ ‑‑‑‑・ ・
・15 2‑ 2イ ンタビュー分析 ・ ・ ‑‑‑・ ‑・ ・ ‑‑・ ‑・ ・ ‑‑‑・ ‑‑・ ・ ‑・ ・ ・ ・ ‑‑・ ・ ‑・ ・ ‑‑
‑‑16 2‑ 2‑1自分の考 えを短時間で変 えることのできる材 ‑・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ‑・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
・・・16 2‑ 2‑ 2「 考 えを変 えること
」と 「 イメージを変 えること」 ・ ・ ‑・ ‑‑‑‑‑
‑・17 2‑ 2‑ 3授業の構想 ‑‑‑・ ‑‑・ ‑‑・ ‑‑・ ‑‑‑‑・ ‑‑‑‑・ ・ ・ ‑‑・ ‑・ ・ ・ ‑‑
18 2‑ 3「 クロツグミ」の実践分析結果 ‑‑‑‑‑‑‑‑‑ ‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑・20
2‑4総合考察 ‑‑‑‑・‑・‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑・‑‑‑‑・ 26 第 3 章 森川学級 にお ける児童の 「 宛名」の変容過程 ‑‑‑‑‑‑‑‑・‑‑‑‑‑‑・
31 3‑ 1「 宛名」の分析方法 と対象授業 ・ ・ ・ ‑・ ‑‑‑‑‑‑‑・ ‑‑‑・ ‑‑・ ・ ・ ・ ・ ‑・ ‑‑
・31 3‑ 2それぞれの授業に対す る森川 の ( 敬)材 の解釈 ‑‑‑‑・ ・ ‑‑‑‑‑・ ‑・ ・ ・ ・ ‑
33 3‑ 3分析結果 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ‑‑・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ‑
・36 3‑ 3‑ 1 BOX l「 宛名
」の違い と教師の手立てについて ‑‑・ ・ ‑・ ‑‑‑
37 3‑ 3‑ 2 BOX2「 テクス ト( 教科書の本文
)」に対す るこだわ り‑・ ‑‑‑
‑42 3‑ 3‑ 3 BOX 3意見に対す る 「 つつこみ役」 と宛名 の広が り・ ‑‑‑‑‑‑
・48 3‑ 4総合考察 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ‑‑・ ‑‑‑‑・ ・ ‑・ ‑・ ‑‑‑‑‑‑‑・ ‑・ ‑・ ‑‑‑‑‑‑・ ‑‑
53第
4章 対象世界 との対話 ‑‑‑‑‑‑‑‑・ ‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑・ ‑‑‑‑‑‑
55終章 到達点 と課題 ‑‑‑‑‑‑‑‑‑・ ‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑・
61引用 ・参考文献 ‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑・‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑・
64謝辞 ‑‑‑‑‑‑・‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑・‑‑・ ‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑・
67*資料拐l l 耗)
目次
要 旨‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑・‑‑‑‑‑‑‑‑・・‑
2序章 ‑‑‑‑‑‑‑‑・‑‑・‑‑‑‑‑‑‑‑・‑‑‑・‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑・ 3 第
1章 バ フチンの対話論 を用いた実践分析 の概観 ‑‑‑‑‑‑‑ ‑‑‑ ‑‑‑‑‑・
5 1‑ 1問題 の所在 ・ ・ ‑・ ・ ・ ・ ・ ‑‑・ ‑・ ‑・ ・ ‑‑‑‑・ ‑・ ‑・ ‑・ ‑・ ‑‑‑‑‑・ ‑‑‑‑‑‑
‑5 1‑ 2研究 目的 ・ ‑・ ‑‑・ ・ ・ ・ ‑‑‑・ ・ ・ ・ ‑‑‑‑・ ‑‑‑・ ‑‑‑・ ‑‑・ ・ ‑‑‑・ ‑‑‑・ ‑・ ‑8
1‑ 3研究方法 ‑‑‑‑・ ‑‑‑‑‑・ ・ ‑‑‑‑‑‑‑・ ‑‑‑・ ・ ‑‑・ ・ ‑・ ‑・ ・ ・ ・ ‑・ ‑‑
‑9 1‑4サ ンプ リングの理 由 ・ ・ ‑‑‑‑‑・ ・ ・ ・ ‑・ ‑‑・ ・ ‑‑‑‑・ ‑・ ・ ‑‑‑・ ・ ‑‑‑・ ・ ・ ・ ・
・11 1‑ 5仮説生成 のプロセス ‑・ ・ ‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑・ ・ ・ ・ ‑・ ・ ‑‑‑‑・ ‑‑‑・ ‑‑‑
14第
2章 出会いの材 としての 「 クロツグ ミ」の意味 ‑ 「 対話」・「 変容」の基点‑‑‑ ‑
15 2‑ 1「 クロツグミ
」の実施時期 と本文 ・ ‑‑‑‑・ ・ ‑・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ‑‑・ ‑・ ・ ‑・ ‑‑‑‑・ ・
・15 2‑ 2イ ンタビュー分析 ・ ・ ‑‑‑・ ‑・ ・ ‑‑・ ‑・ ・ ‑‑‑・ ‑‑・ ・ ‑・ ・ ・ ・ ‑‑・ ・ ‑・ ・ ‑‑
‑‑16 2‑ 2‑1自分の考 えを短時間で変 えることのできる材 ‑・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ‑・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
・・・16 2‑ 2‑ 2「 考 えを変 えること
」と 「 イメージを変 えること」 ・ ・ ‑・ ‑‑‑‑‑
‑・17 2‑ 2‑ 3授業の構想 ‑‑‑・ ‑‑・ ‑‑・ ‑‑・ ‑‑‑‑・ ‑‑‑‑・ ・ ・ ‑‑・ ‑・ ・ ・ ‑‑
18 2‑ 3「 クロツグミ」の実践分析結果 ‑‑‑‑‑‑‑‑‑ ‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑・20
2‑4総合考察 ‑‑‑‑・‑・‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑・‑‑‑‑・ 26 第 3 章 森川学級 にお ける児童の 「 宛名」の変容過程 ‑‑‑‑‑‑‑‑・‑‑‑‑‑‑・
31 3‑ 1「 宛名」の分析方法 と対象授業 ・ ・ ・ ‑・ ‑‑‑‑‑‑‑・ ‑‑‑・ ‑‑・ ・ ・ ・ ・ ‑・ ‑‑
・31 3‑ 2それぞれの授業に対す る森川 の ( 敬)材 の解釈 ‑‑‑‑・ ・ ‑‑‑‑‑・ ‑・ ・ ・ ・ ‑
33 3‑ 3分析結果 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ‑‑・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ‑
・36 3‑ 3‑ 1 BOX l「 宛名
」の違い と教師の手立てについて ‑‑・ ・ ‑・ ‑‑‑
37 3‑ 3‑ 2 BOX2「 テクス ト( 教科書の本文
)」に対す るこだわ り‑・ ‑‑‑
‑42 3‑ 3‑ 3 BOX 3意見に対す る 「 つつこみ役」 と宛名 の広が り・ ‑‑‑‑‑‑
・48 3‑ 4総合考察 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ‑‑・ ‑‑‑‑・ ・ ‑・ ‑・ ‑‑‑‑‑‑‑・ ‑・ ‑・ ‑‑‑‑‑‑・ ‑‑
53第
4章 対象世界 との対話 ‑‑‑‑‑‑‑‑・ ‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑・ ‑‑‑‑‑‑
55終章 到達点 と課題 ‑‑‑‑‑‑‑‑‑・ ‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑・
61引用 ・参考文献 ‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑・‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑・
64謝辞 ‑‑‑‑‑‑・‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑・‑‑・ ‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑・
67*資料拐l l 耗)
要 旨
本研究の 目的は、バ フチ ンの対話論 を材 に拡張 し、材 との対話 ‑対象世界 との対話 について、教師の授業スタイル との総合的な考察の中か ら明 らかにす ることであった。
そのために、 これまで以下
3つの研究を行 ってきた。
1つ 目の研究は、実践分析 に よって 「 クロツグ ミ」の材が持つ意味について検討 した。その結果、「 クロツグ ミ」は 児童 と対象世界 との出会いの材 であることが明 らかになった。その ことか ら、筆者 は、
「 クロツグ ミ」 を間においた教師 と児童の対話 によって、後の 「 変容」‑の契機 とな る対話が構築 されている、 との仮説 を生成 した。
その仮説 をもとに、 2 つ 目の研究を行 った。 2 つ 目の研究は、 4 月 と
11月の授業に お ける児童 の 「 宛名」 を比較 し、児童の発言の 「 宛名」の変容過程 とその変容 による 学び との関連 について検討 した。その結果、①児童の発言の 「 宛名」が教師か ら児童
‑変容す ることによ り、児童が意味交渉過程 に導 く役割 を教師か ら引き継 ぎ、②その よ うな児童の発言は、教師の 「 権威 の言葉 」 ( バ フチン)とは異 な り、児童の内的対話 を もた らす言葉 となることが明 らかになった。
以上の 2 つの研究を踏まえ、児童の対象世界 との対話について考察 した。その結果、
児童 らはこれまで とは違 った材‑のアクセス方法 を獲得す ることによ り、対象世界 と の関わ り方が これ までの関わ りと異 なることが明 らかになった。
要 旨
本研究の 目的は、バ フチ ンの対話論 を材 に拡張 し、材 との対話 ‑対象世界 との対話 について、教師の授業スタイル との総合的な考察の中か ら明 らかにす ることであった。
そのために、 これまで以下
3つの研究を行 ってきた。
1つ 目の研究は、実践分析 に よって 「 クロツグ ミ」の材が持つ意味について検討 した。その結果、「 クロツグ ミ」は 児童 と対象世界 との出会いの材 であることが明 らかになった。その ことか ら、筆者 は、
「 クロツグ ミ」 を間においた教師 と児童の対話 によって、後の 「 変容」‑の契機 とな る対話が構築 されている、 との仮説 を生成 した。
その仮説 をもとに、 2 つ 目の研究を行 った。 2 つ 目の研究は、 4 月 と
11月の授業に お ける児童 の 「 宛名」 を比較 し、児童の発言の 「 宛名」の変容過程 とその変容 による 学び との関連 について検討 した。その結果、①児童の発言の 「 宛名」が教師か ら児童
‑変容す ることによ り、児童が意味交渉過程 に導 く役割 を教師か ら引き継 ぎ、②その よ うな児童の発言は、教師の 「 権威 の言葉 」 ( バ フチン)とは異 な り、児童の内的対話 を もた らす言葉 となることが明 らかになった。
以上の 2 つの研究を踏まえ、児童の対象世界 との対話について考察 した。その結果、
児童 らはこれまで とは違 った材‑のアクセス方法 を獲得す ることによ り、対象世界 と
の関わ り方が これ までの関わ りと異 なることが明 らかになった。
序章
教育は意図的な営みである。学校 において、教師は、教室や授業において 日々、様 々 な意思決定を行 ってお り
(David.H.Hargreaves,
1979)、また教師は、 「 反省的実践家」
として行為の中で反省 しなが ら実践 を行 っている(
DonaldA.Sch6n,
1984)。また、子 ど もたちは、教師や仲間、材、空間 といった様々な 「 者」 「 モ ノ」 と関わ りなが ら、授業 に参加 してい る。佐藤学(
2003)は、「 者 」 や 「 モ ノ 」 との関わ りによって生まれ る学び を 「 対話的実践」 と表現 し、次のよ うに述べている。
学び とはテキス ト ( 対象世界) との出会い と対話であ り、教室の仲間 との出会い と 対話であ り、 自己 との出会い との対話である。学びは対象世界 との対話 と仲間 との対 話 と自己 との対話的実践 によって構成 されているのであ り ( 学びの三位一体論)、 「 活 動
(activity)」、「 協同
(collaboration)」 「 反省 ( r en
ection)」 の三つで構成 され る 「 活 動的で協同的で反省 的な学び」 として遂行 されてい る。 ( 佐藤学.
2003.p13)佐藤 は、学びの本質 を、対象世界を間においた 自己 と他者 との対話 と位置づけてい る。対話の重要性 についての認識 の背景には、従来の学習観 に対す る批判がある。そ の結果、従来の個体主義的な発想 による発達観や学習観 か ら、「 対話的で協同的で反省 的」( 佐藤学、2003) 、相互作用的( 佐藤公治,
1994)、関係発達的( 鯨岡,
2000)な発想‑ と 転換 してきている。
以上のよ うに、対話 の重要性 を理解 した上で、次 に対話的な中身 を考 えることが必 要 となる。対話的な中身 を考 えるに際 し、本稿では、 ミハイル ・ハイ ロピッチ ・バ フ チ ン
(MHXaIIJIMHXaiiJIOBHtIBaxT這H1895‑1975)の対話論 に着 目す る。なぜバ フチン の対話論に着 目す るのか。その理 由は大きく分けると次の 2 点である。
1 点 目は、バ フチ ンの対話論が、対話 を発話の中、そ して文脈 の中で理解 しよ うと している点である。発話 についてバ フチンは、次のよ うに述べている。
発話は言語 コミュニケー シ ョンの連鎖の一環であって、 これ を先行す る諸 々の環か
バ フチンの対話論で用い られている 「 宛名」 ( バ フチ ン.
1988.佐 々木訳)の概念や 「 収 餐
(appropriation)」 ( バ フチ ン
.1996伊藤訳) とい う概念 は、発話 における前の発言序章
教育は意図的な営みである。学校 において、教師は、教室や授業において 日々、様 々 な意思決定を行 ってお り
(David.H.Hargreaves,
1979)、また教師は、 「 反省的実践家」
として行為の中で反省 しなが ら実践 を行 っている(
DonaldA.Sch6n,
1984)。また、子 ど もたちは、教師や仲間、材、空間 といった様々な 「 者」 「 モ ノ」 と関わ りなが ら、授業 に参加 してい る。佐藤学(
2003)は、「 者 」 や 「 モ ノ 」 との関わ りによって生まれ る学び を 「 対話的実践」 と表現 し、次のよ うに述べている。
学び とはテキス ト ( 対象世界) との出会い と対話であ り、教室の仲間 との出会い と 対話であ り、 自己 との出会い との対話である。学びは対象世界 との対話 と仲間 との対 話 と自己 との対話的実践 によって構成 されているのであ り ( 学びの三位一体論)、 「 活 動
(activity)」、「 協同
(collaboration)」 「 反省 ( r en
ection)」 の三つで構成 され る 「 活 動的で協同的で反省 的な学び」 として遂行 されてい る。 ( 佐藤学.
2003.p13)佐藤 は、学びの本質 を、対象世界を間においた 自己 と他者 との対話 と位置づけてい る。対話の重要性 についての認識 の背景には、従来の学習観 に対す る批判がある。そ の結果、従来の個体主義的な発想 による発達観や学習観 か ら、「 対話的で協同的で反省 的」( 佐藤学、2003) 、相互作用的( 佐藤公治,
1994)、関係発達的( 鯨岡,
2000)な発想‑ と 転換 してきている。
以上のよ うに、対話 の重要性 を理解 した上で、次 に対話的な中身 を考 えることが必 要 となる。対話的な中身 を考 えるに際 し、本稿では、 ミハイル ・ハイ ロピッチ ・バ フ チ ン
(MHXaIIJIMHXaiiJIOBHtIBaxT這H1895‑1975)の対話論 に着 目す る。なぜバ フチン の対話論に着 目す るのか。その理 由は大きく分けると次の 2 点である。
1 点 目は、バ フチ ンの対話論が、対話 を発話の中、そ して文脈 の中で理解 しよ うと している点である。発話 についてバ フチンは、次のよ うに述べている。
発話は言語 コミュニケー シ ョンの連鎖の一環であって、 これ を先行す る諸 々の環か
バ フチンの対話論で用い られている 「 宛名」 ( バ フチ ン.
1988.佐 々木訳)の概念や 「 収
餐
(appropriation)」 ( バ フチ ン
.1996伊藤訳) とい う概念 は、発話 における前の発言やその後 ろの発言、話 し手や聴 き手の存在の重要性 を述べ、発話の中身や文脈 を非常 に意識 してい る。
2
点 目は、バ フチ ンの対話論 は、対話 を永続的な意味交渉過程の場 と捉 え、対話の 中で意味が深 まる、 と考 えてい る点である。
あ らゆる真 の了解 は能動的なものであ り、応答の萌芽 をな している。( 中略) 他者 の発話 を了解す るとい うことは、それ に対 して定位 し、 しかるべ きコンテ クス トのなかに しか るべ き場所 を見つ けるとい うことである。われわれは、了解 してい る 発話 のそれぞれの語 に、いわばわれわれ 自身の応 える一連の語 を積み重ね る。それ ら の数が多 く、それ らが本質的であればあるほ ど、了解 は深 く、本質的なものになる。( 中 略) あ らゆる了解 は対話的である。了解 は、対話の一方の言葉が別の言葉 に対置 してい
るよ うに、発話 に対置 している。 ( バ フチン.
1989.p158)授業 において、対象世界 を間においた他者 と自己の対話、 ( 教)材
1との対話 を どの よ うに明 らかにできるのか。 また、教師は、子 ども同士で 自立的に理解や意味の深化 を深 めることができるよ うに支援 しているが、そのよ うな意味内容の深 ま りや変容 を どの よ うに明 らかにできるのか。 これ らの ことを明 らかにす るためには、発話 の 「 宛 名」や 「 収奪
(appropriation)」 に着 目し、その中身 を分析す ることで、材 を間に置 いた対話が起 きていること、そ して他者 と自己 との永続的な意味交渉過程 による学び の深 ま りが明 らかにできると考 えている。 この ことを明 らかにできるのは、バ フチン の対話論だけなのである。
1
本文では、教材を( 敬) 材 と表記 している。材 と表記することで、教師 として 「 教える」材 とい う意味だけでなく、子 どもの 「 学びの対象 となる」材 とい う意味を含んでいる。
やその後 ろの発言、話 し手や聴 き手の存在の重要性 を述べ、発話の中身や文脈 を非常 に意識 してい る。
2
点 目は、バ フチ ンの対話論 は、対話 を永続的な意味交渉過程の場 と捉 え、対話の 中で意味が深 まる、 と考 えてい る点である。
あ らゆる真 の了解 は能動的なものであ り、応答の萌芽 をな している。( 中略) 他者 の発話 を了解す るとい うことは、それ に対 して定位 し、 しかるべ きコンテ クス トのなかに しか るべ き場所 を見つ けるとい うことである。われわれは、了解 してい る 発話 のそれぞれの語 に、いわばわれわれ 自身の応 える一連の語 を積み重ね る。それ ら の数が多 く、それ らが本質的であればあるほ ど、了解 は深 く、本質的なものになる。( 中 略) あ らゆる了解 は対話的である。了解 は、対話の一方の言葉が別の言葉 に対置 してい
るよ うに、発話 に対置 している。 ( バ フチン.
1989.p158)授業 において、対象世界 を間においた他者 と自己の対話、 ( 教)材
1との対話 を どの よ うに明 らかにできるのか。 また、教師は、子 ども同士で 自立的に理解や意味の深化 を深 めることができるよ うに支援 しているが、そのよ うな意味内容の深 ま りや変容 を どの よ うに明 らかにできるのか。 これ らの ことを明 らかにす るためには、発話 の 「 宛 名」や 「 収奪
(appropriation)」 に着 目し、その中身 を分析す ることで、材 を間に置 いた対話が起 きていること、そ して他者 と自己 との永続的な意味交渉過程 による学び の深 ま りが明 らかにできると考 えている。 この ことを明 らかにできるのは、バ フチン の対話論だけなのである。
1
本文では、教材を( 敬) 材 と表記 している。材 と表記することで、教師 として 「 教える」材
とい う意味だけでなく、子 どもの 「 学びの対象 となる」材 とい う意味を含んでいる。
第
1章 バ フチンの対話論 を用いた実践分析の概観
1‑ 1 問題の所在
これ までに、バ フチ ンの対話論 を用 いた実践分析 には、その対話的思想 を大 きく扱 った研 究 と、ある概念 に焦点化 して扱 った研究 とがある。前者 では、佐藤公治
(1996)が、小学校の国語 ・文学材 「ごんぎっね
」(4年生) において、全ての授業の観察 と相互 作用分析 によって、その授業 にお ける児童の読解過程 を明 らかに してい る。 さらに、
佐藤公治
(1999)は、先の 「ごんぎっね」の観察に続いて、同 じ材 を用いた他 の授業を、
同様 に して分析 してい る。そ して、それ らを比較 し、異 なった 「 読み」 をす る者 の間 での対立 した意見交換 の重要性 を指摘 している。また、松崎
(1994)は、高校 の 「 生活」
を取 り入れた国語科の実践分析 を通 じて、国語科の学習の独 自性 を述べている。
後者 では、一柳
(2007)が、「 宛名
」と 「 収奪
(appropriation)」の概念 を用いて、小学 校(4年生) における一斉授業で、聴 くことが苦手な児童 を対象 とし、そ こか ら一斉授業 で聴 く、 とい う行為 の持っ特徴 を明 らかに している。
「 宛名」の概念 について、バ フチンは次の よ うに説 明 している。
だが発話 は、言語 コ ミュニケー シ ョンの先行だけでな く、後続 の環 ともむすびついて い る。発話が話者 によってつ くられ る とき、後続の環 はもちろんまだ存在 していない。
けれ ども発話 は最初か ら、あ りうべ き( ママ)さまざまな返答 の反応 を考慮 して構築 され るわけで、本質的には、それ らの反応 のために発話 はつ くられ るのである。 ( 中略)発 話 の本質的な ( 生来の)特徴 は、それが誰かに向け られてい ること、それが宛名 をも つ ことである。 ( バ フチ ン
.1988.p180)また、「 収奪
(appropriation)」 の概念 について、バ フチ ンは次の よ うに述べている。
言語 の中の言葉 は、なかば他者 の言葉 である。それが (自分の)言葉 となるのは、話 者 がその言葉の中に 自分 の志 向 とアクセ ン トを住 まわせ、言葉 を支配 し、言葉 を自己 の意味 と表現の志向性 に吸収 した時である。 この収奪の瞬間まで、言葉 は中性的で非 人格的な言語の中に存在 してい るのではな く、( なぜ な ら話者 は、言葉 を辞書の中か ら 選び出すわけではないのだか ら !)他者 の唇の上 に、他者 の コンテ キス トの中に、他 者 の志向に奉仕 して存在 してい る。つま り、言葉 は必然的にそ こか ら獲得 して、 自己
第
1章 バ フチンの対話論 を用いた実践分析の概観
1‑ 1 問題の所在
これ までに、バ フチ ンの対話論 を用 いた実践分析 には、その対話的思想 を大 きく扱 った研 究 と、ある概念 に焦点化 して扱 った研究 とがある。前者 では、佐藤公治
(1996)が、小学校の国語 ・文学材 「ごんぎっね
」(4年生) において、全ての授業の観察 と相互 作用分析 によって、その授業 にお ける児童の読解過程 を明 らかに してい る。 さらに、
佐藤公治
(1999)は、先の 「ごんぎっね」の観察に続いて、同 じ材 を用いた他 の授業を、
同様 に して分析 してい る。そ して、それ らを比較 し、異 なった 「 読み」 をす る者 の間 での対立 した意見交換 の重要性 を指摘 している。また、松崎
(1994)は、高校 の 「 生活」
を取 り入れた国語科の実践分析 を通 じて、国語科の学習の独 自性 を述べている。
後者 では、一柳
(2007)が、「 宛名
」と 「 収奪
(appropriation)」の概念 を用いて、小学 校(4年生) における一斉授業で、聴 くことが苦手な児童 を対象 とし、そ こか ら一斉授業 で聴 く、 とい う行為 の持っ特徴 を明 らかに している。
「 宛名」の概念 について、バ フチンは次の よ うに説 明 している。
だが発話 は、言語 コ ミュニケー シ ョンの先行だけでな く、後続 の環 ともむすびついて い る。発話が話者 によってつ くられ る とき、後続の環 はもちろんまだ存在 していない。
けれ ども発話 は最初か ら、あ りうべ き( ママ)さまざまな返答 の反応 を考慮 して構築 され るわけで、本質的には、それ らの反応 のために発話 はつ くられ るのである。 ( 中略)発 話 の本質的な ( 生来の)特徴 は、それが誰かに向け られてい ること、それが宛名 をも つ ことである。 ( バ フチ ン
.1988.p180)また、「 収奪
(appropriation)」 の概念 について、バ フチ ンは次の よ うに述べている。
言語 の中の言葉 は、なかば他者 の言葉 である。それが (自分の)言葉 となるのは、話
者 がその言葉の中に 自分 の志 向 とアクセ ン トを住 まわせ、言葉 を支配 し、言葉 を自己
の意味 と表現の志向性 に吸収 した時である。 この収奪の瞬間まで、言葉 は中性的で非
人格的な言語の中に存在 してい るのではな く、( なぜ な ら話者 は、言葉 を辞書の中か ら
選び出すわけではないのだか ら !)他者 の唇の上 に、他者 の コンテ キス トの中に、他
者 の志向に奉仕 して存在 してい る。つま り、言葉 は必然的にそ こか ら獲得 して、 自己
の もの としなけれ ばな らない ものなのだ。そ して、あ らゆる言葉 を、誰 もが同 じよ う に、容易 に収奪 し、 自分 の もの として獲得できる とは限 らない。頑 固に抵抗す る言葉 は多い し、相変わ らず他者 の言葉 に とどま り、その言葉 を獲得 した話者 の唇の上で他 者 の声 を響 かせ 、その話者 の コンテキス トの中で同化す ることができず、そ こか ら脱 落 して しま う言葉 もある。それ らの言葉 は、いわば 自分 自身、話者 の意志 にかかわ り な く、 自分 を括弧 の中に くくってい るよ うな ものだ。言語 とは話者 の志向が容易 に獲 得 しうる中性的な媒体ではない。そ こにはあまね く他者 の志 向が住みついてい る。言 語 を支配す ること、それ を 自己の志向 とアクセ ン トに服従 させ ること、それは困難 か つ複雑 な過程 である。 ( バ フチン
.1996.pp67‑68)一柳
(2007)によれ ば、一斉授業で聴 く、 とい う行為 の持つ特徴 を 「 (
1)先行す る他 者 の発言 を 自らの うちに取 り入れ、(2)聴 き手によって支 え られている話 し合いの流 れ を考慮 し、
(3)教師以外の複数の児童 をも 『 応答的な理解』
(Bakhtin,
1975伊東訳
1996)を行 う聴 き手 とし、彼 らが 自らの発言 に対 して どの よ うな返答 を行 うかを考慮 に入れ、先行す る発言 に対す る自己の返答の言葉 を形成す ること」 と論 じてい る。
柳 の研究は、一斉授業 における聴 くとい う行為の能動的な側面 を明 らかに してい る。
しか し、聴 くことが苦手 な児童 の特徴 と現象理解 に焦点 をあてているため、話 し手や 聴 き手の宛名 が どの よ うに変容す るのか、それが学び とどの よ うにつなが るのか、に ついては言及 されていない。 「 宛名」や 「 収奪
(appropriation)」の概念 に着 目し、話 し手や聞き手の変容過程 について言及す ることで、その変容 が もた らす学びの様相 を 明 らかにす ることが必要だ と考 えている。 なぜ な ら、変容が もた らす学びの様相 を明 らかにす ることによって、 「 授業改善
」「 よ りよき実践
‑」とい う 「 志向性」‑ とつな が るか らである。
また、 田島
(2008)は、 「 多声性
(mnogogolosost、 ) 」の概念 を用いて、中学
2年生での 理科の電流保存概念 にお ける概念理解 についてのイ ンタ ビュー を行い、そ こか ら、単 声的学習が多声的学習の基礎 にあることと、単声性 と多声性 の絡み合いの認知発達過 程 の実態 を明 らかに してい る。
「 多 声性 」 につ い て 、バ フチ ンは、多 声性 と似 た用 語 と して 、 「ポ リフォニ ー
(polifoniia)」とい う表現 を用いてい る。
の もの としなけれ ばな らない ものなのだ。そ して、あ らゆる言葉 を、誰 もが同 じよ う に、容易 に収奪 し、 自分 の もの として獲得できる とは限 らない。頑 固に抵抗す る言葉 は多い し、相変わ らず他者 の言葉 に とどま り、その言葉 を獲得 した話者 の唇の上で他 者 の声 を響 かせ 、その話者 の コンテキス トの中で同化す ることができず、そ こか ら脱 落 して しま う言葉 もある。それ らの言葉 は、いわば 自分 自身、話者 の意志 にかかわ り な く、 自分 を括弧 の中に くくってい るよ うな ものだ。言語 とは話者 の志向が容易 に獲 得 しうる中性的な媒体ではない。そ こにはあまね く他者 の志 向が住みついてい る。言 語 を支配す ること、それ を 自己の志向 とアクセ ン トに服従 させ ること、それは困難 か つ複雑 な過程 である。 ( バ フチン
.1996.pp67‑68)一柳
(2007)によれ ば、一斉授業で聴 く、 とい う行為 の持つ特徴 を 「 (
1)先行す る他 者 の発言 を 自らの うちに取 り入れ、(2)聴 き手によって支 え られている話 し合いの流 れ を考慮 し、
(3)教師以外の複数の児童 をも 『 応答的な理解』
(Bakhtin,
1975伊東訳
1996)を行 う聴 き手 とし、彼 らが 自らの発言 に対 して どの よ うな返答 を行 うかを考慮 に入れ、先行す る発言 に対す る自己の返答の言葉 を形成す ること」 と論 じてい る。
柳 の研究は、一斉授業 における聴 くとい う行為の能動的な側面 を明 らかに してい る。
しか し、聴 くことが苦手 な児童 の特徴 と現象理解 に焦点 をあてているため、話 し手や 聴 き手の宛名 が どの よ うに変容す るのか、それが学び とどの よ うにつなが るのか、に ついては言及 されていない。 「 宛名」や 「 収奪
(appropriation)」の概念 に着 目し、話 し手や聞き手の変容過程 について言及す ることで、その変容 が もた らす学びの様相 を 明 らかにす ることが必要だ と考 えている。 なぜ な ら、変容が もた らす学びの様相 を明 らかにす ることによって、 「 授業改善
」「 よ りよき実践
‑」とい う 「 志向性」‑ とつな が るか らである。
また、 田島
(2008)は、 「 多声性
(mnogogolosost、 ) 」の概念 を用いて、中学
2年生での 理科の電流保存概念 にお ける概念理解 についてのイ ンタ ビュー を行い、そ こか ら、単 声的学習が多声的学習の基礎 にあることと、単声性 と多声性 の絡み合いの認知発達過 程 の実態 を明 らかに してい る。
「 多 声性 」 につ い て 、バ フチ ンは、多 声性 と似 た用 語 と して 、 「ポ リフォニ ー
(polifoniia)」とい う表現 を用いてい る。
それぞれ に独立 していて互いに融 け合 うことのないあまたの声 と意識、それぞれがれ っき とした価値 を持つ声たちによる真 のポ リフォニー こそが、 ドス トエ フスキーの小 説 の本質的な特徴 なのである。彼 の作品の中で起 こっていることは、複数 の個性や運 命 が単一の作者 の意識の光に照 らされた単一の客観的な世界の中で展開 されてい くと いった ことではない。そ うではな くて、 ここではま さに、それぞれの世界 を持 った複 数 の対等な意識が、各 自の独立性 を保 ったまま、何 らかの事件 とい うま とま りの中に 織 り込まれてゆ くのである。( バ フチ ン.
1995.p15)多声 とポ リフォニーの違いについて、桑野(
2008)は 「
mnogogolosost、 には 『た くさ んの声があること
』とい う意味はあって も、そ こには作者 と主人公 の関係 が入 ってい ない」 と述べている。桑野によれば、これ ら 2 つの概念の違いは、「 作者 と主人公 の関 係 が入 っているか否か」であ り、「 作者 と主人公の関係 が入 っている概念」をポ リフォ ニー と呼ぶのに対 し、「 作者 と主人公 の関係 が入 っていない概念」を多声 と呼ぶのであ る。
田島の研究は、他者 の介入 によって意味交渉過程‑ と導 くことによ り、生徒の理解 を深 めるとい う、理解が静的なものではな く、動的なものである、 とい う対話的側面 を明 らかに している。つま り、理解 とい うことが、ある一定の ところで とどまるもの ではな く、常に理解 とい うのは対話的な中にある、とい うことである。しか しなが ら、
田島の研究では、研究者 が他者 としての介入の役割 を担い、生徒 を意味交渉の過程‑
導 く役割 を担 ってお り、実際の授業 と他者が異なっている。であるか ら、授業実践 に お ける他者 を踏 まえた上で、教師や児童が 「 心に染み入 る対話 を促す他者」に どの よ
うに してな り得 るのか、 とい うことについて明 らかにす る必要がある。
さらに、先行研究 となる一柳 と田島の研究で共通す る問題点 として、授業 における 子 どもと ( 教)材 との関わ りについての検討 の必要性、 とい う点を指摘 したい。子 ど もと材 との関わ りについての検討が必要であると考 える理 由は以下である。教育は意 図的な営みであ り、教師は
1時間の授業、
1単元の授業、
1年間の授業 を通 して子 ど もたち一定の力 をつけさせ よ うとしてい る。 よって、授業 を取 り上げる際には授業の 目標やね らい と照 らし合わせ、検証す る必要があるか らである。これ まで、( 教)材 と の関わ りの検討が不十分な理 由 としては、バ フチンの対話論 を用いた実践分析が、「 音 声言語 の対話」 「 人 と人が直接交わす言葉」に着 目して用い られてきた ことが考 えられ る。 この点について、バフチ ンは次の よ うに述べている。
それぞれ に独立 していて互いに融 け合 うことのないあまたの声 と意識、それぞれがれ っき とした価値 を持つ声たちによる真 のポ リフォニー こそが、 ドス トエ フスキーの小 説 の本質的な特徴 なのである。彼 の作品の中で起 こっていることは、複数 の個性や運 命 が単一の作者 の意識の光に照 らされた単一の客観的な世界の中で展開 されてい くと いった ことではない。そ うではな くて、 ここではま さに、それぞれの世界 を持 った複 数 の対等な意識が、各 自の独立性 を保 ったまま、何 らかの事件 とい うま とま りの中に 織 り込まれてゆ くのである。( バ フチ ン.
1995.p15)多声 とポ リフォニーの違いについて、桑野(
2008)は 「
mnogogolosost、 には 『た くさ んの声があること
』とい う意味はあって も、そ こには作者 と主人公 の関係 が入 ってい ない」 と述べている。桑野によれば、これ ら 2 つの概念の違いは、「 作者 と主人公 の関 係 が入 っているか否か」であ り、「 作者 と主人公の関係 が入 っている概念」をポ リフォ ニー と呼ぶのに対 し、「 作者 と主人公 の関係 が入 っていない概念」を多声 と呼ぶのであ る。
田島の研究は、他者 の介入 によって意味交渉過程‑ と導 くことによ り、生徒の理解 を深 めるとい う、理解が静的なものではな く、動的なものである、 とい う対話的側面 を明 らかに している。つま り、理解 とい うことが、ある一定の ところで とどまるもの ではな く、常に理解 とい うのは対話的な中にある、とい うことである。しか しなが ら、
田島の研究では、研究者 が他者 としての介入の役割 を担い、生徒 を意味交渉の過程‑
導 く役割 を担 ってお り、実際の授業 と他者が異なっている。であるか ら、授業実践 に お ける他者 を踏 まえた上で、教師や児童が 「 心に染み入 る対話 を促す他者」に どの よ
うに してな り得 るのか、 とい うことについて明 らかにす る必要がある。
さらに、先行研究 となる一柳 と田島の研究で共通す る問題点 として、授業 における
子 どもと ( 教)材 との関わ りについての検討 の必要性、 とい う点を指摘 したい。子 ど
もと材 との関わ りについての検討が必要であると考 える理 由は以下である。教育は意
図的な営みであ り、教師は
1時間の授業、
1単元の授業、
1年間の授業 を通 して子 ど
もたち一定の力 をつけさせ よ うとしてい る。 よって、授業 を取 り上げる際には授業の
目標やね らい と照 らし合わせ、検証す る必要があるか らである。これ まで、( 教)材 と
の関わ りの検討が不十分な理 由 としては、バ フチンの対話論 を用いた実践分析が、「 音
声言語 の対話」 「 人 と人が直接交わす言葉」に着 目して用い られてきた ことが考 えられ
る。 この点について、バフチ ンは次の よ うに述べている。
む ろん、狭義での対話 は、言語的作用の諸形態のひ とつ ‑た しかにきわめて重要な形 態 」 こす ぎない。 しか し、対話 を広 く解 して、顔 と顔 をつ きあわせての人々の直接の 言語的交通だけでな く、あ らゆる言語的交通の意味にも解す ることができる。書物、
つま り印刷 された ことばも言語的交通の一要素である。( バ フチン
.1989.p145)バ フチ ンは、「 音声言語の対話 」 や 「 人 と人が直接交わす言葉 」 だけではな く、書物 や印刷 された ことばも対話 の要素 としているのである。
それでは、子 どもと ( 教)材 との関わ りを検討す るために、 どのよ うな分析視点を 加 えた らよいのだろ うか。この ことについて参考 となるのが、教師の 「 授業スタイル」
とい う視点である。授業スタイル について藤原顕 ( 2006) は 「 特定の教師が、子 ども の理解、授業の 目的や 教育内容 の想定、教材 の準備や提示、学習活動 の組織 な どをど の よ うに遂行 してい くのか、その個性的な様態」 と説明 してい る。
バ フチンの対話論 による現象の分析 と教師の授業スタイル とを総合的に検討す るこ とによ り、以上で問題点 として指摘 してきた授業における子 どもと ( 教)材 との関わ りについての検討 の必要性、す なわち 「 授業における学びの意味」や 「 実践の評価」
を明 らかにす ることが可能 となるのである。そ して、その結果、 よ りよき実践‑の志 向性 をもた らす ことにつなが るのである。
1‑2
研究 目的
本研究の 目的は、バ フチ ンの対話論 を材 に拡張 し、材 との対話 ‑対象世界 との対話 について、教師の授業スタイル との総合的な考察の中か ら明 らかにす ることである。
そのために、以下
2つの研究 を行 った。
1つ 目は、対象世界 との出会いについての研 究である。教師がいかに して児童 と対象世界を出会わせているのか、また児童は どの よ うに対象世界 と対話 してい るのか、について検討 している( 第 2 章)
。2 つ 目は、児童 の発言の 「 宛名 」 の研究である。4 月 と
11月の授業における児童の 「 宛名 」 を比較 し、
その変容過程 を明 らかに してい る( 第
3章) 。
ところで、研究者 が実践 を分析す る意味 とは何であろ うか。研究者が実践 を分析す ることについて松下 ( 2005) は次のよ うに説明 している。
( 中略) 研究者 は、実践者 とは別 の言語で語 ることによって実践の もつ新 しい面を浮か び上が らせ、理論的なネ ッ トワー クの中にそれ を位置づ けることができる。 したがっ む ろん、狭義での対話 は、言語的作用の諸形態のひ とつ ‑た しかにきわめて重要な形 態 」 こす ぎない。 しか し、対話 を広 く解 して、顔 と顔 をつ きあわせての人々の直接の 言語的交通だけでな く、あ らゆる言語的交通の意味にも解す ることができる。書物、
つま り印刷 された ことばも言語的交通の一要素である。( バ フチン
.1989.p145)バ フチ ンは、「 音声言語の対話 」 や 「 人 と人が直接交わす言葉 」 だけではな く、書物 や印刷 された ことばも対話 の要素 としているのである。
それでは、子 どもと ( 教)材 との関わ りを検討す るために、 どのよ うな分析視点を 加 えた らよいのだろ うか。この ことについて参考 となるのが、教師の 「 授業スタイル」
とい う視点である。授業スタイル について藤原顕 ( 2006) は 「 特定の教師が、子 ども の理解、授業の 目的や 教育内容 の想定、教材 の準備や提示、学習活動 の組織 な どをど の よ うに遂行 してい くのか、その個性的な様態」 と説明 してい る。
バ フチンの対話論 による現象の分析 と教師の授業スタイル とを総合的に検討す るこ とによ り、以上で問題点 として指摘 してきた授業における子 どもと ( 教)材 との関わ りについての検討 の必要性、す なわち 「 授業における学びの意味」や 「 実践の評価」
を明 らかにす ることが可能 となるのである。そ して、その結果、 よ りよき実践‑の志 向性 をもた らす ことにつなが るのである。
1‑2
研究 目的
本研究の 目的は、バ フチ ンの対話論 を材 に拡張 し、材 との対話 ‑対象世界 との対話 について、教師の授業スタイル との総合的な考察の中か ら明 らかにす ることである。
そのために、以下
2つの研究 を行 った。
1つ 目は、対象世界 との出会いについての研 究である。教師がいかに して児童 と対象世界を出会わせているのか、また児童は どの よ うに対象世界 と対話 してい るのか、について検討 している( 第 2 章)
。2 つ 目は、児童 の発言の 「 宛名 」 の研究である。4 月 と
11月の授業における児童の 「 宛名 」 を比較 し、
その変容過程 を明 らかに してい る( 第
3章) 。
ところで、研究者 が実践 を分析す る意味 とは何であろ うか。研究者が実践 を分析す ることについて松下 ( 2005) は次のよ うに説明 している。
( 中略) 研究者 は、実践者 とは別 の言語で語 ることによって実践の もつ新 しい面を浮か
び上が らせ、理論的なネ ッ トワー クの中にそれ を位置づ けることができる。 したがっ
て、 どんな言語で語 り、 どんな理論的ネ ッ トワー クを編み出 していけるかが、研究者 に問われ ることになる。( 松下.
2005.p210)研究者が実践者 とは異 なるヴァージ ョンを浮かび上が らせ ることによ り、その実践 の多面性 を浮かび上が らせ ることができる。それ によって、実践者の気づかない側面 を明 らかにす ることも可能 となるのである。そ して、 この ことは、教師の リフ レクシ
ョンのための有用 なデータ ・理論 となるのである。
i l
1‑3研究方法
(対象 ( 研究協力者))
対象( 研究協力者) は、三重県の小学校の教師歴
20年の森川拓也(男性)
1名 と森川が
3年間に担任 した
3学級( いずれ も単一学級)である。1年 ごとの時期で次の
3つに分 けた。
第
1期 は、Ⅹ年
4月か ら、Ⅹ+ 1 年
3月までである。観察は全
23回行 った。第
1期 の対象学年 は、
6年生児童
33名( 男子
17名女子
16名) であった。
第
2期 は、Ⅹ+ 1 年
4月か ら
Ⅹ+ 2年
3月までである。ノ 観察は全
32回行 った。第
2期の対象学年 は、 6 年生児童 40 名( 男子
22名女子
18名) であった。
第
3期 は、Ⅹ+ 2 年
4月か ら
Ⅹ+ 2年
12月までである。観察は全
25回行 った。第
3期の対象学年 は、 5 年生児童
32名( 男子
15名女子
17名) であった。
く方法)
週 に
1,
2回の頻度で朝の活動 と
1,
2時間 目の授業、お よび休み時間に参与観察 を行 った。観察す る 日は、主に児童の朝の活動時か ら学級 に入 り、授業前の児童の様 子や机 の配置、掲示物な どを観察 した。データ収集 の際には、 トライアンギュレーシ ョンを意識 した。 トライアンギュ レーシ ョン とは、 フ リック
(2002)によると 「 ひ とつ の現象に対 してさまざまな方法、研究者、調査群、空間的 ・時間的セ ッティングあるいは 異なった理論的立場を組み合わせ ること」であ り、それ らを組み合わせることにより 「 よ
り多面的、包括的かつ妥当性の高い知見を得 ようとする
」ことを目標 としている。
分析 の対象である国語 の授業については、 ビデオカメラ
1台で録画 し、それ をデー タ化 した。 また、フィール ドノーツか らのエ ピソー ド記録 を作成 した。 ビデオ記録 の データは主に森川 と児童 の発話が中心であ り、そ こで表せ ない非言語的情報やその空 間で感 じた ことな どをエ ピソー ド記録で補完 した。分析の際、森川 に行 ったフォーマ て、 どんな言語で語 り、 どんな理論的ネ ッ トワー クを編み出 していけるかが、研究者 に問われ ることになる。( 松下.
2005.p210)研究者が実践者 とは異 なるヴァージ ョンを浮かび上が らせ ることによ り、その実践 の多面性 を浮かび上が らせ ることができる。それ によって、実践者の気づかない側面 を明 らかにす ることも可能 となるのである。そ して、 この ことは、教師の リフ レクシ
ョンのための有用 なデータ ・理論 となるのである。
i l
1‑3研究方法
(対象 ( 研究協力者))
対象( 研究協力者) は、三重県の小学校の教師歴
20年の森川拓也(男性)
1名 と森川が
3年間に担任 した
3学級( いずれ も単一学級)である。1年 ごとの時期で次の
3つに分 けた。
第
1期 は、Ⅹ年
4月か ら、Ⅹ+ 1 年
3月までである。観察は全
23回行 った。第
1期 の対象学年 は、
6年生児童
33名( 男子
17名女子
16名) であった。
第
2期 は、Ⅹ+ 1 年
4月か ら
Ⅹ+ 2年
3月までである。ノ 観察は全
32回行 った。第
2期の対象学年 は、 6 年生児童 40 名( 男子
22名女子
18名) であった。
第
3期 は、Ⅹ+ 2 年
4月か ら
Ⅹ+ 2年
12月までである。観察は全
25回行 った。第
3期の対象学年 は、 5 年生児童
32名( 男子
15名女子
17名) であった。
く方法)
週 に
1,
2回の頻度で朝の活動 と
1,
2時間 目の授業、お よび休み時間に参与観察 を行 った。観察す る 日は、主に児童の朝の活動時か ら学級 に入 り、授業前の児童の様 子や机 の配置、掲示物な どを観察 した。データ収集 の際には、 トライアンギュレーシ ョンを意識 した。 トライアンギュ レーシ ョン とは、 フ リック
(2002)によると 「 ひ とつ の現象に対 してさまざまな方法、研究者、調査群、空間的 ・時間的セ ッティングあるいは 異なった理論的立場を組み合わせ ること」であ り、それ らを組み合わせることにより 「 よ
り多面的、包括的かつ妥当性の高い知見を得 ようとする
」ことを目標 としている。
分析 の対象である国語 の授業については、 ビデオカメラ
1台で録画 し、それ をデー
タ化 した。 また、フィール ドノーツか らのエ ピソー ド記録 を作成 した。 ビデオ記録 の
データは主に森川 と児童 の発話が中心であ り、そ こで表せ ない非言語的情報やその空
間で感 じた ことな どをエ ピソー ド記録で補完 した。分析の際、森川 に行 ったフォーマ
ル なイ ンタビューや休み時間の雑談な どを考察対象 に含 めた。筆者 は、毎年初観察の とき、森 川 か ら児童‑は 「 みんな と
1年間一緒 に勉強す る大学生( 大学院生
)」と紹介 された。児童か らは 「 前原 さん 」 と呼ばれていた。 国語の授業は観察に徹 したが、他の 授業では授業補助な ども行 った。休み時間には児童の話 し相手や遊び相手 となった。
観察す る際には、次の 2 点について心がけた。
1
点 目は、観察 してい る授業において、筆者がその場 にいて撮影 してい ることが、
児童 の注意力 を妨 げる、児童 にプ レッシャーを与 える、 とい うことがない よ うにつ と めた点である。筆者が学級 にいて、授業 を記録 していることは、児童 に とっては普段 とは違 う状況である。 したがって、当然児童の注意が筆者 に向いた り、児童がプ レッ シャーを感 じた りす るであろ う。 であるか ら、週 に一度の継続的な観察 を行 う中で、
休み時間に児童 と積極的なコ ミュニケーシ ョンを取った り、国語以外の授業で教師の 手伝い授業補助 を行 った りした。 また、授業 中も、児童 と同 じよ うに発 問に対 し考 え た り、森川 の余談に笑 った りしていた。 このよ うに学級、児童 と関わってい く中で、
筆者 がそ こにいること、そ して授業 をカメラで撮 っていることが児童 に とって 自然 と なるよ うに心がけた。
2
点 目は、内部の視点を持 ちなが らも自身の見方が現場の考 えに偏 った り、失われ た りしない よ うにす る、 とい う点である。 この点についてフ リック(
2002)は以下のよ
うに述べている。
他 の質的な方法 と比べて参与観察の場合 には、調査対象のフィール ドに対 し可能な 限 り 「 内側の視点を得 ること」 と、同時に 「 よそ者 としての立場 を体系化す ること」
(Prick1991b,pp.154‑5)
が よ り重要 となる。後者 を達成す ることによってのみ フィール ドにおいて 日常的であ りふれ た こ とが らの中に何 か特別 な ものを見出す こ とができ る。 このよ うな批判的な外側か らの視点を失い、フィール ドで共有 されている見方 を 鵜呑みに して しま うことを 「ゴーイ ング ・ネイティブ
goingnative」とい う。 このゴ ーイ ング ・ネイテ ィブのプ ロセスは一概 に調査者 の誤 りとは言 えない。それは、適切 な反省 を加 えることで距離 をおいているだけでは得 られないフィール ド‑の洞察 を獲 得す ることにもなるか らである。 しか し、調査の 目標 はフィール ドで 自明なことが ら
に慣れ るだけに限 らない。 フィール ドに慣れ ることはフィール ドに参与す ることに成 功 す るには十分 で あろ うが、体 系的 な観 察 のた めには不十分 で あ る 。 (フ リッ
ク.
2002.pp179‑180)ル なイ ンタビューや休み時間の雑談な どを考察対象 に含 めた。筆者 は、毎年初観察の とき、森 川 か ら児童‑は 「 みんな と
1年間一緒 に勉強す る大学生( 大学院生
)」と紹介 された。児童か らは 「 前原 さん 」 と呼ばれていた。 国語の授業は観察に徹 したが、他の 授業では授業補助な ども行 った。休み時間には児童の話 し相手や遊び相手 となった。
観察す る際には、次の 2 点について心がけた。
1
点 目は、観察 してい る授業において、筆者がその場 にいて撮影 してい ることが、
児童 の注意力 を妨 げる、児童 にプ レッシャーを与 える、 とい うことがない よ うにつ と めた点である。筆者が学級 にいて、授業 を記録 していることは、児童 に とっては普段 とは違 う状況である。 したがって、当然児童の注意が筆者 に向いた り、児童がプ レッ シャーを感 じた りす るであろ う。 であるか ら、週 に一度の継続的な観察 を行 う中で、
休み時間に児童 と積極的なコ ミュニケーシ ョンを取った り、国語以外の授業で教師の 手伝い授業補助 を行 った りした。 また、授業 中も、児童 と同 じよ うに発 問に対 し考 え た り、森川 の余談に笑 った りしていた。 このよ うに学級、児童 と関わってい く中で、
筆者 がそ こにいること、そ して授業 をカメラで撮 っていることが児童 に とって 自然 と なるよ うに心がけた。
2
点 目は、内部の視点を持 ちなが らも自身の見方が現場の考 えに偏 った り、失われ た りしない よ うにす る、 とい う点である。 この点についてフ リック(
2002)は以下のよ
うに述べている。
他 の質的な方法 と比べて参与観察の場合 には、調査対象のフィール ドに対 し可能な 限 り 「 内側の視点を得 ること」 と、同時に 「 よそ者 としての立場 を体系化す ること」
(Prick1991b,pp.154‑5)