アイン・ランドとロシア・ニヒリズム
一一ーネイティブ・アナーキズムとリバタリアニズムの聞で一一一
1
.アイン・ランドー何が問題か アメリカとロシアという 万力"にヨーロッ パが挟まれているという構図はヨーロッパ知 識人によってしばしば語られるものである。実際,一方は消費社会とレッセ・フェールの 旗手として,他方は社会主義の旗手として,
ヨーロッパ的世界観を締め上げた。これが
2 0
世紀のひとつの,しかし有力な解釈の仕方 であるといっていいだろう。そして,この二 つの巨大な 万力"がヨーロッパに対して提 示した独特の世界観を概観するとき,一人の 特異な人物が立ち現れる。それがアイン・ランドである。
アイン・ランドは本名をアリサ・ローゼン パウムという。
1 9 0 5
年,ペテルブルグに生ま れた彼女は,革命に揺れるロシアの地で多感 な時代を過ごした。1 9 2 1
年にペトログラー ド大学に入学,歴史と哲学を専攻した彼女は,同大学を卒業したのち,
1 9 2 6
年にアメリカへ と亡命を果たす。名をアイン・ランドと変え,給仕として働くなど戴難辛苦を経つつも,小 説『水源jJ
( 1 9 4 3
年), u'肩をすくめるアトラ スjJ( 1 9 5 7
年)などの作品を発表し,アメリカ 文壇にその地位を築いたヘ若き日をロシアで,それ以降をアメリカで 生きた彼女は,この巨大な 万力"の二つの
仁井田
出 一 小世界観を肌身に知る人物である。それだけで も注目に値するが,彼女はヨーロッパ的世界 観を締め上げるアメリカ側の世界観をより平 明な形で提示し強化するという役割を担っ た。自らの思想を「客観主義」としてまとめ あげ,多くの信奉者をアメリカにおいて得た からである。その中には たとえば連邦準備 制度理事会議長として活躍したグリーンスパ
ンもいた
ω
。「客観主義
J ( O b j e c t i v i s m )
と名づけられた その体系は徹底した利己主義者であることを 称揚するとともに,自由競争の積極的な肯定と利他主義への苛烈な批判で彩られている。
なにものにも拘束されない個人に至上の価値 をおくという人間像をその基盤におく彼女の 思想は,現在においても,アメリカ的世界観 の一翼を間違いなく担うものとなっている。
リパタリアニズムとして括られることも多い 彼女の思想だが,ノージックの手になる有名 な『国家・アナーキー・ユートピア』が『肩 をすくめるアトラス』の発表から
1 7
年後に あたる1 9 7 4
年に発表されたということを考 え合わせれば,その役割の大きさとある種の 先見性"をうかがい知ることができるだろつ
。
もっとも,彼女の思想をリパタリアニズム として括るのはそう簡単なことではない。実
( 3 1 )
際,彼女の政府観は『国家・アナーキー・ユー トピア」でノージックが示していたものとは かけ離れている(九両者の違いは政府観にあ ると考えることができるだろうが,彼女の
「
客 観主義」とリバタリアニズムの距離は政府の 役割をどのように考えるかという唯一の論点 によって語り尽くせると考えることはできな い。むしろ,そこに見られる根源的差異は,アメリカ的な思想体系の文脈には括りきれな い,特異な人間観にあるのではないだろうか。
この点をさらにつまびらかにするために歴 史をさかのぼりたい。
1 9
世紀のアメリカに はリバタリアニズムの前駆とも言えるネイ テイブ・アナーキズムと呼ばれるような独特 の思想運動が存在した。その中の一人,ライ サンダー・スプーナーの思想を確認していく と(4)彼女の特異性がより明瞭になるだろう。たとえばスプーナーにとってなによりも重要 な意味を持ったのは自然権であった。自然権 に至上の価値をおく彼にとって,政府の存在 は自然権に対する重大な挑戦と受けとめられ る。もちろんネイテイブ・アナーキズムに とっても, 自然権の侵害に対抗する措置の必 要性は認識されているが,あくまでもその対 抗措置に対する参加は個人の自発的意志に基 づくものでなければならない。スプーナーは ここで 保護協会"という構想を提示するの だが,この 保護協会"という思考実験が『国 家・アナーキー・ユートピア』では重要な位 置を占めることになるへつまり,絶対不可 侵の自然権を持つ個人という人間観がノー ジックに至るまで,その形を様々に変容させ つつもひとつの通層低音となっていたと大ま かに考えることができるのである。
ところが「客観主義」においては,ほとん ( 32 )
どといっていいほどこの 自然権"に触れら れることはない。つまり,ランドは自然権を ベースにして個人の至上性を措定するとい う,アメリカに伝統的な思考のラインに立っ ているとは考えにくいのである
。確かに彼女
は財産権の絶対性を主張するのだが,その導 出の論理において 自然権"の持つ意味はほ とんどなく,彼女独自の人間観によって財産 権の絶対が導かれている。
では彼女はその人間観の土台に何をおいて いたのであろうか。そしてその人間観はどこ に由来しているのか。それを考察していくこ とが本稿の課題となる。そのためにはランド のロシア的側面に着目することが有益なので はないか,具体的にいえば,ロシア思想の展 開,とりわけロシア・ニヒリズムの展開とラ
ンドの思想との距離を確認することが有益な のではないか, というのが本稿における仮説 である。
この間いは単にランド個人の思想をつまび らかにする導きの糸を見出すということに終 わるものではない。
1 9
世紀に発展したネイ テイブ・アナーキズムと.2 0
世紀後半におけ るリバタリアニズムの興隆の聞には空白期が あり,そして,その空白期において登場した のがランドの思想だからである。したがっ て,アメリカにおけるリバタリアニズムの潮 流を大づかみにするためにも是非ともランド の思想を考究することが必要な作業ということになるのである。
そこで本稿では次のように考察を進めてい くことにしたい。まず,彼女の「客観主義」
を分析しそれが提示する人間像が,いかに 自然権に基づく個人"という人間像からか け離れているかを確認する。次に我々は,そ
の特異な人間像の由来を ロシア・ニヒリズ ム"に求めるという仮説を検討することにし たい。なぜなら, 合理的エゴイズム"を称揚 し, 新しい人間"を待望したチェルヌイシェ フスキーの『何をなすべきか』と,彼女の主 著といっていいであろう『肩をすくめるアト ラス』には,比較考量に値する類似点がある からである。これによって,ランド理解をめ ぐるもつれた糸がある程度解きほされるだけ でなく, リパタリアニズム理解に新たな視点 を提供することが可能になるであろう。
2 . r 客観主義」とは何かーその特異性
ランドが自らの思想のエッセンスを一冊に ま と め た の が,
1 9 6 4
年 に 公 刊 さ れ たThe v i r t u e 0 / s e l f i s h n e s s
である(邦訳『利己主義という気概
J J )
。よって,彼女の思想を確認す るには本書にあたるのが簡便であろう。彼女はまず,現代における倫理の究極の基 準が「きまぐれ」(6)に陥っていると断罪し,
価値相対主義への反対を表明する。
「
倫理は 主観的問題」{7)であるという前提に立つこと を批判する彼女は1"""合理的で科学的で客観 的な倫理体系」{8)を発見可能であるとするの である。では彼女は客観的基準をどこに求めるのだ ろうか。ここで導入されるのが,有機体にお ける生命維持の機能である。ごく単純にいえ ば,有機体にとっての究極の価値とは生命の 維持そのものであり,その目的に適合的か否 かが生命にとって選択基準となる。これが彼 女の論理体系の出発点になるのである。
これは一見したところ,動物的本能を基盤 とする,ある種の功利主義とほとんど違いが
ないように見える。しかし彼女は,快楽を得,
苦痛を避けようとするだけの単純なあり方は 動物と同様だと指摘する。なぜなら1"""人間 は自分の一生という文脈と条件から,自らの 進路,目標,価値」(9) を選ぶためであり,長期 的な自己の生を持続させるには動物的欲望を 整序する思考が不可欠だからである。ここに おいて理性が働く必然性が生じる。そして理 性の働きによって 長期的な視野に立った自 己の生命の維持に資する合理的な選択基準と いうものが立ち現れることになるだろう。理 性によって得られた合理的選択基準に従うと いう倫理体系がそこから生まれてくるわけで ある。これが「客観主義」における 客観"
の合意である。その倫理体系は気まぐれでは なく理性を働かせれば理解可能であるがゆえ に,ランドにとっては 客観"の名に値する わけだ。
ここで注意するべきことは,客観的な倫理 体系が個々の有機体に先だって存在している わけではないということである。ベンサム流 の功利主義であれば効用は個々人に先立つて 客観化できるため,それが個々人に 普遍的 に"適用されうる。つまり,あらかじめ客観 的に導出されている普遍的な倫理体系に人は 従わねばならない,ということになるわけで ある。ところが
「
客観主義」においては,個々 の有機体における生命維持がまずあり,生命 を維持するために思考を働かせた結果として 合理的な選択基準がいわば事後的に立ち現れ る。そして,この合理的な選択基準に従わね ば個々の有機体は生命を維持できない以上,人々は基本的にはこの選択基準に従うという ことになるだろう。つまり,一連の倫理体系 を個人が強要されるわけではないが,その倫
( 3 3 )
理体系を受け入れねば死が待っている以上,
生を選ぼうとすれば理性の行使に適合的であ るという意味で 客観的な"倫理基準を個人 は選択していくであろう, というのである。
よって,少なくともベンサム流の功利主義の ような形で,個人が理性の虜とされることは ないのである。
このような立場に立てば,利他主義は自分 の生命の価値を不当に庇めるものとして非難 されることになる。彼女にいわせれば
「
利他 主 義 は 死 を 究 極 の 目 標 で あ り 価 値 と 考 え る」{10)思想だからである。同様に,此岸では なく彼岸に価値をおく思想を彼女は「
神秘主 義」として断罪し,個人ではなく社会に価値 をおく思想,具体的には社会主義をも断罪す るのである。そしてこの中には,ベンサム流 の「最大多数の最大幸福」を志向する功利主 義も当然のことながら含まれることになる。 つまり 個人の至高性"がここにおいて宣言されるわけである。
このように,既成の倫理の刷新を目指し,
社会に対する個人の優位を主張する思想体系 には常に付きまとう問いがある。このような 体系においては 万人の万人に対する闘争"
は生じないのであろうか,という問いである。
彼女はここで 交換"という視点を導入する。
真に合理的な利益の追求は,当座の自己利益 を他者から略取しようとすることによってで はなく,価値と価値を交換することによって のみ成立すると彼女は主張し,それがゆえに
「人間同士における合理的な利害は衝突しな い」(ll) と捉える。当事者の合意なくしては交 換が成立しないからである。それは最終的に は
I
生がそれ自身が目的であるように,あら ゆる人間はその人間自身が目的であり,他人( 34)
が目的を果たすための手段でもなければ,他 人の福利の手段でもない」凶( という社会原則 の成立を意味するであろう。
以上が非常に簡略化した彼女の「客観主義」
の内実である。ここには広い意味での功利主 義やプラグマテイズムはもちろんのこと,ア ダム・スミスやニーチェやカントのニュアン スさえ感じとられるかもしれない。よって,
「客観主義」を雑多な思想の混交物であり,
真剣な考察に値しないものとして,一万両断 にすることも可能であろう。しかしそれでは
「客観主義」の問題性を真に明らかにしたこ とにはならない。
我々が注意しなければならないのは
I
客 観主義」は 個人の至高性"を宣言するもの ではあるが,理性に対する意志の優越を主張 するものではない, ということである。個人 には有機体の生命維持活動にとって非合理な 行為をなす自由はあるが,それは最終的に死 をもたらすだけである。生命が,つまり個人 が生を求めるものであるという前提に立つ限 り,生を維持するため理性に従うであろう。 よって,いわゆる危害原理一一たとえそれが 自らにとって不利益をもたらす行為であって も他者に危害を与えない限りはそれを行う自 由が認められるーーを彼女の思想から直接的 に導くことはできない。自らに不利益となる 行為をすることは可能であるし人間はとき として誤りを犯すが,生命の維持に反する行 為を理性は基本的に採用しないからである。 自らにとって不利益をもたらす行為を 意志"することは,彼女にとっては不合理なもので あり,自らの生を顧みない行為であるとされ るわけである。よって,生命維持活動さえも 超越するような 意志の全能性"という問い
の立て方自体がランドにとってはあり得な い。極言すれば個人の意志は,個体の生命維 持に資するという 合理性"の虜にされてい るのである
。それはあらかじめ方向付けられ
た利己主義であって その方向付け自体に反 逆するほどの全能な自己を措定することは,彼女にとっては愚かなことでしかない。
こうした論理構造は,実は自然法(あるい は自然法則)に依拠するネイテイブ・アナー キズムの論理構造に近いものである。たとえ ばスプーナーは,神から与えられた合理的な 自然秩序を,人聞が理性によってつまびらか にしていき,その法則に従って生きることを 説いた。この場合においても,自然権と自然 権が衝突することはあり得ない。なぜなら,
もともと自然権同士が衝突しないように世界 がデザインされているからである。そして,
本来の 自然"のあり方ではなく,社会‑権 力関係がこのデザインを撹乱しているのだか ら,この撹乱要因を取り除けば,つまり支配 と従属という構図を取り除けば,世界は自然 法によって調和され,個人の至高性が実現さ れると考えるのである
ω
。しかしスプーナー以降のネイテイブ・ア ナーキズムの潮流は それがゆえに別の問題 に逢着した。それは, もし個人が至高なも のであるとするなら,その至高な個人がなぜ 自然法という個の外部にあるものに従属せね ばならないのか"という問題提起である。こ れはとりわけパクーニンによってもたらされ た問いの立て方である。個人の至高性を強調 すればするほど,そこには自由意志をトータ ルに認めねばならない必要が生じ,結局は 万 人の万人に対する闘争"状態に陥るのではな いかという秩序問題に答えを見出すことはで
.
きなくなる。「
客観主義」の場合,スプーナー以降のネイ テイブ・アナーキストを苦しめた,このよう な問題に逢着することはあり得ない。なぜな ら「
諸権利は,人聞が適切に生き延びるため に,人間の自然的本質( n a t u r e )
が必要とす る存在の条件」であるからでありi
自然的本 質( n a t u r e )
は人聞が非合理的であることを 禁じ」ているからであるM Oランドの立ち位 置はスプーナーの立ち位置と同様に,自然法 則あるいは生命維持のために蓋然的に承認さ れねばならない論理を越えて, 自由意志の問 題へ移行することをあらかじめ禁じている。では,ランドの
「
客観主義」は自然法の代 わりに個体の生命維持という概念一一自然法 則,とりわけ彼女が好むのはi A
はA
である」という同一律であるが一ーを据えただけの,
言ってみればスプーナーへの先祖返りであ り,その焼き直しなのだろうか。そのように 見ることも可能であり,そういう読み方が可 能であるからこそ,ランドの思想はネイテイ ブ・アナーキズムの伝統を持つアメリカにお いて支持されたという一面は間違いなくある だろう。しかしそれでは問題の本質を十分に ナ足えたことにはならない。なぜなら, ランド の思想においては自由意志とはまた違った形 での,苛烈な意志の作用が存在するからであ る。
彼女においては
i
人間の感覚によって与 えられた素材を識別し統合する能力」(15)であ る理性の働きによって看取される合理性が,どのように生きるべきかという倫理体系を決 定するものとなる。合理性という徳は「知識 の唯一の源泉であり 価値の唯一の判断基準 であり,行動の唯一の指針」(l6) でもあるから
( 3 5 )
である。ところがこのようにして形成された 倫理体系は, ときとして個体の生命維持とい う生命にとっての根源的原則一一}合理的選択 の基準をなす原則一ーに逆らっても遵守され ねばならない。彼女は人間を,上記のような 理性を行使する存在と見なしており,この理 性なくしては「人間は人間以外のなにものか として生きることはでき」(17) ない。 「人間は,
自らが選ぶことによって,人間であらねばな らない」(18)からである。このとき,一連の倫 理体系を遵守することは, もはや「選択」の 領域に属するのではなく[""義務」の領域に属
している。
この事情をより詳しく見るためには「肩を すくめるアトラス』にあたったほうがよいだ ろう。ここでは, 自らが 選ぶ"ことによっ て人間であろうとする登場人物に対して,政 府や社会は 自らが選ぶこと"を禁じていく。
その際には二種類の手法が使われている。
ひとつは, 自らが選ぶという行為を非道徳 的なものであると考えさせることによってで ある。これは一種の
なすことがでで、きるO この奴隷道徳は人間に強 制はしないが,意識的にせよ無意識的にせよ,
人間にそのような道徳を 承認"させること によって機能する。そして,この承認を拒絶 し自らが選ぶという行為は,奴隷道徳的な世 界を捨てることによってはじめて成就されて いく。しかし世界を捨てるという行為には当 然のことながら困難と衝突を伴う。登場人物 たちは財産を捨て,家族を捨て, ときには命
怖である。これは生命を脅かす物理的な脅迫 と同義だと考えてよい。この場合,登場人物 たちの取る戦略は,人間であることを封印す ることによる 不服従"であり,具体的には 頭脳を用いることを放棄することである。そ れによって生活水準が低下しても,生計を維 持できるぎりぎりのラインに立たされるとし ても,決して「享楽主義
( h e d o n i s m ) J
に奔る べきではない。ランドによれば[""人間を幸 福にするものなら何でも,行動の指針となる と考えるのは,感情的気まぐれに翻弄される こと以外のなにものでも」側なくlIf'幸福』は倫理の目的とはなりえても,基準にはなり えない」(21) からである
。ここでは逆説的な形
で欲望に極めて禁欲的であることが求められ ているのである。ここにあらわれているのは「合理主義的利 己主義」という彼女の言葉の外観とは裏腹の,
非常に英雄的で禁欲的な人間像であり,その 成就のために求められる苛烈な意志であろ う。これを 利己主義"として表現するのは 間違いなのではないかとさえ思えるような苛 烈さがここにはある。実際,これらを貫徹さ せようとする意志の作用は,生命維持という 有機体の自然的要求をその理論の出発点に据 えながらも, 自然的要求に対する人間の優位 を前提しているようにさえ見える。だとした ら,そもそも彼女は自然を 懐かしい故郷"
として捉えていないのではないか。
彼女の自然観をうかがうことは難しいのだ が,象徴的な言葉が『肩をすくめるアトラス」
を捨てることにより,自らが選ぶという行為 の主人公,ダグニーによって語られている。
を英雄的に取り戻し 人間"となっていくの 「円は自然にかなう運動であり,私たちの周
である側。 囲の無生物界にあるのは円運動だけだと人は
もうひとつの手法として用いられるのが恐 言うけれど,直線が人間の証なのだ(中略)
(36 )
道や線路や橋を作る幾何学的な抽象概念の直 線,初めから終わりまで目的のある動きに よって自然の目的のない曲線を突き進む直線 が」(22)。ここに見て取れるものは何だろうか。
人聞が従うべきものとして自然を捉えていな いことだけは明らかだろう。自然に対する人 間の優位がここでは示されているのだ。もち ろんこれは自然法則を無視することをすぐさ ま意味しない。自然法則を無視することは
'A
がA
である」という同一律を認めず,' A
はA
ではない」というに等しいからである。しかし自然を改変する営為,円運動の世界 に直線的世界を打ち立てることについては,
むしろそれが人間らしい営為であると捉えら れるとランドにおいては考えられている。つ まり,人間は自然に従属する存在では決して ないのである。
このことは, 自然法の存在を前提とするネ イテイブ・アナーキズムとの微妙な, しかし 重大な差異をもたらす。確かに
n a t u r a ll a w
(自然法/自然法則)の存在を承認する点で は,両者に根本的な差異はないかもしれない。
しかし彼女は
n a t u r e
を無条件に肯定してい ない。つまり,自然法則は承認しても自然的 秩序の絶対性は承認していないのである。こ の意味はネイテイブ・アナーキズムの同伴者 と目されているH .D .
ソローと比較すること によってより明確なものとなる。ソローの場 合,自然に対置されるのが人間の社会であり,その撹乱要因の最たるものである政府に対し て, ときとして市民的反抗一一不服従ーーを 要求する。つまり,自然的秩序への復帰が彼 の思想の根底を貫いているといえるだろう。
ところがランドの場合は自然的秩序への回帰 を求めず
I
自由な文明社会J(23} に住むことを是とする。自然的秩序への回帰は人間を獣 に戻す行為であり
I
享楽主義」に従属するこ とであり,人間を人間でないものにする行為 であるからだ。よって,彼女はネイティブ・アナーキズムがそうであったように政府を不 承不承必要とするのではなく,必然的に政府 を必要とするのである。確かにその外観だけ 見れば,両者の帰結する政府の役割は極めて 限定されたものであり,ほとんど違いは見ら れない。しかし彼女は文明社会の中で「安全 で 生 産 性 が 高 く て 合 理 的 社 会 に と も に 住 む」凶 ための装置として政府を必要不可欠の ものと捉える。彼女がネイテイブ・アナーキ ズムの伝統,アメリカの伝統から議離してい る理由は, この自然観の違いと,この自然観 と不可分な, 自由な文明社会に人間として住 まおうとする意志の苛烈さによるのである。 では,彼女の思想の源泉にあるものとは何 なのだろうか。ここで,ひとつの仮説を提示 したい。それは,この源泉をロシア思想の文 脈に求めるということである。実際ロシアに は,彼女が好んで用いる「合理的」という言 葉によって,人間のエゴイズムを肯定してい こうとした潮流がある。それは
1 9
世紀にお けるロシア思想の巨人,チェルヌイシェフス キーによってひとつのピークを迎えることに なった。よって次に,チェルヌイシェフス キーの『何をなすべきか』とランドの主著で ある『肩をすくめるアトラス』を比較し両 者にある種の類似性を見出すことができると すれば,それは何であるのかという観点から,この仮説を検討していきたい。
( 37)
3 .
Ii肩をすくめるアトラス」と『何を なすべきカ¥j 一唯物論的功利哲学と高温な精神の 不一致"
なぜランドの思想、を検討するためにチェル ヌイシェフスキーを持ち出さねばならないの だろうか。もちろんそれは,彼女の出自がロ シアにあり,ロシアにおいて高等教育を受け ているということ,彼女の言う「合理主義的 利己主義
C r a t i o n a ls e l f i s h n e s s ) J
とチェルヌイシェフスキーの思想としてしばしば提示され る「合理主義的エゴイズム」には,外観を一 瞥するだけでもその類似性が指摘できるとい うことによる。実際,ランドの思想をロシア 的文脈から読み直そうという試みはいくつか 行われており,ランドにおけるロシア思想の 重要性を指摘するという仮説自体には一定の 蓋然性が認められている(却。よってここで は,果たしてどのレベルまでそれが主張でき るのかということを検:討してみたい。そのた めには,ランドの主著たる『肩をすくめるア トラス』と,チェルヌィシェフスキーの『イ可 をなすべきか』を比較するのが早道であろう。
「肩をすくめるアトラス』は執筆に
1 4
年を 費やしたほどの大作であり,非常に大部な作 品となっている。それゆえ,本稿ではこの作 品を詳細に分析することはできない。しかし 彼女は「客観主義」に言及する際,再三再四,『肩をすくめるアトラス』を参照するよう,
とりわけ,登場人物の一人であるジョン・ゴー ルトの演説を参照するよう要求しており,彼 女にとって,この作品の占める位置は極めて 大きい。そこでまずは,そのあらすじを大ま かに確認していくことにしたい。
物語は,自由競争の害を取り除くべく政府
( 3 8 )
がさまざまな法規を施行するようになった,
架空の"アメリカにおいて展開するO 極め て有能な鉄道会社副社長であるダグニー・
タッガードというヒロインは徐々に奇妙な事 態に遭遇するようになる。各分野で有能な人 物が次々と失除していくのだ。社会が停滞し 衰退する中で,彼女は謎の失綜事件の首謀者
ジョン・ゴールトと出会うことになる。 ジョン・ゴールトは非常に優れたエンジニ アであったが,自由競争を抑制しようとする 政府,そしてそれに迎合しようとする企業に 見切りをつけていた。彼はコロラド山中に新 しい社会を築き上げ,自分の考えに賛同する 優秀な人材をリクルートし,古い社会に対し て彼ら優秀な人材がストライキをするという 手に打ってでた。ダグニーは事の真相を知り ゴールトの主張に共鳴するが,愛着のある鉄 道会社を見捨てるわけにもいかず,揺れ動く。
このような状況の中 ついにアメリカでは 生産システムが破綻し社会が崩壊する一歩 手前という状態に陥る。そこにおいてゴール トは全米と世界に向けてラジオ演説を行い,
人々の覚醒を呼びかけるのである。ここで示 されたものこそ,ランドが「客観主義」と名 づけたものにほかならない。しかしアメリカ 政府はゴールトの演説の意味を理解できず,
旧世界"は滅びの道をたどる。ダグニーは ジョン・ゴールトと共に歩む道を選び,そこ から彼らの築く 新世界"の物語が始まって いく。以上が,極めて単純化した『肩をすく めるアトラス』のストーリーである。
では次に,
1 9
世紀ロシアにおける極めて重 要な作家,チェルヌィシェフスキーの『何を なすべきか』のストーリーを概観してみよう。物語は
1 8 5 2
年のペテルブルグから始まる。聡明な女性, ヴェーラは親によって強制され た結婚から逃れるため 弟の家庭教師であっ た合理的なエゴイスト,ロプホープと結婚し 支配‑従属ではない対等の婚姻関係を結ぶ。
これは彼女にとっては自立と自由のための第 一歩 と な る が , そ れ に 留 ま ら な か っ た 。 ヴェーラは, 自立した結婚関係においては収 入も自立していなければならないと考え,利 益を針子たちと平等に分け合う裁縫工場を開 き,成功を収めたのである。 しカミしこのころ,
ヴェーラは夫の親友であるキルサーノフに心 惹かれるようになる。キルサーノフとヴェー ラがお互いに愛し合うようになったことに気 づいたロプホープは,愛し合う二人が一緒に なるべきだと考え投身自殺を装い姿を消す。
ところがロプホープが死んではいないこと を伝えに来る人物がいる。革命家ラフメート フである。彼はヴェーラに 事の真相"と,
それだけではなく,いわば 生きるというこ との真相"を開示する。そのおかげもあり,
ヴェーラはキルサーノフと結ばれ, たくまし く生きていく。ロプホープも新しい妻を得 て,彼らはついに再会し,ともにそれを喜び,
新しい人生を切り開くことになる。同時に,
ラフメートフのロシアへの帰国がほのめかさ れ,最終的には革命の到来,新しい社会の到 来を思わせるような情景が描かれつつ,物語 が来冬わるのである。
新しい人間"と 古い人間" 新しい道徳、"
と 古い道徳"の対立という構図や, ミステ リー仕立ての寓話的小説というスタイル, 自 立を目指し対等な男女関係を構築しようとす る登場人物, これらの類似性はストーリーを 概観しただけでも明らかに看取できるだろ
つ
。 しかしこれは当然, ランドが『何をなす
べきか』を下敷きとして『肩をすくめるアト ラス』を執筆したということを意味するもの では全くない。そのような考証は本稿の意図 するものではないし ストーリーの展開自体 は両者が全く異なる物語であるという ことを 示している。ここで着目すべきことはむし ろ,両小説の登場人物によって開陳された合 理性に関わる思想である。そこでまずは
1 1
何 をなすべきか』の登場人物によって示されて いる合理性について分析することにしよう。たとえば, ロプホープはヴェーラに向かっ てこのような思想を披漉する。「高い感情と か理想的な志向とか言われるものも,すべて 生の一般的な歩みのなかでは, 自分の利益を 目指す各人の志向の前には,全く取るに足り ないものです。そして根本においては,それ 自身が利益への,同じ志向から成り立ってい るんで、す」(2ヘ「理論はそれ自身としてはつめ たいものでなければなりません。理性はもの ごとを冷静に判断しなければなりませんから ね
f
九「
この理論は無慈悲ですが, それに従 えば,人間は無益な同情の, みじめな対象と ならずにすみます」側。「いろいろとくだらな いことを言う人たちは, それ(自己利益の獲 得を目指した行動)について勝手なことを言 うかもしれませんO 正しい生についての観点 を持った人たちなら,あなたはあなたにとっ て当然の行動をしたのだと言うでしょう。 (中略)彼らはまたあなたが事物の必然性に したがって行動したのだから, もともとそれ 以外の選択の余地はなかったというでしよう」(捌(傍点仁井田)0
ここで述べられていることは「客観主義」
とほとんど変わりがない。特に最後の引用に 関して言えば1"正しい生についての観点」を ( 39 )
「
客観主義」と言い換えれば,あたかもそれ がランドの発言であるかのようにさえ思える だろう。この点をもう少し詳細に検討したし
E。
まず,チェルヌィシェフスキーは打算に生 きることを肯定する エゴイスト"ロプホー プと,金銭的な打算に汲々としているヴェー ラの母マーリアを
I
両者の考え方はあまり にも似ている」(30) としながらも,両者の志向 を明確に区別しており,欲望のおもむくまま に生きることを打算と捉える考え方にロプ ホープは与していないということを明らかに している。ロプホープの打算は,旧来の道徳 体系の中,それに見合う形で打算的に生きる ということではなく,旧来の道徳体系を破壊 せずにはいられないであろう新しい秩序に適 合的な 打算"なのである。この意味でラン ドが言うような「
神秘主義」に対する反対が 見て取れるということになるし単純な欲望 に基づく生き方I
享楽主義」を批判したランドの立場とも一致する。
また,ロプホープは犠牲について
「
犠牲な んていうものは存在しないしだれも犠牲をf
ムったりしない。これは虚偽の観念だ。ばか げたことだ。自分に気持ちのいいように行動 すればいいのだ、」削 と 考 え る 。 犠 牲 を 美 化 し犠牲に感謝することをくだらないことと 考える彼の思想からはI
利他主義」を排撃す るランドの叫ぴと同様の響きを見て取ること ができるだろう。さらに,愛情については
「
すべての人間は 全力をつくして自分の独立を守らなければな りません。相手をどんなに愛していようと,どんなに信頼していようと,これに従属して はいけません」(32) とロプホープは言う。もっ
( 40 )
とも,ロプホープ自身はヴェーラとの関係に おいて利己的に生きるという原則を十分に適 用しきれなかった(ヴェーラもそうである)。
その点をのちにラフメートフは,完壁なる合 理的エゴイストの立場から,嫉妬心の問題に 触れつつ,こう指摘する。「発達した人間に は嫉妬心などを持つ余地はありませんO これ はゆがめられた虚偽の感情, というべき感情 です。(中略)人間を自分の所有物と見なす ことからそうした考えが生まれるんで、す」
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と述べているO この点も,他者に支配される ことを徹底的に批判した,ランドの考えと一 致すると言えるだろう。利己的であろうとす ることが個人の至高性を成立させ,対等な人 間関係を導くという展望を両者は共有してい る。実際
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肩をすくめるアトラス』においては,完壁なる合理的エゴイストで革命家であるラ フメートフの立場をジョン・ゴールトが,合 理的利己主義に目覚め自らを高めていく主人 公,ヴェーラの立場をダグニー・タッガード が果たしていると見なすことができる。つけ 加えていえば,主人公と最初に結ばれ,のち に身をひくロプホープの役回りをダンコニア 銅山の経営者でありゴールトの盟友でもある フランシスコ・ダンコニアが,キルサーコフ の役回りを鉄鋼業界における新進気鋭の経営 者であり新金属の発明者でもあるヘンリー‑
リアーデンが果たしていると考えることも可 能である。ただし『何をなすべきか』とは異 なり,結婚しているのはリアーデンのほうで あること,ヒロインに対するロプホープの'襖 悩を担うのは(あるいはヴェーラの'襖悩が表 現されているのは)リアーデンであること,
ダンコニアはラフメートフ的な役割をも担っ
ていることは考慮されるべきであろう。
彼らの合理性や利己主義に関する言辞は前 述した「客観主義」を裏づけるものであるた め改めて触れないことにする。ここでは犠牲 と愛情に関するリアーデンに特に焦点をあて たい。
リアーデンがダグニーと最初に結ぼれた後 に交わされる会話は象徴的である。リアーデ ンは約束一一契約一ーを絶対的に遵守するこ とを己の道徳としていた。妻に対する契約を 破ってしまいダグニーと結ぼれたとき,彼は こう言う。「俺は約束を破ったことがなかっ た。いまや生涯の誓いを破ってしまった。
(中略)これからは嘘をつき,人目を忍び,
隠れることになる。(中略)いま欲しいのは 自分自身に口にするのさえおぞましいこと だ。だがそれが唯一の欲望だ。君を俺のもの にする」側(傍点仁井田
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ここで語られてい るのは,厳格に自らの捉に従ってきた自分が 堕落"したという意識である。同時に,ダ グニーを自らの 所有物"としたいという願 望であり, リアーデンとダグニーの対等性は 前提されていない。ところがダグニーはのち にリアーデンに対しこう言う。「あなた自身 の快楽のためじゃなくて,ただ私を喜ばせよ うとして贈り物をくれてたんなら,叩き返し ていたわ」(35)「私はあなたがとっくに支払い を済ませた賛沢品だわ(中略)製鉄所を手に 入れたときと同じく対価を払って」側(傍点仁 井田) 0
[""私は犠牲を受け入れないし捧げもし ない。私があなたから得た以上のものを求め られたら,断るでしょう」問。ここには,対等 な契約関係を成立させようとする心情,リ アーデンに一方的に従属しているのではなく
, リアーデンと価値を 交換"をしている
のだというダグニーの主張がある。リアーデ ンもこの主張の合理性を納得していくように なるのだが,この主張はヴェーラのロプホー プに宛てた手紙の一節「私もやはりエゴイス トですから,彼(ロプホープ)が私を安心さ せることだけに気をつかっているのはむだな ことだと言いたいのです。(中略)私は彼に 感謝の念を抱かなければならないとさえ思っ ていないのです。(中略)私にとっても,彼(ロ プホープ)をあざむこうとしなかったのは,
彼のためではなく 自分のためでした」(38) と 似た響きを持っている。ランドにとっても チェルヌイシェフスキーにとっても,このよ うな態度が対等な者同士の愛情を成立させる と考えられているわけである。
このことは当然, 自己犠牲を含めて,一方 的な犠牲を否定する人間関係の構築という ヴイジョンを導くだろう。リアーデンは妻に 対する自己犠牲,母親や弟に対する自己犠牲 が虚偽であると考え それを罪だとさえ見な すようになる。一方的な自己犠牲をリアーデ ンに要求する彼らを許すことによって対等の 原理が放棄されるだけでなく,一方的な自己 犠牲は自らの生命を不当に庇めることになる からだ。この論理はヴェーラ,ロプホープ,
ラフメートフの論理と大筋で一致するであろ
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つまり,ランドの 『肩をすくめるアトラス』
とチェルヌイシェフスキーの「何をなすべき か』で述べられている主題は,旧来の道徳を 唾棄すべきものと捉え,合理的な利己主義に 基づく人間関係のあり方を描いたという点に おいて,ほとんど符合するのである。もちろ ん,ランドは資本主義を肯定し,チェルヌイ シェフスキーは(ナロードニキ的)社会主義
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を肯定した。しかしランドにとって現存の 資本主義は決して肯定されるべき資本主義で はない。彼女は生産性の徳によって生まれた ものではない金銭を決して肯定しないからで ある。そうした金銭を追求する人々は『肩を すくめるアトラス』において 「たかり屋」と して唾棄される。逆に,チェルヌィシェフス キーは『何をなすべきか』においてロプホー プの義父となる人物 商人ボーロゾフの心中 をこう描写する。貴族であるというただ一点 のみで評価が決定されるロシアと異なり
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彼 らのところ(アメリカ:註仁井田)では,人 間の価値はその財産と理性で決められる。/それに,その方が正しいと言える。」(39)。チェ ルヌィシェフスキーはボーロゾフを賞讃しな いものの,決して否定的に描かれている人物 ではないのだ。
確かに両者には類似性が認められるとはい え,それだけでは両者のつながりを十分に論 証したことにはならないという見方もあるだ ろう。そのような疑問に対しては
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肩をす くめるアトラス」におけるゴールトに対する 比聡の重要性を指摘しておきたい。ダンコニ アはゴールトをこう評している。 「ジョン・ゴールトは心変わりしたプロメテウスだ。人 間に神の火をもたらした償いに何世紀も禿鷹 に食い裂かれたあとで,鎖を断ち切って火を ひっこめた一一人聞が禿鷹をひっこめる日ま でね
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(40) (傍点仁井田)。彼に付き まとうイ メージはプロメテウスであり,このプロメテ ウス的形象こそ,チェルヌィシェフスキーを 含めたロシア・インテリゲンツイアによって 熱く語られた,来るべき人間のイメージにほ かならない則。たとえゴールトが人聞から火 を取り上げる人物であるにしても,である。( 4 2 )
ロシア思想史の泰斗であるベルジャーエフ はチェルヌイシェフスキーを指してこう述べ ている。「チェルヌィシェフスキーの場合は,
むしろあわれむべき彼の唯物論的功利哲学 と,彼の禁欲生活なり高遁な精神なりとの聞 に一致がない点が人の心を打つ」(位)(傍点仁井 田)。これはイ可もチェルヌィシェフスキーに 限ったことではなく
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何をなすべきか」の主 要な登場人物すべてに対しても当てはめるこ とができるだろう。そして実は1 1
肩をすく めるアトラス』の主要な登場人物も,おおよ そこのように言うことができるのではない か口ダグニーは自らがもっとも愛した鉄道会 社の崩壊に最後まで立ち会い,ダンコニアは 最愛のダグニーとの別離という代償を払い自 らの理念に生き,ゴールトは自らの革命的発 明品を鉄くずに変え 必死に心惹かれるダグ ニーとの距離をおこうとする。登場人物が,あるいはランドがいかに否定しようとも,あ まりにも禁欲的であまりにも英雄的で,つま り,あまりにも高遵な精神がここでは示され ているのだ。彼らはすべて,利己主義者であ るにもかかわらず。
しかし唯物論的功利主義と,禁欲的で高 遇な精神との聞には,それがそうであるべき 決定的因果関係が存在しない。それゆえ,ラ ンドは 「客観主義」において
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倫理とは,人 聞が生き延びるための客観的形而上学的必需 品」(43) と述べざるを得ない。このことに十分 な注意を払うべきだ。あえて単純化するな ら,ランドもチェルヌイシェフスキーも唯物 論的功利主義者である。それが行き着くとこ ろは旧来の倫理の否定とともに,利害得失の 計算機械と化した人間像の肯定であるはず だ。しかし両者はそこからむしろ逆の結論を見出している。この点にこそ,両者の根本 的な共通点と,ランドがロシア思想史の文脈 で語られなければならない理由がある。自己 利益の追求が旧来の道徳を打倒し人間存在を 高めるというパースペクテイブは,ロシア・
ニヒリズムの文脈において非常に雄弁に語ら れているからである。
たとえばツルゲーネフの『父と子」におけ る登場人物, ニヒリスト"バザーロフがそう だ。彼によれば,ニヒリストとは「いかなる 権威のまえにも屈しない
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まわりからどん なに尊敬されている原理でも,それをそのま ま信条としてうけいれることはしない」凶人 間である。そして「大事なことはこかける二 は四だということ」附 と宣言し,自然を人間 の工場と見なしてその神聖性を否定した。こ のバザーロフの形象は,1 9
世紀ロシア思想に 広汎な影響をもたらしチェルヌイシェフス キーにも流れ込んでいる。そしてIi何をな すべきか』はベルジャーエフが指摘するように
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虚無主義の教理問答」(46) として広く認知 されるに至っているのだ。ベルジャーエフの言にもう少し耳を傾けて みよう。 彼によれば,ロシア・ニヒリズムは 西欧のニヒリズムとはほとんど共通点がない という。「ロシア虚無主義は全くあからさま にあらゆる教化や文化を疑問視しそれらに 向かつて自己の正当性を示せと要求する」聞 からである。まるで 『肩をすくめるアトラ ス』における登場人物が
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こ」と旧道徳の世界の住人に疑問を苛烈に投 げかけその非合理性を暴いていくかのよう に,である。このことはリアーデンとその家 族たちの対話を参照するだけでもはっきりと 見て取れる。またi l i
観念論者』の世代に対する反対闘争」(48)がチェルヌイシェフスキー をして,
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現実」に向かわせることになるのだ が,彼らロシア・ニヒリストにとってi l i
現実』という概念は保守主義ではなくて革命の刻 印」(49) を帯びており, しかも「ロシアでは解 放的意義をもっ霊感を与えたものは自然科 学」(50)であった。ちょうどランドが
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である」という「現実」から出発して,旧道 徳に対する 革命"の必要性を帰結したように。あるいは,その解放の手段として
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である」という同一律一一自然科学を 支える根本論理のひとつーーを提示したよう に。そして,自然への回帰を拒否したように。またベルジャーエフは言う。「虚無主義は道 徳を拒否するものであり,非道徳的と非難さ れた。だが事実は(中略)ロシアの非道徳性 には強い道徳感情がある。それはこの世を支 配している悪と不正に対する憤りの感情で あった。よりよい生活のための闘いに傾倒す る感情であった。ここにこそより偉大な正義 の要素があると思わせるような感情であっ た」(目。 これは, 革命の英雄"ゴールトの人 物形象そのものであろう。
ランドの思想とチェルヌィシェフスキーの 思想は確かに同じものではない。し か し ラ ンドはロシア・ニヒリズムの正統な嫡子とし ての位置を占めていると述べることは十分に 可能だろう。卑俗的とさえいえる唯物論的功 利主義が,高遇な精神あるいは苛烈な意志を 伴ってランドの思想にあらわれていること は,おそらく事実だからである。そしてこの 苛烈な意志が,自らの倫理に殉じる英雄性と,
自然に対して高遁な文明社会一一旧道徳を破 棄した新たな文明社会一ーを打ち立てようと するプロメテウス的英雄性という両面を有す