静 岡大学教育学部研究報告 (教 科教育学篇 )第 32号 (2001.3)149〜
160生涯スポーツの外延的構造 に関する一考察
A Study on the Extensional Structure of Lifetime Sports岡 端
隆
Takashi OKAHANA(平 成12年
10月 10日受理
)1
問題設定
(1)楽 しいスポーツ・ 気軽 にで きるスポーツ
「生涯スポーツ」 といわれて久 しい。今 日、わが国で も、 この言葉 はすつか り定着 した もの になった。そ こで、生涯 スポーツ といえば、 まず もって「楽 しいスポーツ」 というものを連想 するであろう。つ まり、楽 しくなければや る気が起 こらないし、やる気がなければスポーツは はじまらない。 まず、楽 しもうとい うのが、生涯スポーツにおける重要な考 え方である。 しか しなが ら、スポーツを楽 しむ といって も、そこにはいろいろな楽 しみ方がある。た とえば、人 と仲 よ くなれて楽 しかつた というの もあれば、健康が実感で きて楽 しかつた というのや上手 に 動 けて楽 しかつた等々、 じつにさまざまである。 さらに、人 によつては、楽 しさの内容 を一つ にしぼつている場合 もあれば、複数の楽 しさを同時に求めている場合 もある。いずれにして も、
一般 に、質的・ 量的に楽 しさの度合いが増せば増すほど、スポーツに対す る取 り組 み方 も熱心 になって こよう。 しか も、 これ らの楽 しさが一過性の ものではな く、持続 して味わえるところ に、生涯スポーツを継続実践 してい く契機 を見出す ことがで きる。
ところで、生涯 スポーツの もう一つの重要な考 え方 として、「気軽 にで きる」とい うこともよ く聞かれる。 これは、スポーツが一部の人たち (と くにエ リー ト )だ けに占領 されることな く、
「いつで も、 どこで も、だれで も」 (年 齢、地域、性別、身分等の区別な く
)、みんながスポー ツに参加で きるという考 え方 (Sport for All)か らきている。そこで、スポーツ人 口を増やそ うとすると、どうして も技能的に低い人 をメインに普及活動 を展開 していかなければな らない。
というの も、技能の低 い人 は、 これ までの競技スポーツ中心及び高度化の時代 にあつて、 こと ごとく切 り捨て られてきたか らである。 しか も、その数の方が、切 り捨て られずに生 き残 った 人たちの数 よりも圧倒的に多い。 したがって、 ここはスポーツの考 え方 を柔軟 に捉 え直 し、今 まで切 り捨て られて きた人たちを、なん とかスポーツの世界 に呼び込む努力が必要 となって く る。い うなれば、「技能が低 くて も楽 しめるスポーツ」というものを模索すべ きなのである。そ うなると、それほど練習 しな くて も、今 もっている力で苦 もな く楽 にで きるスポーツが、一般 大衆の生涯スポーツ として成立 しやすい。その点、蛇足ではあるが、「楽 しい」 とい う言葉が、
「楽 (ラ ク )」 とい う漢字か ら成 り立 っているのは興味深い。 もちろん、 日本語の文字だけで判 断す るわけにはいかないが、少な くとも「楽 に行 える」とい うことは、「気軽 に行 える」とい う
こととも大いに関連がある。 したがつて、「気軽 にで きる」とい うのは、今 まで技能が低いため
に、スポーツの世界 に入 るのを尻込みしていた人たちにとって、最高のキャッチフレーズになっ たに違いない。
(2)内 発的楽 しさと外発的楽 しさ
一方、生涯スポーツは、必ず しも気軽 にできるものばか りではない。た とえば、マスターズ 大会 に出場 している一部の競技者などは、たえず心身の向上 をね らって日々練習に励んでいる であろう。そこでは、 とて も「気軽 にスポーツを」 というわけではな く、むしろスポーツの動 きに対 して、真摯に向き合 っている人の姿を垣間見 ることができる。逆説的ではあるが、他人 か ら見て辛 くて苦 しい練習のなかに、本人 は楽 しさを見出しているかのようである。
しか しなが ら、生涯スポーツを普及する立場か らいえば、 このようなスポーツは、 ごく一部 の人たちが実践する例外的な生涯スポーツであ り、多 くの人 にはあまり奨励 されない。なぜな ら、仕事 (家 事 も含む )を もっている社会人であれば、ハー ドな練習を行 うための時間や場所 が制限されるし、 また、今 日、 自由時間が増 えてきているか らといって も、やはリカロ齢にとも ない、無理 な練習は避 けられるのが一般的だか らである。つまり、競技スポーツ的な生涯スポー ツは、年齢が高 くなるにつれて継続実践 してい くのが難 しいと考えられる。 したがって、社会 人一般の生涯スポーツにおいては、当該のスポーツを行 えるだけの技能をある程度持ち合わせ ておれば、あとは、練習やゲーム以外の ところに楽 しさが求められる場合が少な くない。た と えば極端 な例 として、人 と仲 よくなることに楽 しさを求めている場合などは、運動場 に仲間 と いつしょに行 ったのはよいが、運動 よりもお しゃべ りに夢中になって、気がつ くと帰る時間に なって しまった ということもあ り得 るだろう。 また、健康のためにスポーツをはじめるという 場合で も、練習やゲームその ものが本来の目的ではないので、できるだけ楽をして (そ れほど 動かな くて も )健 康 になるようなプログラム とい うものを考 えやすい。むしろ、激 しく動 けば 動 くほど、怪我 につながる可能性 もあるので、ほどほどにというのが健康スポーツの重要な考
え方である。
このようにして、生涯スポーツは、スポーッにおける動 きのなかに楽 しさを見出さな くて も 立派 に成立する。楽 しさには、「内発的楽 しさ」と「外発的楽 しさ」があるのだが m.Qn頁 、 要 は、
どちらの楽 しさであれ、楽 しさの目的意識 をもつ ことこそ、生涯スポーツでは重要である。ち なみに、「内発的楽 しさ」とは、スポーツの本質 にかかわって くる楽 しさであ り、いわばスポー ツを実践することのなかで しか味わえない楽 しさであるが、「外発的楽 しさ」とは、スポーツを 手段化す ることによって味わえるスポーツ以外での楽 しさのことである。
(3)生 涯スポーツを継続実践す るために
さて、そう考 えると、「気軽 にスポーツを」というのは、たしかに一般大衆への普及には役立
つが、裏 を返せば、スポーッの動 きにはあまり関心が もたれない可能性 も多分に出て くる。な
ぜなら、そこでは、練習 しな くて もできるような運動が対象にな りやすいからである。周知の
ように、簡単 な運動になればなるほど、人 は、その運動に意識 を向けることな く、自由に動け
ることがで きる (運 動の自動化
)。自宅か ら駅 に歩いてい くのに、いちいち自分の手足が どうなっ
ているのか意識する人 は少ないであろう。歩 こうと思えば、それだけで手足が自由に動 き出す
のである。 しか し一方で、歩 こうと思わなければ、いつまでたって も歩 くという運動は出現 し
ない。つまり、歩 こうとい う意識 を働かせるための目的が、そこでは必要なのである。前の例
生涯スポーツの外延的構造 に関する一考察
だ と、駅 に行 くという目的が、歩 くとい う運動の誘因になっている。 しか しなが ら、歩 くとい う運動その ものが 目的ではないので、 もし仮 に、駅 に行 くためのよりよい別 な手段がみつかれ ば、そこで選択 されるはずだった歩 くという運動 は却下 されて しまう (た とえば、 自転車や自 動車 に乗 って行 くな どが考 えられ よう
)。そうなると、歩 くという運動 は、その人 に とって必ず
しも必然的な ものではな く、あ くまで も目的を達成するための単なる一つの手段で しかない。
上記の論理 を、スポーツの楽 しさに置 き換 えてみれば、つまり、スポーツの楽 しさを運動以 外の ところに求 めてしまうと、 はた して人 は、 自分が選択 したスポーツ運動 を生涯 にわたって 継続的に楽 しんで くれるのか どうか疑間が残 る。 とりわけ、他の手段で もその楽 しさを得 られ るのがわかった場合、人がスポーツか ら離れてい く可能性 は多分 にあ り得 る。た とえば、人 と 仲 よくなるとい う点では、今 日、インターネ ッ トによる交流が盛 んになってきているし、健康 法 も医学の発展 によってさまざまな処方が施 されるようになってきた。要す るに、ある楽 しみ を求 める場合、その方法 はいろんな角度か ら探 られ るわけであ り、それを選択す るのはまさに 個人の自由なわけである。た とえば、人 との交流 を深 めるのに、スポーツはよ くてインターネ ッ
トはダメであるな どとい うことはで きないであろう。
さらに、気軽 にスポーツをということで、そ こで要求 される運動の技能 レベルをどん どん下 げてい くと、人 はその運動 を継続的に実行することに飽 きてしまいやすい。学習す る必要のな い運動 を、好 んで反復実行する人 は少ないであろう。
ここにおいて、スポーツを継続的に実践 してい くためには、内発的楽 しさとのかかわ りが重 要であると思われる。換言すれば、外発的楽 しさを求めてスポーツを実践す る場合で も、何故 その楽 しみを味わ うのにはそのスポーツでなければならないのかをきちん と吟味す ることが、
大切だ と言 えよう。
そこで本研究では、スポーツの本質 とは何かを概念史的に検討 し、そこか ら生涯スポーツの 外延的構造 を明 らかにす ることを目的 とする。具体的には、生涯スポーツの歴史的背景、スポー ツの語義の変遷、生涯スポーツの今 日的問題 とい う流れで考察 を行い、生涯スポーツの外延的 構造 を明 らかにした上で、さらに新 しい生涯 スポーツ観 についての提言 を行 ってみたい。
2
生涯スポーツの歴史的背景
生涯スポーツが うまれて くる歴史の原点 を探 ってみると、1960年 代か ら沸 き起 こった「生涯 教育」 (Life‐ Long Education)と い う発想 にた どり着 くことがで きる (62田 頁
し た とぇば、1965年 にパ リで開催 されたユネスコの「成人教育推進国際委員会」 において議長役 を務 めたラングラ
ン
(Lengrand,P。)に よる生涯教育の提言 は、あまりにも有名であろう。彼 は、「それ まで学校
教育終了後の単なる継続教育 として考 えられていた『成人教育』をもう一歩前進 させて、『一生 涯 にわたる教育』 として とらえ、 このような教育 を実現 させ るための理論 を提唱 した」 は
0・7頁 ゝ その理論が出て くる背景 には、科学技術の発達 に ともなう急激 な社会変化 に、先進諸国が、当 時の学校教育だけでは対応 しきれな くなった情勢があつた ようである。
一方、スポーツの分野で も、同時期 に大 きな変革が見 られた。それは「スポーツの大衆化」
である。近代オ リンピックな どの影響 もあ り、 ヨーロッパ を中心 とす る諸国は、やや もすれば 競技スポーツにおけるチャンピオ ン養成 に目を向けがちであったのだが、 ここにきてチャンピ オン養成 とは逆の方向性 を示す大衆 スポーツの普及へ も乗 り出 したのである。 しか しなが ら、
その こと自体が、す ぐさま生涯スポーツに結びつ くわけではない。野々宮 によると、 「世界的に
も、1960年 代 に加速す るこの運動 は、極論するな らば、競技スポーツの底辺拡大 をめざす もの であつた」
(9・頂 しっ まり、あ くまで も競技スポーツの普及発展 という立場か ら大衆化が図 られた のであ り、普及の対象 とされる大衆 は、競技スポーツというカテゴリーのなかに位置 していた。
ところが、競技スポーツの枠内でチャンピオンを養成 しようとする一方で、逆方向的に、広 く大衆 にも普及 しようとした場合、 どうして も問題点が出て くるのは否めない。その一つは、
ルールによる参加者の制限問題 (た とえば性別 )で あ り、 もう一つは、カロ 齢や怪我 な どによっ て競技不能 になった人の参加断念の問題である。 さらに、障害者の参加断念 という点 も含めて おきたい。つ まり、 ここで明 らかなのは、大衆 に広 く普及するといって も、その対象は際限な
く、誰で も OKと い うわけにはいかなかったのである。
しか し、スポーツの大衆化 を通 しなが ら、人々は、チャンピオン養成のための競技スポーツ とは異なった新 しいスポーツ像 も模索 しはじめた。その背景 には、前にも述べたが、先進国に おける科学技術の発達や人 口の都市集中化等によって、人々の生活パターンが様変わ りしつつ ある情況があった。そこでは、運動不足 による健康問題や自由時間の活用問題、あるいは都市 化 による住民の孤立化問題等が浮 き彫 りになっていた。 これ らの問題 に対 し、スポーツは有用
′ 性があるとい うことが人々の間で認 め られ、た とえば、西 ドイツにおける 「第 2の 道」(Zweiter
Weg)等 による国家的支援 も受 けなが ら、新 しいスポーツ観が人々の生活のなかに浸透 してい くこととなる。
そこで登場 したのが、「みんなのスポーツ」 (Sport for All)で ある。 この言葉 は、スポーツ の大衆化運動 における各国共通の新 しいスローガンとなった。やがて、1975年 に開催 されたヨー ロッパカウンシル (COuncil of Europa)の スポーツ担当大臣会議において、「 ヨーロッパみん なのスポーツ憲章」(European Sport for All Charter)が 採択 され、さらにユネスコで も、1978 年 に「体育・ スポーツ国際憲章」 (International Charter On Physical Education and Sport) が採択 され るに至 り、みんなのスポーツは正式に市民権 を得 ることになった。そこにおいて、
「現代社会ではスポーツが、すべての人の権不りとして国際的に認められ、それを保障するため にたゆまぬ努力 をつづけることが政治の義務 となった」のである
(6■解 頁
し
ところで、みんなのスポーツは、 どんな人で も、年齢 に関係な くスポーツに参加 しよう・ さ せ ようということであるか ら、それは人間の生涯 に大 きくかかわって くる。いうなれば、チャ ンピオ ン養成 をめざす競技スポーツには引退があるが、みんなのスポーツに引退はない。た と え、高齢者や障害者のようにスポーツを行 うのが困難だ と思われる人であって も、人間であれ ば、スポーツを行 う権利 を有するのである。 ここにおいて、みんなのスポーツは、生涯教育の 理念 とマ ッチすることになる。すなわち、「みんなのスポーツ +生 涯教育 =生 涯スポーツ」とい
う考 え方が生 まれてきた。
以上のように、生涯スポーツは、競技スポーツ とは違った方向で発展 してきた経緯がある。
む しろ、競技スポーツに対する批判か ら、生涯スポーツが生 まれてきた といって もよい。 もち ろん、その ことによって、競技スポーツが消滅 したわけではない。つまり、スポーツに対する 人々の考 え方が、 より広範 になった と理解すべ きであろう。一方で、競技スポーツあ り、 もう 一方で、生涯スポーツあ りというわけである。 しかし、スポーツが三分化 されようとも、その 本質 は一つのはずである。そこで、次に、スポーツの概念史 を振 り返 ることにより、生涯スポー
ツが台頭 してきた妥当性 を考 えてみたい。
生涯スポーツの外延的構造 に関する一考察 153
3
スポーツの語義の変遷
今 日、我々が考 えているスポーツは、
るが、 もともと 「sportは その概念史上、
ではなかった」
(5■2頁 七
「運動」や「競技」と深いかかわ りがあるように思われ 身体活動や闘争 という要素を不可欠のものとするもの
実際に、sportと い う英語が使われるようになったのは、16〜 17世紀 に入 ってか らといわれ る が
(5■a頁 、
1■頂に すでに多 くの学者が指摘 している通 り、スポーツの語源は、ラテン語の depor‐
tareに 由来す る。 deは away、 portareは caryを 意味 し、つ まる ところ、sportと は carry
away「 (何 ものかを )運 び去 る」 とい う意味であつた。やがて、それは精神的な次元で用い ら れ るようにな り、た とえば「『心の重い、いやな塞いだ状態 をそうでない状態 に移す』、つまり 具体的には気晴 らしをする、楽 しむ、遊ぶ」 (31,2則 と理解 され るようになった。また、スポーツ の原意 は、「 まじめな こと (仕 事 )か ら人び とを搬び去 り、非 日常的な次元で、何かに没頭 させ ることを意味 し、つ まりそれは遊 び戯れることなのである。 したがつて古い時代のスポーツに は、冗談や歌、劇や踊 り、チェスや トランプな どの一切 の楽 しみが含 まれ、野外の身体活動 は、
少な くともその一部 に過 ぎなかった」と、岸野 は言 う (1‐ 頁 し さらに、「本来『スポーツ』とい う 言葉が『か らだ (the body)』 ではな く、『こころ (the mind)』 に関す る事象 を示す ものであつ
た」 (726動 とぃ ぅ松井の指摘 も、今 日の生涯スポーツを考 える上で、心に留めてお く必要がある
だろう。
しか し、時代の移 り変わ りとともに言葉の意味 も変化す るわけで、 とうぜんスポーツの捉 え 方 も変わっていつた。佐伯 によると、スポーツは、「英語化 された当初 は <必 要な (ま じめな
)義務か らの気分転換、骨休 め、娯楽、休養、慰 め >を 広 く意味 していたが、16世紀 には <ゲ ー ム、 または気晴 らしの特定の形式、 とりわけ戸外で楽 しまれるもので、ある程度の身体活動 を 含んでいるもの >を 意味す るようになった。さらに、17世紀か ら18世紀 にその意味が変化 し、 <
野外での身体活動 をともなう気晴 らし >と りわけ <狩 猟 >ま たは <勝 負 ごとにかかわる賭博や 他人 に見せび らかす行為、活動、見せ物 >を さす ようになった。19世紀の中 ごろには、それ ま での野外活動、とくに狩猟中心の意味 を変化 させ、 <競 技的性格 をもち戸外で行われるゲームや 運動 に参加すること、そのようなゲームや娯楽の総称 >を 意味す るようになった」 と言われて いる
(6■2頁 し それに従 えば、スポーツ という言葉 は、
16世紀 に入 って、 まず「運動」という意味 合いを強め、 さらに19世紀 になって、「競技」 とい う意味合い も強めてい く。
こうして19世紀 も後半 に入 ると、スポーツは、「運動競技」としての意味合いを決定的なもの にしていつた。そのきっかけとなったのは、 ヨーロッパ諸国を中心 とした近代合理主義 (数 量 的効率主義 )の 精神である。そこでは、「 より少ないエネルギーで最大の効果 を」といつた効率 性が重視 され、つまるところ、同 じエネルギーを用いるのならば、 よりよい結果 を求める べ き なのだ とい う「競争の原理」が、人び との間に働 くようになった。 もちろん、スポーツの世界 で も例外な く、「 より速 く、 より高 く、 より強 く」という近代オ リンピックのモ ッ ト ーが象徴 し ているように、同 じ人間であれば、同一の条件の もとで、言い換 えると共通のルールに則 つて、
少 しで も優秀 な成績 を残 した人の方が偉い とい う価値半 J断 がなされるようになった。
ただ し、それ以前 に、スポーツ としての「運動競技」がなかつた というわけで もない。 とこ ろが、 「中世伝来のそれ らは、 慣習のルールにもとづ き地方色豊かな独特の形式で行われたため、
他の地域 と共通のルールをもつ必要 もなかった」
(2イ6頁しっ まり、ある特定の運動競技が、地域や
民俗 を越 えてまで広 まってい くとい うことは、あまり考 えられなかったのである。 また、中世
の運動競技では、結果 よりも、全力 をあげて没我没入する過程の方が重視 されていたため
(5■7頁、 近代 における運動競技 とは、明 らかにその質が異なっていた。
しか しなが ら、近代社会 は、工業化 によって人び との生活 を一変 させた。 とりわけ、鉄やゴ ムな どの生産加工技術の開発が、スポーッの交流、普及に大 きな役割を果たした といわれてい
る
(5■04H以下
し た とぇば、鉄道、自転車等が交通手段 として用い られるようにな り、人び との行動 範囲が広 くなった。それにともない、各地域 ごとに異なるルールをもつ同種の運動競技 を競い 合 う機会 も増 え、 人 び とはどうして も共通のルールを策定 しなければならない必要に迫 られた。
そうでない と、公平な競技が、成 り立たな くなるか らである。 さらに、工業化による技術革新 が、短期間で、 しか も同 じ規格のスポーツ用品を大量 に生産することを可能にしたため、それ が、ルールの統一化 に大 きく貢献 した ことも述べてお く必要があるだろう。
実際には、スポーツを教育のなかに導入 したイギ リスのパブ リックスクールやそれにつづ く オ ックス・ ブ リッジ等の学生スポーツの存在が、競技スポーツにおけるルールの統一化および 合理化 に大 きな影響 を与 えた といわれているが (3刊 頁 、 国際 レベルで も、クーベルタンが1896年
に近代オ リンピックを提唱 した ことによって、スポーッは、運動競技 としての意味合いを決定 的な ものにしていった。 さらに、国際的に著名な運動競技 は、ナショナ リズム、マスメディア とも結びついて、今 日まで大いに発展 してきたのは周知の通 りである。たしかに、競技 とは無 縁のケース もある 「周縁のスポーツ」(marginal sport)や「土着のスポーツ」(vemacular sport)
を考慮すれば、近代 におけるスポーツは競技スポーツー辺倒で成 り立っているわけではない。
けれ ども、狭義の近代 スポーツと言えば、ルールが統一 された運動競技 を意味 し、 しか も国際 的に認 められているものを指すのが一般的である (598頁 ヒ
ところが、20世紀 も後半 に入 ると、前述の通 り、スポーツが一部のエ リー ト競技者に独占さ れるという弊害が出て きたため、大衆のためのスポーツが見直 されるようになった。一方で、
競技スポーツを受容 しておきなが ら、他方で、それを批判する考 えが芽生 えはじめたのである。
これは、スポーツの原義的な「気晴 らし、楽 しみ、遊び」に、人びとが目を向け直 したかのよ うである。「勝 ち負 けにこだわ らずに、楽 しみましょう」というのは、生涯スポーツをはじめる 際に、 よ く聞かれる言葉である。 ここにきて、「競技スポーツだけがスポーツではない」という 認識が広 まってきた。「競争」ないし「競技」ということは、スポーツの必要条件にはなるけれ
ども、十分条件 にはな り得ないことがはっきりしてきたのである。
以上のように、スポーツの概念史 を振 り返れば、生涯スポーツが台頭 してきたのも、妥当性 があるといえるだろう。
それでは、今、何 ゆえに生涯スポーツの普及に関 して問題 を抱えているのであろうか。それ
は、スポーツを行 う環境整備 もさることなが ら、スポーッを実施する側にも問題があるような
気が してな らない。 とい うの も、人び との批判の的が、競技スポーツにおける「競技」だけで
な く「運動」にもあ り、 とくに、「運動」の奥深 さを真摯 に追求するということに関 しては、批
判的であるような気がするか らである。たしかに、軽い気持ちや遊び感覚で運動にかかわるこ
とは、生涯スポーツにとって重要なことである。 しか し、それが極端になればなるほど、運動
の軽視 につなが る可能性があるということ、 また、真摯に運動に取 り組むことは、生涯スポー
ツにおいて例外的な もの とみなされた り、 ましてや、そうぃった取 り組み方は、競技スポーツ
として行 うべ きであ り、生涯スポーツとしてはふさゎ しくない といった風潮さえ感 じるのであ
る。
生涯スポーツの外延的構造 に関する一考察
原意的には、 もちろん、 「運動」は必要条件 にはなれ ど、十分条件 にはな り得ない。実際の と ころ、英語の辞書 を引いてみて もわかるように、「運動」以外の意味で も、スポーツ とい う言葉 が使用 され る。 けれ ども、 ここでは、スポーツの意味 をあまりにも広 く解釈するとい うことは 避 けておきたい。なぜなら、気晴 らしであれば、楽 しければ、あるいは遊びであれば、なんで もスポーツであるとして しまうには、 さらに綿密な考察が必要 になって くるか らである。そこ で、本論では、スポーツ概念の内包 を、少な くとも「楽 しさ」 と「運動」の二点で捉 えておき たい。これによって、スポーツの内発的楽 しさとは、 「運動のなかに見出す ことがで きる楽 しさ」
とい うことがで きる。
以上の点 を踏 まえて、生涯スポーツの今 日的問題 を考察 してみたい。
4
生涯スポーツの今 日的問題
(1)競 技スポーツ普及の限界 と可能性
生涯スポーツが台頭することによって、競技スポーツは批半 Jを 受 けることはあって も、否定 はされて こなかった。 とい うの も、競技スポーツにおいては、スポーツ概念 における内包の一 つである「運動」が、 ます ます重視 されてきたか らである。今 日、競技者たちは、少 しで も上 位 を目指 して自分の動 きに磨 きをかけている。 しか も、競技 レベルは年々向上 してお り、競技 者たちの動 きは、 まさに人間の限界 にまで達 しようとしつつある。
ところが一方で、 もう一つの内包である「楽 しさ」 について考 えてみると、そ こでは、練習 の厳 しさのなかに、スポーツの もつ「楽 しさ」が影 をひそめて しまうことが多分 にある。 けれ ども、た とえ楽 しくな くて も、競技者が「運動」 に熱中するのにはわけがある。つ まり、試合 で勝利の喜び、楽 しさを味わ うためである。 ところが、その こと自体 は、スポーツの内発的楽 しさとイコールではない。勝利 とい うのは、運動 した結果の産物であつて、運動 その ものでは ないか らである。つ まり、勝利の楽 しさとは、外発的楽 しさとして理解 されなければならない。
となれば、競技スポーツをスポーツとして考 えてい く上で重要な ことは、勝 ち負 けよりも、
競技者 自身が、 自らの運動のなかに楽 しさを見出 しているか どうかであろう。た とえば、勝 つ て も楽 しくない とい うことがある。 これは、本目手が怪我 をして不戦勝 になった場合や、あるい は相手の実力があまりにも弱過 ぎて勝つのが当た り前 とい う状況で勝 った という場合な どが考 えられ よう。一方、負けて も満足だつた、楽 しかつた とい うこともあ り得 る。 これは、試合本 番で、 自分の実力、あるいはそれ以上が発揮で きたので、た とえ負けた として も清々 しい気持 ちになった とい うことな どが考 えられる。
このように、競技スポーツには、スポーツ概念の内包である「運動」および「楽 しさ」 とも に内在 しうるが、 どちらか といえば、 これ まで勝不 Jと い う外発的楽 しさ (結 果の楽 しさ )が 第 一義 とされ、動 くことにおける内発的楽 しさ (過 程の楽 しさ )は 二義的におかれてきた。むし ろ、後者 は、勝利至上主義あるいは優勝劣敗主義 によって否定 されてきた感 も否めない。そこ では、真摯 に練習やゲームをすることは素晴 しい とされなが らも、最終的に、結果 (勝 利 )に
つなが らなければ、競技する意味 はない とまでの批半 Jを 浴びるようになっていたのである。要 す るに、効率主義の もとでは、結果 に結びつかない努力 は、エネルギーの浪費で しかない。 も ちろん、このような考 えは、近代社会 における自由競争の原理 にもとづいている。その社会 は、
可能 なかぎ り平等な条件 を整備 し、その上で自由競争 を行 って勝 ち残 った者だけが、社会的に
賞賛 を浴びるシステムを築 き上 げてきた。 したがって、競技者 にとってみれば、 自分の行 った
行為 を社会的に認めて もらうためには、過程の楽 しみよりも結果の楽 しみに重点 を置かざるを えない。 ましてや、全国レベル、国際 レベルヘ と競技スポーツが組織化 されてい くにつれて、
スポーツは政治的・ 経済的な手段 として も利用されるようになってきた。そうなると、否で も 応で も、勝利が期待 される競技者 は競技 を続 けなければならないし、逆に、期待 されない競技 者 は暗 に引退 をすすめられることになる。 ここにおいて、競技選手
(とくに勝利が期待 されな い選手 )は 、何のためにスポーツを行 っているのか自問自答せざるを得な くなって くるであろ う。実際、若年競技者のバーンアウ ト (燃 えつき症候群 )が 、昨今の話題 になっている。 もし、
今後 も、競技スポーツの内発的楽 しさを二義的にお くような状態で、勝利至上主義が唱え続 け られるのであれば、競技スポーツの普及は難 しい といわざるを得ない。
さらに今 日、競技スポーツの普及 をさまたげている原因 として、 「 自由競争の名の もとにおけ る今 日的不平等」 も挙 げることがで きる。前述の通 り、自由競争 は、可能なかぎり平等な条件 を整備す るところか らはじめられなければならない。 ドーピングが禁止 されているの も、人間 の身体的条件 を可能 なかざり平等なもの として扱いたいか らである。 しか し、競技スポーツが 科学技術の発展 に大 き く左右 されてきた ことを考 えると、人間の身体的条件 も含めて、自由競 争の平等性が保たれているのか どうか疑問視せ ざるをえない。た とえば、中村 は次のようにい う。「今 日のスポーツにあらわれている『不平等』はバスケ ッ トボールの『身長制』不採用だけ ではない。おそらくもっとも多 くの子 どもや選手が実感 しているのは、特定の学校やクラブに 優れた選手がスカウ トされ、素晴 しい施設や設備、優秀 な指導者、大量の練習時間、潤沢な経 費、快適 な合宿所 な どを提供 されてその技能 を高めているチーム と対戦 させ られる『不平等』
であろう」 (826■ た しかに、競技が高度化すれば、それに見合 う人材 と練習環境の確保 は必須 である。 しか し、その確保 に経費がかかればかかるほど、そこに平等性 を求めることは、今 日
ます ます難 しい ことになってきている。やがて、人材 も練習環境 も十分 に確保で きない ところ は、競技スポーツか ら身 を引かざるを得な くなるであろう。そもそも競技 とは、やってみない と勝 ち負 けがわか らない というところに面白さがあるはずで、やる前か らそれがわかっていれ ば、競技 を行 う必要はない。その点で、競技スポーツが高度化 し、多 くの資本投資を必要 とす ればするほ ど、その普及 に関 しては難 しい問題が出て くるのは否めない。
しか しなが ら、一方で、競技スポーツは違 った方向で大衆化 してきている事実 もある。それ は、厳密なルールに縛 られることな く、当事者間の技能 レベルにあわせて、ルールを柔軟 に変 更するという方向で進展 してきた。た とえば、お互いが初心者であれば、初心者 に合ったルー ルが適用 されるし、技能 レベルが異なる者同士では、ハ ンディキャップ形式で競技が行われた
りする。
前者 は、ルールを簡易化するとい うことで、た とえば小学校等 におけるリー ドアップゲーム として活用 されてきた経緯 もある。ただし、それは、あ くまで も本来の競技スポーツ種 目への 導入 として用い られ るので、それ自体 は、正式な競技スポーツ種 目として認められに くい雰囲 気があった。 けれ ども、生涯スポーツの考 えが広 まるなかで、た とえばソフ トバ レーボールの ように、本来のバ レーボールか ら独立 して、正式な競技種 日として認められるもの も登場 して きた。もちろん、競技種 日であるかざ り、それ らが高度化する可能性 は多分にあ り得 るだろう。
しか し、生涯スポーツの観点 に立てば、技能 レベルが高い人たちは高いな りに競技 を楽 しめば
よい し、逆 に、低い人たちは低いな りに楽 しめればよいのである。 ここに、ルールを柔軟 に変
更することの意義がある。
生涯 スポーツの外延的構造 に関する一考察
さらに、後者 に関 しては、技能差のある者同士が、勝 ち負 けよりも、競技 それ自体 を楽 しも うという発想で行われ る。従来の競技スポーツでは、競技者の技能以外の ところを、で きるだ けすべて平等化す るとい う考 えがあつたが、ハ ンディキャップ戦では競技者の技能 をで きるだ け均等化 し、そのためには、それ以外の ところを不平等にして もよい とい う考 え方がなされる。
したがって、そのような競技 スポーツでは、だれで も勝者 になれる可能性が出て くる。ただ し、
勝者 になるためには、その競技 に中途半端 に関わつていてはダメなわけで、 とうぜん自らの動 きに対する関心 も、そこで高 まることになる。 もちろん、競技者同士の間で、技能の高い者が 優れていて低い者が劣 るとい う優勝劣敗の思想が抜 け切れていない と、 とたんに競技 を行お う とす る動機 は低 くなって しまうであろう。とい うの も、技能 レベルの低い者が、 「 自分 はハ ンディ をもらっているのだ」 という劣等感 を強 くもっていると、た とえ自分 より技能 レベルの高い人 に勝 って も、すなおに喜べないか らである。 そこで、 この種の競技スポーツでは、勝利 という 外発的楽 しさ (結 果の楽 しさ )を 二義的 とし、競技運動 自体 における内発的楽 しさ (過 程の楽
しさ )を 、あ くまで も第一義 としてお く必要がある。すなわち、お互いが全力 を出 し切 って、
精一杯競技 を行 つた とい うところに、意義や価値 を認 めるべ きなのである。
このように、競技スポーツは、ルールを厳密 に規定 した上で、かぎりな く高い技能 をめざし て競技者同士が競い合 う「チャンピオ ン養成型」 と、競技者の技能 レベルに応 じて柔軟 にルー ルを変更す る「大衆普及型」に区別す ることがで きる。 もちろん、両者 ともに、競技者たちは、
勝利 をめざして真摯 にプレーすることに変わ りはない。 もし、勝 ち負 けにまった くこだわ らな い とすれば、そ こで競技スポーツは成立 しな くなってしまうであろう。 しか しなが ら、後者で は、勝 ち負 けよりも、むしろそこに至 るまでの過程 に楽 しみが求められなければな らない。 こ こに、生涯 スポーツ としての競技スポーツの可能性 を見出す ことができると思われ る。
(2)生 涯 スポーツのかかわ り方について
さて、 これ までは、スポーツ運動 を行 う人の立場で考察 を続 けてきた。 しか し、現実には、
必ず しも運動者だけがスポーツにかかわつているわけではない。 とくに、マスメディアの発達 によって、今 日では、情報 として知 ること (見 る、聞 く、読 む等 )も 、スポーツヘのかかわ り 方 として重要な位置 を占めている。 さらに、間接的にスポーツにかかわ るだけでな く、応援、
指導者、競技運営スタッフ等 として直接的にかかわ る場合 もある。 これ らはスポーツが組織化 されればされるほど、必要不可欠な もの とな り、スポーツを構成 してい く際の重要な柱 とな り 得 る。
一般 に、生涯 スポーツにおいては、 どちらか といえば、 これ まで人が 自ら動 くことに照準が 合わせ られてきた。 しか も、できるだけた くさんの人 に実践 して もらいたいので、そ こでは手 軽 にで きて楽な運動 とい うものが取 り上 げられやすかつた ように思われる。一方、 これ とは対 照的に、チャンピオ ン養成型の競技スポーツでは、そこで行われる運動が高度化すればするほ
ど、それを実践で きる人の数 は減 るので、結果的に、それは生涯スポーツ として不向きである とい う考 えがなされてきた。
けれ ども、た とえ自ら行わない として も、大衆 は、違 ったかたちでそのような競技スポーツ
に関与 して きた事実 を見のがすわけにはいかない。 とい うの も、スポーツにおける運動の楽 し
さは、単 に、運動者だけが味わ うのではな く、それ を見ている者 も味わ うことがで きるか らで
ある。その端的な証拠が、プロスポーツであ り、セ ミプロ化 した (し つつある )国 際大会であ
る。 そこでは、競技者 よりも、見 る人の側 に重点が置かれ、競技運営のみならず、ルールなど も観衆 に合わせて変更 される場合があ り、 まさにそういう意味では、 もはやエ リー トのための スポーツではな く、大衆のためのスポーツにな りつつある。
しか しなが ら、大衆の論理だけで、チャンピオン養成型の競技スポーツが押 し進められるこ とには、ある種の危険が ともなうであろう。た とえば、テレビは、「その都合に合わせてスポー ツを変形 させ、スポーツの もつよさの多 くを消 し去 る方向にも作用 してきている」
(3■"頁 Lも ち ろん、その他のマスメディアも例外ではない。その点で、 「多 くのスポーツがショー化の傾向を 強めていることは否定で きず、その境界が次第 に曖昧になってきている今 日、あらためてスポー ツの『見かた』や『スポーツとは何か』ということを考え、説いてい く必要は十分にある」
(8‑224Юと、中村が指摘するのは傾聴 に値 しよう。 したがって、競技者がスポーツとして最高のプレー を発揮で きるためにも、観客は、スポーツの見方をさまざまな点で学習 してい く必要がある (た
とえば、ルール、学習指導に関する知識、その競技の歴史等々
)。それ らによって、観客 は、 「 プ レイヤーたちの真剣 さに相応する真剣 さを」 もって見 ることができるし、 しかも「それがプレ イヤーに対する礼儀であ り、『見 る人』のモラル」にもなる (82"頁 ヒ しぃては、それが競技 に直接 かかわるすべての人たち (競 技者、指導者、競技運営スタッフ等 )に 対 して も、最高の競技会 をつ くるよう促す ことにもなるであろう。いわば、 これか らのチャンピオン養成型競技スポー ツは、一部の専門家だけが関与するのではな く、一般観衆 も含めたみんなで作 り上げてい くべ きだ と考 えたい。 ここに、それが生涯スポーツとな り得る可能性を見出す ことができよう。
しか し、みんなでスポーツを作 り上げてい くという点では、なにもチャンピオン養成型競技 スポーツにかぎることはない。お りしも文部省は、2000年 9月 に、わが国初の「スポーツ振興 基本計画」を策定 したにし そこでは、今後のスポーツ行政の主要な課題 として次のものを掲げ、
その具体化 を図ることとしている。
(1)生 涯スポーツ社会の実現 に向けた、地域 におけるスポーツ環境の整備充実方策
(2)我 が国の国際競技力の総合的な向上方策
(3)生 涯スポーツ及び競技スポーツと学校体育・ スポーツとの連携 を推進するための方策 とくに、(1)に 関 して、全国の各市区町村 において少な くとも 1つ は総合型地域 スポーツクラ ブを、各都道府県において少な くとも 1つ は広域スポーツセ ンターを育成するというところが 注 目に値する。 さらに、総合型地域スポーツクラブは、地域住民が主体的に運営するスポーツ クラブだ とし、そして、その全国展開を効果的に推進するために、行政、スポーツ団体、企業 等が、それぞれの役割 に応 じ、具体的に施策 を展開するよう述べている。
これにしたがえば、 これか らの生涯スポーツは、あ くまで も地域住民が主導 となって運営 し ていかなければならない。つまり、 「一人一人が自分 に合 ったスポーツを行 っていればよいのだ」
とい うだけでな く、「他人が行 っているスポーツも支えてあげるのだ」という発想 もプラスされ て、今後の生涯スポーツ社会が築 き上 げられてい くべきだ と考えられる。いうなれば、スポー ツは「行 うもの」から「つ くるもの」へ と、発想の転換をしてい く時期 に差 し掛かった といえ るのではないだろうか。
以上の ことか ら、生涯 スポーツの外延的構造 を次に示 してみた。
ス ポ ー ツ 実 践
行 うスポーツ
支えるスポーツ
生涯スポーツの外延的構造 に関する一考察
指導者、
トレーナー、応援者 スポーツイベン ト運営スタッフ スポーツ施設の建設管理関係者 スポーツ用品の提供者
等々
情報提供者
(マ スメディア関係者等
)情報受入者
(視 聴者、読者等
)図
生涯スポーツの外延的構造
まず、スポーツ実践 は、「行 うスポーツ」と「支 えるスポーツ」に分かれ、 さらに後者 は、直 接的な もの と問接的な ものに分かれる。実践者 は、それぞれの立場か ら、スポーツにアプロー チすることがで き、た とえば、少年野球の指導に一生 をささげる人がいて もよいだろうし、ス ポーツ用品の開発 に一生 をささげる人がいて もか まわない。 さらに、スポーツ情報 を収集 した り、それをもとに議論するのが好 きな人がいて もよいであろう。テレビ局 も、単なる視聴率稼 ぎに奔走するのではな く、視聴者 といっしょにスポーツをつ くり上 げているのだ という自覚 を もって、 よりよいスポーツ報道 とい うものを目指すべ きであろう。 これ らは、広い意味で、立 派な生涯スポーツにな り得 ると考 えたい。 したがって、技能が低い ということは、必ず しもス ポーツ実践 にとって不不 Uな ことではない。むしろ、スポーツヘの様々なかかわ り方のなかか ら、
自分が選択 した もの (複 数可 )を 、今後のスポーツ文化の継承・発展 に少 しで も役 に立つよう、
生涯 にわたって実践 してい くことが、生涯スポーツ として意義のあることだ と言 えるのではな いだろうか。
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