価値不確定な社会 における教育の 目的・目標
Erzichungsziele in einer wertunsicheren Gesellscha■
高 橋 洸 治
Ktti TAKAHASHI
(平 成元年 10月 11日 受理)
1.普 遍 妥 当 的 な教 育 目的 の否 定 一「 心 的 生 の発 展 性 」 に よ る 目的 の再 構 築 ―
教育あるいはその目的についての概念的な解明および理論的な基礎づけが試み られ る際に
,その前提 として措定 されているテーゼは ,例 えば 「教育 は ,本 質的に目的意識的な活動である
:〕といったものである。 目的を意識 した活動 は決 して教育だけに限定 されるものではないか ら
,そのテーゼは ,何 らかの目的が 自覚 されていなければ ,教 育活動の本質的な特徴 は充足 されな いことになる ,と いう条件を提示 しているものと解 される。要す るにそのテーゼによって ,教
育活動の 目的志向性 という基本的な特性が確認 されているとみなす ことがで きる。
教育の目的志向性を ,理 念的な世界 と関わる理性的な要素か ら切 り離 し ,人 間存在の全体的 な基層を意味する「生」(das Leben)と いう概念的な構成体 と結合 させて ,そ の新たなる捉え 直 しに挑戦 したのは ,歴 史的な観点か らいわゆる「生の哲学」を構築 したディルタイ (Dllthey,
■ )で ある。彼は精神生活の目的論的な
̀性落各指摘 し ,教 育的な行為 はその精神生活の目的を 遂行す るために要請 された ものであると主張 したのである。すなわち ,「 教育 はそれ 自体 目的 なのでな く ,手 段 として心的生の発展 に資す るもあ ])と 規定 されたのである。教育をそれ 自体 ヽ目的とするというのは ,教 育は普遍妥当的な目的を有 してお り ,そ れを実現することが教育固 有の使命であるということを意味す るのである。つまり教育活動を心的生に支え られた精神生 活の営み と結 びつけることは ,教 育の 目的を歴史的・ 社会的な次元に引き戻 し ,人 間生活 と密 接 に相関させ ることになるのである。それゆえ ,教 育を「
Jき的生」の発展 と関連づ ける捉え方 は ,形 而上学的な観点か ら設定 された形式的かつ普遍妥当的な教育 目的を克服する批判的な視 座を提供す ると共に ,そ して同時に ,そ の反面においてそれで もなお目的というのは教育活動 にとって不可欠な要素であることを解明す るための新たな論証的な視座を も与えるものなので ある。
a。
「′ き的生の発展性」と教育活動
教育活動が Lふ 的生の発展」に貢献す る「手段」であることを ,デ ィルタイは次のように説 明 している。無機的な自然界が因果律によって支配 されているのに対 して ,有 機的な生物の世 界 はその種属の保存 と発展に適 した行動を選択 したり産み出 した りす るという「合 目的性」に よって統御 されている。生物においては ,そ の有機体 と行動 との間の因果的な関係を自己自身 で察知す る機制が保持 されているので ,そ うした合 目的性 という特性が発現 しうるのである。
この特性は ,人 間の 「心的生」の構造に も当然内在す るものである。彼はそれを らい的生」の
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「目的論的な連関」として一般化 し ,そ れに基づいて人間の精神的な事象の特性を規定す るの である。すなわち ,精 神生活 (精 神的な生 )は その根源的な特性 としての「目的論的な性格」
を有す ると同時に ,そ の特性か ら必然的に派生する「発展性」 という性格を も有するのである
1)人間はその種 と個人の保存への目的的な活動の中で ,み ずか らの衝動 と感情およびそれによっ て作動 される個々の機能や能力を目的論的に統合 し ,そ の目的を可能な限 り実現 しようとす る ものである :)教 育はそ うした精神生活の目的論的な発展性を確保 し ,完 成 させるとい う役割を 課せ られている ,と 彼は指摘す るのである。要するに ,教 育 は人間の生存に内在す る目的論的 な発展性 という事象 との関連づけによって初めて ,そ の現実的な存在意義を獲得す ることにな るのである。
こうした 「記述的一分析的な心理学」の手法によって明 らかにされた心的生の全体的な構造 連関性およびそれに対す る教育活動の寄与的な役割の確認 は ,「 普遍妥当的な」教育学を構築 す る「原理」を提供するものである , とディルタイは主張 している。一見矛盾 しているようで あるが ,そ の確認は ,一 方では教育 目的の普遍妥当性を否定す るものであるが ,他 方では ,教
育学の普遍妥当的な理論の可能性を支持す る根拠 ともなる
,‐とい うのである。教育の実際的な 諸形態 は歴史的・社会的に多様な ものであ り ,そ れぞれが他 とは異なる特有な差異を示す もの である。 しか しなが ら ,子 ども一人ひとりの発達 というのは ,そ れぞれの心的生および精神生 活の目的論的な連関性の もとに , もろもろの素質 ,機 能や能力を統合 し ,発 展 させ ることであ る。その点に関 しては ,い わば普遍妥当的な共通性が見 られるといえよう。それゆえ ,デ ィル タイは , 目的論的な発展性 は人間の 「有能性」 ということの 「根本条件」であると確信す るの である。 したが って ,そ れは教育学に対 して普遍妥当的かつ現実的な拠点を与えるものである とみなされるのである。ヘルマ ン・ ノール (Nohl,H。 )は , この拠点は「空虚な形式」すなわ ち内実を伴わない理論的な構成物にす ぎないと批判的な受けとめ方を しつつ も ,そ うした心的 生の基礎的な事象か ら教育学の理論を構築す る試みは ,そ の後の教育学の新たなる展開への一 段階を画するものである f)と 積極的な評価を しているのである。
先に指摘 したように ,普 遍妥当的な教育学の可能性は決 して普遍妥当的な教育 目的を前提に
した り ,あ るいはそれを提示 した りす るものではないということである。生物体 としての人間
はその種属 と団体の存続 と幸福に適合 した行動を選び取 るという意味での合 目的性を有 してい
るか らといって ,デ ィルタイはその人類の存続を教育の普遍妥当的な目的として設定 してはい
ないのである。それはなぜかといえば ,「 最高の哲学的な見地」に立つな らばそれは「すべて
の制度 Jが 「本来的な目的」とすべ き事柄であるが ,「 現実には」そのようにされていないか
らである ,:と 彼は説明 しているのである。 この点については ,人 間存在をめ ぐる客観的な情況
が今 日とは大 きく異 っていることを考慮 しなければな らないであろう。今世紀の後半において
は ,核 兵器の強烈な破壊力および地球規模の環境汚染は人類の存続に対 して現実的な脅威 とな
り ,人 々に緊急の対応を迫 っている。 とはいえ ,現 在で もディルタイの言 うように「すべての
制度」が人類の存続を 「本来的な目的」として設定 しているわけではない。実際により切実な
問題 は ,人 類 とい う種属内の種族的な対立・ 抗争の克服であるとも言えよう。それはともか く
,ディルタイの指摘す るような ,「 すべての制度」によって 目的とされている事柄が初めて教育
活動の目的となり得 るという見解 は ,そ のまま是認す ることが難 しいと思われる。た しかにそ
の見解 は ,教 育 目的の抽象的な形式化を回避 させることにはなろうが ,教 育活動およびその 目
的を社会 に追随させ ることにな り ,体 制保守的な性格を強めさせることになるであろう。ディ
ルタイの思想を受け継 ぎ成立 した精神科学的な教育学が ,そ の保守性において批判 されるの も
,この辺の問題 とも関わ りがあるといえるであろう。
要す るに ,デ イルタイは ,種 の保存 という生物の根源的な目的への動向に起因す る行為の合 目的的な発展性 という傾向を ,そ の直接的な目的か ら捨象 し ,心 的生・ 精神生活の現象的な特 性 として一般化 したのである。そ してそれを人間の生活 ,社 会 ,歴 史を理解 (了 解 )す るため の概念装置として利用す ることの有効性を示 したのである。有機的な自然が生長す るように
,人間生活 ,社 会は歴史的に展開・発展するものである。 したが って ,わ れわれの 「心的生の目 的は ,内 容的にはいつで も歴史的に規定 されている
I)̀のである。それゆえ ,心 的生の発展 に貢 献す る教育の目的 もまた歴史的に制約 されているといわざるをえないのである。倫理学であっ て も生の目的を普遍妥当的に規定す ることは不可能であるか ら ,教 育の目的を普遍妥当的な形 で公式化することはできないのである。 これが教育 目的の歴史的相対性を決定的に印象づける
ことになったディルタイの結論である。
b.教 育学の規範的性格
普遍妥当的な教育 目的の否定 は ,観 念論的な視点 に立つ諸教育論がそれまでに提起 した もろ もろの教育 目的を根底か ら捉え直させ る契機 となったことはいうまで もない。それまでに唱え られた教育 目的は一体誰のために ,何 のために設定 されていたのか。 目的を基礎づけていた倫 理学の理念は本当に実現可能な ものであるのか ,単 なる形式的な建前にすぎないのではないの か。そうした教育 目的はあまりにも高踏・ 高尚す ぎて ,そ の実現不可能性によってかえ って教 師や生徒の挫折感を生み出 しただけではなか ったのか。そうであるな らば ,教 育 目的はな くて もよいのではないのか。 とりわけ特定の世界観に基づ く人間像 という形で提示 され る教育 目的 は ,生 徒たちを一定の枠組にはめ込む ことになるので ,人 間形成的にも大いに問題がある。 こ ういった批判的な意見が次つぎと出されるうちに ,不 必要な教育 目的か ら教育を ,子 どもを解 放す ることこそが教育の革新につなが ると信 じられ るような情況が生み出されたのである。教 育の目的よりも「教育の過程」を尊重す るということは ,近 代以降の教育学が基本的に推進 し てきた原則であるが ,そ の動向はここにおいて一層お し進め られることになったといえよう。
` 教育者 と被教育者 とを方向づけるという意味において ,教 育 目的はいわば規範的な性格を有 す るものとみなす ことができる。哲学的・ 倫理学的な理念・理想および価値を前提 に して ,そ
こか ら演繹的に教育 とその目的についてのあるべき特性や内容を規定 した教育学 は ,そ の規範 的な性格をこそ本質的な特徴 としていたといえる。そ うした教育学は規範的な教育学 と呼ばれ
,科学的な事実研究に基づ く経験的な教育学・ 教育科学 とは区別 されるのである。後者の没価値 的ない しは価値 自由的な立場を取 ることが ,教 育研究を真に科学的な ものにすると一時強 く信 じられたことがあ ったが ,今 日では事情が変わ って きている。その点については月 1の 所で触れ ることにする。 ここでの問題 は ,そ れではディルタイは規範的な教育学を全面的に否定 したの かとい うことである。 この点についてはすでに述べ られたことによって示唆されているように
,彼は「状況不変的な」規範すなわちあ らゆる時 と所 に普遍妥当的な教育 目的を主張す る教育学 をツト 除 しようとしたのであって
,`規範のすべて ,目 的のすべてを否定 したのではないのである。
要す るに彼 は ,「 状況可変的な J規 範すなわちそれぞれの社会に固有な形で妥当 しうる教育 目 的を不可欠な ものとして尊重 しているのである。だか ら彼は ,教 育学は基本的に規範的な学問 であると認めているのである
:)こうしたディルタイの見解が出されてか らは ,当 然の ことではあるが ,教 育 目的 は状況可変
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的な ものに ,社 会 (経 済 )的 な結びつ きの強いものに重点がおかれるようになるのである。形 式的な実現性の乏 しい目的よりも ,具 体的に達成可能で しか も社会的にその実現が求め られて いるような目的が ,つ まり社会的な要求 としての 目的が中心的な位置を占めるようになり ,社
会的 目的が前面に登場す るのである。そ してそれ と共に ,「 目的的な発展性」についての見解 は ,被 教育者の発達および自己形成 というものを改めて重視 させ ることになるのであ る。先の 社会的な目的に対 して , この観点か らはいわば内発的な目的 ,そ うい う意味での 「本質的な (intrinsic)目 的」についての発想が展開され ることになるのである。彼において ,両 者 は心 的生 に基礎づけられて統合 され得 るものとして捉え られているが ,そ の論証は確固とした もの ではない。それは「生」その ものが ,彼 自身 も率直に述べているように ,不 可解で提え難 い も のであることによるといえよう。ディルタイを してか くも非合理的で曖昧さを払拭 しきれない
「生」に ,哲 学的な考察の手がか りを求めさせたのは , ドイツ理想主義の崩壊に伴い出現 した
,理性に対する信仰の消滅であった。外的世界 と人間の 「生」とを支える原理的な根拠であ った 理性が , もはや幻想であるにす ぎないとの判断が下 されるや ,そ れまで確信されていた世界 と 人間の生 との統一性 は破棄され ,そ して現実の もろもろの側面を統一的な像に集約す ることも 不可能 となったのである。その結果 ,そ れ以降の現実認識において矛盾・ 対立・ 多面性・ 多様 性 といった言葉がますます頻繁に使用 されるようにな り ,現 実への信頼感を確保す ることなど 不可能 と思えるほどの情況が生まれるのである :)前 世紀末か ら今世紀初頭にかけての こうした 精神史上の重大な転回を直視 し ,自 らもその転回の一端を担 ったディルタイの思想 は ,新 たな 転換期に入 っている今 日の教育情況を発展的 に展開す るための手がか りとして再考 され る必要 があると思われる。 ここでは主 として教育 目的についての筆者の問題関心か らディルタイの見 解を以上のような形で取 り上げ ,現 在の教育 目的論の背後にある基本的な前提を確認 したので ある。
2.現 代 の教育 目的・ 目標 一 価 値 不 確 定 な社 会 に お け る教 育 の方 向 づ け
古代か ら近代に至 るさまざまの民族 0社 会の多様な教育の諸形態を研究 したデ ィルタイが到 達 した教育の規定は意外 と簡潔なものであった。すなわち ,「 教育 は ,成 入 した者が次代を担 う者の心的生を形成する計画的な活動を意味す る
10をというものである。今 日では ,学 習社会 とか生涯教育の観点か ら教育概念が拡大 され ,教 育 は教育者 と被教育者 との教育的な人間関係 において成立す るとされているが ,彼 は意識的にそ うした定義を しているのである。多様な教 育関係の うち「成人 した者 Jと 「次代を担 う者」 との関係に 「本来の意味の教育」は 「限定 さ れ る」 と考えていたか らである。 この定義は ,あ る意味では ,す でにシュライエルマ ッハー (Schleiermacher,F.E.D.)に よって理論化 された伝統的な教育概念 ,す なわち世代関係を前提 に した教育理解 と相似 した ものといえる
:1)しか し ,後 者が 「次代を担 う者」を 「善の理念」に 一致 させることを教育 として捉えたのに対 して ,デ ィルタイは ,先 に述べたように ,「 次代を 担 う者」の心的生の 「目的論的な発展性」を形成す ることに ,教 育活動の本質を見出 したので あり ,そ の点が今 日にも生かされる新 しさを有 しているのである。
教育概念についてのディルタイの規定 は ,現 在 ,例 えばブレツィンカ (Brezinka,W。 )に よ
る教育概念の定義において受け継がれているといえよう。 ブレツィンカは「分析哲学」の手法
で教育を言語分析的に解明 した結果 ,「 教育」という用語を次の定義の もとで使用す ることを
提案 している。 「教育 とは ,人 間が他の人間の心意的性向の組織を何かある点で永続的に改善 し ,あ るいは価値あるものと評価されたその構成要素を保持 し ,あ るいはよ くないものとして 評価 される性向の発生を防止 しようとす る社会的行為を意味す る
11)。ここでの 「心意的」とはディルタイの定義で 「心的 (psychisch)Jと 訳 されているもののい わば現代的な訳語である。 この定義では ,教 育的な人間関係 はディルタイより拡大 されている が ,ブ レツィンカは基本的には「成人」と「子 ども」の関係を重視 している。それは ,「 教育 とい うものは ,人 々が彼 らの 「次の世代の もの (あ とか ら生長する若者 )(Nachwuchs)に 対す る 配慮を本質 とする 13し ぃぅ彼の言葉に現れている。また , この定義 にはデ ィルタイにおけ る
「目的論的な発展性」の観点 も考慮 されているし ,さ らに ,デ ィルタイがあまり明確に前面 に 出さなか った 「価値」 。「評価」の視点がはっきりと組み込まれているのである。教育概念を 価値要素 と結びつけて規定す ることは ,今 日のように価値不確定な社会 といわれている時代 に は ,当 然実践的な次元において多 くの困難 に直面す ることが予想 され る。 しか し ,そ うである な ら逆に ,そ の概念規定を したブレツィンカの教育および教育 目的に関する見解 は ,現 代的な 問題を解明す る手がか りになると思われ る。
教育は若者への配慮を本質 とす ると指摘 したブレツィンカは ,そ の配慮が今 日いかに困難な ことであるかを十分に承知 していた。誕生 したばか りの乳幼児 とすでに一定の生活力を身につ けた成人 との人格属性の隔た りが今 日ほど大 きくなっている時代はない ,と 彼はいう。世代関 係に基づ く教育 は不可能 に近いとさえ思える情況がみ られるのである。成人にとっての 「よい 道徳・ 理想」 もその幼年時代 とは大 きく変容 してお り ,現 在のそれ も本当に安定 しているもの で はない し ,そ れよりも成人に共通 した ものなど在 りもしないとさえいえるのである。科学・
技術の急速な発展の中で ,変 動・ 流動性に身を委ねなが ら何 とか時流に適応す る姿勢を保持 し ているだけの生活においては ,何 が本当に価値あるのか ,追 求すべ きことは何か ,拒 絶 しな く てはな らないのは何か ,と じっくり問 うこともで きな くなりつつある。一人ひとりが 自分の確 信を喪失 し ;自 分を方向づけるセ ンスも失いつつあるといえよう。
a.価 値評価多元化の三要因
ブ レツィンカは現代の教育危機は方向づけおよび価値評価(Wertung)の 危機 と一体の もので あると捉えている。特に彼が重視 しているの
1ま価値評価の問題である。倫理的な相対主義 ,科
学 における価値中立性 といったことにより ,価 値的選択の問題が軽視 され ,価 値判断がで きる 価値態度がまともに形成 されることがな くな っているのである。価値態度を もたない大人が
,教師が教育することができるのであろうか。没価値的な態度を保持することこそ ,教 育の中立 性を確保するものであり ,ま た子 どもを偏向的な教育か ら解放す ることであるとの見解 も出さ れるであろう。それにはそれなりの理由が認め られるけれども ,教 育 は根本的には価値問題 と 直結 していると考えざるをえない。 ブレツィンカは ,い わゆる合理主義的な教育科学者である が ,き っばりと ,「 価値評価す ることな しには ,誰 も教育す ることはで きない」 11)と 言 ってい るのである。教育は目的・ 目標についての決定を前提に しな くては意図的な活動 としては成立 しえないといえる。今 日 , この決定のあ り方を弱体化 させ ,歪 めているものは ,二 つの要素す なわち合理主義 ,個 人主義そ して快楽主義であると彼 は指摘するのである :5L番 目の個人主義 は , 日本の現状に適用するためには少 し捉え直す必要があるが ,そ れ らの問題は日本において も妥当す るといえよ う。 ′
合理主義 は しば しば主知主義 とも呼ばれ るもので ,そ れは ,理 性・ 知的能力 0合 理的思考 こ
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そが生活を遂行 させるために必要かつ十分な ものであるという信念を無批判的にもっているの である。その特殊な形態はいわゆる「科学主義」である。 これは諸科学 ,科 学的な思考様式お よび科学的な意識を ,他 の文化財 ,思 考様式等を犠牲 に してまで も ,一 面的に過大 に評価す る ものである。 したが ってそれは情緒的な諸力の価値を正当に評価 しないのである。知性および 批判的な思考を高 く評価す ることは ,人 間の心情的な ものを低 く評価す ることと結びついてい るが , これはいわゆる人間的な諸力の調和 という古典的な理想を破棄 して しまうものである。
それでよいのであろうか。われわれの生活は科学の成果 に依存 し ,科 学的な思考で具体的な仕 事を処理 してはいるが ,そ の生活の根本的な方向づけは ,わ れわれの心 ,心 情 において受 けと め られ ,そ こで育まれた ものに依拠 しているのである。 この点を軽 くみてはな らないであろう。
科学的な知識の適用範囲 と限界を十分におさえないと ,か え って適切な価値的方向づけを阻害 す ることに もなるのである。
次の個人主義 は ,個 的人格 ,そ の自由や利害を過度に強調するものである。 したが ってそれ は ,共 同体その ものを ,ま た共同体の諸規範 との結びつ きを軽視す るものといえる。個人の固 有性のみが強調 され共同体の諸価値が正当に評価 されないな らば ,個 人の生活その もの も共同 体によって支持 され ,保 障されることもな くなるのであ る。歴史的にみれば ,啓 蒙主義の時代 以来 , 自由主義の名の もとに ,個 人の権利や 自律性を拡大す るために ,古 い家族制度 ,身 分制 度 ,宗 教機関や政治権力への従属的な関係か らの解放が進め られてきたのであ らて ,そ の意味 において も個人を制約す るような発言は慎 まな くてはな らない。 しか し ,他 面 において ,個 人 は共同体の中に正 しく位置づけ られることへの要求 も本来的な権利 として もっているのである。
最後の快楽主義については説明す るまで もないであろ う。要す るにこれは ,感 性的な快楽を 個人の幸福の本質 として過大に評価す るものである。快楽の過大評価は ,貧 困な生活 における 不満の反動で もあ り ,ま た抑圧的な体制か ら解放 されて個人の主観的な生活感情を確保 しよう とする表われ とも受けとめ られるであろう。けれども ,快 楽主義 は利己主義 と連関 しているの である。快楽主義は自己制御 , 自己訓練の能力を弱体化 させ ,客 観的なもの ごとの達成の喜び
,共同体への寄与の構え ,人 々の共存性への態度を崩壊 させ るものである。
現代の精神的な危機を もた らしているこれ ら三つの要素の批判的な検討を踏 まえて ,ブ レツ ィンカはそ うした危機か ら脱出するための具体的な手だてとして現実主義的な人間像を構想 し
,それを現代の教育活動を方向づける実践的な根拠 とす るのである。だが ,そ の人間像の問題に 触れる前に ,社 会の多元化についての彼の見解をおさえてお く必要がある。それによって彼の 提示す る人間像の特徴が一層深 く理解 され うることになるか らである。
‐ 先に挙げられた三つの主義の社会への浸透 は ,結 果的に多元主義 という全体的な特徴 を生み 出す契機になったのである。今や 「多元的な社会」 とい う表現は現代の社会を象徴す る代表的 な言葉になっている。一元論的な国家 。社会・ 集団においては ,一 つの事柄について一つの公 式的な意味づけが支配的である。伝統的な社会の一つの特徴 は ,一 元論的な色調の濃 さにある。
多元的な社会・ 国家においては ,一 つの事柄 に関 して多数の多様な意味づけが許容 され ,そ れ ぞれが共存 じ合 っている。現実には ,民 主主義的な観点に反する極端な見解 は法的に規制 され ているであろうが。 …・ ・。ブレツィンカに依れば ,多 元主義 は大 き く政治的な多元主義 と世界観 的な多元主義に分類 されるのである 16)
政治的な視点において社会が多元的 と称 されるのは ,各 個人 と国家 との間に ,相 対的に自立
した もろもろの集団・ 組織・利益団体が存在 し ,そ れ らがそれぞれの成員の特殊利益を確保す
るために ,政 治的な意思形成 に ,さ らに政治的な運営に関与 している場合である。 こうした状 態において国家は ,そ の国民 にとって ,政 党や企業および社会的な勢力団体に対 して広範 に依 拠す るもの として捉え られるのである。政治的な多元主義が社会の分裂的な誤解を避 けること がで きるのは ,そ れぞれの集団・ 組織等が自分達の要求をどれだけ公共的な福祉 と折 り合わせ るかにかか っているといえよう。
次 に ,わ れわれの社会が世界観的な次元において多元的といわれるのは ,そ の社会において
,多数の世界観 ,宗 教 ,道 徳的な見解が許容 されている場合である。それ ら世界観的な信念 に基 づ く諸集団の支持者たちは ,異 なる集団の理想を阻止すべ く時に激 しい対立・ 抗争を示す もの である。そ して集団は競 って 自分達の支持す る信念を公共的な ものに ,あ るいは国家的規模に おいて公認 された世論に しようと努力するのである。要す るに ,マ ス・ メディアおよび教育施 設へ浸透を計 り ,永 続 させ るために しのぎを削 っているのである。
こうした多元主義 は長所 と共に短所をももっているといえよう。長所 としては ,そ れは全体 主義的な国家の成立を食い止め ,そ の成立によって もた らされるおそれのある危険を防 ぐこと がで きるという点である。また ,各 個人の自由な発展への基本的な諸権利を保証するとい うこ とである。逆に短所 としては ,公 共福祉の番人 としての国家の役割を弱体化 させ ,ま た国民の 国家に対す る愛着や自発的な貢献意欲を低下 させ るとい うことである。また世界観 0モ ラルの 相対化の度を強め ,国 民 における方向づけの不安定化を もた らす と共に ,社 会における秩序 と 訓練の欠落を招 き ,外 国か らの圧力に対 して全体 として対応す る力が弱まることである。
多元主義 は ,国 家や教育 に対 して原則的に中立性を要求す ることになる。 しか し中立性 は指 針の欠如 とも受けとられる。教育における方向性の欠落 もそれに起因す るともいえる。子 ども の躾一つとって も親 は多様な見解の渦中で ,結 局 は自分な りに決定 して実行す る以外 にない。
そういう点か ら見て も ,多 元的な社会 は各個人の自己決定の権利が大 きく許容 されてぃるとい えようσ しか しそれに伴 う危険性 も自ら引き受けな くてはな らない。それよりも ,自 己決定す る能力とか ,価 値的な拠 り所 について十分な教育を受 けていないため ,自 己決定 自体が苦痛 と なっているのが現状ではないだろうか。それな らば ,教 育はそれに対応す る役割を もっと積極 的に果たさな くてはな らない。ブレツィンカは ,「 世界観を もたない成熟 した人間は一人 も存 在 しなも (17L言 い切 っている。科学者は世界観的に申立では決 してない。彼 は科学への信念を もち , 自律的な理性や自由主義を最高の価値 と見な しているのである。特定の世界観を押 しつ けることではな く ,個 々の子 どもが自己の世界観を確立できるような教育が求め られていると いえよう。
b。