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The Case of P.Hirstニ

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(1)

英 国におけるアルチ ュセール理論 の一展開

一P.ハー ス トの場合 一

A Developed ForJm of Althusserian Theory in Britain

一

The Case of P.Hirstニ

石 井    潔

Kiyoshi ISHH

(1990年10月 11日 受理

)

Abstract

L. Althusser rigorously distinguishes between a ̀real obiect' WhiCh oxists external to thought and an ̀object of k■ owledge' which i,s the work of theoretical prOduction.

He claims that it is only through the transforFnation of the latter by theoretical practices that we can appropriate the foFFner in our thought.The view that a knowing

̀subject'oould directly 9ompare the real object with the obiect Of knOwledge and decide whether the latter oorresponds to the former is erroneous for hirn because it reduces the productive and obieCtiVe knOwledge process to the psychologlcal one of the subiect.

He calls this vieẁempiricism'and thO knowledge which premise thie subject̀id001ogy', For hirn the idoological knowledge llnust be distinguished frOm thèscientific'knowledge which id produced by thё  procesS without lsubjects and thrOugh which we can appropr―

iate the real obieCt:

But this dichotomy between these two obieCtS impOSes Althllsser a difficult question hOw it is guaranteed that these objects coFreSpOnd each Other if the real object cannot be directly given t,o us. One of the ways to answer this question is to abandon the real isubject to avoid thё  guttantee pFOblem.P.Hirst,one of the Althusser's leading fo1lowers in Britain,takes this way. He argues that reiecting nOt only the knowing SubieCt but also the real object is the coherent consequence of Altusserian theory and there exists only the theoretically constitut‐ od object of knowledge which he calls a

̀theoretical discourse'. ThiS discourse theory is very similar to the theoretical posltion Of Do Hume who abolishё s both subjects and objects independent of our ̀exporience'.

E)ispite its staFting̲point is a fundamental criticisllll of̀empiricisrn',Althusserian theory has dev61oped an 6mpiricist trend in Britain, the rnotherland of emplricisrn。

1.アル チ ュセール の「 経 験論」批 半

U

アルチュセールのテキス トを読むとき、我々は彼の「 経験論 (empirisme)」 とい う用語に ある種の違和感をもつ。それは我々が哲学史的な常識 として知 っている経験論 と彼 の定義す る

(2)

「経験論」 との間に大 きな理論的隔た りがあるように思われるか らである (以下、 括弧 つ きの

「 経験論」 はアルチュセール的な意味でのそれを指す)。 彼の定義 によれば「経験論」 とは、彼 が「実在の対象(1'objet r6el)」 と呼ぶ客観的な実在が直接的に認識「主体 (suiet)」 に対 して 現前 しうると考える認識論的立場である。従 って、「経験論的」認識過程 とは認識「 主体」 が

「実在の対象」の「本質」的部分を正確 に「抽象」.して「実在の対象」 に適合す る認識内容す なわち「認識の対象(1'objet de la conaissance)」 を獲得す る過程 であ るとされ る

(1)。

あ る いは彼が好む比喩を使えば、鏡 に映 った像である「認識の対象」が F実在の対象」 という実物 を正 しく反映 しているか否かを鏡の役割を果たす認識「 主湘 が動 と像を比較することによっ て確認することがで きるとす る立場が「経験論」であると言 って もよい(2)。

アルチュセールはこのよ うな「 経験論」の最大の欠陥が「認識の対象」を「実在の対象」の いわば似姿 とみなす ことによって「認識の対象」を「実在の対象」の単 な る「表現(expressi―

on)」 に還元 したり、認識「主体」が自らの作用 (実践や経験)を媒介 として「 実在 の対象」

をその写 しである「認識の対象」 として所有す ることができると考える点 にあ ると主張す るも 例えば フロジス トン説を信奉す る化学者たちが脱燃素気体 と呼びラヴォアジエが酸素 と呼んだ

ものは、「経験論的」立場か らすれば同一の「実在の対象」 の異 な った「 表現」 にす ぎない。

従 って認識「主体」がその同一の「 実在の対象」の本質的な側面を「抽象」することによって 作 り出 した写 しであるという点で両者 は完全な連続性を もっているとい うことになる。 しか し このような「 経験論」 は我々が酸素 という「認識の対象」を獲得するためには、ひとつの化学 理論

(フ

ロジス トン説 とその燃焼理論)がもうひとつの化学理論

(ラ

ヴォアジエの燃焼理論

)

へ と作 り変え られなければならないという事実を無視 している。燃焼 に関する実験をいくら繰 り返 してもラヴォアジエの化学理論な しには「認識の対象」 としての酸素を我々が手 にするこ とはで きない。新たな理論の「 生産」 と新たな「認識の対象」の獲得 とはまった く同一の過程 である。我々に与え られる「 対象」はすべて、それが脱燃素気体であるにせよ酸素であるにせ よ常 にすでになん らかの理論を前提 とする「認識の対象」 に他な らない(3)。 ̲切の理論抜 き に「実在の対象」が「 プディングの味はそれを食べてみればわかる」 という言葉が示すような 仕方で直接認識「主体」に対 して現前す ることはありえない )。 我々の認識 とは認識「主体」

が「 実在の対象」の写 しを作 ることではな く、新たな理論 とそれに伴 う新たな「 認識 の対象」

が「生産」 されることなのであり、我々が認識 という場面で「認識の対象」 の外部の存在を参 照す ることはいかなる意味で もあ りえない。従 って「認識の対象」 としての酸素が他の「認識 の対象」 と同一の「実在の対象」を「表現」す るというような「経験論的」な主張 は成立ちえ ない し、「認識 の対象」 としての酸素を「実在の対象」 と比較 して前者が後者 の正 しい反映 な い し「 抽象」であるか否かという問いを立てることも本来的に不可能である。アルチュセール は「経験論的」認識論を以上のように批判する。

円と円の観念 は別の ものであり円の観念 は実在の円のように丸 くはないというスピノザの主 張をアルチュセールが高 く評価す るの もそれが「実在 の対象」 としての円と「 認識の対象」 と しての円を明確 に区別することによって彼の言 う「 経験論」の欠陥を正 しく指摘 しているか ら である(5)。 我々が円について何 らかの観念 (例えば中心 と円周の距離 はすべて等 しいとい う 観念)をもつ ということそれ自体が我々が円についての認識をもつ ということなのであ り、実 在の円 と円の観念を比較 して後者が前者 の正確 な写 しであるか否かを確認す るという作業 は認 識 についての誤 ったイメージを生み出す不必要かつ不可能な (円の観念 は丸 くないのであるか

(3)

英国におけるアルチュセール理論 の一展開

ら実在の円と比べることはできない)作業であるとスピノザは言 う(6)。 デヵル トは我々が悪 霊 によって欺かれる可能性 にさ らされていることを根拠 に三角形の内角の和 は二直角であると いう観念 は「実在の対象」 としての三角形の本性を正確に「表現」 していないか もしれないと 疑 うところか ら出発する。 このような懐疑論 は必然的に「実在の対象」 と「認識の対象」の一 致を保証す るものは何か、 またいかなる基準を満たせば両者 は一致す るのかという問いを伴 う。

だか らこそデカル トは「欺かざる神」なる仮定を必要 としたのであった。 これに対 してスピノ ザはデカル ト的懐疑論を拒否 し、夢が夢であることに気づ くためには夢か ら覚めなければな ら ないのと同 じように我々が何かを疑いさらにそれを虚偽であると断定するのはアルチュセール の用語に即 して言えば新たな「認識の対象」が「生産」 されそれと比較 して従来の「認識の対 象」が疑わ しく偽 りに満 ちたものであるとみなされ るようになる場合だけであり (ペガサスし か知 らなか った子供がペガサスの存在を疑 うためには彼が馬の存在を知 ることが不可欠である とい う例をスピノザは挙 げている)、「認識の対象」がその外部の「実在の対象」 と一致 してい るか否かを直接比較対照 して真偽の判断が下 されることはありえないと主張す る。「真理 は真 理自身 と虚偽 との規範である」 という一見 きわめて独断的なスピノザのテーゼの真 の意味 は、

何が真理で何が虚偽であるかはデカル トの「欺かざる神」のような「認識の対象」の外部の存 在を持ち込む ことによってで はな く、絶えず加工 され作 り変え られ る「認識の対象」の内部で

「認識の対象」それ自体を基準 として明 らかにされるべ きであるということなのである(7)。

2.「

経 験論 」批 判 と英

1国

経 験 論

アルチュセールの「経験論」 に対す る批判の論点 はこれまで述べてきたように非常に明確で ある。 しか し論文の冒頭で指摘 したように、彼の言 う「経験論」 と哲学史的な意味での英国経 験論 とりわけバーク リーや ヒュームのそれ との間には大 きな理論的隔‐た りがあるように思われ る。英国経験論者の末裔 として「経験」の重要性を強調す る立場か ら書かれた激烈なアルチュ セール批半Jの書である『 理論の貧困』のなかで トムソンが、 コフコフスキーのアルチュセール 論か ら次のような一節を引用 しなが ら、 アルチュセールの「 経験論」批判 は現実の経験論には まった くあてはまらないと決めつけているのもある意味ではもっともな ことである。

「哲学史 について基本的な知識を もっている読者な ら、 アルチュセールが<経験論

>と

呼んで いるものはアリス トテレスや トマスの抽象に関する理論 とは同一視 され うるか もしれないが、

近代の経験論―ロックよりもさらに少な くとも十四世紀の唯名論者たちにまでさかのぼること のできるそれ―が主張 している│と は彼が言 う<経験論>の内容 とはまさに正反対であるとい

うことにす ぐ気づ くであろう。

(8)」

「 経験論」の特徴 は「 認識の対象」を「実在の対象」の本質の「抽象」ない し写 しであると 考えるところにあるとす るアルチュセールのオ旨摘 は確かにバーク リーや ヒュームの経験論 には 妥当 しないように見える。む しろコワコフスキーの言 うように話 は逆であって、英国経験論 の 理論的核心 は我々の知覚的経験の対象がその外部 に存在す る客観的実在の写 しであるという考 え方を論駁す るところにこそあつたのではないか。例えばバーク リーは次のように言 う。

「観念それ自身 は心の外部 には存在 しないが観念がその写 しない し類似物であるような事物 は 存在 しうるし、 そのような事物は心の外部 に、思考 しない実体の内 に存在す ると諸君 は言 う。

それに対 して私 は観念は観念に似 ることがで きるだけであり、ひとつの色や形 はもうひとつの 色や形 に似 ることがで きるだけであると答えよう。我々がほんの少 しで も自らの思想を覗 き見

(4)

てみれば、観念相互間を除いては類 似 性 を考 え る ことは不 可能 であ ることに気づ くであろ う。

(9)」

バークリーが ここで「観念」 と呼んでいる知覚的経験の対象をアルチュセールの言 う「認識 の対象」 と重ね合わせてみれば、我々に与え られた「対象」が客観的な実在の写 しないし「抽 象」であるとする認識論の拒否 という点では、バーク リーの主張 とアルチュセールの 臨 」 批判 の間には対立 どころか逆 に重要な共通点があるとみなさざるをえない。バァク リーの「存 在す るとは知覚 されることである」 とい う有名 なテーゼは単 なる唯心論的なテーゼとしてでは な く、「実在の対象」の似姿には還元 されえない「認識の対象」独 自の領域 を確立 す る ことを めざすテーゼとして読 まれることができるのである。 トムソン自身 はアルチュセールに対す る バ ランスのとれた評価を最初か ら放棄 しているために無視 しているが、 アルチュセールの「経 験論」批判 は意外 にも少な くともその生面 においてはきわめて経験論的なのである。

直接的な影響関係 はまった くないが英国経験論 を積極的に評価することを通 じてアルチュセー ルの「経験論」批判のもつ経験論的な側面 と基本的には同 じ結論に達 しているという点で、小 川弘氏の仕事は注目に値する。小川氏は客観的実在を直接 に端的に把握す ることが可能であり

この客観的実在 と意識所与 とを比較することによって真理 と虚偽を区別す ることができると考 える認識論的立場を「素朴実在論」 と呼び、 このような素朴実在論 と手を切 ることが正 しい意 味でのマルクス主義認識論を作 り上 げる上での前提条件であると主張す る。 ドアを開けて誰か が ドアの外 にいるかどうかを確かめてみるといった知覚的な認識 において も、予想事実 と実験 事実の比較 によって理論 の真理性を確認す るといった科学的認識の場面 において も我 々に与え られる対象 は常 に意識所与のみであり、客観的実在が直接現前す ることはありえない。英国経 験論が決定的な意義をもつのは前近代的な宗教的意識の残存物にす ぎない客観的な実在の直接 的現前 という二種の信仰を最終的に葬 りさり、対象が我々に現前するのは意識所与 としてのみ であるという事実 (小川氏 はこれを「 反省的意識の事実」 と呼ぶ)、 アルチ ュセール‐的 に言 え ば我々の認識過程 は終始一貫 して「認識の対象」の内部 にあるという事実を確認 した点にある。

小川氏 はこのように言 う。英国経験論 こそマル クス主義的な認識の基盤 となるべ き知覚的経験 の領域をゆるぎなきものとして打ち立てた偉大な思想なのであり、反マルクス主義的な唯心論 的観念論 というしば しば見受 けられる評価 は完全 な誤解 に基 づ くもの で あ る と され るの で あ る(10p。

アルチュセールの「経験論」批判が もつ このような経験論的側面は経験論の強い伝統の下 に ある英国において

P.ハ

ース トをその代表的な人物 とす るアルチュセール理論の経験論的受容 とで も呼ぶ しかない潮流を生み出 した。 もちろんアルチュセール理論が経験論 に還元 されえな いことは自明であり、そのような受容の仕方が一面的なものであることは言 うまで もない。 し か しアルチュセール理論の受容の諸可能性を明 らかにし、その「可能性の中J国 をさぐる上で、

この潮流の分析 は重要な意義を もっている。

3.理

論 と 経 験

英国 におけるアルチュセール理論受容史のなかでハース トもその出版 にかかわった雑誌『 理 論的実践』 は先駆的な役割を果た した。1971年 にアルチュセールの英訳者 として有名なブル‐

スター らを編集委員 として登場 したこの雑誌 は結局短命に終わったが、その名 も示す通 リマル クス・ レーニン主義「理論」の重要性を強調 し「 アルチュセールが成 し遂 げた ことか ら出発す

(5)

英国 におけるアルチュセール理論の一展開 67

る ①」 ことを明確 に宣言 した英国における初めてのアルチュセール派の雑誌であった。1972 年に出たその第二号 に「 アルチュセールと哲学」 と題する論文を書 いてデ ビューしたハース ト

は、

1975年

のヒンデスとの共著『 前資本主義的生産様式』に至 るまでアルチュセールの影響 のきわめて強いい くつかの著書、論文を発表 したC12p。

1976年

以降の理論的展開のなかで彼 は アルチュセ‐ル理論の基本的なテーゼを否定す ることになるが、そのようないわば「決別」後 も「 アルチュセールが出発 したその精神のなかで仕事をすることをめざ している」 と述べてお

りC13D、 その主張に賛成す るか否かはともか くとして彼をアルチュセール理論 の受容 を通 じて

自分 自身の思想を作 り上 げた英国における第一人者 とす ることには問題 はないであろ う① 。 しか しハース トのアルチュセール理論受容を経験論的 と呼ぶ ことにはかな り無理があるよう に見える。 さきに触れた『理論の貧困』で トムソンは逆にアルチュセール理論の本質である具 体的な経験の軽視 と理論偏重主義が極限にまで押 し進め られた典型 としてハース トらの『前資 本主義的生産様式』をあげ、マルクス主義「理論」 と歴史的経験 は無関係だと断定する彼 らの 次のような主張を怒 りを込めて引用 している。すなわち「歴史 はその対象の本性か らして経験 論的であるという非難を受 ける」 に値するものであ り、「歴史的実践 とい う経験論者 たちの主 張 にもかかわ らず、歴史 という実在の対象 は認識 に接近することはできない。」従 って

t「

理 論的および政治的実践 としてのマルクス主義 は、歴史的記述や歴史的探求 と結 びつ くことか ら

は何 も得 ることはない。歴史 の研究 は科学的にだけでな く政治的にも無価値であるり。」

確か にハース トは、 この著書のなかで理論をまった く前提 としない純粋な歴史的「経験」や

「 事実」が存在す ることを否定 し、 そのよ うな所与 の「経験」 や「 事実」 か らマル クス主義

「理論」を導出す ることがで きるとす る考え方 に明確 に反対 している。例えば「 封建 的生産様 式 とい う概念 は歴史的に<与え られた>ある特殊な封建的社会か らの一般化 によって作 り出さ れた ものではな く」「理論的な仕事 によって作 り出されたものであり」「 その理論的地位 と妥当 性 は生産様式の一般的定義を特殊化する諸概念の領域の内部でのみ決定 され うる」 と彼 は主張 す る① 。「 理論」 は「理論」か らのみ生み―出され るのであって「理論」の外部の「経験」 を参 照することは「無価値である。」 このような発言が英国経験論の守護者た らん とす る トムソン の逆鱗 に触れたのは当然である。 しか もハース トは 1977年 の『 生産様式 と社会構成体』 で、

この著書が合理主義的な偏向に陥 っていた点を自己批判 した後 も、「 理論」 を前提 と しない所 与 の「経験」は存在 しないという論点 に関 しては トムソンに対 して少 しも譲歩 していない 。つ。

「 認識の対象」が「実在の対象」の写 しであることを拒否するとい う経験論的側面を もちな が らもアルチュセール理論が決 して経験論 に還元 されえない最大の理由は、 この両者の対立が 指 し示 しているようにアルチュセァルが「理論」をまった く前提 としない所与の「経験」なる ものの存在を認めないということである。ハース トはあまりにも極端であるとはいえ この点で はアルチュセールに忠実であると言 ってよい。 アルチュセールの立場か らすれば、幾何学やラ ヴォアジエの化学理論が「経験」 に基づいているかいないかといった問いは成立 しない。「 理 論」を前提 としない「経験」 は存在 しないのであるか ら、「理論」 と「経験」 を比較 して前者 は後者 に基づいているとか、前者 は後者を正 しく「表現」ない し「反映」 しているとかいう言 い方 は意味をなさない。 例 えば 1840年代 のマル クスの著作

(『

ドイツ・ イデオ ロギー』 や

『共産党宣言』)は具体的な歴史的「経験」 と結びついていたが 1850年 代

.以

降の『 要綱』 や

『資本論』は「 ポリティカル・ エコノミーJの問題設定に引きずられて「経験」 と切 り離 され た抽象的な経済法則の「理論」に堕 してしまったという トムソンのマルクス評価 )は、「理

(6)

論」が「経験」 に基づいているか否かを基準 として「理論」を評価 しようとする試みの典型で ある。 しか し、 このようなや り方 は「理論」 という「認識の対象」が「経験」 という「実在の 対象」の正 しい写 しであるのか否かを問 うことと結局 は同 じであり、これはまさにアルチュセー ルの言 う「経験論」にぴったリー致する。

バークリーは等辺で も不等辺で も直角でもない「経験的には」存在 しえない三角形の抽象観 念を形成することができるという考え方を否定 し、我々が三角形 について何 ごとかを論証で き るのは常 に「経験的に」与え られた特殊な三角形 に関 してのみで あると主張す る。の。 スピノ ザ的な丸 くない円の観念なるものはバーク リーか ら見れば「経験」 に基づかない抽象「理論」

にす ぎない。「経験」 に基づかない「理論」を拒否す る トムソンはバーク リー以来 の英国経験 論の伝統を正 しく継承 しているのである。 アルチュセールが英国経験論 もまた知覚的経験の対 象 とい う「実在の対象」の写 しが「認識の対象」であると考える点では「経験論的」問題設定 の枠内に留まっていると判断 したのは決 して単なる誤解ではなか った。 アルチュセールは「 理 論」を前提 としない所与の「 経験」が存在す るという英国経験論の主張をそれが「経験論的」

であるが故に退 ける。ハース トが この点でアルチュセールに忠実であるとすれ│よ 彼のアルチュ セール理論受容を経験論的 と呼ぶ余地 はないのではないか。

4.ハ

ー ス トの エ ビステ モ ロジー批 半

1

ハース トとアルチニセールの最大のそして決定的な違いは、ハース トが新たな「認識の畑 の生産 による「 実在の対象」の「領有(appropriation=Aneigung)」 というアルチュセールの 基本的なテーゼを否定す るところにあるの。アルチュセール自身は「認識の対象」 が「実在 の対象」の似姿であるという主張 は認めないが「認識 の対象」 の外部 にそれ とは区別 された F実在の対象」が存在 し新たな「認識の対象」の生産を媒介 として「実在 の対象」 が よ り深 く 認識 されるという立場を捨てたことは一度 もない。またこのような立場 に立たない限 り、新た な「認識の対象」の生産 によつて「実在の対象」 に接近する「理論的実践」である「科学」 と

「主体」 としての諸個人 と現実 との間の「想像的な(ima.ginaire)」 関係の「表象(representati―

on)」 を もた らすのみで「 実在の対象」 についての認識を与えない「 理論的実践」 であ る「 イ デオロギー」 との峻別 というアルチュセール理論の最 も根本的な枠組 みの を維持す ることは できない。 しか し、「実在の対象」の「 写 し」 と「領有」 とがどう違 うのかを説得的 に論証 す ることが困難な課題であるのは確かである。従 って「認識の対象」の外部 に「実在の対象」が 存在 しその両者の関係 について語 ることができるとする問題設定そのものを「 エピステモロジー」

と呼んで拒否するハース トのような主張が出てきて も不思議ではない。

『生産様式 と社会構成体』以降ハース トはアルチュセールが「認識の対象」 と名付 けたもの をそれが「理論」 によって構成 されているという意味で「 理論的言説(theOretical discoursめ」 ない し単に「言説」 と呼ぶようになる②。まだ用語自体は確定 していなか った ものの『前資 本主義的生産様式』の段階ですでにその結論 においてハース トはマルクス主義的な「言説」 の 対象を「言説」の外部 に存在 し「 言説」 によって指 し示 される「実在の対象」であると考える のは誤 りであり逆 に具体的な政治的実践の対象であ る「 現局面(current situation)」 はその ような実践 と緊密 に結 びついた「 理論」が構成す る「言説」を通 じてはじめて新たに作 り出さ れるものでありまた絶えず作 り変え られるものであると主張 している。 レーニ ンの『 ロシアに おける資本主義の発展』の対象 は決 して19世紀後半 のロシアについての■連 の観察可能 な事

(7)

英国におけるアルチュセール理論の一展開

実ではな く、 ナロー ドニキの政治路線 との対決 という彼の政治的実践 と結びついた理論的問題 (前資本主義的生産形態の存在条件を資本主義的機構が破壊するのは何故なのか等)によ らて 構成 された│「言説」がその対象すなわち「 現局面」を形作 っている。 レーニンのいかなる統計 を もって して も自分が問いかけている問題は解決 されないという言葉の意味はそこにある。 こ のようにハース トは言 う④。「 実在 の対象」の「領有」 という問題 はここではほとんど姿 を消 しているように見える。 しか し「『 前資本主義的生産様式』 の自己批判」 とい う副題 を もつ

『生産様式 と社会構成体』のなかでハース トは『前資本主義的生産様式』特 にその序論 は「 エ ピステモロジー」 との決別が不十分であったために『資本論を読む』のアルチュセールやバ リ バールがもっていた合理主義的偏向か ら完全に抜け出ることはできなかった と総括 している。

では「 エピステモロジー」 とは何か。 また彼 はそれをどのように克服 しようとするのであろう か。

ハース トは「言説」か ら独立の「対象」が存在 し、ある特権的な「言説」がその「対象」を 指 し示す手段を提供す ることができるとする考え方を「 エ ピステモロジー」 と呼ぶ。例 えば

「経験主義的エ ピステモロジー」 は人間「主体」の経験 に対 して与え られ るものに特権的な地 位を認 め、 また「合理主義的エピステモロジー」 は実在の合理主義的秩序を反映する概念に特 権的な地位を認めるの。ハース トによれば『 資本論を読む』 は、「 科学的問題設定」 によって 導かれた「主体なき過程」 という理論的実践 に独断的に特権的な地位を認めているという点で、

典型的な「 合理主義

.的

エ ピステモロジー」の立場をとっているC25p。『資本論を読む』が『 資本 論』を中心 とするマルクス主義理論の基本概念 と両立 しないという理由で理論的 ヒューマニズ ムやヘーゲル主義的歴史観を退けたり、生産様式の一般理論が可能であり特殊な諸生産様式 と それ らの生産様式の組合せである社会構成体 の諸形態はそのような一般理論から導出す ること がで きると考えるのも、それが「科学」的な理論的実践 によって「言説」の対象を領有するこ とができるという前提、換言すれば理論が実在を反映 しているという合理主義的な前提か ら出 発 しているか らなのだと彼 は言 うのであるC26p。 そ して さ らに彼 は『 前資本主義的生産様式』

は理論が言説の対象を指 し示す ものではな く常 に「現局面」 とかかわることにようてのみ意‐ 味 を もつ ことを明 らかにしまた生産様式の一般理論 という構想を拒否 した点では『資本論を読む』

と一線を画す るものではあったが、なお特殊な生産様式の概念の分析 によって基本的な諸概念 の再定式化が可能であると考えていた点で『資本論を読む』の「合理主義的エピステモロジー」

か ら十分脱却 していなかったとかつての自らの立場を自己批判す るC27p。 先 に引用 した『前資 本主義的生産様式』 の序論 に見 られたような極端な理論主義 はこうして撤回されることになる。

しか し前 にも述べたようにだか らといってハース トが理論を前提 としなぃ純粋な経験のもつ 意義をそのまま再評価するわけではない。ハース トと同 じく生産様式の一般理論 という発想を 自己批判す るに至 ったバ リバールが経済 と他の諸審級の関係 は階級闘争 によって規定 された具 体的な社会構成体のなかで しか把握 されえないと主張 したのに対 して、ハース トはそのような 自己批判 は経済 という審級を実体化 したままで理論化できない他 の経済外的な諸審級を経験の 領域 に委ねる経験主義にすぎないという批判を加えているの。 また もともとアルチ ュセール 自体が理論 によって領有することのできない経済外的な要因を対象化す るために理論的な位置 づけの曖昧な人

1間

「主体」の経験 とい う領域を必要 としていた とも指摘 してい るの 。つま り 経済的審級 は「理論」 によって把握 し経済外的審級 は「 経験」によって把握するというやり方 は│「合理主義的エ ピステモロジー」を「経験主義的エビステモロジー」で補 っただけであ り、

(8)

真 の意味で合理主義的偏向か ら抜 け出すためには理論や経験 によって把握 され うる「言説」外 的な対象が存在するというエピステモロジーそのものを拒否 しなければな らないとハース トは 主張す るのである。彼 にとってエピステモロジーの拒否 とは具体的 には経済的審級が他の諸審 級 とは異な った客観的実在性を もつ ことを前提 とする「生産様式」 という概念を放棄 し生産諸 関係 とその存在諸条件 の結合体である「社会構成体」をそれに代わる分析の対象 とすることを 意味する。

5.「

現 局 面 」 の経 験論

「社会構成体」 は「生産様式」 とは異なって、経済 とい う特権的な審級 によつて全体的な構 造を決定 された統一体ではない。従 って一方に「経済 による最終審級における決定」 を置 き、

もう一方 に経験的偶然性の領域を認めるといったアルチュセール的な二元論 とは無縁であ る。

そ こでの中心的な問題 は、特定の「 行為者(agent)」 が生産手段を所有 し、 それ以外 の行為者 が生産手段か ら分離 されるような生産諸関係 とその存在諸条件すなわち法、政治、生産力煉 技術的分業などとの関係である。生産諸関係 は常 にこれ らの具体的な存在諸条件 との関連にお いて分析 されるべ きであり、生産過程 における直接的生産者 とその搾取者 という経済的審級の 特権的な地位を前提 とした図式のみに基づ く生産関係 の把握 は無効である。ハース トはこのよ うに主張する ①。確かに理論によって認識す ることがで きる客観 的実在 としての経済がすべ てを決定す るという「経済主義」ない し「本質主義」 はこれによって否定 される。 しか しでは 彼 自身の社会構成体 の理論 とその理論 によって構成された言説 はどのような意味で正 しいと言 えるのであろうか。例えば社会を認識す る上で生産関係 に注目す ることが何故 に重要 なのか。

理論が客観的実在を指 し示す ものであることを否定 した以上、 どんな理論で もかまわないとい うことにな らざるをえないのではないか。

ハース トは経済が特権的な地位をもたない以上、経済の審級 における資本主義か ら社会主義 への転換のみを「革命」 と呼びその他の審級での変革を非本質的な単なる「改良」 にすぎない ものと見なす ことは誤 りであるであると主張す る。そ して議会での多数派形成や労働者の経営 参加を通 じて生産手段 に対する左翼の側の実質的な管理能力を高めてい くことを社会主義戦略 の中心 に据え、そのような闘争か ら切 り離 された経済構造の根本的変革 としての「革命」は存 在 しえないという立場 を とる

(31)。

彼の社会構成体の理論が このような政治的立場の反映であ ることは明 らかである。彼 は自らの言説が社会主義者 としての彼の政治的実践を反映 している というこの事実を積極的 に肯定す る。政治的実践 と無関係 に客観的実在を反映する理論が存在 しそれが個々の具体的な政治状況 に対 して適用 されると考えるの は現実的な政治に携わること のない無力 な左翼だけである。我々の理論 とそれに基づ く言説 は政治

1的

実践 と結びつ くことに よってその対象である「現局面」を作 り出すのであって、「 現局面」 の外部 か らそれ に対 して 適用 されるのではない。『前資本主義的生産様式』の結論 において提起 された理論 と実践 の統 一の場 としての「現局面」 という観点がここでは基本的 に踏襲 されている6ハース トか らすれ ば彼の社会構成体の理論を政治的実践の「現局面」か ら切 り離 して、その理論自体 としての正 しさはどのように して証明され るのかと問 うことはまった く無意味である。「現局面」 の様 々 な諸課題 に応え うる理論であるのかそれとも自らの内に閉 じ込 もる無力な一般理論 にすぎない のか。彼にとってはそれだけが唯一の問題なのである②。

このようなハース トによる「現局面」の重視 は基本

1的

には英国経験論 と一致する。確かに理

(9)

英国におけるアルチュセール理論の一展開

       71

論を前提 としない所与 の経験が存在す るか否か とい う論点をめ ぐって両者の間には越えがたい 溝があるように見える。 しか し英国経験論が経験 に基づかない理論を拒否するのは、バークリー の三角形 の抽象観念 に対す る批判が示 しているように客観的実在を直接把握す ることので きる 理論が存在 し我々の知覚的経験 はその理論 によって把握 される実在の写 しにす ぎないとい う考 え方を否定す るためなのであらて、決 して理論一般の否定を意図 しているわけではない。 トム ソンの理論偏重主義 に対す る嫌悪 もあ くまでそのような意味での理論を念頭 においた ものであ り、時代 と場所を越えた均一な経験 と理論一般を対置 し前者を基準 として後者を批判 しようと したものではない。実在の対象を把握 しうる一般理論が存在するというアルチュセールの主張 を合理主義的エピステモロジーに

1陥

っていると批判 し、絶えず現局面 に立 ち帰 りそ こか ら出発 すべ きであると説 く限 りにおいてハース トと英国経験論 は多 くの共通点を もっている。それが 最 もよく表れているのが「現局面」か ら切 り離 された一般理論 に対す る徹底的な否定的態度で ある。彼 は生産様式の一般理論を否定す るだけでな く、商品生産社会の社会関係か ら法の一般 理論を導出 しようとす るパ シュカーニス ③、 自然 とは区別 された もの としての文化 の一般理 論を作 り上 げようとす る文化人類学を初めとす る様々な試みか ら監視や刑罰 に関す る一般理論 まで ともか くあらゆる一般理論を「現局面」 の もつ複雑 さと具体性 に照 らして否定す る② 。 これはまさに経験 に基づかない抽象理論を否定する経験論のや り方 とまった く同 じである。生 産様式の一般理論を否定する点で、ハース トも トムソンも共に概念的思考一般を退 ける「 具体 性の形而上学」 の立場を共有 しているというキ ャリニコスの指摘 は、その評価を別 にすれば完 全 に正 しい ⑮。

いわば「現局面の経験論」 とで も呼ぶ しかない以上のようなハース トの立場は、アルチュセー ル理論の二つの側面 の内の一つを極限にまで拡大 したものだと言える。 これまで述べてきたよ うにアルチュセールの「経験論」批判 に代表される側面すなわち認識の対象が実在 の対象の写 しであることを否定 し前者の後者 に対す る独 自性を強調 しよ うとす る側面 を拡大 して行 けば

「実在の対象」抜 きの「認識 の対象」である「現局面」が重視 されることにな るの は当然であ る。 レーニ ンの「現局面」 という概念を高 く評価 したのはもともとアルチュセール自身なので あるか ら、 このような側面を継承 したハース トがその精神 においてアルチュャールに忠実であ ると自称す るの

1ま

不当なことではない。 しか しアルチュセール理論 の経験論的側面 のみを継承 すれば必然的にもう一つの科学 とイデオロギーの峻別 という側面 は無視 されざるをえない。 こ の点でもハース トはきわめて徹底 している。

アルチュセールのイデオロギー論のうちでハース トが評価す るのはイデオロギーの物質性 と いう主張のみである。 イデオロギーがイデオロギー装置 という物質的な基盤を もつ独立 した存 在であり、「物質」的な土台である経済の単なる「 観念」的な表象 には還元 されえないことを 明かに したのがアルチュセールの主要 な功績であるとハース トは言 うC36D。 経済 のみ に客観的 実在性を認める経済主義を批判の対象 とす るハース トは、確かにこの点ではアルチュセールと 完全に一致 しているのである。

しか しハース トか ら見ればその他 の点ではアルチュセールはいわばエビステモロジーに汚染 されている。 アルチ三セニルは常 に「主体なき過程」である科学が「 実在の対象」を領有す る とい う合理主義的エピステモロジーを前提 しているために科学 と対置 されるイデオロギーは逆 に「主体」を不可欠の構成的カテゴリーとする諸個人 と現実 との想像的な関係の表象 として定 義 されざるをえない。 アルチュセールは諸個人が もともと「主体」 として生まれるのではな く、

(10)

イデオロギー装置のなかの「呼びかけ(interpellation)」 のメカニズムによって「主体」 とし て構成 されると主張する点で単純な理論的 ヒューマニズムのように無批判に人間が「主体」で あることを前提 としているわけではない。 しか しなぜ「主体」やそれと表裏一体の関係にある

「 想像的」 といったカテゴリーが特権的な地位を占め うるのかをアルチュセール は説 明 しえて いない。統一的な実体 としての「主体」なるカテゴリーは彼 自身の挙げている実例に見 られる よ うにキ リス ト教的な人格概念を色濃 く反映 していることは明白であ り、また例えば1附為者」

と しての株式会社を「主体」 として扱 うのは不可能である。結局の ところ「諸個人は常にすで に主体である」であるという命題が示 しているように彼 もまた諸個人が主体であることを独断 的に断言 しているにす ぎないC37p。 実在の認識を与える「主体なき過程」 と実在 の表象 しか与 えない「主体を伴 った過程」 というニピステモロジーを下敷 とした二元論以外に「主体」の特 権性を支えるものはない。 アルチュセールがイデオロギー装置を経済的な諸関係の再生産 とい う観点か らしか見ないのも、依然 として彼が客観的実在 としての経済 とその表象 としてのイデ オロギーという図式か ら脱却 しえていないか らなのだ ①。 このようにハース トはアルチュセー ルのイデオロギー論のうちで彼の「現局面」の経験論 に還元 しえない科学 とイデオロギーの峻 別 に関す る一般理論の側面を徹底的に否認するのである。

もちろんハース ト的な F現局面」 の経験論 に対 しては英国内で も厳 しい批判が寄せ られた。

それ らの多 くは理論的には実在論、政治的には階級闘争の立場に立 って、ハース トが理論的に は主観主義 ない し相対主義、 政治 的 には改良主義 に陥 ってい ることを批判 す るものであ っ た0。 またこれ らの批半1者はハース トとは逆 にアルチュセール理論 の受容 され るべ き側面 は 科学 とイデオロギーの峻別 に代表 される実在論的あるいは科学主義的な側面 であ って経験論的 な側面ではないと主張する場合がほとんどである。 アルチュセールの「可能性の中心」はいっ たいどち らの側面 にあるのか、あるいは矛盾す る両者を合わせ もっていた点 にこそ彼の偉大 さ があるのか。回答 は容易ではない。 しか し少な くとも彼の理論がいかなる可能性をは らんでい るのかを理解することは、そこか ら何かを学んでい く上での出発点 にはなるはずである。

<注

>

(1)L。

製

thuSSer/E.Balibar,Lj″

ι ο

 G∽jι

α′(LCと 略記

),MasperO,1968,nouvelle 6di―

tion,pp.38‑45。 (権

他訳『資本論を読む』合同出版、

1974年

、

42‑50頁

)

(2)LC,  pp.61‑4。 (65‑8頁

)

(3)LC,  pp.5‑22.(2121‐ 219藤

1)

(4)LC,  pp.67‐ 73.(72‑7要

1)

(5)LC,  p.46。 (51漂

1)

{6)BoSpinOza, 2レ αcιαι

zぉ

ごθ」

%ι

οJ′θcι sEれθttιjο力θ, in Spinoza Opera,hrsg.von C.G―

obhardt,Carl Winter,1924,pp.14¨

5(畠

中訳『 知性改善論』岩波書店、1968年 、30‑32 頁

)

この点 について は以前 に別 の場所 で論 じた ことが ある。

石井潔「 反懐疑論 の戦略」静岡大学教育学部研究報告 (人文・ 社会科学篇)第36号、1985

年参照。

EoP.Thompson,動

θ Poυ θrι

y o/7Lθ

οッ

&Oι

ttr■sり3(PTと 略 記

),Monthly

Review 1978, p.193.

(3)

(11)

英国におけるアルチュセール理論の一展開       73

(91 G.Berkeley,劉 物2めπゎ′θ

3o/働

し

mal■

ttο″ιθttF,in The Works of George Berkeley Bishop of Cloyne vol.2,ed.by ToE.Jessop,Nё

lson,1979,p.44(大

槻訳『 人知原理 論』岩波書店、1958年、

48‐

9頁

)

00 小川弘『 近代哲学の原点』弘文堂、1971年。 QD Thoretic(■ Practice l, 1971, Editorial, p。

1.

Ca 代表的な ものは、

PoHirst,EしrЙttοれ,Bο

7物

αだ

̀凛

d Epjsιθ ο′ogy,RKP,1975。

α9 PoHirst,腕脇js移 のα∬おιοだ ι И

ttι

j′T (MHWと 略記),RKP,1985,p.134.

αl ハース トの理論的軌跡のきわめて批判的な紹介としては以下のものがある。

GoElliot,2κ

 Oの

SSの 0/λ ι

 ttrs,ι

, in New Left Review 159,1986,Sep./Oct。

051 PT,p.2.

なお トムソンのこの本の出版を契機 とする 「理論Jと「経験」をめ ぐる英国 における論 争 については、市橋秀夫「E,P。 トムソンー経験の政治学」『 クリティーク』

7、

1987 年、参照。

また トムソンのアルチュセール批判に対する比較的バ ランスのとれた批評 としては、

P.Anderson,ス疑μれθ%s″jιんれ 働零ι

jsん

九免′χjs磁,Verso,1980,chap.1‑4:がある。

10 B.Hindess/PoQ.Hirst,Pra■

η

jι

αι

jSt Mοtts o/Proα

ι jOん

(PCMPと

略記

),RKP,

1975, p.2.

L/1HW, p.88.

PT, pp.59‐63.

Berke16y,op.cit。,pp.32‑5。 (27‑31頁

)

LC,p.65(69頁

)

L.Althusser,IcJι ο′なた θι qpα

jJs jご

εο′Ogj9 θα

'2ι

αι,1970,dans Position,ЁditiOns sociales,1976,p.114。 (西川 訳『 国家 とイ デ オ ロギ ー』福 村 出版 、 1975年、58頁

)

B.Hindess/P.Hirst,Mο 滋 o/PrOα ιjοん の朝 SocれJ Fo綱%ι

jOん

(MPSFと略 記),

l171

1181

1191

鋤

.0⇒

12

A/1aclnillan, 1977, p.7.

2う  PCMP,pp.322‑3.

│I MPSF, pp.10‑11:     10 MPSF, p.12.

00 14PSF,p.31.        0つ

 MPSF,p.46.

00 MPSF, pp.34‑5.     10 MPSF,pp.28‑30。

00 MPSF,pp.24‐

6,46‐57,63‑72,

ハース トがかつての『理論的実践』 グループの同僚たちと共にこれ らの点についてさらに 詳細 に展開 したものが、

A.Cutler/BoHindess/P.Hirst/AoHussain,ル し協's aωjιαι

̀胸ダCapjια′おれ

2vols,RKP,1977(岡

崎他訳『 資本論 と現代資本主義I・ 耳』 法政大学 出版局、

̀b鉤

1986‐8

年)である。

0⇒

 ハース トの具体的な政治戦略については、前掲書および MHS,chap、

7‑8。

の他 に、

P.Q.Hirsti Lα″

,Socれ

騰れ の Dttοc脇り (LSDと略記)、 Allen&Unwin,1986参

照。

00 14PSF, pp.58‐ 62.

(12)

00 cf.PoHirst,0ル

Iた

況″

̀滉

α此たοιogy(LIと 略野言己

),Macmillan,1979:pp.96‑176, LSD,

chap.2.

00 cl.P.Hirstノ/PoWOolley,Sοσjαι Rθα′αιjοns αんα月しれαん スιι

rjわ

しι, Tavistock, 1982 00 A.CallinicOs,Is卿物″ α

 FzJι

した

/0′

ルfαttjsれ ?,MaCmillan,1982,pp.190‑1.

00 LI,pp。

13¨

4,27‑9.

0つ

 LI,pp.57‑68.

00 LI,pp。 43‑57.

09 cfo T.Benton,ηtt RおθαんαJし′ιo/Sι ttιし

,ヮ

ι製し

,り

jsれ,MaCmillan,1984,chap.8./

CallinicOs, op.cit。 , Elliot, opocit。

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