漁 業 に お け る産 業 合 理 化 運 動―I
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昭和恐 慌期 における共同 ・日東漁業株式会社の 技術的合理化 を中心 にして―
吉 木 武 一
Movement for Industrial Rationalization of Fisheries—I In Particular, Technical Rationalization by Kyodo and Nitto Gyogyo Company Ltd., for the Showa Panic Period
Takeichi Y0SHIKI
は じ め に
日本漁 業 は大正 時 代 に資 本制 生産 の緒 につ いた とされ る。 む ろ ん都 市 資本 や 地 方産 業 資本 に把 え られて い た トロー ル,捕 鯨 な どの 移 植 漁 業 は 明治 後 期 か ら先 行 的 に資 本 制生 産 様 式 を展 開 させ て い た が,漁 業 とい う在 来 産 業 の分 野 に全 国的 規 模 で 資 本籏 生 を み たの は第1 次 大 戦 期 で あっ た 。
それ は第1に,こ の時 期 の 漁 船動 力化(い わ ゆ る第 1次 動 力化)が 漁 業生 産 力展 開 の 新機 軸 と な る こと に よっ て,沿 岸 か ら沖 合 ・遠 洋 へ と漁場 の資 本 主義 的 利 用 ・拡 大へ の展望 を き り拓 き,第2に,こ う した漁 場 の 外延 的拡 大 を助 長 す る よ うな技術 進 歩 や政 策 的 プ ッ シュ(「 遠 洋 漁 業 奨励 法 」,「 重 油 免税 措 置 」 な ど) が あ り,そ して第3に 在来 産 業 分 野 で さ え広 汎 な資本 形 成 を促 進 せ しめず には お か な かっ た第1次 大 戦 を契 機 とす る社 会 的分 業 の発 展 と統 一 的 国 内 市場 の成 立 ・ 深 化 に負っ て い る。
しか し,こ の よ うな 「好 条件 の組 合 せ 」 によ る初 発 の資 本籏 生 を もっ て直 ち に大 正期 を漁 業 にお ける産業 資本 確 立期 とす る こ とはで き ない 。 そ れ は,わ が国 が かつ て経験 した こ とも な い経 済膨 張 期 に生 成 した漁 業 の小 資 本群 が,大 戦 後 恐 慌 か ら昭和 恐 慌 に いた る不況 深化 の時代 に産 業 資本 と して の 生 産 力基 礎 を固 め,低
迷 ・収 縮 す る国 民 購 売 力 に依 拠 しつ つ ナ シ ョナ ル な市 場 を基 盤 と し うる食 糧 産 業 の担 い手 と して成 長 し うる か否 か に かかっ て い た。
その意 味 で 明治 末 か ら わが国 漁 業 の資 本 展 開 を リー ドし,企 業 採算 的 に もっ とも有 望 視 され て い た初 期 ト ロー ル の大 戦期 に お け る終 焉 は,当 期 の漁 業 資 本 の 産 業 的 末成 熟 を暗 示 す る象徴 的 な ア ク シデ ン トで あっ た とい えよ う。 事 実,大 戦後 恐 慌 後,発 展 頭 打 ち に なっ た漁 業小 資 本群 を制 圧 して 昭和 恐 慌 →準 戦 時 期 に は漁 業 独 占の確 立 をみ て い る1)
で は,大 正期 に籏 生 した漁 業小 資 本群 は,そ の後 の 景 気後 退 過 程 で 成立 した 「二 重 構 造 」 の 下 で もっ ぱ ら 被 支 配部 門 に再 編 され,漁 業 にお け る 「中小 企 業 問題 」 の発 生基 盤 をつ く るこ と に な るの で あ ろ うか。
本 稿 で は,ま ずi)独 占部 門 を除 く沖 合遠 洋 部 門 で 産 業 資本 と して 成熟 を み た業種 は な かっ た か,あ っ た とす れ ば,ii)そ れ は恐 慌 へ の対 応 策 と して も,資 本 制生 産 の基 礎 を固 め 国民 的 食 料産 業 と して再 生 す る必 要 か ら も,内 発 的 な産 業 合理 化 運 動 の 展 開 を不 可 欠 と
した はず だ し,合 理 化 運 動 が 必然 化 す れ ば,iii)ど の よ うな運 動 の成 果 に も とず い て,そ れ が成 長 の条 件 に 転 化 した の か,と い う戦 前 期漁 業 資 本 主 義化 の研 究 で は と うて い避 け え ない 問題提 起 を行 な い,そ れ を戦 前 期漁 業 の なかで 先 駆 的 な産 業 的 成長 を遂 げ た以 西底 曳 漁業 にお い て検 証 す る こ とを 目的 と して い る。
吉木:漁業における産業合理化運動一1 この課題設定から明らかなように筆者は,以西底曳
漁業では産業合理化運動と呼ぶにふさわしい内発的な 運動が昭和恐慌を前後して展開され,それがこの業種 の産業的確立に大きく寄与していると考えている。
1.漁業資本主義化と産業合理化との関連 以上のごとき課題設定は,昭和恐慌期に漁業にかぎ
らず中小企業の支配的分野で内発的な産業合理化が進 行したか,二重構造の形成期に合理化を推進する主体 的条件が成熟していたか,かりにそれらしき運動が展 開されたにせよ「世界大恐慌」という超ド級の風圧に 耐えて産業的成長を達成しうるような成果をあげえた か,といった設問に答えられないかぎり,その意義を 喪失してしまう。つまり,戦前期,漁業の資本主義化 過程における産業合理化の意義が十分,明らかにされ ないかぎりこのテーマは前提においてすでに誤りを犯 していることになる。
そこで,まずこの時期,つまり資本主義の一般的危 機が深化する時代にわが国で展開された産業合理化に づいて,合理化の狙いと成果,運動の性格とその主導 階層,合理化運動の評価などへ向けられた,これまで の代表的見解を若干,整理し批判的に検討してみよう。
金解禁断行の直後にあらわれた「官製合理化運動」
への先駆的な論評として野呂栄太郎の.「現段階の諸矛 盾の集中的表現としぞの資本家的合理化」 (『日本資 本主義発達史』岩波書店昭和29年)をあげることがで
きる。
野呂は商工審議会第1特別委員会の「産業合理化に 関する答申案」が出された時点で,金解禁後の重要政 策の一つとして打出された「産業合理化は生産費低下 と生産制限とを同時に解決するものでなければならぬ。
然るに生産費低下と生産制限とは技術的にも経済的に も氷炭相容れぬ全く両立を許さぬ要求である」 (同書 285頁)とし,この答申案が「この際最も平平を要す るものと認む」るものが,そこに盛られている「企業 合同の促進」 「企業連合その他同業者 協定の勤学」,
「各企業の能率の増進」などであって, 「実にかかる 手段によって叙上の矛盾を解決せんとするものに外な
らぬ,滋に日本資本主義當面の問題としての産業合理 化の特質がある」 (同書285頁)と,政策的プッシュ 以前に「官製合理化」の性格を見抜いている。そして 金解禁によって「さなきだに萎縮しつつある国内市場 が更に委縮しっっある時に資本家的合理化による増産」
は不可能であるとし,合理化による能率の増進も「そ れ以上の生産制限と結びつかねばならぬ」から「生産
費を低下せんとするは殆んど不可能に近い。いわゆる 合理化によって,これを遂行せんとする時,その労働 力搾取の強化は推して知るべきものがある。合理化に よって労働の緊張度が極度に増加するのみならず,賃 金は更に低落し労働時間さえ却って延長せられるであ ろう」 (同書290頁)と産業合理化が設備投資を伴な わない労働力支配強化に帰着せざるをえないことを予 見している。
野呂が「官製合理化」へ向けて鋭く論及していた頃,
ニューヨークで世界大恐慌の幕が切って落されようと していたのであり,その予見はその直後の世界史的条 件の激変を考慮しても正鵠を得たものであったといえ
よう。その後,台理化の実態をつぶさに観察する機会をえ たはずである山田盛太郎も『日本資本主義分析』(昭和9 年岩波書店)で「日本型合理化の進行とその破局的作用」
に言及し,野呂の見解を追認しているし,山川均の
『産業合理化批判』も,その論理の延長線上で展開さ れているとみなしてよい。
戦後は,こうした諸先学の論点を発展させつつ,産 業史研究の一定の成果をふまえて産業合理化への評価
も多様性を帯びてくる。
たとえば今井則義が『産業発達史講座1』 (岩波書 店,昭和34年)で示した見解は,昭和恐慌期に主要産 業の原価切下げがかなり達成されていること(金解禁 直前〜再禁止の期間に,たとえば紡績,製糸業40〜50
%台,子安,セメント20%台の原価切下げ,同時期の 製鉄業や石炭業に際立っている1人当り生産高,出炭 高の増大=労働生産性の向上など)に着目し, 「たし かにこの時期の合理化の形態が老朽工:場の整理,配置 転換,人員整理,賃下げ,労働時間の延長等に見られ たことは疑いえない」と,野呂,山田らの先駆的見解 を支持しつつも,「しかし同時に,この期間の合理化 が一方では設備投資に基づく技術的合理化として進め られている事情を過小評価することも適当でない」
(同書218〜219頁)と新たなる見解を披即している。
たしかに恐慌後に実現された重化学工業の躍進=資 本・労働生産性の向上は,今井の指摘した設備投資に
よる「技術的合理化」が満州事変以降,一定の成果と しと結実したことの証左であろう。今井のユニークな 見解は,その後,中村隆英らにも引継がれ,産業合理 化が「官製」の運動として展開される以前において,
無言のうちに進められた「重化学工業の合理化過程」
が重視されねばならず,不況の深化と軍縮の時期にと もかく重工業が発展しえたことはやはり設備投資が稔 りはじめたことを意味する2)」という鋭い指摘を生む
ことになる。
重化学工業あるいは大企業を中心にして1920年代の 産業合理化運動の展開をフォローすれば「労働力の強 度化のための伝送装置又は機械更新の如き直接的な機 械化に基ずく3)」正規の合理化形態も存在したことは 今や否定すべくもないが,こうした原価切下げや経費 節減の企業努力やカルテルによる懸命の価格維持にもか
かわらず「建値の下落がはげしかったので,それでも 赤字を計上4)」せざるをえない,という当時一般化し ていたマイナス利益の企業採算は,北海道炭磧など合 理化を積極的に推進し,当時としては瞠目すべき原価 切下げ(労働生産性の向上)を達成した優良企業をも 把えており, 「恐慌の破局的作用」を示唆して余りあ
る。
ところで視点を「中小企業」や「農業」の分野に移 してみると,当時の産業合理化はどのような様相を帯 びるであろうか。 「合理化と農業」, 「合理化と中小 企業」というユニークな問題設定を行ない, 「国民運 動としての産業合理化」へ産業構造論的にアプローチ
したものとして志村三男の見解がある。
志村はその著『日本資本主義の構造』 (ミネルバア 書房,昭和44年)の第1章第3節「産業合理化の特質
と産業構造」 (同書P58〜72)で合理化問題を狙上に のせ,第1次大戦中,資本形成の契機をつかんで籏生 し,産業構造のなかに圧倒的比重を占めるにいたった 中小企業の過剰部分の整理を合理化目標としたにもか かわらず,たとえば輸出中小企業などは,当時の「日 本の再生産構造のもとでは,これら輸出産業の過度な 整理は,日本資本主義の拡大再生産メカニズムをただ
ちに破壊する。そこで金融資本はむしろ輸出中小企業 の〈救済〉を一面では必要とする」ような合理化の不 徹底があり,そのため「大戦時に新しい技術〈機械化〉
国民的規模の市場基盤のうえに発展の基礎をえたかに みえる都市の小工業や産地的企業なども,やがて過剰 資本の圧力のまえに,近代化の芽を摘みとられ」ざる をえず,「このような過剰資本整理の不徹底のもとで,
産業合理化は主として従来の機械設備のもとにおける 労働条件〈賃金〉の切下げ,労働強化などの方向を前 面に押出す」ことななり,総じて「重化学工業の確立
・発展も,労働者階級にたいする全面的攻勢の上に直 接たっているか,社会的にも中小工業の抑圧を強めた 上での救済・利用,また農業の長期停滞・衰退化にも 基礎をおいたところの産業合理化運動として,その一 応の成果が認められるようなものであった。それが国 民運動としての産業合理化の現実方向であったし,ま
た世界運動としての合理化運動にたいする〈日本独占 資本〉の独自な展開方向でもあった」と結論している。
たしかに「ブームと深刻な不況とが,それまで存在 していた均衝成長を破壊5)」することによって,1920 年代に二重構造の形成を見,財閥資本の産業支配が進 み,昭和の初め頃から,重工業を中心として下請制の 普及とその利用・拡大がはじまる経済情況のなかで展 開された産業合理化が「中小企業の制圧」や「農業の 長期停退」に基礎をおいており,その上で「一定の成 果」をあげたことは否定しえないし,また当時の政策 担当者が来るべき政策的不況(金解禁)に備えて大戦 期に膨張した産業構造の変革を志向して総合的に政策 的プッシュを行なうという,わが国産業構造の総体を 問題にし,その構造的歪みを是正するために合理化を 遂行する発想はみじんもなかったし,したがって少く とも政策次元では「国民運動としての産業合理化運:動」
はその視野に入っていなかったであろう。
とするならば,産業合理化運動を「国民運動」に転 化するには,二重構造の被支配部門に再編されっつあ った中小企業なり農業なりの下からの内発的な運動が 展開されねばならなかったはずである。志村は被支配 部門における内発的な産業合理化運動の昭和恐慌期に おける欠落をもって「日本独占資本」の「世界運動と しての合理化運動にたいする独自な展開方向」と規定 しているごとくである。
以上,昭和恐慌期の産業合理化運動をめぐる代表的 な論評のいくつかを紹介してきたが,これらの諸見解 は当時の合理化政策や重化学工業,独占的大企業の合 理化方向の検討に偏っており,中小企業を取り上げる 場合でも独占の支配強化との関連でみており,一面的 見解におちいっているようにおもわれる(それが当時 の日本資本主義の再生産構造と関連させた産業合理化 への評価から必然的に導びかれた見解であったがゆえ に独占資本本位の合理化運動に合理化研究の焦点が合 わされていたことを容認するにやぶさかではないが)。
だが,はたして大戦期に籏生した小資本群が恐慌期 における過剰資本の圧力や独占支配に抗して成長を遂 げ,その過程で産業合理化運動にふさわしい内発的組 織的な運動を展開して,産業資本として成熟し,蓄積 る
と拡大を進める発展コースは全産業部門で閉ざされて いたのであろうか。 「財閥資本の制覇」といっても,
その支配ベクトルは主として「金融」や「流通」に向 けられており, 「重化学工業の確立」といっても,下 請利用が開始されたばかりであり,当時それらが中小 ガ企業や農漁業に一様に不利に作用したとしても,発展
吉木=漁業における産業合理化運動一1 の足枷になるほど独占支配力が強化されていたとする
のはいささか難がありはしないか。「不況深化」や「植 民地農業の圧力」で長期停滞におちいり,その上さら に世界大恐慌の直撃(蚕糸恐慌)を受けて疲弊の極に 達していた農業は措くとしても,中小企業の支配的な 産業分野まで,この時期,活力を失ってすべからく衰 退したとするのは実証的研究の不足によるものであろ
う。
かりに,さきに紹介した産業合理化をめぐる諸見解 を是認するならば,漁業のように工業に遅れること甚 だしく,大正中期に資本形成の契機を飛んだ産業分野 では少数の独占的企業を除いて,昭和恐慌期に産業資 本として成熟を遂げる中小資本階層は見出しえないこ とになり,戦前期漁業における産業資本確立は立証不 能となる。
戦前期漁業資本主義化に関する研究が暗礁に乗り上 げているのも,このような1925〜35年代の合理化研究 の低蓄積を反映して昭和恐慌期における漁業の産業合 理化の進展を産業資本確立と対応させて検討する視角 を欠除していたことに一因があるとおもわれる。その ため,この小論では,もっぱらこの時期の漁業におけ る産業合理化運動をとりあげ,それが産業資本確立に どのように関与したかを検証することに力点をおいて
いる。
以下で取り上げる以西底曳漁業も,大戦ブーム期を 発生母胎とし,戦後不況期に生成した,いわば第1次 大戦の「落し子」であるが,それが昭和恐慌期に本格 的確立を遂げる際に合理化運動によって「恐慌」を突 破することで産業的成長の契機をつかみ,そのことに よって戦前の漁業資本主義化で先駆的役割をはたした 業種である。この点,以西底曳は,中込暢彦が,その 価格論的研究6)において,漁業の価格条件が一般的に 好転する1930年代後半,つまり恐慌を脱して財政イン フレと経済の軍事化が強化されてくる昭和10年代初頭 を「萌芽的に生産価格法則」が貫徹しはじめ,その産 業的基礎が固められつつあった時期とみているカツオ
・マグロ漁業と対比して,両者の産業的成長のタイム
・ラグを考察することは,戦前期漁業資本主義化の研 究では,きわめて興味深いことである。
以西底曳漁業は,こうした意味合いの他に,昭和恐 慌を介した1925〜35年代の「産業合理化」研究にもユ ニークな素材を提供している。
それは,昭和初期すでにこの業種部門は,i)恐慌 期に独占の基礎を固めた巨大資本が参入しており,そ
れに問屋業務を介して転化した産地商業資本の群れが
支配的地位を保ち,さらに合理的な資本計算にもとづ き高い期待利潤率に魅せられて恐慌の最中に着質した 都市産業資本が一角を占め,ついでそれぞれ系譜を異
にする自生的な船主層が一大勢力を形成するといった独 占的企業から零細小企業までを包括したピラミット型 の階層構造が存在し,,しかもそれぞれの階層,性格に よって資本関係や対抗・競合関係をもっており,li)
それぞれの資本性格・関係に規定されて合理化運動の 方向や内容も異っており,さらに運動に積極的な階層 と消極的な階層の落差を生み,そして,m)合理化の 結果,生産力格差が形成されるが,合理化主体となっ
た中小船主層は問屋支配を排除し,犬資本と一定の競 争関係の保持にすら成功している点,などである。
以下では,まず独占的企業の合理化ベクトルを内部 に向けたオーソドックスな事業合理化を,つぎに恐慌 期の魚価惨落にすぐれた技術と経営で立ち向い,大幅 な原価切下げを達成して蓄積と拡大を遂げた合理化企 業の事例を,最後に共同購買・直販運動の展開による 合理化ベクトルを外部に向けた中小船主層の運動形態 をとりあげ,それぞれの合理化過程を対比しつつ,そ の成果や役割について検討してみたい。
2.共同漁業の戸畑移転と事業合理化
共同漁業株式会社は,周知のように初期トロールの 衰退期に創設され,大戦後トロール許可を集中しっっ,
北洋漁業,捕鯨など高収益部門へも触手をのばし,企 業の吸収・合併と事業拡大を重ね,昭和10年代に独占 的コンビナート企業に成長した巨大水産会社である。
この共同漁業が昭和4年末に,当時,基軸的事業部 門であったトロールの基地を西日本の一大水産物流通 拠点であった下関から,漁業にとっては全く新開地と いえる北九州工業地帯の中枢地区である戸畑へ移した ことと,この移転を契機にして遂行された事業合理化 とは,漁業独占の基礎を固めるに際してきわめて重要 な役割をはたしたとおもわれる。そこで,まずはじめ に確認しておかねばならないことは,共同漁業が事業 合理化を遂行するに当って,なぜ西日本水産物流通の 最大拠点であった下関を捨てたのか,という点である。
この場合,下関の「漁港問題」や以西底曳の「許可問 題」をめぐる大資本間の確執(共同,林兼の対立)や 燃料確保その他の戸畑の立地条件の有利性をあげつら
っても,移転の動機を説明したことにならない。
決定的動機は共同漁業が事業合理化を進める上で,
その基本戦略とした「漁港コンビナート」の受け入れ 余地が,従来の下関港に全く見出しえなかった点にあ
る。当時,下関はトロール,以西底曳の基地であった ばかりでなく,植民地漁業や西日本沖合漁業の水揚地 として最大限の機能を発輝しており,こうした全国的 流通拠点としての巨大な産地市場機能の割に漁港設備
・能力は貧弱で,その拡充も政策当局が大規模な社会 資本の重点的投入を策定する段階になかった上に,新 港立地をめぐって業種・階層間の対立も激化していた ので遅々として進まない状態であった。
大戦後,トロール許可を集中し,その独占体制を構 築しっっあった共同漁業は,大正12年当時すでに「漁 港ノ設計図ヲ作成スルニ方リ,必須ト認ムベキ陸上施 設民報スル地域ハ,豫メ之ヲ設定シ置キ,他日之が設 備ヲ為スニ萬支障ナカラシムルコト。其理由ハ漁港ノ 陸上設備トシテ,漁獲物荷揚場,積込場,魚市場,冷 蔵庫等ノ必要ナルコト言ヲ侯タズ。更二製氷工場,船 舶修繕工場,貯炭場,焚料油槽,同上積込設備,給水 設備,魚函置場,其他水産業二附帯スル各般ノ事業二 要スル店舗工場其他営業者ノ事務所,銀行,郵便局,
海事部ノ派出所,関係事業ノ組合事務所,職業紹介所,
娯楽所,診療所等ヲ収容スルニ足ル水産ビルデング等 ノ施設ヲ要スベク,之が建設二適当チル地域ト充分ナ ル面積ヲ要スルモノナリ7)」と主張し,工場的生産技 術体系を確立して発展途上にあるトロール,機船底曳 網漁業の根拠地にふさわしい近代的漁港の必要性を関 係方面へ強く訴えていたが,堺があかず,昭和の初め
に戸畑移転を決断するのである。大正末から昭和の初 めにかけて漁価崩落が顕著になり,漁業への不況の影 響も甚大になってきつつあった時期に,全国的市場流 通拠点としても,漁業根拠地としても,わが国随一の 機能を誇っていた下関から,あえて撤退するという のであるから並々ならぬ決意であったはずである。
これは,共同漁業にとって事業合理化が,社運を賭 けて推進せねばならぬほどの重大事項であったことの 証左である。言い換えれば,大正期,朝鮮海漁業にお
ける莫大な商業的蓄積によって,当時,共同漁業との 対抗的存在にまで成長していた林兼商店にとって,そ の商業活動の拠点としていた下関からの撤退は,商業 独占の基礎を崩壊させかねないほどの重大な意味合い をもっていたのにたいし,共同漁業はなによりもまず トロール資本として生産利潤を追求せざるをえなかっ たがゆえに,あえて下関に固執せねばならぬ必然性は
なく,むしろ商業・流通優位の下関が企業成長(生産 力展開)の栓梧とさえなっていた,とみることができ
よう。
昭和4年,下関漁港整備に懸案の予算がつき,長期 計画の策*定なった矢先に,戸畑移転を決行したのは,
共同漁業の事業合理化が緊急の課題となっていたこと を示唆するものである。
共同漁業のトロール担当重役であって「従来の如く 漁業の根拠地が下関に在っては如何に事業の合理化を 高調し,無駄の排除に努めても,又従業員の生活改善 や福祉増進を唱えた所で,それは机上の空論である」と かんがえていた国司浩助は「水産業合理化の現実化と 戸畑移転」8)と題する一文を草して,事業合理化の必要 性を以下のように述べている。
「近年我が邦の経済界は,前述の如く,諸種の原因 に累せられて不況を重ねて来た。而して,之はどうし ても當分は綾くと見ねばならぬ。 (中略)水産業も重 要なる産業の一つである以上,決して之が打撃の例外 を望むことは出来ない。既に其の影響は,現に意外に 速かに且つ深刻に我等の事業を脅かすに至り,今や當
に我等は其の受難期に當面して居る。從って,我等は 此の難局に慮して之を打開するの策を講じなければな らぬのみならず,若し之を為さざれば自滅の外なきに 至るやも測り難い。而して之が打開策としては,現在 の慮,事業合理化を措いて他に途はないのである。即 ち,之によって事業上凡ゆる方面に無駄を排除し,又,
勢資の共存共栄によって技術上の能率を高め,生産物 の費値が下っても引合うように事業費を引下げること,
及び生産物配給の調節を合理的に按配して,充分其の 商品的価値を襲揮するに努めることが必要である」
ここに明解に述べられているように,事業合理化の 当面の狙いは不況対策である。すでに大正末からトロ ールや以西底曳漁業でも激しい魚価下落に見舞われ,
不況の「意外に速かに且つ深刻」なる影響を受けつつ あった。加えて東支那海漁場の開発が進み,生成期(大 正10〜13年),瞠目すべき高利潤を発生させたタイ漁 場が荒廃し,はやくも昭和初期には赤物中心から組物 主体へと漁獲組成が大きく変化したことによって,ト
ロール・以西底曳漁業の平均魚価は他業種に見られぬ ほどの鋭い落ち込みを示し,まざに価格崩壊現象と呼 びうる惨状を呈していた。こ.の期に及んで企業利潤を
*多年の懸案となっていた下関漁港修築に昭和4年に予算がつき,17年計画で総額700万円,うち国庫補助350万円,残額 を山口県,下関市,三島町が起債して負担するというもので,その起債の元利金の償還は受益者が行なう約定になって
いたため,国司は「漁港修策費に限って其の元利金額を受益者たる漁業者が負推し,之を県市に寄附しなければならぬと いうことは如何に考へても不當」だとして,修築費の受益者負担に強く反発している。
吉木:漁業における産業合理化運動一1 確保するには,それゆえ徹底的な「事業合理化」によ
る生産費引下げ以外に方法はなく,共同漁業の経営主 脳陣はそれを十分,認識していたのである。
製造業などの独占的企業であれば,こうした事業合 理化を進めながら,生産制限と価格協定によって,不 況期においてもある程度まで自力で価格を維持するこ とが可能であり,現に昭和恐慌期でも大企業のカルテ ル価格は,その他企業の非カルテル価格より下方硬直 性9)をもっていたが,水産業の場合,東支那海におけ るトロールと以西底曳の併存にその典型をみるように,
1業種部門で許可の集中・独占が達成されていても,
他の競争的業種が非独占の場合,どのようなカルテル 行為も成立しえない。共同漁業がトロール独占を基軸 にして巨大水産会社に成長しつつあったとはいえ,同 一漁場に以西底曳という同一技術系統の強敵をもって いる以上,生産制限は不可能であり,したがって製造 業企業のような多様な不況対策を選択する道もなかっ た。共同漁業が事業合理化一途に遭進ずるのは,こう した事情によるものである。
しかし国司自身も認めているように「産業合理化と 言うことは言葉を以って言い表わせば総軍であるが,
之を事業に最も適切に實行ずることはなかなか至難の 業である。抑々産業合理化とは,産業の立て直しであ
り革新である10)」から,』
幕ニ合理化構想を具体的にど のような器に盛りつけるかが決定的に重要になってく
る。そこで共同漁業が,事業合理化として第1に着手 したのが戸畑移転による「漁港コンビナート」造成で あった。「漁港コンビナート」を緊張に必要としたのは,
それが造成されなければ,社運をかけて練り上げた合 理化プランがほとんど達成不可能だったからである。
合理化目標の筆頭には基本的生産手段であるトロー ル,機船底曳船の高性能化(大型化,高馬力化,鋼船 化,冷凍化などの)プランがあった。共同漁業はすで に昭和2年,わが国初のディーゼル・トローラーを長 崎三菱造船所で建造し,曳網力,航続力,積載力,燃 料費などの諸性能がスチーム・トローラーと較べて格 段に秀れていることに着目し11 ),遠洋漁業への転進を
目指して大型ディーゼル・トロール船の建造計画をも っていた。新鋭船の入港・接岸・陸揚・積込・出港を 円滑に行なわしむる画塾,岸壁,荷役施設,関連産業 が有機的に結合した工場的なトロール機船底曳専用漁 港が完備して初めて,このような大規模な生産力投資
が可能となるのである。
移転先の戸畑決定に当っては,日本産業が北九州に 重工業進出の足場を築いたことと関連しているとされ ているが12),同時に大正15年,戸畑市が工費60万円を かけて,1万坪の港域,20尺の水深をもつ230間の岸 壁,7300坪の背後地を有する一文字埠頭を竣工し,漁 港コンビナートの素地を作っていたことがより大きな 要因となって*いる。移転時の昭和4年末には,すで に臨海鉄道の敷地,戸畑冷蔵庫の設置を見,移転後の 翌5年には魚市場その他の関連業種が配置され,トロ ール,機船底曳専用漁港としての機能を発揮しはじめ るのであり,大正初期からの懸案であった下関漁港整 備が17年の長期計画でもって着工をみたのと較べるま でもなく,共同漁業の根拠地移転が漁港造成開始から 短期間に実現したことは注目に値いする。
戸畑の漁港コンビナートは小規模とはいえ大型化,
高性能化するトロール,機船底曳船を十分,収容でき るだけのキャパシティをもち,漁獲物の効率的な価値実 現を図るため市場・貯蔵・加工機能を有機的に結合し,
構内隣接地には,資材工場,缶詰工場などの関連工場 および無線,補修,研究施設を配置し,各施設に新鋭 機械を導入するなど,当時としては技術的にも機能的 にも,または設備,能力面でも世界第1級のトロール 漁港と折紙をつけられる内容をもっていた。
このようなトロール,機船底曳専用漁港の造成によ って,共同漁業の事業合理化は本格化する。その1番 手はトロール船の大型化,高馬力化,および急速冷凍 機械の関発と機船底曳船の大型・鋼船化,ディーゼル
・高馬力化であった。トロールの場合は昭和5年中ら 7年にかけて310トン型1隻,、360トン型5隻,計7 隻の新鋭ディーゼル・トローラーを矢継ぎ早に建造し,
全船に急速冷凍機を装備している。これを従来のステ ィーム・トローラーと比較すると,たとえば220トン 型スティーマーと312トン型ディーゼラーでは航続日 数3倍,積載能力2倍アップし,燃料費も航走中2割,
曳網時3割のダウンになり,その性能には格段の差が 生じている。
この性能比較から明らかなようにディーゼラーは遠 洋トロール船として設計・建造されたものであり,こ のような生産力投資は東支那海で機船底曳との競合を 回避し,処女漁場である東支那海への南下拡大による 超過利潤の確保を意図したものであったといえる。ト
*
この一文字埠頭は昭和12年,
定であった。
日本水産に払下げられ,払下価格は851千円で20ケ年の均等償還:(年賦62,773円)という約
ロールの遠洋漁場への転進は航続日数の延長を必然化 し,従来の氷蔵保管で漁獲物鮮度を保つことを不可能 にし,それに替る保冷装置の開発を不可欠としたが,
社内研究機関であった「早輌水産研究会」の手で優秀 な船上急速冷凍装置が開発され労 ここにようやく共 同漁業の恐慌期における画期的な設備投資が生産力化 する契機が与えられた。
共同漁業株式会社の事業合理化は,このようにわが 国初の近代的漁港コンビナートの造成,アメリカから 技術導入した冷凍工場,海軍艦艇などを手がけ技術的
に最先端にあった三菱長崎造船所へのディ一斗ラー発 注,社内技術陣が開発し,国際的な特許権を獲得した 急速冷凍装置など,大規模な設備投資による「技術的 合理化」を基軸として推進されたものであったことは,
当時の重化学工業部門の大企業の合理化方向と対比し ても特筆すべきことであったといえよう。
さらに注目すべきは,共同漁業の傍系会社で手繰部 門を担当していた豊町漁業が戸畑移転直後こぞって機 船底曳の大型化,鋼船化を達成し,以西底曳漁業にお ける生産力競争の先陣を切ったことである。これは許 可集中・独占によってトロール漁業を制圧していた共 同漁業が東支那海漁場で以西底曳と生産力競争を演じ
る愚を避け,新鋭トロール船を以西漁場から引揚げ,
新漁場の開発に振向けたが,子会社の手繰船を大型化 して,その穴を埋め,以西漁場における生産力競争に 挑戦したものとみられる。
豊洋漁業の生産力投資の意義は大きい。それは昭和 5年,以西底曳の許可制度が最終的に整備・確立され,
許可の総門は動かさないが,それまで禁止していた50 トン以上の大型化を認める 通牒が聞せられた直後の
先駆的な生産力拡充であったからである。総枠内での 大型化を容認する許可制県下で個別資本が生産力規模 拡大を志向するときは,手持許可をつぶすスクラップ
・アンド・ビルド方式をとるか,許可の集中に向わざ るをえない。豊津漁業はむろん,後者を選んだのであ る。昭和4年末,つまり移転直前の豊洋漁業の保有許 可トン数は49トン型20隻980トンであったが13),それ
が7年8月には72トン型20隻1440トンになり,増トン
分460トンの許可を他から買収して,それを大型化に 補充しているのである。この場合,許可集中は隻数増 加の形をとるのではなく大型化・生産力拡充方向をと ったのが特徴的である。
これまで昭和恐慌期に大型化通牒が発せられて以来,
以西底曳漁業では大資本による許可の集中と大型化傾 向が一般化したごとく論じられてき***たが,それは 大きな誤りであって,実は大量に買収した許可をつぶ して大型化を達成した以西企業は,共同漁業傘下の豊 洋漁業と次章で取上げる日東漁業だけであった。当時,
下関,長崎で大きな勢力をもっていた林兼,山田屋,
平野商店などの有力問屋資本は,その許可集中が昭和 恐慌期あるいはそれ以後もほとんど進んでいないし,
大型化投資による生産力競争に積極的に参加すること もなかった(大型化に踏み切っても,あくまでそれは 試行の域を出るものではなかった)。ここに日水系資 本(豊洋,日東)と問屋資本お・よび出雲・阿波系の中 小船主層との生産力,利潤率格差が恐慌後,形成され 固定化する契機がひそんでいたといえよう。
このことに関連して正しておかなければならないの は以西底曳漁業の許可制度をめぐる共同漁業と林兼商 店のいわゆる大資本間対立に関する秋山博一に代表さ れる見解である。
秋山は「トロールを独占する共同漁業(日水)と以 西底曳を集中し飛躍的発展期にある林兼との対立14)」
を重視し,昭和5年の大型化通牒が「つまり,総トン 数の枠は動かさないが,一隻当りのトン数は増加して
も良いということである。かくて林兼などの如き巨大 資本は,以西底曳大型化のために,底曳の集中を進め ていく。林兼の意図は通ったわけである。同時に,総 トン数を押えることにより,一方では共同漁業の意図 も重視していることになる。いわば両独占の予盾の緩 和を計ったのである。
また,32年(昭和7年)には以西海域における30ト ン未満船の出漁と,総トン数2倍半を超える馬力の装 置とを禁止した。かくて,小舞業者を追放し,林兼・
山田屋などを中心とする大漁業者の独占体制二許可制 はととのい,その後,大型化のための資金融資をテコ
*この装置は,船上凍結では画期的なものであったので,日本ばかりでなく,欧米(アメリカ,イギリス,フランス)の特 許権も獲得している。
**以西底曳の許可の経緯については,秋山博:一,機船底曳漁業の発達と許可制度,漁業経済研究第10巻第4号に詳述され ている。
***たとえば,「林兼の如き巨大資本は,以西大型化のために,底曳の集中を進めていく」とした秋山博一の見解や(前 掲論文P30)「昭和5年以降の大型化過程において林兼・日水など大資本の底曳集中と直営化を推進させたのは,まず昭 和7年取締規則改正による権利料の上昇と船価の相対的低下であった」とする志村賢男の見解(日本漁業の資本蓄積,東 大出版会,P136)がそれである。
吉木:漁業における産業合理化運動一1 として,林兼・山田屋などによる以西の集中が進んだ15)」
とみている。大正末期に以西の許可制度をめぐって共 同漁業と林兼商店が鋭く対立していたことは,たとえ ば国司浩助が「トロール業者カラ見ルト,今日ノ機船 底凹田後カラ來テ勝手な真似ヲシテ,今日ノ悲況ヲ招 集シタノデァル16 )1とトロール独占体制を動揺させて いた以西底曳への憎悪の念をたたきつけているのにた いし,中部幾次郎は「政府には,汽船トロール漁業は もっと助長しようとしているのに反し,機船底曳の許 可を認めない上に,一隻のトン数を50トンに制限して いる17)」として,その撤廃を激しく要望している事実 に照して否定しえない。問題は「両独占の矛盾の緩和」
とされる以西の大型化通牒後,案に相違して林兼・山 田屋など問屋系資本の許可集中,大型化が遅々として 進まず,ましてや「林兼・山田屋を中心とする大漁業 者の独占体制=許可制」が整うまでにはいたらず,逆 にトロール独占が,以西の集中と大型化を恐慌後に積 極的に進めた, という事実である。これは問屋系資本,
あるいは商業的独占の支配力をあまりにも重視した戦 前期以西底曳の理解の仕方であって,実証性を全く欠 いている。共同漁業はあれほど毛嫌いしていた機船底 曳をとうてい排除できるものでないと悟り,大正10年 代から傍系会社にこの部門を直営させ,領袖七穴未吉 の経営的手腕によって大正末から以西では初のディー ゼル化を達成し,昭和初めには下関で抜群の成績を収 めるほどの優良企業に成長させて,林兼その他の並い
る底曳船に後じんをあびせていたのである。
重ねていうが,このように共同漁業のトロール大型 化・ディーゼル化や豊町漁業の底曳大型化・鋼船化が,
設備投資による単なる生産力拡充にとどまらず, 「技 術的合理化」と「操業体制の変革」を伴っていたこと が,ここでは重視されねばならない。その意味では,
先述した遠洋トロール用の急速冷凍装置の開発と並ん で,工場制技術体系の確立として,あるいは資本によ る直接的な労働力支配統制力の強化として, 「無線i操 業の本格化」も特筆されるべきである。共同漁業では 大正10年からトロール船に無線装置を入れ,無線操業 を試行していたが,戸畑移転後,私設無線電信取扱所 を設*置し,それを契機に傘下のトロール,機船底曳 船全船に無線装置を施し, 「之レヲ利用シテ直接漁場 二操業中又目当海中ノ僚船ト自由二迅速二通信スルコ
トヲ得ルニ至ッタノミナラズ,特二其ノ短波長ヲ使用
セル為メ,其ノ通信匿域ハ殆ンド世界到ル十二十大サ レ,其ノ利便バー層擾大サレタ課デアッテ,實二漁業 通信界ニー新紀元ヲ劃ス18 )]することになった。下船 無線化に際して,各船常置の通信士を多数必要とする が,共同漁業では軍縮下の海軍技術員を積極的にスカ ウトし,昭和7年8月現在で81名の通信士のうち実に 66名までを海軍出身者をもって充当し,無線操業要員
を確保しているる19)
無線操業の概要は以下のようであった。
「明番船ノ指呼ヲ受ケタル船ハ最小送信勢力ヲ以テ其 ノ時間中ノ各回ノ漁獲量,主ナル魚種及船ノ位置ヲ略 號二依リ,更二暗即日轄綴シテ送信ス。各船ハ之ヲ受 信シ,各船ノ漁況が一目瞭然トシテ分明スル様,船内 備付ノ表二こ入シ置キ,之レヲ船長二提示シ,操業上 ノ参考資料トス。 (中略)戸畑入港ノ船ハ,入港前一 日分ノ漁場二子ケル各船丁丁直時間中ノ漁況通信ヲ傍 電シ,之レヲ会社二提出ス,會二二於テハ之レト各船
ヨリノ漁況報告電報(各十組毎二漁獲ノ魚種・数量ヲ 報告スルモノ)二丁目,毎月回船ノi操業状態,漁獲模 様ヲー定圖表二作製シ,以テ出帆船二三シテハ漁場選 定ノ参考トシ,其他諸種ノ研究資料ドナス20 )]
このような無線操業の普及は,まず第1に漁三体あ るいは船団間の「i操業上の秘密主義」を排除し,漁獲 成績の向上と漁携二間の均等化を促進し,第2に無線 による公開操業下での三二体責任者(船長)の勘に頼 らない科学的な漁獲競争を演じさせて,社内回船の漁 獲能率を高め,第3に社内船は全て陸上管理部門の統 括下におかれ,その指揮,命令系統のなかで組織的な i操業を行なわせることを可能にした。無線化は,この ように漁獲能率の向上とi操業の組織的統制に絶大な威 力を発揮したが,それにとどまらず,販売の計画化を も促進した。
共同漁業は「全国二二手取ヲ平均セシムル」ことを もってマーケッティング基本方針21)としていたが,こ の場合「最大ノ需要地タル京阪神ノ中心地,大阪二荷 割ノ中心ヲ置キ,東京ニハ又駐在員ヲ置イテ,根擦地 戸畑ト夫々管掌範囲ヲ定メ,相協力シテ荷割販費ノ萬 22)
し,社内各船から送電されてくる漁獲情報全ヲ期」
や入港予定およびその漁獲明細などを,東京,大阪な どの荷割所に送り,同時に「其ノ担當地域内ノ市債及 需要ヲ測定」させ, 「社外船,機船底曳網漁船ノ漁況
ヲ注視シ,平野テ下関長崎ノニ大集散地に於ケル送附
*戸畑に設置した無線局は建設費18,458円,年間経常費8,760円で,これで60隻以上のトロール船と10組余の機船底曳船を コントロールできたのだから,それからすると陸上施設,維持費はきわめて低廉であった。
状態ノ通信モ受ケテ,之レ等ヲ参照23)」して,戸畑で
「綜合荷割表」を作成し,それに従って計画的に出荷,
販売を行っている。この他, 「市況景気圖」ともいう べき市況日報をも作成させ,これをもって,たとえば
「Z號日報二記載サル,魚償ハ,之レカラ運賃魚函代 ヲ控除シテ裸値段トシシ毎日出漁中ノ各船外無線電信 デ放送シ参考二供スル。従ッテ,彼等トロール船ノ船 長ハ海上二於テi操業シナガラ各地市況ノ趨向ヲ知り得 テ,有利二採算ノ採レル魚種ト藪量トヲ打算24)]させ,
販売出先と生産現場を無線で直結し,管理中枢である 戸畑の資本計算がi操業に効果的に活かされるような配 慮を行っている。つまり,無線操業による漁労過程へ の資本統制の強化はこの占うな販売の合理化をも促進
しているのであって,その経済効果はきわめて多大で あり,かつ多面に亘っていたといえよう。
これを,たとえば「昭和五年二於テ漁船ノ無線電信 電話装置二野シ農林省及縣ハ其設置費ノ大半ヲ補助セ ラルルコトトナリタル為,先ズ三隻ノ漁船之ヲ設置シ 其後手当軍二受信器ノミノ設置二封シテモ補助ヲ与フ ル事トナリ約四十隻ノ設置者アリタルモ無線電信ノ通 信ハ下戸海岸局ヲ経由セザルベカラザルノ不便ナルト 受信器二於テハ普通ラジオ放送ヲ聰取スル山止リ操業 上ノ効果二付遺憾勘カテズ25)]と,その効果が疑われ ていた長崎根拠機船底曳の無線利用状況と比較すると き,共同漁業の以西i操業が増強された生産力と資本装 備の下でいかに優位に展開されていたか推測に難くな
い。
これまで指摘してきた共同漁業の設備投資による
「技術的合理化」は,とうぜんのことながら,また労 働強度を著しく増大させている。
トロールの場合は移転前からすでに昼夜連続i操業が 行われていたが,移転後は「共助会*」が「入港と同 時に,船の操業から係船,積み込み,漁獲物の処理な
どの一切26)」を引受け,出港までの24時間を乗組員の 休息にあてるように合理化されたが,それでも「昭和
7年ごろ,8日の航海で,28回ひき記し(中略),連 日,大漁大漁で寝る暇もなく,ベッドにはいったのは 8日間で3時間58分であった。 (中略)それでも,帰 港したかと思うと,24時間後には出港27)」するといっ たピストン操業が常態化しており,この形で年間23,
4回(1航海平均14日)航海し,当時「365日海の上」
といわれるほどの過酷な操業が維持されていた。また
豊洋漁業傘下の機船底曳船も移転後,大型・鋼船・高 馬力化したことによって以西底曳では初の昼夜連続操 業に踏み切り,トロール並みのピストン操業をこなし,
しかもスチーマーを凌駕するほどの漁獲成績をあげて いる。戦前の以西底曳は出雲型でも阿波型でも「夜間 は沖泊り」.が操業の常態であったが,戸畑移転後の豊 洋漁業は「夜は仮眠・休息」の常識を打破り,操業の 昼夜兼行を打出して,漁獲効率を飛躍的に高めると同 時に労働強度をいちじるしく増強させ,この面から出 雲・阿波船に大きく差をつけたのである。(ちなみに 以西底曳で「昼夜兼行」が普及するのは戦後である。)
共同漁業はすでに大正後期に「漁労長制」をを廃止し ており(手操部門もトロールに準じて漁労長をおかず,
主船船長の指揮:系統に委ねる形をとった㈱),このよ うな資本による労働力の直接支配に対応する「固定給 プラス奨励金」の賃金体系を確立していた。昭和に入 って,この固定給システムに年功制を導入し,経験年 数による基本給アップと職能別加給制,期末償与制,
退職金制度などを加味し,当時,大企業で広汎に採用 されっっあった年功序列型賃金体系を漁業経営にはじ めて適応している。このような固定費的要素の強い賃 金体系の下で前述の如き労働強度がいちじるしく増強 されるならば1 「歩合制」と違って,それはほとんど 資本の増収・増益に結実する。したがって共同漁業の 場合, 「技術的合理化」は漁夫労働力の必要労働部分 まで食い込む絶対的,相対的剰余価値生産を極限まで おしすすめることによって恐慌期においてすら,蓄積 の拡大のベースを維持するのに大きく寄与した,とい
えるであろう。
このような剰余価値生産に酷使される労働力は,昭 和2年創立の漁船船員養成所(前身は下関水産従業員 養成所)で,いわば子飼いの船員を養成して,上級下 級船員の大部分をまかなう方式をとり,所要労働力を 社内教育機関で養成し,当時「二重構造」形成との関 連で注目されていた重化学工業における大企業並みの 年功序列制を導入して「熟練工」確保をやってのけて いる。つまり,当時,不況対策として打出された「大 企業の労働政策」をを共同漁業も採用した訳である。
そして通信士のように特殊技術を要する者は海軍出身 者を大挙してスカウトし,高級船員の不足分は高等商 船・水産学特出を採用して充てるなど,その雇用形態
も重工業(大企業)ベースであった。
*共同漁業は移転後,回船船員を組織して,入港船の一切を世話させ,これによって入港時の船員にピストン操業の瞬時の 休息をとらせ,同時に退船労働力を有効利用し,一石二鳥の効果をあげている。
吉木:漁業における産業合理化運動一1 共同漁業の事業合理化にはこの他漁獲物の貯蔵・加
工による附加価値の増大,国内海外市場の開拓など,
主としてコンビナート機能によるメリット創出とマー ケッテング展開に関わる効果があるが,その検討は紙 数の都合で割愛する。
要するに昭和錨地期に遂行された共同漁業の事業合 理化は,巨大水産企業の単なる不況対策にとどまらず,
近代的漁港コンビナートの造成,遠洋漁場の開発,無 線操業の定着,計画的・組織的なマーケッテングの展 開など戦後,わが国の遠洋漁業発展の礎石をつくり,
漁業資本主義発達にエポックをなすものであったし,
世界的な不況深刻化のなかで遂行された大規模な設備 投資が急速冷凍装置の開発などの「技術的合理化」を 生み出すいっぽう,このトロール会社を独占的な水産 コンビナート企業にまで成長させる資本的技術的基礎 を固めさせたものといえよう。
3.工場的技術・経営の創出と日東漁業の役割 昭和恐慌の:最中に設立された円田末吉の日東漁業が,
機船底曳経営で驚威的な蓄積と拡大をとげ,その工場 的な生産技術体系と近代的経営管理とが「以西底曳漁 業の経営指針」となり,不況で沈滞していた以西業界 にその歩むべき道を明示したものとして高く評価され るにいたる経営的基礎は,すでにその前身である豊洋 漁業のなかに胚胎し醸成されていたとみることができ
る。なぜなら七田の経営層手腕は,この以西企業をし て昭和の初めには根拠地下関において漁獲成績抜群で
「経営最モ堅固」といわしめるまでに成長させていた からである。
ちなみに豊平漁業の「第5回営業報告書29)1 (昭和 3年下期〔3年12月〜4年5月〕)をみると, 「本漁 業ノ主要漁獲物タル連子・血子等ノ赤物ノ漁獲少ナク,
加フルニ浪速丸ノ遭難沈没ハ漁獲収益ノ激減ヲ招来セ リ,而シテ他方経済界ハ常二沈衰ヲ保チ遂二初期ノ成 績ヲ挙グルニ至ラザリシ30)」とされながらも,手繰船
9組による半年操業で144千円の事業収益をあげてい る。この期の当期純利益79千円を年利益になおすと総 資本利益率18%,払込資本利益率26.3%になり,タイ 資源の枯渇と不況深化で,魚価惨落があり,底曳船砂 層が低利益,ゼロ利益で陣吟している当時の以西底曳 の経営情況を考慮すると,瞠目すべき利益率水準を確保
していたことが知られる。かかる高収益の経営採算を 反映して,昭和3年下期末のバランス・シートは,8 76千円の資産(総資本)にたいして,負債項目は負債 1,資本99の構成比となり,資産イクオール自己資本,
借入金ゼロの,これまた比類なき内部留保の厚さと財 務の健全性を示している。
七田のひきいる豊洋漁業は,また,軽油使用の有水 式焼玉から重油使用の焼玉へ機関転換が行われつつあ った創成期の以西底曳漁業にあって,いちはやく燃費 節約効果が大きく,性能の優れたディーゼル・エンジ ンの導入に踏切り,昭和2年には全角のディーゼル化 を完了している。以西底曳船のディーゼル化が第2次 大戦後に普及したことを考慮するなら,その技術的合 理化は業界に先駆すること4半世紀をこえており,七 田の先見の明は,この間の以西i操業における技術的優 位を豊洋漁業に約束するものであったといえる。
さらに七田は,大正末から個定・歩合併用の賃金制 度を採用し,それに賞与・退職金制度を加味した工場 制的賃金体系を,以西底曳ではじめて創出し,船頭制 を排除した近代的な雇用形態,つまり資本による直接 的な労働力支配体系を確立している。 「下平学制機船 底曳網漁業労働事情調査報告」 (昭和4年)によると,
下関では,すでに昭和の初めには「賃金制度ノミノモ フ四割五歩,賃金単葉合併給ノモノ四割,歩合制度ノ
ミノモノー割五歩」であったとされ,歩合制(船頭制)
のいちじるしい後退がみられるが,当時下関でもっと も普及(主として出雲船で)していた個定給制が戦後,
廃絶され,個定・歩合併用制が以西底曳ばかりでなく,
わが国遠洋漁業における賃金制度の主流となった経緯 からして,少くとも戦前段階では,豊洋漁業が先駆的 に導入し,練磨してつくりあげた賃金制度は,産業資 本の基礎を固めっっあった以西企業の資本蓄積にもっ
とも適合するものであったとおもわれる。
これに反して出雲船で採用されていた固定給制は,
昭和初期のように魚価崩落で経営再生産さえ危ぶまれ る不況時には,水揚高にたいして下方硬直的に作用す るから漁夫世帯再生産費用確保に一定の役割をはたし ホ得たであろうことは,否定しえ ないが,問屋支配下
にあった出雲船の場合は,船長・機関長クラスの特殊 船員を除いて,賃金水準が低位*固定化されており,
このような割増給さえっかない個定的低賃金に(実質
*昭和の初めには,魚価惨落による水揚激減で漁夫取前が少なくなり,歩合制(船頭制)下の長崎では,底曳漁夫の個定 給採用の要求が強く打出されたが,船主層に拒否されて実現していない。以来,長崎ではとくに不況局面において賃金制 度をめぐる労使紛争が絶えない。