《 研 究 ノ ー ト 》 賀 川 豊 彦 と 魯 迅
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賀 川 豊 彦 の 「 第 一 次 上 海 事 変 」 認 識 と 魯 迅 ・ 内 山 完 造 と の 交 流 に つ い て
―浜 田 直 也
はじめに
賀川豊彦(基督教社会主義者、一八八八
―一九六〇年)は、大正から昭和初期にかけて、牧師としての基督教の伝 道に捉われず、スラムの貧民救済活動、労働組合運動、消費組合運動、などにおいて多くの業績を残したことで知ら れている。神戸のスラムでの貧民に対する救済活動を題材とした彼の自伝小説『死線を越えて』は、大正時代の最大 のベストセラーである。この書によって、賀川は、その当時“貧民窟の聖者”と称されたほどである 。 米 沢 和 一 郎 氏 に よ っ て、 「 日 中 戦 争 」 の 時 期、 賀 川 が 中 国 人 民 の 立 場 に 立 ち 日 本 の 軍 国 主 義 を 批 判 し た こ と は 明 ら かにされている。しかし、中国の歴史家は、賀川と「日中戦争」を論じる際、否定的な見解を示している。満州事変 (中国では「九 ・ 一八事件」 )以後、とりわけ一九三〇年代の日中戦争を回避するための賀川豊彦の“基督教博愛主義” による平和活動に対しては、中国人民の抗日運動の熱情に“冷や水”を浴びせた行為と酷評している 。 ところで、先行研究では、賀川豊彦と魯迅(周樹人、一八八一
―一九三六年)に面識があったことは知られていた が、その親交の軌跡を探索して論じる試みはなされてこなかった。 た だ 、 近 年 、 藤 井 省 三 氏 は 、そ の 著 書 『 ロ シ ア の 影 夏 目 漱 石 と 魯 迅 』の な か で 、 賀 川 が 魯 迅 と 交 流 し た 事 実 を 指 摘 し て い る 。
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晩年の九年間を上海で過ごした魯迅のもとには、日本から多数の文学者やジャーナリストが訪ねている。横光利 一、前田河広一郎、山本実彦、武者小路実篤、野口米次郎、賀川豊彦、新居格等々、それは魯迅詣でと評される ほどの賑やかさであるが、…。
また、賀川は、第一次上海事変(中国では「一 ・ 二八事件」 、一九三二年一月)を舞台として、魯迅と内山完造(書 店 経 営 者、 一 八 八 五
―一 九 五 九 年 ) の 友 情 を 話 の モ チ ー フ と し た 小 説『 颱 風 は 呼 吸 す る 』( 第 一 書 房、 一 九 三 七 年 ) を書いているが、これまで注目されてこなかった 。 内山は、魯迅のよき理解者で、彼を国民党の捕縛から身を挺して護ったことで知られている。一方、内山と賀川と は、基督教の信仰で結 ば れた生涯の友人でもあった。 詩人金子光晴(一八九五
―一九七五年)は、自伝小説『どくろ杯』のなかで、一九二八年から一九三二年にかけて 放浪生活を送った上海で見た内山完造について、思想・信条の違いを超えた一視同仁(平等愛)の心の持ち主と評し ている 。 本 稿 で は、 『 魯 迅 日 記 』、 『 雲 の 柱 』、 『 颱
たい風
ふうは 呼 吸 す る 』 等 を 資 料 と し て 取 り 上 げ て、 賀 川 豊 彦 と 魯 迅 が、 上 海 で 内 山完造の仲立ちで会談したことの意義を、当時の賀川を取り巻く日中間の政治的環境を背景として、魯迅の想いに踏 み込んで考察するものである 。
第一章、内山完造と『颱 たい風 ふうは呼吸する』
賀川豊彦と魯迅の間に、 面識と交際があったことは、 これまでの賀川研究では論究されなかった。しかし、 賀川は、 内山完造の魯迅に対する国家的対立を超えた献身的な交流を輪郭とした小説『 颱
たい風
ふうは呼吸する』を著していて、二人
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の交際の深さが窺えるのである。 また、内山の魯迅に対する献身的な活動に関しては、増田渉が「内山完造は晩年の魯迅の友人であると共に彼の生 命の保護者であった。 」、と記している 。 内山完造は、魯迅の葬儀が終り、紀念委員会を組織することになり、日本人のメンバーとの交渉を増田渉に依頼し た際、魯迅と親交をもった日本人の名前を明らかにしている。それは、内山の「増田渉宛 書簡二通」 (『魯迅の思い 出』 )に収録されている 。
【内山完造】 魯迅先生に直接面識のある方々は、新居格先生、室伏(高信)先生、長谷川如是閑先生、横光利一 先生、荘原達先生(同盟通信) 、山本実彦先生(改造社長) 、賀川豊彦先生、位いの事と思います。 十一月三日〔一九三六〕 上海にて 内山完造拝
内山によると、賀川と魯迅は「面識」があった、直接の知り合いであったという。魯迅に会った日本人は多数にの ぼるが、魯迅が好感を懐いた人物は少ないという。日本の知識人のなかには、魯迅に 対して中国人民を蔑視する言葉 を吐いた者もいたという 。 しかし、内山の「面識がある」からすると、賀川が魯迅に不遜な態度をとることはなかったであろう。魯迅の『日 記』の一九三四年三月一〇日の記事には、賀川が内山完造に伴われて、自宅を訪れ会談したと記されているが、内容 については一切記していない。その理由として、魯迅は、自分の死後に『日記』が国民党によって暴かれ、名前を記 した人物にあらぬ嫌疑が懸けられることを危惧したためと考えられる。 魯 迅 は、 一 九 三 四 年 に は「 左 翼 作 家 連 盟 」 の 常 務 委 員 で あ っ た。 「 左 翼 作 家 連 盟 」 と は、 一 九 三 〇 年 に 共 産 党 の 影
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響下、革命文学の諸派が国民党の弾圧に対して結成した左翼文化運動の組織のことで、魯迅は一九三四年当時国民党 から付け狙われていた。 魯迅の危惧を示す例をあげるなら ば 、郭沫若の義弟の陶晶孫は、その密接な関係に拘わらず、彼が日本の上海自然 科学研究所に入所した一九三〇年以後の記載はない。また、魯迅は 黄
こう瀛
えいに頻繁に会っていたにも拘わらず、国民党の 将校となったことから、彼の名前を記すことはなかった 。 賀川と魯迅が会談した時期の日中間の政治情勢は、満州事変後から軍事的緊張状態にあり、将来に暗雲が立ち込め ていた。とりわけ、賀川が上海を訪れた年は、日中戦争(日華事変)の前夜で、日中両軍は一触即発の戦時下の状況 にあった。 ところで、魯迅の『日記』の記載より以前に、賀川は魯迅と接触する機会がなかったのかといえ ば 、実はあったの で あ る。 魯 迅 と 賀 川 の 出 会 い は、 一 九 二 〇 年 九 月 の 北 京 に 遡 る こ と が で き る。 当 時 の 二 人 の 年 齢 は、 魯 迅 が 四 〇 歳、 賀 川 豊 彦 が 三 二 歳 で あ る。 賀 川 を、 魯 迅 に 引 き 合 わ せ た の は、 清 水 安 三 で あ る。 清 水 安 三( 教 育 者、 一 八 九 一
―一 九 八 八 年 ) は、 北 京 で 中 国 人 孤 児 の 学 校( 崇 貞 学 院 ) を 経 営 し、 基 督 教 の 宣 教 師 で も あ り、 賀 川 と は 親 交 が あ っ た 。 清水が、賀川に魯迅を紹介した経緯は、 「賀川さんと桜美林学園」 『百三人の賀川伝下』に記されている。そこには 次のようにある 。
大正八年、賀川先生が第一回支那伝道の途次、北京へ来遊した時、私は、人を介して、北京見物のガイドを頼ま れた。…。私は賀川さんを万寿山や北海公園や、ラマ廟、孔子廟、それから天壇、大和殿寺の名所旧跡へ案内し た ば かりでなく、陳独秀、李大劉、胡適、周作人、魯迅等の新進思想家たちにも引合わせた。
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清 水 は、 「 大 正 八 年 」( 一 九 一 九 年 ) と 誤 認 し て い る が、 事 実 は「 大 正 九 年 」( 一 九 二 〇 年 ) に 北 京 を 来 訪 し た 賀 川 の案内役を買って出て、既に知友であった魯迅との会談の場を用意したというのである。この時の彼等の会談がどの 様なものであったかは、記録されていないので窺い知れないが、互いを意識するようにはなったであろう。 魯迅の『日記』に、賀川の名前が記録されているのは、一九三四年三月一〇日だけである。それ以前の記載に賀川 の 名 前 は 見 当 た ら な い。 そ れ ま で に、 賀 川 が 上 海 を 訪 れ 内 山 の 世 話 に な っ た の は、 一 九 三 〇 年 と 一 九 三 一 年 で あ る。 その時魯迅と会った可能性はあるが確証はない。 魯迅は、一九三六年一〇月一九日に上海で逝去した。すぐさま、内山によって、魯迅の死去の報は賀川に伝えられ た。賀川は、魯迅逝去を知らせる手紙を、そのまま『雲の柱』に掲載している。この手紙は貴重な資料であるが、先 行研究では見落とされてきた。 そ こ で、 内 山 が 賀 川 に 送 っ た 魯 迅 の 死 を 伝 え る 手 紙「 魯 迅 の 死 と 世 論 」( 『 雲 の 柱 』) を 紹 介 す る こ と に す る。 そ れ には次のように記されている 。
上海 内山完造 賀川先生 御忙しい事でせう、何うぞ無理をせんやうに して下さい。先日魯迅さんが到頭亡くなりました。 この魯迅先生の死といふことに よって、私は一つの事を発見しました。それは支那の排日とか抗日とかいふ事 が、新聞や雑誌に書かれているやうに、支那人が日本人に対して、人間的に、民族的に又は國民的に行動してい るものでなくて、全くそれは事件的であるといふ一事であります。私は以前よりそのことを信じて居りました。 ただ適切な証拠が無かったのですが、今度私はその証拠を握りました。それは魯迅先生が、十月十九日午前五 時二十五分に亡くなられてから以後の、支那の新聞も雑誌も、恐らく全国的にその記事を書いて居ります。
( )( )その魯迅先生の記事のうちに は、無遠慮に 内山完造が並べられて居ります。その上その葬儀委員の中に も私を 加 へ、 し か も 一 々 私 の 承 諾 を 経 て、 事 を 運 び ま し た。 葬 儀 の 時 に は 宋 慶 齡 女 子 と 私 と が、 追 悼 演 説 を し ま し た。 それは全部他の人々が勝手にやったことであります。 今 度、 先 生 と 最 も 深 い 関 係 に あ っ た「 作 家 」、 「 譯 文 」 と い ふ 兩 雑 誌 が 記 念 号 を 出 す に 當 り ま し て は、 何 れ も、 私やその他の、先生を知っている日本人に、文章を書いてくれと頼みに来ました。しかも私が巻頭に出されて居 ります。そしてその両雑誌は毎月売切れの盛況であります。 私はこの一事を見て従来の私の考への、間違って居らないことを知りました。そして今日では断然として、排 日も抗日も親日も提携して、悉くが(除外例はあっても)事件の性質によるものであることを断言して憚らない のであります。 親日には親日的の原因としての事件があり、排日に は排日的の原因としての事件が必ずあるのです。これ無く しては排日も抗日も親日もないと思ひます。 (一九三六年十一月)
賀川が、 手紙をすぐさま『雲の柱』に掲載したことは、 彼にとって魯迅の死がいかに大きな衝撃であったか窺える。 賀川は、魯迅の死の翌年(一九三七年)に小説『 颱
たい風
ふうは呼吸する』を刊行した。この作品の登場人物のモデルは魯 迅と内山完造であり、戦時下における二人の友情を柱にしたストーリーを描いている(現在、この小説は『賀川豊彦 全集』一七巻に収められている) 。 この小説の時代・舞台設定は、第一次上海事変(一九三二年)下の上海である。事件の発端は、上海市内で日蓮宗 僧侶が白装束でお題目を唱えて練り歩き、それを快く思わない中国労働者と衝突し、それに便乗して日本の陸戦隊が 軍 事 介 入 し た も の で あ る。 真 相 は、 日 本 軍 部 が、 満 州 事 変( 一 九 三 一 年 )、 満 州 国 建 国( 一 九 三 二 年 ) と 続 く 中 国 侵 略に対する中国人民の抗日運動熱の高揚の矛先を逸らす為に計画した陰謀である。
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蒋 介 石 の 国 民 党 は、 日 中 両 軍 の 武 力 衝 突 の 混 乱 に 乗 じ て 共 産 党 を 支 持 す る 左 翼 知 識 人 に 対 す る 粛 清 を 強 め て い た。 当時に在って、内山完造は、上海で書店を経営する一方、魯迅に対する弾圧の魔の手から彼をよく保護し、彼の活動 を支援した。 賀 川 は、 『 颱 風 は 呼 吸 す る 』 の な か で、 内 山 完 造 を 斉 藤 駿 治 の 名 前 で、 魯 迅 を 陳 栄 芳 と い う 名 前 で 登 場 さ せ、 戦 時 下での二人の友情を柱とした物語を展開している 。
『 陳 さ ん っ て ど ん な 人 で す か 』 あ の 医 者 で す よ。 … あ の 男 は、 日 本 に も 留 学 し て い た こ と の あ る、 な か な か 秀 才 ですがね。上海のプロレタリア芸術家の仲間では、まず第一人者でせうね…。
陳栄芳の横顔は、 日本の留学経験がある医師で、 上海の左翼作家の第一人者とあり、 読者に意図的に、 魯迅をイメー ジ さ せ よ う と し て い る こ と は 疑 い な い。 魯 迅 は、 一 九 三 〇 年 代 前 半、 「 左 翼 作 家 連 盟 」 の 中 心 的 存 在 で あ り、 上 海 の 左翼文壇の指導者として活動していた。 思うに、賀川は、魯迅の死を聞き、彼との親交を書き残したいという、止むに止まれぬ気持からこの小説を著した のであろう。それが、内山から連絡を受けながらも、葬儀に参列出来なかった賀川の、魯迅に対して出来得る唯一の 送別の辞であったのであろう。とすれ ば 、『颱風は呼吸する』は、まさに賀川の魯迅への鎮魂歌と言えるのである。
第二章、『魯迅日記』と賀川豊彦
『 魯 迅 日 記 』 に は、 こ れ ま で 魯 迅 の 足 跡 を 辿 る う え で 考 究 さ れ る こ と の な か っ た 興 味 深 い 史 実 が 散 見 さ れ る。 な か でも一九三四年三月一〇日午前の賀川と魯迅との会談の記録が残されていることは、賀川研究にとって希少な資料で
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ある 。 『 魯 迅 日 記 』 を 紐 解 く 前 に 、 賀 川 が、 一 九 三 四 年 二 月 に フ ィ リ ピ ン で の 伝 道 を 終 え、 同 年 三 月 に 帰 国 途 上、 香 港、 広東を訪れ、その後上海に向かい魯迅と会談するに至る行動の足跡を辿ることにする。 一九三四年三月初旬、賀川は、フィリピンからの帰路に香港に立ち寄り、イギリス国教会の教会堂でイギリス人を 対 象 と し て 講 演 会 を 開 い て い る。 彼 の 演 題 は、 「 宗 教 と 世 界 平 和 」 で あ り、 個 人 雑 誌『 雲 の 柱 』 十 四 巻 一 号 に 全 文 が 掲載されている。そこには次の様な話が記されている 。
「 市 場 の 問 題 」 …。 私 は イ ギ リ ス が い つ ま で も 世 界 を 牛 耳 ら う と し て い る こ と は 間 違 っ て い る と 思 う。 そ し て 日 本も東洋を牛耳る心組みのあることは間違っている。支那の革命は、廣州へ逃げて行った優秀人種がその中心に なっている。それを我々が見くびって、日本のみが東洋の優秀性を持たうと考へるのは誤っている。…。
賀川は、日本が中国を蔑視することを戒め、中国革命の担い手は、イギリス人に対して“廣州へ逃げて行った優秀 人種” 、であると断言している。ここで “廣州に逃げて行った” とあるのは、 阿片戦争 (一八四〇
―一八四二年) によっ て、イギリスに香港を奪われたが広東で奮戦した中国人を示唆していると思われる。 賀川は、中国は阿片戦争で敗北したが、その屈辱と痛手を最も多く受けた廣州の人民のなかから孫文等の中国革命 の指導者が生まれたことを称賛し、中国人を“優秀人種”であると評し、彼等を見縊ることは浅はかな行為であると イギリス人に警告しているのである。 続いて、賀川は、広東に向かいこの地で孫文と辛亥革命の烈士の墓に詣でている。彼の紀行文「難航の四十日」の 中に、次のように述べられている 。
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かえり道は、香港、広東、上海で話をした。広東で孫逸仙の記念堂や革命の七十二志士の墓に詣でて感慨無量で あった。
賀川は、孫文と中国革命の史跡を参観して「感慨無量」と述べている。彼は、中国革命の偉業を想い、この革命を 成し遂げた中華民族に対する深思( 「感慨無量」 )を表明しているのである。つまり、彼はこの時の中国訪問を伝道よ りも欽慕と謝罪の色合いの強い旅として位置づけていたのであろう。 賀川は、 一九三四年三月一〇日(土)に内山完造に案内されて北四川路の魯迅の寓居であった北四川公寓(ラモス ・ アパート)の一室で彼と会談している。前日の行動については、上海の日本語新聞『日日新聞』の一九三四年三月九 日(金)の「会と催し」欄に、 「賀川豊彦氏歓迎会 九日(三月) 日本人倶楽部」と記されている。つまり、 賀川は、 魯迅と会談する前日は、日本人倶楽部での歓迎会に招待され、その翌日の午前中に、内山完造を介して魯迅と会談し ているのである 。 この会談の前後の魯迅の生活の様子は、 『魯迅日記』に、次のように 記されている。
(一九三四年三月) 七日 晴、嵐。上午同広平携海嬰往須藤医院診。 八日 晴。…夜須藤先生来為海嬰診。内山君及其夫人来訪。為海 嬰施芥子泥罨法、不能眠。 九日 晴。…下午須藤先生来為海嬰診。 十日 雨。上午内山君同賀川豊彦君来談。午后復王慎思信。 復西諦信。夜風。 十一日 星期。雨。上午須藤先生来為海嬰診。
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十二日 曇。午后得『東方の詩』一本。 十三日 晴。晨須藤先生来為海嬰診。 十四日 晴。…下午須藤先生来為海嬰診。 十五日 晴、風。下午須藤先生来為海嬰診。 十六日 晴。…午后須藤先生来為海嬰診。 十七日 晴。下午須藤先生来為海嬰診。 十八日 星期。…下午須藤先生来為海嬰診。
この記述に関しては、丸山昇編『魯迅全集』等の訳文でも紹介され知られていたが、これまでの賀川研究では考察 されてこなかった 。 と こ ろ で、 『 魯 迅 日 記 』 に よ る と、 魯 迅 と 賀 川 が 会 談 し た 三 月 一 〇 日( 土 ) 前 後 の 動 静 は、 七 日 に「 上 午 同 広 平 携 海嬰往須藤医院診」とあり、息子の周海嬰(一九二九
―二〇一一年)がインフルエンザを発症し、魯迅は妻許広平と 看護にあたっている。海嬰の病状は厳しいものであったようで、彼の友人の医師須藤五百三(いおぞう、一八七六
―一九五九年)が、約二週間にわたり往診( 「須藤先生来為海嬰診」 )をしている。また、内山完造は、海嬰の病状を妻 ミキと共に見舞いに行き、芥子の実を粉にして水に溶かした汁に浸した布を患部にあてて熱を冷ます療法おこなった という。 しかし、会談した日に限って、日本人の須藤医師が、周海嬰を往診していない。それは、魯迅が、日本人には顔が 知られている賀川との会談を、須藤に傍聴されることを憚ってのことであろう。 魯迅は、 『日記』に訪問者を記す際、 「人名+来」または「人名+来訪」と“来”という一字で記す事が通常であっ た。 例 え ば 、「 中 華 大 学 学 生 来 」( 一 九 二 七 年 一 一 月 一 〇 日 )、 「 陳 望 道 来 」( 一 九 二 八 年 六 月 三 一 日 )、 「 林 芙 美 子 来 」
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(一九三二年六月一二日) 、等である。 と こ ろ が、 賀 川 豊 彦 の 訪 問 に つ い て は「 賀 川 豊 彦 君 来 談 」 と あ り、 “ 来 ” に“ 談 ” が 加 え ら れ て い る。 魯 迅 が 上 海 に居を移した一九二七年一〇月から一九三五年までの『魯迅日記』を見渡す限り訪問を“来談”と記す例は一〇例に 満たない。なかでも、 「小峰来談、 晩飯后帰去」 (一九二八年七月一三日) 、「増田、 清水二君来談、 留之晩飯」 (一九三一 年 六 月 一 九 日 )、 と あ る 二 つ の 事 例 か ら 敷 衍 し て、 お そ ら く“ 来 ” に“ 談 ” が 付 加 さ れ る 場 合 は 概 ね 長 時 間 に わ た り 議論がなされたことを暗示している。 賀川は、魯迅と議論してどのような印象や思索を持ったのか知らね ば ならない。しかし、魯迅との会談内容を、具 体 的 に 記 し た 記 述 は な い。 や む な く、 賀 川 が、 『 颱 風 は 呼 吸 す る 』 で 魯 迅 を 点 描 し た 断 片 的 な 言 葉、 内 山 の 証 言 か ら 類推するしかない。 まず、賀川は『颱風は呼吸する』の一場面で、陳栄芳(魯迅)に共鳴し中国共産党に肩入れする日本人女性(遠藤 幸子)を登場させ、次のように語らせている 。
あの人達のやうな熱心さがあれ ば 、ほんとに 支那で革命は起こせるやうに 思いますわ
ここでは、賀川は、日本人の言葉として、中国共産党は社会主義革命を実現する、と語らせている。彼は、中国共 産党は孫文につらなる中国革命の正統な継承者であると論断している。 また、賀川は、 『颱風は呼吸する』のなかで、陳栄芳に関する一場面で陳に次のように語らせている 。
河 野 は 大 声 で 叫 ん だ。 『 陳 栄 芳 が 居 る な、 こ い つ は 共 産 党 の 親 分 だ ぞ。 こ の 男 は、 上 海 の 抗 日 ボ イ コ ッ ト の 中 心 人物だぞ』 河野が昂奮しているのに反して、陳栄芳は存外平気であった。 『そりや嘘です。僕は抗日ボイコット
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の煽動なんかしません』
ここでは、日本租界を護る自警団員の河野が、共産党の指導者と目されていた陳栄芳を捕縛して取り調べた一幕が 展開されている。そのなかで「僕(陳栄芳=魯迅)は抗日ボイコットの煽動なんかしません」と語らせている。 賀川は、魯迅が共産党の抗日戦略にかんして一線を画していたことを示唆しようとしている。これは、賀川が魯迅 と会談した際に、彼が直接排日運動に関与していないことを確認したからこそ断言出来得る台詞ではなかろうか。 ただ、魯迅は、日本の雑誌『改造』 (一九三六年四月号)に日本語で「私は人をだましたい」 (中国訳「我要騙人」 、 後『且介亭雑文末編』所収)を書き、次のように述べている 。
遠からず支那では排日即ち国賊、と云ふのは共産党が排日のスローガンを利用して支那を滅亡させるのだと云っ て、あらゆる処の断頭台上にも日章旗を閃して見せる程の親善になるだろうが、…。
魯迅は、今後、日本政府からすれ ば 厄介な抗日運動を、中国政府が愛国運動に名を借りた共産党の革命活動として 弾 圧 す る こ と が、 「 日 支 親 善 」 の 善 後 策 と な る で あ ろ う と 皮 肉 を 込 め て 記 し て い る。 つ ま り、 魯 迅 は、 傀 儡 政 権 に 対 して否定的であった。 賀川が、 “僕は抗日ボイコットの煽動なんかしません”と語らせたのは、 魯迅に反日家のレッテルを貼らせたくない、 彼を庇いたいという一心から出た言動であったのであろう。 そして、 『颱風は呼吸する』の最後部で、賀川は次のように記している 。
駿 治 は、 落 ち 着 い て い っ た。 「 お 願 ひ で す! 私 は 銃 殺 さ れ て も い い が、 ど う か 陳 栄 芳 君 だ け は 助 け て や っ て 下
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さい。実際この人達は、何も悪いことをしていないんです。ただ官軍に殺されることを恐れて、日本租界に逃げ てきただけのことなんです。 」
ここは、 小説の “やま ば ” である。文中の官軍とは、 蒋介石の国民党を示唆している。一九二七年のいわゆる四 ・ 一二 クーデターを境として、蒋介石の国民党は華中・華南の各地で労働者・共産党員・左派知識人を粛清していた。 とりわけ、 斉藤駿治(内山完造)が、 陳栄芳(魯迅)を捕縛した日本軍の陸戦隊に対して陳の命乞いをする場面は、 劇的で賀川の筆先が精彩を放っている。これ程、活き活きした描写は、日中武力衝突の戦時下にあって、内山完造の 魯迅に対する命懸けの保護を知る賀川だからこそうまれてくるのであろう。 また、魯迅は、敵対関係にある国の人間同士の友好関係の樹立に関して次の様に語っている 。
相互に本当の心が見え諒解するには、筆、口、或は宗教家の所謂る涙で目を清すと云ふ様な便利な方法が出来れ ば 無論大に良いことだが、併し、恐らく斯る事は世の中に少いだろう。悲しいことである。 [一九三六年]二月二十三日。
こ こ で、 魯 迅 は、 “ 日 支 親 善 ” を 実 現 す る た め に は、 両 国 人 が 肝 胆 相 照 ら す 仲 に な り 胸 襟 を 開 い て 意 思 の 疎 通 を は かること、もしくは宗教家(イエス)が全ての人に対して憐憫の情をかけた愛のいとなみが得策であるが、これが行 われることは稀であると語っている。 ここで、注釈しておくと、 「宗教家の泪で眼をすすぐ」とは、 『ヨハネによる福音書』一一章三五節にある、イエス (宗教家)がラザロの死を悼んで泪を流した、神の人間に対する憐憫の情を示唆する聖句を暗示していると思われる。 魯迅は、作品に『聖書』の聖句を引くことがある。尾崎秀樹(文芸評論家、一九二六
―一九九九年)によると、魯
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迅の 『藤野先生』 (『莽原』 一九二六年一二月号) のなかに 「爾ら悔改めよ」 の聖句があることから、 太宰治 (一九〇九
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一九四八年)は『惜別』 (一九四三年)において魯迅を基督教徒に仕立てたという 。 と こ ろ で、 内 山 は、 『 上 海 霖 語 』「 陣 立 は 出 来 て い る 」( 一 九 四 二 年 刊 ) に お い て、 魯 迅 の 日 中 間 の 親 善 の 樹 立 に 関 する思いを紹介している 。
今は亡き人である L 先生 (魯迅) は、 「日支親善は出来る、 日本人がモット正直にものをいふことが出来る様になっ たら」と云うのであった。
一方、賀川が、一九三四年に内山完造に向けて満州事変以後の日中間の軍事的緊迫を憂慮し、宗教が無力であるこ とへの焦燥感を語った言葉が残されている。 内山の『上海漫語』に収められた「丙子漫語」に次のようにある 。
先年賀川豊彦氏が来られた時に、 「下手な説教するよりも、木を植えろ木を植えろと私は叫ぶ。 」と云われた事が あ っ た。 そ れ は ホ ン ト ウ だ。 魯 迅 氏 は い つ も、 「 支 那 の 将 来 に は 砂 漠 が 見 え て 居 る。 そ れ 故 に 私 は 戦 ふ。 」、 と 云 うて居られる。
は じ め に 、「 丙 子 漫 語 」 の 表 題 の 丙 と 子 は、 十 二 支 の 組 み 合 わ せ か ら 考 え る と、 一 九 三 六 年 以 前 と な る。 賀 川 の 訪 中時期からすると、彼が魯迅と会談した一九三四年三月の話になる。 当 時、 “ 賀 川 豊 彦 ” は、 世 界 的 な 基 督 教 の 説 教 者 と し て 知 れ 渡 っ て い た。 そ の 彼 が“ 下 手 な 説 教 ” と 発 言 し た 心 情 には、底知れぬ苦悩、自嘲的な苦悩があったのではなかろうか。
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また、 植樹祭は友好関係の記念碑として行われることが多く、 “下手な説教をするよりも、 木を植えろ、 木を植えろ” と語った心境も、友好の礎となることへの催促からであろう。 あるいは、この時賀川の脳裏に『貞観政要』巻一「政体」にある、唐の太宗(李世民、在位六二六
―六四九年)の 格言が去来したかもしれない。それは次のようなものである。
夫レ国ヲ治ムルハ、ナオ樹ヲ栽ウルガゴトシ。本根、揺カザレバ、則チ枝葉茂栄ス。
この格言は、 太宗の国家の統治論であるが、 「そもそも国を治めるのは、 樹を植えるようなものだ。根や幹さえしっ かりしていれ ば 、枝葉は自然に繫茂するものである」という意味である。賀川の意図するところと異なる。 いずれにせよ、内山が、賀川の言葉に続けて魯迅の「砂漠云々」を紹介しているのは、両者の言葉の間に関連性を もたせ、賀川が魯迅の協力者であったことを知らしめようとする意志であろう。 賀 川 は、 翌 年( 一 九 三 五 年 ) の『 雲 の 柱 』 第 一 四 巻 第 一 二 号 の 巻 頭 言「 支 那 民 族 を 愛 せ よ 」 に お い て、 冒 頭 で 一 九 二 〇 年 に 上 海 で 会 談 し た 孫 文 か ら 得 た 提 言 を 回 顧 し、 日 本 の 中 国 政 策 は「 覇 道 」( 武 力 に よ る 支 配 ) で あ る と 批 判し、それに断固反対すると宣言し次の言葉で終わっている 。
支那を援けよ、その時に支那は日本の味方となるであろう。民国を奉仕的に指導せよ、…。
賀川は、中国を“支那”と呼ぶ一方で敬意を表して国名である“民国”でも呼んでいる。彼は、日本が中華民国と その人民に対して、征服者として相手国を見下すようなに振る舞うのではなく、国家的な損得勘定を抜きにして貢献 すべき隣国であると主張している。
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思 う に、 魯 迅 が、 日 本 人 に 伝 え た か っ た 真 意 は、 「 日 本 人 で あ ろ う と 中 国 人 で あ ろ う と、 相 手 の 気 持 ち を 理 解 し よ うとする思いやりが友好の樹立につながる」ということである。賀川と魯迅の会見の話の核心も、ここにあったので はなかろうか。 曾て、私は、拙論において賀川の対中国観が、一九二〇年の孫文との対談に淵源することを論じてきた。賀川の意 識は、孫文との会談から一五年の歳月が経過しても変わっていない。彼は、魯迅と語り合い日中友好を民衆に説くこ とを使命感と認識していたのである 。
第三章、賀川豊彦と第一次上海事変の謝罪
賀川は、一九二七年頃から中国プロテスタント教会の統一組織である中華全国基督教恊進会の総主事で友人の誠静 怡(牧師、一八八一
―一九三九年)の後押しをうけて、中国での平和運動を展開していた。 その後、賀川は、満州事変以後の日本の軍国主義の嵐に翻弄されながら、一九三四年二月から三月にかけてフィリ ピンでの伝道を行い、帰途に香港・広東・上海を訪問し帰国している。賀川は、フィリピン伝道に対する並々ならぬ 決意を歌に託している。 賀川の和歌による自叙伝とも言うべき歌集『銀色の泥濘』 (桜美林学園出版部、一九四九年)所収の歌「空を飛ぶ」 に、次のように記されている 。
恐れざれただ道のために 十字架をいとはず進め殉教の道 南洋の空に死ぬべき身なりとも伝へでやまじ十字架の道 二 ・ 一九、比島
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賀川のフィリピンでの伝道は、飛行機を利用して島々を巡るもので、飛行機に搭乗すること自体、彼にとって危険 を 冒 し た 旅 行 で あ っ た。 こ の 歌 に は、 賀 川 の 宣 教 者 と し て の 悲 壮 な 使 命 感 が 謳 わ れ て い る。 た だ、 「 殉 教 」 と い う 言 葉が使われていて、重苦しさを感じさせるものにもなっている。 フ ィ リ ピ ン は、 ス ペ イ ン 統 治 時 代 以 来、 カ ト リ ッ ク の 信 仰 が 広 が っ て い た 地 域 で あ り、 「 殉 教 」 を 覚 悟 す る 開 拓 伝 道の未開の土地ではない、やはり、後に控えていた中国訪問と彼の地での謝罪伝道が、賀川の心に重く圧し掛かって いたのではなかろうか。 実は、賀川は、フィリピン伝道の出発前から、帰り道に上海に立ち寄ることを決意していたのである。このことは 「武庫川のほとりより」に、次のようにある通りである 。
私は、…。二月一日門司発扶桑丸で台湾に出て、台湾高雄の二月九日発メキシコ丸で、フィリピン伝道に出かけ る。 フ ィ リ ピ ン に は 二 月 十 二 日 に 着 い て、 十 六 日 間 滞 在 す る 予 定 で あ る。 帰 り は、 香 港、 広 東、 上 海 等 を 経 て、 長崎経由、日本に帰ってくる予定にしている。
ま た、 賀 川 は、 紀 行 文 の「 難 航 の 四 十 日 」 の な か で も、 中 国 に 対 す る 深 遠 な 思 い を 綴 り、 「 感 慨 無 量 」 と 記 し て い る 。
かえり道は、香港、広東、上海で話をした。広東で孫逸仙の記念堂や革命の七十二志士の墓に詣でて感慨無量で あった。
賀川が魯迅と会談した一九三四年三月、日中関係は緊迫した軍事対立の最中であった。また、当時、賀川は日本の
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軍国主義者から疎まれ、国内外で官憲の監視下に置かれていた。賀川は、当時の苦悩を歌にたくして謳っている。 例え ば 、「神の愚者」に、 「満州事変に 反対し、 東京市ケ谷見付に『賀川を殺せ』の貼札が所々に出ているのを見て」 と後書きがあり、歌には次のように記されている 。
日は曇り声はかるれど燃え立つは日本を救ふ愛の血潮よ 夕闇も暗くあらざるその幸よ心の底に ともす灯陰に いう勿れ誰か愚かといふ勿れ神の愚は人より賢し
賀川は、一九三一年に勃発した満洲事変に反対し事件を起こした軍部を批判した。そのため、東京の市ケ谷見付に 「 賀 川 を 殺 せ 」 の 貼 紙 が 貼 ら れ る 事 態 に 陥 っ て い た。 賀 川 は、 官 憲 か ら 危 険 人 物 と 見 做 さ れ て い た。 そ の こ と は、 魯 迅も内山を通じて知っていたであろう。 ところで、賀川は、魯迅との会談の翌日に上海の歩行街・多倫路に ある中国人教会の鴻徳堂教会で中国人信徒に対 して、第一次上海事変での日本軍による上海市民への残虐行為を謝罪している。彼は、涙ながらに日本軍の残虐行為 を阻止できない無力を詫びたという。また、賀川は、鴻徳堂教会で話をした際、日本軍の非道な攻撃によって親族を 失った中国人信徒達から温かく迎えられ、感激の涙を流したという。 今、幸いなことに、当時の賀川の上海での行動を記録した文章が残されている。彼は、随筆「燃ゆる憎悪と復讐心 を祈祷で征服し愛敵のよろこびに生き心からゆるしを体験」において、以下のように記している 。
〔上海事件に〕 あの上海事件の時であった。支那人の教会の牧師が日本軍に捕へられて、 いよいよ銃殺ときまった。 そのとき、その支那人の牧師は、生前最後のいのりをさせてくれと願ひ出た。ゆるされて厳粛な態度で最後のい
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のりをささげた。終って従容として死につかんとした時、どうおもったものか指揮官の一人が、今や銃火をあび せんと砲口をむけて引き金に手をかけんとしていた兵士へ「やめ!」の号令をかけて、その牧師は釈放された。 〔恨みに悶える〕 その牧師の教会の会員に一人の人がいた。彼はやはり上海事件で愛する母と子を殺されてしまっ た。その恨みが心に燃えてどうしても消えない。憎い日本、恨めしい日本人といふ心はいよいよ高まった。その 時、 賀 川 豊 彦 氏 が ヒ リ ツ ピ ン 伝 道 の か え り 道 に 上 海 へ 立 寄 る と き い て、 日 本 人 で あ る カ ガ ワ も 憎 い と お も っ た。 しかし同じ神を信ずる同志をにくいとおもふ心を反省して悶へた。…。 〔 講 演 に は 通 訳 を 〕 賀 川 氏 が 上 海 へ 上 陸 し た と き に は、 か が や い た 顔 を し て、 同 信 同 志 と し て 心 か ら 迎 へ る こ と が出来た。そして講演会には、自ら通訳者として壇上に並んで日本語を支那語へ移すのであった。賀川氏はその 時、キリストの十字架のあがなひとゆるし、救いを説いた。説くものも、通訳するものも、きくものも涙にむせ んでキリストの十字架による大いなるめぐみに濡らされた。
この話は、意図的に創作されたフィクションではない。 今、当時の実情を知る人物である更井良牧師の回想録が残されている。更井良氏は、一九三四年に上海中日組合教 会の伝道師として活動していた。更井氏が、賀川の謝罪説教の経緯について記した「神よ 彼等を赦し給え」による と、次のようにある 。
〔第一次上海事変直後〕 「肉弾三勇士」で当時さわがれた第一次上海事変直後の昭和九年三月のこと、賀川先生が フィリッピン伝道の帰途、上海に立ち寄られることになった。…。北四川路の西入るにある鴻徳堂(教会)の謝 牧 師 が 来 訪 し、 「 次 の 日 曜 日 の 賀 川 先 生 に よ る 特 別 礼 拝 を 私 方 に 譲 っ て ほ し い 」 と 申 し 込 ま れ た。 こ の 要 求 さ れ る 理 由 は、 「 第 一 次 上 海 事 件 の 時、 鴻 徳 堂 の 信 徒 と 牧 師 た ち は、 上 海 の 西 北 区 域 で、 日 本 軍 の 集 中 砲 火 で 焼 け 出
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された人々を迎えて祈祷会を開いていた時、日本の海軍陸戦隊の一隊がこの会堂を包囲し、集うた人全員を何処 か へ 連 行 し、 こ れ ら の 人 々 は 再 び 教 会 へ は 帰 っ て こ な か っ た。 全 員 が 虐 殺 さ れ た の で あ っ た。 以 来 こ の 教 会 は、 牧師を始め信徒一同は日本軍及び日本人に対して怨みに似た不快な感情をもって眺めていた。謝牧師はこの地区 は日本人の居留者が多いので、この憎しみの感情を持っていては教会ができないと長い間悩みつつ解決を神に祈 り 求 め て い た。 」 …。 こ の 申 し 出 に よ り 関 係 者 一 同 が 緊 急 協 議 し て、 賀 川 先 生 の ご 同 意 が あ れ ば 、 日 本 人 ク ラ ブ で の 連 合 礼 拝 の 特 別 説 教 を し て 頂 く 先 生 を 鴻 徳 堂 に お 譲 り し よ う と い う こ と に な っ た。 日 本 郵 船( 船 名 は 忘 却 ) でマニラから上海に入港した船上で、先生に右の事情を申し上げたところ暫くご考慮の末、行こうと仰言ったの で、私共は当時日中間が怪しい雲行きだったので、無事故に明日の礼拝がすめ ば よいが、と心配しつつ謝牧師に 承諾の返事をした。いよいよ日曜日の朝、先生をお泊めしていた多賀愛姉と私と、そしてこれを危険と見た上海 日本領事館警察部の西尾刑事がポケットにピストルをかくして先生を護衛すると同行した。…。鴻徳堂には既に 四百名、 礼拝堂の階下は満席であった。…。突然、 予期もしなかった先生の泣き声が響きわたり、 それから、 「
Jesus said,“
Father, forgive them ; for they know not what they do !”」 (ルカに よる福音書二三章三四節そのときイエ ス は 言 わ れ た。 『 父 よ、 彼 ら を ゆ る し て く だ さ い。 彼 ら は な に を し て い る の か、 わ か ら ず に い る の で す。 』) と 泣 き な が ら 話 さ れ た。 こ の 英 語 を 上 海 語 に 謝 牧 師 が 訳 さ れ る と、 先 生 は 声 を あ げ て ま た 泣 き な が ら、 「 私 は 今 朝、 説教しに来たのではありません。お詫びに来たのです。 」と言われた。日本軍の暴虐を兵に代わって会衆に詫び、 神にゆるしを乞われた。…、終わった瞬間会衆は席を立って全員説教壇に押し寄せ、互いに無言のままで、先生 に握手を求めた。
この賀川の鴻徳堂教会での説教の日時は、文中に礼拝が“日曜の朝”とあること、また彼が同月一四日に帰国して い る こ と か ら し て、 上 海 を 一 二 日 に は 出 帆 し て い な け れ ば な ら ず、 三 月 一 一 日 の 日 曜 日 の こ と で あ る と 推 定 さ れ る。
それは魯迅との会談の翌日のことであり、彼の沈痛な想いが重層的に高揚していたであろう。 謝牧師とは、おそらく謝永欽牧師のことであろう。彼は、中国の教会が外国ミッションの支配から解放されて、中 華民族が自ら教会を治め、自らの経済において立ち、自らの力によって伝道する所謂「三自愛運動」を推進したこと で知られている。なお、この話は、内山完造の『生ける支那の姿』にも一部紹介されている 。 ところで、賀川は、中国の基督教徒にも信奉者をもっていたことは、戦後に開かれた座談会での内山の回想録「支 那を語る
―内山完造氏を囲み
―」に証言があるところである 。 繰 り 返 す が、 賀 川 は、 上 海 事 変 に 遭 遇 し 身 内 を 殺 さ れ て も 信 仰 を ま も り、 憎 し み を 愛 に 変 え た 中 国 人 信 徒 を 想 い、 日 本 の 侵 略 行 為 に 沈 痛 な 罪 悪 感 を 懐 い て 謝 罪 し て い た の で あ る。 賀 川 は、 『 颱 風 は 呼 吸 す る 』 の な か で、 主 人 公 の 内 山をモデルとしたと思われる斉藤駿治の口をかりて戦争回避の使命感を熱く語っている。彼は、小説のなかでも日本 の侵略行為を恥じ、日本軍部を叱責し、中国人民に対して謝罪している 。
俺は売国奴ぢ ゃ ないよ。 狭
きょう量
りょうな愛国心だけでは、日本を救ふことは出来ないよ。俺は、大亜細亜のために、支那 と日本がもう少し、仲好くしなけれ ば ならぬと思っているんだ。
と り わ け、 「 狭 量 な 愛 国 心 だ け で は、 日 本 を 救 う こ と は 出 来 な い 」 と い う 言 葉 に は、 日 本 の 横 暴 な 国 家 主 義 を、 日 中間の友好にとっての障害であるとして否定している。また「大 亜
あ細
じ亜
あのために」は、彼の鴻徳堂教会での謝罪説教 での思いが、決意となって現れている。 賀川にとって、鴻徳堂教会の中国人信徒が、敵国人である彼に対して取った態度は、戦時下にあっても神の愛は存 在しているとの確信をもたらしたであろう。 この愛の奇蹟は、賀川が魯迅と会談した翌日の出来事であり、魯迅には伝えられていない。だが、賀川の胸中を察
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するに、前日に魯迅から彼に語られたであろう日中友好への営み
―「砂漠」 (戦争)に「樹」 (平和)を植えろ
―とな り謝罪説教の励みとなったのではないだろうか。
おわりに
賀川は、上海で一九三四年三月一〇日午前、内山完造に同道して自宅を訪れ魯迅と会談した。 内山は、一九三六年一〇月の魯迅の逝去を、すぐさま長文の文面に記して賀川に送った。内山の一刻も早く知らせ たいという思いが伝わってくる。これは、暗に賀川が魯迅のよき理解者
―内山の言葉では「面識がある」
―であった ことを示唆している。 賀川と魯迅の会談は、息子の病気という面倒な条件があったにも拘らず、内山と魯迅の周到な準備もあって秘密裡 に行われた。魯迅は、会談では内山と親交がある賀川に対しては心を開いて本心を吐露し、賀川もまた翌日に鴻徳堂 教会での謝罪説教を控えていて沈痛な想いを魯迅に告白したであろう。 『 颱 風 は 呼 吸 す る 』 の 台 詞 か ら 会 談 内 容 を 推 察 す る に 、 魯 迅 は、 共 産 党 を 支 持 し て い る が、 そ の 抗 日 運 動 の 戦 略 に は 同 調 で き な い も の も あ る、 と 賀 川 に 語 っ た の か も し れ な い。 ま た 魯 迅 が 賀 川 に 伝 え た か っ た 話 の 核 心 は、 「 日 本 人 であろうと中国人であろうと、相手の気持ちを理解しようとする思いやりが友好の樹立につながる」というものでは なかろうか。 賀川は、魯迅と内山完造の友情を『颱風は呼吸する』の物語のなかに凝縮して溶け込ませ、彼等の姿を日中友好の シンボルとして文章に 認
したためたのである。また、彼は、魯迅を憶い宗教的な平和活動による「日支親善」に懐疑的にな り、戦争回避のための現実的な行動を取るべきと主張し、 “支那を援けよ” 、“民国を奉仕的に指導せよ” 、と宣言した のである。
敷衍して、中国の歴史家が、賀川の日中戦争を回避するための“基督教博愛主義”による平和活動に対しては、中 国人民の抗日運動の熱情に“冷や水”を浴びせた行為と酷評しているのは、賀川の中国での平和活動の実際に関する 歴史認識の不足からくる誤った評価といえるのである。
[註]
(1)賀川豊彦の伝記は、国内外を含めて数多くある。雨宮栄一『貧しい人々と賀川豊彦』(新教出版社、二〇〇五年)。隅谷三喜男『賀
川豊彦』(岩波書店再販、一九九五年)。武藤富男『賀川豊彦』(キリスト新聞社、一九八一年)、河島幸夫『賀川豊彦の生涯と思想』
(中川書店、一九八八年)、黒田四郎『私の賀川豊彦研究』(キリスト新聞社、一九八三年)、田中芳三編『神はわが牧舎』(イエスの
友の会大阪支部編、一九六〇年)。横山春一『賀川豊彦伝』(キリスト新聞社、一九五一年)、林啓介『賀川豊彦』(徳島出版社、
二〇〇二年)。鳥飼慶陽『賀川豊彦と現代』(兵庫部落問題研究所、一九八八年)、神戸学生・青年センター『賀川豊彦の全体像』(神
戸学生・青年センター出版部、一九八八年)、ロバート・シルジェン『賀川豊彦』(新教出版社、二〇〇七年)、K-H・シェル『賀
川豊彦』(教文館、二〇〇九年)等以外にも多くの書物が出版されている。
(2)米沢和一郎「賀川豊彦の戦時下における侵略謝罪の意義」(『賀川豊彦研究』三一号、一九九六年)、阮仁澤 高振農主編『上海宗
教史』(上海人民出版社、一九九二年)、一〇〇五頁。近年のこの分野の研究成果は、布川弘『平和の絆』(丸善株式会社、二〇一一
年)があるが、魯迅には触れられていない。
(3)藤井省三『ロシアの影 夏目漱石と魯迅』(平凡社、一九八五年)、一九九頁。賀川豊彦と魯迅は、ともに文学家である。もしも、
彼等に共通する文学的資質があるとすれば、それは詩的な感性を持っていたことかも知れない。例えば、林芙美子(一九〇四―一九五一年)は、武藤康史編『林芙美子随筆集』(岩波文庫、二〇〇三年)一四一頁のなかで、魯迅の詩に対する嗜好について述べ
ている。「魯迅氏に逢ったのは一九二九年の秋と、一九三二年の欧州よりの帰り、つつましい生活をしていられた。故郷とか家鴨の
喜劇、阿Q正伝は心愉しい作品だ。このひとは詩を沢山読み、詩を歌う。…。魯迅氏へ長い手紙を書いた。 六月十七日」。
おそらく、二人は、対面した際、直観的に共鳴するところが多かったのではなかろうか。賀川は、本来、宗教家であり、真理を直
観的な印象、禅の語録のように語ることがある。
(4)『颱風は呼吸する』(第一書房、一九三七年)は、現在『賀川豊彦全集』(キリスト新聞社、一九六四年)の第一七巻に収められて
いる。
(5)金子光晴『どくろ杯』(中央公論社、一九七一年)一三八~一六二頁。
詩人金子光晴(一八九五―一九七五年)は、自伝小説『どくろ杯』のなかで、放浪生活(一九二八―一九三二年)を送った上海で 見た魯迅について、秋田義一(作家村松梢風、一八八九―一九六一年)の言葉を引いて紹介している。それには、次のようにある。
「アナルシスト(無政府主義)から、コムニスト(共産主義者)に転向しようとして、懊悩苦悶しているところだ」(一五九頁)。
金子は、上海では内山書店に出入りしていて、魯迅、郁達夫(一八九六―一九四五年)、郭沫若(一八九二―一九七八年)等と交流
する機会があり、内山には生活の面倒までみてもらっていた。賀川も、金子同様に内山の紹介で中国知識人と面識をもつことがで
きたのである。
(6)資料としては、『颱風は呼吸する』は『賀川豊彦全集』一七巻を底本とし、『魯迅日記』は人民文学出版社版(二〇〇六年)を底
本とし、『雲の柱』([復刻版]賀川豊彦記念・松沢資料館、一九九〇年)は大阪府立図書館蔵本を底本とした。
(7)増田渉『魯迅研究』(八雲書店、一九四八年)、一三七頁。
(8)内山完造『魯迅の思い出』(社会思想社、一九七九年)二二頁。
(9)許広平・松井博光訳『魯迅回想録』(筑摩書房、一九六八年)「内山完造さん」一三一~一三二頁。
(
0)佐藤竜一『日中友好のいしずえ』(日本地域社会研究所、一九九九年)三六~三七頁。
当時の魯迅は、一九三〇年三月二日に中国共産党江蘇省委員会の指導で結成された文学・芸術・演劇各界の統一戦線組織の所謂「左
聯」の代表であったが、中国共産党には入党していない。
(
)太田哲男『清水安三と中国』(花伝社、二〇一一年)一一〇~一一二頁。
( )『百三人の賀川伝』下(キリスト新聞社、一九六〇年)四二頁。
(
)『雲の柱』第十六巻・第一号(昭和十一年十二月)「魯迅の死と世論」三〇~三一頁。
(
)『賀川豊彦全集』第一七巻、三六九~四七三頁。
(
)『賀川豊彦全集』第一七巻、四五一頁。
(
6)『魯迅日記二』(人民文学社、二〇〇六年)四三八頁。
(
7)『雲の柱』十四巻一号(昭和十年一月)八頁。
(
8)「身辺雑記」『賀川豊彦全集』第二四巻一八二頁。
(
9―)池田鮮『曇り日の虹上海日本人YMAC
0―年史』(教文館、一九九五年)二〇四頁。
(
0)日本の『魯迅全集』一九巻(学習研究社、一九八六年)の丸山昇氏の訳文には「十日 雨。午前、内山君、賀川豊彦君とともに
来談」とある。
(
)『賀川豊彦全集』第一七巻、四四三頁。
(
)『賀川豊彦全集』第一七巻、四七〇頁。
(
)訳文の底本は松枝茂夫編『魯迅選集』(岩波書店、一九五六年)第十二巻、二六七頁による。
【原文】不久之后、恐怕那「親善」的程度、竟会到在我們中国、認為排日即国賊―因為説是共産党利用了排日的口号、使中国滅亡的 縁故,―而到処的断頭台上、都閃爍着太陽的圓圏的罷、但即使到了這様子、也還不是披瀝真実的心的時光。
(
)『賀川豊彦全集』第一七巻、四七二頁
(
)『魯迅選集』第十二巻、二六七頁。【原文】要彼此看見和了解真実的心、倘能用了筆、舌、或者如宗教家之所謂眼泪洗明了眼晴那
様的便當的方法、那固然是非常之好的、然而這様便宜事、恐怕世界上也很少有。這是可以悲哀的。
(
6)尾崎秀樹『魯迅との対話』(南北社、一九六二年)一一七~一一八頁。
魯迅の弟周作人(一八八五―一九六七年)は、日本留学中に人道主義的白樺派の影響を受けて、兄魯迅に宛てた手紙で、「私は基督
教徒ではないが、基督を崇拝している人間である」、と告白しているという。周作人「抱犢谷通信」(『語絲』第十二期、一九二五年
二月二日)。中島長文『ふくろうの声 魯迅の近代』(平凡社、二〇〇一年)には、実弟周作人のキリスト教思想が紹介されている。
一九一~一九八頁。
(
7)『上海霖語』(大日本雄弁会講談社、一九四二年)八八~八九頁。
(
8)内山完造『上海漫語』(改造社、昭和一三、一九三八年)一六四頁。
(
9)『雲の柱』第一四巻第一二号(昭和十年、十一月)一頁。
(
0)浜田直也『賀川豊彦と孫文』(神戸新聞総合出版センター、二〇一二年)。「孫文と賀川豊彦」『孫文研究』
0(孫文研究会、
二〇〇一年)。
(
)「銀幕の泥濘」『賀川豊彦全集』第二〇巻、二三六頁。
(
)「身辺雑記」『賀川豊彦全集』第二四巻、一七九頁。
(
)「身辺雑記」『賀川豊彦全集』第二四巻、一八二頁。
(
)「銀幕の泥濘」『賀川豊彦全集』第二〇巻、二三六頁。
(
)『神の国新聞』(昭和九(一九三四)年四月四日号)。
(
6)『クリスチャングラフ』一九八二年四月号。
(
7)内山完造『生ける支那の姿』(學藝書院、一九三五年刊)。
(
8)内山完造「支那を語る」『魯迅の思い出』一六二頁。
(
9)『賀川豊彦全集』第一七巻、四七一頁。