ボッケルマンの行為者責任論
1 責 任 主 義 と 人 格 責 任 論 ( 三 )
ボ ッケル マ ンの行為 者責任 論
目次
一序説
ニボッケルマンのメツガーに対する批判
三行為者責任論の基礎
四行為者責任論の内容
五行為者責任論と責任主義
六結語 川崎一夫
一序説
1 一九三〇年代にメツガーは性格責任論から一歩を進めて行状責任論を展開した︒このメツガーの行状責任論は︑ボ
ッケルマンによって︑その著﹁行為者刑法の研究第二巻﹂(充四〇年)において批判的にとりあげられ穐その批判
がどのようなものであったかは︑後述することにしよう︒ここではボッケルマンの基本的な刑法観について若干触れ
ることにし︑以下の論述の助けとしたい︒
一九三三年のドイッ刑法改正において︑新二〇条aが新設され︑危険な常習犯人には刑が加重されることになり︑し
かも四二条において﹁公けの安全が必要とするときは﹂保安拘禁の併科が認められた︒これについて︑このばあい刑
罰と保安処分とが同じく行為者の犯罪心理学的特性に向けられ︑同一の目標を達成しようとするものであり︑両者は
きわめて近接した関係のものであるとして︑両者の∪ロ昌ω日ロ︒︒を主張する見解に対して︑ボッケルマンは反対する︒
(2)ボッケルマンは︑このばあいにも︑刑罰と保安処分の本質的相違にもとつくN毛︒善鼠ひq吋簿(二元主義)を主張する︒
これによると︑常習犯罪者の防圧という予防任務は︑保安拘禁が果さねばならぬものであり︑加重刑は︑これとは異
なった意味をもつものである︒このようにして︑ボッケルマンは︑刑罰と保安処分とは本質的に厳格に区別されなけ
ればならず︑本来︑保・安処分が担うことになっている予防目的を刑罰の中に混入させることに反対する︒では︑常習犯
罪者に対する加重刑の他の意味とはなにか︒これは︑ボッケルマンの刑罰観から明らかになることである︒刑法典が
刑罰と保安処分とを厳格に区別し︑保安処分から刑罰的性格を一掃し︑その機能を予防的なものにとどめ︑他方︑刑
罰から予防的な要素を除去したが︑刑法典そのものは︑積極的に刑罰観を提示していない︒そこで︑ボッケルマンは
(3)刑罰の正当化が贋罪思想のなかに存在すると述べる︒すなわち︑厳格な二元主義からの当然の結論として︑刑罰をも
ってどのような目的が追求されようとも︑購罪に必要な限度と範囲においてのみ刑罰が許容されとするのである︒ボ
ッケルマンは次のようにいう︒﹁刑罰の正当化は︑絶対的なものでなければならない︒⁝⁝蹟罪されるべきものは責
任でなければならず︑責任思想と瞭罪思想との結びつきは︑不可避である︒そして刑罰の意味は無価値判断のそれで
あり︑そのばあい︑判断の基準を与えるのは︑社会侵害性ではなくて︑人間的な非難性である︒刑罰を科す場合の正
義のパトスは︑必ずや瞭罪としての刑罰に特徴的なことである︒このような要素によって︑刑罰概念は決定されなけ
(4)ればならない︒﹂このように︑ボッケルマンは︑刑罰i蹟罪ー責任という絶対的な刑罰観を主張している︒それで
ボ ッケル マ ンの行為者 責任 論
3 は︑危険な常習犯罪者に対する加重刑もそれが刑罰である以上︑原則的には責任‑贈罪‑刑罰という絶対的刑罰
観にそって理解されなければならないのであろうか︒ボッケルマンは︑﹁いったい瞭罪と責任︑応報と非難というの
は︑個別行為との関係が特徴的でなければならない概念であるのか﹂という疑問を投げかける︒伝統的な立場からは︑
それらの概念が個別行為との関係においてのみ考えられているのであり︑瞭罪思想を承認することと行為者責任ない
しは行為者刑の主張とは両立しないという結論が必然的に導びき出されるであろう︒しかし︑ボッケルマンは︑これ
と見解を異にする︒彼によれば︑応報思想を個別行為に制限しようとすることは︑法領域における歴史的な現象形態
(5)にすぎないのであり︑なお購罪思想と行為者責任行為者刑の両立が可能であるとされる︒かくして︑ボッケルマ
ンは︑行為者責任ー行為者応報ー行為者刑という考えを︑行為責任ー瞭罪i‑行為刑の体系とあわせて提案す
ることになる︒この考えは︑前述したように︑刑罰と保安処分のほかに行為者刑を認めるものであり︑いわば三元主
義の主張となっている︒しかし行為者刑の考えは︑責任‑応報刑罰という形で展開されているものであり︑一
方において保安処分と厳格に区別されつつ︑他方において行為刑と同じ構造のもとに理解されているから︑ボッケル
(6)マンの考えは︑基本的には二元主義であると思われる︒
さて︑ボッケルマンの見解が基本的には二元主義であるとする理解は︑責任主義との関係で問題を含んでいるよう
に思われる︒ここにいう責任主義とは︑単に責任なければ刑罰なしという標語的意味において理解されるものでは
なく︑罪刑法定主義とならんで近代刑法を支える人権保障原理としてより深く実践的意味を担うべきものである.そ
れは︑罪刑法定主義が罪と刑の法定によって人権保障に寄与しようとするのに対し︑罪における責任と刑との関係を
律することによって同じく人権保障に貢献しようとするものである︒従って︑刑罰の前提としての責任は︑違法行為
についての責任を意味する︒ボッケルマンも︑いうまでもなく責任主義を強調して刑罰と保安処分とのN器善邑伽q冨搾
を是認したのであった︒しかし︑彼は︑個別行為責任を越えて︑行為者責任ー行為者応報‑行為者刑の体系をも
提唱し︑三元主義的な考えを表明したが︑その考えが基本的に一一元主義のそれであるとすれば︑行為者責任の思想と
責任主義との関係が問題とならざるをえない︒以下︑この点に留意しながら︑ボッケルマンの行為者責任論について
検討を進めることにする︒
(1)ωけ鼠δ昌N二旨↓緯興ω鐸9︒謹09計一・↓︒出(一〇ωO)⁝b︒・目o目(一逡Oンこのボッケルマンの﹁行為者刑法の研究﹂についての我
国における論稿として︑佐伯千似.刑法に於ける期待可能性の思想(昭和二二年)五八四頁以下︑大谷実・人格責任論の研究
(昭和四七年)︼四二頁以下などがある︒とくに大谷教授の研究は詳細をきわめており︑本稿の執筆にあたって参照させてい
ただいた︒ここに記して謝意を表したい︒
(2)
(3)
(4)
(5)
(6) ゆoo吋o一日四口Pho●↓o戸Qo.9一・
切Oo犀o一日o口戸O●PO●ω.窃蔭・
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ヒdoo吋①目B餌口口"p".○●竃企
大谷・前掲書一四六頁参照︒
ニボッケルマンのメツガーに対する批判
ボッケルマンがメツガーの行状責任論を批判的にとりあげたが︑その批判がどのようなものであったかを知ること
は︑ボッケルマン自身の行為者責任論の基盤を知るうえに有益であると思われる︒
ところで︑すでに序説で述べたように︑ボッケルマンは︑基本的には二元主義に立脚しつつ三元主義的刑法観を提
案した︒これとの関係で︑ボッマルマンはメツガーに対し︑その根本的な刑法観に批判の目を向けることになる︒ボ
ッケルマンにょれば︑メツガーの責任論は二重の二元主義刑法体系︑すなわち行為責任と行為者責任に対する腰罪刑
(1)および行為者の危険性に対する保安刑と保安処分︑を是認することになっているとする︒基本的に一一元主義に立脚し
ボ ッケル マ ンの行 為 者責任 論
5 つつ三元主義的刑法観をとるボッケルマンにとって︑いわば四元的刑法観を提示するメツガーの見解には賛成しがた
かったことであろう︒とくにそのなかでも︑行為者の危険性に対する保安刑は︑ボッケルマンの基本的立場と相容れ
るものでなかったということは容易に推察しうるのである︒
ところでボッケルマンは︑メツガーのこのような二重の二元主義刑法観に対し︑次のように批判を試みている︒そ
の批判とは︑メツガーの理論とボッケルマンが基本的に認める一一元主義とは︑相容れないものであるというものであ
る︒いいかえれば︑危険な常習犯人に関する二〇条aや限定責任能力者に関する五一条二項などに規定している刑罰
もまた責任刑であるにもかかわらず︑二元主義を放棄してしまったメツガーは︑論理必然的に統}的刑罰概念を犠牲
にして︑順罪刑と保安刑を並置するという多元的刑罰概念に移行してしまった点が︑ここで批判されることになる︒
ボッケルマンによれば︑メツガーの見解は︑刑罰の内容決定(瞭罪の理念によって決定された範囲内において一般予防目的
と特別予防目的とを考慮すること)と︑刑罰の正当化(刑罰を賄罪・応報として根拠づけること)との区別を断念してしまっ
(2)ているということになる︒このようにして︑ボッケルマンの批判は︑メツガーの多元的刑罰概念へと向けられてい
く︒メツガーが多元的刑罰概念を説くことになったのは︑二〇条aや五一条二項において︑刑罰が保安機能をも担わ
(3)なければならないと考えたからにほかならない︒いいかえれば︑彼は︑四二条a以下の処分が保安の必要性を満足さ
せないという観点から︑そのような場合に刑罰が保安任務を引受けなければならないとしたことの結論として︑多元
的刑罰概念を主張七たのであった︒これに対し︑ボッケルマンは︑二〇条aや五一条二項の場合にも︑メツガーのい
うように︑刑罰が保安機能を引受けなければならない必要性を認めがたく︑そのような必要性が︑精神病学の見解に
照しても明らかでない︑とした︒しかし︑ボッケルマンは︑このような批判と同時に︑メツガーが行為者責任と行為
者応報の思想を正当なものとしたこと︑および行為者原理と責任のドグマの統一を可能なものとしたことについて
(4)は︑これを高く評価することができるとしたことに注意する必要があろう︒