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アンコール・ワットの歴史的・宗教的 背景とカンボジアの近世史

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アンコール・ワットの歴史的・宗教的 背景とカンボジアの近世史

重  藤  威  夫,

1 2 3 4

アンコール・ワットの歴史的背景 クメ門ルの民族精神

クメールの宗教とアンコ・一ル・ワット

カンポジヤと西洋諸国との交渉

1 アンコール・ワットの歴史的背景

 扶南(フーナン)は昔時,メコン河谷に与えられた名称であった。そのメコン河谷は現 代のカンボジア,南部ラオス及び交趾支那の地域を包含している。この扶南がクメール民 族の本拠である。扶南はチャムと同様にインドからの絶えざる移住民によってインド化さ れた。インド人の移住は西紀前アレキサンダー大王(356−323B.C.)時代よりも早くか ら始っていた。バラモン教徒(ブラーマ教徒),商人,僧侶及び冒険者達は,自国の文化 と宗教をもって扶南に移住して来て,そこで富を得ようとした。彼等はいたるところで活 躍し,扶南とその周囲の地方で,クメール民族及びチャム民族と接触した。カンボジや人

とは外国人がつけた名称で,カンボジや人は自分たちのことをクメール (Khmers)と呼 んでいる。カンボジや人とは,往昔の民族的神話に現れた彼等の先祖の一人,即ち,カン ブー(印度g)神(ρ一人)という人物の子孫の意味である。

 要するに,クメール民族は,三千年の昔からたえずインドから渡来した僧侶や商人や移 民によって開化された原住民である。彼等はこのように外国人,主としてインド人から文 明の恩恵を受けたのである。そしてその間に最初の芸術的衝動を受けたのである。しかし 現代にカンボジヤの地に残るアンコール。ワットを初とする世界的に著名な遺趾の多数は,

彼等が外来の文化を自己の個性にしたがって変形修正することによって建造したものであ

る。

 カンボジや国は,・初からこのフーナン全地域を支配していたのではなく,次第に領土を 拡げた。クメール人が交趾支那を支配したのは,メコン・デルタに居った先住民族である チャム入を征服してからである。西紀3世紀頃から,西暦7世紀の央頃にいたるまで繁栄 をつづけた。しかし8世紀になると遂に無政府時代を現出し,外敵の侵略をうけるように

なった。

 しかし西暦9世紀初頃以降は,ジャヤヴァルマンニ世王 (Jayavarman皿,,西暦802一

(2)

854)が現れるに及んで, カンボジや全土に統一支配権を確立し,王朝の基礎を固めた。

王朝の発展に伴って首都をアンコール・ワットを中心に建設した。その一つは,現代のバ イヨンの前面にあるプノン。バッケン(Phnom Bakheng)の丘に建設された。プノンと はカンボジや語で山を意味する。

 カンボジや王国の全盛時代には,1市13省を領域とした。国運華かであったアンコール

・ワット時代 (西暦…9−12世紀)には,120の土侯を支配下に有し,多i数の軍兵を以て,

現代のカンボジヤを中心に,交趾支那,ラオスの南部,シャムの一部をその領土とし,

一時は遠くマラヤ地方を支配したことがある。かくてインドシナ半島における文明の中心

:地となった。

 クメール民族はインドシナ半島の北西からやって来て,メコン河デルタに居ったチャム 族を追払った。メコン・デルタは肥沃な土地で米作に適し,また狩猟と漁業が可能であっ た。そこで彼等は支那人に扶南として知られている有力な一王国を建設した。その王国の 起源は,そのバラモン教への入信と同様に神秘と神話によらて覆いかくされている。その 神話によれば,ナーガ(Naga)即ち,聖蛇と称される王族によって支配されていた。

 クメール民族の君主は有能で戦闘を好んそいた。遠くマラヤまで遠征を試みた。使節達 が支那と印度に派遣された。クメール民族の初期の歴史については,支那の年代記が最も 価値を有する史料である。西暦第3世紀から第12世紀にかけて,クメール王国は有力な国        (1)

であって,その領土は現代のカンボジヤの2倍位の広さを有し, 400万位の人口をもって いた。バラモン教が国教として公認されていたが,住民の間には原始的な諸宗教が存続し ていた。第5世紀に入ると,新しい強力な印度化の波が,この王国に根深く浸透して来て,

この国の諸制度を変化させた。インドとの密接な関係が結ばれ,長く続いた。そしてカン ボジや王朝の起源をインドの神の一人であるカムブー(Kaエnbu)に帰することに誇りをす

ら感ずるようになった。カンボジヤの国名はカ ムブーに由来する。そしてカムブーがカン ボジや民族の建設者とされ鵡

 王位の継承は,血なまぐさい争闘や,暗殺,王位略奪によって行われていた。内乱や叛 乱によって第7世紀の後半には,王位は弱体化し,その歴史は充分に明かにされていない。

そのために次の世紀にジャワ人の度々の侵略を受けるような道を開いた。ジャワ人はイン ドシナ半島を荒しまわり∫時々,一時的にカンボジヤを支配した。そしてカンボジヤの芸 術に永久的な印象を残した。第9世紀にはカンボジヤに新しい生気が吹きこまれた。4つ のサムラップ(Samraps)即ち,王宮が建設されたのは,おそらくこの時代であろう。そ

して王国は封建諸侯に分割された。この時代から,大建築ブームの時代が点った。第9世 紀にアンコールが王国の首都として最終的に決定された。そこは肥沃な平原に包まれ,ま たその附近に水の供給が豊富であったからである。西暦12世紀頃にアンコール・トム (A ngkor Thom)とバイヨン(Bayon)の寺院の建築が完成した。湖沼から排水路を作った  り,密林を切りひらいたり,巨大な石塊を彫ったり,運送したりすることは,莫大な労力

(3)

を必要とした。もしクメニル民族が創造者としてよりも技巧者として優れて居ったなちば,

彼等は決して迫持(arch)の原理を自分のものとすることができなかったであろう。迫持 の建築は彼等の力強い創造力のある芸術を示している。アンコール・ワットの建築が進め られている3世紀の間,クメール人はだえず隣国と戦争をくりかえし,また彼等自身の間 で内乱が絶えなかった。これらのζとは民族の活動力を消耗する結果を招いたのである。

 第11世紀には盛んに建築が行われた。それらはブラーマン教の建築や仏教建築であった が,インド化されたチャム族の侵略によって妨害された。これは国王やブラーマン教徒の 圧制に反抗して立ち上った人民の反乱の前回であった。寺院の多くは破壊された。兇暴な 反乱は多くの流血の惨事を見た後鎮圧された。次の世紀にはチャム族との戦争が再び始ま ったが,それと同時に中国との平和的な関係が再開された。この世紀は最後の大なる建築 の時代であった。国土は次第に荒廃し,国力はすでにかっての従属国であったシャムやア ンナンの興隆の前に影がうすくなりっつあった。カンボジヤの国力が次第に衰えたことと,

その富とは侵略者達をひきつけずにはおかなかった。しかしその侵略者達は他の方面から の自国に対する侵略に対抗するために,その勢力を分割しなければならなかった。シャム 人は隣国のペグアン人及びビルマ人,またアンナン人と時々戦闘しなければならなかちた ので,カンボジヤへの侵略を中断されることが多かった。一そして山脈地帯と海岸との中間

に釘付けにされた。シャム人がクメール人を支配する前に,先づチャム人を撃退しなけれ ばならなかった。

 14世紀には,シャムの攻撃に対して,アンコールは攻撃を受け易い地位にあったので,

最初の遷都を行った。引きつづいて度々の遷都が行われた。クメール人は最初パブみルに 都を移したが,次にロヴェックやウードン (Oudong)に移した。最後にプノン ・ペシ  (Pnom−Pen1⇒が首都として存続した。現在もそこが首都である。17世紀に入ると安二人

はカムポジヤの中心地に自由に戦をいどんだ。そして彼等はカムポジヤの国王達を臣下と して従属させた。ビエン・ホア(Bien贋oa)は安南人の植民地になった。そして安南人は サイゴン(SaigQn)に総督をおいて,彼等の新しい領土を守護させ,またシャム湾に沿っ て新しい領土を拡張し,組織させた。それは1658年から1758年にいたる100年間において である。.それ以後はカムポジヤは諸隣国の間の争奪の目標になり,あわれむべき地位に転 落した。外国の侵略の餌食にならない場合には,国土は内乱によって荒された。 1世紀の 間,カムポジヤは悲惨な状態がつづいた。農業は頽廃し,国土は荒れる一方であった。そ

して歴史的伝統は忘却の淵に投ぜられた。 シャム人の侵略は最も災害が大きかった。彼等 は生き残ったクメール人をシャムに強制的に移住させた。すべてシャムに輸送できないも のは破壊された。貴重な諸文化財や祖先の文化的遺蹟を破壊するというようなことは,と うてい後代の我々には理解できない心理である。戦争は本来,破壊を本質とする。かかる 戦争心理が文化財の破壊を強行させたものであろう。また当時のシャム人は未開の蛮族と 称しても差支えない程度の民族であったために,文化の遺蹟に対する理解が不足していた

(4)

ことが考えられる。しかし,アンコール・ワットにはシャム人の破壊の手が及ばなかった ことは,世界の文化史上極めて幸運であらたと言わねばならない。アンコールワットは巨大 な,しかも堅固な石造建築物の多数の集合体である。しかもその全体の面積は8平方粁以 上に及ぶものである。従って,彼等の破壊の手が及ぶにはあまりにも巨大であったと言わ ねばならない。また彼等の目にも,後世に残して永遠に人類の大なる文化遺蹟となすべき 考えが生ぜざるをえなかったと考うべきである。乾季になるとクメール人は,シャム人の 侵略を受けて逃亡し,雨季にはアンナン人の船隊の急襲の下にさらされていた。

 ナンナン人は全く野蛮ではないが,兇暴であった。彼等はチャム人に対して適用したの と同じやりかたで,クメール人をメコン・デルタ地帯から追払った。アンナン人がクメー ル人に対して加えた肉体的な迫害よりも, もっとひどかったのは公然たる人種上の差別待 遇と侮辱とであった。これはカムポジや人の誇りと民族感情とを著るしく傷つけた。その 差別待遇は,時々カムポジや人による兇暴な報復手段を招いたが,アンナン人によって一 そう惨酷な方法で鎮圧された。11世紀の終頃,タイソン(Tayson)反乱の当時,アンナン 人はトレン・サップ即ち太湖(Grand:Lac)の地域まで征服した。シャム人はアンナン人 が太湖地方を征服した機会に乗じて,それにおくれないようにバッタンバン (Battamba・

ng)とアンコールとを占領した。19世紀の後半を通じて,カンボジヤは敵国を互に反目さ せることによって,国土の残された部分を保持しようとはかった。しかし1846年にはクメ ール王国はアンナンとシャムの両国に従属し,それらの封建的領土であることが一般的に 承認された。もしフランスがこの当時に侵入し,アンナン人の西方への侵略を止めなかっ たならば,カンボジヤの全土が間もなく征服されたであろうことは疑いの余地がない。シ ャム人は1907年までは侵略の歩を止めなかったが,その年に先に侵略した2つの地方,即 ちバッタンバンとアンコールとをカンボジアの王室に返却した。

      (2)

   2 クメールの民族精神

 民族としての数は少なかったが,クメール民族は肉体的には極めて強健であった。彼等 は質素な生活をなし,粗食に堪え,日に何度となく沐浴した。彼等は「健全な精神は健全 な身体に宿る」 (mens sana in corpore sano)という格言の反対を示す生きた実例であ るということができる。何となれば,彼等の肉体的な活動力は精神的な活動力と一致しな いからである。彼等は権力をもつ人々殊にアンナン人に対しては畏縮している。しかし彼 等は対人関係以外の種類の肉体的な危険に対しては勇敢である。例えば,危険な急流を下 る場合には卓越した船乗である。彼等の精神構造の全体はかかる諸矛盾によって複雑にな っている。彼等の国民性については種々書かれている。快活,好奇心に富む,素朴,気ま ぐれ,形式主義的,自己及び自国民に対する自惚れの強いこと,遅鈍,忍耐強いこと,柔 和,忠実,怠惰等,矛盾に満ちた諸性格が同一書に列記されている場合が多い。彼等は元 来,外来者に対しては友好的である。 しかし彼等の国の慣習は,外国人を家庭内に受入れ

(5)

るのを禁止している。フランス人の医師・パンティ、工博士は・しばしば患者9)家⑱外で待 たされるので立腹することが多かった。その患者は至急に来診を求めた.ものであり,彼は 大なる不便を冒して往診したのである。その患者がゆっくりと食事を終るまで,彼は家の 外で待たされたのである。クメール人にとって食事は,家庭と同様に神聖なものであった。

クメール人は,食事している者には,落雷すら避けるという素朴な信仰をもっていたq  クメール人は迷信的ではあるが,寛容である。子供の頭をたたくことは彼等は決pてや

らない。そのことについてはフランスの兵士達が強い教訓を受けた。クメール人は無神経 からか或は好人物という点からか・なみはずれて辛抱強いのであるα、国王の1人が平等を 水牛と呼んだ乙とがある。しかし,一度忍耐の限度を越えて刺戟されると,、彼等の怒りの 爆発力はおそるべきものがある。彼等は信ずることができないほど頑固な点があるが,.し かし,個人的な忠誠心においては,類例を見出し難いほど勝れている点がある。彼等の節 度は裸体画や映画による諸刺戟によって容易に乱される。 しかも彼等の文学は粗野に肉欲 的である。クメール人の性格は2つの要素によって形成されている。 1は仏教的な人生観

と他は彼等の歴史的伝統である。

 少年時代からカンボジや人は奇蹟に満ちた物語によって養われて来た。古代のすばらし い空想的な物語によって,現代の不満足な社会情勢を忘れることができた。超自然的な物 語は,たえずはかない存在である人間を支配してきた。この小心な民族の主なる関心事は,

縁起や前兆に相談することであり,敵対感情をやわらげることであった。そして御守りや 魔術によって逆境からぬけ出ようとすることであった。クメール人の迷信はまだ儀式にま で形式化されていないが,すべての生活行動はそれによって規制されている。例えば,人 が眠る時には,頭は常に南の方に向けねばならない。何となれば,それ以外の方向に向け ると竜の復讐の餌食となるからである。慣習,法規及び諸伝統は,悪運を避けるための方 法を見出すためにすべて結合されている。彼等にとってすべての自然は,おそれに満ちて 居り,また悪い運命から贋いによって解放されたいという願望の対象に外ならなかった。

猿ですら,一定の時と場所で毎年鰐にささげる生にえと考えられていた。その結果として,

国土はいかさま師にとって楽園であった。不精なことは肉体的な暴力に対する彼等の防衛 手段である。そのことについては,彼等はあまり多くの経験をもっている。カンボジヤの ことわぎは,運命の打撃によって, うちひしがれた被征服民族の無限の絶望をあらわして

いる。

  もし君が強ければ,おそれに身をさらす。もし弱ければ,あわれみに身をさらす。

 自然の恵みが豊かであるために,人々の間に前途への配慮や忍耐力を乏しくする。そし て勤労することを軽視する思想を生ぜしめる。国土の自然の資源が豊かであり,さらに人 口が少いために,生活するためにわずかの努力で足りる。クメール人は遊戯や宇目に没頭 することができる。遊戯で技術を一時的に争うことは,一定の仕事の単調さと異って,人 々を自発的なまた自己の趣味に適した活動力を養うのに役立つのである。

(6)

 仏教はさらにクメール人を感情に動かされ易い,神秘的であり,また冥想的な人間とな すことによって,反戦的な民族たらしめた。また仏教は彼等の敏感すぎる魂,苦悩の多い 魂に慰安を与えた。

       (3)

3 クメールの宗数とアンコール・ワット

 アンコール・ワットの基礎をなす宗教は,インドから渡来したヴェーダ教や仏教である。

西暦前14世紀頃,イラン高原に住むアリアン系原住民は,インドに侵入し,やがてインド を完全に征服した。彼等はヴェーダ教という深遠な教義を有する宗教をもたらした。そこ にヴェーダ文明時代が栄えた。その時代はB・C1400年から800年頃までである。

 ヴェーダとはその経典の名称であり,アリアン族が,イラン高原を出てインドを征服し,

ガンジズ河辺に移住する間の讃美歌を集めたものである。ヴェーダ教は多神教の一種で,多 数の神々を従えた宇宙神の信仰である。

、    、

灘黙蕊

論蜘灘

  アンコール・ワット正面,前方石だたみ道右手の彫刻は聖   蛇(ナーガ),左右のらんかんは聖血の蛇身をあらわす。

       (前川助教授による)

自己のうちに発見することができる。従って,これから彼等の禁欲の習慣や現世から隠遁 する哲学が生ずる。被征服民族を不純な劣等民族として,民族の純血,自民族の優秀性心 を保持する心要から,厳重な世襲的階級制度が発生した。人間は神聖な祖先の各部分から 生れたのであるから,生れながらにして,身分的に区別されるべきもので,1つの社会階 級から他の階級に移ることは絶対に許されなかった。きびしい階級制度の栓桔の中に生き

ることをよぎなくされていた民族にとって,仏教は霊魂の救いを説くことによって大きな 祝福を与えた。慈悲深い教えを説く仏教はヴェーダ教よりもはるかに強く民衆に歓迎され,

仏教の最盛時代を迎えた。

 西紀前5世紀の始頃,釈迦が,人間は因果応報の理をよく究めれば,つねによりよき後 生を願うことができる旨を説法した。仏教は遼原の火を焼くような勢で隆盛におもむき,

 ヴェーダ教の中心となる 神は,三三は光に関するも のである。多神教であるか ら,33位の諸神があるが,

それらの中で中心となる3 神は,ブラーマ神Brahma

とヴィシュヌウ神Vichnu とシヴァ神9ivaの3であ る。その教義によれば,人 間はある深い冥想によって,

永遠の生命を有する宇宙の 中に保有されているものを

(7)

約1千年の間圧倒的な力でインドにあまねくひろがった。しかし西紀6世紀頃になると,

セイロン島を除いて,インドでは全く見られないようになった。その理由はブラーマ教(

バラモン教,インド教ともいわれる)という新興宗教にとって代られたからである。これ らの宗教はヴェーダの神々と征服民族の神々とが結合されたもので,それらの中心となり 最高の地位をもつ3神によって支配される。それらの3神は,ブラーマ神とヴィシュヌウ 神とシヴァ神である。ブラーマ神は宇宙を創造した神であり,一般民衆の信仰からあまり かけはなれた存在で,重要な意味はもっていない。ヴィシュヌウ神とシヴァ神の2神が,

一般民衆の信仰の対象として崇拝された。ヴィシュヌウ神はヴェーダ教の太陽に相当する もので,宇宙の守護神である。シヴァ神は雷と嵐の神であることから,宇宙の破壊神であ る性格をもっている。破壊(死)あるが故に創造(生)があるということから,シヴァ神 はまた創造の神という矛盾した2つの性格をもっている。世界の各地方における多神教に 見られる民族神は多くの場合,淫狽であり不徳である。インドにはせっ盗の神さえあった。

かかる無限に多数存在する民族神は,化身という形の下に以上の3大神のなかに包含され,

てしまった。

     (4)

 ブラーマ神(梵天)は幻影であるマヤー maya (摩耶)の力を借りて宇宙を創造し た。ヴィシュヌウ神がこの宇宙を守護し た。ブラーマ神の像はアンコール・トムの 東方にあるバンテアイ・ケデイ (Banteai Kedei)寺院で発見された。またフ.ノン・

      (5)

ボック寺院からもブラーマ神像が発掘され た。これは四面を有する像である。バンテ       (6)

アイ・ケデイ寺院はアンコール・トム(A・

ngkor Thom)の東方に位し,タ・プロム

(Ta Prohm)寺院に近接して建てられた 壮大な寺院である。外周はラテライト(鉄 ばん土)の壁でつくられ,縦700メートル 横500メートルの地域を包含している。平 坦な道路が通っている入口の南門の塔には ジャヤヴァルマン7世の好みのモティーフ であるアヴァロキッテスヴァラ〔観世音〕

の巨顔の四面の塔が1基建っている。この        (7)

アンコール・ワットにあるブラーマ神の立 野。この神は通常4二又は6本の腕をもっ ているが,これは8本である。

        (前川助教授による)

塔には,象の代りに見事な聖なる禿鷹ガルダ(Garuda)が飾ってある。ブラーマ神の姿は,

      (8)

4本の腕をもち,ロザリオを手にし,水差瓶をたずさえている。特に注意すべき点は,四 面をもっていることで,このうち正面を除く他の3面は薄浮彫にすぎない。その乗物は聖

(8)

なる鷲鳥ハムサである。ブラーマ神は6本の腕をもっている場合がある。バンテアイ・ケ デイの近くで発見されたものは4本の腕であるが,アンコール・ワットの西門の南分閣に 安置されているブラーマ神像は6本の腕がある。

       題 (9)

 ヴィシュヌウ神の立像はプノン・クーレンで発見され,現在パリのギメ博物館に所蔵さ れている。西暦9世紀初期の作とされている。またアンコール・ワットの第2内庭にもこ の神の立像がある。そのほかアンコール・ワットでは,正面から建物の本陣に入ると左右 に廻廊がのびているが,その正面に向って右側の廻廊の壁に浮彫にして彫込まれている。

これは全体を浮彫にして彫込まれた壁画であるが,アンコール・ワットにある多数の壁画 の中で最も波瀾と変化に富んだ異色ある壁画である。観る人に最も強い印象を与えるもの である。主題はブラーマ教の聖典であり,また一大叙事詩であるマハーバラタ (Mahabh・

aratta)とうーマーヤナ (Ramayana)からとったものである。マハーバラタは西紀前2

  アンコール・ワットー階廊下の浮彫,中央に左手に剣   を振上げて全軍を指揮しているのはヴィシュヌウ神,

   こ〜では4本の腕をもっている。

マンダラ山を軸として蛇ヴァスキイが取巻いている。ヴィシュヌウ神は,

容姿麗しく,最も多く飾り立ててある。ヴィシュヌウ神は通常,

れの腕に劔と鉄棒と法螺貝と,死を発射する武器とされている模様のついた円板をもって いる。フ。ノン・クーレンで発見された,現在パリにある立像は,頭にはトルコのサルタン が冠っているような円筒形の帽子を画いている。

       (1①

 しかしアンコール・ワットにある立像と浮彫は円筒形で頂辺が三角形に尖っている一種 の帽子をかぶっている。この神の妻はスリ9riあるいはラクシュミLakchmiといわれ,

  111)

主の神に劣らず美貌で,多くの場合,2頭の象によって灌水されている。ヴィシュヌウ神 がアナンタAn錺ntaという蛇(又は竜)に乗って永遠の眠りにおちていた間に,ブラーマ 神が生れたQ

 ヴィシュヌウ神は大きな創造があるたびに目覚めて,宇宙の滅亡を防ぐために努力する。

世紀頃から紀元後5・6世 紀頃までに完成され,今の ようにぼう大なものになっ た。その時代はインドで大 乗仏教が興起した時代であ る。ラーマーヤナは,マハ バラタより少し早く,西紀 前2。3世紀頃から次第に 発達したものである。ヴィ

シュヌウ神は乳海撹乱の図  (左図)の中央に位し,マ

ンダラ山の上で劔を揮って 全軍を指揮している。この      神々の中で最も  4本の腕をもち,それぞ

(9)

「乳海」が撹乱されるときに,姿をあらわ す。この時には彼は空中を飛んでいる。こ の場合に,彼が使用する乗物は或る場合に は神々であり,また他の場合には蛇(竜)

であることがある。この蛇は,撹乱によっ て生ずる不死不滅の霊液アムリタを奪うた めに,はげしく争いあう諸悪魔(羅せつ)

の間で引張り合われている。またアンコー ル・ワットで多く見られるところの聖なる 禿鷹ガルタGarudaがヴィシュヌウ神の乗 物になっている場合もある。このガルダは         11勿

猛毒蛇コブラを以って代表される聖蛇ナー がNagaの生れながらの仇敵である。ナ ーガはアンコール・ワットで異彩を放つ彫 刻であって,数多く見られるが,最も印象 的なのは正面入口の前にひろがっている長

灘・鱗・

       ナーガ「聖蛇)の上に乗っているかルダ       (聖禿鷹)

い長方形の石畳の左右にらんかんの形でおかれている巨大なナーガである。これは大きな 丸太のように長い蛇身の先に,頭に当る部分がある。頭のところは7またに分れ,7つの 蛇の頭が鎌首をもたげている格好になっている。それらの頭の部分は精密な彫刻をもった 羽根様のもので結合され,全体として美しい均斉を示している。尾の部分も7またに分れ ている。

 ガルダ(聖なる禿鷹)がナーガ(聖蛇)の上にまたがっている彫刻は,アンコール・ト ムの中心であるバイヨン(Bayon)の一角にある。バイヨンは多数の石を積重ねた巨大な 石造の塔であるが,その四面にアヴァロキッテスヴァラ〔観世音〕の巨顔が浮彫されてい

るので著名である。但し, このアヴァロキッテスヴァラの顔が浮彫にされている塔はバイ ヨンだけでなく,先にのべたバンテアイ・ケデイ寺院の南門の塔のほか,アンコール・ト ムの東門,即「勝利の門」と呼ばれる塔にも同様の像がある。このアヴァロキッテスヴァ ラの顔は,アンコール・トムとバイヨンの建設者であるジャヤヴァルマン7世〔1182−12 01〕の顔を表象しているとの説がある。アンコール・トムとバイヨンは12世紀の末葉から 13世紀の始にかけて建設された。ガルダ(聖禿鷹)がナーガ(聖蛇)にまたがっているこ とは,その征服を意味すると考えられるが,この彫刻は,右のバイヨンの外に,バンテア イ・ケデイ寺院の西出2囲壁の入口に近い石畳道を飾る欄干として用いられている。また       qむ

プラ・カン寺院の外壁の一角にも巨大なガルダの彫刻が立っている。

       ㈲

 ヴィシュヌユ神はその化身の一つとして, 比類のない美をもつクリシュナ神Krichna をもっている。クリシュナは,子供のころに,母親が自分を縛りつけておいた乳鉢をのせ

(10)

       てある木を引抜き,やがて青年期に達する        と,嵐の中を自分の牧童牧女や家畜を守る        ためにゴヴアルダーナ山Govardhanaを        頭で支えていた。クリシユナは,マハーバ       ㈹

       ラタ中の一つの物語であるヴアガバード・

       ギータBhagavad Gitaの中では,至高霊        の化身や慈愛の神とされている。ヴアガバ        ード。ギータは昔から現在までインド人の        聖書とされている。

      クリシユナ「私は凡てであり,凡ては私        から癸する。魂の魂一一宇宙生命一宇宙        唯一の生命が私から流れ出る。……

      11の

      アルジユナ「誠に貴神は至高の主一パ        ラブラムーにて在す。偉大なブラーム以上        ですら在す。神々,聖人,天使等,そして   バイヨンのアヴアPキッテスヴアラ

  (観世音)の四面像(前川助教授に     賢者の魂も・貴神を至高の住家・至高の永   よる)      遠出,無限の潔き者,絶対者,全能,遍在        全智として認めます。……

      (1鋤

       アルジユナとは古代イン        ドの種族間の戦争で,一方       の軍隊,パンダヴア軍の指       揮官として登場する。彼は       一王国の王子である。クリ       シユナはアルジユナが乗っ       ている戦車に随伴して,戦       争に参加するが,2人の間       で種々対話をなす。アルジ       ユナは,兄弟,親族間で殺       し合う無惨な戦争に恐怖の   バイヨンのアヴア・キッテスヴアラの浮彫前景人物(河   余り,武器を投げ捨てるが   地教授)との対照により・その大さを知ることができる。   クリシユナの教導によって,

   (河地教授による)

      絶対平和思想の境地に達す る。クリシユナは男性神である。アンコール・ワットの第1階西廻廊の二二の壁の浮彫は,

      ㈹

バガヴアード・ギータから取材したものである。パンダヴア軍の中央に四本の腕をもつク リシユナ神に引かせた戦車の上に立ちあがっているアルジユナの姿が見られる。アンコー        ⑳

(11)

ル・トムの北側に王宮の城壁近くに聲え立つピラミッド形の建物がある。それはバプーオ ン寺院Baph丘onであるが,その第2廻廊の壁面にクリシユナがその幼年時代に6頭のナ ーガ(三二)を真二つに断ち切っている図が浮彫にされている。

      ⑳

 さらにヴィシユヌウ神の他の化身の一はプーマRamaである。この神はかなり人間的で ある。この神がその妻になった美しいシイタ (Sita)との恋愛生活の試練,三猿ハヌーマ ン(Hanouman)の助けをえて,巨人ラヴアナ (Ravana)と戦う物語詩は,ラーマーヤ ナの一主題であって,アリアン人によるセイロン島征服を象徴しているといわれる。他の 叙事詩マハーバラタは,同じくインド征服をうたったものといわれる。ラヴアナは,ラー        ㈱

マの美しい妻シイタを誘惑しようとする邪神の一である。このラーマとラヴアナとの争闘 の場面で,ラーマは三猿ハ

ヌウマンの両肩に乗って運 ばれながら,軍隊を指揮し ている。神猿ハヌーマンの   ㈱浮彫は,アンコール・ワッ

トの一階廻廊東正面にある 乳海撹乱の図の中にある。

左手を振上げラヴアナと闘 っている勇しい姿である。

(右図)またこのハヌーマ ンは他の場面では,車につ ながれた2匹の獅子の腰を 打砕いて居り,その強力を 示している。

     ⑳

 シヴァ神はリンガ1inga

アンコ・一ル・ワットー階廊下にある浮彫,乳離撹乱 の園,右方に左手を振上げているのはラヴアナ(邪 神)と戦っているハヌーマソ(神猿)

       (男根)の形で,一般に尊崇されている。また永遠の精神,宇 宙的精神の象徴として考えられているこの象徴は,四角形から八角形を経て円形に変化す

る。シヴァ神の神秘的な円筒形の像はカ・ケオに存在する。リンガム崇拝は現代にいたる       ㈱

まで,インド・シナ半島全体に存続し,その痕跡は非常に多い。タイには先端がリンガム になっているあらゆる種類の建造物がある。これはプラ・プラン(Phra−Prang)と呼ばれ ている。ジャワにもリンガムは見られる。またシヴァ神は右のほか諸々の姿で顕現する。

踊子の王者ナタラージヤ(Nataraja)として出現する場合もある。この踊子の王者は聖な る舞を,集い寄る神々の前で舞いおさめる。このとき彼は4本の腕をもっている。シヴァ 神の乗物はナンゲインNandinと呼ばれる聖牛である。ナンゲインに乗るシヴァ神の浮彫 は,アンコール・トムの中心にあるバイヨンの内廻廊に数ケ所見られる。

      ㈱

 シヴァ神の子はガネサGanegaといわれ,或時シヴァ神が怒ってガネサとは知らずに首 を斬って了つたが,その後にいたって,元の首の代りに象の頭をつけて蘇らせた。従って

(12)

ガネサは,しばしば四つの腕をもっている。ガネサの像はコー。ケルにある。この像は頭 は象で,肩から下は人体であり,2本の腕をもっている。その他ヴェーダ教の神々は昔の 華々しさを失って,例えば三層の象アイラーヴアタAiravataに乗った雲の神インドラや 車に乗った太陽神スウーリヤ Suryaなどは,カンボジヤではもはや装飾のモティーフと

してしか現れていない。

         ⑳

 仏教はインドでは衰微したが,インドシナではインド教と共に隆盛であった。ここでは 仏教とインド教とは対立抗争することなく共存した。クメール王国を建設した諸王によっ て12つの宗教は統合された。カンボジヤでは最初大乗仏教が,うけ入れられた。殊にア ンコール・トムの建設者であるジヤヤヴアルマン営造Jayavarman Wの治下で最も隆盛を 極めた。この教義は,インド教の神々さえも仏陀に従属せしめて,全部これを迎え入れた。

そして全知に達した人間即ちボディサットヴアBodhisattva(菩薩)の崇拝を何よりも重 要視している。これらのボディサットヴアは,衆生を助けて,ねはんに入らしめるために,

自らはねはんに入るのを見合せるという慈悲心をもっている。カンボジヤではいつの時代 にも仏陀とボディサットヴアとがあり,現世の仏陀はアヴアロキッテスヴアラAvalokite cvara或はロッケスヴアラ:Lokecvaraとして表現されている。アヴアロキッテスヴアラ は,4つの顔をもって四方に救の視線を投げかけている姿が最も多い。この四面相はアン コール・トムやバイヨン1と見られるが,またそれより6世紀位早くすでに西紀6世紀に北 部インドのナランダ王宮Narandaの煉瓦塔のなかにモティーフとして見出される。

      ㈱ アンコール・ウットやアルコール・トムの諸建造物は,アヴアロキッテスヴアラに棒げら れたものである。その後カンボジヤでは小乗仏教が圧倒的に盛になった。

 クメール王国はシャム人の絶間のない攻撃に屈服し,漸次北部カンボジや地方をシャム 国に割譲した。ついに西暦1342年にはアン「コールの都をも放棄して,ウドンに,次いでプ

ノン・ペンに遷都しなければならないようになって,衰退期に入った。王国の繁栄期がす ぎて,衰退期に入ると共に,クメールの仏教も混沌たるものとなって衰えた。クメール王 国の繁栄期以後の諸王は,寺院に諸々の銘文を一つけるという習慣さえ失って了つた。ま たジヤヤヴアルマン7世の狂信的なほどの仏教帰依に対する一つの反動が,ついにアンコ ール・ワットに魑しいほどあった仏像を現在わずかに残存している程度に減少せしめたり,

また仏陀をリンガに取かえる原因になった。

 仏陀に対する信仰は,ジヤヤバルマン7世時代(12世紀末葉)に最も盛であった。従っ て,その当時にアンコール・ワットには大小無数の仏像があったと信ぜられている。その 後,チャム人の侵略による国力の衰退と共に仏教も衰えた。それと共に,アンコール・ワ ットに無数にあった仏像は掠奪されて散侠したり,或は破壊されたりして激減した。しか し現在においてもその全盛時代の名残を諸所に見ることができる。

 アンコール・ワットが華かであった時代は,豪華けんらんたるものであった。堂塔は金 色と朱色に塗られ,各所に金銀の環や冠などの飾物で装飾してあった。現在でも廻廊の浮

(13)

彫の一部に黄金色や朱色に塗った跡が残って居り,昔の極彩色の様子をしのぶことができ る。各所にある塔や堂宇の壁面に,いたるところ小さな穴があるが,これは金銀の装飾を とりつけた跡であるといわれる。今はかかる彩色や飾物がなくなって,ただ緻密な彫刻を 施した砂岩と鉄ばん土(ラテライト)の堆積にすぎないが,往昔はけんらん眼を奪うもの があったに相違ない。徳川三代将軍家光の時代に,長崎の通訳の島野兼了が,インドの祇 園精舎に参詣する目的で,旅行の途次,アンコール・ワットを祇園精舎と取違えて参拝,

苦心のすえ精密なアンコール・ワットの見取図を作成して帰国した。この見取図は現在,

水戸の彰考館に所蔵されている。彼が夢に画いていた祇園精舎と間違うほど,往昔は豪華,

壮麗な大伽藍であった。

 現在,大きな仏像,といっても高さ7.8 米位の座像にすぎないが,それはチップ・

プラナムの木立の間に一基ある。またパフ。

       ㈲

一オンとプノン・バッケンの頂上にもこれ と大体同じ大さの大仏像があるといわれて いる。しかしバプーオンとプノン・バッケ

 ⑳ンの分は.現在その存在は確かではない。

高さ1米栄位の小さな仏像く座像)はバン テアイユ・ケディユの廻廊で発見されたも のが一基ある。高さ1米から1米半助の仏

      ⑱1)

像は,アンコール・ワットの2階廻廊に20 数個安置されている。この中の八基位が立         ㈱

像で他は座像である。異彩を放っているの は,バイヨンで発見された聖油(ナーガ)

に乗っている仏像である。それは凡そ1米 位の高さの座像である。1階の十字廻廊には,

         ㈱

アンコール・ワットにある仏陀像

       仏陀の足跡とされている石彫の左足の像が ある。足の裏側が表面に出て居り,緻密な彫刻が施されている。これは小乗仏教の名残で        ㈱

あろう。

 仏教及び其他の経典が大いに研究されたであろうことは,アルコル・ワットやバンテア イユ・スレイユ寺院に大きな石盛の経堂があることで推察できる。アンコール・ワットに は3つの経堂がある。内側の石畳道の左右に経堂があり更に1階中庭の北西隅にも経堂が ある。この第3の経堂は石の階段を20段位上らねばならない石造の大きな長方形の土台の  ㈲上に建てられた長方形の美しい建物である。入口の門の破風はガルダ (聖禿鷹)らしい 彫刻で飾ってある。バンテアイユ・スレイユ寺院の経堂の飾扉と破風には美事な細密な彫 刻があり,その緻密さと左右均斉のとれた彫刻の美しさは,パリのノートルダムの西正面     (i切

(Fa⊆ade)をほうふつさせるものがある。 以上のように大乗仏教の隆盛時代を想わしめ

(14)

る立派な経堂の存在にもかかわらず,その時代の経典が1冊も残っていないのは,残念で あり,不思議なことである。おそらくチャム人の侵略をうけたときに,悉く掠奪され,散 面して払ったものであろう。仏像も同時に掠奪されたが,仏像は書物よりもはるかに耐久 力があるので,その一部は先に述べたように残存できたのである。

 アンコール・ワットやアルコール・トム其他の諸建築で,いたるところ数多く見られる 浮彫は,アブ。サラapsara(舞姫・天女)の像である。アプサラは乳海から生れたとされて いる。アブ。サラはキリスト教の天使ange1の像に相当するものである。西洋のルネッサン

アンコール・ワットを彩るアプサラ

(舞姫)の浮彫(前川助教授による)

それらの附属建築物が如何に多数であったかを物語っている。

多数であったことが示されている。

 要するに以上の宗教的背景の結論は次のようになる。クメール民族は,古代インドのヴ ェーダ文明時代(B・C1400〜800)の遣産であるヴェーダ教,それを母胎として生れたバ ラモン教(インド教)を受容し,さらに仏教もとり入れ,深い信仰を示した。インドでは 仏教は衰微し,それに代ってバラモン教が隆盛を極めたが,インド・シナでは,これらの 諸宗教はお互に排斤することなく,共存共栄の形をとったために,アンコール・ワットの 宗教的背景は複雑なものとなり,単一性,明快性を欠くことになった。それは各種の彫刻 や浮彫に示されている。従って,統一的理解を困難にしている。この点はカトリック教の 統・一文明を背景にした西洋中世紀のゴシック式建築や我国の奈良朝,平安朝時代の仏教建 築は,その単一性,明快性においてはるかに優れている。しかしその反面において,その ス期の代表的絵画や彫刻には多数の天使が出現す ることにまって,その画面や彫刻をなごやかな,

美しい感じのものにしているが,それと同様にこ のアフ。サラは石造のアンコール・ワットの建築に 美しい色どりを与えている。往昔は極彩色に色ど られていたであろう。髪形,衣服等類型的な優美 な格好をしているが,両乳房はよくふくらんで居

り,キリスト教の天使よりも肉感的な人間的な感 じを与える。

 以上の石造建築のほかに,アンコール・ワット     覧一. 優

には多数の木造建築があった。それらは特殊な目 的で建てられたもので,寺領からとれる豊富な穀

、物を入れる倉庫,巡礼者のための宿舎,仏に仕え る無数の僧侶の宿舎,家畜小屋,儀式用具の倉庫 等である。これらの諸附属建物は木造建築であっ たために,現在何も残っていない。現在,残存し ている外壁に取かこまれた寺院の広大な土地は,

      また文献にも附属建築物が

(15)

複雑性,多様性の中にこそアンコール・ワットの特色があり,ヴェーダ教,バラモン教の 遺蹟が,仏教のそれと併存しているために東洋的色彩が極めて濃厚である。マハーバラタ の戦争叙事詩から主題をとったアンコール・ワットの一階廻廊の壁面の長大な浮彫は,壮 観で,観る者をして古代インドの世界に住んでいるかのような感じを与える。.

4 カンボジャと西洋諸国との交渉

 西洋人として最初に渡来した者は第16世紀におけるスペイン人とポルトガルの宜教師で あった。彼等は支那及び我国に渡来した宜教師と同様に,マニラやマカオからカトリック 教の布教のためにカンボジヤに渡航した人々である。カンボジヤの国王と国民は彼等の来 朝を歓迎した。カンボジや国王は宜教師を通じて,欧州諸強国の援助をうけて,シャムの 圧迫から逃れようと考えていたからである。

 ポルトガル人ヂエゴ・ベロソDiego Bellosoとスペイン人プラス・リユイズ・ドウ・ヘ ルマン・ゴンザレBlas Ruiz de Herman Gonzalesの2人が,16世紀の末にカンボジや 王城内に王室顧問として居住していた。アンナン国において我国の御朱印船貿易商人荒木 宗太郎が国王の娘を妻としていたように,ポルトガル人のベロソは国王の姪を妻とするほ ど優遇されていた。しかし1567年にシャム軍によって,首都ロヴエックが占領されると両 人共シャム軍に捕えれ捕虜になった。ゴンザレは監視の目を逃れ脱出して,マニラに渡っ た。そこで彼はベロソと再会した。ベロソはシャム国王の命をうけ乳カンボジや討伐の 援助をマニラのスペイン政府に求めに来ていたのである。しかしベロソが従来優遇され,

恩義を受けてきたカンボジヤに反旗をひるがえす筈はなかった。両人共相談し,スペイン 政府に対してカンボジや援助のために軍隊を派遣するように懇願した。マニラのスペイン 政府は若干の軍隊を派遣することに決定し,その指揮を2人に委ねた。.そこで彼等はこの 軍隊をひきいてカンボジヤに帰り,チエッター1世亡命後,国王を自称する者を討伐し,

1596年にチエッター1世の子を王位に即位させた。しかし間もなくチャム人とマレー人の 反乱により,両人共殺害された。次いでその頃フランス人宣教師がカンボジヤに渡来した。

渡航の先駆者としての栄誉はスペインとポルトガル人に譲らねばならなかったが,フラン ス人宣教師は結局において,近代において最も永く,その後300年にわたうてこの国に定住

し,布教に従事した。

 欧州諸国の商人は宣教師におくれて渡来した。17世紀の初期にオランダ船が,数回貿易 のためにメコン河を遡り,カンボジヤに到着した。 しかし欧州人相互の間の競争及び国内 に戦禍が絶えなかったために,宣教師や商人もその事業を継続することはできなかった。

カトリック教の主なる中心は,首都ウードン近くのポナー・ル(トノール) Ponha−Lu・

(Thono1) とパムブリチヨムPambrychomにあった。しかし充分な布教の基礎をもっ ていなかった。しかしアン。ヅオング王が即位すると,彼はカトリック教を歓迎し,保護 した。アン・ヅオング王はかってアンナンのジヤ。ロン帝がアドラン司教の援助をうけて

(16)

王権を回復した事実を知っていたので,カトリックの宣教師と連絡をとるために,ひそか に使者を交趾支那に送り,宣教師を招きその布教を保護し,便宜を与えた。これを契機と して,アン・ヅオン王は,多年にわたるシャムの支配から脱却するためにフランスに援助 を求めた。時に1840年である。

       ㈱

 アン・ヅオングの次に即位したノロドム王は,シャムの兵力の援助によって反乱を鎮圧 し,王位についた。そこで1862年にフランスのボナール提督が,カンボジヤを訪問した当 時は,カンボジヤと、シャムとの両国の関係は緊密であった。しかし1863年に交趾支那総督 に任命されたブランデイエールは,仏領の交趾支那に隣接するカンボジヤに対して,種々 なる画策を立て,カンボジヤをフランスの支配下におくことを企てた。先づ彼はカンボジ ヤからシャム国の勢力を一掃しようという目的の下に,一方的にカンボジヤに海軍根拠地 をつくり,軍艦を碇泊させた。また同艦長デユダール・ド。ラグレ大尉Doudart de:Lag r6eをノロドム国王と会見させ, シャムの勢力のおそるべきこととフランスが同国の外敵

を駆逐するために有力な強国であることを熱心に説かしめた。その後,新総督ブランデイ エールはノロドム国王と会見し,1863年8月11日第1回フランス・カンボジや条約を締結

した。この条約の主な事項は次の4項目であった。

 (1)ナポレオン3世はカンボジや国王に保護をあたえること。

 (2)交趾支那総督の監督下にあるフランス監督官をカンボジやえ駐在させること。

 (3)フランス人の通商,所有,交通の自由。

 (4)フランスのカトリック教徒及び学術使節の保護。

 しかしこの条約では,カンボジヤの国内行政については何も規定していなかったので,

主権はノロドム国王が把握していた。他方,シャム国はこの条約の締結により,自国のカ ンボジヤに対する諸権益が,フランスによって著るしく侵害されたことを知り,そのまま 引下ることができないのは当然であった。そこで同年12月に第1回フランス。カンボジや 条約を無効であると宣言する条約をシャムとカンボジや間に締結した。その内容はシャム 国王がカンボジヤの主権を掌握するという趣旨のものであった。即ち,カンボジや王はシ ャム国総督の資格をもつのみで,シャム国はカンボジヤの治安維持の任に当り,外国との 紛争の調停に当る旨を規定した。カンボジヤは弱国として,2つの強国の相争う対象にさ れた。世界史上,よく各地方に見られる現象であるが,2つの強国の間で,その好餌とし て争奪の対象になった弱国の運命ほど悲しいものはない。カンボジヤは現在ではシアヌー ク国王を旧く立派な一独立国家であるが,その外交政策は常に隣の強国の鼻息をうかがう 弱いものである。現在,ソ連及び中共に近づく外交政策をとっている。それは近い将来に おいて,ベトナムが南・三共に,共産圏化した場合に備えての外交政策であるといわれる。

カンボジヤの歴史を顧るとき,現在においてもそのおかれた弱国の運命的立場から脱却で きない悲運の一端をうかがい知ることができる。

 他日,ベトナムが共産主義によって南北統一された後,アジアの一強国として出現する

(17)

日が考えられる。そのとき自由主義陣営にあって軍備を次第に強化しつつあるタイ国との 間に,カンボジヤが再び二強国間にあって,それらの好餌として争奪の運命に陥ることが 絶無とはいえないであろう。

 1863年12月に締結されたシャムとカンボジヤとの間の条約は,先に同年8月に締結され た第1回フランス。カンボジや条約におけるフランスの立場を完全に無視し,その面目を 著るしく傷けるものであった。そこでフランスとシャムとはカンボジヤを争奪の対象とし て相争った。その当時フランスの軍隊は本国から遠隔地にあって不利な地位にあったが・

何といってもその当時世界における一流の先進国家の軍隊であった。その装備においてア ジアの一後進国にすぎないシャムの軍隊がとうてい対抗できる筈はなかった。カンボジや 国王の戴冠式挙行をめぐって,フランス軍隊が出動し,武力行使となったが,シャムは遂 にフランスの武力の前に屈服せざるを得なかった。1867年7月の第1回フランス・シャム 条約の締結により,カンボジヤに対するフランスの支配権,優越権はシャムによって承認 されるにいたった。この事件は,欧州諸強国がアジア諸国家に対する帝国主義的侵略史の

1ページを飾るものにすぎない。

 ついで,1884年にいたり,仏領交趾支那の総督トムソンThomsonはトンキン事件でフ ランスが勝利を収めたので,更にインドシナ半島侵略の歩をすすめ,カンボジヤに対する 保護権を強化しようと考えた。そこで同年6月17日に第2回フランス・カンボジや条約を 締結した。この条約は第1回の条約と異り,フランスのカンボジヤに対する保護権を著る

しく強化したもので,カンボジや国王の主権を大幅に制限する内容のものであった。その 主な条項は次のようなものであった。

 (1)カンボジヤは,フランス共和国政府が,カンボジや国の保護の達成を容易になすた   めに行うのを適当と考える行政・司法・財政及び通商に関する一切の改革を承認する。

 (2)カンボジや王は,本条的に規定する拘束を除き,従前通りその国を統治し,その施   政を管掌する。

 (3)カンボジや国官吏は,フランス官憲の監督の下に,従前通り各州の行政を行う。但   し,関税,間接税のような諸税金の徴収,土木工事及び一般に欧州人の技師と欧州人   の吏員の使用を必要とする業務はこれを除く。

 (4)フランス政府は,公衆の秩序を保ち,住民行政官を監督する駐在官(R6sident)又   は副駐在官(R6sident・adjoint)を任命し,各省の省庁所在地及び一般的に駐在を必   要とする地へ駐在せしめる。駐在官は高等駐在官(R6sident Sup6rieur)の命令をう   ける。

 (5)高等駐在官は,カンボジや国王に対し,私的謁見の権利を有する。

 ⑥ カンボジや国行政費及びフランス保護行政費は,カンボジや国が負担すべきものと   するQ

 (7)カンボジや王国の予算を確定した後,特別の規定により,国王の歳費及び王族費を

(18)

  定める。カンボジや王は,フランス政府の許可なしに如何なる負担をもなしてはなら   ない。

 (8)カンボジや国全土において奴隷制度を廃止する。

 (9)現在にいたるまで国王の独占的所有であるカンボジや王国の土地は,自由に譲渡す   ることができる。キリスト教団体は,現在占有している土地を完全に所有する。

 右の第2回フランス・カンボジや条約は,その内容において,カンボジや国王の主権を 著るしく制限し,その属国介するような極めて苛酷なものであった。如何に低開発国で住 民の大部分が無学文盲であった当時においても,有識階級を中心としてカンボジヤの与論 が反対のために立ち上った¢)は当然であった。1885年1月中国王の弟シヴオタは右の条約

に反対して,自ら先頭に立ち反乱を起した。そこでフランス政府も大いに譲歩し,条約の 全体的な実施を要求せず,国王をして自発的に内政改革の実をあげさせる政策に出た。即 ち,1897年の王室令により,第2回フランス。カンボジや条約の条項による内政改革を断 行させることにした。

 尚,1907年3月に調印された第2回フランス。シャムにより,シャムは1867年にカンボ ジヤから割譲されたカンボジや隣接めバッタンバン,シエム。レアプ・シゾホン (現在の バッタンバン)の3州をカンボジヤへ返還することになった

      (3⑨

 この3州の割譲は,その後の両国間における国交上の大きな禍根になったというべきで ある。第2次大戦後,カンボジヤはフランス政府の保護領の地位から脱却して独立国にな ったが,カンボジヤとタイとの国交は現在ではは断絶している。カンボジヤとしては,ア ンコール・ワットという世界史上著名な文化史遺蹟を含むところのシエム・レアプを領土 保全の建前から,絶対に手放す筈がない。またバッタンバンというタイの国境に接し,防 衛上重要であり,産業上も重要な意味をもつバッタンバン地方を手放す筈がないのである。

他方,タイはフランスの強力な軍事力に一時的に屈服して,シエム。レアフ。。バッタンバ ンをカンボジヤに返還したが,失地回復の機会をたえずねらっていることは,同国の現在 の軍事力強化政策から見て首肯しえられるところである。現在のカンボジヤとタイの両国 の国交断絶の遠因でありまた真の原因は,右の返還にあったと考うべきである。かっては タイの首府バンコックとカンボジヤの首府プノムペン間を直接に結んでいた鉄道は,現在 では両国の国境近くでタイ国内にあるアランヤ・プラテト (Aranya Prathet)辺で切断

されている。しかも国境:地帯は厳重に警備されている。ベトナムでは現在戦火が絶えない が,カンボジャとタイ両国間でも他日戦火がまき起される可能性がないとは言えない状態

にある。東南アジア全体の完全な平和回復は,世界文化と世界経済の発展上,極めて重要 な意味をもつが,東南アジアの各地方における現実は,多くの右の理想に反する諸事情,

諸条件を含んでいる。

  (註)(1)M6nroires de Tacheon Ta:Kouan

    (2)V.Thompson, French Indo・China, P.321ff.

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