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教育における破壊の意味生越  達*

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(1)

教育における破壊の意味

生越  達*

(1997年10月13日受理)

The Signi6cance of Destmction in Educatiom

Tohru OGOSE*

(Received October 13,1997)

Abstract

Destruction is one of the key subjects which M.Heidegger wrestles with. In this paper, I take up this concept and hsten to what he is tτying to convey to us. According to Heidegger, destruction means listening to and responding to the tradition. Through destroying, we fecapture the primordial sense of it.

Heidegger s way of understanding the destruction is united with comprehending invisib星e things hidden among visible things. This explication has a great implication foπeducation. We have to continue to destroy old selves and become new beings. In educational fields, both teachers and p叩ils should recreate themselves in this sense.

1・問題設定

本稿はハイデガー(M.Heidegger)の「破壊(Destruktion)」1)概念をとりあげ,この概念に込め られた積極的な意味を捉え直すことによって,ハイデガーの思索の中心へと踏み込んでいくことを 課題としている。ハイデガーの思索は,実存に基づく存在の哲学から出発し,それがr存在と時間』

として結晶する。しかし後期において転回(Kehre)がなされ,そこでは存在のまっただ中から実存 が捉え直されることになる。しかし,この転回は,ハイデガー自身も語っているように2),彼の思索 の連続性を断ち切るものではない。そこで本稿では,こうした転回をも貫くひとつの基本的態度に 注目することにしたい。それが「破壊」である。つまり,彼の思索は前期から後期への転回にもか かわらず,二つの点で連続している。第一は思索の《対象》である。彼は一貫して「存在(Sein)」

を問い続けている。第二は思索をすすめる上での基本的態度である。そしてそれが「破壊」なので

准茨城大学教育学部(〒310−8512水戸市文京2丁目1番地;Faculty of Education, Ibaraki University, Mito,310 一8512Japan)

(2)

ある。確かに前期の「実存から存在へ」という思索方向が,後期においては「存在から実存へ」と 転換された。しかしこうした方向転換はむしろ基本的な思索態度の連続性を貫くためになされてい

るのである3)。そのことがこの小論の具体的なテーマである。

ここで最初に述べておかなければならないのは,ハイデガーの思索態度ともいえる破壊という概 念を,本稿においてとりあげることの意義についてである。

私は,教えること・学ぶことをこうした事柄が生起する人間関係の「現場」において捉え直した いと考えている。ここでいう現場とは他者との出会いの現場であり,文化や歴史をもった社会とい う現場である。そして教育の現場に生じている「現象」をありのままに記述し,そうした現象の中 に隠されている意味を事象に即して明らかにしたい。そこから導かれる第一の点は,教育を教育す る側の意図的な教育作用に還元してすましてはならないということである。そして教育を人間が人 間になっていく道筋におこる出来事として捉えるということである。したがって出発点は教育され る側にある。教育される者の世界の方から教育のもつ意味と可能性を捉えることが目指されるので ある。子どもが世界の中で他者と出会うことによって人間となっていくプロセスに注目したいので ある。第二の点は,教育をつねに文化的・歴史的な出来事として捉えなければならないということ である。教育はあくまでも社会の中で生起する出来事なのである。したがって社会と切り離した仕 方で子どもの独自性や創造性を強調することはできないことになる。子どももまた,あくまでも社 会内存在である。例えば児童中心主義がこのことを忘れると児童中心主義もまた教育する側の押し つけであり,さらに言えば自らの憧憬を子どもを利用して解消するに過ぎないことにもなりうるの

である。

現場から捉えるという場合,教育することが「価値」あることだと信じて疑わずに,教育の価値 を前提として教育方法を探ろうとするような態度は保留される。教育することの価値は相対化され るのである。しかもすでに,教育についての考え方が根幹から揺らいできつつあるという現実があ る。例えば登校拒否児の中には,何であんなつまらない学校に通わなければならないのかと辛辣な 学校批判をおこなう子どもがかなりの数存在するのである。反精神医学同様,反教育学や反学校論

といった仕方で教育そのものへの批判が行われている。藤田は次のように言っている。「学校教育 は,目標達成の積極的手段としてよりも,むしろ,逸脱者・落伍者のレッテルを貼られないための,

あるいはまた,将来の機会を失わないための必要条件として,その重要性を増してきた」4)。さらに は学校教育の自明性が疑われ始め,「どういう人間を理想の人間とするかは,まずもって両親の考 えることであり,やがては子ども自身の考えることであって,国や教師が特定の理想的人間像を子 どもに押しつける権利はない」として「《理想的人間の形成》という教育目標を学校から排除すべ きである」5)という考え方も見られるようになってきているのである。

そしてこうした反教育学的な見方が現れる背景に,現代という時代においては,誰もが納得する 人間存在のあり方を前提することができなくなってきているということがあるように思われる6)。そ れは多様な価値観の時代ということかもしれない。こうした状況においては,教育について考える ことは人間存在について考えることと重ならざるを得ないのである。教育的事象を通して人間存在 についてもう一度問い直し,人間存在についての理解を通して,教育的事象を問い直す,そうした 根本的な作業が必要とされる時代に私たちはおかれている。つまり教育学を哲学的人間学と結びつ

けて考えなければならない時代なのである7)。

(3)

その際以下のことに注意しなければならない。子どもや学校についての私たちの理解は,決し て時代を越えて客観的なものであることを保証されているわけではない,ということである。もち うん,教育の価値についても同様である。価値は常に時代の中にあり,時代の影響を受けている。

つまり歴史的な意味しか,もち得ないのである。したがって,学校の存在を相対化し,児童中心主 義の立場をとることで子どもの個性尊重を謳い,子どもの選択の多様性を認めるということについ ても,それが単に流行を追随する仕方で行われるならば,それは「地盤」をもたない主張である。

それは時代の流行の中を漂うだけの「考え(Meinung)」に過ぎない。そこで,自らの歴史的制約性 を少しでも相対化し,その制約性を自覚するまなざしを獲得することが求められるのである。ハイ デガーにおいては,こうしたまなざしへの接近は,「存在的な(ontisch)」まなざしから「存在論 的な(ontologisch)」まなざしへの転換として語られることになる8)。そしてハイデガーはこうした まなざしの転換を「破壊」を通して行っているのである。反教育学についても,存在論的なまなざ しのもとでもう一度捉え直さない限り,時代の考え(Meinung)を越えることはできない。以下ハイ デガーの思索の助けを借りて考えたいことは,時代の「考え」を越えて「反」について思索すると はどういうことなのかということである。

こうしたまなざしの転換については以下のように捉えることもできる。ハイデガーは,現代を世 界像の時代と名づけている9)。それは人間の主観性が強調されることにより,世界が世界そのものと

してではなく,主観によって捉えられる世界像でしかなくなってしまっているということである。

その結果,真理追究においても主体にとって確実であることが重視されることになる。だが,そこ では主体に対する問いそのものは隠蔽されてしまう。

たとえば,ヒューマニズムについて考えてみよう。このヒューマニズムについての捉え方にしても 様々な捉え方が可能である。しかも世界が世界像として相対的に生起し,ヒューマニズムがあくま でも多様な世界像を背景とした一世界像に基づくヒューマニズムに過ぎないからには,どの捉え方 が妥当かという議論をしてみてもかみ合わない。なぜなら,世界像が異なっている以上,ピューマ ニズムについての捉え方が異なるのも何の不思議もないからである。したがって自らが一定の世界 像の中で生きていることへのまなざしをもつこと,つまり主体に対する問いをもつこと,こうした ことがないと,共通の「地盤(Boden)」を喪失した状況で議論をすすめることになる。それは根こ そぎにされた(entwurzert)議論である。そしてハイデガーの求めたのは,こうした世界像としての

「存在者(Seiendes)」を超越して,「存在(Sein)」へのまなざしをもつことなのである。

2・ハイデガー存在論における「破壊」の意味

(1)破壊の積極的意味

「破壊」については,r存在と時間』(以下SZ)第6節において,存在論の歴史の破壊として詳

しく論じられているlo)。この節はハイデガーの探究対象である存在を真に捉えるための方途を提示

することを目的としている。だが『ヒューマニズムについて』(以下UH)で述べられているよう

に,存在への問いかけは,実は人間存在への問いかけでもある。そしてすでに述べたように,「破

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壊」とはいかなる事柄であるかを明らかにすることは,人間を捉える存在的まなざしを存在論的ま なざしへと捉え直すことでもある。

ハイデガーは,SZにおいて,破壊を「硬化した伝統を解きゆるめ,そうした伝統によって成し遂げ られた(gezeitigt)諸々の隠蔽(Verdeckungen)を解きほぐす」11)行為として位置づけている。破 壊することは,「伝統(Tradition)」,あるいは「伝承(Oberlieferung)」へと問いかける。つま

り,問いかけられるのは蓄積され積み上げられてきた過去である。そしてハイデガーはこうして積 み重ねられてきた伝統が硬化してしまっているその硬さを解きほぐそうとするのである。ここでは 伝統あるいは伝承に内在する硬化という消極的な側面が前提とされているように見える。そして 伝統をこのように否定的な立場にたって批判することは,ハイデガーを持ち出すまでもなく,しば

しばおこなわれていることであるように思われる。

だがハイデガーは一方で,破壊作用が誤解されることに対して注意を促している。破壊は「伝統 を振り捨てるという消極的な(negativ)意味」12)ではない。あるいは破壊は「過去へと否定的に

(negierend)態度をとる」13)ことや「過去を無効なものとして(in Nichtigkeit)葬り去ろうとす る」14)ことでもない。それでは以上のように否定的な仕方で規定される破壊作用を肯定的に規定す ると,どうなるのであろうか。ハイデガーはr哲学とは何か』(以下P)のなかで,「破壊とは,伝 承のうちで存在者の存在として我々に自らを言いかけてくるものに対して耳を開くこと,自由にす ることにほかならない。この言いかけに傾聴することによって,我々は言い応じのうちへと達する」15)

と語っている。破壊することは「聞くこと(H6τen)」,「傾聴すること(Zuh6ren)」,「言い応 じること(Entsprechen)」である。

しかし,このように破壊と言う概念を積極的に規定しようとすると,逆に破壊という言葉が用い られている意味がわかりにくくなるようにも思われる。聞くことや言い応じることはむしろ伝統を 守ることなのではないだろうか。論理的に考える限り,むしろハイデガーが破壊として述べている

ことは,伝統を受け入れる態度についてであるかのように思われるからである。ハイデガーは破壊 を説明する上で,破壊とは正反対の作用をもった行為について語っているように思われるのである。

それでは,なぜハイデガーは,あえてこのような一見矛盾しているように思われる言葉の使い方を するのだろうか。ハイデガーの言う破壊に内在している両義性一破壊することと聞き応じること一 をいったいどのようにして統一的に捉えたらよいのであろうか。こうした問いが生じてくるのであ る。形式的には,確かに,ハイデガー自身も「破壊とは,壊滅をではなく,取り払うこと,取り去 ること,取り片づけることを意味する」16)といった言い方をしている。だが,それでは,取り払う こと,取り去ること,取り片づけることと壊滅とはどのような相違があるのだろうか。

破壊に内在するこの両義性についてはしばらくおいておいて,再びSZにおけるハイデガーの記述 に戻り,破壊と伝統・伝承との関わり方について捉えることにする。破壊という行為が伝統や伝承 に「問いかける」ものだとして,それではどこへと問い進めるのだろうか。問いの目指す方向はど こなのだろうか。ハイデガー自身は以下のように述べている。破壊は「根源的な諸経験をめがけて 遂行される」17)。破壊の目的は「諸根本概念の由来(Herkunft)を証示すること」18)なのである。

あるいは比喩的な言い方であるが,「諸根本概念に対してそのr出生証明書』を探究しつつ交付し てやること」19)ともハイデガーは述べている。つまり諸根本概念をそのまま認めてしまうのではな

く,その根本的な意味を求めて探究していくことをハイデガーは破壊と名づけているのである。

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破壊が目指しているのは由来であり根源なのであり,「出生証明書」なのである。こうした記述 から,問いのまなざしは過去へと向かっていることになる。問いすすめは過去へと向かっているの である。ここにおいて先ほど,破壊行為が過去に否定的な態度をとることや過去を葬り去ることで はないと記されていたことの意味が理解できるようになる。破壊は壊滅とは異なる。破壊において は,ハイデガー自身述べているように,決して,おのれやおのれの過去が振り捨てられ,否定され るのではない。むしろ「根こそぎ(entwurzert)」にされていた状態から自らの依ってたつ「地盤

(Boden)」を与えられること,つまり「出生証明書」を交付されるということが破壊において生じ るのである。破壊によって伝統は壊滅するのではなく,「その積極的な諸可能性において,これと つねに同じ意味のことであるのだが,その諸限界において,標示」20)されることになる。破壊は「伝 統を根源的に我がものとする」21)ことなのであり,「伝承されたものを自己のものとして変化せし める」22)ことなのである。すでに引用したように,破壊は取り払うこと,取り去ること,取り片づ けることである。そしてその意味は,長い間に伝統にこびりついてしまった垢を洗い落とすことに よって,わたしと出会いつつ,根源的な「存在」を「取り戻すこと(Wiederholen)」23)なのであ る。「取り戻しとは,明確なる伝承であり(伝承の由来を明確に知っていること),言い換えれば,

現にそこに既在していた(dagewesen)現存在の諸可能性のなかへの還帰(ROckgang)なのであ る」24)。最初のSZの引用のなかで,破壊について「伝統によってなし遂げられた隠蔽を解きほぐす こと」25)と述べられていたことの意味がここで明らかになる。伝統そのものが隠蔽するものなので はなく,伝統には必然的に隠蔽され,根こそぎにされるということが生じるのであり,その垢の部 分をそぎ落とし,真の意味での伝統を生かし返すことが目指されているのである。

これまでの解明を整理すると以下の通りになる。

第一に,破壊が生じうる前提となっているのは,人間存在が歴史的であるということである。人 間は,決して,自らの歴史性を否定して超歴史的な視点を獲得することはできないのである。人間 が生きることはつねに時代の精神をまとって生きることなのである。したがって破壊することは自 らの歴史性を認めつつ,あくまでも歴史性の垢を落とし,自らの歴史性をその根源的な意味で捉え 直すことである。つまり世界像に過ぎない世界を主体と切り離して捉えるのではなく,時代精神に

どっぷり浸かっている主体への問い直しを必要とするのである。そして破壊が求められるというこ とは,絶対的な真理を想定することができないことを意味する。なぜなら真理もまた人間存在の歴 史性の中で開かれてくるからである。真理も歴史の中の出来事として捉えるほかないのである26)。

真理を絶対的・無時間的に生起するイデアとして捉えることはできない。破壊とは見ることの対象 である世界とその世界を捉える人間存在とをつねに純粋な関係性の中にとどめることなのである。

第二に,破壊は,歴史性を捉え直すために,人間存在が自らの世界を唯一絶対の世界として無前

提に認めてしまわずに,そこに問いを投げかけ,そしてそこから抜け出ることを求める。破壊する

ことは自らが依ってたつ自明な世界に抵抗することである。自らの世界を,自らの世界に内在する

把握作用によって捉えるかぎり,そこに亀裂が生じないことは当然である。自らの世界は自らの意

味付与によって形成されているからである。だが,自らの世界の自明性に問いかけないかぎり,そ

の世界を根底から明らかにすることはできない。自らの世界を前提にしつつ自らの世界を明らかに

しようとすることは,ひとつのトートロジーだからである。破壊においては,この自明とされてい

る世界そのものが問われる。したがってまた問う者の存在そのものが問われることとなる。破壊に

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276       茨城大学教育学部紀要(教育科学)47号(1998)

際しては問う者を問うという困難を突き抜ける積極性が要求される。そしてこうした思索は必然的 に時代の要請にかなったいわゆる実践的な見方を越えることを求められる。

第三に,破壊は以上述べてきたような自明な世界への抵抗であるにも関わらず,あるいは自明な 世界への抵抗であるがゆえに,決して新たな世界と出会うことではない。破壊することにおいて生 じているのは,すでに生起しつつも忘却されていたものを取り戻すことである。このことを,ハイ デガーの言葉を用いて積極的な仕方で規定すると,破壊は言い応じること,聞き従うことだという ことになる。この聞き従うこととしての取り戻しの意味を誤解しないようにしなければならない。

決して,通俗的な意味において時間的に遡ることを求められているのではないからである。破壊す ることはロマン主義的な仕方で過去に憧れることではない。確かに,ハイデガーは,存在論の歴史 を破壊する作業のためフォアゾクアティカのギリシャ思想に戻って学ぽうとしている。だが重要な のは,初源に戻るという意味での,つまり手垢のついていない隠蔽されていない,真に思索がおこ なわれている時代状況へと戻るという意味での遡りだということである。

以上がハイデガーの破壊概念の簡単な整理である。

(2)ハイデガーの思索における破壊の位置づけ

さて,それではこうした破壊概念をハイデガーの思索全体の中に位置づけるとどのように捉えら れるのであろうか。ハイデガーが破壊という概念に込めた意味を彼の思索の全体性・特殊性のなか に位置づけることにより,明確にすることが必要とされる。そこで必要な限りでハイデガーの思索 を貫く根本的な見方について捉えておきたい。

ハイデガーの思索を貫くもっとも太い軸の一つは,真理についての思索を通して明らかになる。

そして真理についての思索は,アレーテイア(忘却からの取り戻し)27)として述語化される。ハイ デガーによれば,アレーテイアとしての真理は以下のように捉えられる。真理とは非隠蔽性のこと である。真理とは「存在者を一隠蔽性のうちから取り出しつつ一その非隠蔽性(Unverbogenheit)

《暴露性(Entdecktheit)》において見させることなのである」28)。そして,「真理は現存在が(空 間的・時間的に)存在しているかぎりにおいてのみr与えられている(es gibt)』」29)。真理は現 存在たる人間存在を必要とする。しかしそのことは真理が人間中心の主観的なものであることを意 味しない。それは人間存在が現存在として捉えられていることのうちにも示されている。あくまで も何ものか(es,エス)が真理を光のもとにもたらすのである。そして人間がその真理が生起する 場なのである。だが同時にこのエスは存在者を真理へともたらしつつも,自らは現れることから身 を退くのである。真理を与えるものを直接見ることは決してできない。

このエスをどのようなものとして捉えるのかについては,ハイデガーの思索の深まりとともに変

化している。SZの基礎存在論においては,現存在が存在者を非隠蔽性へともたらすのであり,現存

在は暴露する者として規定される。そこではエスは良心の声である。「(良心の)呼び声は,実際

われわれ自身によって計画されたり,準備されたり,自発的に遂行されたりするものでは,全くな

い。エスが呼ぶのである」(括弧内引用者)30)。またUHにおいては,存在そのものが存在者を非隠

蔽性へともたらすとされる。そして存在そのものがエスとして言い換えられている。「エスは存在

それ自身である」31)。さらに後期になるとハイデガーの思索はより根源へと方向づけられ,存在と

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時間の相互の関係を保っている事態それ自身が思索される。その結果,存在自身も贈られるものと して捉えられる。そしてこの存在さえをも贈ってくる作用が「生起(Ereignis)」として概念化され る。生起が存在を許し与えるのである。ここではエスが生起と名づけられているのである。 「エス は,エスが存在を与える,またエスが時間を与えるということにおいて,生起として表明される」32)。

このようにエスに込められる内容については,ハイデガーの思索の深まりとともに,変化していく が,彼の思想をes gibtという世界の見方が貫いていることは変わりない。

いずれにおいても重要なのは,無規定的で,おのれが退くことでしかおのれを示さないようなエ スが常に根源から真理を贈ってくるということである。存在者を非隠蔽性のうちにもたらす現存在 自身の在り方が目立たないからこそ,SZにおいてこの現存在を捉えることが目指されたのである。

エスとしての良心の声は,現存在自らが語りかける声でありながら,何ら語りの内容を持たない。

無規定的で現存在を目覚めさせる作用以外の何ものでもない。また存在にしても存在者を存在させ る自明なものでありながら,おのれを露わにすることはなく無規定的である。「エスは自らを与え ると同時に自らを拒否する」33)。この点については,後期の思想においてはさらにはっきりする。

生起は,存在を贈り届けながらも自らは自身のもとに引きとどまり,自らを隠す作用として捉えら れている。そしてこの作用が「退行(Enteignis)」という概念で表現されている。「生起そのもの には退行が属している。生起は退行を通して自らを譲り渡さずに,自らの固有なものを守るのであ る」34)。常にどうしても露わにできずにとどまるものがある。常に真理を明るみにもたらしながら,

決してそれ自身は明らかになることのない非真理が残る。だが,上記の引用からもわかるように,

それは固有なものを守るという積極的な働きをもっているのであり,決して否定的に捉えてすまさ れるべきではない。アレーテイアとしての真理は,真理の構造としつねに真理を守護しているので あり,解消しえないものであるばかりか,真理にとって欠くことのできない構造なのである。顕現 には必ず秘匿が属し,しかも顕現を支えつつ隠れているからである。

ハイデガーはこの見えないものを切り捨てることなく,なんとか捉えようとした。つまりハイデ ガーは人間存在の「有限性(Endlichkeit)」から目をそらすことなく,この有限性の立場にとどま

り,有限性を有限性として考え抜いたのである。そして有限性を有限性として受けとめるために,

つねにおのれを越えていくこと,おのれを越えた他者なるものに耳を傾けることが必要とされた。

ハイデガーの思索態度を支えているのは,有限性の立場にとどまることと,見知らぬもの(他者)

の呼びかけに耳を傾け,その呼びかけに言い応じることである。SZにおいて強調された「先駆的決

意性(vorlaufende Entschlossenheit)」35)の本質はここにある。確かに人間は了解する存在であり,

世界へとおのれを投企しつづける存在である。だが,この了解や投企を支えているのは,人間が自 らの有限性を越えて神のまなざしをもつことができないという現事実であり,世界をパースペクテ イブのなかで捉えるほかない人間の有限性なのである。

さて,それでは以上のようなハイデガーの思索の基本態度と破壊概念とはどのように結びついて

いるのだろうか。

第一に言えることは,破壊作用は破壊することによって別の新たなものへと移っていくことを意 味するのではないということである。破壊はとどまることである。おのれの有限性につきあたり,

しかもそこにとどまり続けることから破壊作用は生じる。自らは別の地平に移って安全を確保して

から破壊がおこなわれるとすれば,それは真の意味での破壊ではない。そこでは自らの有限性への

(8)

突き当たりが巧妙に避けられ,自己の世界の枠組みは変わらず守られているからである。それでは どんなに新しいものへと目が向けられているように見えても,いつも自らが依ってたつ地盤を前提 にして,そこから踏み出さないでいることに過ぎない。新たな地平に自らの新たな世界を確保して おいて,その世界の枠内で考えはじめようとすることは破壊でない。自らの有限性に直面し,あく までもそこにとどまりつつ,自らを越えたものに対応して耳を傾け続けることが破壊の意味するこ とである。ハイデガーが好奇心を頽落における一つの在り方として捉えていることは,彼が人間存 在の有限性に重きをおいていることと関連して理解されなければならない。

したがって第二に,破壊は何よりも見えないものを見ようとすることである。つねに隠蔽され秘 匿されているものへとまなざしを向けることである。そこではエスとしか呼べない絶対的に無規定 的なものがまなざされ続ける。ハイデガーが思索の深まりとともに,異なったものをエスに込めて いったのも,つねに見えないものを見続けていったからである。エスはいかに思索が深まっても,

そのときの思索にとって,おのれをはっきりとは見せてくれないものである。しかもこの秘匿され ているものは,単に見えないものというだけではなく,それ自身何者かを露わにしつつ,つまり現 前へと贈りつつ自らは隠れる作用なのである。あくまでも現れを通して,現れを生起させつつ自ら は現れることのない作用を捉えることを破壊することにおいては求められる。

第三に,秘匿されていることには「私性(Jemeinigkeit)」36)が潜んでいる。秘匿されていること は,欠如していることではなく,隠されていることである。そして隠されていることには,誰に対

して隠されているのかということが属している。つまり「わたしに」隠されているという構造のも とで,この秘匿は解明されなければならない。そしてこのように考えると,破壊することはつねに わたしを破壊することでもある。ものの見方が変わるということ,あるいは自己の世界が変わると いうことは,わたし自身の破壊と新たな再形成ということと切り離してはあり.えない。対象の側が 切り離されて破壊されるのではない。わたしと対象との関係が変わることが破壊の意味することで

ある37)。

(3)ハイデガーにおける「反対(Gegen)」の意味

次に,これまで解明してきた「破壊すること」が,教育学にたいして何を示唆するのかを捉える ために,破壊概念を捉えるさいの重要な鍵の一つになっていると思われる「反対(Gegen)」という 概念をハイデガーがどのように捉えていたのかを明らかにしておきたい。破壊するためには常識的

に流布しているものの見方を根底から捉え直す必要があり,そのことがハイデガーにおいて「反対」

という概念によって意味されていることだからである。

ハイデガーはヒューマニズムに反対するということの意味を明らかにするために次のような問い から出発する。「《ヒューマニズム》が反対をうけるのであるから,人間的で一ないものが弁護さ れ野蛮な野獣性が賛美されるのではないかと恐れられることになる。ヒューマニズムを否定する

(vemeinen)者にとっては,非人間性(Unmenschlichkeit)の肯定だけが残るということ,一体こ

れほど《論理的》なことがあろうか」38)という問いである。そしてハイデガーは同様の問いを,ヒ

ユーマニズムのみではなく,論理学や価値や世界内存在や神にも向ける。ハイデガーはヒューマニ

ズムや論理学や価値や神に「反対する」ということがどのような意味をもっているのかを問うので

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ある。一見するかぎり,ヒューマニズムや論理学や神などというものに反対するような思索は「壊 滅的な(zerst6rerischen)《ニヒリズム(Nihilismus)》」39)について語ることになるのではないか

と考えられるからである。

だが,ハイデガーはここで次のように問い返している。「果たして肯定的なもの(das Pos五tive)

に反対である(gegen)ところのものを否認(Verneinung)だと考え,この否認を破壊という意味で の》否定的なもの(das Negative)《として受け取ることができるのだろうか」40)。そして次のよう に注意を促している。「ひとは,あまりにも《論理学》にどっぷり漬かっているから,普通のねむ

気をもよおすような考え(Meinen)に歯向かってくるすべてが,直ちに忌まわしい反対

(Gegentei1)だと見当ちがいをすることになる。熟知のそして好んで取り上げられる肯定的なもの のもとに立ち止まっていないものはすべてこれを,単なる否定という予め設けられた穴のなかに投 げこむのだが,この単なる否定とは,一切を否認し,そのことによって無のなかで終結し,かくて ニヒリズムを完成するものなのである。論理学の助けを借りて考え出されたニヒリズムのなかでは,

いっさいがこのような論理的な方法で破滅させられてしまう」41)。「だが,普通に考え(Meinen)

られたものに対して,一つの思索(Denken)が主張する《反対》は,必然的に単なる否定

(Negation)や否定的なものを指すのだろうか。このことがとにかく不可避的に,そして最終的に 生ずるのは,いいかえると他のものを自由に見通すこともなく生ずるのは,考えられたものを予め

《肯定的なもの》だと前提し,この肯定的なものから出発して,諸々の可能的な対抗の圏域につい て,絶対的にしかも同時に否定的に決定する場合だけである。このような経過のうちに隠れている のは,前に考えた《肯定的なもの》を,そこへと入りこめば肯定的なものが助かると信じている肯 定(Position)や反対(Opposition)と一緒に,省察することを拒否することなのである。ひとは,

思索に背を向けながらも,絶えず論理的なものを引き合いに出して,まさしく思索にかかわり合っ ているかのように見せかけようとする」42)。

「子どもは純粋である」であるとか「子どもの個性を尊重する」といった言い方は批判しようも なく,また口あたりがいい。児童中心主義や指導から支援へといった立場も同様である。そこでこ うした言葉はあたかも免罪符であるかのように使われることになる。こうした肯定的な考えは一度 肯定的なものとして前提され,価値あるものとして前提されると,それ以上間われることがない。

だがこうした言葉が一人歩きをするさいには,すでに言葉は価値づけられ主観化されているのであ り,評価の目にさらされた対象物となってしまう。存在者は人間のまなざしに支配され,人間化さ れてしまうのである。そこでは価値づけられる存在者は,われわれ人間の「普通のねむ気をもよお すような考え」のなかに閉じこめられてしまう。そしてハイデガーによれば思索とはこうした「考 え」を乗り越えていくことなのである。そしてそのためには「反対」することについて学ばなけれ

ばならない。

以上,反対の意味を否定的な仕方で規定してきた。だが同時に,こうした規定から反対の現実的 な意味が導かれる。それは人間を捉えるさいの深さ(次元)に関わっている。存在者から存在の次 元へとまなざしを向け変えていくことが破壊の一つの意味であった。ここでハイデガーは「反対」

の意味を探ることにより,このまなざしの向け変えを明らかにしようとしている。何かに対して価

値を付与するような態度に対して,その価値を破壊するとは,決してその価値を否認することでは

ない。重要なのは「何ものかを《価値》として特色づけることによって,かく価値づけられたもの

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がその尊厳を奪い去られてしまうこと」,「何ものかを価値として評価することによって,価値づ けられたものをただ人間評価の対象として認めてしまうこと」を「最終的に洞察する」43)ことなの である。価値を与えること,評価を与えることは,それが肯定的なものにしろ否定的なものにしろ,

「一種の主観化」44)である。したがって破壊が価値に反して思索するということの意味は,「存在 者の無価値やつまらなさを宣伝してまわることを言うのではなくて,存在者を主観化することを単

に目的とすることに反対する」45にとなのである。価値に反することは相反する価値を与えておとし めることでは決してない。無価値であると評価することも,やはり一種の主観化だからである。そ

してハイデガーはこのような主観化する態度をヒューマニズムの完成と名づけるのである。

教育はそれが社会的な営みであるからにはそのときどきの社会の流行によって影響されざるを得 ない。だが,その流行に流されるままでいるかぎり主観化する態度にとどまることであり,その捉 え方は地盤をもたない。子どもの個性や多様性がどれだけ強調され,近代の学校知や子ども観が問 われるにしても,それが時代の流れに沿っただけの見解に過ぎないなら,時代とともにまたいつ流 れ去るかもしれないことになる。ハイデガーはこうした態度を何とかして乗り越えようとしている。

こうしたことは教育実践においても同様である。現実の教育実践においては価値が絡んでこざる をえない。その結果,つねに教育実践は,その根底において,なんらかの人間性の捉え方に縛られ ているのである。すでに述べたように,教育実践が一つの社会的な営みであるからにはその時代時 代のヒューマニズムの枠内にとどまらざるを得ない。教育実践はヒューマニズムに支配されている。

したがって教育がそれぞれのよってたつヒューマニズムを問わない限り,議論は平行線となる。各々 が各々の対場を表明し,そして相互の歩み寄りがあったとしても,それは妥協によって事柄の中位 に折衷的な立場を想定することにしかならない。そして価値を設定する際問われずにすんでしま う前提は決して揺り動かされることはないのである。

したがって真に教育について考察しようとするかぎり,破壊という作業により根源へと戻り行き,

もう一度前提とされてきた価値に「反対」してみることが必要なのである。

3・教育に対して破壊が示唆すること

(1)教育実践とヒューマニズム

すでに述べてきたように,これからの教育を考えるに際して破壊について考慮することが必要で あるということは,子どもを指導するための学である「教育学(padagogik)」のレベルでのみ問題 になるのではない。すなわち教育「する」側がおのれの立場から教育的課題の解決を目的として,

おのれの教育的関心と思慮を理論化し体系化することにおいて破壊が重要な役割を果たすというこ

とだけではない。教育はつねに教育「する」側と教育「される」側との関係のなかでの出来事であ

る。そこでは教育「される」側のパースペクティブに立ち,教育の現場に生じていることをそのま

まありのままに捉えていくことが求められる。こうした場は,教育学が規範的・当為的であるのに

対して事実的で実践的である45)。そしてこうした教育実践においても同様に,あるいはこうした教

育実践においてこそ破壊は必要である。教育実践の場においては一定の人間理解が前提となってい

(11)

る。そして理解することは価値を前提することである。したがって教育実践においてはつねに実践 を構成する者たち(教育する側と教育される側)のヒューマニズムについての感覚が試されている のである。だが教育実践がヒューマニズムの衣を着ることになると,自らの依ってたつヒューマニ ズムの正当性がおのれの実践の正当性を保証するかのような幻覚にとらわれる可能性が生じる。も ちうん,ここでヒューマニズムに含意される意味は広く捉えられるべきである。たとえヒューマニ ズムなどという価値的な捉え方を否定し,教育関係をできるかぎり技術的な関係として捉えようと する立場に立ったとしても,それもまた広い意味での一つのヒューマニズムの立場に身をおいてい るのである47)。このようにヒューマニズムを広い意味で捉えるならば,教育実践は決してピューマ ニズムを否定することはできないことになる。教育実践が一定のヒューマニズムの立場に立ってし まっているかぎり,教育はそうした議論を支える重要な地盤を問わないままである。そしてこの重 要な地盤にまなざしをむけるために「破壊」が求められるのである。

破壊をおこなうことを通して,深い意味での「人間性(humanitas)」,根源的な意味での「人間 の本質」が規定される。それはヒューマニズムといった…・イズム(・…主義)としての人間性の 規定を越えて人間性を思索することを可能にする。破壊は,主観主義に基づいて人間性を規定する ことからわれわれを解放してくれる。それはヒューマニズムを越えて(Uber)ヒューマニズムにつ いて(曲er)思索することであり,ハイデガーが『Ober den Humanismus』という題名に込めた意味

なのである。

破壊概念を突き詰めると従来のヒューマニズムに「反対」することにならざるをえない。そして このヒューマニズムが教育実践をその根底で支えていることを考慮すれば,一定のヒューマニズム 観に基づいて教育の本質を規定することに対しても留保することが求められる。この意味で教育実 践を破壊することは,実践そのものからは距離をとり,より広く根底的な場のなかで教育実践を捉 え直してみることである。

(2)ヒューマニズムを越えたヒューマニズムを支える実一存

それではこうした破壊を可能とする人間の存在様式はいかなるものであろうか。それは「実一存

(Ek−sistenz,脱自)」48)である。そしてその意味することは「存在の真理のなかへと脱け出て立 つこと」49),「存在の真理のなかに脱自的に内存すること」50)である。もう少し詳しく規定すれば,

「脱自的一存在者として,存在の明るみとしての《現》に《気遣い》することによって,現に一あ

ること(Da−sein)に耐える。しかし,現一存在(Da−sein)それ自身は《被投的な》ものとして現

成する(wesen)。現一存在は,贈りつつ贈られるもの(Geschickliche)として存在の投げのうちに

現成する」51)ということになる。こうした規定は人間を理性的動物等々と規定する人間の規定の仕

方とは根本的に異なっている。なぜなら理性的動物としての規定は破壊作用という最も人間を特徴

づけていると思われる本質について少しも明らかにはしてくれないからである。すでに述べたよう

に,「人間の本質的高貴さは,存在の主権者として,あまりにも公然とたたえられた《客観性》の

なかへ,存在者が存在してあることを融かしこむことになるような,人間が存在者の《主体》とし

て存在者の実体であるところにあるのではない」52)。こうした捉え方では人間がおのれの存在をい

わゆるヒューマニズムのうちに閉じこめること,存在者としての自己に囚われ存在へのまなざしを

(12)

持たないことになってしまう。人間が脱自的に存在するとは,「人間はむしろ,存在そのものから 存在の真理のなかへ《投げ入れられて》いる,したがって人間は,このように脱自的に存在しなが ら,存在者があるがままの存在者として光のなかに現れるように,存在の真理の見張りをする」53)こ

となのである。

教育学や教育実践が価値を主張することを越えて教育学や教育実践の本質を捉えようとする限り,

われわれは脱自的に存在しつつ,存在をまなざすことを求められる。しかしこの作業は非常に困難 な作業なのである。なぜなら存在はわれわれにとって常に何よりも身近でありながら,「だがこの 近さは人間には最も遠い」54)からである。それゆえにわれわれは脱自的に開かれ,つまり実一存し,

日常的に身近であるが故に見えてこないことを捉えるまなざしを獲得しなければならないのである。

われわれは存在に常に関わりつつも,いつもすでに存在者に依存してしまっている。「灯台もと暗 し」という指摘は人間存在の本質を貫いた真理なのであって,青い鳥はいつもつねに最も身近に存 在しているにも関わらず,最後の最後になって初めて見いだされるものなのである。だからこそ破 壊することは人間存在の本質でありながら,多くの場合隠蔽され,誤解されるのである。そしてこ の近さが実は人間から最も遠いという現事実が,ことさら破壊することを取り上げなければならな い理由にもなっている。破壊することが最も根源的な人間性だとしても,それは常にこの人間性が 実現されているということではない。むしろ隠蔽されているのが日常的な在り方なのである。

(3)ハイデガーにおける「住むこと」

さて,ハイデガーは人間が脱自的に存在する仕方を故郷に住むと言い換えている。人間は日常性 のなかで世間に通用しているものの見方に毒され,自らへの問いを忘却していく。そこではつねに 外から押し寄せる情報をいかにうまく処理していくのかが重要と考えられる。そこではひとは主観 化された世界である世界像の時代を生きることになる。そしてそうした時代において,主体への問 いを喪失した自己疎外の状況が生起するのである。だがいま教育に求められているのはこうした日 常性や常識を越えて,主体の意味を問い直そうとすることである。外へばかり向かっているまなざ

しを曲げ戻しつつ,自明性を問いなおそうとすることである。そのことをハイデガーは「住む」と いう概念に込めて表現している。そこで次にこうした故郷,住むといった概念にハイデガーが込め た意味を捉えることにより,脱自的に存在しつつ破壊を行うことの意味をさらに明らかにしていき

たい。

すでに述べたように,ある意味で存在は人間のすぐ近くにある。ハイデガーはこのことを人間が 存在の近さのうちに住んでいるという言い方で表現している。そしてこの存在《の》近さを《故郷》

と名づける。そして存在論的なまなざしを失い,つまり破壊を行いうるまなざしをなくしてしまっ た存在忘却の在り方を「故郷の喪失」と呼んでいる。

それではこの故郷という言葉はどのような意味で用いられているのであろうか。もちろん,「愛

国主義的にも,民族主義的にも思索されているのではない」55)。故郷に住むとは存在の近くに疎外

されずにあることである。したがって故郷は人間にとって心安らかで居心地のよい内密な場所であ

る。だが一方では,故郷の喪失は人間の運命であり,人間は人間である以上故郷の喪失を経験しな

いわけにはいかない。故郷は,運命を取り返すこととしてしか住むことのできない場所である。つ

(13)

まり故郷は,誰もがどこかにもっていたことがあるものだが,日常的には忘却され,そして忘却し ていることさえもが忘却されてしまっている場所(Orのなのである。そしてこのような深い忘却の なかにあるために,決して簡単には立ち戻ることのできない場所である。故郷をすぐにいつでも戻 れる場所として捉えることは誤解である。そして帰郷するためには常に破壊を求められる。つまり おのれの自明性を常に突き崩していくことを求められるのである。故郷が心地よい場所だとすれば,

人間は常にこの心地よい場所を離れることを余儀なくされる存在者,したがって常に疎外へと方向 づけられている,生きることに苦しまなければならない存在者だということにもなる。そして人間 は,こうした疎外から免れようとして他者との比較に明け暮れ,平均性のうちに自分を閉じこめ,

自分であることを喪失していく運命にある存在者なのである。このように「懸隔性」のなかを生き ている人間の存在の仕方をハイデガーは「世人(das Man)」として概念化している。

さらにこうした故郷という概念と関連づけながら,ハイデガーは住むという言葉についても思索 をすすめている。したがって故郷の意味はこの「住む」ことを考察することにより,いっそう明ら

かになる。

ハイデガーによれば,この「住む」という言葉は倫理学(Ethik)という言葉と関係している。そ して倫理学という言葉はギリシャ語のエートスに由来する。このエートスは習俗といったほどの意 味の言葉であるが,それは鳥や獣の一定の「すみか」やその場所の雰囲気を意味している。それが 次第に習俗といった意味に変わっていったのである。つまり本来的にはエートスとは, 「居所

(Aufenthalt)」,住む場所(Ort des Wohnens)」,「人間の住む開かれた圏域」56)を意味してい るのである。そして人間は存在の家に住む「牧人(Hirt)」57)なのである。決して人間は住むこと の主人ではない。住むことは人間の主観を越えて生じているのである。

ところで,こうした住むことは,人間にとって何ら特別なこともないありふれた事柄である。こ の点に関わって,ハイデガーはUHのなかでアリストテレスの伝えるヘラクレイトスの物語を例に挙 げている58)。そこでは住むことがありふれた事柄であることがはっきりと示されている。住むこと は決してそれ自体人の目を引くような行為ではない。それは「単純なもの」59)である。それなのに なぜ実一存すること,住むことは破壊することと関わるというのだろうか。だが住むことは実は人 間にとっては非常に困難なことなのである。住むことは自らの存在と切り離された客観的なことな どではあり得ない。したがって,ものを,そして世界を対象化して捉える強い傾向を本質的にもつ 人間存在にとって,この単純なことを実現することは難しいことなのである。まさに,そこに住む

という世界への関わり方(動詞的)そのものが問題となっているのである。故郷は外から対象化(名 詞的)して眺められるかぎり,破壊することとは関わらない。近さの内にある故郷の遠さは住むこ

とによって再び近さの内へともたらされなければならない。

ここにおいて破壊に内在する近さが具体的に明らかにされる。この近さはつねに初めから人間の 身近にありふれたものとしてある近さである。破壊することは,自己と切り離されたどこか遠くか

ら生起するのではない。だが,一方それは故郷として表されることに示されているように,実はあ

る意味では遠くにあるのであって,住むためには帰郷を求められるのである。破壊することは,ひ

とがこの近さを帰郷するというような仕方においておのれにもたらすことによってしか,なすこと

ができないのである。つまり破壊が可能となるためにはあくまでもおのれが住むという単純な事柄

にとどまらなくてはならない。破壊が,故郷に住むという空間性に関わっていることは重要である。

(14)

住むということはその場に滞在することである。しかもそこに自らを落ちつけ,位置づけることで ある。この点で一時的な滞在と住むこととは異なる。そして破壊が住むという空間性を備えている ことは,破壊が行為としては捉えきれないことを示している。むしろ,ありふれてはいるが,常に 試され続けているような生の在り方そのものが破壊においては問題とされている。

4・教えること/学ぶことと破壊

これまでのところで,ハイデガーが「破壊すること」に込めた意味を,彼の真理観や「反」や「故 郷」,「住むこと」といった概念の助けを借りつつ明らかにしてきた。そこでは破壊とは決して対 峙する対象を否定してすますことではなかった。それは主体への問いを取り戻し,世界像のレベル でものを見ることを止めて,そうした世界像のなかに潜んでいる硬化した伝統を解きゆるめ,そこ に隠されている隠蔽を解き放とうというものである。そして根源的な意味を取り戻そうとする。そ れは対象の側にすべてを還元してしまわずに,対象をそれを捉える主体との関係のなかでつねに新 たに取り戻していくことであった。そしてもちろんここでは対象ではなく人間という主体の側に目 を向けなおし,主体が世界に開かれることが必要とされる。そして人間が本質的に有限な存在であ ることより,根源的な意味を捉えようとつねに破壊し続けることが求められるのであった。

こうした態度は教育について考える際にも重要である。常識的な価値を前提にして教育を考える のではなく,「反」という根源へと戻っていくようなまなざしの方向に向かって考察を進めること が現代の教育には求められている。それこそが反教育であり,その根っこにある反ヒューマニズム ということの意味することである。そして同調傾向のある人間にとってはそれこそ困難な作業であ り,そうした困難のなかを生きることが実一存として生きるということなのである。しかしそれは どこか遠くにある目標を達成するような作業ではない。実一存しつつ破壊することは,すでに人間 の身近にありながら獲得できないでいるものを取り戻すこと,すなわち帰郷し,そこに住むといっ た性格を持った作業なのである。

以上のハイデガーの思索に学ぶかぎり,まず「教える一学ぶ」という教育の基本的関係そのもの を問い直してみる必要性に気づかされる。教育を教師と子どもの関係の場として考えるとき,「学 ぶ」,「教える」という最も基本的な概念をどのように捉えたらよいのだろうか。ハイデガーの破 壊についての思索はその際どのような示唆を与えてくれるのだろうか。

(1)子どもが学ぶこととしての破壊

子どもが学ぶということの意味を捉え直すとどのようなことになるのだろうか。これまでの考察 のなかで導かれたのは,学ぶことには破壊することが内在していることである。それは以下のよう な意味においてである。学ぶことの本質は人間になっていくことである。そしてハイデガーに基づ

くかぎり,人間性の本質は破壊することである。したがって子どもは自ら破壊する存在者へと成長 していかなければならないことになる。

もちろん存在的なまなざしのもとでは,学ぶことは未だ自己の外にある未知なるものを自己のう

(15)

ちに吸収・蓄積し,それによって自己を豊かに「太らせ」ていくことである。それまでの自己に加 えて社会のなかで培われてきた伝統や文化や科学等々を身に「つけ」,社会のなかで生活するため の社会的自己を「創り」あげていくことである。学ぶことは自己を「陶冶(Bildung)」することで あり,その意味で学ぶことは「教養(Bildung)」を身に「つける」ことなのである。すなわち学ぶ ことは他者なるものをそれまでの自己に「つけ加える」ことにより,新しい自己を「創っていく」

ことなのである。

ところで,人間であることそれ自身が学ぷことを常に求められる存在であるということが忘れら れてはならない。学ぶことは,人間にとって,学校教育においてのみ行われる特別の行為であるの ではない。それどころか,それは今日よく言われるような生涯学習という言葉によって含められる 意味をもはるかに越えて人間を広く深く規定している。生涯学習などが言われようと言われまいと,

人間は人間として存在しはじめたときから学ぶ存在である。人間が他の動物と異なり環:境世界に収 まりきれない「開かれた存在」の道を歩き始めたときから,そしてその意味で欠陥動物であるかぎ り,日々生きることそれ自身が学ぶことなのである。人間はつねに世界に対して自己を開き,自己 にとって異質な他者と関わらなければ生きていけない存在者なのである。つまり人間は学ぶ存在な

のである。

しかしこのことを存在論的なまなざしで捉えるかぎり,これまで見てきたように,学ぶことは破 壊することである。一方,破壊のない学びとは,他者を私という主体と関係のない対象として取り 扱い,自己と切り離された対象化された存在者を身にまとうことである。そこでは獲得した知識や 情報が人間であることを保証してくれるかのように見える。ここには他者を遠ざけておいて,その 遠ざけた他者と関わっているかのように装うという欺購がある。すでに述べたように,ハイデガー が,一見人間の生にとって重要だと思われる「好奇心(Neugier)」を軽視し,それどころか「頽 落」の一形態と捉えていることも,こうした見方をすると理解できるのである。ここには人間であ るからこそ陥りがちな学びの大きな危険がある。破壊することは自己を壊し常に再形成することで あり,そうして他者を自己のうちに取り込むことなのである。しかし一方でそのことは人間にとっ て重荷となるのであり,そこから破壊のない学びで代用される危険が生まれてくるのである。しか もこの二つの学びは,破壊が生じているか否かを基準にしたとき,全く反対の性格を持っているこ とになる。しかも現代は二重の意味で学びの非学び化(代用化)の起きやすい時代であると言える。

第一に,情報化された社会になればなるほど代用化された学びに陥る危険は大きなものとなるから である。主体などと関わらせてゆっくりと知識を扱っている余裕はなくなり,ともかく新しい知識 を吸収していかないと社会に遅れてしまうのである。第二に,現代は個人が優先され共同性が喪失 されつつある時代だからである。そうした状況のなかでは他者との関係性の希薄化が生じる。そし て学びもまた真の意味での他者を受け入れられなくなり,破壊を伴なわずに表層的なところで学び が進行することになる。

学ぶことは,おのれの有限性を自覚し,しかも他者なる存在者に呑み込まれてしまわずに,つま り現代社会のなかで押しつけられる技術化の流れに呑み込まれずに,つねに対象化されつつ迫って くる事柄と自己との関係を破壊し,存在者を越えて語りかけてくる存在の声を聴くことなのである。

そしてこうした学びの捉え方において問題となるのは,決して絶対的な真理ではない。あくまでも

「私の」真理なのである。学ぶことはこの意味で「私」が聴き従うこと(H6ren),「共に帰属する

(16)

こと(Geh6ren)」,「言い応じること(Entsprechen)」である。つまり学びが私という主体を忘 れていくならば,ますます私という主体は見えなくなっていく。最も身近にあるべき主体が見えな くなり,そして遠くにある最先端のもの,目新しいものが追い求められる。だがそうした学びにお いては自己が喪失させられていくのである。そこで学びは「帰郷」を求められる。つねに身近にあ

りながら最も遠くにあるものにまなざしを向け返し,身近なもののところに「住む」ことを求めら れるのである。そしてそれは学びのなかで他者としっかりと向き合いつつ,自己を再形成し続けて いくことという破壊としての学びなのである。

教育はもう一度学びのなかにあるこうした破壊の契機に注目して,真の学びを取り戻すべきであ る。そしてこの情報化・技術化の時代,しかも高度な知識を要求される時代において,喪失されが ちな学びのなかのこの破壊の契機をどのように守護していくかについて考えなければならないだろ う。破壊があって初めて自己の形成がありうる。自己を形成することは常に古い自己を破壊し,新 しい自己を再形成し続けることである。したがって学びがこの破壊の契機を喪失することは自己を 形成する機会を奪われることでもある。

(2)教師が教えることとしての破壊

教育という現場においては,教師が教えることにおいて,そこに子どもが学ぶということが生起 する。そして学ぶことは本質的には破壊することを一契機として備えていなければならない。そこ で教師はどのような役割を果たす存在なのだろう。

第一に,教師は子どもたちを学びに導くための存在である。子どもたちが,学ぶことによって主 体への問いをもち古い自己を壊し新しい自己を再形成すること,すなわち存在者を見るまなざしを 越えて存在へのまなざしを獲得するのを助けることが教師という存在者の役割である。ここではま ず教師自らが存在へのまなざしをもつことを求められる。なぜなら真の学びは単なる情報・知識の 伝達ではなく,主体への問いを喚起するものであり,そのためには教師自身が自ら教えることのな かで主体への問い直しを行わなければならないからである。そしてこの意味で教師と子どもの関係 の在り方そのものが重要な意味を持っていることになる。学ぶということはまねぶことである。そ してまねぶことはまねすること,模倣することである。だがここでの模倣は子どもたちが目の前に いる他者を何とか自分のなかに取り込もうとして,つまり他者に憧れて繰り返しまねることなので ある。つまり教師が自らの伝統や対象との関わり方をそのまま子どもの前に見せることが教えるこ とにとって重要なのである。そして存在へのまなざしをもつということは自らを破壊するというこ とである。教師は教えることにおいて自らを破壊することを求められることになる。このことは教 師もまた学ぶ存在であることを意味する。

第二に,学ぶことに二側面があったことに対応して,教師は子どもを教えるさいに二つの専門性 を必要とするということである。ひとつは,破壊を子どもにもたらすための専門性である。もうひ とつは,社会生活に必要な技術や知識を子どもに獲得させるための専門性である。前者の専門性は,

ハイデガーの言葉を使えば,子どもが文化や伝統等と向かい合いながら本来的な自己になっていく

ことを助けるために機能する。それに対して後者の専門性は子どもが社会的存在になっていくこと

を助けるために機能する。しかしこの社会的存在はつねに本来的自己を殺す危険性をもっているの

参照

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