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近 世 西 班 牙 國 防 経 濟 史 概 説
室 谷 賢 治 郎
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海を制する者は世界を制するとは誰が言ぴ初めたかを知らないが︑世界史を繕く程の者は古今を貫いてこの
言葉が事實を謳つてゐることを認めすにはゐられまい︒古代羅馬が地中海を湖水とするやうな大版圏を建設し
た時︑海軍國カルタゴの強敵を破るのに剛方ならざる苦慮を費したことは︑周く知られる所であらう︒降つて,
最近世に於ても英國が渾圓球上日渡を見すと豪語するに至つた根源は︑疑もなく七つの海にユニォンジャック
の旗を靡せるととが出來た描にある︒然るに近世初頭︑特に第十六世紀・第十七世紀にあつては︑英國よりも
先に西班牙が東西爾洋に亙り日淡を見ざる榮冠を澹つた︒近世初頭は維濟史上マーカンチリズムの名を以て呼
ばれる時期で︑西班牙は正しくマーカンチリズム國家の前駆者たる活動を葡萄牙と共に示したのである︒西班
牙の黄金時代に於ける版圖は︑欧洲ではイベリァ牛島(葡萄牙を含む)・伊太利牛島の或る部分(ミラノとナ
近世四班牙國防経濟史概説(室谷い.六三
六四
ポリ)・シシリー島︑ネーヂルランド(十七州)・フランシュコンテ(猫佛爾國間の若干中間地帯)︑阿弗利加
ではチュ昌ス・オラン・カナリア諸島・ヴェルデ岬諸島︑亜細亜ではフィリッピン群島・モルッカ群島並びに
葡萄牙奮領の植民地の大牛︑亜米利加ではメキシコ・ペル・チリ等に跨り︑國王ブイリップニ世(一五五六年
‑輔五九八年)が英國女王メリーを后としたといふ關係では一時は英國も西班牙の勢力下に置かれたと見て差
9支ない︒フィリップ自身はマドリッドの宮廷深く書齋に籠り殆ど外出しなかつたにも拘らす︑輔人静かに世界
めに封する政策を書策指揮し天下の人に怖れられた︒フィリップは自ら﹁彼自らの大臣﹂であつたと同時に︑﹁高
助能の榊の若き伴侶﹂と稻せられた︒何れにせよマーカンチリズム時代の西班牙は﹁軍なる西班牙﹂冨国呂践隅で
わなく︑﹁大西班牙﹂鼠ω国呂薮器⁝薗O﹃$需幅︒︒℃巴コであつたといふことが出來る︒然らばかかる強大國となつた
時の西班牙の國防経濟を維持し嚢展せしめた背景は何であつたか︒以下これを歴史的に探求したい︒
の﹁第十六世紀に於ける西班牙の経濟的繁榮﹂の著者コンラード・へーブラーに從へば︑第十五世末イベリア牛島
に於てアラゴン國王フェルヂナンr団自象轟巳とカスチラ國女王イサベラH︒︒菩臣9とが結婚して西班牙の國
を肇めた頃は︑経濟も政治も混沌たる状態であつた︒農業は衰へ︑商工業は頽れ︑貨幣は悪鋳せられ︑不逞の貴
族が蹟屋してゐた︒然るにフェルヂナンドが牛島東南部に異敏徒として巣喰ふグラナダ國を攻略し︑イサベラ
がコロンブスに援助を與へて新大陸を嚢見せしめるに至つて後︑西班牙の國内は道路橋梁が建造せられ︑都市
の衛生上の施設が改良せられ︑港潤の燈壷が設置せられるやうになり︑造船業並びに航海業の嚢達目畳まし
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く︑商工業の進展も顯著となつた︒混沌たる西班牙の國情は漸次に秩序の曙光を窪むに至つた︒
第十六世紀に入リメキシコのザカテカスN碧暮9器に銀鑛が襲見せられ(一五三二年)︑ペルのポトシ剛08︒・団
に金鑛が褒見せられる(一五四五年)や︑當時の欧洲人はこれぞ久しく夢想した黄金華嘆くユートピア或は
日U9&oの出現であるとなし︑これを猫占する西班牙に封し垂挺措く能はざるものがあつた︒されば西班牙
政府が薪大陸の植民地へ食糧品を積載して毎年貿易船を派遣し︑復航に亘額の貴金属を満載して﹁銀船﹂︑︒o︒穿究
浄9.︑と化せしめる際には︑アンチル諸島に擦る海賊98碧8鵠脚冨︒彗剛︒誘がこの﹁銀船﹂を襲ふことが珍
しくなかつた︒而も事實西班牙に流入した貴金圏の債額は凶四九三年から一五〇〇年までに年挙均約三十五萬
弗︑輔五〇〇年から一五四五年までに約三百萬弗に達し︑右のポトシ鑛山の開襲後は年々一千百萬弗に檜加し
のた︒別な統計によれば︑一四九三年から=ハOO年までの世界の産金高は}億〇三百二十萬膀︑年平均は九十
七萬礫であるか軸西班牙の地位脚正に貨幣的ヴェスヴイオの噴出を猫り舞毫に享樂する趣があつた︒
かくて西班牙では文字通りの一櫻千金は通商の制限及び植民地の排他主義を探揮し︑採掘業の偏重は保護主
義を馴致することとなつた︒海外植民地の獲得維持のためには勢ひ張大な商船隊を要し︑航海條例を規定し造
船奨働金を交付することも怠るぺからざる國策となつた︒マーカンチリズムの雛型は立派に出來上つたといつ
て宜い︒
史家ランケの見解では︑西班牙が張兵の國となることが出來たのは︑莫大な金銀を所有したからであるとい
近世四山批牙國防郷鴨濟山鍋概蔚肌(室谷)・山ハ五
︑六六
のふやうに解せられる︒彼は論すらく︑﹁當時は傭兵制度が行ぼれ︑何人が最も多くの兵士に賃銀を支佛ふこと
ができるかといふととが萬事を決してゐたので︑從つて西班牙はその歩兵を以て世界中のどこの陸軍にもまさ
のる優越を獲得することとなつた﹂︒然るにこのランケの所論にも拘らす︑西班牙がピレネー牛島の輔角に本國
を有しながら前記の如き大膨脹を海外の版圖に示した事實に顧るときは︑陸軍の強さも去ることながら海軍の
偉大であつた鮎を看過し得ないと思ふ︒否︑﹁五八八年英國の海軍によつて撃破せられるまでの西班牙艦除が
自ら無敵必勝艦除目ロ三琴乾︒︾§巴潜を以て呼號してゐた史實は饒りにも周知である︒即ちマーカンチリズム
時代に於ける西班牙の國防経濟は︑噌方に於て海蓮並に造船の促進︑他方に於て貴金屡の輪出禁止により護持
せられたと断定して揮らないのである︒本稿の意圖するところはこの断定を裏打ちしようとするにある︒
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(6)(5)(4)(3)(2),(
(7)
坂口昂博士著﹁概観世界史潮﹂二八〇頁塗照︒
柵著﹁商業史大綱﹂ニニ五頁塗照o
鵠・口o溝8℃国88ヨけ出曇o藁oh国霞o℃o・20箋くo時卿H9ムoPおい9唱.&9
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拙課﹁近世物儂史要﹂二九二頁︒
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鈴木成高・相原信作共鐸﹁世界史概魏﹂二〇五頁︒ 団0﹁一ぼ同Q◎◎◎Q◎︒ωω・ひー◎◎・
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抑も西班牙の地たるや︑古代及び中世には欧洲商業の重要な兵皓をなした︒地中海滑岸のバルセロナ守7
6亀§9港の如きは第十五世紀に至つても尚ほ伊太利のゼノア並びにヴェニスに匹敵歩る勢力を保ちその商船は
へ埃及のアレキサンドリア港に至る間の凡ゆる地中海港灘と交通した︒またヴアレンシアく瀞げ馨す・カルタヘナ
O醇冨槻窪薗・アルヘシラス≧αq8蹄器・マラガ]≦櫛﹃僅q9等の諸港も..第十五世紀の絡頃まではゼノア・ヲロレン
ス等と盛んに通商を螢んだ︒然るに古代人の想像した世界の極が﹁ハーキュリースの柱﹂︒︒似巳窪畠窃国︒涛三窃嚇
剛竃舞ω︒h国︒旨三窪ージブラルタル海峡を爽む大岩1に存しないことが分明にせられるや︑而してヴェ昌
スが毎年大西洋へ商船除を派遣するに至るや︑西班牙のアンダルシア︾言巴器ド地方の諸港海即ちセヴィリャ
︒自6ξ田・カヂスO民貯・サンルカル︒︒9巳印舞等は俄然活氣を呈することとなつた︒これと同時に西班牙北部の
ビスケイ灘に面するコルナOo旨昌9・サンタンデルQ︒茸雷巳自・ビルバオ国子き・サンセバスチアンqα・o自6冨甲
ユ§等の港も英國やフランダース地方への仲糠場として新生を謳はれることとなつた︒蝕にビスケイ灘滑岸に
於ける造船の活濃な歌況が特に注意せらるべきであらう︒︑但し造船と言つてもその技術叉は構造は最近世の産
業革命を見ない前の時代のことであるから︑との黙を謬無きやう読明しなければならぬ︒
︑近世の初頭に西班牙で使用せられた船は︑㎡島8昌.︑として知られるもので︑これは地申海方面の船と共通の
近世四班牙國防経濟史概観(室谷)六七
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構造を有した︒..σq龍8ロ.︑に大砲を具へて海職に利用したのは︑第十五世紀初のヴェ昌スであつた︒然るに大
砲の進歩に♪り海職の性質が次第に攣化すると共に︑武装商船の必要は海職にも遠洋貿易にも痛感せられるに
至つた︒鼓に於て..σq邑8昌.︑といふ名稻は武装商船に適用せられることとなつたが︑ヴェ昌スに於ける最初
の︑.ぴq亀8昌"︑は陸職の場合河川に使用するため考案せられた船であつた︒即ちそれは舷側が高く︑唯だ舷側か
ら梶を突出して漕ぐ貼に於てはσq龍超と似たものであつた︒何れにせよ︑第十七世紀に至るまでは..σq註8昌︑滑
と船とは構造及び装備に於て大差が無かつたと言つて宜い︒
6母碧巴と呼ばれる船は第十三世紀の頃から葡萄牙で造られ︑第十六世紀の初までに特有の形艦を整へられ︑
その後特定部分に改良を加へられた︒また︒碧冨爵及び舞雷と名付けられる船も素とゼノア及びフランダー
ス地方で造られて︑葡萄牙へ費られたものである︒かく造船術そのものに關する限のはイベリア牛島全般に著
しい改良は見られなかつだ︒・
然らば西班牙及び葡萄牙に於て造船業が重要となつた根源は何盧にあるかと言ふに︑その建造し得た噸激に
存するのである︒ビスケー灘澹岸の地位が仲縫的折衷主義を寧る激迎し︑西班牙の貿易歌態が種々の型の商船
を却つて要求したと見るととが出來る︒然るに西班牙の折衷主義乃至経瞼主義は遠洋貿易の新しい問題を解決
する上に於て必すしも十分でなく︑第十六世紀の後牛から和蘭の制墜を受けることが屡々起つた︒伍て西班牙
の國會には一五二〇年︑一五二三年及び一五五九年に外國製造船の使用禁止に就ての請願が提出せられ︑一五