田川大吉郎の政治思想
著者 遠藤 興一
雑誌名 明治学院大学社会学・社会福祉学研究 = The Meiji
Gakuin sociology and social welfare review
号 138
ページ 1‑62
発行年 2012‑03‑16
その他のタイトル Political Thought of Daikichiro TAGAWA
URL http://hdl.handle.net/10723/1130
田川大吉郎の政治思想 田川大吉郎の政治思想
遠 藤 興 一
はじめに 一 問い続け、説き続けた理念と現実
1 立憲議会主義とは何か
2 議会を中心に展開される政治
3 憲政擁護運動の展開 二 時代と体制に抵抗し続けて
1 対立する思想としての専制政治
2 統制的国家主義の抬頭
3 ファッシズム下の闘いかた
おわりに 資料1 大詔の煥發を内奏せられん事を望む 資料2 田川大吉郎に対する陸軍刑法違反
田川大吉郎の政治思想
議 会 は、 国 民 福 祉 を 増 進 す る 総 意 の 評 決 所 で あ る。 議 会 を 活 か し て 善 く 働 か す れ ば、 国 民 の 総 意 に 叶 ふ 此 の 種 の 計 画 は 必 ず 適 度 に 遂 行 さ る る に 至 る で あ ら う。 そ れ を 先 づ 国 内 に 遂 行 す べ き で な い か と 謂ふ所に本論があり、社会改革運動があり、議会制度があるのである。 (田川大吉郎『社会改良史論』自序)
はじめに
東京府選出の衆議院議員、田川大吉郎は生涯に一五回選挙に立候補、九回の当選をはたした。いわばプロの政 治家であるが、その晩年、つまり昭和一六(一九四一)年一月、七二歳という高齢にもかかわらず陸軍刑法違反 により、大阪地方裁判所から禁固四カ月、執行猶予二年の有罪判決をうけている。この裁判における予審調書を 見ると、 なぜ彼が有罪となったのか、 その理由が詳しく記されている。 直接の理由は講演活動で語った内容が 「造 言飛語」に相当し、民心を惑したとされるが、日頃の言動や来歴も有罪となる理由に及んでいる。それらは田川 の思想と行動を知るうえで参考となる記述であるから、文章の一部を紹介してみたい。治安当局は田川をどのよ うな人物と見たのであろうか。
曩に数回に亘り英、米等の所謂自由主義的諸国を外遊して、之等諸国の文化並に社会政策等に及び、又之
田川大吉郎の政治思想 等諸国の基督教宣教師に深く親炙し来れる等の為、其の思想、信仰は著しく英、米のそれに偏向しつつある や に 認 め ら れ た り。 而 し て 本 名 ( 田 川 大 吉 郎、 引 用 者 ) は 従 来 英、 米 等 に 於 け る 基 督 者 と 同 様 常 に 思 想、 信 仰及良心等の自由を主張し、国家権威と雖も此等自由を支配し得ざるものなることを唱へ、又其の平和観に 於ても、我が国多くのプロテスタント派基督者と同様、英米依存的、現状維持的平和観に固執して、世界の 現状に於ける領土、人種及資源等の不平等、不均衡、其の他、之等英米の諸国に於ける非人道的政策並に之 を概ね是認しつつある。 立憲議会主義の確立を政治的モットーとし、そのための思想、信仰の自由を重んじる自由主義者、加えて国家 神道がまさに国家宗教的な猛威を振いはじめた時期のプロテスタント・キリスト者であった。従って、国家に対 する忠誠、献身が国民全てに要求された時代とはそぐわない存在であった。本稿ではこのような政治家が、時代 と社会の波に抗し、展開した政治活動の軌跡をたどることにしよう。議員としては常に少数派に属し、その主張 が国策に反映したことは少なく、自ら信ずる政治思想の実現に向けて有力な方法、手段を充分に持ち得なかった 人生である。予審調書がとられた時とほぼ時期を同じくして聴取された、私的談話が今日、記録として残されて い る。 そ の な か で、 「 私 は 失 敗 者 で せ う、 敗 残 者 で せ う 」 と 語 る。 に も か か わ ら ず、 そ の 政 治 姿 勢 は 生 涯 一 向 に 改めることをせず、最後まで貫きとおした。結果として国内にとどまることすら許されず、上海に亡命、帰国で きたのは戦後、昭和二一年になってからである。本稿では主に立憲議会主義者としての思想、行動に焦点をしぼ り、その展開の軌跡を追うことにしたい。
田川大吉郎の政治思想
一 問い続け、説き続けた理念と現実
1 立憲議会主義とは何か立 憲 主 義(
constitutionalism) と い う 政 治 概 念 は、 一 般 に 支 配 者 の 持 つ 政 治 権 力 を 憲 法 の も と で 制 限 す る 原 理 を指しているが、その現われかたは歴史上必ずしも一様でなかった。まず、議会主義との関連でいえば、国民の 積極的な政治への関与を促すのが議会主義であり、その国民を専制的権力による圧政から保護するのが立憲主義 の役割である。いわばデモクラシー以前の政治的統治を示す用語として、立憲主義は西欧ばかりでなく、わが国 でも当然の如く採用された政治概念である。立憲主義とは統治権に関する法的拘束を意味し、支配の恣意性を排 除する意味を含み、いわば専制政治の反対概念と見たらよい。西欧諸国における立憲政治体制を歴史的にたどる と、その流れは二つに分けることができる。分岐点は君主制の性格に関する解釈の違いにあり、ドイツを中心と し た 立 憲 君 主 制 と、 イ ギ リ ス を 中 心 と し た そ れ に 典 型 を 見 る こ と が で き る。 前 者 は 明 治 政 府 が 統 治 モ デ ル と し、 憲 法 に よ っ て 制 限 す る 君 主 の 権 限 を で き る だ け 少 な く し よ う と し た も の で、 「 国 王 は 君 臨 し、 か つ 統 治 す る 」 と い わ れ た。 後 者 は 議 院 内 閣 制 を 国 政 の 基 本 体 制 と し、 「 国 王 は 君 臨 す れ ど も、 統 治 せ ず 」 と い わ れ る。 君 主 の 権 限をどこまで認めるか、あるいは認めないかということ、それを議会が判断し、施策の上に反映させることがで きるか、できないかがこれら二つのタイプを区別する。換言すれば、政治(統治)責任の所在と政治(統治)行 為の権限内容に関する違いが、こうした二つの流れを生んだ。ドイツ、そして明治帝国憲法下のわが国は、緊急 命令権、法律裁可権といった君主の持つ権限が強大であったため、議会との間で安定した権力分割が難しい。加
田川大吉郎の政治思想 えて立憲主義を貫くことも容易ではない。田川が主張する立憲主義との関わりでいえば、明治元(一八六八)年 三月発布の「五箇条の御誓文」が既に深くこの問題に関わっている。つまり、公議思想、並びに権力分立主義に よる「政体」構想が示されており、西欧的立憲主義に通じる思想が胚胎している。しかし、維新の政体変革は古 代太政官制の復活、宰臣の補翼による君主政治とするよう機構を定めた。これが天皇親政である。やがて太政官 制の廃止を経て立憲制に移行、まもなく憲法機関を設けることによって、責任と能力によって裏づけられる国家 の意思決定が君主の外側で行なわれるようになった。立憲主義とはこうした一連のシステムを総称する政治概念 のことである。田川は立憲の内実を涵養するため、しばしば「五箇条の御誓文」に言及、ここを根拠に立憲主義 を唱える。かくして立憲国家における公法体系は憲法を基本法とする細目規定を定めて体系とした。しかし、こ のような立憲主義は、同時にドイツ・プロイセンを範としたため、議会政治と元老政治は常に対立しながら機能 し た。 成 田 龍 一 は 田 川 の 場 合、 あ く ま で も 議 会 政 治 を 確 立 す る た め、 「 政 治 を 人 々 の 手 に と り も ど せ と の、 政 治 そ の も の の 平 民 化 の 主 張 と な り、 身 近 か な と こ ろ か ら 問 題 を た て、 政 治 に 行 き つ く 思 考 方 法 を 示 し た
(1)」 と い う。 具 体 的 に は 明 治 末 年 以 後、 「 中 央 公 論 」 を は じ め 商 業 雑 誌 に お い て 政 治 論 を 展 開 し、 そ の 内 容 が こ こ に 関 わ る と い う
(2)。だが、 時期としてはこれ以前、 「政治そのものの平民化」 はしばしば主張されており、 またその 「思考方法」 は イ ギ リ ス 流 の 立 憲 主 義 を 範 と す る と こ ろ か ら 組 み 立 て ら れ た こ と も は っ き り し て い る。 大 正 二 年 一 二 月、 「 中 央公論」 に発表した 「英国民の立憲的気風」 で、 ハイド ・ パークにみられる英国市民の議論慣習を例に引いて、 「平 民 化 」 の 主 張 が 立 憲 主 義 と 深 く つ な が っ て い る こ と を 指 摘 す る
(3)。 つ ま り、 「 議 会 政 治、 即 ち 立 憲 政 治 は 決 し て 無 雑作な政治ではありません。政治に参加する権利のある国民には、政治に盡力する義務がありま す
(4)」。
田川大吉郎の政治思想 僕は此集会こそ、英国の為に、有らゆる不平の善き発散所かとも思ひ、又、英国民の紳士風の訓練所かと も思ひ、又、演説の練習所かとも思ひ、又、政治思想の開発養成の府かとも思ふた。而して何にせよ、その 盛んなこと、静かなこと、研究的なこと、寛厚包容の気風態度に感服し た
(5)。
大 正 一 四( 一 九 二 五 ) 年 五 月、 田 川 は 政 治 の 要 諦 に 触 れ た 文 章 で、 「 政 治 は 第 一 に 家 庭 に 於 て 教 養 せ ら る る も のであります。喩へば水の如きもの、又飯の如きもので、人間の日々の生活に必要缺くべからざる、決して吾々 の日常の生活から懸け離れた、特別のもの、格別のものではありませ ん
(6)」と述べ、市民の生活瑣事がそのまま国 家、政治体制に繋がる議会政治の因果関係に触れている。このことは、政治における公私関係をどのように位置 づけたらよいか、その根拠、かつその具体策に及んでいない点で問題点は残されるが、反面市民の私生活が政治 の在り方と深くつながっていることを認識させるうえで、意味のある発言であった。このように市民に対する政 治教育の必要性を強調し、ことある度に「政治の教養は実に、第一に家庭に於てせらるべきものであります。次 で 小 学 校 に 於 て せ ら る る の で あ り ま す
(7)」。 こ う し た 考 え や 発 言 は い つ 頃 か ら み ら れ る よ う に な っ た だ ろ う。 明 治 三六(一九〇三)年、尾崎市長のもとで東京市水道部長となり、都市行政を動かしていた頃には、既にこうした 発言を繰り返し行なっている。そのひとつ、 「家庭の立憲的組織化」に言及してみよう。 「今日の帝国議会の不振 の有様は、日本人自らが家庭に於て団体的組織の効用を完うすることが出来ないから起ってく る
(8)」のであり、議 会政治が活発化すれば、 それは市民生活に影響を与え、 生活習慣に及び、 立憲的になるという。逆に言えば、 「私 等の家庭の内には、まだ斯う言う有難い立憲の仕組と言ふものは這入って居りませぬ。時代は立憲時代に進歩し
田川大吉郎の政治思想 て居りますけれども、私等の家庭は露ほども其餘沢を受けませ ぬ
(9)」、従ってまずは自分自身、 「隗より始めなけれ ば な り ま せ ん 」。 そ の う え で「 家 庭 の 風 儀 を 改 良 し て 行 き た い 」 と い う 想 い は、 ジ ャ ー ナ リ ス ト と し て、 そ の 本 領を発揮すべき文筆による啓蒙活動に反映された。 「僕は一五、 六年前から、家庭の立憲的気風といふことを唱へ て居る。国の立憲政治は、家の立憲政治に始まる。若くば立憲的気風に始まる。それが大事 だ
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」と述べたのは大 正三年五月であるから、遡ること、明治三〇年代の初頭には、既にこうした生活態度に関心を寄せていたことが 分かる。 このように生活道徳と国家経綸の途をつなぎ、 そこに立憲思想を反映させようとした田川は、 同時に 「忠 君愛国は我国民の精華にして学校にても之を教へ、家庭にても之を誨ゆれど…憲法を尊重すべきこと、忠君愛国 の第一義たるを教ふ る
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」課題をも重視、国家として立憲主義を定着化させること、専制主義を排することを求め て次の様にいう。
政治上では無論立憲国であるが、其の国民たる男子の頭脳は、依然として専制的に動いて居る。即ち其家 庭 に 於 い て は、 家 長 た る 男 子 は 純 然 た る 専 制 君 主 で あ っ て、 其 妻 子 眷 族 に 対 す る 態 度 が、 如 何 に も デ ス ポ チックな、タイラニカルな、殆んど彼等の人格を認めて居らぬ風があ る
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そ し て、 こ の 家 庭 を 対 象 と し た 政 治 教 育 は「 其 精 神 が 市 町 村 に 及 ん で、 兹 に 真 の 自 治 制 が 起 り
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」、 や が て そ れ が国政にまで反映することが望まれる。とりわけ専制君主を象徴する家長の役割、機能を“立憲的”に改変しな け れ ば な ら ず、 「 其 頭 脳 か ら 専 制 的 分 子 を 取 り 去 り、 以 っ て 家 庭 の 改 造 を 計 り、 更 に 一 般 の 婦 女 子 を も 自 己 と 同
田川大吉郎の政治思想 等に視、同等に発達する機会を与 ふ
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」策が立てられなければならない。家庭を構成する男女、親子、夫婦がそれ ぞ れ「 立 憲 政 体 の 精 神 を 実 行 し 」 た な ら、 「 畢 竟、 分 業 の 政 治、 換 言 す れ ば 自 治 の 政 治
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」 が 実 現 す る だ ろ う。 か くして擬人化された政体は実践モデルを持つことになり、国民は身近に、具体的な形で立憲政治を知ることがで きるようになる。いわば自然生長的に立憲思想の性格規定を行なうことによって、社会関係における調和、ある いは公私関係における同一化、さらには個人どおしの内面と外面の峻別、ホンネとタテマエの使い分けといった ダブル・スタンダードを乗り越えなければならない。だが、意外なことに田川は儒教的な修身斉家と治国概念を ここにあてはめ、立憲主義の理解を儒教倫理の世界につなげる方法を採用した。
父は父として、母は母として、兄弟は兄弟として、又家婢は家婢として各々持前の力を隠さず、又他人の 力 を 侵 す 事 な く し て、 相 互 に 相 励 ま し、 相 慰 め 合 っ て 生 活 し て ゆ く 家 庭 は 是 れ 即 ち、 立 憲 政 治、 分 業 政 治、 又自治政治の家庭なのであ る
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必ずしも啓蒙のための方便、人口に膾炙した言い換えとは思えないこうした発言を考慮すると、田川における 英国モデルは、わが国の将来をそのままここにあてはめるべきものではなく、 より
、、伝統的な儒教思想をも内包す るものであることも認めないわけにはいかない。それは、結果において伝統的な家族制度を維持、補強する役割 を 果 す こ と に な る。 こ の よ う に 微 妙 な 曖 昧 さ を 含 み な が ら、 「 国 の 政 治 を『 国 政 』 と 申 し ま す に 対 し、 よ い 対 照 の 言 葉 と し て『 家 政 』 と い う 字 が あ り ま す。 政 治 が 国 に 行 は れ て 居 る 如 く、 政 治 は 家 に も 行 は れ て 居 る
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」。 こ の
田川大吉郎の政治思想 ような田川を指して、成田は「男の論理の範囲内で婦人の自由を認めており、婦人の独自性を許容する余地はな いが、依然として家長が家族を統率する状況において、ひとつの批判的拠 点
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」があるとみた。田川が「男の論理 の範囲内」で当該問題を考えた、つまりジェンダー的視点が欠如していたという指摘を、明治期の家族制度下に おける立憲性を論じる場合にそのままあてはめることには無理があり、田川の思想的限界を読み取るべきだとい う論旨には、にわかに組し難い。むしろ、明治の家族法、民法体制の範囲内で「立憲」の実効を図るため、意図 的 に こ う し た 表 現 を 採 用 し た 一 面 も あ っ た の で は な い か と 捉 え て お く。 一 方 に、 「 婦 人 の 自 由 を 認 め る 」 田 川 が おり、そこで「男の論理」を主張することとの間において、これらは並存関係にあったとみる。従って、田川に は独自の女性論、 婦人論が生まれ、 それは別途取り上げて論ずべき課題となる。大正三(一九一四)年五月、 「中 央公論」に「立憲思想開発策」と題する論文を載せ、そのなかで次の様に述べている。
僕は山本内閣の覆へり、大隈内閣の興ったに対し、勝利を感じた一人である。然し乍ら大隈内閣の顔触れ を見ては、失敗を痛感した一人である。顔触れはどうでも宜しい。その献立の精神に一大不満を感じた一人 であ る
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この年一月、 立憲同志会の島田三郎が衆議院予算委員会で、 シーメンス事件に対する政府の対応を批判、 攻撃、 世間も内閣を弾劾する運動を起し、三月二四日、遂に内閣総辞職となった。この時田川は、汚職問題もさること な が ら、 立 憲 議 会 主 義 の 腐 敗、 堕 落 ぶ り を み て 憤 慨 す る。 そ し て、 「 首 相 は 斯 く て も 尚 恋 々 と し て 政 権 を 維 持 せ
田川大吉郎の政治思想 んとするか、予算不成立となりて辞職もせず、解散もせず、依然として政府を維持する如きは、正しく立憲国の レコード破りであ る
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」と指摘した。山本内閣が倒れ、第二次大隈内閣が成立したことは、藩閥政治を打破し、立 憲 議 会 主 義 の 確 立 を 主 張 す る 田 川 に と っ て 念 願 が 達 成 さ れ た 瞬 間 で あ る。 前 年 の 一 二 月、 「 所 謂 英 国 の 立 憲 政 治 あり、而して吾等日本国民は遂に之を如何にせん や
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」と問い、彼我の政治情勢が議会主義をはさみ、いかに異る ものとなっているか、考えれば考えるほど「立憲的気風」の育成は重要な課題となった。それは政権交代後の政 治情勢についても同様の問題が引き継がれていることに目を止め、新政権に対しても同様の失望を感じないわけ にはいかなかった。新内閣には中正会からも尾崎行雄が法相として入閣、田川はその下で司法参政官となり、政 策責任の一端を担うことになった。にもかかわらず、与党としての大隈内閣を批判するのは立憲政治の基本的姿 勢にそぐわない態度、行動をここに見たため。この問題に比べるなら「政変は議会の中に決するが宜しい。一層 明白に言へば総選挙の際に決するが宜しい。而してそれ以外には政変無きやうにするが宜しい。それが立憲政治 の要求であ る
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」。その大隈内閣も大正五年一〇月には総辞職、代って元老山縣有朋の推す寺内正毅が組閣したが、 こうした政権の交代劇を眺めると、議会政治にとって最も大事な民意を反映した運営と、政策を基本として討議 をするところが立法府であるべきなのに、少しもそれが重視されない実情には落胆の思いを深くした。
どうしても立憲の趣意は、未だ日本に理解されていないかのやう、今更の如くその孟浪、突梯、摩軻、不 思議なるに驚いた。日本は此から更に立憲制のいろはを学ばねばなら ぬ
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田川大吉郎の政治思想 この前後、 田川は「欧米を一巡」する長期外遊を試み、 そこで議会制度の運用実態を こと
、、細かく視察している。 そして帰国後は、こうした年来の主張を より
、、一層積極的に、自信を持って人びとに説くようになった。こうした 田川の行動を今井清一は、これこそが「政治家としての良心を示してい る
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」とみて、注目している。
2 議会を中心に展開される政治
石橋湛山を中心とする東洋経済新報との関係を踏まえ、立憲自由主義を基本としながら、田川はどのように行 動したであろうか。家永三郎は『太平洋戦争』 (岩波書店、 一九六八年) で、 戦前の戦争批判は様ざまな立場から、 それぞれにあることを例証したが、なかでも昭和七年五月二一日付東洋経済新報「社説」をとりあげ、次第に右 傾化していくジャーナリズムのなかで、その主張は「柔軟な対外政策と言論の自由を守るための基本的姿勢はほ とんどくずさなかっ た
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」事実を指摘した。湛山がその立場とする自由主義を経済活動から政治活動へ拡げ、その 必要性を主張したことを評価したのである。こうした主張をとるグループのなかに田川がいたこと、しかもそれ を現実の政治舞台で、時代と社会に抗しつつ展開した自由主義者であったことについては、今日ほとんど知られ ていない。松尾尊兊は「大正デモクラシーにおける湛山の位置」を指して「社会主義者と提携した急進的自由主 義 者
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」 で あ っ た 彼 等 は す で に 大 正 初 年 以 来、 「 内 に お い て は 普 通 選 挙、 外 に お い て は 小 日 本 主 義 と い う、 当 時 の 自由主義の潮流の最尖端を切る主張を旗印にかかげてい た
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」ことに言及するが、これは湛山個人に妥当するばか り で な く、 東 洋 経 済 新 報 に 拠 る ジ ャ ー ナ リ ス ト、 政 治 家 の 多 く が そ う で あ っ た こ と も 知 っ て お く べ き で あ ろ う。 大正三年以来、湛山を幹事役として集まった人びととして三浦銕太郎、田中王堂、植原悦二郎、関与三郎、平野
田川大吉郎の政治思想 英 一 郎、 石 沢 久 五 郎、 野 崎 龍 七 等 と と も に、 主 要 メ ン バ ー の 一 人 と し て 田 川 の 名 が 記 さ れ て い る
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。 湛 山 に よ れ ば
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、「 集 ま っ た も の は、 い ず れ も 当 時 と し て は 急 進 的 な 自 由 主 義 者 で、 し た が っ て 話 題 は 常 に、 ど う し た ら 日 本 を軍閥官僚の専横から救い、民主化しうるかというこ と
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」に集中していた。例えば大正三年五月一七日、帝国教 育会を会場にして、田川を含む彼等が演壇に立ち、そうした主張を展開した。ではその特徴はどのようなところ に求めるべきか。
田 中 王 堂、 田 川 大 吉 郎 ら を 含 め た 新 報 周 辺 の イ ギ リ ス、 ア メ リ カ 流 の 思 想 家、 政 治 家 た ち の 政 治 思 想 は、 大正デモクラシーの本流と目されるドイツ系の吉野の民本主義や、美濃部の国家法人説とちがう、独自の価 値をもつものとして、われわれの再検討を待ち受けてい る
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ドイツ国家学やその憲法理論を背景とした官学的自由主義とは別に、早稲田出身者を中心とする経済的自由主 義者として、政治、思想一般に及ぼそうというジャーナリズム集団があったということであ る
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。彼らは時局論に 棹さし、政府や軍部批判も辞さなかった。この動きを詳しく紹介してみよう。明治三九年、早稲田経済会の後を うけて東洋経済会を設立、毎月研究会、講演会、談話会を催し、やがて自由思想講演会と名づけ、定期的に開催 するようになった。主要メンバーの一人、田川が下獄事件で有罪となったため、自由思想雑話会と名称を変えた ことはあったが、大正一二年まで継続している。吉野作造等の民本主義が政治体制を正面から問題にしたことと 比 較 す れ ば、 そ の 民 主 主 義 的 な ス タ ン ス は 必 ず し も 理 論 と し て 徹 底 し た も の で な く、 「 そ れ だ け で 直 ち に 人 間 と
田川大吉郎の政治思想 して他のいかなる人間に対しても、政治上同権であるというのであるが、これは自由主義的思想であって、決し て 民 主 主 義 的 思 想 で は な い
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」 と い う 指 摘 も 有 り 得 た。 が、 田 川 等 の 場 合 は そ の 点、 よ り
、、包 括 的、 外 延 的 で あ っ た
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。自由には権利(政治)が伴うことを重視、国家主義に対立する自由主義でなく、国家や国民が当面する課題 を自由主義的に解釈した。田川自身の言葉によれば次の様になる。
個人主義は自由主義に通ずる、個人の存在を確実に認むれば、自由を認めざるを得ない。自由の存在を確 実に認むれば、個人を認めざるを得ない。今日、其の個人主義、自由主義が蛇蝎の如く忌まれ、屏鬼して声 なき時代であると称せられ る
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国 家 主 義 が 抬 頭 す れ ば 当 然、 自 由 主 義 は 抑 圧、 支 配 の 対 象 と な る。 し か し 田 川 は、 「 そ の 為 に、 個 人 主 義 と 自 由 主 義 と を 亡 く す る と 言 ふ の で あ る が、 人 の 無 い 国 家 の 有 り 得 な い 限 り、 そ の 国 家 も 亦、 個 人 の 存 在 を 認 め て、 その福祉を図り、その福祉を図る限り、その自由を認めざるを得な い
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」と、国家に対して個人の権利、自由を擁 護する立場に立った。そのため「運命は諸子自ら開拓せねばならぬ、そこに個人主義があり、自由主義がありは し な い か
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」、 さ り と て「 自 由 は 決 し て 我 ま ま で は な い
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」、 他 人 の 権 利 を 侵 さ な い 程 度 に、 「 自 分 の 欲 す る 所 を、 自 然に依り、清新なる国論を喚起し……同志、田川大吉郎氏は本誌の経営、編纂に参 与
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」しつつあると広告に載せ た文章からも分かるとおり、自由主義を掲げて登場した雑誌「新使命」の編纂、出版にも深く関わった。田川の 考 え る 自 由 主 義 は 包 括 的、 総 対 的 で あ る こ と を 特 徴 と す る。 そ れ は ち ょ う ど 丸 山 眞 男 が、 「 自 由 と い う も の は、
田川大吉郎の政治思想 い つ の 時 代 で も 抵 抗 の 精 神 に よ っ て 担 保 さ れ て い る。 『 抵 抗 の 精 神 』 と い う の は、 体 制 を 変 革 す る と か し な い と かいうことと独立した次元の問題です。けれども、権力に対する抵抗、また、およそ権力が立ち入ってよい事柄 と立ち入るべからざる事柄との弁別の意識を欠落してしまったら、自由主義者のミニマムの条件を欠くことにな る
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」というごとく、自由主義は反権力的な点において一貫しつつも、他方社会主義も、国家主義の一部も含む民 主主義と両立し得る概念である。田川はそうした自由主義を普及、 拡大、 浸透させるべく様ざまな行動に関与し、 政党活動においてもこの点を特に重視した。例えば、政治綱領のもとに結集する政党本位というより、異る政党 間の政治的立場を横断的につなぎ、相互の共通性理解に力を注いだ。倶楽部、会派を起してはリーダー的役割を 演じた所以である。すなわち、 我が国の議会に「僕は、 倶楽部が足りない、 殊に政治的倶楽部が足りないと思ふ。 今 日、 我 国 の 政 党 で、 倶 楽 部 を 有 し て 居 る の は、 中 正 会( 中 正 会 は 政 党 で 無 い け れ ど ) の 中 正 倶 楽 部 で あ ら う。 僕は此種の倶楽部の勃興を全国に促した い
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」 と語ったのは大正初期のこと、 やがて大正七 (一九一八) 年一〇月、 「内閣更迭史論」 (静思樓主人、 ペンネーム) を書いているが、 その後山縣有朋を名指しで「大権私儀」を図った不 忠の臣として批難、ために起訴された。にもかかわらず、田川の立憲議会制擁護の主張はこの後も妥協の余地を 見せない。
日 本 は 立 憲 政 治 の 国 で あ る。 然 し な が ら 日 本 国 民 の 立 憲 の 心 得 に 疎 い こ と は、 以 上 の 内 閣 組 織 の 時 日 が、 その一斑を証明して居る。日本の立憲政治のうまく、面白く、たのもしく、進歩発達しない筈だ。日本の国 民は未だ立憲の心得を心得て居ないものだと謂ふことに為 る
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田川大吉郎の政治思想 田川は立憲政治の在り様や理念について、 生涯の全期間を通じて周囲に問い続け、 説き続け た
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。 このように 「田 川 の 立 憲 主 義 は、 日 本 の デ モ ク ラ シ ー の 一 翼 を 担 う と と も に、 多 大 の 寄 与 を お こ な っ た
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」 と み る 評 価 が 生 ま れ、 田 川 も そ の 若 き 日、 郵 便 報 知 新 聞 に 入 社 し て ま も な く の 頃、 「 立 憲 内 閣 を 組 織 し て 時 勢 に 適 応 せ ざ る 可 か ら ざ る に至り、 藩閥の根拠は漸く薄弱を覚へ、 内閣組織の根拠を此に取るも、 自から安んずる能はざるものあ り
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」とし、 一刻も早く藩閥内閣を立憲内閣に代えなければならないと考えた。その啓蒙精神をよく表している文章を拾い出 してみたい。まず明治三九(一九〇六)年七月、 「余は日本青年の具有すべき使命を立憲的作法なるべしと思ふ。 立憲的作法とは意義の太だ漠たる言葉なるが、余は此の場合、之を公会に於る和協交讓の精神、若くは其礼法に 用 ゐ ん と 欲 す
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」 と 述 べ、 立 憲 と は 生 活 作 法 の 問 題 で あ り、 「 公 会 の 威 儀 を 尊 重 し、 衆 説 を 聴 き、 成 る べ く は 之 に 従ふの雅量を養ひ、若くは衆説と自説との契合点を兹に発見し、之を適宜に調摂するの工夫を心がくるこ と
)(((
」を 指して、青年こそはすべからくこうした精神と生活態度を身につけなければならないという。で、その精神とは どの様な特徴を持つものであろう。
当局者より言へば、此程、結構な御し易き人民はなかるべく、洵に呑気極楽なるべきも、立憲の政道より いえば、此れ程、頼み甲斐なき、心細き事態はあらざるべし。如何にして此の抵抗力を刺激し、発達せしめ んか、是れ憲政の将来に志ある者の夙夜に考ふべき大切の事な り
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。
立憲主義は「人民の抵抗力」が基盤となってはじめて成立するものであり、この「抵抗力」は絶えず刺激、活
田川大吉郎の政治思想 性 化 し な け れ ば な ら な い。 立 憲 主 義 を 民 主 主 義 の 方 向 へ 引 き 寄 せ る た め に は、 「 人 民 の 抵 抗 力 」 こ そ 唯 一 有 効 な 力 の 源 泉 で あ る。 そ の 点 か ら い え ば、 貴 族 院 は は る か に「 情 実 の 府 」 で あ り、 「 政 治 を 解 せ ず、 又 立 憲 政 治 を 咀 ふやうな人も居 る
)(((
」 政治機関である。誠に 「立憲政治の為に之を残念惜しく思ふ」 と指摘した。つまり元老政治、 藩閥政治は立憲と並び立つことができないと同時に、立憲自体「未だ主義とならず、精神とならざる憲政は無力 な り、 其 の 弊 の あ る こ と も 專 制 政 に 弊 の あ る に 同 じ
)(((
」 結 果 を も た ら す。 国 民 が「 立 憲 的 生 活 に 覚 醒 し 」 た な ら、 その時こそ「專制政の弊」を取り除くことができる。
早い話が立憲政治といふものは商売人のする政治である。 西洋に立憲政治の発達したのは、 商売人に思想、 信用、勢力があったからだ。東洋に立憲政治の発達しないのは、商売人にその思想、信用、勢力がないから であ る
)(((
。
資本制社会に流通する商取引きは、立憲政治の基本にある「思想、信用、勢力」と同じ条件を備えていなけれ ばならない。このことは政治と経済が資本主義社会を構成するうえにおいて、人倫思想を不可欠な成立条件とし て い る こ と を 意 味 し、 経 済 的 範 疇 か ら 立 憲 政 治 を み る な ら、 「 代 議 政 治 の 起 っ た 根 本 の 動 機 が、 人 民 の 租 税 負 担 にある、租税を負担する者は、その租税の軽重、支途の善悪を論議する必要があり、又権利があるといふのを至 当 の 道 理 と す る
)(((
」。 国 民 に と っ て の 担 税 義 務 と、 政 府 に と っ て の 財 政 責 任 は 両 方 が 充 分 に 果 た さ れ て、 立 憲 政 治 は成り立つ。かつ、 その基盤には代議政治を支える哲学原理がなければならない。ところが 「立憲政治の世の中、
田川大吉郎の政治思想 し か る に 首 相 ( 林 銑 十 郎、 引 用 者 ) は、 立 憲 政 治 の 何 た る か を 解 し て 居 ら れ な か っ た。 国 民 こ そ い い 迷 惑、 我 が 国家近年の悩みは、要するにここにあった。憲政施行の指導の衝に当る首相其人が、憲政の何たるかを心得てゐ ら れ な い 所 に 其 の 直 接 の 原 因 が あ っ た
)(((
」。 政 治 の 現 実 は か く の 如 き も の で、 田 川 の 期 待 を 常 に 裏 切 る が、 そ れ で も「立憲済美の域に漕ぎ着き得るか」という実践にあくまでもこだわり、わずかなりとも「立憲的国民を作るの 策 如 何 と い へ ば、 多 少 は 考 へ ね ば な ら ず
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」、 そ の た め の 方 法 を 模 索 し 続 け た。 た と え そ れ が「 殆 ん ど こ の 有 名 無 実 の 現 状 に 墮 し て 居 る
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」 時 局 を 充 分 に 認 識 し な が ら、 「 僕 は 我 国 民 の 立 憲 的 資 格 を 思 ふ 者 で あ る。 而 し て た だ た だ前途の太だ遼遠なることを思ふ者であ る
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」ことからいえば、現状に絶望してもおかしくない。しかし、彼は議 会 改 造、 政 治 刷 新、 立 憲 振 興 と い っ た ス ロ ー ガ ン を 降 ろ す こ と な く、 「 立 憲 政 治 本 来 の 要 求、 約 束 で あ り、 議 会 当然の職分である」こうした問題をとり上げ、議論を先導した。立憲君主制下、つまり帝国憲法下における議会 主義と君主制の関係を制度的な特質から問題点としてとりあげ、どのような態度と見解を持っただろうか。まず 田 川 に よ れ ば、 「 内 閣 の 更 迭、 首 相 の 選 任 と い ふ こ と は、 陛 下 の 心 を 用 ゐ 給 ふ 最 大 の 国 務 で あ る。 中 央 議 会 は、 陛 下 に 対 し 奉 り、 此 の 重 責 を 分 担 し 得 る 至 高 の 諮 問 府 で あ る
)(((
」。 田 川 が 君 主 制 を あ く ま で も 認 め、 天 皇 の 国 事 行 為 に 行 政 府 は 責 任 を 負 う べ き で あ る と 捉 え た 点 は、 デ モ ク ラ シ ー の 原 理 か ら い っ て 問 題 と な る 箇 所 で、 「 立 憲 君 主政の政治理論や国法学説によって好まれた政党に対する不信用が、デモクラシーの実現に対して観念論的に仮 装した攻撃であっ た
)(((
」ことを、どこまで認識し得たかという問いに対する応答は、残念ながらそれを窺うことが できない。従って君主制を民主制に移行させる論理をどこまで持ったのか、というデモクラシーの基本原理に触 れ る 問 い も 提 出 さ れ な い。 こ う し た 曖 昧 さ を 抱 き な が ら も、 田 川 の そ れ は ハ ン ス・ ケ ル ゼ ン の い う、 「 議 会 主 義
田川大吉郎の政治思想 とは、国民によって、普通平等選挙権の基礎の上に、従って民主主義的に選挙せられた合議機関によって、多数 決原理に従い、規範的国家意思を形成するこ と
)(((
」が必要であるという原則を認め、どこまでもここにこだわりつ づけた。 同じ君主制でもイギリスとドイツでは大きく異ること、 とりわけ君主の政治権限と議会のそれを比較し、 妥当な境界設定をどこに定めることができるか、という視点から考察を続けた。田川によると、君主は国家意思 の形成に関わることなく、国政は普通選挙にもとづく国民の意思表明にもとづくべきである。君主はあくまでも 象 徴 的 存 在 で あ り、 「 君 臨 す れ ど も 統 治 せ ず 」 と い う イ ギ リ ス 型 立 憲 君 主 制 を 承 認 し た。 帝 国 憲 法 が ド イ ツ・ プ ロイセン流の「君臨し、かつ統治する」思想の上に成り立っていることからみれば、必然的に理念と実践の間で 矛盾を抱え込まざるを得ない。 それは現実政治を批判する場合、 しばしば隘路にのめり込んでいくことを意味し、 例 え ば 元 老 政 治 批 判 が そ う し た 特 徴 を 内 在 化 さ せ、 次 の 様 に 言 う。 「 大 臣 の 責 任 不 明 に し て 立 憲 政 治 の 最 善 の 光 輝を発揮し得んことは、木に拠って魚を求むるよりも尚ほ不可能事也。元老政治と立憲政治とは両立し得ざる矛 盾 也
)(((
」。あるいは君主制を前提とする立場から次の様に言う。 「内閣の為す所に対しては、議会に於て若し異存が あれば異存を唱へても宜しい筈だと思ひます。それに異存を唱へることが直ちに天子様の御旨に異存を唱へまつ る 虞 れ が あ る も の だ と 言 ふ 風 に は 私 は 思 ひ ま せ ぬ
)(((
」。 わ が 国 の 帝 国 憲 法 を 一 瞥 す る と、 ド イ ツ・ プ ロ イ セ ン 型 の 立憲君主制と見る者が大半であるが、ではここにイギリス型のそれがどう関わっているかといえば、応えは多様 で、田川の場合はそのなかでも最も急進的な解釈を行なった例である。例えば大正デモクラシーが華やかに喧伝 された頃、皇室が政治にどの様な関わり方をしているか、あるいはすべきかということについて、明確に天皇は 立憲議会主義の外に置かれるべきだという。
田川大吉郎の政治思想 皇 室 は 政 争 の 外、 政 争 の 上 に 超 然 と し て 立 ち 給 ふ。 皇 室 は 決 し て 我 が 政 争 の 責 任 を 負 ひ 給 は ぬ 筈 で あ る。 憲法はその目的で作られて、其精神に漲って居る。然も以上の近年頻発の傾向は、遂に如何に成り行くであ らう。談、皇室、若くは皇室関係の事に及べば、即ち黙するのはそれで宜しいが、然も事ごとに皇室の近く まで、皇室の関係の辺にまで持って往かなければ論議の治まらない、終りを告げない、その傾向、その事実 はこれを何と視るべきであらう。小生はここに日本議会政治の危機が伏在して居るやうに、怖れ、おののく 者であ る
)(((
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昭和期になって国家主義的風潮が政治の世界を席捲すると、 「君主」のため、 「天皇制」のためであるとしたう え で、 「 国 家 と か、 国 体 と か、 皇 室 と か い ふ や う な 言 葉 で 他 を 圧 せ ん と す る 傾 き が あ る。 こ れ は 議 会 政 治 に は 禁 物だといふやうに思ひま す
)(((
」と牽制することを忘れなかった。議会政治が順調に機能することによって、立憲君 主制も存在し得るのであり、その逆であってはならない。だから「近来になりますと、国体とか何とか言ふやう なこと」が強調されると、それだけで「終始自由の議論が行はれません、困るです な
)(((
」と苦渋の言葉を残す。つ まり、理念型としての立憲君主制を追い求めた議会主義者であるから、この理念が崩壊すると「君主制の原理で ある名誉に対する感覚が失はれて行き、市民的君主が現はれて自己の神聖性と名誉の代りに、その有用性と実利 性 と を 証 明 し よ う と す る 場 合 に は、 君 主 制 の 時 代 は 終 り を 告 げ
)(((
」 る わ け で あ る。 従 っ て、 そ の「 議 会 中 心 論 は、 何も皇室中心論と相対するものではありません。皇室中心論は議会中心論と別個に、尚その上に立つもので、私 の議会中心論は責任を負ひ、責任を負はさるる、その範囲内に限っての内閣組織論、その運用論でありま す
)(((
」と
田川大吉郎の政治思想 いう具合に、両者の権限をめぐる綱引きは状況の変化とともに攻守ところを変えることになった。しかし、あえ て 原 則 論 を こ こ か ら 引 き 出 そ う と す る な ら、 「 憲 法 の あ る 所 の 国 家 で、 天 皇 は 必 ら ず 憲 法 に 依 っ て、 統 治 の 大 権 を行ひ給 ふ
)(((
」存在とみなければならない。その意味では、あくまでも「天皇の権力は制限的のもの」であり、そ の 制 限 は 議 会 政 治 に よ っ て 決 め ら れ な け れ ば な ら な い。 天 皇 の 政 治 責 任 も 議 会 の 責 任 と 連 動 す る こ と が 望 ま し い。この点で田川はイギリスとドイツの帝国主義から大いに学ぶところがあったといわなければならず、結論と して次の様なまとめに落ち着く。
私は、西洋に行はるる憲政思想の根源をたずねて、皇室の立場に関し、大略二つの概念を与へられてゐま す。 一、 天 子 は 悪 を 為 し 給 は な い と い ふ 思 想、 こ れ 其 の 一。 二、 天 子 は 責 任 を 負 う 輔 弼 の 内 閣 員 を 有 さ れ、 政治上、一切の責任を負ひ給はないといふ思想、これ其の二。私はこの思想が諒解せられ、体認せられた結 果、欧州に於ける帝王の位地は、極めて安固に、尊栄を加へられた、これが立憲政治の特有の長所であ る
)(((
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3 憲政擁護運動の展開
元 老 を 中 心 と す る 藩 閥 専 政 を 打 破 し、 政 党 内 閣 制 を 基 本 と す る 立 憲 政 治 を 確 立 し よ う と す る 政 治 運 動 と し て、 最も大規模であったのが憲政擁護(護憲)運動である。これには大正初年に展開された第一次護憲運動と、大正 末年に展開された第二次護憲運動の二つがあり、両者はそれぞれ運動を起す理由も、また目的も同一であったわ
田川大吉郎の政治思想 けではない。まず第一次護憲運動の場合、日露戦後、陸軍はロシア、海軍はアメリカを仮想敵国として軍備の拡 張に乗り出した。戦後の反動恐慌のあおりを受けて財政難が続くなか、第二次桂内閣、そして第二次西園寺内閣 は軍拡を抑制しようと努め、ために大正元年一二月、上原勇作陸相は辞表を提出、西園寺内閣は総辞職に追い込 まれた。その後、元老を中心に起した大正政変に対し、 「藩閥打破、憲政擁護」を掲げて大衆運動が盛り上がり、 犬 養 毅、 尾 崎 行 雄 等 が そ の 先 頭 に 立 っ た。 田 川 も 表 立 っ て 熱 弁 を 振 う こ と は な か っ た も の の、 「 私 は 出 来 る だ け 憲 法 を 遵 守 し て、 議 院 法、 衆 議 院 規 則、 さ う い ふ 法 律 規 則 に 適 っ た 行 動 を し た い と 思 ふ て 参 り ま し た
)(((
」 と い う。 だ が、 こ の 時 運 動 の な か で 党 派 的 利 害 が 横 行 す る 有 様 に 失 望 し、 「 党 派 の 方 々 の 考 へ ら れ る 指 導 原 理 と い ふ も の は、 概 し て 終 始 私 の 意 見 と は 合 は な か っ た 」 と い う。 横 山 雄 偉 の 見 た と こ ろ で は、 「 僕 等 は、 憲 政 擁 護 会 以 外 に 純粋な青年団体を拵らへるの必要があると言ふので、月の一三日、憲政作振会なるものを組織した。発起者の多 数が田川氏の門下生であったことも不思議であっ た
)(((
」というように、周囲の動きを含め、田川の立場にははっき りとしない一面があった。西園寺から桂に内閣首班が変わる頃、政党人としては組織にしばられ、思うような行 動が出来なかったということだろうか。
当時の田川氏の政治的立場は、色々の風評を惹起し易いものであった。氏は国民党の創立者の一人で、而 か も 此 の 党 を 捨 て た 人 で あ る。 政 友 会 に は、 議 院 に 入 っ た 初 め か ら、 同 情 の 眼 を 向 け な か っ た。 常 に 公 然、 其の党弊を指摘し た
)(((
。
田川大吉郎の政治思想 少数政党、会派を組織し、あるいはそこを離脱、政治的見解が異なれば、身の処し方に妥協や迷いの跡は見せ なかった。とりわけ政権政党に対しては終始批判的であり、その徹底振りは尾崎に似たが、時として尾崎以上に 反 権 力 志 向 を む き 出 し に し た。 田 川 は 尾 崎 と 行 動 を 共 に す る こ と が 多 か っ た 当 時、 「 尾 崎 さ ん は 東 京 市 長 を 辞 め られる時には多分政友会に復帰して居られたでせう。其の政友会に復帰せられる時分に、私にも政友会へ入れと 御 奨 め 下 さ っ た。 併 し 私 は そ れ だ け は 御 免 だ と、 御 供 し な か っ た
)(((
」。 主 義、 主 張 か ら 政 友 会 が 嫌 い だ と い う ば か りでなく、 むしろ田川の反権力志向が尾崎以上に強かったため、 政権に近づくことを潔しとしなかったのである。
憲 政 擁 護 運 動 を 一 緒 に や ら な い か、 政 治 上 の 趨 勢 を 一 変 す る こ と が 出 来 る と 思 う が ど う だ、 一 緒 に 来 て やったら宜しからうと、私が孤立になったものですから、御奨め下さった。併し私は「先生方は折角盛んに おやりになったら宜しいでせう。私は別に考へる所がありますから遠慮致します。此の場合、やはり控へて 孤立して居ります」と言って行かなかっ た
)(((
。
ここには年来の自説である憲政擁護に取り組むこと以上に、政党政治の原則に倣うことを優先させた田川の姿 勢が示され、かつそこにコミットした行動の軌跡がみられ る
)(((
。「孤立」することもあえて辞さない、 「私は 時勢の
、、、動 き
、、を 見 る べ く 依 然 と し て 其 の 外 に
、、、、立 っ て い た 」 ( 傍 点、 引 用 者 ) こ と が、 政 治 家 と し て ス タ ン ス を 維 持 す る 所 以 であっ た
)(((
。次に、第二次護憲運動と田川の関係に触れてみたい。第一次のそれが大正デモクラシーの幕開けを告 げる大衆運動だとすれば、こちらは社会、経済情勢の捉え方という別の問題が介入する。政友会の原敬内閣が最
田川大吉郎の政治思想 初の政党内閣を組織し、資本主義の飛躍的な発展にともない、労資間の対立は益ます激しさを加えるようになっ た頃。そのなかから労働者、市民を中心に普通選挙制度の実現を目指す動きが活発となる。頃日、原敬暗殺事件 が起り、高橋是清、加藤友三郎が次つぎと組閣、体制改革を試みたが、実効を挙げるまでには至らず、むしろ藩 閥内閣、超然内閣の出現を許した。そこで、第二次運動を起こすべく、人びとの不満が拡がっていく。
再度の憲政擁護運動を試みた。初めのは大正元年の末より同二年の三月に至る、桂侯の第三次の内閣の時 であって、二度目のは大正一三年の一月より同六月に至る。淸浦子の内閣の時であった。これは、議会の運 動といふよりは寧ろ、政党の運動といふべく、主として官僚内閣、中間性内閣に対する政党内閣の戦ひ、そ の権威の確立のための戦ひであっ た
)(((
。
ここで「中間性内閣」というのは淸浦超然内閣のことであるが、これを打倒することは政党政治の確立にとっ て是非とも必要なこと。そこで政友会、 憲政会、 革新倶楽部は一体となって護憲運動を展開した。その結果、 「我 が内閣の面目は相当改められ た
)(((
」ことが田川によって確認される。と同時に、こういう批判も加えている。すな わ ち「 或 る 程 度 ま で、 そ の 目 的 を 達 し た け れ ど、 中 道 に し て 外 れ て、 徒 労 に 終 っ た と 見 る べ き で あ る ま い か
)(((
」。 田 川 の 批 判 に 相 当 す る 歴 史 的 事 実 に つ い て は、 大 正 二 年 二 月、 「 中 央 公 論 」 に 載 せ た 論 文「 憲 政 擁 護、 藩 閥 打 破 の 運 動 と 政 界 の 変 動 」 に、 そ の 経 緯 を 窺 う こ と が で き る。 「 僕 一 人 は、 時 折 い ふ 如 く、 今 日 の 政 党 若 く ば 政 治 に 何等の望む所が無い。今日の政治は、僕の好ましからぬと思ふ方向に動いて居るのであるが、 去
(ママ)り とて、之を今
田川大吉郎の政治思想 日に救ふ所以の力量は僕には無 い
)(((
」という自己省察を行い、政治の現状に測り難い疑義と失望を抱いた。政治家 田川が、思想家田川の相貌を示すようになったのは、ちょうどこの頃から後のこと。政党政治の理念像を掲げて 実践活動に関わり続けた田川にとって、政党政治の帰趨を「僕は終に黙して已むべし」と言わしめたのである。
時に客観的、時に悲観的、時に退嬰的となる。いわく、自分は今日の政党や政治に望む所はない。うまく 行けば結構で、自分も善後の計に腐心する。いわく、桂侯が若手を基礎として政党を組織し、弊害ある諸閥 を打破すれば、存外な名誉を博するであらう。いわく、根本的な人民の自由、合議政ないし主義による政党 の対抗など、 当分実現されない。それは癪であるが、 どうにもならぬ。自分は目下の政争には全然没交渉で、 アッサリ眺めるだけである、 と
)(((
。
大正二年の心情吐露から見えてくるものは、そのまま第二次護憲運動に対する対応となり、政党政治の現状に 絶望感を深く抱いた。その悲観的心情を一気に変え、昂揚感ともとれる新たな気概を植えつけたのが普通選挙運 動 の 高 ま り で あ る。 い う な れ ば、 「 こ の 時 期 に お い て 普 選 運 動 が 新 し い 段 階 に 入 っ た と い う こ と は、 具 体 的 に い え ば『 普 選 』 が『 憲 政 擁 護 』 の 積 極 的 内 容 と し て 立 ち あ ら わ れ た と い う こ と で あ り
)(((
」、 対 藩 閥 政 治 の 運 動 も 新 た な段階へと一歩踏み出したことを意味する。当然、田川の反応も変化する。
国民をして議会政治相当の分を盡させ、議会をして議会相当の権威を発揮させ、日本をして立憲政治の有
田川大吉郎の政治思想 名有実の国たらしめる。今日の政府、議会、政党、国民は、各々その至当の職分を怠って、若しくはその権 威を紊って、立憲政治の名を辱むること甚しいものがある。これを匤救しなければならな い
)(((
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再び「帝権をその有るべき位地に興復すること」 、「元老の跋扈、権臣の横暴、宮中府中の混乱」を糾すことに 健 筆 を 振 っ て 闘 い を い ど む。 そ れ こ そ、 「 政 党 の 側 か ら す れ ば 政 治 的 ス ロ ー ガ ン を 上 か ら 与 え、 そ れ に よ っ て 下 からのエネルギーを吸収するという従来のやり方に変化を強いられたこ と
)(((
」を意味し、第二次護憲運動が盛り上 りを見せると、全国一五新聞社の代表は、いつまでも普選を実行しようとしない政府に反対の意見広告を掲載し た。 時 を 同 じ く 革 新 倶 楽 部、 憲 政 会 も 反 対 表 明 を 行 っ た。 そ の 上 政 友 会 を 含 む 政 党 院 外 団 も 歩 調 を 同 じ く し た。 その後、普選論の扱いをめぐって政友会が分裂すると、護憲三派は政党内閣の確立を申し合わせ、超然内閣打倒 を最大のスローガンに掲げた。大正一三(一九二四)年六月の総選挙は遂に護憲三派内閣を実現した。田川の周 辺では憲政の常道確立の呼び声が高まり、 倒閣のスローガンとなったものの、 ではその「憲政の常道」とは何か、 正 確 に と ら え、 納 得 す る 者 は 意 外 と 少 な い。 そ こ で 人 び と の 理 解 を 促 す た め、 「 曽 て グ ラ ッ ド ス ト ン が 内 閣 を 退 くに当ってソールスベリーを推薦したるが如く、順序より言ふも大隈伯退隠の際は与党の首領加藤男に政権を譲 るべきである、是れが立憲政治の常道であ る
)(((
」ことを説き、併せて「私は斯かる見地よりして国民総て治者たる の能力ありとし、普通選挙を主張する」 。そこで、 「英国の成例、必ずしもお手本といふではないが、理ここに在 り、日本の行き方も亦之に由るべきであら う
)(((
」ことを勧める。
田川大吉郎の政治思想 所謂憲政常道論とは何かといへば、原内閣が陣を退くからには、其の正面の反対者たる加藤子を後の内閣 組織者に推薦して去ること、これが憲政の常道である。先進立憲国の模範は常に此の如く為って居ると謂ふ のであ る
)(((
。
同 じ 趣 旨 の 指 摘 は カ ー ル・ シ ュ ミ ッ ト が 次 の 様 に 述 べ、 議 会 主 義 の 原 理 と し た。 す な わ ち、 「 議 会 主 義 が 政 治 的指導者の最良の選択を保証するものであると信ずる者は、今日、概してこうした確信をもはや理念的な信念と して持っているのではなく、イギリスのモデルに従って構成され、大陸において試験されるべき、実用的=技術 的な仮定として持っているのであり、したがってそれは、もしそれが事実に合わないことが分かれば、当然直ち に 棄 て ら れ る べ き も の な の で あ る
)(((
」。 そ れ は 源 平 時 代 の よ う な「 封 建 政 治 と 全 然 目 的 を 異 に す る
)(((
」 も の で な け れ ば な ら な い。 つ ま り、 「 反 対 党 の 勝 っ た 場 合 に、 反 対 党 の 首 領 が 天 子 に 召 さ れ、 新 内 閣 を 組 織 す る に 至 る こ と は 当然であ る
)(((
」ことを認識することが大切で、再三このことを主張した。しかし、現実政治はこうした議会主義を 確 立、 踏 襲 す る 方 向 に 進 ま な か っ た。 特 に 昭 和 期 に 入 っ て、 そ れ が 無 視 さ れ、 「 要 す る に、 我 が 憲 政 は 半 煮 へ で あ る
)(((
」と失望を語り、将来に対し「ますます不安の眉をひそめて居る」自らを語る。昭和六(一九三一)年一二 月、若槻内閣に代って犬養政友会内閣が成立した前後の政治情勢にこのような感慨を抱いた。それは美濃部達吉 のような立憲主義者が、従来の自説を改変せざるを得ない時勢において も
)(((
、田川はひとり、従来の主張を曲げる ことを背じなかった。
田川大吉郎の政治思想 二 時代と体制に抵抗し続けて
1対立する思想としての専制政治
芳 賀 榮 造『 明 治 大 正 筆 禍 史 』 ( 大 正 一 三 年 一 一 月 刊 ) を 開 く と、 片 隅 に「 田 川 事 件 」 と 題 す る 裁 判 記 事 が 紹 介 さ れている。その一節に、次の様な解説がはさまっている。
大隈内閣当時の司法参政官、憲政会の所属代議士田川大吉郎は「大隈内閣瓦解当時の政変に際して、元老 の採った態度は甚だしく非立憲である」と、大胆率直に非難攻撃した論文を雑誌文明評論、立憲青年及第三 帝国に掲載した。これが筆禍の因をなして、雑誌関係者とともに起訴され、公開禁止の公判は東京地方裁判 所に於て数回に亘って開かれ、大正六年三月一九日、左の判決を宣告され た
)(((
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禁 固 五 カ 月、 罰 金 一 〇 〇 円 と な り、 こ の 種 の 裁 判 で は 重 い も の と な っ た。 芳 賀 に よ れ ば「 田 川 の 筆 禍 事 件 は、 当 時 世 人 を 驚 か せ た こ と は ひ と と お り で は な か っ た
)(((
」 と あ り、 大 正 デ モ ク ラ シ ー の 風 潮 に 水 を 浴 び せ た も の で あった。石橋湛山も、大正三年五月以来開いてきた自由思想講演会に出入りしていた田川が有罪判決を受けたこ とにショックを受けた。大正五年一〇月一五日の講演会では「特権政府乎、議院政府乎」と題し、一場の演説を 行 い、 鋭 い 政 権 政 党 批 判 を 行 っ た が、 こ の 事 件 を 知 る や「 自 由 思 想 講 演 も や め た
)(((
」。 ち ょ う ど そ の 頃、 吉 野 作 造 は「 中 央 公 論 」 に「 憲 政 の 本 義 を 説 い て、 其 の 有 終 の 美 を 済 す の 途 を 論 ず 」 ( 大 正 五 年 一 月 ) を 発 表、 大 正 デ モ ク
田川大吉郎の政治思想 ラットを自認した。吉野はこの事件のあと、友人小山東助の義兄、田川が被った身近な筆禍であったことに、ま た身近なデモクラットに向けられた国家権力の横暴に対し、以後一定の抑制的立憲論を余儀なくされた。このこ とは、後に自身が告白してい る
)(((
。事件の背景に触れるなら、大正五年一〇月、大隈内閣は総辞職にあたって、後 継首班として加藤高明を推薦した。それに対して山縣有朋は元老会議を動かし、寺内正毅を後継に推薦した。天 皇 は 山 縣 の 意 見 を 容 れ、 寺 内 に 組 閣 を 下 命、 こ の 時 の 態 度 を 指 し、 「 元 老 に よ る 政 権 私 儀 」 に あ た る と 非 難 し た のである。こうした批判は当時、ジャーナリズムのほぼ一致した動きと機を合わせており、世論の趨勢は元老批 判に向かった。なかでも田川のそれが雑誌三誌に見解を次々と発表、内容も激しいものであったため、ことさら 山 縣 を は じ め 当 局 の 忌 憚 に 触 れ る も の と な っ た。 で は、 そ の 激 し い 元 老 批 判 と は ど の よ う な 内 容 を 持 つ も の で あったか。
寺内伯は十月四日に大命を拝した。然も十月四日以前から、寺内伯の大命を拝する噂は普ねく天下に伝へ られて居た。それは所謂元老の徒が、之を伝へたので有った。元老の徒は夙に寺内伯を推薦することに内議 一決して居たから、苟も其の推薦するところは必ず陛下の採納し玉ふべきを予断し、言ひ換へれば元老の協 定 即 ち、 陛 下 の 裁 定 な り と 予 断 し、 其 の 間 に 何 等 の 差 別 も、 余 裕 も、 会 釈 も、 斟 酌 も 残 さ な か っ た 所 か ら、 彼等は断然として此く揚言し、天下をして此く思はしめたのであった。即ち、寺内内閣の成立は陛下の組織 を命じ玉ふたといふよりも、寧ろ元老の組織を命じた所のものなりと天下は認めて居る。此くして皇室の尊 を信頼せしめんとするは難い。実際、先般の事あって以来、我が皇室の神聖は残念ながら多く傷つけられて
田川大吉郎の政治思想 居 る
)(((
。
「元老の徒」を名指して非難、攻撃したことは明らかに山縣に対する個人攻撃であり、寺内に対しても、 「軍人 は ど こ 迄 も 軍 人 た る べ く、 政 治 上 の 事 は 政 治 上 の 専 門 家 に 委 ぬ る が 宜 し い
)(((
」 と 牽 制、 「 こ の 度 の 政 変 は、 人 道 上 の問題としては、陛下の神聖を冒瀆し奉った、元老不臣の行為が一番重 い
)(((
」とその罪をあげつらった。立憲議会 主義を無視して君主の大権を私儀したというわけである。大分後のことになるが、昭和一二年二月に再度、この 問 題 に 言 及 し て い る。 す な わ ち、 「 山 縣 公 は 内 閣 組 織 の 大 命 が い よ い よ 寺 内 伯 に 下 っ た 後 に 於 て も、 自 ら 慎 制 せ ず、それは自分の推薦した結果であると揚言したのであった。私はこれを非としたのである。支那の哲人は教へ た。いい思ひ付、いい謀があった場合には入ってその君にお告げ申し上げ、外に出ては、これ我が君の思召であ る と 申 し て 奨 順 す る の が 忠 誠 な る 臣 下 の 務 め で あ る
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」。 君 主 制 の も と に お け る 臣 下 と し て、 当 然 と る べ き 態 度 に 悖 る と い う。 “ 不 忠 の 臣 ” と 名 指 し さ れ た 山 縣 が 怒 っ た の も、 こ れ は こ れ で 理 解 で き る が、 こ こ ま で 権 力 者 に く いさがろうとする田川の意欲は、立憲主義者のなかでも、余程徹底したものである。編集責任を問われた柏井園 は 東 京 神 学 社 教 頭 の 職 を 辞 し、 田 川 は 妻 が 宿 痾 の 結 核 の た め、 生 命 が 危 い な か で の 下 獄 で あ る。 そ れ で「 四 月 一六日、彼が入獄の日には富士見町教会で、彼のため悲痛な祈祷会が催され た
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」。なお、瑣事に属することだが、 松 尾 尊 兊 は『 大 正 デ モ ク ラ シ ー』 で こ の 事 件 を と り 上 げ た 際、 「 天 皇 は 元 老 の い い な り だ と、 元 老 の 政 権 私 儀 を 批判し た
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